静岡県駿東郡清水町徳倉1921番の1の本城山《ホンジョウザン》山頂にある本城山公園は、戦国時代初めに狩野川《カノガワ》と柿田川《カキタガワ》とが合流する独立丘陵上に相模の北條氏綱が築いた[a]諸説あり。とされる駿河戸倉城跡にあたり、昭和58(1983)年に町民の憩いの場として開園した。この駿河国と伊豆国の国境に築かれていた戸倉城は、その境を決める狩野川が氾濫して流路が変わるたびに駿河国に属したり、伊豆国に属すといった珍しい事情を持つ[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるものの、このような事情を持つ城のため本稿のタイトルには「駿河」を冠すが、文中では「戸倉城」と綴ることにする。。永禄11(1568)年に甲斐の武田信玄が甲相駿三国同盟[c]善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。を反故にして、三河の徳川家康と共に駿河国今川領へ侵攻すると、北條氏康は相駿同盟を尊重して信玄に対抗したが、ここ戸倉城も両者の戦いの舞台となったと云う。また、家康に攻めたてられた今川氏真が一時身を寄せた城が戸倉城だったとも。天正9(1581)年に城代の笠原政晴《カサハラ・マサハル》が寝返って一度は武田の手に落ちるが、甲斐武田家が滅亡したあとは小田原北條氏が奪還した。
今となっては四年前は、平成29(2017)年の雨水《ウスイ》の候にあって春一番が吹き、やっと暖かさが伺えるようになったとある週末、一層の暖かさを求めて静岡県三島市周辺にあった城跡を攻めてきた。午前中はJR東海道本線・三島駅からバスで20分[d]駅南口のバス・ロータリーから東海バスのサントムーン経由柿田川湧水公園前行で、「下徳倉」停留所で下車。料金は大人310円(当時)。、さらに徒歩で10分ほどの戸倉城跡(本城山公園)へ。
こちらは公園に立っていた説明板の「駿河戸倉城復原図」(左斜め上が北方向)[e]園内のある案内図はその北方向がすべて違っていてホント分かりづらかった 😐 。 :
この図から、静岡県伊豆の国市の天城山《アマギサン》系を源流とし田方《タガタ》平野を縦断して駿河湾に注ぐ狩野川が天然の外堀を成すように、戸倉城が築かれた本城山を巡っているのが分かる。さらに、この川は水運として活用されていた可能性もあるとのことで、この日の午後に攻めた泉頭城《イズミガシラ・ジョウ》とは柿田川を経由した連絡が可能となっていたと云う。
さらに「霊峰富士と箱根連山を望む自然公園」が謳い文句らしい本城山公園の案内板に描かれていた本城山の全体図(下が北方向)はこちら:
この図にもある本城山南側麓の金通山・龍泉寺は臨済宗妙心寺の寺院で、往時は城主の居館があったとされる場所:
龍泉寺境内の脇にある側道から、狩野川沿いに歩いて本城山東側にある公園入口へ向かう。狩野川はまさに天然の外堀である:
こちらが公園東側の入口[f]コチラ側の駐車場は4台くらいしか停めることができないのに対して、北側の駐車場は20台くらい停めれるらしい。:
ここから整備された遊歩道を登って本城山の山頂へ向かった。こちら側の遊歩道は山頂まで少し遠いが緩やかな坂だった。反対に北側入口からの遊歩道は急坂(模擬階段)が多いらしい。途中には巨石が横たわていたりして山城的な雰囲気はあった。所要時間としては10分くらい。
戸倉城の主曲輪跡は、まさに目指している本城山の頂上にあり、東西40m・南北30mのほぼ方形の平場。山頂にある公園と云うこともあって展望台が建っていた:
往時は、曲輪の周囲には土塁が巡らされていたと云うが、城攻め当時は全く確認できなかった。それもそのはず、先の大戦中には高射砲が置かれるなどしてかなり改変されているらしい。
全体的にみて戸倉城跡の遺構はほぼ確認できなかったのだが、もしかしたら主曲輪跡に建っていた、この奇妙な形[g]木の幹を模している?をした展望台からの眺望が唯一の見どころなのかもしれない 。
あるいは意外と立派だった「戸倉城址」の説明板は、ここが単なる公園ではないことを物語っていた:
主曲輪跡の東側の一段下がったところが袖曲輪跡。階段状のところが空堀だったようだ:
また、こちらも改変されているようだが袖曲輪の下には東曲輪があったらしい。現在は巨石を囲むような遊歩道になっていた:
主曲輪から西側にある西曲輪方面へ降る遊歩道。この下に堀切跡と思わるところがあったが、西曲輪跡は藪化が激しくて立ち入りできなかった:
こちらが西曲輪と主曲輪とを区分する空堀跡:
この先には金毘羅神社があり、社の裏には矢穴《ヤアナ》の着いた石垣石があった:
金毘羅神社脇の遊歩道を下りて鳥居を過ぎた先が公園西側の入口で、戸倉城の搦手口にあたる。そしてその先は住宅街であるが、これが戸倉城の搦手道にあたる:
天正8(1580)年には甲斐の武田勝頼が三枚橋城を築き戸倉城と対峙した。翌9(1581)年には戸倉城の城代・笠原新六郎政晴が武田方に寝返って戸倉城は武田のものになったが、翌10(1582)年に武田家が滅亡すると戸倉城には再び小田原北條氏が入城した。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、秀吉らの軍勢が三枚橋城に集結すると小田原北條勢は戸倉城を捨てて韮山城へ退いた。そして小田原城北條氏が滅亡したあとに戸倉城が廃城となったと考えられる。
最後は主曲輪跡に建っていた展望台からの眺めをいくつか。
まずは戸倉城から北東方向にある山中城跡の眺め:
次は戸倉城から韮山城跡の眺め:
直線距離としては 4㎞もない、これら二つの城跡よりも近い三枚橋城(沼津城)跡は残念ながら香貫山《カヌキヤマ》が立ちはだかって確認できずで、推定位置だけ:
最後は、もしかしたら展望台から一番の見どころかもしれない霊峰・富士の眺め。と云ったが、当時は雲に隠れて姿をみせることはなかったけど :
このあとは下徳倉のバス停から三島駅行きに乗って泉頭城跡がある柿田川公園へ向かった。
駿河戸倉城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 戸倉城址に建っていた説明板(清水町役場)
- 日本の城探訪(戸倉城)
- Wikipedia(戸倉城(伊豆国))
- 余湖図コレクション(静岡県清水町/戸倉城)
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