秀吉は小田原城惣構を完全包囲し本丸を見通せる石垣山に本陣を置いた

天正17(1589)年10月に小田原北條氏の家臣で沼田城代を務めていた猪俣邦憲《イノマタ・クニノリ》が、利根川対岸にある信濃国小県《チイサガタ》の豪族・眞田昌幸が領する名胡桃城を奪取する変が勃発した[a]奇しくも昌幸は上洛中であり、家臣の鈴木主水重則《スズキ・モンド・シゲノリ》が名胡桃城の城代を務めていたが、偽の書状で城外に出た後に乗っ取られたと云う。。天正壬午の乱後、利根川を挟んでこれらの城がある上野国の沼田一円は越後の上杉景勝に従属していた眞田氏の支配下にあったが、のちに遠江の徳川家康と相模の北條氏直が自分達の都合だけで線引きしたことが国境問題として燻り出したため、往時ここ日の本の半分を支配下に置いて関白[b]「関白太政大臣《カンパク・ダイジョウダイジン》」のことで、天皇を補佐する朝廷の最高位。常設の職掌《ショクショウ》ではない。の座に昇りつめていた豊臣秀吉の裁定を請け、小田原北條氏の最高権力者である北條氏政の上洛を条件に新しい線引きが決められた上に、折しも関東惣無事令[c]秀吉が大名間の私戦を禁じた法令で、小田原北條氏のみならず奥州の伊達氏や蘆名氏、常陸の佐竹氏らに対するものを含めるもの。が出されていた中での事件であった。これを「天皇の裁定」に弓引くものである[d]秀吉は後陽成天皇《ゴヨウゼイ・テンノウ》から「一天下之儀」として裁定を委ねられていたと云う。と激怒した秀吉は小田原北條氏に宣戦布告を発し、翌18(1590)年3月に総勢20万もの大軍[e]兵力や参加した大名・武将には諸説あり。を率いて、関東で難攻不落とされた小田原城惣構に籠城する氏政・氏直父子らを陸と海から包囲した。

昨年は令和3(2021)年の立冬の候に入る前に神奈川県立歴史博物館で開催されていた『開基500年記念 早雲寺−戦国大名北條氏の遺産と系譜−』なる特別展を鑑賞し、そこから「巡礼!戦国北條カード」なるイベントに参加してコレクション・カードを貰いに各所を巡ったのだが、その中の一枚が小田原城址公園の天守閣で配布しているとのことで五年ぶりに訪れてみた。そして無事にカードを入手したあと、二の丸跡で見かけた「小田原城と小田原合戦攻防図」と云う説明板には、関白秀吉が小田原城惣構(総構)を包囲した小田原仕置の布陣(推定)図が描かれていた:

『小田原城攻囲陣立図』(山口隆+田代道彌作成)がベースの推定図

「小田原城と小田原合戦攻防図ー豊臣方の布陣」

この図は、小田原市史に掲載されている『小田原城攻囲陣立図』(山口隆・田代道彌作成)を基にして作図されたらしい。

往時、小田原城とその城下を囲むように巡らされた総延長9kmにも及ぶ大規模な空堀と土塁から成る惣構に籠城した小田原北條勢に対し、石垣山に陣城を築いて本陣を置いた秀吉は、惣構を囲む各方面に諸大名の陣場を配置し、さらに海上封鎖を目的に水軍を小田原沖(現在の相模湾)に展開させたと云う。そして、この攻囲戦中も上野・武蔵・相模・下総といった関東周辺で小田原北條氏の支配下にあった支城がつぎつぎと攻略されていた(石田堤史跡公園に置かれていた説明図より):

緑円内が小田原城

「小田原征伐時の関東」

ただ豊臣勢として参陣した大名や武将、そして布陣地については諸説あるようなので、この推定図どおりであったかは不明であるが、現代の小田原市内の地図を重畳して作図されており、往時の布陣の状況がイメージしやすかったので、これを基にして諸将らの陣場跡を推定しながら巡ってみることにした(もちろん水軍の布陣地は除く:D)。

まずは海上を除く推定場所を五つのエリアに分けて巡ってきた(一部は私有地等で遠望のみ):

  • 徳川勢陣場跡 − 徳川家康、榊原康政、酒井家次、奥平信昌、牧野康成、松平康重、井伊直政、本多忠勝、大久保忠世(、石川康通)らの陣場跡
  • 豊臣勢陣場跡1 − 蒲生氏郷勢、土方雄久、黒田官兵衛勢、羽柴秀勝勢らの陣場跡
  • 豊臣勢陣場跡2 − 池田輝政、堀秀政、長谷川秀一、里見義康、小早川隆景、吉川広家(、細川忠興)らの陣場跡
  • 豊臣勢陣場跡3 − 織田信雄、滝川雄利、天野雄光、沢井雄重らの陣場跡
  • 豊臣勢陣場跡4 − 宇喜多秀家、羽柴秀次、一柳直盛、山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏、織田信包、細川忠興らの陣場跡

また小田原北條氏が築いた惣構の遺構として新たに巡ってきた所が:

さらに小田原仕置中に陣没した堀久太郎秀政の供養塔がある海蔵寺も参詣してきた[f]八年前に石垣山城跡を攻めた際に参詣していたが、墓所が間違っていた 😥 ので改めてと云うことで。

五つのエリアを何日かに分けて(都合により一部は別の日に)

豊臣方の陣場跡巡り

秀吉が本陣とした石垣山城跡や氏政・氏直父子らが籠もった惣構跡は八年前に既に攻めているので今回は除外した。実際これら五つのエリアを巡ってきたが、正直なところ遺構といったものを確認できたのは家康の本陣が置かれた今井陣場跡だけである。なお細川忠興が小田原北條勢から奪い取って本陣とした富士山《フジヤマ》陣城跡もそれなりの遺構が残っているらしいが、立ち入りできなかったので今回は未確認とした。

【参考情報】

徳川勢陣場跡

徳川氏と小田原北條氏は、本䏻寺の変直後に空白地となった織田氏の旧領(甲斐国)をめぐって一戦あったが[g]若神子《わかみこ》対陣とも。この時、御坂峠《みさかとうげ》附近で北條氏忠と鳥居元忠の戦闘があった(黒駒合戦)。、その後に両氏の和睦が成立した。この時の条件は、氏直と家康の次女・督姫との婚姻、そして甲斐国と信濃国は家康が、上野国は氏直がそれぞれ切り取り次第として互いに干渉しないと云うものであった[h]この取り決めがのちに眞田氏との対立を生み、さらには沼田割譲後の小田原北條氏による名胡桃城奪取、そして秀吉による小田原仕置へとつながっていく。

氏直との婚姻関係による強固な同盟成立により小田原北條氏と徳川氏の間柄は、隣国ながら、この小田原仕置が始まるまでは良好であった。しかし家康が秀吉に臣従してからは小田原北條氏に対しても豊臣寄りの対応を取らざるを得なくなり、特に名胡桃城奪取の変後は秀吉と氏直(氏政)の仲介を断念するとともに、上洛してからは一貫して小田原北條氏との対決姿勢を支持した[i]家康は三男・長丸(のちの秀忠)を人質として大坂に送っている。

小田原仕置を始める前に秀吉から徳川氏領内で軍勢通過の際の便宜と城の使用が要求されたため、大軍の駐屯や通行の便宜を図るべく領内の整備に着手している。そして天正18(1590)年2月に先鋒(東海道北上軍)の一軍として3万の軍勢で出陣し、駿河国長久保城[j]現在の静岡県長泉町長窪。静岡県沼津市の北あたり。に着陣した。ちなみに先鋒は他に羽柴秀次、織田信雄、蒲生氏郷ら。そして同年3月に秀吉が大坂を出陣し三枚橋城に着陣すると、小田原北條氏の支城への攻撃が本格的に開始された。その中にあって徳川勢の大部分は山中城の攻城軍として参陣した。
山中城が一日で落城すると、翌4月に秀吉は箱根湯本の早雲寺に本陣を置き、さらに他の支城の攻略で一応の目処がつくと小田原城惣構を一望できる石垣山に陣城を築き始めた。同時に、城攻め以外の諸将らは小田原城惣構包囲のため進軍を開始した。

徳川勢は兵を三方に分けて箱根を越えた。三島から久野諏訪原に出た軍、鷹ノ巣城を陥れて湯坂を越えた軍、そして足柄城と新荘城を陥れ、足柄越えした軍が合流して惣構東側の井細田口《イサイダグチ》、渋取口《シブトリグチ》、山王口《サンノウグチ》と山王川を挟んで布陣したと云う。

但し本多忠勝、榊原康政、そして鳥居元忠といった主力部隊は、このあと関東周辺にある小田原北條氏の支城攻略の援軍として包囲軍から離れている。


これは Google Earth 3D を利用して徳川勢の布陣(推定)を重畳させたもの:

家康は山王川を挟んで惣構の東側に本陣を置いたとされる

徳川勢陣場跡(Google Earth より)

そして、こちらが今回の陣場跡巡りのルートと実際のGPSアクティビティのトレース結果。現在は住宅地になっているため遺構は残っていなかったが目印となりそうな建物にはマーク()を入れた:

今井陣場跡から井細田口前、渋取口前、そして山王口前あたりまで

My GPS Activity(Day 1)

Garmin Instinct® で計測した総移動距離は6.13㎞、所要時間は1時間53分(うち移動時間は1時間08分)ほど(石川康通の陣場は別の日に巡ったので Activity 外)。このルートの最高高度は46.8mで、全体的に平坦な土地だった。

この日はJR小田原駅東口から箱根登山バスの城東車庫前行に乗車して「今井」と云うバス停で下車[k]所要時間は10分ほどで片道大人220円(当時)。。そして「東照宮」なる案内板が建つ道を入って行った先が家康の陣地跡である。往時、この辺は今井村だったことから「今井陣場跡」とも呼ばれている:

県道R720(怒田開成小田原線)沿いに建っていた

「東照宮(家康公小田原役・今井御陣場跡)」の標柱

家康は、今井村の柳川和泉守泰久なる土豪の屋敷に本陣を置いた。この屋敷は堀や土塁を巡らせたものだったらしい。また背後に酒匂川《サカワガワ》があることから、このあたりは守りに易い低湿地帯でもあった。

現在も柳川氏子孫の土地にになっているこの場所には「神君家康公」を祀る東照宮が建ち、のちの小田原城主・大久保忠真《オオクボ・タダザネ》が建立したと伝わる石碑が残る:

土塁の上に建てられた東照宮と石碑

東照宮と石碑

東照宮社殿には家康の木像が祀られていた

神君家康公像

東照宮の社殿は土塁の上に建っていた:

東照宮社殿は土塁の上に建っていた

土塁跡

社殿の背後にある用水路は往時の掘跡とされ、この周辺が低湿地に囲まれた微高地だったことが分かる:

東照宮社殿背後にある用水路は往時の堀である

堀跡(用水路)

現在の東照宮がある場所を中心とし、堀が巡らされていた方形状の郭の三方(北・西・東)には馬出状の腰郭が配されていたのだとか。

次は、初め榊原康政が布陣したとされる場所へ。康政の陣場跡は山王川と平行して走る用水路に沿って東海道本線へ向って行ったところにあるが、特に石碑や説明板などといったものは無い。山王川を挟んだ向こう側が惣構の井細田口方面である。なお康政は、こののち本多忠勝らと小田原北條氏の支城を攻めるために包囲軍を離れているので、別の武将が陣場を置いたとされるが仔細は不明:

この工場の向こう側が榊原康政の陣場跡

目印の工場

左が山王川(惣構の井細田口)方面

榊原康政の陣場跡

次は酒井家次《サカイ・イエツグ》の陣場跡。目印は小田原市立町田小学校あたり:

小田原市立町田小学校の敷地が酒井家次の陣場跡

目印の小学校

グラウンドの先が山王川(惣構の渋川口)方面

酒井家次の陣場跡

酒井家次は、徳川四天王筆頭である酒井忠次《サカイ・タダツグ》の嫡男。忠次が隠居したあとに家督を継ぎ小田原仕置に参陣していた。一説に、家次も包囲軍から離れて下総国にある小田原北條氏の支城を攻めていたとか。

こちらは山王川に架かる栄橋の交差点で、この橋の先が小田原城惣構の渋取口方面。往時は渋取川が惣構の水堀として使用されていた[l]現在は道路によって暗渠化しているらしい。

山王川に架かる栄橋と交差する「栄橋」交差点

目印の交差点

この先は惣構の渋取口(渋取川)方面

栄橋

この栄橋近くの山王川沿いに奥平信昌《オクダイラ・ノブマサ》の陣場があったとされる:

栄橋近くの山王川沿いが奥平信昌の陣場跡

目印の栄橋から

山王川の栄橋あたりに布陣していた(現在は私有地)

奥平信昌の陣場跡

奥平信昌は奥三河の国衆の一人で、はじめ貞昌《サダマサ》を名乗っていた。奥平氏は、その地政学的立場から駿河今川氏や三河徳川氏、そして甲斐武田氏に従属していたが、武田勝頼の代に離反して三河徳川氏に帰順した[m]これは簡単な話ではなかった。なぜならば武田家に人質になっていた正妻と弟らが処刑されてしまったため。。これが契機となって長篠・設楽原の合戦が起こり、貞昌は長篠城に籠城し甲軍の猛攻を凌いだことで織田・徳川連合軍の勝利を導いた。この時の働きが信長に認められ、偏諱を賜って信昌に改名した(諸説あり)。信昌は家康の長女・亀姫を正室としていたことから娘婿として家康から重用され、ここ小田原城攻囲戦では家康の前衛を任された。

そして、このまま山王川沿いを相模湾へ向って進んでいくと東海道(国道R1)にぶつかる。牧野右馬允康成《マキノ・ウマノジョウ・ヤスナリ》の陣場跡は、この「山王橋」交差点附近:

山王川に架かる山王橋と交差する「山王橋」交差点

目印の交差点

手前が惣構の山王口方面

牧野康成の陣場跡

もしくは橋を渡ってすぐの山王神社あたり:

山王神社は山王篠曲輪跡に建っている

目印の神社

山王神社には小田原城包囲戦の中、家康がよく参詣したと云う

牧野康成の陣場跡

現在、山王神社が建つ場所は小田原城の山王篠曲輪《サンノウ・ササクルワ》跡であり、往時は惣構の南東隅に設けられていた出丸だった。しかし小田原仕置が始まった際に工事が間に合わず、惣構の外に置き去られることになったため捨曲輪とも呼ばれていたらしい。惣構の攻囲戦が始まると徳川勢の牧野康成・井伊直政らが堀を埋めようとして小田原北條勢と激しい戦になったと云う。

境内に建っていた御由緒には、往時の山王神社は山王篠曲輪にあり、惣構包囲中には家康が日々参詣したと綴られているので、おそらく激しい攻防戦となった山王篠曲輪は徳川勢が奪取したものと推測できる。

この山王篠曲輪に陣を置いていた牧野康成は三河牛久保城主で、小田原仕置後に家康が関八州に移封されると上野国大胡藩初代藩主となった。ちなみに家康の家臣に「牧野康成」は二人いたようだ。こちらの牧野康成は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで二代将軍・徳川秀忠麾下として眞田昌幸が守備する上田城攻めに参陣したが、軍旗違反の上に昌幸の策にはまって大敗すると云う失態を秀忠に咎められると出奔した。秀忠は大いに怒り蟄居処分となる。三代将軍・家光の時代に恩赦で蟄居を解かれ大胡城に戻り、そこで死去した。その後の大胡藩は嫡男の忠成が継いだ。

このあとは国道R1(東海道)沿いに残りの陣場跡を巡ってきた。

まずは浄土宗の道場院裏にある山王保育園あたりが松平康重《マツダイラ・ヤスシゲ》の陣場跡とされる:

目印は、この山王保育園または裏にある道場院あたり

松平康重の陣場跡

松平康重は松井松平家の初代当主。駿河国三枚橋(沼津)城主だったので元服してすぐに対小田原北條氏との最前線にいた。小田原仕置に参陣したあと、家康が関八州に移封されると武蔵国私市城[n]現代は「騎西城」と記すのが多数となっている。主となり、のちに常陸国笠間、そして丹波国篠山へ移封されたのち、和泉国岸和田城主を務めた。

山王保育園前の道路を東へ進んでいくと月密山護年院・心光寺《シンコウジ》の山門が見えてくるが、この辺が徳川四天王の一人である井伊直政の陣場跡:

江戸時代に移築された寺院なので小田原仕置当時は無かった

目印の寺

本堂の他、鐘楼や薬師堂がある由緒ある浄土宗の寺院である

井伊直政の陣場跡

ちなみに、この浄土宗の寺院は戦国時代前の文安元(1444)年の創建で、江戸時代の寛永7(1630)年にこの地に移転してきたと云うことで、直政が本陣を置いた小田原仕置の時にはここには無かった。

現代でも「井伊の赤備え[o]石川数正が豊臣家に出奔した事件後に、徳川家の軍装を甲斐武田家の軍装に切替えた際、武田家の勇将・山縣昌景の旧臣らを多く継承し朱色の兵装にしたことから。」として知られている井伊直政は遠江国の井伊谷城主・井伊直親の嫡子で、幼年時に父が駿河今川氏に謀殺されてから、今川家からの追っ手から逃れるために出家していた。さらに龍潭寺《リュウタンジ》住職で井伊家の軍師を務めていた南渓瑞聞《ナンケイ・ズイモン》の図らいで今川家と敵対関係にあった徳川家に接近させて家康の小姓となる。そして井伊谷城主・次郎法師(井伊直虎)の養育を経て、正式に井伊家の当主に復帰が許された。元服後は直政に改め、本䏻寺の変時の伊賀越えで警護を務めたり天正壬午の乱(黒駒合戦)後に小田原北條氏との講和の使者を務めた。それ以降も徳川家が関わった戦や外交に参加して外様でありながら家康を全力で支えた。
小田原城惣構攻囲戦では山王口の出丸である山王篠曲輪を強攻して奪取する手柄をあげている。

心光寺から再び東海道へ戻って、次は本多忠勝が本陣を置いていたとされる場所へ。「小田原城と小田原合戦攻防図」にはのちに榊原康政の陣場跡となったとあるが、本多・榊原ともに豊臣軍の援軍として包囲軍を離れているので、この陣場について仔細は不明:

豊臣方の援軍として包囲軍を離れるまでの陣場と思われる

本多忠勝の陣場跡

実際のところ、ここから西湘バイパス、そして山王小学校あたりまでぐるりと歩いてきたけど全くピンとこなかった :|

さらに国道R1沿いを(小田原城惣構とは反対方向の)東へ向かって行くと大久保忠世《オオクボ・タダヨ》の陣場跡。こちらの陣場跡はかなり大雑把で、国道沿いにある臨済宗大徳寺派の稲荷山・呑海寺《ドンカイジ》からその隣にある常顕寺《ジョウケンジ》あたり:

東海道沿いの呑海寺から常顕寺あたりが大久保忠世の陣場跡

大久保忠世の陣場跡

呑海寺の開山は戦国時代中頃の大永7(1527)年、その後は廃れたが江戸時代中頃の寛永4(1627)年に再建された。興味深かったのは本堂や山門には小田原北條氏の三つ鱗紋があしらわれていたこと。そして日蓮宗の妙性山・常顕寺の創建は慶長3(1598)年なので秀吉が死去した桃山時代後期の頃:

臨済宗・大徳寺派(京都)の稲荷山・呑海寺

目印の寺

日蓮宗の妙性山・常顕寺は単立寺院

目印の寺

大久保忠世もまた松平・徳川家に仕えた重臣の一人。特に家康に従って多くの戦場に参陣、甲斐武田氏との最前線に位置する二俣城主を務めた。天正壬午の乱後は小諸城代を任された他、その経験と土地勘を活かして眞田昌幸・信幸(信之)信繁らが籠もる上田城攻めに参戦している(結果は大敗北)。小田原仕置後に主人の家康が関八州を賜わると、秀吉の意見を聞いて小田原城主となった。菩提寺は小田原城惣構の箱根口跡に建つ寳聚山・大久寺《ホウジュサン・ダイキュウジ》。

最後は石川康通《イシカワ・ヤスミチ》の陣場跡。位置的には家康の本陣の左翼にあたり、現在だとファミリーマート小田原東町店とその前にある燃料店あたり:

水堀跡で、この先に家康の本陣跡(東照宮)がある

用水路

平坦地であるが、往時は湿地帯であり水堀があった

石川康通の陣場跡

石川康通の父・家成と家康は従兄弟関係にあったことから康通も重用された。小田原仕置後は上総国成東城主を務め、関ヶ原の戦で尾張国清州城の守備、そして石田三成の居城である近江国佐和山城攻めに参陣、戦後に加増移封されて美濃国大垣城主で大垣藩の初代藩主となった。正室は植村家存《ウエムラ・イエサダ》[p]家康の家老であり、上杉謙信や武田信玄にも認められた剛勇の士。の娘。

以上で徳川陣地跡巡りは終了。

See Also小田原城攻囲戦 − 徳川勢陣地跡 (フォト集)

【参考情報】

豊臣勢陣場跡1

関白秀吉が小田原北條氏に宣戦布告を告げ、天正18(1590)年2月に東海道から先鋒(東海道北上軍)を小田原へ進軍させた。この軍には徳川家康の他、羽柴秀次、羽柴秀勝《ハシバ・ヒデカツ》[q]この時代に「羽柴秀勝」が複数人いるが、こちらは秀吉の甥で、のちに養子となり丹波中納言と呼ばれた小吉秀勝のこと。、小早川隆景、宇喜多秀家、織田信雄、織田信包《オダ・ノブカネ》、蒲生氏郷、細川忠興、福島正則ら、そして軍監として黒田官兵衛孝高の諸隊が含まれていた。この先鋒が最前線となる長久保城や三枚橋城に到着すると、秀吉本隊を待ちながら攻城戦の準備を進めた。

3月末に秀吉本隊が駿府城を経由して三枚橋城に着陣、続いて長久保城に入城して山中城を視察すると、その翌日には山中城と韮山城の攻撃が開始された。そして山中城が落城し、韮山城攻略の目処がつくと最低限の軍勢だけを残し、織田信雄や蒲生氏郷ら主力となる諸将は小田原城惣構の包囲を開始した。


