高遠城の本丸虎口に残る石垣は内藤氏の近世時代のもの

長野県伊那市高遠町東高遠にある高遠城址公園はかっての高遠城[a]別名は渭山《いすい》城、または兜山城とも。跡で、戦国時代初めに信濃国諏訪郡一帯を治めていた諏訪家一門の高遠頼継《たかとお・よりつぐ》の居城であった。そして天文10(1541)年、甲斐国の新しい主となった武田晴信は頼継と共に諏訪郡へ侵攻[b]頼継(とその一族)は諏訪の惣領家と長い間対立しており、諏訪頼重の祖父である頼満に敗れ傘下となった経緯がある。しこれ平定するが、もともと諏訪家惣領になりたがっていた頼継は若い晴信を侮ってのちに兵をおこし武田の守兵を追い払うと諏訪の上・下両社を手に入れた。怒った晴信は天文13(1544)年に頼継を一戦に打ち破って伊那郡を平定すると、山本勘助と秋山虎繁[c]諱《いみな》として有名なのは「信友《のぶとも》」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ「武田の猛牛」と渾名された。に命じて伊那谷における拠点として高遠城を改修させた。さらに永禄5(1562)には晴信と諏訪御料人との間に生まれた四郎勝頼が城主となるが、元亀4(1573)年に晴信(信玄)が没し、天正3(1575)年には長篠設楽原合戦で織田信長と徳川家康の連合軍に惨敗、そして信長らによる甲州征伐が始まると高遠城は最終防衛拠点として勝頼の異母弟である仁科五郎盛信が入城し寡兵で織田の大軍を迎え撃った。

今となっては五年前は平成28(2016)年の冬至の候近くに山梨県と長野県にある城跡を攻めてきた。初日は四郎勝頼の忠臣の一人として知られる土屋惣蔵昌恒公の墓所を参拝し、さらに甲斐武田家最後の城である新府城を攻めてきた[d]自身としては二度目の新府城攻め。。翌日の最終日は高遠城跡を攻めるため長野県松本から朝7時前発のJR篠ノ井《しののい》線で辰野《たつの》まで移動し、さらにJR飯田線に乗り換えて伊那市へ。そして駅前からJRバスの高遠線に乗車しJR高遠駅で下車した。

ここで、まずは四郎勝頼の生母・諏訪御料人と徳川時代に高遠城主であった保科正直・正光公が眠る大寶山建福寺《だいほうざん・けんぷくじ》へ立ち寄ってから高遠城址公園へ向かった。建福寺がある高台を降り、そのまま国道R361に出て緩い下り坂を東へ下りていうと正面に見えてくるのが高遠城址公園である。ちなみに国道沿いは城下町であった:

往時は城下町であった城西側の国道R361から眺めたところ

高遠城跡の遠景

往時の高遠城は、天竜川水系最大の支流である三峰川《みぶがわ》と藤澤川(藤沢川)という二つの川が合流する河岸段丘上に築かれた平山城で、北・西・南の三方を「天然の外濠」で囲まれた要害であったと云う。

高遠城は、諏訪家一門衆の高遠氏が築城し居城としたと推定されるがその仔細は不明である。そのあと甲斐武田氏の支城となり、天正10(1582)年に武田氏が滅亡信長が本䏻寺で斃れたあとの天正壬午の乱《てんしょうじんごのらん》で信濃国一帯が混乱した時、藤澤郷[e]現在の長野県伊那市高遠町藤沢。を拠点としていた武田氏の旧臣である保科正直《ほしな・まさなお》が高遠城を手に入れ、のちに三河国の徳川家康の配下となって正式に城主となった。天正18(1590)年に小田原北條氏が滅亡すると、正直は関八州を手にいれた家康に従い、高遠城は豊臣秀吉のものとなった。そして秀吉死後の江戸時代には高遠藩が立藩して京極氏・保科氏・鳥居氏らが城主となった。現在、城址公園として残っている(あるいは復元されている)遺構の大部分は江戸時代に改修され、大手口が東側から西側に移されたとされる近世城郭のもの。

こちらは『日本古城絵図[f]鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。』から『信州高遠城図』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵):

『日本古城絵図』に収録された近世城郭の時代のもの

『信州高遠城図』(拡大版)

絵図に描かれているように、中央にある本丸を二ノ丸と三ノ丸が半円状に囲む後堅固《うしろけんご》の縄張[g]後堅固は甲州流築城術の特徴であり、他にも諏訪原城でも見ることができる。になっており、近世城郭であっても郭間の空堀と土塁で堅く守られていたのが分かる。他にも、江戸時代の正保元(1644)年に高遠藩を含む全国の諸藩に命じて作成させた『正保城絵図』にも『信州高遠城之絵図』(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)がある。

ちなみに武田氏時代の高遠城については詳細は不明であるが、『信長公記《しんちょうこうき》[h]慶長(1598)年に成立した織田信長の一代記。信長を研究する上での根本史料である。』の巻15の9段「織田信忠、高遠城を攻略」に記されている:

高遠の城は、三方が険しい山で、背後は山の尾根続きである。城の麓に西から北へ藤澤川がたぎって流れ、城の構えはことのほか堅固である。村里から城まで三町ほどの間は、下は大川、上は高山で、崖ぎわの道は一騎ずつしか通れないという難所である。(以上、現代語訳より)

こちらは Google Earth 3D を利用して城址公園内や周辺の遺構(含む推定)を重畳したもの:

明治5(1872)年に廃城、同8(1875)年に公園化が決まった

高遠城址公園(Google Earthより)

郭の配置は江戸時代に完成した近世城郭の状態をよく残していた

高遠城の遺構

高遠城は、明治5(1872)年の廃藩置県により廃城となり御殿などの建物をはじめあらゆるものが民間に払い下げられるなどして撤去された。そして同8(1875)年に本丸跡、笹曲輪跡、南曲輪跡、そして勘助曲輪跡が公園化され、その景観づくりとして多くの桜の木が植樹され、現在は全国でも有数の桜の名所となっている。

そして園内の説明板に描かれていた「信州高遠城図」:

城址公園内の説明板に描かれていたもの

「信州高遠城図」(拡大版)

しかしながら現在は伊那市のホームページで配布されている『国指定史跡・日本百名城・高遠城跡』のパンフレット(リンクはPDF)の方が見やすいし情報も多いのでオススメ[i]自分が城攻めした当時は、こんな素晴らしいパンフレットは無かったけど 😐 。

徒歩の場合、国道R361から国道R152へ合流する「高遠公園下」と云うT字の交差点から、向って左右どちらからでも城址公園へ行けるが、当時は交差点を渡ったあとに左折して遊歩道沿いに①大手門跡へ向かった:

戦国時代は搦手口であったが泰平の世になって大手口になった

大手門跡と大手道跡

現在は道路になっている大手道跡には、往時は櫓門形式の大手門が建っていたと云う。その大手門は廃城後に高校の校門として移築されていたらしい。なお高遠藩が立藩する前の戦国時代の大手口は城の東側(現在の搦手口跡)にあった。廃城後に大手口周辺は大きく改変されたらしいが、そばには大手枡形の一部とされる石垣が残っていた:

大手道跡(道路)を挟んだところにも石垣が残っていた

大手門枡形の石垣

江戸時代に入って鳥居氏が藩主の時、城の西側に城下町が築かれたことで大手口が東側から西側へ遷されたとされ、城内に残る石垣のうち江戸時代まで遡るものは少なく、この周辺にある石垣は古絵図からも確認ができる貴重な遺構になっている。

現代の石垣に挟まれた大手道跡(車道)をさらに上った先の右手にある敷地は、現在は城址公園の駐車場となっている②勘助曲輪跡

山本勘助が普請したことに由来するが、往時は無かった郭

勘助曲輪跡

武田が属城としたあとに高遠城は大改修されているが、その普請を担当したのが山本勘助とされ、この郭の名前の由来となっている。但し往時はそのような郭は存在せず、先に紹介した『日本古城絵図』にあるように、江戸時代に大手口を西側へ移した際に造られたと考えられている。

ちなみに駐車場のすべてが勘助曲輪ではなく、往時はちょうど真ん中あたりに鍛冶堀があり、その堀を挟んで手前が武家屋敷、奥が勘助曲輪だったようだ。

土塁で囲まれていた勘助曲輪には櫓や硝煙小屋、そして稲荷社が建っていたが、廃城後に埋め立てられ高等学校のグラウンドとして利用されていたらしい。そんな土塁がかろうじて残っていた:

土塁と堀が郭の周囲を巡っていたらしい

勘助曲輪の土塁

そして道路を挟んで駐車場の対面にあるのが③三ノ丸跡で、道路に面したところに建っているのが伝・高遠城大手門(旧大手門):

廃城後に払い下げられ民家の門になっていたもの

伝、高遠城大手門

城内にあった四つ櫓門の一つであるが廃城後に全て民間に払い下げされ、民家の門として利用されていたためか柱などが切り詰められるなどして当時の姿ではない。その後、昭和29(1954)年からこの場所にあった高遠高等学校の正門として移築され、その後に校舎が五郎山の麓へ移動したあとの昭和59(1984)年に町に寄贈、ここに移築された。

門をくぐった先が三ノ丸跡。藩主の御殿や家老らの屋敷が建っていたところ:

ここに旧高遠高校が建っていた

三ノ丸跡

さらに道路を東へ進んで行くと左手に高遠藩時代の藩校で、現在は国指定史蹟の進徳館《しんとくかん》見えてくる。ここも三ノ丸跡である:

万延元(1860)年に創設した高遠藩の藩校

進徳館(国指定史蹟)

万延元(1860)年に信濃高遠藩の第八代目で最後の藩主である内藤頼直《ないとう・よりなお》が郭内三ノ丸にあった空き家を文武場にあてて創設したと云う:

興国の基礎は藩士を養成するにあり、藩士を養成するには文武を奨励するより先なるはなし。

進徳館の主要な建物は平家茅葺きで八棟あったが廃城時に大部分が払い下げされた中、現存するのは東西の二棟と玄関と表門である。

再び道路を東へ進んで行くと右手に高遠城址公園入口(北ゲート)が見えてくる:

案内図でいうと北ゲートで、高遠城の二ノ丸虎口跡にあたる

「高遠城址公園」

北ゲートは三ノ丸から二ノ丸へ至る虎口跡で往時は二ノ丸門が建っていたが、現在は⑤土橋[j]往時は木橋だった。と堀が残っていた:

往時は木橋で、ここを渡った先が二ノ丸門(冠木門)跡

土橋

二ノ丸を囲んでいた空堀(一部は民家の敷地)

中堀跡

入口から土橋を渡った先が二ノ丸跡で、往時この虎口は枡形で冠木門・枡形・櫓門の構造であって、虎口を抜けると広庭(武者溜)だったと云う。

二ノ丸に入ると左手に国登録無形文化財に指定された⑥高遠閣が建っている:

昭和11(1936)年に建造された大型の休憩所

高遠閣(登録有形文化財)

昭和11(1936)年に町民の集会や観光客向けに建てられた木造総二階建、入母屋造、赤色の鉄板葺(建築当時は杮葺《こけらぶき》)、二階に200畳敷の大広間がある大型建築物。

こちらが⑦二ノ丸跡。本丸の東から北を覆うように設けられた郭で、外周は中堀と外堀が巡らされていたと云う:

正面に見えるのは桜雲橋で、その先が本丸跡

二ノ丸跡

時代により変遷はあるが政庁など藩の中心となる建物が多くあり、厩や土蔵もおかれていたと云う。

その二ノ丸の中で唯一残っているのが土塁。高遠閣の裏手から南へ向って伸びる土居で、この裏には中堀がある:

公園化された二ノ丸跡の中で唯一の遺構

二ノ丸の土塁

このあとは本丸跡に架かっている桜雲橋の手前から井戸跡や池がある内堀へ下りた:

桜雲橋下の堀底へ降りる階段の脇にある

井戸跡

掘跡には池があった

内堀跡

こちらは堀底から見上げたもので、桜雲橋は本丸跡(左手)と二ノ丸跡(右手)をつなぐ木橋。そして土橋は南曲輪跡(左手)と本丸跡(右手)をつなぐもの。双方ともに後世の造物:

問屋門(移設)側が本丸跡、反対側が二ノ丸跡

桜雲橋

左手が南曲輪跡、右手が本丸跡

土橋

こちらは桜雲橋ごしに二ノ丸跡から本丸跡を見たところ。橋は後世の造物だが、往時は本丸を巡る内堀に木橋が架かり内桝形虎口になっていた:

手前が二ノ丸跡、桜雲橋の先に見えるのは問屋門

桜雲橋ごしの本丸虎口跡

本丸虎口跡。桜雲橋を渡ったところに建っている問屋門は城下町の問屋役所からの移築:

往時は桝形虎口であり、現在の石垣は後世の造物

本丸虎口跡

こちらが⑧本丸跡。江戸時代の本丸には天守はなく、平屋造の本丸御殿の他に巽櫓・太鼓櫓・隅櫓、土蔵などが建っていた:

三基の櫓と内枡形虎口で防御された中枢部

本丸跡

天然の地形を巧みに利用した高遠城の主郭部は戦国時代に武田家が改修した際の縄張の大部分を踏襲したものであり、河岸段丘の突端に本丸を配し、東から北にかけて二ノ丸が、さらにその外側に三ノ丸を包み込むように配した三段構えとなっていた。

信長による甲州討伐後は織田の家臣・毛利氏、保科正直、そして豊臣秀吉の時代には再び毛利氏、京極氏が城主を務め、江戸時代に入ると保科正光・正之父子、鳥居氏、そして八代155年間を内藤氏がそれぞれ務めた。

本丸の南側に残る土塁上の東端には、往時は巽櫓が建っていたと考えられる:

土塁の端には巽櫓が建っていたと思われる

本丸土塁

ちなみに土塁は北東隅にも残っており、こちらには隅櫓が建っていたようだ。

土塁の先に建っているのは太鼓櫓。廃城後に三峰川対岸の白山にあった鼓楼《ころう》を本丸跡の西南隅に移築したもの。廃城前の太鼓櫓は搦手門の傍らにあったらしい:

太鼓は現在は高遠町歴史博物館に展示されている

太鼓櫓(移築)

そして本丸跡から眺めたの高烏谷山《たかずやさん》と、中央アルプスを成す木曾山脈で木曽駒ヶ岳。季節柄、空気が冷たく澄んでいて遠くまでよく眺めることができた:

冬至の候近くの空気の済んだ長野県伊那市の山の眺めは壮大で美しかった

木曾山脈の眺め(拡大版)

本丸北西隅にある⑨新城神社と藤原神社。一つの社に二つの神社が祀られている:

2つの神社が1つの社の中に祀まつられている

新城神社と藤原神社

新城神社の御祭神は武田信玄の五男で高遠城主であった仁科五郎盛信、藤原神社は高遠藩の最後の藩主・内藤家の先祖にあたる藤原鎌足《ふじわらのかまたり》と内藤家代々の当主。どちらも江戸時代から城内にあった神社であったが、廃城後に現在の場所に合祀されて一つになった。

