元亀4(1573)年4月12日[a]新暦だと同年5月13日。に信濃国は三州街道《さんしゅうかいどう》[b]のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。の駒場[c]現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。で甲斐の武田信玄が没した。享年53。臨終に瀕して昏睡状態だった信玄はいきなり山縣昌景を呼びつけ、「其の方、明日は瀬田[d]近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。に旗を立てよ」と命じたと云う。これが公の最後の下知とされる。後世には「甲斐の虎」とも「戦国の巨星」とも呼ばれた信玄は、往時は第一流の戦上手であったと共に産業の奨励、治水・池溝《ちこう》の整備など政治家としてもまた卓抜した武将であったことは、没後450年以上たった現代でも広く知られているところである[e]現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。。甲斐武田氏は「武士」の先祖にあたる八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光《しんら・さぶろう・よしみつ》[f]河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。の末孫にあたるが、その流れは甲斐守に任じられた義光がその国で二男・武田冠者義清《たけだのかんじゃ・よしきよ》[g]逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。を授かり、義清の子から数代あって信義が甲斐武田氏の祖となった。甲斐武田氏が盛んになったのは信義から数えて十四代目の信虎からであり、その嫡男が晴信ことのちの信玄である。
初めて信玄公の墓所を参拝したのが今から七年前。山梨県甲府市の武田神社が建つ躑躅ヶ崎館跡を攻めたあとに、公の亡骸を火葬したと伝わる「信玄公火葬塚」へ向かった。閑静な住宅街の中にありながらも、やはりどこか威厳ある雰囲気が漂っていたことを今でもはっきりと記憶している。そして今月初めは梅雨入り直前の週末に山梨県甲州市にある菩提寺の恵林寺を訪問し、(月)命日のみの特別公開とされる公の墓所を参拝してきた。さらに三ヶ月前には滝山合戦と廿里古戦場なるタイトルでブログしたが、この時は初めてしっかりと『甲陽軍鑑』の現代語訳を読んだ。加えて、先月は穀雨の候近くに山梨県立博物館で開催されていた特別展『武田信玄の生涯』にも足を運んで多くの貴重な史料を観賞してきた。
こんな具合に、最近ある意味で「信玄公づくし」の日々をおくってきたのは、今年は令和3(2021)年が信玄公生誕五百年の節目の年でもあることが関係しているかもしれない[h]もちろん COVID-19 感染拡大の緊急事態宣言等の下で自粛生活を強いられていたことも理由ではあるが。。一体、山梨県は多くの著名人を多数輩出しているが、彼等が束になっても到底、信玄公には敵わないだろう。なぜなら信玄公はもはや山梨県をとび越えて「日の本の英傑の一人」なのだから。
と云うことで、本稿では恵林寺の信玄公墓所参拝と、山梨県立博物館の特別展『生誕500年・武田信玄の生涯』、さらには四年前に訪問してきた信玄公の四女・松姫が眠る東京都八王子市の信松院《しんしょういん》と、五年前に高遠城攻めした際に訪問してきた信玄公の側室・諏訪御料人の墓所がある建福寺《けんぷくじ》についても紹介する。
乾徳山・恵林寺と信玄公墓所