豊臣方のほとんどの陣場跡は、徳川勢を除いて宅地化や農地化などによって遺構はもちろん場所も特定できないのが現状であるが、幸いなことに「小田原城と小田原合戦攻防図」に推定で描かれた位置は足を使って巡ってきたり遠景を観察することは可能だった。

今回は惣構の北西側にあたる荻窪丘陵に陣を置いたとされる羽柴秀勝《ハシバ・ヒデカツ》や黒田官兵衛孝高、そして蒲生氏郷らの陣地跡を巡ってきた。

これは Google Earth 3D を利用して各隊の布陣(推定)を重畳させたもの:

蒲生・土方勢と黒田勢、そして羽柴秀勝勢が久野口・荻窪口で対峙した

豊臣勢陣場跡1(Google Earth より)

なお氏郷と土方雄久《ヒジカタ・カツヒサ》らは、惣構の北側(上図では左手)にある久野諏訪ノ原丘陵《クノ・スワノハラ・キュウリョウ》東端に陣を置いていた織田信雄の配下にあり、官兵衛は秀吉直下の軍監・軍師として独立した隊、そして秀勝は惣構の西側(上図では右手)に陣を置いていた兄の秀次と共に荻窪丘陵上に陣を置いたと云う背景がある。

こちらが今回の陣場跡巡りのルートと実際のGPSアクティビティのトレース結果。目印となりそうな建物にはマーク()を入れた:

北條幻庵屋敷跡を訪問した後にこれらの陣場跡を巡ってきた

My GPS Activity(Day 2)

Garmin Instinct® で計測した総移動距離は4.64㎞、所要時間は1時間37分(うち移動時間は1時間01分)ほど。このルートの最高高度は110.6m、最低高度は7.2m。実際、現在はミカン畑などになっている荻窪丘陵東端へ登ってみると、惣構の本丸跡(現在の小田原高校周辺)方面がよく見える位置だった。

この日の午前中は箱根湯本にある早雲寺を参詣したあと小田原へ戻って、午後の陣場跡巡りのために老舗の蕎麦屋でカツ丼を食べてエネルギーを補充した。そして駅東口から伊豆箱根バス・小51・県立諏訪の原公園行に乗車して中宿と云うバス停で下車[r]所要時間は20分ほどで片道220円(当時)。し、まずは久野《クノ》にある北條幻庵屋敷跡を訪問してきた。

久野から山王川を渡って、蒲生氏郷が本陣を置いたという高台下に建つ神山《コウヤマ・ジンジャ》神社までは徒歩15分ほど:

蒲生氏郷が陣を置いたのは荻窪丘陵東端の郷社・神山神社の高台

目印の神社

境内ではなく、左手にある高台上が陣場跡とされる

蒲生氏郷の陣場跡の下あたり

神山神社の創建は平安時代の永延2(988)年で、もとは久野坊所村の山中(現在の久野諏訪ノ原丘陵)にあったが、室町時代の応永23(1416)年に鎌倉公方・足利持氏《アシカガ・モチウジ》と関東管領・上杉氏憲《ウエスギ・ウジノリ》(上杉禅秀)との間で戦があり、社殿をはじめ宝物などすべて焼失した[s]世に云う「上杉禅秀《ウエスギ・ゼンシュウ》の乱」。最後は室町幕府4代将軍・義時の援軍により追い詰められた禅秀は鶴岡八幡宮で自刃した。禅秀は関東上杉四家の一つ犬懸《いぬがけ》家の筋。。そして戦国時代中頃の大永4(1524)年に、神山権現を信仰していた小田原北條家二代当主の氏綱により、ここ荻窪丘陵東端に再建されたと云う。

秀吉による小田原仕置が始まると神山神社の神主は惣構に籠城したと云う。そして誰も居なくなった神山神社を接収して、その高台に本陣を置いたのが韮山城攻略後の氏郷だったとされる:

荻窪丘陵東端に建つ神山神社は北条氏綱が再建したもの

境内から見下ろしたところ

境内からは方角的に小田原城跡が全く見えなかったので、更に上にある高台(現在は私有地)に氏郷の本陣が置かれていたと考えるのは妥当であろう:

境内から見上げた高台は現在は私有地のため遠景のみ

この上が蒲生氏郷の陣場跡(推定)

当時は境内清掃中のためトラックが入るなどして、高台のヘリあたりをゆっくり見ることができなかったのが残念だった :(

蒲生氏郷は、近江国日野城主・蒲生賢秀《ガモウ・カタヒデ》の三男として弘治二(1556)年に誕生した。往時、賢秀の主人であった近江国守護の六角氏が尾張の織田信長に敗れたのち、信長に従属する証しとして人質に入った。その時、信長に才能を認められた氏郷は、信長の次女を妻に娶って日野城主となる。そして信長の主要な戦に従軍して武功をあげた。天正10(1582)年に岳父である信長が本䏻寺で横死すると、安土城に居た信長の一族郎党を救出し保護した。その後は信長の覇業を継承した秀吉に従い、つど無双の武功をあげて伊勢国松坂、そして陸奥国會津へと大領で移封された。ちなみに小田原仕置の頃は伊勢松坂城主であった。その一方で、千利休に師事しその高弟の一人として利休七哲《リキュウシチテツ》に数えられた他、親友である高山右近の勧めで洗礼して「レオン」の霊名を称した。そして秀吉が大陸支配へと動き出した矢先、文禄4(1595)年に急死した。享年40。

神山神社を下りて、次に向ったのが小田原市役所前。ここが土方雄久の陣場跡とされる:

小田原市役所前附近は平坦と云うより谷底に近い地形

土方雄久の陣場跡

現在の県道R74(小田原山北線)沿いにあり、往時は惣構の久野口と対峙する位置ではあったが、久野口よりも低い谷底のような地形(海抜14mほど)なので、本当に陣を置いたのか若干疑ったが、実際に小田原北條勢による夜襲を受けたとの記録が残っているようなので確かなのかも知れない。

土方雄久は織田信雄に仕えた重臣の一人。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いの最中、秀吉との内通を疑った信雄の命で家老・岡田重孝《オカダ・シゲタカ》を謀殺した。ここ惣構包囲戦では、久野口の守将・北條氏房の夜襲を受けたが退けたと云う。小田原仕置後に主人である信雄が改易されると秀吉の家臣となった。

このあとは蒲生氏郷の前衛にあって先鋒を任されていた先衆《サキシュウ》の陣場跡へ。小田原市役所前を通る県道R74から小田原城址公園方面ではなく、西側から延びている荻窪丘陵方面へ登って行く。目印は荻窪保育園あたり:

荻窪保育園裏の高台あたりが蒲生先衆の陣場跡

目印の保育園

荻窪丘陵の東端あたりで、現在は宅地化されていて遺構は無い

蒲生先衆の陣場跡

荻窪保育園の先(南側)には用水路があるが、おそらく惣構の堀跡であろう。そこを越えた先には惣構の遺構として保存されている城下張出《シロシタ・ハリダシ》があり、惣構の久野口にあたる。

この坂から惣構の本丸方面を眺めてみた:

正面に見える丘陵の裏側が本丸跡(小田原高校)

惣構本丸方面

ここは丘陵の突端と云うことで、それほど高い場所ではない(海抜38mほど)ので本丸をのぞき込むように見ることはでき無かった。

この坂をさらに西へ向って国道R271(小田原厚木道路)を越えると斜度がキツくなり丘陵を掘削して敷いた道となる。道路の両脇は高台で早生《ワセ》ミカンの畑になっていた:

道路両側の切岸から丘陵の高さが分かる

荻窪丘陵の斜面はミカン畑

両側にある切岸から丘陵の高さが想像できるし、たまに高台にあがる場所があるので(私有地に立ち入らないよう気をつけながら)登ってみると惣構跡や本丸跡方面を眺めることができた:

このすぐ下が小田原厚木道路で、その先は黒田先衆の陣場跡とされる法正寺

荻窪丘陵上から眺めた惣構跡(拡大版)

杜の裏が本丸跡である県立小田原高等学校

本丸跡方面

さらに荻窪丘陵を道形に進んでいくと三叉路となるが、この右手の高台が黒田官兵衛の陣場跡:

三叉路と云っても右折した先は私道である

目印の三叉路

真ん中の青い建物が小田原高等学校のプール

黒田官兵衛の陣場跡からの眺め

ただし陣場跡は私有地(畑)だったので高台下から惣構の本丸跡方面を眺めてみたのだが、なんとしっかりと本丸跡に建つ小田原高校の敷地が見えた。さすがは軍師・官兵衛 8)

高台上の側道をさらに西へ進んでいく。こちらは振り返って官兵衛の陣場跡を見下ろしたところ:

ココからの眺めは良く、遠くに青く見えるのが相模湾

黒田官兵衛の陣場跡を見下ろす

黒田官兵衛孝高《クロダ・カンベエ・ヨシタカ》、号して如水《ジョスイ》は信長や秀吉に仕え、秀吉の軍師・竹中半兵衛と共に参謀となった。天正6(1578)年に信長に反旗を翻した荒木村重が籠もる有岡城へ説得に向かったものの逆に幽閉され1年後に救出された。天正9(1581)年には因幡国《イナバノクニ》鳥取城を包囲し、徹底的な兵糧攻めで開城降伏させた。天正10(1582)年には毛利氏の家臣・清水宗治《シミズ・ムネハル》が籠もる備中高松城を水攻めにし、本䏻寺の変の報せを受けると毛利氏と和睦して明智光秀を討つべく中国大返しを成功させた。そして、この小田原仕置では単身で小田原城惣構に入城し、北條氏政・氏直父子を説得し開城させると云う功を立てた。その後も秀吉の片腕となって日の本統一の一翼を担い、秀吉死後の関ヶ原の戦では九州で私軍を率いて西軍についた大名の城を落としていくも、一日で戦が決した報せを受けて無念にも軍を引いた。晩年は政《マツリゴト》には一切関わらずに隠居生活を送った。慶長9(1604)年に京都伏見にある福岡藩邸で死去。享年59。

ここから、さらに奥まった先へ進んでいくと羽柴秀勝の陣場跡である:

この道を進んだ先に小屋がある

目印の小屋

荻窪丘陵の真ん中あたりに本陣を置いた

羽柴秀勝の陣場跡

この小屋あたりに秀勝が本陣を置き、その下にある斜面には秀勝麾下の先衆らが陣を置いたとされるが、ここからも惣構の本丸跡や秀吉が本陣を置いた石垣山城跡方面を眺めることができた:

このあたりからも惣構の本丸跡を眺めることができた

秀勝先衆の陣場跡と惣構本丸方面の眺め

羽柴秀勝の母は秀吉の姉であるので、兄の秀次とともに秀吉の甥にあたる[t]この時代に「羽柴秀勝」を名乗る人物は三人おり、他に羽柴秀吉の初の息子で幼年で早逝した秀勝、そして織田信長の四男で、のちに秀吉の養嗣子になった秀勝がいる。。のち秀吉の養子になって羽柴姓を名乗る。天正15(1587)年の九州仕置に続いて同18(1590)年の小田原仕置に参陣する。小田原の緒戦では兄の秀次と共に山中城攻めに加わり、小田原城惣構の包囲戦でも兄と同じ荻窪丘陵上に本陣を置いている。小田原仕置・奥州仕置後に甲斐・信濃二ヵ国23万石に転封され躑躅ヶ崎館を居城とした。しかし甲斐国が僻地だと秀吉に訴えたことから翌19(1591)年には美濃国13万石に転封となって岐阜城に入城した。そして翌20(1592)年に始まった文禄の役で朝鮮へ渡り、ほどなく滞陣中に病を患い病死した。享年24。

