勝龍寺本丸跡に建てられた模擬櫓は公園の管理棟を兼ねていた

京都府長岡京市勝竜寺13番1号にある勝竜寺城公園は、慶安2(1649)年に廃城になるまで山城長岡藩[a]慶長2(1649)年に藩主の永井直清が摂津高槻藩に転封となり廃藩となった。が保有していた[b]と云うのも、御公儀からは古城となった勝龍寺城の使用は許されず、現在の長岡京駅との間に屋敷を持てと命令された。勝龍寺城の本丸・沼田丸跡にあたり、平成4(1992)年に整備されて公園となった。この城の始まりは古く、室町時代後半に足利将軍家一門で管領家[c]足利室町幕府で将軍に継ぐ最高職であり、将軍を補佐し幕政を統括した。他に斯波氏と畠山氏が任じられており三管領と称された。の一つであった畠山氏にあって後年に応仁の乱を引き起こした畠山義就《はたけやま・よしひろ》が郡代役所として築いた城館[d]居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。であり、戦国時代に入ると三好長慶《みよし・ながよし》や松永久秀らによって畿内支配の属城として使われ、織田信長が上洛し畿内を掌握したのちは細川藤孝に与えられ、それまでの館規模から都を守備する要衝として二重の堀を穿ち、瓦と石垣を使って天主に相当する建物を備えた近世城郭に改修されたと云う。藤孝が丹後国宮津城へ移封されたのちは矢部家定[e]信長の近習の一人で、のちに堀秀政らと奉行衆の一人となった。猪子兵助《いのこ・ひょうすけ》[f]美濃国主・斎藤山城守道三の家臣で、のちに信長に仕え、本䏻寺の変で討ち死した。らが入城したが、その翌年の本䏻寺の変では明智光秀らの手に陥ちた。光秀が山崎の合戦で敗走すると羽柴秀吉が入城するが、その後は空き城になった。

今となっては四年前は、平成29(2017)年の立春の候に仕事で大阪へ出張に行くことになり、どうせなら週末は城攻めしようと思いたって土曜日の午後に大阪入りし翌日はまるまる一日使って城攻めすることにした :)。プランとしては日曜日の午前中は大阪府高槻市にあった高槻城跡を攻めて、お昼をはさんで午後からは京都府長岡京市にあった勝龍寺城跡を攻めることにした。

しかしながら残念なことに、当日は天候に恵まれず季節外れの大雨でいろいろ難儀した記憶がある[g]JR京都線の高槻駅南口あるエスカレータが濡れていて10段くらい滑り落ちたり 😥 、雨に加えて気温も低くくて手袋を外せなかったのでカメラのボタンが押しづらかったり。 。それでも午前中の高槻城攻めを終えて、JR高槻駅近くの有名なラーメン屋でお昼を食べた頃には雨は上がり傘要らずになってくれた ;)

このあと高槻駅からJR京都線快速・米原行に乗って長岡京駅へ。それから駅東口へ出て[h]人生で初めて村田製作所の本社ビルを見上げた。勝竜寺城公園へ向かうことにした。

こちらは  Google Earth 3D を利用して城跡周辺を俯瞰した時の主な施設(地名)の位置関係と、細川藤孝によって大規模に改修された当時の縄張(推定を含む)をそれぞれ重畳させたもの:

JR長岡京駅から小畑川と犬川が合流するあたりまで

城跡周辺図(Google Earthより)

細川藤孝が大規模に改修した往時の縄張(推定含む)

中世城郭の勝龍寺城の縄張

「小竜寺城」とも綴る(細川氏改修後の)勝龍寺城は、京都盆地の南西部にあって小畑川《おばたがわ》と犬川《いぬかわ》が合流する場所に築かれた梯郭式平城である。これら二つの川を天然の堀として、主要な郭を堀と土塁で囲んだ二重の堀を持つ惣構《そうがまえ》の城であった。また、西国街道[i]京都から下関または太宰府へ至る街道。と久我畷《こがなわて》と呼ばれた鳥羽街道[j]山崎(現在の大山崎町)から一直線に京都南部へ至る街道。を同時に押さえることができる交易上の要衝でもあり、都を防衛する拠点の一つに位置づけられていた[k]勝龍寺城の他には、天王山に築かれた山崎城がある。

