自らは桓武平氏伊勢氏の流れをくむと称した相模国の小田原北條氏[a]他に後北條(略字だと北条)氏、または相模北條(北条)氏と呼ばれることがあるが、本稿では家系には略字を使わずに「小田原北條氏」と綴る。の家祖で初代当主である伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》に始まり、その嫡子で二代目の北條氏綱《ホウジョウ・ウジツナ》、三代目は戦国の世で非凡な才能を発揮した「相模の獅子」こと北條氏康、また彼の次男で小田原北條氏の勢力を最大版図へと押し上げた北條氏政が四代目、そして最後の当主である北條氏直《ホウジョウ・ウジナオ》は日の本統一の野望を担いで西国からやってきた関白秀吉に敗れて小田原北條氏の名跡を捨てた。現代の世では彼らのことを、江戸時代に仮名草紙《カナゾウシ》[b]仮名交じりで著された散文文芸の総称。として著された『北條五代記』に倣って小田原北條五代と呼ぶ[c]神奈川県小田原市では昭和39(1964)年から毎年5月に「北條五代祭り」と呼ばれる武者行列をメインとしたパレードを開催している。。この五代の供養塔が、神奈川県は足柄下郡箱根湯本《アシガラシモグン・ハコネユモト》の金湯山・早雲寺にある。この寺院は天正18(1590)年の小田原仕置で焼失し、小田原北條氏滅亡後は荒廃したが江戸時代初めに幕府によって復興した。供養塔は氏康の四男・氏規《ウジノリ》の子孫が建立したものと伝わる。
今年は令和3(2021)年の立冬の候を過ぎた週末、ちょっとした用事で箱根湯本を訪れた際に小田原北條五代の供養塔がある早雲寺を参拝してきた。実のところ、だいぶ前から寺の存在は知っていたのだが、供養塔については限定公開[d]例えば年一回の文化の日ウィークとか小田原市主催の「北條五代祭り」に併せてとか。だとずっと勘違いしていて訪問する時期を逸していた。ただ、どうやら公開が限定されているのは寺が所蔵する寺宝[e]国の重要文化財とか神奈川県指定文化財、さらには箱根町指定文化財に該当する史料。だけだったようで、実はこれに先立って神奈川県立歴史博物館で開催されていた特別展『開基500年記念 早雲寺-戦国大名北条氏の遺産と系譜-』を鑑賞した時にそれを知った。この特別展には、当時の関東圏の事情[f]言わずもがな。当時の関東圏は COVID-19 感染拡大で今年二度目の緊急事態宣言中だった。を考慮したものか不明だが、この年の公開が中止となった早雲寺の寺宝が多数展示されていた。
また、これに先立って小田原市内にある北條氏政・氏照公の墓所へも七年ぶりに参拝してきた。
そして小田原北條氏の長老であり、さらに武人でありながら文化人でもあった北條幻庵宗哲公の屋敷跡とされる場所にも足を運んできた。
金湯山・早雲寺
臨済宗大徳寺派である金湯山早雲寺《キンユサン・ソウウンジ》は伊勢宗瑞を開基とし、大永元(1521)年に二代当主の氏綱が都の紫野大徳寺第八十三世・以天宗淸《イテン・ソウセイ》を招聘して創建した。以来、小田原北條氏一門の香火所《コウカジョ》として現在に至る。御本尊は釈迦如来《シャカニョライ》、文殊菩薩《モンジュボサツ》、そして普賢菩薩《フケンボサツ》の釈迦三尊。天正18(1590)年に関白秀吉の小田原仕置の際に接収されて秀吉の本陣が置かれた。その後、石垣山城が完成すると境内一帯が焼き払われてのち荒廃した。そして江戸時代の寛永4(1627)年に再建、慶安元(1648)年には幕府より朱印状を受けて復興した。
早雲寺へは箱根湯本駅東口を出て、あじさい橋を渡り箱根町役場と観光協会の間にある近道[g]東海道を通るルートよりは時間的には早いかも知れないが Up & Down な坂があった。を使った。
こちらは東海道(箱根旧街道)沿いに建つ薬医門形式の惣門《ソウモン》(町指定文化財)。もちろん屋根の棟には小田原北條氏の三つ鱗紋[h]北条鱗紋とも。があしらわれていた:
惣門をくぐり石畳を進んだ先には「早雲禅寺」の碑と中門が建っている:
中門をくぐって境内に入ると左手に本堂(方丈)、右手に庫裏《クリ》が建っている:
この庫裏にて、これまで年に一度の文化の日ウィークに寺宝が公開されていたらしいが、当時は COVID-19 蔓延により中止[i]その代わりに神奈川県立博物館にて特別展が催されていた。。庫裏の玄関は唐破風が設けられており、その鬼瓦にも三つ鱗紋があしらわれてた:
庫裏の奥には江戸後期に建てられた鐘楼(町指定文化財)がある。また梵鐘(県指定文化財)は元徳2(1330)年に鋳造され、小田原仕置で秀吉が石垣山城で使用したものらしい:
こちらは本堂[j]方丈または客殿とも。(町指定重要文化財)。訪問当時は、猿によって堂内が荒らされる被害が出ているため大戸は閉められたままだったが、堂内には釈迦三尊像が安置され狩野派作の龍と虎の襖絵が巡らされているらしい[k]通常は寺宝の特別公開時にしか拝見できないが、自分は先の特別展で写真だけ鑑賞してきた 。:
現在の本堂は江戸時代後期の建立。屋根は、寛永4(1627)年の再建時は寄棟造り《ヨセムネヅクリ》で茅葺きだったが、現在は銅瓦葺き。
そして本堂脇を通って裏にある史跡庭園へ:
こちらは小田原北條氏一門衆で二代当主・氏綱の弟・北條幻庵宗哲《ホウジョウ・ゲンアン・ソウテツ》作と伝わる史跡庭園「枯山水香爐峯《カレサンスイ・カロウホウ》[l]中国江西省九江県西南にある廬山《ロザン》の北峰のこと。山頂に突き出た奇岩の形が香炉に似ていることこから。」:
小田原北條五代の墓所入口は本堂のさらに奥にあり、石段を登った先に供養塔が建っていた:
石垣山城が完成するまで関白秀吉が本陣を置いたとされる早雲寺は、往時は関東屈指の禅刹《ゼンサツ》[m]禅宗の寺。禅寺。として多くの伽藍や塔頭《タッチュウ》を持ちその威容を誇っていたとされ、この寺を創建した二代・氏綱は早雲寺境内の春松院に、そして三代・氏康は大聖院にそれぞれ墓があったと云う。しかし石垣山城が完成したあと、豊臣勢が境内に火を放ったため伽藍や塔頭は尽く灰燼に帰し、氏綱らの墓の位置は不明となった。
小田原仕置のあと小田原北條氏の嫡流は断絶したが、一門衆で伊豆韮山城主であった北條氏規は秀吉に許されて河内狭山城主となった。これが狭山北條氏の家柄となり、同じく一門衆で相模玉縄城主であった北條氏勝《ホウジョウ・ウジカツ》[n]御一家衆の一人である北條氏繁の次男。「地黄八幡」の勇将として知られる北條綱成の孫。の玉縄北條氏と共に江戸時代を通じて明治維新まで存続した。
ここにある小田原北條五代の墓は、狭山北條氏五代当主で狭山藩主・北條氏治《ほうじょう・うじはる》が寛文12(1672)年に供養塔として建立したもので、正面右から初代・伊勢宗瑞(北條早雲)、二代・北條氏綱、三代・北條氏康、四代・北條氏政、そして五代・北條氏直のもの。
伊勢宗瑞(北條早雲)
俗名は伊勢新九郎盛時《イセ・シンクロウ・モリトキ》、その後に出家して早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》を名乗る。戦国時代初期を代表する武将の一人と知られ、現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれているが「北條」の姓は二代・氏綱の時代から。生年は未詳[o]従来説では永享4(1432)年で享年は88だが、新説では康正2(1456)年で享年は64。で、没年は永正16(1519)年。
宗瑞は、室町幕府の幕臣であった伊勢氏庶流[p]備中国荏原荘(現在の岡山県井原市)と云う説が有力。の一人で、応仁の乱が勃発した頃から駿河国守護の今川氏との関係が深く[q]宗瑞の姉または妹が、今川義元の祖父にあたる今川義忠《イマガワ・ヨシタダ》の正室(北川殿)だった。、のちに伊豆国堀越《イズノクニ・ホリゴエ》[r]現在の静岡県伊豆の国市。を拠点とした堀越公方《ホリコシクボウ》の足利政知《アシカガ・マサトモ》死後に起こった兄弟争い[s]長男の茶々丸《チャチャマル》が、政知の嫡男で三男の潤童子《ジュンドウジ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。鎮定を将軍から依頼されて見事に収め、韮山城を拠点として伊豆国の統治を始めた。
その後は関東管領の山内・扇ヶ谷の両上杉氏の間に起こった抗争(長享の乱)を利用して相模国に積極的に介入し小田原城を奪取して嫡男・氏綱の居城として相模国の経略を推し進めた他に、房総の上総・下総国へも手を伸ばした。
そして敵であった扇ヶ谷上杉氏と和睦が成立したのち、宗瑞は永正15(1518)年頃まで伊勢氏当主として活動するも、それ以降は家督を譲られた氏綱が当主となり、伊勢氏の本拠地は小田原城に移ったと考えられている。
韮山城で亡くなった宗瑞の遺骸は伊豆国修善寺へ葬送されて荼毘に付され、遺言により相模国湯本に菩提寺として早雲寺が氏綱により創建され埋葬されたと云う。宗瑞は一代で伊豆・相模二ヵ国の戦国大名にのし上がった「天下の英物」であった。
北條氏綱