臨済宗妙心寺派である乾徳山恵林寺《けんとくさん・えりんじ》は鎌倉時代末期の草創で、戦国時代には甲斐国主で守護である武田信玄が再興し、公の尊崇を受けた快川紹喜《かいせん・じょうき》を美濃国の崇福寺《そうふくじ》より招聘すると、永禄7(1564)年には寺領寄進し菩提寺に定めたとされる。そして信玄没後、喪主の四郎勝頼が天正4(1576)年に三年の秘喪を解いて盛大な葬儀を厳修した。天正10(1582)年に右大将[i]右近衛大将《うこんえのたいしょう》の略。右大臣とも。信長の命で始まった甲州征伐で甲斐武田家が滅亡、信長軍による兵火で諸堂宇が灰燼に帰す中で、国師・快川紹喜と一山の僧侶らが火定《かじょう》した。信長が本䏻寺で斃れたあと天正壬午の乱を経て甲斐国を領した徳川家康によって旧観に復し、五代将軍綱吉の時代に柳沢吉保《やなぎさわ・よしやす》の外護の下で寺運が発展した。明治38(1905)年に火災で堂宇の大半を焼失し、その後に再建されて現在に至る。
今月は、令和3(2021)年の芒種《ぼうしゅ》の候を過ぎ、武田信玄公の月命日にあたる梅雨入前の週末に恵林寺を参詣してきた。この前月に山梨県立博物館の特別展を観賞しに行った時と奇しくも全く同じ時間帯の同じJR中央本線の特急あずさ3号にて立川から移動し最寄り駅の塩山へ。この駅の南口から山梨交通・窪平線のバスに乗って「恵林寺」で下車した[j]所要時間は10分くらい。片道大人350円(当時)。。
「信玄のみち」[k]信玄が整備した軍用道とは全く関係のない現代の道路。と名のついた県道R38に沿って進んだ先にある恵林寺の門前:
駐車場を過ぎた先に建っているのが薬医門形式の総門。黒塗りであることから黒門とも:
この門の扁額に掲げられている『雑華世界《ざっけせかい》』とは:
この門の先は悟りの世界であり、清らかな佛《ほとけ》の住まう世界であり、澄み切った悟りの眼《まなこ》で見るならば、この世界は草木一本、塵一つに到るまで全てが世界で唯一つのかけがえのないものばかりである
と云う意味らしい。
この総門をくぐると朱塗りの四脚門まで杉並木の参道が続いていた:
丹塗りの門は赤門の通称を持つ四脚門(国指定重要文化財)。徳川家康による再建と伝えられる:
切妻造《きりづまづくり》で檜皮葺《ひわだぶき》。本柱と控柱ともに円柱で上下端が粽《ちまき》形をしており、柱下には礎石が置かれている。中通しの本柱は頭貫で繋がれた前後の控柱よりも太く大きいのが特徴:
門をくぐり庭園を経て正面に見えてくる三門は附棟札一枚で県指定文化財:
楼門形式の山門は仏殿前に置かれ、仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る際に三解脱《さんげだつ》する門という意らしい。屋根の棟にはもちろん武田菱があしらわれていた。
この門は、甲斐武田家滅亡後に織田軍による兵火で快川紹喜(国師)ら一山の僧侶らが火定した場所に建ち、快川国師の遺偈《いげ》:
安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却せば火自ら涼し
が刻まれた石碑があった。快川国師ら僧侶は三門の二階に集められて火を放たれたと云う:
遺偈が刻まれた棟札、そして三門を通して眺めた開山堂:
境内から見た三門。四本の隅通し柱は階下が角柱、階上が円柱と云う技工的な造りになっている:
これは三門脇にある天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場。天正10(1582)年、恵林寺は織田軍による焼き討ちにあい、その犠牲となった人たちの遺骨が埋葬されている:
この事変については『信長公記《しんちょうこうき》[l]慶長(1598)年に成立した織田信長の一代記。信長を研究する上での根本史料である。』の巻15の24段「恵林寺を成敗」に記されている。