このように勝龍寺城は山城国乙訓郡《やましろのくに・おとくにぐん》の中でも屈指の要害地であったことが、本䏻寺の変後、明智光秀が都を目指して備中高松城から上洛しようとした羽柴秀吉らの軍勢を阻止するために、ここ勝龍寺城を背後において天王山麓の山崎附近に布陣した理由の一つである。

そして、こちらが今回の城攻めルート:

(JR長岡京駅東口)→ 江戸時代の本丸跡 →(ガラシヤ通り)→ 神足神社《こうたり・じんじゃ》→ 勝龍寺城土塁・空堀(惣構の一部)→ 勝竜寺城公園(本丸跡・沼田丸跡)→ 勝龍寺 → 大門橋 →(ガラシヤ通り)→(JR長岡京駅東口)


長岡京駅東口へ出てすぐのところ(0系新幹線の車軸とD51蒸気機関車の動輪が展示されている近くに)「江戸時代の勝龍寺城本丸跡」の石碑が建っている:

これは江戸時代の山城長岡藩の館跡(中世城郭ではない)

「江戸時代の勝龍寺上本丸跡」の標柱

ここは山城長岡藩が存在していた頃の本丸跡であるが、その実態は「神足館《こうたりやかた》」と呼ばれた藩庁を兼ねた屋敷跡である。往時の藩主・永井直清《ながい・なおきよ》は幕府から勝龍寺城[l]この頃は勝龍寺古城と呼ばれていた。この後に廃城となる。の使用を許可されなかった上に、勝龍寺城の北に屋敷(館)を建てろと命令されていたらしい。

そして、この標柱の案内に従って通称ガラシャ通りと呼ばれる府道R211(植野長岡京線)を南下して神足神社へ:

正式名は「京都府道211号下植野長岡京線」

ガラシャ通り

こちらが神足神社境内に残る勝龍寺城本丸の北東に位置する土塁・空堀跡についての説明板(下が長岡駅方面):

このあたりは勝龍寺城本丸の北東に位置し、南北方向の土塁と連結して複雑な構造だった

勝龍寺城土塁・空堀跡の様子(拡大版)

神足神社前に残されている土塁と空堀跡は、永禄11(1568)年に織田信長が足利義秋[m]義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。を擁して上洛したあと、山城西岡一帯を与えられた細川兵部大輔藤孝《ほそかわ・ひょうぶたいふ・ふじたか》が改修した際に作られたもので、城下町を囲うように設けられた惣構の一部とされる。

現在残っている土塁は東西に50mほど、堀底からの高さは6mほどで、その西端(写真奥のガラシャ通り側)は南北方向の土塁と連結する複雑な構造だった:

細川藤孝によって改修された際に設けられた惣構の一部

勝龍寺城惣構の土塁と空堀跡

さらに空堀は土塁に沿って北側(左手)から東側(奥)にかけて掘られ、北と南の土塁の間には土橋を架けて横矢掛りの虎口が設けられ、寄手が容易には城内に入れない仕組みになっていた:

空堀は北側(左手)から東側(奥)に堀られ土橋が設けられていた

勝龍寺城惣構の土塁と空堀跡

寄手は必然的に土橋を渡って虎口へ向かわざるを得ない

横矢掛りのイメージ

発掘調査で現存する土塁の下から東西に走る堀が見つかった。この堀は断面が逆台形をしたいわゆる箱堀《はこぼり》で、細川氏が入城する以前の神足氏の時代のものと考えられている:

東(手前)から西(奥)に走る堀は細川氏よりも前の時代のもの

勝龍寺城惣構の土塁と空堀跡

このように城内の土塁の方が高くなっているので、寄手を見下ろすように攻撃できるようになっていた:

堀と土塁で高低差を作り出し守り手に有利な構造だった

勝龍寺城惣構の土塁と空堀跡

神足神社は延暦15(796)年創建と伝えられる古社《こしゃ》で、第五十五代・文徳天皇《もんとく・てんのう》の斉衛元(854)年には国の官社になった:

祭神は天武天皇の子の舎人親王《とねりしんのう》

神足神社

延暦15(796)年創立と伝えられる古社

拝殿

このあと再びガラシャ通りから勝竜寺城公園へ向かった。こちらは神足神社から見た勝龍寺城の縄張図(下が北方面):

