高槻城の模擬天守台は本丸跡ではなく弁財天郭跡に建っていた

戦国時代は大永7(1527)年に起こった管領家・細川氏[a]足利室町幕府で将軍に継ぐ最高職であり、将軍を補佐し幕政を統括した。他に斯波氏と畠山氏が任じられており三管領と称された。の内紛は摂津国にある足利幕府の諸城を巻き込んで桂川原の戦と呼ばれる乱[b]細川氏の家督継承を巡る内紛とした両細川の乱、あるいは永世《えいしょう》の錯乱に総称される乱の一つ。になったが、丹波国の波多野秀忠《はたの・ひでただ》[c]丹後国の名族であり室町幕府の評定衆の一人であった波多野稙通《はたの・たねみち》の嫡子。波多野氏の最後の当主・秀治《しげはる》は孫にあたる。の軍勢に追われるように摂津国守護で山崎城主であった薬師寺国長《やくしじ・くになが》が逃れてきたのが高槻入江城[d]入江氏は、足利尊氏の従者の一人で駿河国出身の入江左近将監春則《いりえ・さこんしょうげん・はるのり》を祖とし、直系は「入江」を、庶子は「高槻」を称した在地勢力の一つ。であったと云う。これが記録として初めて確認できる高槻城とされる。さらに永禄11(1568)年に織田信長が足利義秋[e]義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。を擁して上洛した際に高槻城は開城し、翌年には義秋の側近の一人・和田惟政《わだ・これまさ》が城主となり[f]足利義秋からは池田城主・池田勝正《いけだ・かつまさ》、伊丹城主・伊丹親興《いたみ・ちかおき》と共に摂津守護の一人に任命されている(摂津三守護)。、天主を建てて堀を巡らすなど大きく改修された。その後、高山右近《たかやま・うこん》[g]諱は重友。諱は他に友祥《ともなが》も。「エスト」または「ジュスト」と云う洗礼名を持つ切支丹大名の一人であり、利休七哲《りきゅうしちてつ》の一人しても有名。が城主だった天正年間、そして江戸時代に入って元和年間にも改修されて近世城郭となった。明治4(1871)年の廃藩置県で廃城になると石垣などは鉄道建設の資材となり、城跡に旧陸軍が駐屯するなどした。戦後は宅地化が進んだが、現在は城跡を位置づけるものとして大阪府高槻市城内町3に高槻城公園[h]自分が城攻めした当時は「城跡公園」という名前だった。がある。

今となっては四年前は、平成29(2017)年の立春の候に仕事で大阪へ出張に行くことになり、どうせなら週末は城攻めしようと思いたって土曜日の午後に大阪入りし翌日はまるまる一日使って城攻めすることにした :)。プランとしては日曜日の午前中は大阪府高槻市にあった高槻城跡を、そしてお昼をはさんで午後からは京都府長岡京市にあった勝龍寺城跡を攻めることにしたのだけれど、実際は天候に恵まれず季節外れの大雨でいろいろ難儀した記憶がある[i]JR京都線の高槻駅南口あるエスカレータが濡れていて10段くらい滑り落ちたり 😥 、雨に加えて気温も低くくて手袋を外せなかったのでカメラのボタンが押しづらかったり。 

と云うことで冷たい雨が降る午前中は高槻城跡へ。大阪市内の宿泊先をチェックアウトして最寄りの大阪市営御堂筋線[j]本稿執筆時現在は大阪メトロと云うらしい。・中津駅からJR新大阪へ向かい、そこで仕事の荷物をコインロッカーに預け、JR京都線に乗り換えて高槻に着いたのが午前10時前。駅の南口から傘をさしながら国道R171へ向って南下し「北大手」なる交差点から城跡公園(高槻城公園)方面へさらに南下した。

往時は「北摂唯一の近世城郭」とも謳われていた高槻城であるが、現在は城跡の大部分が宅地化されているため目立った遺構は残っていないが、説明板や案内板などは意外と充実していたので公園を散策する気分で巡ってくるだだけでも良いだろう :D。あと、しろあと歴史館なる博物館には貴重な文化財などが展示されていた(入館料は無料)[k]ついでによい雨宿りにもなった :-)