かって右府公に楯突いた六角次郎[m]佐々木次郎とも。近江国守護大名・六角義賢の次男。信長に攻められた義賢が穴山信君に親書を送った時の使者で甲斐国に居た。を恵林寺が匿っていることが発覚した。織田信忠より恵林寺僧衆成敗の奉行として津田元嘉《つだ・もとよし》、長谷川与次・関長安・赤座永兼《あかざ・ながかね》が派遣された。
奉行らは寺内の僧衆を老若問わず三門に集合させて二階へ上らせた。楼門から三門にかけて刈り草を積んで火を付けた。はじめは黒煙で見えなかったが、しだいに煙はおさまり焼け上がった門の階上に人の姿が見えるようになった。
快川国師は少しも騒がず、正座したまま動かないでいた。他の者たちは泣き叫び、跳び上がりして焦熱地獄・大焦熱地獄のような炎にあぶられ、地獄・畜生道・餓鬼道の苦しみに悲鳴を上げている有様は目も当てられなかった。こうして長老格の者だけでも十一人を焼き殺した。
翌日には老若・上下150人余が焼き殺され恵林寺は滅亡した。(以上、現代語訳)
同じく三門脇には再建時に使われていたとされる礎石が置かれていた:
三門をくぐって正面に見えるのが開山堂で、その背後に建っているのが方丈(本堂):
開山堂は甲州市指定文化財。堂内には、恵林寺を開いた夢窓疎石《むそう・そせき》(国師)、恵林寺と共に壮絶な火定を遂げた快川紹喜(国師)、徳川家康に命じられて恵林寺を再興した末宗瑞曷《まっしゅう・ずいかつ》(禅師)ら三人の木像が安置されている[n]通常、開山堂は開放されているようだが当時は夢窓国師像が調査点検のため安置されておらず閉められた状態だった。:
開山堂の装飾では室町末期から桃山期にかけての技法を垣間見ることができた:
このあとは信玄公の墓所を参拝するため拝観受付がある庫裡へ。庫裡は開山堂に向って右手奥にある:
現在の庫裡や方丈は明治末期に再建されたもの。こちらは武田菱を掲げた庫裡の鬼瓦:
庫裏の入口近くに置かれていた風林火山と大釜。この鍋は、大戦中に恵林寺が東京からの学童疎開を受けれいた際に使われたものらしい:
自販機で拝観券を購入し下足した先にある木箱に入れ、COVID-19感染対策としてアルコール消毒と検温を行った[o]拝観料は大人500円(当時)。感染対策は特に恵林寺の人が監視している訳ではなかった。。
ここからは拝観順路の案内にしたがって進む。ただ、この日は壇家さんの法事があったため方丈(本堂)内への立ち入りは不可だった:
本堂前にある方丈庭園は枯山水の庭園でりっぱな松が生えていた:
このまま廊下を進んで方丈の西側までくると太鼓橋が見えてきた。ここで太鼓橋とは反対側の右手へ進むと恵林寺の庭園が広がっていた:
一方、太鼓橋を渡ると再び拝観路が分岐し、直進すると「うぐいす廊下」を経て武田信玄公墓所へ、右折すると柳澤吉保公の墓所へ至る。
まずは「うぐいす廊下」。歩くと床の板と板とがきしみ合って音を立てる「うぐいす張り」となっている。右手に整然と並んでるのは壇家の位牌:
うぐいす廊下の先には霊廟にあたる明王殿と信玄公の墓所がある。:
この明王殿には信玄公が模刻させたと伝わる等身大の不動明王(武田不動尊三尊像)が安置されているが、当時は修復・研究調査のため東京芸大に運ばれていたために不在だった。幸い、それよりも前に実物を山梨県立博物館で開催されていた「生誕500年・武田信玄の生涯」展で観賞することができた 。こちらの不動明王坐像は、その際に入手したカタログからの写し:
この坐像は信玄が亡くなる前年の元亀3(1572)年に京都の造仏所「七条西仏所《しちじょうにしぶっしょ》」の仏師・康住《こうじゅう》を招き、信玄自らを不動明王に見立てて対面で彫ったものだと云う。そののちに四郎勝頼が恵林寺に安座して点眼開光の供養を行ったと伝わる。
そして明王殿の裏手に信玄公の墓所(県指定史跡)がある:
墓所には全高349.6㎝の五輪塔一基、全高369.6㎝の宝篋印塔一基が建立されていた:
これらは江戸時代の寛文12(1672)年4月12日の信玄公百回忌が厳修された際に、往時の恵林寺住職が甲斐武田家の遠孫・旧臣の子孫592人の浄財を得て建立されたと云う。
武田信玄は、のちに甲斐国を統一した武田家第十八代当主・武田陸奥守信虎の次男として大永元(1521)年11月3日[p]新暦だと同年12月1日。に要害山城(石水寺城)で誕生した。母は信虎と対立していた国衆・大井信達《おおい・のぶさと》の娘で和睦後に人質として輿入れしてきた大井の方(大井夫人)。ちなみに信達と信虎は同族である[q]この時代、甲斐国や信濃国に割拠していた国衆のほとんどは「甲斐武田氏の祖」にあたる武田信義の子孫とされる。。出産時、信虎は駿河国今川氏の侵攻を受け、これを撃退したことから勝ち戦に因んで幼名は「勝千代」とされた。
大永3(1523)年に4つ上の兄・竹松が夭折《ようせつ》したことから勝千代が嫡男となる。天文5(1536)年に元服し、室町幕府第十二代将軍の義晴から偏諱を賜り「晴信」と改め、左大臣・三条公頼《さんじょう・きんより》の娘を夫人(三条の方)として迎えた[r]正妻は扇ヶ谷上杉家当主・朝興の娘で上杉の方と呼ばれた。政略結婚であるが仲が良かったのだと云う。初産が難産して夫人と子が亡くなった。。初陣を飾ったのは同年の冬とされる。
晴信に弟の信繁が誕生して以来、父・信虎との関係は悪化していたが、天文10(1541)年、晴信は重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らと図らい、信虎を駿河国の今川義元の下へ追放し[s]義元は信虎を人質にとれば甲斐国は属国になったも同然と喜んで協力し信虎を軟禁したと云う。、甲斐武田家第十九代当主を相続した。
晴信が新しい甲斐国の主となると、諏訪頼重《すわ・よりしげ》が治める信濃諏訪を侵略し天文11(1542)年にこれを平定・掌握した。この時、頼重が前夫人との間にもうけていた14歳の姫君を側室として迎えた。彼女がのちに諏訪四郎勝頼を生んだ諏訪御料人である。
その後も信濃国の計略を推し進め、天文13(1544)年に伊那を平定、小県・佐久へ侵攻すると、今度は葛尾《かつらお》城主・村上義清が猛烈に反抗した。義清の戦法は苛烈であった。味方の諸将の苦戦をかえりみず、手勢を集められるだけ凝集《ぎょうしゅう》させ無二無三に晴信が居る本陣に斬り込むのである。この戦法は義清がのちに越後の長尾景虎に伝授し、景虎が「車懸り[t]読みは「くるまがかり」。名付け親は信玄であり、景虎(謙信)をはじめ上杉勢はそう呼ばれていたことは全く知らなかったらしい。」として完成させることになる。この戦法をとられると、たとえ戦に勝利しても味方の被害が甚大であった。天文17(1548)年に晴信率いる武田軍と村上義清らが信濃国の上田原で激突した。この時、晴信は板垣信方、甘利虎泰ら多くの宿将を失い、自らも劣勢の戦局を変えるために一騎討ちを挑むも初老の義清に不覚を取って負傷した。この戦は山本勘助の助言と味方の踏ん張りで、なんとか村上勢を追い返すことができたが、結果は大敗北であった。
若い晴信の優れた点は「相手の性格を分析する力」と「失敗から学ぶ」ことであった。戦う相手を事前によく知り、直接攻撃でかなわないと分かると、戦をする前に計略で相手の弱点を突くのである。そして初戦に負けても次は負けない戦略を練り、さらに軍制の改良や練度の強化を惜しまなかった。晴信は、このあとの川中島合戦をとおして、この「戦わずして勝つ」という孫子の教えを基本とした戦闘指向を完成させていくのである[u]これ対して、長尾景虎(上杉謙信)の戦闘指向は「敵の大将を討ち果たすことに専念する」である。。
北信の雄で猛将の義清には晴信もだいぶ苦労したが、天文20(1551)年には義清の支城・砥石城を、天文22(1553)年に本城の葛尾城を陥れることに成功した。城を落ちた義清は越後の景虎を頼った。これで晴信は諏訪に出兵してから足かけ12年でほぼ信濃一国を掌握した。このとき晴信、齢33である。