父・宗瑞から家督を譲られた伊勢新九郎氏綱《イセ・シンクロウ・ウジツナ》は長享元(1487)年の生まれで、当時は未だ宗瑞が駿河今川氏の姻戚にあったことから、氏綱の名は従兄弟であり主君でもある今川氏親《イマガワ・ウジチカ》から偏諱を受けたものと考えられている。没年は天文10(1541)年で、享年55。遺骸は早雲寺で荼毘に付されて埋葬された。
父が亡くなったあとの混乱を収め後継者として領国内の政策が一段落すると、次は周辺地域の支配力を大きくするため有力寺社の造営事業に着手した。拠点を伊豆国から相模国に移しているものの、関東の諸勢力からは伊勢氏はあくまでも他国からやってきた侵略者のように扱われていた上に、ここ相模国には正当な国主である守護の扇ヶ谷上杉氏が存在していた。このため氏綱の政治的立場もまた他勢力からは容易には認めてもらえるような位置にはなかった。そこで氏綱は、実質的な相模国の主としての立場を獲得するため、姓を伊勢から北條に改称した。その背景には、鎌倉時代に相模国の正当な支配者として認められていた「執権北條氏」に倣ったという説がある。扇ヶ谷上杉氏に付けられた名跡「関東の副将軍(関東管領)」に対抗するため、それよりも前に副将軍(執権)であった北條氏の名跡を継承することで国主たる正当性の確立を図ったとされる[t]加えて朝廷より従五位下《ジュウゴノゲ》と左京大夫《サキョウタユウ》の官位を受け、幕府の御相伴衆《ゴショウバン・シュウ》に列せられもした。。これにより周辺近隣の戦国大名・今川氏、武田氏、そして上杉氏らと対等な家格や身分を手に入れるに至った。
次に駿河今川氏の後ろ盾を利用して武蔵国への侵攻を開始した。目下の敵は扇ヶ谷上杉氏らの諸勢力とその支配地である。小机城や小山田城を落とし、津久井城の内藤氏、武蔵滝山城の大石氏[u]現在の東京都八王子市から府中市あたり。、勝沼城の三田氏の他、高幡城の平山氏や小宮氏[v]現在の東京都多摩郡あたり。らを服属させた。一方、扇ヶ谷上杉朝興《オウギガヤツ・ウエスギ・トモオキ》は今川・北條両氏と対立関係にあった甲斐の武田信虎と結び河越城を拠点に対抗した。氏綱は多波川(多摩川)を越えて江戸城を攻めると、朝興の重臣で江戸城代であった太田資高《オオタ・スケタカ》[w]祖父は稀代の名将・太田道灌で、祖父を謀殺した扇ヶ谷上杉氏に対する恨みや不満があったとされる。が裏切って氏綱に寝返った。江戸城は利根川・荒川・入間川が合流する一角にあり、まさに関東の流通の拠点であった上に、武蔵国北部や下総国へ侵攻するための軍事の拠点ともなった。こののち扇ヶ谷上杉氏の拠点である河越城を攻略するに至る。
領国が拡大するにしたがい小田原北條氏の勢力に抗する勢力も多くなったため、氏綱は政治的な動きも活発化させた。小田原北條氏は古河公方《コガ・クボウ》の勢力につき、娘(のちの芳春院殿《ホウシュンインデン》)を公方・足利晴氏《アシカガ・ハルウジ》の側室にすることで、一応は氏綱も足利家の御一家衆となり、関東公方足利氏に次ぐ身分的地位を手に入れた上に関東管領職に補任されるに至った[x]従って、この時点で関東管領は二人存在していたことになる。。これにより関東の諸勢力の中では事実上の副将軍として他の領主らよりも一段高い地位に昇りつめた。
氏綱の生涯で最後にして最大の事業は鎌倉鶴岡八幡宮の造営である。天文元(1532)年に始まった工事は氏綱没後の天文13(1544)年に完成した。鶴岡八幡宮は征夷大将軍・源頼朝以来の武門の守護神であり、本来ならば関東公方・足利氏、または関東管領・山内上杉氏、あるいは相模国守護・扇ヶ谷上杉氏らが造営を行うべきであるが、いずれもそのような財力は無く、互いの足を引っ張るような勢力争いにやっきになっていたのである。氏綱はそのような状況を的確に判断して関東覇権に邁進した。
氏綱が死去する前に嫡男の氏康に向けて『五箇条の御書置』を送った[y]氏綱もまた父・宗瑞から廿一箇条《ニジュウイッカジョウ》の遺訓を受けたと伝わる。とされるが、その一つに:
一、手際なる合戦にて夥敷き勝利を得る時は、驕りの心出で来り、敵を侮り或ひは不行儀なる事必ずある事なり。 慎むべし。 此の如く候て滅亡の家、古より多し。 此の心万事に渉る。 勝つて冑の緒を締よといふ古語、忘れ給ふべからず。
とある[z]したがって、この名言を最初に使ったのは氏綱ではないことになる。。
北條氏康
生年は永正12(1515)年で、幼名は伊勢伊豆千代丸。元服して北條新九郎氏康に改めた。初陣は16歳の時で、享保3(1530)年に河越城を拠点としていた扇ヶ谷上杉朝興の重臣で武蔵松山城主の難波田憲重《ナンバダ・ノリシゲ》らの軍勢を武蔵府中[aa]現在の東京都府中市から調布市あたり。で迎撃し、武蔵小沢原[ab]場所は諸説あり、現在の東京都稲城市または神奈川県川崎市麻生区。あたりで退けたと云う。没年は元亀2(1571)年で、享年57。最後は「上杉謙信との同盟を破棄し、武田信玄と同盟を結べ」と遺した[ac]自分の息子を謙信の養子にしたものの最後まで謙信を信用していなかった。。