こちらは本丸西側下にある城内で一番低い場所にある笹曲輪跡。当時は立入禁止だった:

本丸跡と南曲輪跡をつなぐ土橋の上から眺めた

笹曲輪跡

そして先ほど本丸内堀の堀底から見上げた土橋(後世の造物[k]これは本丸南東隅の記念碑を建てるために造られたもので、往時は堀内道《ほりないみち》で本丸と繋がっていた。)を渡り、逆に内堀と南曲輪の切岸を見下ろしたところ

これは後世の造物(手前が本丸跡、奥が南曲輪跡)

土橋

本丸に巡らされていた堀で、右手は南曲輪跡

内堀と南曲輪の切岸

土橋を渡った先が⑩南曲輪跡。江戸時代には、この郭の中央に回遊式庭園や茶室があったと云う:

本丸の南側にある方形をした腰郭

南曲輪跡

また會津若松城主で會津藩初代藩主となった保科正之が幼少の頃、生母・静の方(浄光院)と居住した屋敷があった郭でもある。

この郭は、廃城後は荒れ果てた場所であったが(招魂碑など建立するにあたり)削平されるなどして改変が大きいようだ。

こちらが南曲輪と法幢院曲輪との間にある堀内道《ほりないみち》:

左手が南曲輪跡、右手が法幢院曲輪跡

堀内道

南曲輪跡から白兎橋《はくときょう》を渡って城内で最も南にある⑪法幢院曲輪《ほうどういんくるわ》へ:

武田氏の時代に法幢院という寺院があったことから

法幢院曲輪跡

この郭の名前にある「法幢院」は織田勢によって落城した後、豊臣時代の文禄元(1592)年に城の東側の月蔵山《がつぞうさん》の麓の龍ケ澤へ移り桂泉院《けいせんいん》と改名して今に至る。

こちらは法幢院曲輪の南にある外堀:

法幢院曲輪の南には外堀が設けられていた

法幢院曲輪と外堀

この郭の東側には馬場があったらしく、ちょうど城址公園の南ゲートあたりは馬場先門跡:

法幢院曲輪の東側は馬場だった(現在は南ゲート)

馬場先門跡

ここで城址公園を出て高遠町歴史博物館へ。ここで復元されている⑫絵島の囲み屋敷[l]江戸城大奥の女中頭の絵島が高遠へ流刑されてから余生を過ごしたとされる屋敷(復元)。は閉館していたが博物館前にあった保科正之像は観ることができた:

二代将軍の寵愛を受けたお静とその子(幸松)の像

保科正之(幸松)公と生母お静(志津)像

このあとは仁科五郎盛信らが眠る五郎山《ごろうざん》へ向かうため白山橋を渡ることにしたが、その途中に眺めた高遠湖がこちら:

この先に見えるのは南アルプス

高遠湖(ダム湖)

これは昭和33(1958)年に竣工した高遠ダムによって造られた「ダム湖」(人工湖)であり、戦国時代はもちろん江戸時代にも存在していなかった。しかし現代にダム湖が造られるほど天竜川水系の三峰川は古より「暴れ川」として知られていたようで、まさに戦国時代の高遠城にとって天然の外堀として機能していたであろうことは容易に想像がつく。

こちらは高遠ダム下流に架かる白山橋より見下ろした三峰川。右手上が高遠城址公園:

現代は堰堤《えんてい》やダムが造られているため大人しくなった?

三峰川

同じく白山橋から眺めた五郎山。手前に見える白山にはトンネルが貫通し、その上に高遠城本丸跡の太鼓櫓(鼓楼)が建っていた白山神社がある:

白山の奥に見えるのが仁科盛信が眠る五郎山

五郎山と白山

以上で高遠城攻めは終了。

最後は高遠湖ごしに眺めた伊那山地と南アルプスの眺望:

高遠ダム附近から伊那山地越しに南アルプス(烏帽子岳)の眺め

南アルプス(拡大版)

See Also高遠城攻め (フォト集)

【参考情報】

大寶山・建福寺と保科正直・正光公墓所

高遠城を攻める前に保科家の菩提寺である臨済宗の大寶山建福寺《だいほうざん・けんぷくじ》を参拝してきたが、この寺院はJRバス関東高遠線の高遠駅(バスターミナル)から徒歩で5分ほど。この高台の上が境内:

JRバスの高遠駅から徒歩5分ほどの高台上にある

大寶山建福寺

こちらが建福寺の山門:

屋根の棟には「大寶山」の山号があしらわれていた

山門

そして本堂:

武田四郎勝頼の生母・諏訪御料人の菩提寺でもある

本堂

屋根の鬼瓦や棟には保科氏の家紋である角九曜《かく・くよう》があしらわれていた:

信濃国高井郡保科を発祥地とする土豪

鬼瓦の角九曜紋

開創は安元2(1176)年で、のちに興国禅寺を建立、天正7(1579)年に妙心寺派となり保科氏の時代に大寶山建福寺と改号して菩提寺とした。また武田四郎勝頼が高遠城主であった時、生母の諏訪御料人の菩提を弔ったことでも知られている。