このあとは黒田官兵衛の陣場跡を経由して荻窪丘陵を下り、別ルートで国道R271(小田原厚木道路)を越えて黒田勢の先衆の陣場跡とされる法正寺《ホッショウジ》へ向かった:

日蓮宗を祖とする本門佛立宗(新宗教)の寺院

目印の寺院

陣場跡に建つ法正寺境内から惣構本丸跡方面の眺め

黒田先衆の陣場跡からの眺め

法正寺が建つ場所はR271で分断されているものの、往時は荻窪丘陵の一部と推測でき、現在でも高台のような場所であった。なお、この寺院は日蓮宗から分岐した新宗教らしいので、もちろん小田原仕置時は存在していない。

以上で今回の豊臣勢陣場跡巡りは終了。法正寺をあとにして小田原駅へ向かった。

最後に、こちらは小田原市役所前を通る県道R74を小田原駅へ向かう途中の上り坂であるが、このあたりが小田原城惣構の久野口跡:

この坂も惣構の一部であり、背後には水堀跡(用水路)が残る

目印は小田原税務署西交差点

See Also小田原城攻囲戦 − 豊臣勢陣場跡(1) (フォト集)

【参考情報】

豊臣勢陣場跡2

秀吉が小田原北條氏に宣戦布告を告げ、天正18(1590)年3月初めに京の聚楽第を出陣し同月末に伊豆の三枚橋城に着陣すると、すかさず山中城や韮山城、そして足柄城といった小田原北條氏の支城に攻撃が開始された。そして山中城が落城すると豊臣勢の主力は小田原城惣構の包囲を開始した。4月初めには徳川家康や堀秀政の他、長曽我部元親や九鬼嘉隆らが率いる水軍が小田原沖に到着し、包囲軍に加わった。

これと同時に、小田原城惣構の本丸を見下ろせる笠懸山《カサカケヤマ》山頂に本陣となる石垣山城の築城も始まり、堀秀政や池田輝政、そして小早川隆景や吉川広家らは築城工事の防衛と小田原城惣構の早川口包囲のため山麓に陣場を置いた。


今回は、惣構の南側にあって早川対岸にある標高262mほどの石垣山(旧名が笠懸山)山麓に布陣した秀吉本陣の前衛らの陣場跡を巡ってきた。これらの隊は、おそらく石垣山城築城の守備も兼ねていたと考えられ、緒戦で山中城を落とした堀秀政や池田輝政らの他、秀吉から羽柴・豊臣の姓を下賜された小早川隆景や吉川広家といった諸将が配置されていた。また関東勢として安房・上総二国を領していた里見義康も参陣している。

これは Google Earth 3D を利用して各隊の布陣(推定)を重畳させたもの。なお細川忠興が本陣を置いた富士山《フジヤマ》陣城跡は早川越しに眺めるにとどめた:

秀吉の前衛は早川を挟んで小田原城惣構西側(箱根口・早川口)で対峙した

豊臣勢陣場跡2(Google Earth より)

そして、こちらが今回の陣場跡巡りのルートと実際のGPSアクティビティのトレース結果。現在はほとんどがミカン畑になっているため遺構は残っていなかったが目印となりそうな位置にはマーク()を入れた:

堀秀政墓所がある海蔵寺から石垣山一夜城の麓あたりを巡った

My GPS Activity(Day 3 #1)

Garmin Instinct® で計測した総移動距離は3.81㎞、所要時間は1時間37分(うち移動時間は52分)ほど。このルートの最高高度は169.0m、最低高度は13.4m。実際、笠懸山北端から早川を挟んで、惣構の本丸跡(現在の小田原高校周辺)方面がよく見える位置だった。

なお海蔵寺《カイゾウジ》には、小田原仕置で陣没した堀秀政の供養塔があると伝わる。そして大久寺《ダイキュウジ》は大久保忠世が開基した小田原藩・大久保家の菩提寺である。

この日はJR東海道本線の早川駅まで移動し、一夜城下通りから海蔵寺に向かい、八年前に石垣山一夜城を攻めた折に初めて参詣してきた堀秀政公の供養塔に立ち寄ってから、これまた八年前に歩いて石垣山一夜城歴公園へ向った際の上り坂から陣場跡を巡った。

海蔵寺の墓地から山頂の歴史公園へ向かう石垣山農道脇は高台になっており、往時は池田輝政・堀秀政・長谷川秀一らの本陣跡とされる。現在は道路が敷かれているため高台のように見えるが、道路であったところも往時は尾根筋であったと考えられる:

海蔵寺の墓地裏は石垣山の尾根筋の北端にあたる

目印の高台と農道

石垣山農道は尾根の縁《ヘリ》に沿って造られたのであろう

池田・堀・長谷川らの陣場跡

池田・堀・長谷川らの各隊が尾根筋に沿って縦一列に布陣していたらしい。さらに農道を上って行くと三叉路に至り、この先に続く高台上もまた陣場跡:

左手上の尾根筋が置くまで続いている(ほとんどが畑)

池田・堀・長谷川らの陣場跡

このまま左手の坂を上がって高台を見てみると予想外に高い位置にあるのが分かる:

この道路も尾根を掘削して敷かれたものであろうか

目印の三叉路

高台上の殆どは畑やミカン畑になっていた

急勾配の坂と高台

高台上の大部分は耕作されてミカン畑や野菜畑になっていたので陣場跡と想わせる遺構は無かった:

高台上の大部分は耕作化されていた

池田・堀・長谷川らの陣場跡

このような地形のおかげで、前衛らの陣場跡から小田原城惣構の本丸跡周辺への眺めは良く、ほぼ「丸見え」状態であった:

前衛の陣場跡あたりから小田原城を早川ごしに眺めたところ(中央に見えるのが天守)

前衛らの陣場跡からの眺め(拡大版)

池田輝政は信長の重臣・池田恒興《イケダ・ツネオキ》の次男で父や兄の元助《モトスケ》と共に織田家に仕え、のちに信長の近習の一人となる。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いで父と兄が討ち死したため、池田家の家督を相続した。そして紀州仕置や佐々成政征伐、九州仕置など秀吉の主要な合戦に参陣した。小田原仕置・奥州仕置後は岐阜城主から三河吉田城主に加増移封となった。文禄3(1594)年には家康の次女で北條氏直の正室であった督姫《トクヒメ》を娶る[u]輝政の正室は中川清秀の娘・糸姫なので、氏直と死別して再嫁の督姫は継室《ケイシツ》となる。。秀吉死後は家康に接近し、加藤清正・福島正則・黒田長政らと共に反石田勢力を形成する。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍として岐阜城を攻略し、戦後はその功から播磨国姫路52万石に加増移封され初代姫路藩主になった。その後、姫路城を大規模に改修、その時の建造物は現代の国宝であり世界遺産にもなった。慶長18(1613)年に中風で死去。享年50。

堀久太郎秀政《ホリ・キュウタロウ・ヒデマサ》は信長の小姓から近習に昇りつめたあと各種奉行職を歴任し、信長から重用された側近の一人だった。信長死後は秀吉の家臣となり、柴田勝家との戦いでは抜群の軍功の他、交渉役も務めた。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは総崩れとなった味方の殿を務めた。その後も紀州仕置や四国平定に参陣し、それらの功により越前・加賀18万石を与えられて北ノ庄城主となった。この小田原仕置では緒戦の山中城攻めに参陣し陥落後に小田原城惣構の早川口と対陣する海蔵寺に本陣を置いて前衛の一翼を担っていたが陣中で疫病を患い急死した。享年38。

長谷川秀一《ハセガワ・ヒデカズ》(長谷川竹)もまた信長の小姓として取り立てられた一人で、のちに伴天連屋敷造営などを行う奉行職を務めた。天正10(1580)年の甲州征伐後には家康や穴山梅雪らの饗応役を任された上に、家康一行の大坂の堺見物には案内役として付き従った。そして本䏻寺の変の一報を受けると土地勘に乏しい家康らの案内を買って出て、河内国から近江国を経て伊賀国へ抜け、旧知の者らに連絡をとり助けを受けながら京を脱出して安全圏である尾張国熱田まで家康らに同道して窮地を脱したと云う。その後は秀吉について柴田勝家との戦いや小牧・長久手の戦い、紀州仕置、九州仕置など数多くの合戦に参陣、のちに羽柴姓・豊臣姓を拝領した。この小田原仕置は緒戦の山中城攻めに参陣した。その後、文禄元(1592)年の文禄の役で朝鮮に渡って朝鮮軍と合戦し、帰国後に死去した。秀一に嫡子が居なかったため長谷川家は断絶した。

このあとは三叉路まで戻り、再び歴史公園へ向かう道路を登って行く。すると今度は四叉路に至るので、この建物の脇を抜け、その先に見えてくる斜面が里見義康の陣場跡:

この小屋の背後に広がる丘陵が毛利・里見氏の陣場跡

目印の小屋

ちょうど斜面中央に建つ小屋あたりが里見義康の陣場跡

里見義康の陣場跡

里見義康は安房国の戦国大名・里見義頼《サトミ・ヨシヨリ》の嫡男で、のちに館山藩初代藩主。天正15(1587)年には豊臣秀吉に従属し、安房国と上総国二ヵ国と下総国の一部を安堵された。しかし天正18(1590)年、この小田原仕置に乗じて、かって小田原北條氏に奪われた旧領を回復しようと勝手に三浦半島へ渡海して接収したことが往時、関東に発布されていた惣無事令に違反したものだとして秀吉の怒りに触れ、安房一国に減封されたと云う。その翌年には居城を館山城へ移した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは家康に従って上杉討伐へ向かうが、小山評定の結果、結城秀康の配下に入り宇都宮城守備を担当した。慶長8(1603)年に死去。享年30。

ミカン畑を横目に、義康の陣場跡からさらに坂を登って行く:

ミカン畑を横目に尾根筋の私道を登って行く

さらに登る

そして、このあたりのミカン畑が小早川隆景の陣場跡:

この小屋の下にあるミカン畑が小早川隆景の陣場跡

目印の小屋

現在は斜面を耕作して造られたミカン畑

小早川隆景の陣場跡

陣場跡はミカン畑になっており立ち入りできないが、脇にある私道から小田原城惣構の本丸跡周辺をしっかりと見下ろすことができた:

小早川隆景の陣場跡あたりから眺めた小田原城跡は明らかに見下ろす程の高低差があった

小田原城惣構南側を見下ろす(拡大版)