氏康の生涯で最大の危機をあげるとすると、天文15(1546)年の河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》とそれに至る氏康自身の決断であろう。これには複数の構図が含まれている。一つは「小田原北條氏 vs 関東管領・山内上杉憲政[ad]往時は氏康も父・氏綱から譲られた関東管領職を自称し、憲政もまた関東管領職だったので事実上、関東管領は二人いた事になる。+相模国守護・扇ヶ谷上杉朝定+古河公方・足利晴氏の連合軍」と云う構図。一説によると連合軍には八万もの兵力が集結したと云う。かなりの誇張した数であることは否めないが、河越城に籠もる小田原北條勢の数倍の動員数であったことは確からしい。この構図を作りあげた関東管領の上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》は、さらに氏康と駿河の今川義元との間で国境紛争が燻っている[ae]いわゆる河東の乱《カトウノラン》である。ことを利用して「小田原北條氏 vs 駿河守護・今川氏」と云う構図も作り上げた。ここで憲政が冴えていたのは、この二つの構図を同時にお膳立てしたことである。こうなると氏康は東西挟撃に同時に対応しなければならなくなる。この好機を逃すまいと憲政は、氏康が小田原の喉元にあたる西(河東郡)へ出陣したことを確認するとすぐさま河越城へ進軍した。そして氏康率いる本隊が来ないのであればと、憲政率いる包囲軍に参陣する関東諸士が日を追う毎に多くなった。
この最大の危機に対して氏康の対応は素早かった。甲斐守護・武田晴信に義元との仲介を願い出た[af]信濃侵攻を計画していた晴信にしてみれば氏康が東海道に釘付けになると上杉憲政らが横やりしかねなかった。憲政と親しかった父・信虎を晴信が追放し上杉氏との関係が悪化していたため。。義元に有利な領地割譲を申し出たのである。義元にしてみれば領土をくれるなら何も異存はない。ほどなく矢留[ag]一時休戦すること。に至り、これにより後顧の憂いが無くなった氏康に本隊を東へと反転するチャンスが舞い込んできた。しかし氏康はすぐさま河越城の後詰には向かえなかった。なんと妹の婿である古河公方・足利晴氏が氏康に反旗を翻し、かって敵対していた憲政の包囲軍に参陣したのである。ここで、父・氏綱が重んじていた公方・晴氏に対する義を守るべきか氏康は悩んだ。一方の連合軍側も氏康が後詰めに来るとの報せをうけて、「敵の敵は味方」の道理で参陣してきた諸勢の足並みが揃わず河越城を一気に落とせずにいた。
河越城主・北條綱成《ホウジョウ・ツナシゲ》は、義父・氏綱の下で氏康と兄弟同然のように育てられた地黄八幡[ah]小田原北條家が擁した五色備えの一つ、黄備えを率いていた綱成の部隊は八幡大菩薩に武運を祈り、朽葉色に染めた塗絹に「八幡」と書いた旗指物を指していたと云う。の猛将である。必ずや氏康率いる後詰が来るものと信じ、寡兵ながら半年間の籠城を耐えぬいていた。
まず氏康は外交交渉でこの問題を解決しようと努めた。かって父・氏綱が公方・晴氏から任じられた関東管領職を返上するという餌を付けたものの解決に至らず、最終的には開城と引き換えに籠城勢の助命を条件に交渉を再開したが、これも拒否された上に籠城勢を撫で斬りにするとの高飛車な返答に、ここまで腰を低くしてきた氏康の堪忍袋の緒が切れた。
決戦を覚悟していた小田原北條勢と、長陣で厭戦気分が漂い「かっては敵同士だった」烏合の衆とでは士気が違いすぎた。夕方近くに河越城南側の砂窪[ai]現在の埼玉県川越市砂久保あたり。で氏康率いる8千が上杉朝定の陣を背後から襲撃、さら城内から綱成が氏康救援のために突撃すると、思わぬ挟撃に圧倒された連合軍は上杉朝定や 難波田憲重の他に3千が討ち死にして敗走した。氏康勢の大勝であった。朝定の居城・武蔵松山城も放棄され、ここに扇ヶ谷上杉氏は滅亡した。
河越夜戦での勝利を機に氏康は山内上杉氏へも好勢をかけ、憲政は居館である平井城から退去し上野白井城に逃れた[aj]こののちに憲政は越後国の長尾景虎を頼ることになる。。また公方・晴氏にも圧力をかけて妹と公方の間に授かったわずか10歳の千代王丸(のちの足利義氏《アシカガ・ヨシウジ》)に家督を譲らせた。ここに氏康の外甥が古河公方を継承するに至った。これ以降、氏康はこの公方を前面に立てながら関東の諸勢力と対峙していくこととなった。