本堂裏手の境内西側には諏訪御料人、保科正直《ほしな・まさなお》公、そして保科正光《ほしな・まさみつ》公の墓碑が並んでいた(右から):

本堂西側裏手の墓所前に置かれていた

墓碑列

墓碑列の中央にあるのが保科正直公の墓碑:

信濃先方衆の一人で、武田家滅亡後は徳川家の家臣となる

保科正直公の墓碑

父は甲斐武田家の家臣であり信濃先方衆の一人で「槍弾正」の異名を持つ保科弾正忠正俊《ほしな・だんじょうちゅう・まさとし》。天正10(1582)年の織田信長らによる甲州征伐では父と共に居城の飯田城に籠城したが、「無傷」のまま信濃へ侵攻してきた織田信忠の軍勢を聞き城を捨てて高遠城へ退避、そこで城主・仁科五郎盛信に従って籠城するも、城内に火を放って織田に寝返ることを織田方についていた小笠原信嶺《おがさわら・のぶみね》に伝えたものの信忠に連絡する前に攻撃が始まったため、やむを得ず戦線離脱して上野国の箕輪城へ逃れた[m]実弟が箕輪城主・内藤昌豊の養子として西上野国衆の取次を務めていたので、これを頼ったと云う説が専らである。

武田家滅亡後、上野国が織田信長の重臣・滝川一益《たきがわ・かずます》の領有となると織田家に属す。まもなく本䏻寺の変が起こると、正直は父と弟らとともに神流川合戦で敗走した滝川勢から離脱して小田原田原北條氏の配下となった。そして甲斐国と信濃国で天正壬午の乱が起こり、小田原北條氏、三河徳川氏、そして越後上杉氏らによる三つ巴の勢力争い[n]よく「武田家遺領」の奪い合いと云われるが、これは「織田家の領地」の奪い合いが正しい。の様相を呈してくると、正直らは混乱で「空白の城」となっていた高遠城を奪還した。

ここで機に敏な正直は北條氏直の消極的な戦略に嫌気が差し、依田信蕃《よだ・のぶしげ》や木曾義昌《きそ・よしまさ》といった他の国衆らと共に強気な戦略で合戦を優勢に進めた徳川家康に鞍替えした。その後、家康が南信濃と甲斐を手中に収めると、正直は2万5千石を賜って高遠城主になった。

そして天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で小田原北條氏が滅亡し、家康が関八州を賜ると正直は下総国の多胡《たご》[o]現在の千葉県香取郡多古町。城主になった。

最後は嫡男の居城となった高遠城で死去。享年60。法名は建福寺殿天関透公大居士。

そして父の隣(左側)に眠る保科正光公の墓碑。下総多胡初代藩主で信濃高遠初代藩主:

下総国多胡藩初代藩主であり、信濃国高遠藩初代藩主

保科正光公の墓碑

父は多胡城主の保科正直、母は久松俊勝《ひさまつ・としかつ》[p]妻は徳川家康の母・於大の方。久松氏は尾張国守護だった斯波氏の家臣であったが桶狭間の戦いでは松平元康に与した。の娘。小田原仕置のあと家康の関東入封に従って父とともに下総国多胡1万石を賜る。家康麾下として豊臣秀吉の軍事行動にも参加、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍として浜松城を守備するなどし、その功績から父祖の旧領である信濃国高遠2万5千石を賜り初代高藤藩主となる。

その後も家康に従って各戦に参陣、慶長19(1614)年の大坂冬の陣では淀城の守備、翌年の大坂夏の陣では天王寺の戦いで自らも槍傷を受けるなどしたが見事に武功をあげた。この時の戦働きが二代将軍・秀忠の賞賛を賜る。他に秀忠や三代将軍・家光の上洛と日光社参などの供奉《ぐぶ》を務めた。

正妻は真田安房守昌幸の娘であったが慶長15(1610)年に亡くなっている。氏名や享年は不詳。

元和3(1617)年に二代将軍・秀忠の御落胤で、武田信玄の二人の娘・見性院と松姫尼に養育されていた幸松丸を(幕府老中らより内々に上意を賜った上で)自分の養子に迎えた。幸松丸と生母のお静は高遠城の南曲輪に屋敷を与えられた。この幸松丸はのちの會津藩初代藩主の保科肥後守正之である。なお、それよりも前に正光は実弟の正貞《まささだ》を養子としていたが(正貞本人から辞退する旨の進言を受けて)彼を廃嫡して正之を嫡男としたと云う。

最後は寛永8(1631)年に高遠城で死去した。享年71。法名は大宝寺殿信嚴道義大居士。

なお保科正之はのちに幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科正光をはじめとする保科家への恩義からこれを固辞し、生涯を保科姓で通した。松平姓は三代藩主・正容からである。

See Also諏訪御料人と保科正直・正光の墓所 (フォト集)