小早川隆景は毛利元就の三男。安芸国沼田荘《アキノクニ・ヌタノショウ》がある沼田川《ヌタガワ》流域一帯を領していた小早川家[v]もとは相模国土肥郷の小早川村に居を構えていた土肥実平《ドイ・サネヒラ》の子孫が吉備三ヶ国(備前・備中・備後)の守護職を拝領し、この地でも小早川姓を名乗っていた。のうち竹原小早川家が無嗣断絶の危機にあったので、周防国の戦国大名・大内義隆《オオウチ・ヨシタカ》の強い勧めで竹原小早川家を相続し、元服して小早川隆景に改めた。ほどなくしてもう一つの沼田小早川家の家督も継承することで両小早川家を一つにまとめ、それまでの本拠・古高山城から、その沼田川対岸に新高山城を築いて居城とした。小早川家を毛利一門に加え、毛利水軍の主力として、畿内に勢力を拡大していた信長に対抗した。また室町幕府15代将軍の足利義秋[w]義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。の求めに応じて、信長包囲網の中心的存在であった本願寺顕如を助け、毛利家も包囲網の一翼を担った。秀吉が備中高松城を包囲中に本䏻寺の変がおこり、秀吉らに欺かれるようにして和睦を結んだ。その後、秀吉が柴田勝家を破ると、それまで中立を保っていた毛利家は秀吉に従属、その後は積極的に秀吉に協力し四国仕置や九州仕置に参陣し、戦後は筑前・筑後など37万石を拝領して筑前宰相と呼ばれた。ここ小田原仕置にも参陣した他、文禄の役では朝鮮に渡海し、碧蹄館《ヘキテイカン》の戦いでは立花宗茂と共に明軍を撃退した。慶長2(1597)年に死去。享年65。

そして、このあたりから眼下を流れる早川を挟んで北の方角を眺めてみると、小田原城惣構の水之尾口や荻窪口を包囲していたとされる羽柴秀次や宇喜多秀家、さらには羽柴秀勝や黒田官兵衛らの陣場跡を眺めることができた。丁度、R271(小田原厚木道路)を挟んで左手が豊臣勢、右手が小田原北條勢の構図である:

このすぐ下に早川が流れ、中央がR271(小田原厚木道路)、右手が小田原城址公園方面

石垣山から早川対岸の眺め(拡大版)

惣構の水之尾口に対してR271を挟んで荻窪丘陵に豊臣勢が布陣した

(コメント付き)

ここから、さらに尾根筋上に敷かれた坂を登っていった先が吉川広家の陣場跡:

突然現れた野面積みのような石積みで補強された土壇と石段

目印の土壇

石積みで補強された土壇は後世の造物と思われる

吉川広家の陣場跡

一見すると石垣が積まれた遺構のようにも見えるが、明らかに石段は後世の造物で、おそらく尾根筋を削平して畑として利用するか、あるいは家が建っていたと考えられる:

いかにも野面積みのような石積みと石段

遺構のような土壇

この土壇上からの小田原城惣構の箱根口あたりを見下ろしたのがこちら:

吉川広家の陣場跡から本丸跡や箱根口跡を見下ろしたところ(右手中あたりに天守あり)

惣構の箱根口跡方面(拡大版)

同様に、これは土壇上から振り返って秀吉の本陣である石垣山城跡を見上げたところ:

吉川広家の陣場跡から振り返って見上げたところ

石垣山城方面

吉川広家の父は毛利元就の次男で、安芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ家督を継承した吉川元春。天正14(1586)年に秀吉に従って九州仕置に参陣した父・元春が、その翌年に兄の元長が相次いで死去したため、三男の広家が吉川家の家督を継いだ[x]天正10(1582)年の本䏻寺の変後に元春が隠居し、元長が家督を継いでいた。元長が死去する前に弟の広家(経信《ツネノブ》)を後継に推薦し、毛利輝元や小早川隆景の同意を得て家督継承が行われたと云う。。秀吉の命で月山富田城主となる。ここ小田原仕置では叔父の小早川隆景と共に包囲軍に参加した。その後は文禄・慶長の役で渡海し、碧蹄館の戦いでは隆景が率いる毛利勢の別働隊として戦功をあげ、秀吉から日本槍柱七本《ニホンソウチュウシチホン》[y]他に小野鎮幸、本多忠勝、島津忠恒、後藤基次、直江兼続、飯田覚兵衛。の一人として賞賛された。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では毛利輝元が西軍の総大将となったことで、西軍派である安国寺恵瓊と主家に背いてでも東軍に加担すると主張する広家との関係が悪化し、家中がまとまらない状態で本戦を迎えた。広家は輝元らに内密で黒田長政を通じて家康に内通、毛利家の本領安堵という確約を得たものの、家康による輝元への風当たりが悪かったため本領安堵は反故とされた。最終的に毛利本家は周防・長門二ヵ国まで減封された一方で、広家は岩国城主となった。毛利元就の時代から本家庶流の筆頭であった吉川家は一家臣の扱いとなってしまうが、幕府からは大名扱いされ江戸藩邸を持ち参勤交代も行われるという複雑な身分となった。隠居後も岩国の繁栄に力を注ぎ、寛永2(1615)年に死去。享年65。

この地場跡の西側下の早川河川敷近くは島津義弘の次男・島津久保《シマヅ・ヒサヤス》の陣場跡らしいが、今回は巡ってこれなかった。久保は文禄の役で父と共に渡海したが、朝鮮で病死した。享年21。

See Also小田原城攻囲戦 − 豊臣勢陣場跡(2) (フォト集)

【参考情報】

  • Wikipedia(小田原征伐)
  • 小田原城址公園に建っていた説明板
  • 「石垣山に参陣した武将たち」(石垣山歴史公園までの道沿いに建っていた説明板)

宝珠山・海蔵寺と堀秀政公墓所

嘉吉元(1441)年に小田原城主・大森氏が建立した曹洞宗寺院

宝珠山・海蔵寺

曹洞宗の宝珠山《ホウジュサン》・海蔵寺は下総国通幻派・総寧寺の末寺にあたり、嘉吉《カキツ》元(1441)年に小田原城主の大森氏頼《オオモリ・ウジヨリ》が開基した。その後、小田原北條家二代当主の氏綱からも保護された。

境内と道路を挟んだ山の手の墓地には、小田原仕置に参陣した秀吉麾下の大名である堀左衛門督秀政《ホリ・サエモンノカミ・ヒデマサ》の墓所があるとされ、自分が初めて参拝したのは今から八年前に石垣山一夜城跡を攻めた帰りに立ち寄った時である。しかしながら、あとでよく調べてみると当時、秀政の墓石と思っていたのは殉死した家臣・大野左京らのものだったことが分かったので、陣場跡巡りに併せて改めて参拝すべく再訪したと云う次第。

境内を出て道路を挟んだ高台に海蔵時の墓地があり、その一角にあって現在も小田原城惣構を見下ろす位置に堀秀政公の墓があると云うのが通説になっている:

実際の位置は小田原城惣構を望む北側にある

墓地入口に建つ案内板

最近この墓所に関する情報を見付けたのだが、それによると海蔵寺には公の墓は存在しないのが事実らしい。「海蔵寺と堀秀政の墓」と云う説明板の脇に並ぶ石造りの4基の宝篋印塔を、漠然と公の墓と呼んできたのだと云う:

説明板の前にあるのは殉死した家臣らの五輪塔らしい

「海蔵寺と堀秀政の墓」と宝篋印塔

実際に宝篋印塔に彫られた銘文の拓本をそれぞれ調べた結果、北端(写真手前)に建つ宝篋印塔にのみに公の法名が刻まれていた。そして、この宝篋印塔は二十三回忌の供養塔に相当するらしい:

4基ある宝篋印塔のうち手前のものだけ法名が彫られていた

二十三回忌の供養塔

また「明治時代まで境内西北隅の丘上に建っていた高さ180.03cm(4尺7寸5分)の五輪塔が堀秀政公の墓である」と古文書に記録されているのだとか。少なくとも明治時代までは存在していたようだが、法名が刻まれた180cm近くの五輪塔は現在は見つかっていない(少なくとも海蔵寺の墓地には存在しない)。なかなか興味深い内容である。ただし公の墓所は石川県長慶寺や新潟県林泉寺[z]自分も4年前に林泉寺で参詣したにもある。

堀久太郎秀政は美濃の豪族・堀秀重《ホリ・ヒデシゲ》の嫡男で、信長の小姓から近習に昇りつめたあと各種奉行職を歴任し、信長から重用された側近の一人であった。のちの越前一向一揆や本願寺との戦いでは武将としての才も認めれて近江長浜城主となる。信長死後は秀吉の家臣となり、柴田勝家との戦いでは抜群の軍功の他、交渉役も務めた。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは池田恒興らの討ち死で総崩れとなった味方の殿を務めた上に、追撃してきた榊原康政らを敗走させた。その後も紀州仕置や四国平定に参陣し、越前・加賀18万石を与えられて北ノ庄城主となった。天正18(1590)年の小田原仕置では緒戦の山中城攻めに参陣し、陥落後に小田原城惣構の早川口と対陣する海蔵寺に本陣を置いて秀吉の前衛の一翼を担っていたが陣中で疫病を患い急死した。享年38。

See Also堀秀政公墓所(2) (フォト集)
See Also堀秀政の墓所 (訪問記)
See Also堀秀政公墓所(1) (フォト集)

【参考情報】

豊臣勢陣場跡3

関白秀吉が小田原北條氏に宣戦布告を告げ、天正18(1590)年2月に東海道から先鋒(東海道北上軍)を小田原へ進軍させた。この軍には織田信雄ら13千が含まれており、2月末には徳川家康らと共に三枚橋城に到着。秀吉本隊を待ちながら攻城戦の準備を進め、翌月末に秀吉本隊が到着するや山中城と韮山城の攻撃が開始された。信雄は韮山城攻略の総大将を務め、織田信包や蒲生氏郷、福島正則、細川忠興らと韮山城の周囲に陣城を築いて包囲、攻略の目処がつくと最低限の軍勢だけを残して主力らと共に小田原城惣構の包囲を開始した。


今回は、惣構の北側にあって多胡村(現在の小田原市扇町)の白山神社が建つ高台に布陣したとされる織田中納言信雄と、その配下の諸将らの陣場跡を巡ってきた。白山神社は久野丘陵《クノ・キュウリョウ》(久野諏訪ノ原丘陵)の東端に建ち、旧名は御霊八幡宮で、江戸時代まで多胡村の鎮守であったらしい。ちなみに信雄配下の将である蒲生氏郷は久野諏訪ノ原丘陵の南側に延びた荻窪丘陵東端に本陣を置いている。

これは Google Earth 3D を利用して各隊の布陣(推定)を重畳させたもの:

織田中納言信雄とその配下は山王川を挟んで小田原城惣構の北に布陣した

豊臣勢陣場跡3(Google Earth より)

箱根外輪山[aa]箱根山は火山が噴火した後に圧力が低下して山頂部が陥没しカルデラができるというサイクルを繰り返すことで外輪が三重に形成された。東側の裾野になだらかに広がる久野丘陵からは箱根の山々や相模湾を一望でき、太古から生活基盤となる土地として利用されていた他、豪族らの権勢の象徴でもある古墳が数多く存在しているのだとか。

そして、こちらが今回の陣場跡巡りのルートと実際のGPSアクティビティのトレース結果。白山神社以外は、現在は宅地化され、最高高度も30mほどで、どちらかと云うと平坦な地形であり遺構は残っていなかったが目印となりそうな建物にはマーク()を入れた:

白山神社から南下して東海道本線を越えた辺りまで巡った

My GPS Activity(Day 3 #2)

Garmin Instinct® で計測した総移動距離は3.05㎞、所要時間は55分(うち移動時間は40分)ほど。このルートの最高高度は29.4m、最低高度は1.0m。最も高いであろう白山神社の高台から惣構方面を眺めてみたが、かなり遠い感じがした。

こちらが中納言信雄が本陣を置いたとされる白山神社の高台:

もとは白山社村の鎮守であり、明治時代に白山神社に改称した

目印の白山神社

神社の境内から惣構方面を眺めてみたが建造物が邪魔であるということ以外に、そもそも遠い感じがした:

「多古白山神社の小田原囃子」は有名らしい

白山神社の本殿

惣構の手前の山王川あたりまで緩やかな傾斜が伸びていた

惣構方面の眺め

白山神社の隣が市立白山中学校。ここも高台の上に建っており、堀が残っていたと云われていることからすると、あるいは中学校の敷地が本陣だったかもしれない:

白山中学校も高台の上に建っている

白山中学校

中納言の前衛には信雄の配下が布陣した

惣構方面の眺め

織田信雄は「大六天魔王」信長の次男で、幼名は茶筅丸。母は側室の生駒吉乃《イコマ・キツノ》。古文書からすると織田信孝《オダ・ノブタカ》の方が二十日先に誕生しており、信雄は三男となるが、信孝の母の身分が低いとのことで誕生の報告が遅らされたと云う説が専らである。尾張国の織田家と伊勢国の名門・北畠家との間の和睦条件として、北畠家第九代当主・具房《トモフサ》の養嗣子となって北畠具豊《キタバタケ・トモトヨ》に改め、さらに家督を継承すると信意《ノブオキ》に改めた。織田家嫡男・信忠の下で紀州攻めや本願寺攻めに従軍した。天正7(1579)年に無断で伊賀攻めをするも大敗し、激怒した信長から叱責された。同9(1581)年には信長主導による伊賀攻めに総大将として参陣して勝利する。本䏻寺の変後、織田家当主を継げなかったが、尾張・伊賀・南伊勢約100万石を相続した。この時に織田姓に復し信雄に改めた。秀吉と勝家が争った際は秀吉に与したが、のちに関係が悪化。信雄は家康に接近して、小牧・長久手の戦いに至る。家康に無断で秀吉と和睦すると、家康は秀吉と戦う大義名分を失い撤退した。以降は秀吉に臣従し、天正15(1587)年の九州征伐、天正18(1590)年の小田原仕置に参陣した。しかし論功行賞《ロンコウコウショウ》で尾張国を捨てて駿遠三甲信五カ国への移封命令を拒否したため、秀吉の怒りを買って改易された。改易後は下野国に流され、その地で出家した。文禄の役後に家康の介添で赦免されて大名に復帰するも、関ヶ原の戦いで再び改易となる。大坂の陣では豊臣家に付くが、直前に徳川に降った。寛永7(1630)年に京都で死去。享年73。

このあとは山王川へ向かて南下した先にある足柄小学校へ。ここは信雄の伊勢時代からの重臣である滝川雄利《タキガワ・カツトシ》の陣場跡:

小田原市立足柄小学校

目印の小学校

小学校の敷地から山王川あたりに布陣していた

滝川雄利の陣場跡

小学校前には山王川が流れていたが、この川を堀として雄利が本陣を置いていたと想定する:

この川の先には徳川家康勢の陣場跡に至る

山王川

滝川雄利の陣場前には山王川が流れていた

富士見橋

滝川雄利は伊勢北畠家の庶流である木造《コヅクリ》家の出身とする説があるが、その出自は不明である。はじめ出家していたが還俗した際に、北畠家攻略中の織田家の重臣・滝川一益の娘を娶り滝川姓を名乗った。「大六天魔王」信長の命で北畠具豊(織田信雄)の家老となると、北畠家第八代当主・具教《トモノリ》を襲撃し討ち果たした。主と共に天正6(1578)と同9(1581)年の伊賀攻めに参陣して伊賀国守護を拝領した。本䏻寺の変後に主が信雄に改名するのを受け、主から偏諱を賜って自らも雄利に改めた。小牧・長久手の戦い後は岳父・一益を通じて秀吉の家臣となると、以降も重臣の一人として信雄を補佐した。主に従って九州仕置や小田原仕置にも参陣、小田原では北條氏直の陣中訪問を受けたり、降伏交渉の介添を行った。その功により主が改易されたあとも所領安堵の上に秀吉の御伽衆に加えられた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは西軍に与して改易。のちに家康に許され常陸国片野2万石を与えられ片野藩の藩祖となった。慶長15(1610)年に死去。享年68。

このあとは山王川を渡って更に南下したところにある芦子小学校へ。ここは信雄の家老の一人である天野雄光《アマオ・カツミツ》の陣場跡:

小田原市立芦子小学校

目印の小学校

現在の芦子小学校のグラウンドはただの平坦地

天野雄光の陣場跡

見てのとおり何の変哲のない平坦な地形であり、川など自然の防御施設は見当たらなかった。往時は土塁など人工の施設は当然あったであろうが。

天野雄光は伊勢長島城代で、かって小牧・長久手の戦いでは家康軍に派遣されて羽柴勢と戦った。この小田原仕置では、主人に従って参陣するが、主人が改易されると秀吉に仕えた。しかし関ヶ原の戦いでは家康に与した。その後、京での不祥事により改易され、蟄居先で死去した。享年不明。

最後は、小学校前から伊豆箱根鉄道の大雄山線《ダイユウザンセン》と山王川を越えた先に布陣した沢井雄重《サワイ・カツシゲ》の陣場跡:

大平メーターまたは富士フィルムの事業場周辺

目印の町工場

大平メーターまたは富士フィルムの工場辺りが沢井雄重の陣場跡

沢井雄重の陣場跡

ここも天野雄光の陣場跡と同様に、防御施設もなく何の変哲もない平坦な地形だった。

沢井雄重は信長に仕え、彼の次男・茶筅丸(織田信雄)の傅役であった。小田原仕置後に信雄が改易されたあと尾張国を与えられた福島正則の配下となる。関ヶ原の戦い後、正則は安芸国に加増転封となるが雄重は終りに残り、同じく尾張国清須藩に入った松平忠吉の配下となった。慶長13(1608)年に死去。享年不明。

以上で今回の豊臣勢陣場跡巡りは終了。このあとは東海道本線をくぐって、以前の徳川勢陣場跡巡りで見て回れなかった陣場へ。

See Also小田原城攻囲戦 − 豊臣勢陣場跡(3) (フォト集)

【参考情報】

豊臣勢陣場跡4

関白秀吉が小田原北條氏に宣戦布告を告げ、天正18(1590)年2月に東海道から先鋒(東海道北上軍)を小田原へ進軍させた。この軍には病気のため出陣が見合わされた秀吉の弟・大和大納言秀長の代わりに副将として、甥の羽柴(豊臣)秀次とその軍勢15千が含まれており、2月末には徳川家康らと共に三枚橋城に到着。秀吉本隊を待ちながら攻城戦の準備を進め、翌月末に秀吉本隊が三枚橋城に到着するや山中城と韮山城の攻撃が開始された。秀次は山中城攻略の総大将を務め、中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊《ヤマウチ・カツトヨ》、一柳直末《ヒトツヤナギ・ナオスエ》、そして徳川勢を加えた計7万もの兵で攻撃、味方の損害を顧みず力攻めでわずか半日で落城させた。小田原の西の守りの要であった山中城がわずか一日も保たなかったと云う事実に小田原城惣構に籠もる北條氏政・氏直父子は秀吉の本気度を初めて知ることになった。山中城攻略後、徳川勢を除く秀次らの軍勢は惣構の荻窪口前に伸びる荻窪丘陵上に布陣した。


陣場跡巡り最後となった今回は、惣構の北西側にあって惣構の荻窪口から水之尾口を包囲した羽柴秀次ら山中城攻城軍の他、宇喜多秀家、織田信包らの陣場跡を巡ったあと、細川忠興の陣場跡裏と(私有地への)入口あたりも巡ってきた。

これは Google Earth 3D を利用して各隊の布陣(推定)を重畳させたもの:

羽柴秀次・宇喜多秀家とその配下は惣構の北西に伸びた荻窪丘陵上に布陣した

豊臣勢陣場跡4(Google Earth より)

惣構の北西を走る荻窪丘陵の西側には秀次や秀家らが、そして東側には羽柴秀勝や黒田官兵衛、蒲生氏郷らが布陣しているように、この丘陵は惣構よりを囲んで見下ろせるような立地であったのが特徴である。なお、一柳直盛《ヒトツヤナギ・ナオモリ》は山中城攻略で討ち死にした直末の弟で、直後に一柳家の家中をまとめ攻囲戦に挑んでいた。今回巡ってきた陣場跡の殆どは私有地[ab]田畑やオフロードコースを含む。が多く、これまでの陣場跡巡りとは異なり、遠くから離れて眺めるスタイルだった。

そして、こちらが今回の陣場跡巡りのルートと実際のGPSアクティビティのトレース結果。白山神社以外は、現在は宅地化され、最高高度も30mほどで、どちらかと云うと平坦な地形であり遺構は残っていなかったが目印となりそうな建物にはマーク()を入れた:

小田原市久野の辻村植物公園の周辺から東海道まで南下した

My GPS Activity(Day 4)

Garmin Instinct® で計測した総移動距離は9.26㎞、所要時間は3時間13分(うち移動時間は2時間04分)ほど。このルートの最高高度は188.8m、最低高度は15.8m。山内一豊の陣場跡近くから荻窪口方面がよく見え、さらに細川忠興の陣場跡へ向かう途中からは惣構の本丸跡(現在の小田原高校周辺)方面を確認できる位置だった。

この日はJR小田原駅西口から伊豆箱根バスのいこいの森行に乗車して梅園で有名な「辻村植物公園」と云うバス停で下車[ac]所要時間は20分ほどで片道大人300円(当時)。

まずバス停から植物公園南側にある宇喜多秀家の陣場跡へ。秀家の陣場跡は Forest Bike なるオフロードコースの中にあり、そこは原則的に立入禁止であった:

森林の中をMTBで走り回るスポーツらしい

Forest Bike

MTBのコースは立入禁止

KEEP OUT

ForestBike の前を通って太陽光パネルが設置されている山中へ向って歩いていくと MTB サーキットが出現するが、そのコースがある斜面が秀家の陣場跡:

この下に MTB のサーキットコースがある(立入禁止)