武蔵国の大部分を勢力下においた天文20(1551)年頃に、氏康は駿河今川氏・甲斐武田氏との三国同盟交渉を開始している。そして同23(1554)年に氏康の娘・早川殿が今川義元の嫡子・氏真《ウジザネ》に嫁ぎ、氏康の嫡子・氏政が武田晴信の娘・黄梅院殿を娶って互いに婚姻関係によって結ばれた強固な軍事同盟が成立した。しかし永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間の戦いで討たれたのちは、この同盟関係に綻びが生じ瓦解する。
また小田原北條氏によって駆逐された旧勢力が越後の上杉政虎(のちの上杉謙信)を盟主として大連合を形成し、氏康の属城を落としながら関東を南下、ついに小田原城を包囲するも、からくも大飢饉に味方された上に堅牢を誇る小田原城でなんとか防衛することができた。しかしながら、これ以後も謙信は冬になると越山して氏康の支配地を脅かすことになった。
三国同盟が瓦解したのちは武田信玄とも争うことになり武蔵滝山城攻めや小田原城攻め、そして三増峠合戦などを経験すると「虎」に対抗するには「龍」が必要であるとして、七男・三郎をかっての敵であった上杉謙信の養子として送り込み相越同盟を結んだ。氏康は謙信率いる越後の精兵に大きく期待した。しかし謙信は越中仕置で忙しく、氏康の期待に応えることなく月日が流れるだけだった。
北條氏政
天文7(1538)年に次男として生まれ、幼名は松千代丸。父・氏康には長男で嫡男であった新九郎氏親が居たが天文21(1552)年に亡くなっていたため、兄に代わって嫡男となり元服して新九郎氏政を名乗った。そして永禄2(1559)年、父・氏康が45歳で隠居し、氏政は22歳で家督を譲られた。ただ隠居といっても父・氏康は小田原城本丸の居館にあって「御本城様《ゴホンジョウサマ》」と呼ばれながら小田原北條家を実質的に取り仕切っていた[ak]このような支配を「小田原二屋形《オダワラ・フタヤカタ》」などと呼ぶらしい。。氏政が家中の最高実力者となるのは、元亀2(1571)年に父・氏康が死去してからであり、家督を譲られてから実に12年が経過した氏政34歳の時である。正室は信玄の娘・黄梅院《オオバイイン》。
四代目の氏政が最初に行った外交政策は、弟・三郎景虎がいる越後上杉氏との同盟を破棄し、隣国の駿河を支配する甲斐武田氏との同盟を復活させたことである。父が存命中から相越同盟は有名無実化したものだと認識していたのである。そして天正5(1577)年には氏政の妹が武田勝頼に嫁ぎ、婚姻関係を伴う強固な同盟となった。また信玄の西上作戦には援軍を送り三方ヶ原合戦で織田・徳川勢に勝利した。
相甲同盟の締結により、再び上杉謙信との抗争が展開する。それに伴い常陸佐竹氏や安房里見氏など関東周辺の諸将ら巻き込んで小田原北條氏の勢力図(帰属関係)も変化することとなった。氏政は弟の氏照・氏邦らと共に、積極的に上野・下野・上総・安房などへ勢力を拡大させた。
元亀4(1573)年に信玄が、そして天正6(1578)年には謙信が死去したが、これにより氏政と小田原北條氏の立場も大きく変化した。越後では謙信の跡目争いが勃発し内乱状態となった。氏政は上杉景勝と争う弟・三郎景虎を扶けるべく甲斐の勝頼に春日山城牽制を依頼するが、設楽原の合戦で織田・徳川勢に大敗し国力が著しく低下していた勝頼は景勝方の直江兼続の策にはまり、なんと景勝と和議を結んだ上に妹の菊姫が景勝に嫁いで婚姻同盟が成立した。この同盟締結で初め優位であった三郎景虎勢は劣勢となり、最後は逃亡した鮫ヶ尾城で味方に裏切られて自刃した。この件に加えて上野国の支配権の奪い合いもあって勝頼との関係悪化は決定的となった。
天正7(1579)年に氏政は相甲同盟を破棄、新たに遠江の徳川家康と同盟を結んで勝頼が支配する駿河へ侵攻した。勝頼もまた眞田昌幸に東上野の沼田領へ侵攻させて沼田城を攻略した。
氏政は同盟を結んだ家康を介して織田信長とも関係を築き、のちに従属している。また信長を介して日の本の中央政権にも接触することが出来た。
天正8(1580)年に氏政は嫡子である氏直に軍配団扇《グンバイ・ウチワ》を譲渡して家督を譲った。これ以降は小田原北條氏滅亡までの間、御隠居様と称して家中を主導し、新しい御屋形様となった氏直を支えることになる。氏政43歳の時である。小田原北條氏は代替わりして新しい時代を迎えることになるが、日の本全体もまた大きな時代の変わり目に突入した。
