城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

小田原城 − Odawara Castle (TAKE 3)

早川口遺構は小田原城惣構の南西隅にあった二重外張の虎口跡

明応4(1495)年頃に初代・伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》が相模国小田原の八幡山丘陵に築かれた山城を計略で手に入れて以来、二代当主の氏綱から五代当主の氏直までのおよそ百年の間、小田原北條氏の居城として幾度と無く整備拡張が続けられ、天正18(1590)年には西国を手に入れた関白秀吉の来襲に備えて総延長9㎞に及ぶ惣構《ソウガマエ》で城の主要な郭と城下町を包み込むように巨大化したものが中世城郭の小田原城である。この城の中核となる郭は二の丸惣堀と三の丸惣堀、そして惣構堀によって三重に囲まれ、日の本の中世城郭の中でも屈指の規模を誇っていた。小田原北條氏が滅亡した後、新たに城主になった大久保氏によって惣構の規模が縮小され本丸が平地へ移された。その後は、稲葉氏の時代に石垣を用いた近世城郭として再び改修された上に惣構の大部分が消滅した。現在見ることができる惣構の遺構[a]復元は除く。は、往時の荻窪口[b]現在の小田原市城山附近。稲荷森とも。や久野口[c]現在の小田原市荻窪あたり。城下張出とも。、水之尾口[d]現在の小田原市板橋あたり。香林寺山西とも。、早川口、そして山王口附近に残る土塁ぐらいとなっている。

昨年は令和3(2021)年の文化の日に小田原城の天守にちょっとした用事があって、実に五年ぶりに小田原城址公園へ行ってきたのだが、ついでに五年前には攻めきれなかった惣構遺構の幾つかを何日かに渡って巡ってきた:

こちらは本丸跡に建つ小田原高等学校前にあった説明板「小田原城総構範囲の遺構図」上に、今回巡ってきた場所にマーク()を付与したもの:

蓮上院土塁と早川口遺構、そして天守閣から眺めた八幡山古郭

「小田原城総構範囲の遺構図」と訪問した場所

なお中世城郭と近世城郭の小田原城では外郭(惣構の有無)が違うため箱根口の場所が異なっている。近世城郭になって旧箱根口は板橋口となり、あらたに箱根口が三の丸虎口として設けられた。

蓮上院土塁

小田原城惣構の東側に設けられた虎口の渋取口と山王口の間あたりに残っている土塁の一部は、その裏にある蓮上院《レンジョウイン》[e]創建は建長6(1254)年で文明年間に木満願寺蓮上院と改めた。北條氏綱が寄進したと云う記録が残る。と云う真言宗の寺院の名をとって蓮上院土塁と呼んでいるらしい。往時は土塁の東側に渋取川を引き込んで水堀としていたと云う。現在は国指定の史跡となっている。

史跡となっている土塁は蓮上院から新玉小学校の敷地をまたぐように残されている:

土塁の奥に見えているのが蓮上院

蓮上院土塁(国指定史跡)

史跡保護の観点から柵が設けられているが、この柵の手前に敷かれた道路が往時の水堀に相当する:

現在残されている土塁はここから100m分ほど

土塁遺構の始まり

史跡保護から柵が設けられ、原則的に外から入れない

土塁遺構

往時の堀は近くの渋取川を引き込んでいたが、現在の渋取川はこの道路の下にある暗渠の中を流れている:

現在も道路が堀であった面影が残る

水堀跡

昭和20(1945)年の小田原空襲で投下された米軍の爆弾の一つが土塁に着弾して損壊した跡も残っている[f]戦争集結直前の空襲であり、近くの新玉小学校(国民学校)も被害を受け犠牲者が出たと云う。

先の大戦の小田原空襲で被害を受けた

空襲で損壊した土塁

戦国時代の史跡に昭和時代の戦争の傷跡が残る貴重な史跡

大きく損壊した土塁

奇しくも、戦国時代の史跡に昭和時代の傷痕が残る貴重な史跡となってしまった。

See Also蓮上院土塁 (フォト集)