【参考情報】

五郎山と仁科五郎盛信公供養碑

天正10(1582)年冬、信濃国の木曽谷二郡を治め信玄の娘(真竜院[q]真理姫とも。現在でも生母の仔細は不明だが『上杉家御年譜』には太郎義信と同母と記されている。)を妻とし武田家中にあって親族衆の一人であった木曾義昌が武田四郎勝頼から離反[r]勝頼が高天神城攻防戦で後詰を送らなかったことや新府城造営で課した多大な賦役《ふえき》と重税に不満が爆発したとも。して織田方に寝返った[s]苗木城主で信長の姪を妻とする遠山友忠《とおやま・ともただ》による調略とする説が専ら。。この知らせを受け取った織田信長は嫡男の織田信忠を先鋒大将として、滝川一益、河尻秀隆、そして森長可《もり・ながよし》らに出陣準備を命じた。甲州征伐の始まりである。
陣触として、信長自らは信忠を先鋒として伊那口から、金森長近が飛騨口から、三河の徳川家康は駿河口から、そして家康の誘いにのった小田原の北條氏政は関東口から武田領の信濃国と甲斐国へそれぞれ侵攻した。

信忠麾下には河尻秀隆[t]信長の馬廻の一つ「黒母衣衆」の筆頭。かって信長の実弟・信勝の暗殺を実行した。を副将とし、森長可、団忠正《だん・ただまさ》、毛利長秀、遠山友忠ら尾張衆・美濃衆が参陣し、摂津国の池田恒興からも二人の息子(池田大助と池田輝政)[u]恒興自身は自国で留守居を命じられた。が、そして滝川一益は軍監となり[v]従軍中に信長から直々に「若い信忠を補佐せよ」との命を受けたと云う。、木曽義昌が道案内として従った。そして信長直轄として参陣したのは蒲生氏郷細川忠興と一色満信、堀秀政、丹羽長秀、筒井順慶、高山右近、そして中川清秀ら。

伊那口を守備する武田勢は家臣が逆心して織田勢を引き入れて高遠城までの道案内を引き受ける有様だった。南信濃の飯田城を守備していた保科正直は城を捨てて高遠城へ逃げ、大島城を守備していた信玄の直弟・逍遥軒信廉もまた戦意喪失し抗うことなく甲斐へ逃亡した。こうして「無傷」の信忠ら織田勢は高遠城へ軍勢を進めるに至った。
信忠は高遠城と三峰川を挟んだ高山[w]現在の国道R152が貫通している白山・五郎山あたり。に登って敵城の構えや動静を確認すると貝沼原[x]現在の富花八幡神社近く。「富県一夜の城」とも。織田勢が高遠城攻略のために築いた陣城で一夜にして築いたことから。に本陣をおいた。

天然の要害で堅固な構えを持つ高遠城を攻めるに、松尾城で降伏した小笠原信嶺を案内人として森長可ら信忠麾下の諸将らが夜中のうちに城の北を流れる藤澤川の浅瀬からよじ登って大手口(現在の搦手口跡)へ詰め寄ることに成功した。そして夜明けになって大手口からの攻撃が始まり、同時に、大将の信忠らも自ら軍勢を率いて城の搦手口(現在の大手口跡)へ攻め掛かった。


今となっては COVID-19 なんて単語が存在していなかった五年前は平成28(2016)年の冬至の候近くに、長野県伊那市にある高遠城跡を攻めてきた。ただ現在の城址は江戸時代が終わるまでに数百年間使われていたいわゆる近世城郭である。したがって甲斐武田家が35年ほど支配した時代の遺構はほぼ残っていないが、その最後の戦いとして知られる高遠城の戦いで敗れた仁科五郎盛信らの武田方の亡骸を弔ったとされる場所が、現在の高遠城址公園と三峰川を挟んである五郎山《ごろうざん》であるらしい。

城址公園の南ゲートを出て高遠町歴史博物館前を経由し人工湖である高遠湖を横目に三峰川の対岸へ。そこから道なりに国道R152へ向かう。ここから五郎山に向かうには車で行くルート[y]R152へ出る前に「五郎山入口」と云う標柱があり、そこから林道(長谷高遠線)で行くようだ。と登山するルートの二つあるようで、今回は登山するコースを利用した。車で行くルートだと山頂の五郎山しか行けず、残りの一郎山《いちろうざん》から四郎山《よんろうざん》を見ることはできないし:|

R152に出たら白山トンネルとは逆に南へしばらく歩いていくとトレッキングコース向けの「五郎山(徒歩)」の案内板が見えてくる:

国道R152沿いにあるトレッキングコース用の入口

「五郎山(徒歩)」の案内板

正面に見えるのが五郎山

勝間集落

案内板を右折して高遠町勝間集落と南アルプスを眺めながら、しばらく坂を上って行くと五郎山の登山口ともいえる鳥居が見えてくる:

ここから仁科五郎盛信公の墓所までは20分ほど

五郎山の鳥居。

ここからはトレッキングコースになっているので登山といっても歩きやすい山道だった。山頂の五郎山までは一郎山・二郎山《にろうざん》・三郎山《さんろうざん》・四郎山《よんろうざん》といった四カ所の祠を経由して20分ほど。

まずは一郎山。ここには「諸士の墓」の祠があった:

高遠城に篭って討ち死した多くの諸士の亡骸を祀った祠

「一郎山」

高遠城が落城し城主の仁科五郎盛信を初めとする多くの首級が信忠の本陣に届けられたが、残された亡骸はここ勝間の若宮原で火葬されて村人によって裏山(現在の五郎山)に葬られたと云う。

そして二郎山。ここには「諏訪はな」の祠があった:

家臣の妻が夫の仇討ちをせんと敵中に斬り込んで自害して果てた

「二郎山」

「諏訪はな」は仁科五郎盛信の家臣・諏訪勝右衛門頼清[z]『信長公記』では諏訪勝右衛門。諏訪頼辰《すわ・よりとき》とも。諏訪満隣《すわ・みちつか》の子で、諏訪頼忠の兄。の妻。夫が討ち死したあとに仇討ちせんと敵中に斬り込み、紺糸の腹巻きに丈なす黒髪を乱して、三尺ばかりの薙刀を持って織田勢を二、三人懸け倒し、最後は短刀を抜いて逆手に持ち自害して果てたと云う。信長公記でも「その比類なき働きは前代未聞なり」と賞賛している。彼女の亡骸も武将らと共に五郎山に埋葬された。

こちらは三郎山。ここには「渡辺金太夫」の祠があった:

大手門の主将として大身の槍を振り回し突撃して討ち死にした勇士

「三郎山」

渡辺金太夫照《わたなべ・きんたゆう・てる》は、元々は徳川家康の家臣として元亀元(1570)年の姉川の戦いで一番槍の功名を立て、信長から「天下第一の槍」と感服が与えられ、のちに「姉川七本槍」と讃えられたと云う[aa]残りは門奈左近右衛門、伊達与兵衛、伏木久内、中山是非之助、吉原又兵衛、そして林平六の六人。。その後は小笠原長忠《おがさわら・ながただ》率いる遠州高天神衆に属していたが、四郎勝頼が高天神城を攻めて落城した際に降伏して武田家の家臣になった。この高遠城攻防戦では大身の槍を振り回し敵中に突入して散々に斬り回し、最後は討ち死した。その働きに織田方も賞賛したと云う。この勇士の亡骸も五郎山に手厚く葬られた。

そして四郎山。ここには「小山田備中」の祠があった:

仁科五郎盛信の副将で、最後は壮烈な討ち死にを遂げた

「四郎山」

小山田備中守昌行《おやまだ・びっちゅうのかみ・まさゆき》[ab]昌成とも。同姓ながら小山田信茂とは別の一族で、石田小山田氏の名跡を継いだ信濃国の国人衆の一人。は高遠城の城代であり、この戦いでは仁科五郎盛信の副将であった。盛信麾下の武将として弟の小山田大学助昌貞《おやまだ・だいがくのすけ・まささだ》と共に滝山城攻めなどに参陣している。また設楽原合戦では、鳶ヶ巣山《とびがすやま》の武田勢を討ち崩した勢いで深追いしてきた徳川方の松平伊忠《まつだいら・これただ》を討ち取っている[ac]織田・徳川連合軍の中で侍大将クラスの死者は伊忠一人だけである。。城中にあって城主・盛信を激励し、大学助と共に防戦に務めたが最後は壮絶な討ち死を遂げた。彼等の亡骸もこの山に葬られた。

そして五郎山の山頂:

信玄の五男で、勝頼とは異母兄弟にあたり、仁科家を継いだ

「五郎山」

仁科五郎盛信公は武田信玄の五男で、信濃国安曇《しなののくに・あずみ》郡の国人衆である仁科家[ad]清和源氏・義光流・武田氏支流とする源氏姓を継承する。の名跡を相続した。四郎勝頼の異母弟にあたる。天正9(1581)年の高遠城入城の際に名を「信盛」と改めたと云う説あり。滝山城攻めなど小田原北條氏や越後上杉氏に対しておこした父・信玄の軍事行動に参陣している。父が亡くなったあとは居城の森城の他に、対織田・徳川に対する防衛線上の高遠城主も兼任した(城代は小山田昌行)。

天正10(1582)年の信長による甲州征伐では兵3千で高遠城に籠城する。兄の四郎勝頼は嫡男・武田信勝と共に典厩らの軍勢を率いて木曾義昌討伐を行ったが織田勢の援軍があって武田勢は敗北し、諏訪上原城まで後退していた。この時に高遠城の盛信から兄に対して後詰を再三要請するも、四郎勝頼は小田原北條氏と三河徳川氏の甲斐侵攻を聞くにおよんで居城である新府城へ退却してしまった。

兄の撤退を知らず3万の織田軍を迎撃する盛信は、信忠からの開城要求を拒否[ae]信忠は高遠の僧侶を使者として、黄金と書状を送り開城を促すも、盛信は要求を拒否した上に僧侶の耳と鼻を削ぎ取って送り返してきたと云う。、織田軍の総攻撃を受ける。織田軍の先陣を賜った森長可らの軍勢が大手口を突破、同時に搦手口からは信忠自ら刀を持って突撃し、柵を破って塀の上へ上がって「一斉に突入せよ」と号令した。信忠の御小姓衆や馬廻衆が我劣らじと乗り込み、大手と搦手から遮二無二に突撃を敢行し、寄手・守手ともに傷を受け、討ち死した者がごろごろ転がっていたと云う:

城内の将兵らは妻子を一人づつ引き寄せて刺し殺し、無論斬り死に覚悟で郭から討って出た。・・・ 負傷者、死人、ごった返して数も知れなかった。(以上、信長公記の現代語訳より)

しかし衆寡敵せず、副将の小山田昌成・昌貞兄弟、城内一の猛将である渡辺照、諏訪頼辰《すわ・よりとき》らが討ち死し、盛信は獅子奮迅で斬りまわったあとに自刃した。享年26。

この戦で高遠城は落城し、織田軍は武田軍の首級4百余もあげ、盛信の首は信長のもとに送られた。

織田軍が引き上げたあと、ここ勝間村の農民たちが亡骸を探して持ちかえり、村の若宮原で火葬にし、この山に埋めた。以来、この山は五郎山と呼ばれるようになった。江戸時代に入り、ときの高遠藩主・内藤頼寧《ないとう・よりやす》は祠を建てて御霊を祀り、高遠城の法幢院曲輪[af]のちに本丸跡に遷された新城神社。に盛信公を祀り、毎年3月2日に例祭をあげたと云う:

江戸時代の高藤藩主が建立したと云う

仁科五郎盛信公の祠

この墓祠の脇に「仁科五郎盛信公・四百回忌」として坐像が建立された:

没後400年後に建立された銅像

仁科五郎盛信公の銅像

以上で、五郎山参拝は終了。

See Also仁科五郎盛信と高遠城攻城戦の戦没者の墓所 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 別名は渭山《いすい》城、または兜山城とも。
b 頼継(とその一族)は諏訪の惣領家と長い間対立しており、諏訪頼重の祖父である頼満に敗れ傘下となった経緯がある。
c 諱《いみな》として有名なのは「信友《のぶとも》」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ「武田の猛牛」と渾名された。
d 自身としては二度目の新府城攻め。
e 現在の長野県伊那市高遠町藤沢。
f 鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。
g 後堅固は甲州流築城術の特徴であり、他にも諏訪原城でも見ることができる。
h 慶長(1598)年に成立した織田信長の一代記。信長を研究する上での根本史料である。
i 自分が城攻めした当時は、こんな素晴らしいパンフレットは無かったけど 😐 。
j 往時は木橋だった。
k これは本丸南東隅の記念碑を建てるために造られたもので、往時は堀内道《ほりないみち》で本丸と繋がっていた。
l 江戸城大奥の女中頭の絵島が高遠へ流刑されてから余生を過ごしたとされる屋敷(復元)。
m 実弟が箕輪城主・内藤昌豊の養子として西上野国衆の取次を務めていたので、これを頼ったと云う説が専らである。
n よく「武田家遺領」の奪い合いと云われるが、これは「織田家の領地」の奪い合いが正しい。
o 現在の千葉県香取郡多古町。
p 妻は徳川家康の母・於大の方。久松氏は尾張国守護だった斯波氏の家臣であったが桶狭間の戦いでは松平元康に与した。
q 真理姫とも。現在でも生母の仔細は不明だが『上杉家御年譜』には太郎義信と同母と記されている。
r 勝頼が高天神城攻防戦で後詰を送らなかったことや新府城造営で課した多大な賦役《ふえき》と重税に不満が爆発したとも。
s 苗木城主で信長の姪を妻とする遠山友忠《とおやま・ともただ》による調略とする説が専ら。
t 信長の馬廻の一つ「黒母衣衆」の筆頭。かって信長の実弟・信勝の暗殺を実行した。
u 恒興自身は自国で留守居を命じられた。
v 従軍中に信長から直々に「若い信忠を補佐せよ」との命を受けたと云う。
w 現在の国道R152が貫通している白山・五郎山あたり。
x 現在の富花八幡神社近く。「富県一夜の城」とも。織田勢が高遠城攻略のために築いた陣城で一夜にして築いたことから。
y R152へ出る前に「五郎山入口」と云う標柱があり、そこから林道(長谷高遠線)で行くようだ。
z 『信長公記』では諏訪勝右衛門。諏訪頼辰《すわ・よりとき》とも。諏訪満隣《すわ・みちつか》の子で、諏訪頼忠の兄。
aa 残りは門奈左近右衛門、伊達与兵衛、伏木久内、中山是非之助、吉原又兵衛、そして林平六の六人。
ab 昌成とも。同姓ながら小山田信茂とは別の一族で、石田小山田氏の名跡を継いだ信濃国の国人衆の一人。
ac 織田・徳川連合軍の中で侍大将クラスの死者は伊忠一人だけである。
ad 清和源氏・義光流・武田氏支流とする源氏姓を継承する。
ae 信忠は高遠の僧侶を使者として、黄金と書状を送り開城を促すも、盛信は要求を拒否した上に僧侶の耳と鼻を削ぎ取って送り返してきたと云う。
af のちに本丸跡に遷された新城神社。