天正18(1590)年、関白秀吉と対決した氏政は敗れて切腹を申し付けられた。享年53。
北條氏直
信玄の娘・黄梅院と氏政の嫡子として永禄5(1562)年に生まれた[al]先に長男が居たが早逝したと云う。。幼名は国王丸。天正8(1580)年に氏政から家督を譲られて新九郎氏直に改め、小田原北條家の五代当主として御屋形様と呼ばれた。ただし実際の主導権は父である御隠居様の氏政が握っていたと云う。
天正10(1582)年、叔父にあたる武田勝頼が信長の甲州征伐の末に甲斐郡内で自刃して武田氏は滅亡した。このとき氏直も駿河の河東領と上野の半分を占有していたが、信長による仕置で甲斐や信濃といった武田氏の遺領は織田領となり、小田原北條氏には全く分配されなかった。むしろ上野の支配権さえも信長に奪われた格好になった[am]一説に、氏政は氏直と信長の娘との婚姻を切望していたため声高には追求しなかったとされる。。
そして同年夏に起こった本䏻寺の変で信長死去の情報が氏直に届くと、一応は関東管領を自称していた信長の重臣・滝川一益に問いただすが、そのやりとりの中で両氏は互いに疑心を抱くことになり、上野国周辺の情勢が不安定なものとなった。氏直がもともと自領であった上野国境へ軍勢の派遣を決定すると一益とは手切れとなり、上野・武蔵国境の神流川《カンナガワ》沿いの金窪・本庄原あたりで両軍が激突した(神流川合戦)。初戦は敗れたものの、続いて氏直と一益の本隊同士が激突すると氏直が大勝し一益らは本国へ撤退した。氏直は滝川勢を追撃し上野・信濃国境の碓氷峠を越えて信濃へ進軍する。
一益が居なくなると同時に信濃に残っていた織田勢も退却または没落し、甲斐・信濃領国における織田の支配はたちまちに崩壊した。にわかに空白地となったこれらの旧領に対し、東信濃へは相模の北條氏直が、北信濃へは越後の上杉景勝が、そして甲斐と南信濃へは遠江の徳川家康がそれぞれ軍勢を進め、まさに草刈場と化した(天正壬午の乱《テンショウジンゴノラン》)。氏直と家康の両者は甲斐国をめぐって対峙し小規模な戦があったものの[an]北條氏忠と鳥居元忠が御坂峠《ミサカ・トウゲ》を越えた黒駒あたりで戦となり元忠が北條勢に勝利した黒駒合戦など。、最終的に両者は和睦に至り、小田原北條氏は上野国、徳川氏は甲斐・信濃両国を領有し、氏直は家康の次女・督姫を正室に迎えて両氏の間で同盟が成立した。
日の本の西半分を手に入れた豊臣秀吉が出した関東惣無事令によって私戦が禁止される中、天正17(1589)年に北條氏邦の家臣・猪俣邦憲《イノマタ・クニノリ》が秀吉方の眞田昌幸が所有する名胡桃城を謀略によって奪取する事件が発生した。氏直は秀吉に弁明するが、父・氏政が秀吉からの上洛命令を拒否したことで交渉は決裂、翌18(1590)年に惣無事令違反を名目に秀吉による小田原仕置が始まった。
氏政と氏直による小田原城籠城は三ヶ月に及んだが、松井田城、鉢形城、そして八王子城といった支城が陥落していく中で、豊臣勢による完全包囲の他、重臣の内応などがあり、ついに氏直は和議を結んで開城を決断、秀吉に降伏した。
氏直は家康の婿であったことから助命されて高野山に流されたが、御隠居様の氏政、その弟の氏照、そして宿老の大道寺政繁《ダイドウジ・マサシゲ》と松田憲秀《マツダ・ノリヒデ》らは戦争責任を追求されて切腹となった。
翌19(1591)年、氏直は赦免されて高野山を下り河内国他に一万石を与えられて大名に復活したものの、年を越すことなく大坂で病死した。享年30。
こちらは墓所の脇に建っていた「大真院殿秀山俊公居士」の戒名を持つ人物の墓:
碑文から、この人物の名は北條善衛門尉氏次(法名は安清)、出身は相模国の小田原、父は北條氏直、母は徳川家康の娘(督姫)とある。この北條氏次なる人物が氏直の子息かどうかは不明で、この墓を建立したのは氏次の子孫らしい。
そして同じ本堂裏で、小田原北條五代の墓所の近くの高台に建っているのが開山堂。ここには早雲寺を開山した紫野大徳寺第八十三世住持《ジュウジ》[ao]寺の長である住職のこと。ちなみに「一休さん」で知られた一休宗純は第四十七世住持。・以天宗清《イテン・ソウセイ》の木像が安置されている:
開山堂前から枯山水香爐峯ごしに眺めた本堂:
最後は早雲寺境内裏手にある早雲公園(早雲寺林):
自然林を主体とした公園で、ここ湯本周辺でしか見ることができないヒメハルゼミの生息地らしい。
早雲寺と北條氏五代の墓所 (フォト集)
【参考情報】
- 早雲寺に建っていた説明板
- 黒田基樹『戦国北条五代』(講談社)
- 新・北条五代記(小田原市公式サイトトップ → 小田原デジタルアーカイブ)