こちらは Google Earth 3D を利用して城跡周辺の主な場所と幕末期の縄張(推定を含む)を重畳させたもの:

城跡はほぼ宅地化され、主郭は学校の敷地のため立ち入れず

城跡周辺図(Google Earthより)

幕末期の高槻城は三重の濠に囲まれた平城だった

近世高槻城の縄張

この「幕末期」の高槻城は、寛永13(1636)年に高槻藩主となった岡部宣勝《おかべ・のぶかつ》[l]大坂の陣で武功あげた智将であり、こののちは岸和田城主、そして岸和田藩初代藩主として善政をしいた幕末の名君の一人。による最後の改修が行われた時の縄張である。この城の近世城郭化は元和3(1617)年に幕府による公儀普請で完結した[m]当時の城主は土岐定義《とき・さだよし》。摂津国高槻藩2万石。。その結果、東西約510m、南北約630mの細長い凸形をした平城で、内堀が囲む本丸や御殿が建つ二ノ丸を囲むように三ノ丸や出丸などが配置されていた。

本丸や二ノ丸といった往時の主郭部や水濠は廃城後に旧帝国陸軍が駐屯して破壊され、戦後はそのまま宅地化が続けられて現在に至るが、地形の高低差や道路の曲がり方などに往時の縄張りを伺うことができる[n]一部は高槻まちかど遺産に指定され説明板が建っている。他、地下には石垣や水濠、建築物や井戸などの遺構の他、高山重友が城主であった時代の遺構も発見された。
今回は悪天候の中を城跡公園周辺と(雨宿りを兼ねて)しろあと歴史館に立ち寄ったあと、最後は唯一移築された門がある本行寺に行って来た。

まず「北大手」交差点あたりが北大手門跡:

「そう鍼灸整骨院」と道路を挟んだあたりに説明板がある

北大手門跡

城内には大手門が三つあり、北大手門はその一つである。桝形門で内部には番所が置かれていた。北大手門の二ノ門は櫓門であり、往時は城の玄関口として堅固さと風格を備えていたと云う。

北大手門跡から先は三ノ丸跡になるが、その一角にカトリック高槻教会がある。ここは織田信長の畿内軍に与し高槻城主だった高山 “エスト” 右近ゆかりの教会である:

正面に建つのが高山右近記念聖堂、境内左手には石像がある

カトリック高槻教会

正面に見えるこの聖堂は「高山右近記念聖堂」と呼ばれ、右近がその生涯を終えた呂宋《るそん》のマニラ[o]現在のフィリピン共和国の首都。スペイン人によって植民地化された頃からの首府である。市郊外アンティポロにある聖母大聖堂を模した外装になっている。

教会入口の左手にはバチカン市国から贈呈された「エスト高山右近の像」があった:

「エスト」はポルトガル語で「正義の人」

「高槻城主・エスト高山右近像」

右近は摂津国の高山(現在の大阪府豊能郡《とよのぐん》)で生まれ、父の高山 “ダリオ” 友照の影響で洗礼を受けた。そして父と共に三好長慶《みよし・ながよし》に仕えたとされる。長慶が没したあとは三好勢に代わって畿内を掌握した織田信長に仕えた。その信長が本䏻寺で斃れたあとは豊臣秀吉に仕えたが、この時に蒲生氏郷や黒田孝高《くろだ・よしたか》、小西行長らが右近の影響を受けて切支丹となったと云う[p]他に懇意にしていた細川忠興や前田利家は洗礼は受けていないが切支丹には好意的であった。。こののちに秀吉が伴天連《ばてれん》追放令を出し右近に棄教を迫ると、それを拒否し信仰心を守る代償として領地や財産を捨てる道を選んで流浪の身となった。一時は加賀前田家に身を寄せていたが、徳川の世になって幕府から切支丹禁教令が出されると右近は国外追放となった。右近ら一行は加賀から坂本を経て大坂から長崎へ向かった。長崎からは小さな船に乗って呂宋《るそん》へ向かい出航から43日目に到着、そこでスペイン総督らから大歓迎を受けるも、老齢の右近は苦難の道中と慣れない風土や気候ため熱病を患い、マニラ到着翌年に息を引き取った。享年63。
右近が逝去して400年目にあたる平成27(2015)年に、日本カトリック司教協議会から右近を福者《ふくしゃ》[q]カトリック教会で死後にその徳と聖性を認められた者に与えられる称号。に認定するようローマ教皇庁に申請し、翌28(2016)年に教皇フランシスコより承認されたらしい。名誉回復である。