勝龍寺城の縄張図と現在の地図とを重畳したもので青色が堀、橙色が土塁を表す

勝龍寺城の縄張図(拡大版)

こちらは本丸跡に建つ北東隅櫓と内堀。この隅櫓は実際には存在していない模擬建造物。この公園は周囲と堀と土塁で囲んでいた本丸に相当し、昭和の時代に発掘調査が行われたのち、平成4(1992)年に市民の憩いの場として整備された:

平成の時代に建てられた模擬櫓

北東隅櫓(模擬)と堀

城の中心に位置する方形の郭(本丸)に巡らされた内堀(水堀):

往時の本丸と沼田丸跡を公園化した勝竜寺城公園

本丸の内堀

石垣や土塁、水堀など全て模擬である

本丸の内堀

公園入口にあたる南門前に置かれていた「勝龍寺城跡」の説明板と、南門がある枡形虎口とをつなぐ木橋(模擬):

明智光秀の三女・玉が細川藤孝の嫡男・忠興に輿入れした城でもある

「勝龍寺城跡」の説明板

発掘調査で判明した枡形虎口を復元している

木橋と枡形虎口(模擬)

こちらが勝竜寺城公園の入口に建つ南門。ここは本丸虎口に相当し門が建っていた。現在の門は模擬建造物。発掘調査では、このあたりから杭列《くいれつ》や大きな石垣が発見されたと云う:

ここ南門跡が公園入口にあたる模擬建造物

南門(模擬)

東辺《とうへん》土塁上に建つ土塀(模擬):

本丸の東側に築かれた土塁上には多聞櫓があった

東辺土塁と土塀(模擬)

昭和の時代の発掘調査で、本丸の東側に築かれた土塁上から二列の石垣が見つかった。これにより、石垣の間には北東隅櫓と連結した長屋風の建物、おそらく多聞櫓が建っていたと考えられている。往時の多聞櫓は城外の寄手を攻撃できるよう弓矢や槍、あるいは鉄砲などの武器が納められていた。

こちらは、先ほど内堀の外から眺めた北東隅櫓(模擬)。現在は公園の休憩所になっていた:

往時、手前の土塁には石段があったらしい

北東隅櫓(模擬)

本丸跡。正面に見える模擬櫓は公園の管理棟で、その2Fは勝龍寺城にまつわる展示物があった:

北東隅櫓前から眺めた本丸跡

本丸跡

勝龍寺城の本丸は東西約105m、南北約70mの広さを持つ郭で、周囲には水を湛えた幅広い堀が造られ、その内側には高く土を盛り上げた土塁が巡らされていたと云う。堀は深さ約3m、幅は15mを越え、土塁の裾には石垣が築かれていた。土塁の高さは4ないし5mで本丸の四辺を取り囲んでいた。しかも、最も高く築いた西辺の土塁は方形をした本丸の南側に張り出しており、現在の南門あたりから攻め寄せる敵を高い土塁上から迎撃する目的があったと思われる。

こちらは本丸跡東半部で発見された井戸[n]コンクリートの箱が井戸ではなく、箱の中に石組の井戸跡が埋没保存されている。と、地下水100%の水道水である「ガラシャおもかげの水」:

底に丸太を井桁に組んでその上に石を積み上げられた構造

本丸の井戸跡

歴史のロマンにちなんで付けられたもの

ガラシャおもかげの水

本丸跡から発見された井戸は4基で、そのうちこの井戸を含めて3基が細川藤孝が改修した時代のものであった。井戸は直径約0.9m、深さ約2mで、底に太い丸太を井桁《いげた》に組み、その上に石を積み上げた構造だった。

公園北側の通用口には冠木門が建てられていたが、こちらも模擬建造物:

公園の北側通用口に建っていた(これは北門ではない)

冠木門(模擬)

その先の本丸北側からは石垣で築れた北門(枡形虎口)跡が発見された。ちなみに現在見ることができる石垣は細川氏が改修した時代のものらしい:

石垣と土塁で囲まれた枡形虎口を形成していたと考えられている

推定図

本丸北西隅にあった石垣で囲まれた枡形虎口だった

北門跡

北門跡は枡形虎口だったとされ、寄手が城外から城内へ侵入するにはまず堀を渡って虎口にたどり着き、一の門をくぐって枡形に入る。その枡形を左に折れて二の門をくぐる必要がある。守手は門や土塁上から迎撃できる機会が多いため、簡単には城内へ侵入できない構造だった。

なお、この門から山崎の合戦で敗走してきた明智光秀が脱出したとされる[o]この手の説が本当かどうかは不明だろう(i.e. 作り話だと思うが)。

こちらは西辺《せいへん》土塁上から見下ろした北門跡[p]まったく枡形虎口には見えない。個人的には模擬建造物をいろいろ建てるくらいなら、一つだけでいいからまともな復元を造って欲しかった  :-(

西辺土塁の上から見下ろしたが、全く面影がない

北門全景

本丸西側に設けられた西辺土塁はだいぶ改変されていた。往時、土塁上には隅櫓が建っていたらしい:

往時、この土塁頂には隅櫓が建っていたと云う

西辺土塁

この階段で西辺土塁に上がって城址の南側を眺めることができる

西辺土塁の階段

こちらは西辺土塁南側にあったとされる櫓台跡から公園入口あたり:

公園は内堀に囲まれた本丸跡の一部に造られている

公園入口

一方、こちらは山崎城があった標高270mの天王山方面の眺め。明智光秀と羽柴秀吉らが戦った山崎の合戦は「天下分け目の天王山」の舞台となった:

天王山の山頂に山崎城があった(手前の杜中に光秀が本陣を置いた恵解山古墳がある)

天王山(拡大版)

公園管理棟(模擬櫓)前の庭園と模擬冠木門:

本丸跡に建てられた模擬櫓は公園の管理棟の他、展示物もあった

庭園風の勝竜寺城公園

ここに建つつ冠木門も公園化に伴って設けられたもの

冠木門

このあとは同じく勝竜寺城公園の一部である沼田丸跡へ。こちらは本丸と沼田丸の間にあった土塁で、往時は両端にそれぞれ水堀が設けられていた:

沼田丸(左手)と本丸(右手)の間にある土塁

沼田丸と本丸の間の細長い郭

そして、この土塁を沼田丸跡から眺めたのがこちら。ちょうど柵があるあたりが水堀跡:

往時は手前の柵の辺りには水堀があった

沼田丸と本丸の間の細長い郭

こちらが沼田丸跡と井戸跡。沼田丸は本丸の南西に接した郭で、本丸との間には幅約5mの細長い帯郭と水堀があった:

本丸の南西角に面した郭で、右手の凹が掘跡

沼田丸跡

構造は本丸にあった細川氏時代の井戸と同じ

井戸跡

沼田丸は東西約50m、南北約65mの方形の郭で、周囲には土塁が巡らされ、その外側には水堀が取り巻いていたと云う。発掘調査では本丸と同じ井桁の石積構造を持つ井戸が見つかった。この郭の名前は、細川藤孝の妻の実家である沼田氏の屋敷があったことがその由来とされている:

本丸から見た沼田丸への通路は土塁頂上から連結していた(想像図)

本丸と沼田丸の連絡路(拡大版)

ここ勝龍寺城は細川ガラシャ御興し入れの城としても知られている:

城址公園内に建っていた像

細川忠興・玉(ガラシャ)像

天正6(1578)年、明智日向守光秀の三女・明智玉は織田信長の勧めで、細川兵部大輔藤孝の嫡男・細川忠興に嫁ぎ、ここ勝龍寺城で二人の子宝[q]長女と長男の忠隆。に恵まれ、丹後国へ移封されるまでの二年間を過ごしたと云う。しかし四年後の天正10(1582)年に起こった本䏻寺の変で父が主君を討ち細川父子に加勢を求めてきたが、藤孝はこれを拒否し、忠興は玉を丹後国の味土野《みどの》[r]現在の京都府京丹後市。に幽閉した。その後、秀吉の天下になると幽閉を解かれたものの「逆臣の娘」としての苦難や夫との不仲などで心労が深くなり、心の平安を求めていくうちに、キリシタン大名の一人・高山右近の影響もあって、キリスト教の洗礼を受け「ガラシャ[s]ラテン語で「賜物」とか「恵み」という意味。自分の名前である玉にかけたものとされる。」と云う洗礼名を授かった。そして秀吉死後の関ヶ原の戦に先立ち、夫・忠興が徳川家康に従って會津上杉氏追討のために出陣している間隙をついて、大坂の石田三成が決起し細川屋敷を取り囲んで人質になるよう要求してきた。ガラシャは敢然としてこの要求を拒否し、家老・小笠原少斎[t]小笠原秀清《おがさわら・ひできよ》のこと。室町幕府での奉行衆の一人で、のちに細川藤孝の家臣となる。に介錯と屋敷への放火を命じ、壮絶な最後を遂げた。享年38。辞世の句は:

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
(現代語訳)花も人も散りどきを心得てこそ美しいものだ


このあとは公園近くにある恵解山《いげのやま》・勝龍寺に立ち寄ってきた:

大同元年(806)空海(弘法大師)の開基による真言宗の寺院

恵解山・勝龍寺

大同元(806)年に弘法大師こと空海が開基した真言宗の寺院で、はじめ寺号は恵解山青龍寺だった。大旱魃で大飢饉の際に、住職の千観上人《せんかん・じょうにん》が祈祷をたてると雨が降り、龍神に勝ったという意味で勝龍寺に改名したと云う。天正10(1582)年の山崎の合戦などの兵火で一度は焼失した。

こちらは鐘楼。現在の梵鐘は三代目で、一代目は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で持ち去られ、二代目は先の大戦で供出された:

この梵鐘は昭和の時代に鋳造された三代目

鐘楼

勝龍寺を出て、最後は勝龍寺城の惣構で大手門が建っていた大門橋《だいもんばし》へ:

細川氏の改修以来、大手門に架かる橋を大門橋と呼んでいた

勝龍寺城大門橋

細川藤孝が勝龍寺城を改修した時に鉄砲を使った戦術に対応するために城下町を囲む惣構を築いたが、その際にこの場所に大手門を建てた。以来、大手口前に架かる橋を大門橋と呼ぶようになったと云う。

大門橋の脇を抜けていく恵解山通りの先には有名な恵解山古墳があるが、山崎の合戦では明智光秀の本陣が置かれた場所だったらしい:

犬川を渡った右手奥の長岡第八小学校近くに古墳公園がある

恵解山通り

See Also勝龍寺城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 慶長2(1649)年に藩主の永井直清が摂津高槻藩に転封となり廃藩となった。
b と云うのも、御公儀からは古城となった勝龍寺城の使用は許されず、現在の長岡京駅との間に屋敷を持てと命令された。
c 足利室町幕府で将軍に継ぐ最高職であり、将軍を補佐し幕政を統括した。他に斯波氏と畠山氏が任じられており三管領と称された。
d 居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。
e 信長の近習の一人で、のちに堀秀政らと奉行衆の一人となった。
f 美濃国主・斎藤山城守道三の家臣で、のちに信長に仕え、本䏻寺の変で討ち死した。
g JR京都線の高槻駅南口あるエスカレータが濡れていて10段くらい滑り落ちたり 😥 、雨に加えて気温も低くくて手袋を外せなかったのでカメラのボタンが押しづらかったり。 
h 人生で初めて村田製作所の本社ビルを見上げた。
i 京都から下関または太宰府へ至る街道。
j 山崎(現在の大山崎町)から一直線に京都南部へ至る街道。
k 勝龍寺城の他には、天王山に築かれた山崎城がある。
l この頃は勝龍寺古城と呼ばれていた。この後に廃城となる。
m 義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。
n コンクリートの箱が井戸ではなく、箱の中に石組の井戸跡が埋没保存されている。
o この手の説が本当かどうかは不明だろう(i.e. 作り話だと思うが)。
p まったく枡形虎口には見えない。個人的には模擬建造物をいろいろ建てるくらいなら、一つだけでいいからまともな復元を造って欲しかった  :-(
q 長女と長男の忠隆。
r 現在の京都府京丹後市。
s ラテン語で「賜物」とか「恵み」という意味。自分の名前である玉にかけたものとされる。
t 小笠原秀清《おがさわら・ひできよ》のこと。室町幕府での奉行衆の一人で、のちに細川藤孝の家臣となる。