目印のコース入口

この斜面を利用して MTB のコースが造られていた

宇喜多秀家の陣場跡

宇喜多秀家の父は備前の梟雄こと宇喜多直家。初め家氏《イエウジ》を名乗った。父が急死して家督を継ぐと、当時従属していた織田信長の命で羽柴秀吉の中国遠征軍に加わった[ad]但し、往時の秀家は幼少だったので叔父である宇喜多忠家が代理で軍を率いた。。本䏻寺の変後、秀吉の中国大返しを支援した。この時、母で未亡人のお福が秀吉と関係を持ったことで羽柴家において秀家寵遇のきっかけとなった。のちに秀吉の養子となり、偏諱を受けて秀家に改名した。さらに前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎え、外様ながら一門衆扱いとなった。その秀家もまた秀吉の期待に応えようと小牧・長久手の戦い、紀州征伐、四国征伐、九州仕置、そして小田原仕置など多くの合戦に参陣した。文禄元(1594)年の文禄の役では総大将として渡海、漢城などを占領し、碧蹄館の戦いでは明軍を破るなど功を挙げ、慶長の役でも活躍し、日本へ帰国後に五大老の一人に任じられた。秀吉没後に御家騒動(宇喜多騒動)がおこり、父の時代からの優秀な家臣団や一門衆との間に亀裂が入り、その多くが退去するなどして宇喜多家衰退の一因となった。そのような状態で関ヶ原の戦を迎え、西軍の主力として東軍の福島正則らと激戦を繰り広げたものの、味方の裏切りで西軍は総崩れとなり敗退、自らは落ち武者となったが京で潜伏中に奥平信昌に捕縛された。その後、宇喜多家は改易となり、秀家は島津・前田両家のとりなしで死罪は免れて八丈島に流された。元和2(1616)年に刑期を終えたが、島から出ることなく明暦元(1655)年に死去。享年84。

このあとは辻村植物園まで戻り羽柴秀次らの陣場跡へ。こちらは、その途中にある ForestBike の敷地から眺めた秀次の家老・中村一氏の陣場跡と惣構水之手口方面:

正面の高台が陣場跡、その右手奥が惣構水之手口方面

中村一氏の陣場跡

この敷地の下を横切る道路を挟んだ向かいに見える高台上が陣場跡。あとで下にある道路を通ってわかったのだが、おそらく往時はこの敷地と向かいの高台は同じ尾根筋にあったと考えられる(すなわち秀家の陣場から一氏の陣場まで尾根続きだったのでは)。

こちらが最初に下りたバス停前の辻村植物公園:

丘陵の斜面に梅林がある他、大小の杜がある

辻村植物公園

往時、橋が架かっている箇所は尾根続きだった

丘陵の一部を道路が横断している

現在、この植物園にある梅林や自然公園はすべて荻窪丘陵上にあり、小田原城包囲戦では羽柴秀次らが布陣した場所でもあるが、実際に見てみると丘陵を成す尾根筋が残っていた:

この尾根の上も辻村植物公園の一部

目印の尾根

駐車場で一部改変されているが尾根そのものは残っていた

目印の駐車場

この尾根の上が羽柴秀次(関白秀次)の陣場跡。現在は公園化されているため、惣構跡への視界は悪い:

公園化されて杜になっているため惣構跡への視界は悪い

羽柴秀次の陣場跡

また「太陽の丘」なる広場へ続く遊歩道には土塁のようなものが残っていた:

公園化されて改変されているため後世の造物かもしれない

土塁のようなもの

羽柴(豊臣)秀次は秀吉の姉・瑞龍院日秀《ズイリュウイン・ニッシュウ》(院号)の長男で、初名は吉継。幼少時は宮部継潤《ミヤベ・ケイジュン》や三好康長《ミヨシ・ヤスナガ》らに人質として預けられた[ae]その都度、その家の名跡を継ぐために養子となった。。秀吉が信長の跡を継いで日の本統一に邁進していく中で羽柴姓に復し、名を秀次に改めた。秀吉の実子・鶴松が亡くなって世継ぎが居なくなったことから、改めて秀吉の養嗣子に迎えられた。そして秀吉が唐入りに専念するため、日の本を任せると云うことで関白職が譲られ、正式に豊臣家の家督を継承するに至った。しかし豊臣秀頼が誕生すると、文禄4(1595)年に秀次は強制的に出家させられて高野山に蟄居となり、のちに切腹の沙汰が下った[af]この沙汰に至った原因として諸説あるが現在でも不明である。。秀次の首級は三条河原で晒首となった上に、妻子を含む彼の一族や重臣ら郎党も悉く処刑・処分された。享年28。

このあとは秀次の家老・木村重茲《キムラ・シゲコレ》[ag]豊臣秀頼の小姓を務めた木村重成は実子。や前野舞兵庫忠康ら若江八人衆[ah]秀次に仕えた家臣団の中でも腕利きの勇士らの総称。人選したのは秀吉。が率いる秀次先衆の陣場跡へ。
こちらは、その途中に秀次の陣場跡があった尾根を下から見上げたところ。道路から比高25mほど

荻窪丘陵で最も高い場所に秀次が本陣を置いたようだ

秀次の陣場跡を見上げたところ

植物公園がある荻窪丘陵に沿って東へ走る道路を歩いているとT字路が出現するが、この上が秀次先衆の陣場跡。その実は畑(私有地)だった:

カーブミラーの上は畑(入口は左手に進んだところ)

目印のT字路

この辺に秀次の家老・木村重茲や若江八人衆らが布陣した

羽柴秀次先衆の陣場跡

秀次先衆の陣場跡とされる場所からの眺め(パノラマ)がこちら。正面は惣構の荻窪口方面:

ここからは惣構の荻窪口方面がはるか下に見えたが距離としてはかなり遠い感じ

秀次先衆の陣場跡からの眺め(パノラマ)

その眺めのうち右手前の杜は山内一豊の陣場跡で、正面下に見える久野口跡のさらに奥には徳川勢の陣場跡が見えた:

徳川勢の陣場跡の他、豊臣勢の陣場跡が見えた

左手の眺め

秀次麾下の武将らの陣場跡が見えた

右手の眺め

道路へ戻り正面にある私有地の奥は荻窪丘陵の一部で、そこに一柳直盛が布陣した:

道路沿い左手にある私有地の裏山的な場所も荻窪丘陵の一部

目印の民家

正面の稜線は荻窪丘陵の一部で、その丘陵上が陣場跡

一柳直盛の陣場跡

直盛が本陣を置いた場所も荻窪丘陵上であり、その先には羽柴秀次や黒田官兵衛、蒲生氏郷らの陣場跡が連なっていた。

一柳直盛は、山中城攻略で討ち死にした直末の弟。兄の直末は若くして秀吉の黄母衣衆《キボロシュウ》[ai]秀吉の馬廻から選抜された勇士で、いわゆる親衛隊的な集団。の一人であったことから秀吉からの信頼が篤かったと云う。はじめ美濃国の斎藤義龍の配下であったがのちに信長に臣従した。その後、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に仕え、天正7(1579)年の三木城攻め、天正9(1581)年の鳥取城攻めに参陣した。さらに天正11(1583)年には賤ヶ岳の戦いで弟の直盛と共に軍奉行を務めた。天正13(1585)年に秀吉の甥である秀次が近江八幡43万石を賜った際は、田中吉政、堀尾吉晴、中村一氏、そして山内一豊らと共に秀次の付家老になった。山中城攻めでは激しく抵抗してきた三の丸櫓門を攻めていたが、櫓上から北條方の間宮康俊《マミヤ・ヤストシ》が指揮して鉄砲をつるべ撃ちしている中、自ら先頭に立って寄せるも銃弾を受けて討死にした。享年45。
直末の討死を黒田官兵衛から知らされた秀吉は「これで関東を得る喜びも失くなってしまった」と嘆き、三日間ほとんど口をきかなかったと云う。

直末の討ち死で動揺した一柳勢を取りまとめて奮戦したのが直盛である。引き続き、小田原城惣構の攻囲軍にも参陣し、この時の功で尾張国黒田城3万石を拝領した。その後は羽柴秀次に属して奉行として検地に携わったと云う。秀次の切腹騒動ではお咎めは受けず。秀吉死後の関ヶ原の戦いでは東軍に与し岐阜城攻撃に参陣し、のちに伊勢国神戸に加増転封となった。嘉永13(1636)年にはさらに加増されて伊予国西条へ転封となったが、転封先に赴く中、大坂にて病没した。享年73。

ここから先は荻窪丘陵以外の場所に布陣した諸将らの陣場跡を巡ってきた。

まずは秀次先衆らの陣場跡の前に本陣を置いた山内一豊:

竹林には土居のようなものが残っていたが後世の造物だろう

山内一豊の陣場跡

山内一豊は、信長の命で木下藤吉郎に仕官し、姉川の戦いでは自ら手負いとなるも敵を討ち取るなどの功をあげた。その後は秀吉の直臣となって中国地方計略に加わり三木城攻め、鳥取城攻め、備中高松城攻めなどに参陣した。天正13(1585)年に秀吉の甥である秀次が近江八幡43万石を賜った際は、田中吉政、堀尾吉晴、中村一氏、そして一柳直末らと共に秀次の付家老になった。この小田原仕置のあと、織田信雄の改易に伴って秀次が尾張国と伊勢国で加増されると、一豊も遠江国掛川を拝領し掛川城を改修して近世城郭とした。秀次の切腹騒動時は処分されず。秀吉死後の関ヶ原の戦いでは家康に従って會津上杉氏討伐に参陣した。石田治部が挙兵すると、下野国小山で軍議が行われたが、その際に東海道上にある居城の掛川城を提供することで東軍に与する。戦後、土佐一国20万石を拝領した。土佐の大高坂山城跡に新しい居城・高知城を築城し、城下を整備した。慶長10(1605)年に死去。享年61。

山内一豊の陣場跡を過ぎると、それまで杜だったのが一転して視界が広がる場所に至るが、そこからは荻窪口越しに小田原城惣構の本丸跡を望むことができた:

現在、正面に見えるのが関東学院大学・小田原キャンパスで、その右手奥が本丸跡

小田原城惣構の本丸跡を一望する(拡大版)

佐伯眼科クリニックのさらに奥が本丸跡(小田原高校)の敷地

本丸方面

また、この直下には国道R271(小田原厚木道路)が走っており、それを挟んで荻窪口に対抗していたのが堀尾吉晴である:

この下に見える畑が堀尾吉晴の本陣跡

堀尾吉晴の地場跡

堀尾吉晴は信長の命で木下藤吉郎に仕官し、従軍した多くの合戦で秀吉を助けた。本䏻寺の変後も秀吉に従って賤ヶ岳の戦い、佐々成政征伐に参陣。天正13(1585)年に秀吉の甥である秀次が近江八幡43万石を賜った際は、田中吉政、中村一氏、一柳直末、そして山内一豊らと共に秀次の付家老になった。この小田原征伐後は家康の旧領である遠江国浜松城主に封じられた。秀次の切腹騒動時は処分されず。秀吉死後は家康に接近し、関ヶ原の戦直前に隠居して次男の堀尾忠氏に家督を譲った。家康が會津上杉氏討伐軍をおこすと忠氏のみ従軍し、自らは隠居地の越前へ帰国するが、その途の三河国で刈谷城主・水野忠重《ミズノ・タダシゲ》の刺殺事件に遭遇し自らも左頬に手傷を負ったが、犯人である加賀井重望《カガノイ・シゲモチ》を討つことができた。これ事件により関ヶ原の戦には参陣できず、代わりに出陣した忠氏が戦功を挙げて出雲富田に加増転封された。慶長9(1604)年に忠氏が早逝したため家督は孫の忠晴が継ぐが、幼年のため後見役を務めた。慶長16(1611)年に伯耆国松江城を築城して居城としたが、間もなく死去した。享年69。