カトリック高槻教会からさらに南下していくと同じ三ノ丸跡に「野見神社・高槻えびす神社」の案内板が見えてくる。「高槻鎮守の御社」と云われる野見神社《のみ・じんじゃ》の境内には複数の摂末社《せつまつしゃ》[r]神社本社とは別に境内または境外にある小規模な神社のことで、摂社と末社を併せた呼称。が建っているが、その中に初代高槻藩主・永井直清《ながい・なおきよ》の御霊を祭神として勧請するために永井家九代藩主・直進《なおのぶ》が寛政5(1793)年に建立した永井神社[s]往時は「直清神社」または「直清権現」と呼ばれ崇められた。がある:

高槻藩初代藩主の永井直清を祀った社

永井神社

さらに嘉永元(1848)年には十一代藩主・直輝《なおてる》が直清の高槻城入城200年を記念して社殿を修復し、新たに唐門と拝所を造立した。この権現様式の社殿と唐門は現存であり、平成の時代に高槻市有形文化財に指定された。併せて、直清が初陣を飾った大坂の陣で着用したとされる甲冑などの神宝、家臣が描いた高槻城絵馬、そして社殿や唐門建立の棟札などが残されている:

江戸時代藩政期の歴史遺産として市指定有形文化財となった

永井神社の唐門

野見神社の境内と道路を挟んで向かいにある建物は高槻商工会議所であるが、ここは高山右近が城主であった時代に建っていた天主教会堂跡にあたる:

現在は高槻商工会議所が建っている

高山右近高槻天主教会堂跡

昭和の時代に大阪府史跡に指定された

「高山右近天主教会堂」の石碑

戦国時代に日本に滞在していたポルトガル宣教師のルイス・フロイスの記録によると、信長が将軍である義秋を追放したのちの天正2(1574)年に高槻城主であった高山エスト右近とその父・ダリオ友照は古社の場所に池や庭園を伴った教会堂を建立し、そこを拠点にキリスト教布教に力を注いだと云う。高槻市が平成10(1998)年に実施した『高槻城三ノ丸跡発掘調査』では、蓋に十字架を墨入れした木棺を含む切支丹の墓地の存在が明らかになった。その実物が、あとで雨宿りに立ち寄ったしろあと歴史館で展示されていた:

高槻城キリシタン墓地から出土したもの(しろあと歴史館展示)

木棺

木棺の蓋に墨入れされていたもの

十字架の墨書

また「高山右近天主教会堂」の石碑の近くには御厩門《おうまやもん》で使われていたとされる石垣が展示されていた:

厩郭の桝形門の石垣として使われていたものが発掘された

高槻城厩郭桝形門の石垣石

御厩門は厩郭にあった枡形門で、昭和の時代に厩郭跡に建っている中学校の体育館を新築する際の発掘調査で出土したものだとか。廃城時に濠底へ落とされたものらしい。手前の石は木津川《きづがわ》上流から、奥の石は瀬戸内から運ばれたもので矢穴の形状から江戸時代初期の切り出しと推測される。

ここから引き続き三ノ丸跡を巡りながら城跡公園(高槻城公園)へ向かった。

しろあと歴史館前の道路はちょうど三ノ丸を巡っていた濠跡。現在は埋められているが徐々に沈下しているしているらしい:

歴史館前の道路は水濠を埋め立てたものだが少し沈んている

三ノ丸濠跡

三ノ丸濠跡の道路に沿って公園東側へ向っていくと東大手門跡がある:

三ノ丸虎口の東大手にあたり枡形門であった

東大手門跡

三ノ丸虎口であり、高槻城の「表玄関」として枡形虎口を持つ大手御門が建っていた。ここから先の三ノ丸には往時は家老や郡奉行《こおり・ぶぎょう》などの武家屋敷が建ち並び、参勤交代で江戸へ向かう時や上洛する時は、この門から出て京口から八丁松原を経由して山崎通《やまざきみち》(のちの西国街道)を進んだと云う。

現在は公園入口も兼ねている東大手門跡から園内へ。公園と住宅地の狭間には土塁が残っていた。往時は土塁の外側は水濠で、内側の公園や中学校の敷地が三ノ丸だった:

左手の住宅地は水濠跡、右手の敷地が三ノ丸跡

三ノ丸

園内にある歴史民俗資料館。白壁と本瓦葺きが印象的な建物は、江戸中期の城下にあった商家を移築復元したもの。ちょうど、この辺りが三ノ丸御殿跡になる:

この建物は江戸時代の商家を移築復元したもの

高槻市立歴史民俗資料館

こちらが公園の内部。その敷地は三ノ丸跡から弁財天郭跡、そして厩郭跡の一部に相当する:

池は後世に造られた模擬堀らしい

城跡公園(高槻公園)

また水濠を模して造られた池の他に、模擬の天守台石垣もあった:

模擬の店主台がある場所は厩郭跡にあたる

模擬天守台

さらに園内を歩いていくと、ここにも高山右近像が建っていた。

高山 ” エスト” 右近

高槻城主だった高山 "エスト" 右近

高山右近像

三好長慶の重臣で信貴山《しぎさん》城主の松永久秀に仕えていた高山右近(重友)と父の友照は、信長と共に上洛し征夷大将軍に任じられた足利義秋の側近の一人で、新たに高槻城主になった和田惟政《わだ・これまさ》に仕えた。惟政が荒木村重との戦に敗れて討ち死すると惟政の遺児・惟長《これなが》を追放[t]一説に、惟長は側近らの讒言でこれまで補佐してくれた叔父の惟増《これます》を殺害し、さらに高山父子の暗殺をも企てたが、それを聞いた荒木村重の助言で右近らが逆に惟長らを襲撃し追放したと云う。、元亀4(1583)年に右近が高槻城主となった。この時、右近は城と城下町を整備したが、その見事さを宣教師の一人が「水が満ちた広大な堀と城壁」と表現したと云う。

天正6(1578)年に摂津国の有岡城主で右近と親しい村重が突如、信長に反旗を翻した。右近は翻意させようと妹や息子を人質に出して説得したが失敗した。そして村重側について高槻城に籠城するか、信長に降って友人の村重を討つか苦悩した末に尊敬していたイエズス会のオルガンティノ司祭に相談し、高槻城で徹底抗戦を主張する父を抑えてついに開城した。こののち右近の従兄弟で村重の重臣であった茨木城《いばらきじょう》主の中川清秀も信長に降り、孤立無援となった村重は信長の総攻撃を受けて開城、右近の意に反して城内にいた荒木一族は皆殺しとなった。右近の人質は無事に戻ったが、抗戦派であった父は捕縛され処刑されるところを右近らの助命嘆願により越前国の北ノ庄城主である柴田勝家の下に幽閉された[u]のちに許されて右近の下に帰参している。

右近は天正8(1580)年に安土城下に邸宅を与えられ、翌9(1581)年には信長の使者として鳥取城攻めの羽柴秀吉の陣に参陣して城攻めの情勢を信長に伝えた。さらに天正10(1582)年冬の甲州征伐にも信長直轄軍として参陣した。
そして同年夏に信長が本䏻寺で斃れたとき、明智光秀は中川清秀とともに右近は味方するものと期待していたようだが、右近は秀吉麾下に加わり、山崎の合戦では先鋒をつとめて清秀や池田恒興らと奮戦し光秀を敗走させた。その後は秀吉の下で賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、そして四国征伐に参陣した。その功があって天正13(1585)年には播磨国明石6万石に移封されて船上城《ふなげじょう》を居城とした。