【参考情報】

早川口遺構

小田原城惣構の南側にあり、早川に面した早川口は土塁と堀を二重にした二重戸張《フタエトバリ》で防御を固めていたと云う。近世城郭化して惣構が消滅していた江戸時代初めには、東海道に沿った板橋口(旧箱根口)に虎口が移ったため、早川口周辺の遺構は良好な状態で残っていたとされる。明治時代には一部の地形が改変されているが、現代では低地部で見ることができる数少ない惣構の一部である。早川口遺構は昭和51(1976)年に国の史跡に追加指定された。

こちらは国道R135の新早川橋から見た早川。西湘バイパスの奥が早川口跡:

神奈川県の小田原市と箱根町を流れる二級河川

早川

R135沿いには遺構入口の標柱が建つ:

東海道本線沿いの国道R135沿いに立っている

「早川口遺構・入口」

周囲は宅地化されている(遺構は、この奥)

総構・早川口遺構(国市指定史跡)

惣構の一部だった早川口の遺構。正面から見ると片側の土塁は宅地化等で大きく改変されている:

両側に土塁、真ん中に空堀があり、長い堀底道が虎口として使われた

早川口遺構(拡大版)

遺構の中は一見、庭園の趣が残っているが、これは明治時代に陸軍元帥・山縣有朋の側近の邸宅があり、実際に遺構を利用した庭園があったらしい。

土塁を二重にしたのは防御が弱かったとも、守り手を多く配置できない理由があったからとも云われているが、現在でもその独特の形状が残っているのが分かる:

本来の姿はとどめていないが、貴重な遺構である

土塁

往時の高さは見られないが良好に残っていた土塁

土塁上

遺構の外側は道路が敷かれているが、そこには川が流れてた跡があった。ここも道路下の暗渠を川が流れているのだろう:

遺構周辺には小さい川が流れている

水堀の名残

現在の道路は水堀跡(暗渠に流れている)

水堀跡

こちらは反対側からみたところ。両側の土塁、中央と左の土塁の外側に水堀があったであろうことが想像できる:

二つの堀と二つの土塁から形成された虎口だった

早川口遺構

堀底から土塁を見上げたところ:

堀底から土塁、そして石垣山城方面を見上げたところ

早川口遺構

そして反対側の土塁上から見た二重戸張の遺構。手前の土塁から堀、土塁、堀の並びになる:

手前の土塁、堀、土塁、その裏の土塁から形成される

二重戸張跡

See Also早川口遺構 (フォト集)

【参考情報】

八幡山古郭東曲輪

五年前の小田原城攻めでは現地を巡ってきたが、こちらは平成の耐震改修工事後に初めて登城した天守閣展望台から眺めたもの:

天守閣展望台からの眺め

八幡山古郭東曲輪(国指定史跡)

ここは初代・伊勢宗瑞が奪取した往時の小田原城の主郭があった場所とされ、小田原北條氏が滅亡する関白秀吉の小田原仕置の頃まで使用されていたと云う。その時は「御本城様」こと北條氏政が籠城していたとされ、まさに惣構の中枢部だった。城攻め当時は、五年前と同じく平成時代の発掘調査を終えて復元された状態。こちらも国の史跡として追加指定されたらしい。

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【参考情報】

参照

参照
a 復元は除く。
b 現在の小田原市城山附近。稲荷森とも。
c 現在の小田原市荻窪あたり。城下張出とも。
d 現在の小田原市板橋あたり。香林寺山西とも。
e 創建は建長6(1254)年で文明年間に木満願寺蓮上院と改めた。北條氏綱が寄進したと云う記録が残る。
f 戦争集結直前の空襲であり、近くの新玉小学校(国民学校)も被害を受け犠牲者が出たと云う。

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    五年ぶりの小田原城攻め。やっと訪問記三部作(早雲寺、惣構攻囲戦、惣構遺構)が完成したので、ここからしばらくは小田原城は「お腹一杯」。

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