このあとは道形に進んでいくと再び秀次の陣場跡がある辻村植物公園(太陽の広場)に戻ってくるので、そのまま下って南(水之尾毘沙門天)方面へ移動する。

これが、Forest Bike がある尾根を断ち切るように敷かれた道路とT字路:

左手奥が中村一氏の陣場跡、右上が Forest Bike の敷地

目印のT字路

このT字路を入ってすぐ左手に大きな丘陵があるが、そこが中村一氏の陣場跡:

往時は道路はなく、左手と右手の丘陵は尾根続きだった

中村一氏の陣場跡

中村一氏も信長の命で木下藤吉郎に仕官し、石山合戦や本䏻寺変後の山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げ、和泉国岸和田城主を拝領した。天正12(1584)年には紀州根来州や本願寺残党らの紀州勢と緊張状態が極限に達し、岸和田城下で紀州勢の猛攻を受けたが、劣勢ながら岸和田城を守り抜き、翌年に始まった秀吉による紀州征伐を勝利に導いた。同年に秀吉の甥である秀次が近江八幡43万石を賜った際は、田中吉政、一柳直末、山内一豊、そして堀尾吉晴らと共に秀次の付家老になった。この小田原征伐後は家康の旧領である駿河国府中に加増転封され、のちに駿河一国を拝領した。秀次の切腹騒動時は処分されず。秀吉死後は家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、合戦前に急死した。享年不明。
関ヶ原の戦いには家督を継いだ一忠《カズタダ》が参陣し、戦功により伯耆国米子城を拝領したが、その数年後には一忠が急死し、中村家は無嗣断絶で改易となった。

一氏の陣場跡を眺めたあと、さらに南下していくとT字路にぶつかるが、その先に見える斜面が織田信包の陣場跡である。ただしバス停近くから見下ろすような位置で、距離的にもちょっと遠い私有地である。:

伊豆箱根登山バスの「桜沢」停留所

目印のバス停

斜面にある用水池あたりをバス停近くから眺めた

織田信包の陣場跡

織田信包は信長の弟で、通称は三十郎。信長に従って越前一向一揆鎮圧や紀州征伐に参陣し、のちに信長の嫡男・信忠の補佐役となる。本䏻寺の変後は秀吉に従い、伊勢国津城を拝領した。そして甥の信孝や織田家重臣の柴田勝家や滝川一益らと戦った。ここ小田原仕置では小田原城惣構に籠もる北條氏政・氏直の助命を嘆願したことが秀吉の怒りに触れ、のちに改易された。改易後は剃髪して京の慈雲院に隠棲した。のちに許されて秀吉の御伽衆の一人となった。秀吉死後の関ヶ原の戦いでは西軍に与して丹後田辺城攻めに参陣したが戦後は特に罪を問われず。その後は豊臣秀頼を補佐するために大坂城に入城していたが、慶長19(1614)年の大坂冬の陣直前に急死した。享年72。

バス停沿いの道を東(小田原厚木道路)方面へ少し下りていくと、こちらも眺めるだけであるが、宇喜多先衆の陣場跡がある。位置的には信包の陣場跡前にある小高い場所:

戸川・岡・花房ら宇喜多家でも強者らが布陣していた

宇喜多先衆の陣場跡

ここには戸川氏、岡氏、花房氏といった、先君の宇喜多直家が育て鍛えた優秀な家臣団が多く布陣していた。その一人、戸川肥後守達安《トガワ・ヒゴノカミ・ミチヤス》の父は宇喜多家の筆頭家老である戸川秀安。達安は初陣で毛利家の小早川隆景の軍勢を撃破するほどの猛将であるが、ただの猪武者ではなく武略と知略を兼ね備えた勇士である。その後も秀家に従って小牧・長久手の戦い、紀州仕置、四国・九州征伐、そして小田原仕置に参陣した。文禄・慶長の役では渡海し、碧蹄館の戦いや晋州《チンジュ》城攻防戦で大いに活躍し戦功を挙げた。しかし、のちに主君・秀家と対立、慶長5(1600)年に御家騒動が起こり、家康の仲介により宇喜多家を退去して家康の家臣となった。関ヶ原の戦いでは東軍に与して、石田治部少輔の軍師である島左近清興《シマ・サコン・キヨオキ》を討ち取ったと云う。その後は徳川家臣として重用された。嘉永4(1628)年に死去。享年62。

こちらは関白秀吉が本陣を置いた石垣山一夜城方面の眺め:

関白秀吉が本陣を置いた石垣山城跡の遠景

石垣山一夜城跡の遠景

このあとは国道R271(小田原厚木道路)を渡り、私有地のため立入禁止ではあるが、これまでの陣場巡りで何度か遠景を眺めてきた富士山陣城跡へ行ってみることにした。
こちらは先日巡ってきた堀秀政の陣場跡から眺めた際の富士山陣城跡:

石垣山から早川を挟んで向かいにある高台は北條勢の砦だったが忠興が奪って陣場とした

富士山陣城跡(拡大版)

まずは小田原厚木道路の風祭トンネルを上を下りて陣城西側へ。正面に聳える鉄塔は NTT DoCoMo の設備で、ちょうど陣城跡の真西に建っていた:

この下は小田原厚木道路の風祭トンネル

富士山陣城跡

陣城西側から惣構本丸方面の眺めは良かった:

ちょうど小田原城 三の丸外郭新堀土塁なる遺構あたり

惣構本丸跡方面の眺め

この背後に小田原高校が建つ本丸跡がある

三の丸外郭新堀土塁

そして陣城跡の背後に登り口など無いものか、ひとまず鉄塔が建っている敷地まで登ってみたが金網が立っていて、当然ながら登り口なんてのも無かった :$

と云うことで国道R1まで下りてぐるりと回り込むように陣城跡入口とされる場所まで行ってみることにした。

R1 から HILS 富士山と呼ばれる小田原でも高級住宅街を抜けていく。結構な上り坂だった:

国道R1から結構な上り坂を登る必要あり

HILS富士山界隈

すると「通称・富士山砦」なる案内板を発見した。もしかしたら立ち入りできるかも?って期待が:

富士山愛山会なる団体による案内図

「通称・富士山砦」

これもかなりの斜度を持つ坂だった

私道

ひたすら坂道を登っていった先に陣城跡入口と思われる場所に到達したが、しっかりと「立入禁止〜私有地につき許可なき者の立入りを禁ず」という警告メッセージがあった。ロープがたるんで下に落ちていたが :(

(この状態だと当然ながら無断で侵入した奴輩が居るだろう)

立入禁止のメッセージ

この先は私有地のため立入禁止であるが、いくつか足跡が

登城道(?)

と云うことで富士山陣城跡攻めは諦めることにして、延べ5日間にわたる小田原城攻囲軍の陣場跡巡りは終了。

See Also小田原城攻囲戦 − 豊臣勢陣場跡(4) (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 奇しくも昌幸は上洛中であり、家臣の鈴木主水重則《スズキ・モンド・シゲノリ》が名胡桃城の城代を務めていたが、偽の書状で城外に出た後に乗っ取られたと云う。
b 「関白太政大臣《カンパク・ダイジョウダイジン》」のことで、天皇を補佐する朝廷の最高位。常設の職掌《ショクショウ》ではない。
c 秀吉が大名間の私戦を禁じた法令で、小田原北條氏のみならず奥州の伊達氏や蘆名氏、常陸の佐竹氏らに対するものを含めるもの。
d 秀吉は後陽成天皇《ゴヨウゼイ・テンノウ》から「一天下之儀」として裁定を委ねられていたと云う。
e 兵力や参加した大名・武将には諸説あり。
f 八年前に石垣山城跡を攻めた際に参詣していたが、墓所が間違っていた 😥 ので改めてと云うことで。
g 若神子《わかみこ》対陣とも。この時、御坂峠《みさかとうげ》附近で北條氏忠と鳥居元忠の戦闘があった(黒駒合戦)。
h この取り決めがのちに眞田氏との対立を生み、さらには沼田割譲後の小田原北條氏による名胡桃城奪取、そして秀吉による小田原仕置へとつながっていく。
i 家康は三男・長丸(のちの秀忠)を人質として大坂に送っている。
j 現在の静岡県長泉町長窪。静岡県沼津市の北あたり。
k 所要時間は10分ほどで片道大人220円(当時)。
l 現在は道路によって暗渠化しているらしい。
m これは簡単な話ではなかった。なぜならば武田家に人質になっていた正妻と弟らが処刑されてしまったため。
n 現代は「騎西城」と記すのが多数となっている。
o 石川数正が豊臣家に出奔した事件後に、徳川家の軍装を甲斐武田家の軍装に切替えた際、武田家の勇将・山縣昌景の旧臣らを多く継承し朱色の兵装にしたことから。
p 家康の家老であり、上杉謙信や武田信玄にも認められた剛勇の士。
q この時代に「羽柴秀勝」が複数人いるが、こちらは秀吉の甥で、のちに養子となり丹波中納言と呼ばれた小吉秀勝のこと。
r 所要時間は20分ほどで片道220円(当時)。
s 世に云う「上杉禅秀《ウエスギ・ゼンシュウ》の乱」。最後は室町幕府4代将軍・義時の援軍により追い詰められた禅秀は鶴岡八幡宮で自刃した。禅秀は関東上杉四家の一つ犬懸《いぬがけ》家の筋。
t この時代に「羽柴秀勝」を名乗る人物は三人おり、他に羽柴秀吉の初の息子で幼年で早逝した秀勝、そして織田信長の四男で、のちに秀吉の養嗣子になった秀勝がいる。
u 輝政の正室は中川清秀の娘・糸姫なので、氏直と死別して再嫁の督姫は継室《ケイシツ》となる。
v もとは相模国土肥郷の小早川村に居を構えていた土肥実平《ドイ・サネヒラ》の子孫が吉備三ヶ国(備前・備中・備後)の守護職を拝領し、この地でも小早川姓を名乗っていた。
w 義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。
x 天正10(1582)年の本䏻寺の変後に元春が隠居し、元長が家督を継いでいた。元長が死去する前に弟の広家(経信《ツネノブ》)を後継に推薦し、毛利輝元や小早川隆景の同意を得て家督継承が行われたと云う。
y 他に小野鎮幸、本多忠勝、島津忠恒、後藤基次、直江兼続、飯田覚兵衛。
z 自分も4年前に林泉寺で参詣した
aa 箱根山は火山が噴火した後に圧力が低下して山頂部が陥没しカルデラができるというサイクルを繰り返すことで外輪が三重に形成された。
ab 田畑やオフロードコースを含む。
ac 所要時間は20分ほどで片道大人300円(当時)。
ad 但し、往時の秀家は幼少だったので叔父である宇喜多忠家が代理で軍を率いた。
ae その都度、その家の名跡を継ぐために養子となった。
af この沙汰に至った原因として諸説あるが現在でも不明である。
ag 豊臣秀頼の小姓を務めた木村重成は実子。
ah 秀次に仕えた家臣団の中でも腕利きの勇士らの総称。人選したのは秀吉。
ai 秀吉の馬廻から選抜された勇士で、いわゆる親衛隊的な集団。