- Wikipedia(北条早雲)
- 後北条氏累代の墓所・早雲寺(「生命と微量元素」講座 → ギャラリー → 寄り道・散歩)
- #早雲寺 年に三日しか授与できない虎の印判御朱印と北条五代菩提寺 [祝!探訪500](隠居音屋KKの「御城印・武将印・御朱印探訪」→ 月別 2019年 → 11月)
- Wikipedia(早雲寺)
- 乃至政彦『謙信越山』(JBpressBOOKS刊)
- 北条氏綱 五箇条の御書置(徒然探訪録 → 月別 2015年01月)
北條氏政・氏照の墓所(TAKE2)
天正18(1590)年3月に始まった関白秀吉による小田原仕置で小田原北條氏が降伏・開城したあと、当主の北條氏直は徳川家康の娘婿であることから助命され、代わりに最高権力者であった北條氏政、御一家衆を代表して北條氏照らが戦争責任を取らされる格好で切腹を命じられた。
氏政と氏照の亡骸は当時この地あった北條氏の氏寺・伝心庵に葬られたが、この寺院が移転して墓だけ永らく放置されたままだった。そして江戸時代の小田原城主・稲葉氏が小田原北條氏追福のため整備するも、大正時代の関東大震災で埋没してしまい一時行方不明となった。しかし、その翌年に地元の有志によって復興され、その場所がJR小田原駅東口近くの繁華街の真中にある(小田原市指定史跡)。この墓地には江戸時代に造られた五輪塔、笠塔婆、型墓碑、石灯籠の他に、氏政・氏照がこの石の上で自害したと伝わる生害石がある。
七年前に初めて小田原城を攻めた際に初めて参拝してきたが、昨年は令和3(2021)年の文化の日に小田原城惣構(一部)を攻めたついでに再び参拝してきた:
関東大震災ののち復興された北條氏政公と氏照公の五輪塔:
生害石と笠塔婆型墓碑《カサトウバ・ガタボヒ》:
墓碑には氏政公と氏照公の戒名がそれぞれ刻まれていた:
「滋雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」
「青霄院殿透岳關公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條陸奥守氏照」
北條氏政・氏照の墓所 (訪問記)
北條氏政・氏照の墓所(2015年) (フォト集)
北條氏政・氏照の墓所(2021年) (フォト集)
【参考情報】
- 墓所に建っていた説明板(小田原市教育委員会)
北條幻庵屋敷跡
昨年は令和3(2021)年の立冬の候を過ぎた週末に、小田原北條氏の祖・伊勢宗瑞の末子で、二代当主・氏綱の弟である北條長綱《ホウジョウ・ナガツナ》(法名は幻庵宗哲)の屋敷跡へ行って来た。なだらかな丘陵地に建つ御廟周辺には遺構は無く、幻庵が作庭したとか云われる池が残るのみである。
幻庵は幼くして僧籍に入って、のちに箱根権現の別当職に就いた。さらに京都へ出て天台宗の総本山の寺院で修学した他、多くの学者や文化人から諸芸を学び、和歌・連歌にも通じた。また僧籍にありながら武士でもあり、兄の氏綱が逝去したあとも当主らの後見人を務めたり、合戦で大将の一人となるなど、単なる宗教者・文化人ではなく、小田原北條氏の軍事行動において一翼を担う武将であった。御一家衆として久野北條氏を継承し、一族の長老的存在として他国にも聞こえがあったと云う。
この日は箱根湯本にある早雲寺を参拝したあと小田原へ向かい、駅東口あたりでお昼を摂って、そのまま駅東口前から伊豆箱根バス・県立諏訪の原公園行に乗って中宿なる停留所で下車[ap]小田原駅から15分ほど。料金は大人220円(当時)。。狭い道路の向かい側に「北條幻庵之墓所」なる標柱が建っているので、そこから屋敷跡へ:
こちらは屋敷跡の眼の前にある幻庵池。幻庵公が作庭した庭園を利用しているらしいが真偽は不明:
こちらが「北条幻庵公御廟」。中には位牌のようなものがあった:
幻庵公の生年は不明[aq]およそ永正年間(1504〜1521)の前半と推測されるが、諸説あり。で、主家が滅びる八ヶ月前の天正17(1589)年、小田原北條氏の盛衰とともに久野の居館で亡くなった。享年97(諸説あり)。
北條幻庵屋敷跡 (フォト集)
【参考情報】
- 北条幻庵屋敷跡に建っていた説明板
- Wikipedia(北条幻庵)
- 黒田基樹『戦国北条家一族辞典』(戎光祥出版)
- 西股総生・松岡進・田嶌貴久美『神奈川中世城郭図鑑』(戎光祥出版)
参照
↑a | 他に後北條(略字だと北条)氏、または相模北條(北条)氏と呼ばれることがあるが、本稿では家系には略字を使わずに「小田原北條氏」と綴る。 |