こちらは江戸後期の武者絵集『太平記英勇傳』に描かれていた高山右近(市立しろあと歴史館の展示物):

江戸時代後期の武者絵集(画・歌川国芳)

『太平記英勇傳 〜高山右近友祥』(複製)

さらに右近は切支丹でありながら茶人としても知られ、千利休の七哲の一人として『利休極上一の弟子也』と謳われた。天正14(1586)年頃には秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊《みなみのぼう》と号していた。

しかし秀吉の伴天連追放令が発令されると一転、苦しい立場に立たされた右近は全てを捨てて流浪の身となった。そして天正16(1588)年には加賀国の前田利家の客将となり、天正18(1590)年の小田原仕置で利家と上杉景勝が率いる北国口勢に加わり、八王子城攻めに参陣した。その後、加賀では金沢城の改修や高岡城の縄張などに尽力したと云う。

そして慶長19(1614)年に家康による切支丹国外追放令を受けてマニラへ向かう過酷な旅に出ることになった。


こちらは公園内に建てられていた高槻城跡の碑:

城跡公園の西側入口にある

高槻城跡碑

この石碑の奥には高槻城の石垣石が展示されていた:

槻の木高等学校での発掘調査で発掘された本丸南西隅の石垣

高槻城の石垣石

高槻城の石垣は廃城後に鉄道敷設に伴う橋梁の橋台や枕石に使われたが、昭和の時代に本丸跡に建つ槻の木高等学校の発掘調査で発見された本丸南西隅にあった基礎石(根石)の一部らしい。

公園入口から現在は高校が建っている本丸跡の眺め:

本丸跡は大阪府立槻の木高等学校の敷地になっている

本丸跡

これは『日本古城絵図[v]鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。』から『畿内・摂津・高槻城』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)に加筆したもの:

『日本古城絵図』に収録された近世城郭の時代のもの

『畿内・摂津・高槻城』(加筆あり)

このあとは三ノ丸跡まで戻って、しろあと歴史館で雨宿り :D

ここには発掘調査で出土した石垣石や城址の模型などがある

高槻市立しろあと歴史館

ここには発掘調査で出土した石垣石や高槻城のジオラマ模型が展示されており、戦国期から江戸期に至る高槻の歴史を知ることができる:

1Fの常設展示や特別展示の他に2Fにも展示物あり

エントランス

こちらは特別展示されていた「ロザリオ」と呼ばれる宗教具の一種。キリスト教徒が祈りの回数を数える際に用いた数珠のようなもの(木製)らしい。先に紹介した木棺の中から発見された:

祈りの回数を数える数珠状の宗教具

ロザリオ

これは常設展示の石垣。江戸時代の高槻城本丸南西隅の石垣を復元したもの:

右下三個を除いてプラスチック製の模造石

高槻城本丸石垣の復元展示

城跡公園西側の入口前に置かれていたものと同じ

実物の石材

大部分は模擬のプラスチック製であるが、右下隅三個が現存の石材。高槻城は海抜10m以下の扇状地に築かれ、地下深くまで粘土や砂といった軟弱な地盤が続いていたため石垣を築く穴の底に太い丸太と長大なマツ材で梯子胴木《はしごどうぎ》[w]現代だと下水管などの基礎に用いる梯子状に組んだ木枠のこと。を組んで河原石で固定し、その上に積んだ石垣が沈下しないようにしていた。

こちらは江戸時代の高槻城と城下町のジオラマ模型(下が北方面)。本丸や二ノ丸の一部に石垣があるが、それ以外の大部分は土塁であったのが分かる:

「高槻城絵図」をもとに1/500の縮尺で制作したもの

高槻城と城下町(拡大版)