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↑b | 仮名交じりで著された散文文芸の総称。 |
↑c | 神奈川県小田原市では昭和39(1964)年から毎年5月に「北條五代祭り」と呼ばれる武者行列をメインとしたパレードを開催している。 |
↑d | 例えば年一回の文化の日ウィークとか小田原市主催の「北條五代祭り」に併せてとか。 |
↑e | 国の重要文化財とか神奈川県指定文化財、さらには箱根町指定文化財に該当する史料。 |
↑f | 言わずもがな。当時の関東圏は COVID-19 感染拡大で今年二度目の緊急事態宣言中だった。 |
↑g | 東海道を通るルートよりは時間的には早いかも知れないが Up & Down な坂があった。 |
↑h | 北条鱗紋とも。 |
↑i | その代わりに神奈川県立博物館にて特別展が催されていた。 |
↑j | 方丈または客殿とも。 |
↑k | 通常は寺宝の特別公開時にしか拝見できないが、自分は先の特別展で写真だけ鑑賞してきた 。 |
↑l | 中国江西省九江県西南にある廬山《ロザン》の北峰のこと。山頂に突き出た奇岩の形が香炉に似ていることこから。 |
↑m | 禅宗の寺。禅寺。 |
↑n | 御一家衆の一人である北條氏繁の次男。「地黄八幡」の勇将として知られる北條綱成の孫。 |
↑o | 従来説では永享4(1432)年で享年は88だが、新説では康正2(1456)年で享年は64。 |
↑p | 備中国荏原荘(現在の岡山県井原市)と云う説が有力。 |
↑q | 宗瑞の姉または妹が、今川義元の祖父にあたる今川義忠《イマガワ・ヨシタダ》の正室(北川殿)だった。 |
↑r | 現在の静岡県伊豆の国市。 |
↑s | 長男の茶々丸《チャチャマル》が、政知の嫡男で三男の潤童子《ジュンドウジ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。 |
↑t | 加えて朝廷より従五位下《ジュウゴノゲ》と左京大夫《サキョウタユウ》の官位を受け、幕府の御相伴衆《ゴショウバン・シュウ》に列せられもした。 |
↑u | 現在の東京都八王子市から府中市あたり。 |
↑v | 現在の東京都多摩郡あたり。 |
↑w | 祖父は稀代の名将・太田道灌で、祖父を謀殺した扇ヶ谷上杉氏に対する恨みや不満があったとされる。 |
↑x | 従って、この時点で関東管領は二人存在していたことになる。 |
↑y | 氏綱もまた父・宗瑞から廿一箇条《ニジュウイッカジョウ》の遺訓を受けたと伝わる。 |
↑z | したがって、この名言を最初に使ったのは氏綱ではないことになる。 |
↑aa | 現在の東京都府中市から調布市あたり。 |
↑ab | 場所は諸説あり、現在の東京都稲城市または神奈川県川崎市麻生区。 |
↑ac | 自分の息子を謙信の養子にしたものの最後まで謙信を信用していなかった。 |
↑ad | 往時は氏康も父・氏綱から譲られた関東管領職を自称し、憲政もまた関東管領職だったので事実上、関東管領は二人いた事になる。 |
↑ae | いわゆる河東の乱《カトウノラン》である。 |
↑af | 信濃侵攻を計画していた晴信にしてみれば氏康が東海道に釘付けになると上杉憲政らが横やりしかねなかった。憲政と親しかった父・信虎を晴信が追放し上杉氏との関係が悪化していたため。 |
↑ag | 一時休戦すること。 |
↑ah | 小田原北條家が擁した五色備えの一つ、黄備えを率いていた綱成の部隊は八幡大菩薩に武運を祈り、朽葉色に染めた塗絹に「八幡」と書いた旗指物を指していたと云う。 |
↑ai | 現在の埼玉県川越市砂久保あたり。 |
↑aj | こののちに憲政は越後国の長尾景虎を頼ることになる。 |
↑ak | このような支配を「小田原二屋形《オダワラ・フタヤカタ》」などと呼ぶらしい。 |
↑al | 先に長男が居たが早逝したと云う。 |
↑am | 一説に、氏政は氏直と信長の娘との婚姻を切望していたため声高には追求しなかったとされる。 |
↑an | 北條氏忠と鳥居元忠が御坂峠《ミサカ・トウゲ》を越えた黒駒あたりで戦となり元忠が北條勢に勝利した黒駒合戦など。 |
↑ao | 寺の長である住職のこと。ちなみに「一休さん」で知られた一休宗純は第四十七世住持。 |
↑ap | 小田原駅から15分ほど。料金は大人220円(当時)。 |
↑aq | およそ永正年間(1504〜1521)の前半と推測されるが、諸説あり。 |
本稿から《ふりがな》を《フリガナ》の記述に変更した。