ジオラマ模型で二ノ丸(手前)と本丸(奥)を拡大したもの。本丸には三層三階の天守が建っているがわかる:

本丸には天守閣が建ってた

二ノ丸と本丸

この他にも戦国時代に畿内を掌握していた三好長慶や松永久秀、和田惟政や中川清秀らの絵図、高槻城の築地塀《ついじべえ》の屋根瓦や鯱瓦、そして刀剣や火縄銃などが展示されていた。

しろあと歴史館をあとにして次の城攻めへ向かう前に、高槻城内にあった高麗門が移築されている常智山・本行寺《ほんぎょうじ》に立ち寄った:

廃城後に移築された高麗門

本行寺の山門は

二本の控柱に屋根がのった高麗門形式

高槻城の移築門

この場所は高槻城の鬼門[x]艮《うしとら》(北東)の方角。にあたり、往時、高槻藩主だった永井直清は本行寺を「京都比叡山に準じて、高槻城下の安全と厄除けの道場となすべし」とし、城主の祈願所に指定したと云う。

以上で高槻城攻めは終了。

このあとは高槻駅近くの有名なラーメン屋でお昼を摂ってから、次の城跡がある京都の長岡京市へ向かった。

See Also高槻城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 足利室町幕府で将軍に継ぐ最高職であり、将軍を補佐し幕政を統括した。他に斯波氏と畠山氏が任じられており三管領と称された。
b 細川氏の家督継承を巡る内紛とした両細川の乱、あるいは永世《えいしょう》の錯乱に総称される乱の一つ。
c 丹後国の名族であり室町幕府の評定衆の一人であった波多野稙通《はたの・たねみち》の嫡子。波多野氏の最後の当主・秀治《しげはる》は孫にあたる。
d 入江氏は、足利尊氏の従者の一人で駿河国出身の入江左近将監春則《いりえ・さこんしょうげん・はるのり》を祖とし、直系は「入江」を、庶子は「高槻」を称した在地勢力の一つ。
e 義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。
f 足利義秋からは池田城主・池田勝正《いけだ・かつまさ》、伊丹城主・伊丹親興《いたみ・ちかおき》と共に摂津守護の一人に任命されている(摂津三守護)。
g 諱は重友。諱は他に友祥《ともなが》も。「エスト」または「ジュスト」と云う洗礼名を持つ切支丹大名の一人であり、利休七哲《りきゅうしちてつ》の一人しても有名。
h 自分が城攻めした当時は「城跡公園」という名前だった。
i JR京都線の高槻駅南口あるエスカレータが濡れていて10段くらい滑り落ちたり 😥 、雨に加えて気温も低くくて手袋を外せなかったのでカメラのボタンが押しづらかったり。 
j 本稿執筆時現在は大阪メトロと云うらしい。
k ついでによい雨宿りにもなった :-)
l 大坂の陣で武功あげた智将であり、こののちは岸和田城主、そして岸和田藩初代藩主として善政をしいた幕末の名君の一人。
m 当時の城主は土岐定義《とき・さだよし》。摂津国高槻藩2万石。
n 一部は高槻まちかど遺産に指定され説明板が建っている。
o 現在のフィリピン共和国の首都。スペイン人によって植民地化された頃からの首府である。
p 他に懇意にしていた細川忠興や前田利家は洗礼は受けていないが切支丹には好意的であった。
q カトリック教会で死後にその徳と聖性を認められた者に与えられる称号。
r 神社本社とは別に境内または境外にある小規模な神社のことで、摂社と末社を併せた呼称。
s 往時は「直清神社」または「直清権現」と呼ばれ崇められた。
t 一説に、惟長は側近らの讒言でこれまで補佐してくれた叔父の惟増《これます》を殺害し、さらに高山父子の暗殺をも企てたが、それを聞いた荒木村重の助言で右近らが逆に惟長らを襲撃し追放したと云う。
u のちに許されて右近の下に帰参している。
v 鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。
w 現代だと下水管などの基礎に用いる梯子状に組んだ木枠のこと。
x 艮《うしとら》(北東)の方角。