義清の他に、同じく晴信に追い落とされた深志城主の小笠原長時・高梨政頼らもまた越後を頼った。景虎はいっそう緊張し、いっそう張り切って晴信との対決を決心した。川中島合戦はこうして始まった。
古来より川中島合戦は五回あったとされ、そのうち第一次から第三次までと第五次は「モグラたたき」的な有様であった。景虎は晴信を討ち果たすことを模索した戦術をとったが、晴信は景虎との決戦を徹底的に避ける戦術をとった。今まで勇猛で鳴らしてきた甲軍がそれまでにない慎重な戦いぶりで越軍との正面対決を回避していたのである。互いに相手の戦術の裏をかき、相手よりも高いレベルの軍法を執るといった具合に、別な意味で「共に切磋琢磨する」ことで、戦国時代の日の本において、この両雄の軍隊だけが異常なほど練度が上がってしまう現象が起こった。これが甲軍と越軍が「戦国最強」と云われた所以である。
そして永禄4(1561)年の第四次は八幡原合戦で正面衝突するに至った。長尾景虎あらため上杉政虎は決戦前夜の9月9日に諸将を集め、夜明けには武田晴信あらため武田信玄の旗本へ斬り込みをかけ、無二の一戦を遂げて雌雄を一気に決めると宣言した。そして後半戦には自軍が敗北するであろうこと予言した上で、あえて「敵の大将を討ち果たす」ために、自らが完成させた車懸りの戦術を実行したのである。
ただ信玄にとって謙信との戦いは領土掌握の目的からすれば完全に脇道であった。謙信とは戦いたくはなかっただろうし信濃国より北にも野心は無かった。うるさく仕掛けてくるのでやむなく相手をしていたのだろう。信濃国の掌握に一応の目処がついた時、信玄は関東の地に手を伸ばしていた。箕輪城主の長野業政と業盛《ながの・なりまさ》《なりもり》父子が猛烈に反抗したが最後には陥れることができた。しかし此の地でも謙信が立ち塞がった。謙信と違い、信玄には戦を楽しむ趣味はない。戦はあくまでも領土掌握の手段でしかなかったのである。
そんな信玄に思いがけないチャンスが舞い込んできた。永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで駿河国の今川義元が討ち取られたのである。目的のためには手段を選ばない信玄であったが、義元に対してだけは例外であった。義元は信虎追放に協力し晴信(信玄)を甲斐国の国主であるとどの国よりも真っ先に認めた上に親戚関係を築いてきた。いかに駿河国が「美国」であろうとも、義元が存命中はこの土地に野心を抱くわけにはいかなかったのである。が、その義元が死んだのだ。しかも跡取りの今川氏真《いまがわ・うじざね》は知恵も気概もない男で、父の弔い合戦など考えもせず、日々道楽に明け暮れている。これで駿河国を手に入れても良い、そして義元が成し得なかった天下にも望みを持ってもよいと信玄は思ったであろう。信玄、齢40のときである。
さらに駿河国へ追放していた父・信虎から「駿河に手入れして今川勢を味方に引き入れよ」としきりに使いをよこしてくる始末であった。今はそれができる形勢であると。信玄は駿河国攻略に猛反発していた嫡男の太郎義信とその家中を処分した。太郎は廃嫡された上に幽閉後に自刃し、その妻(のちの嶺松院《れいしょういん》殿)は娘と共に今川家に送り返された。妹を送り返され、縁を切られて腹を立てている氏真との衝突は時間の問題となった。
永禄11(1568)年の冬、信玄は35千の兵を率いて甲府を進発し駿河国へ侵攻した。薩埵峠《さったとうげ》で迎撃してきた今川勢を蹴散らし、今川氏居館(のちの駿府城)を占領して江尻城を築城した。氏真は駿府を捨て、舅にあたる相模国の北條氏康に支援を求め、みずからは 懸川古城に籠城した。また信玄の誘いにのって共に今川氏の所領へ侵攻した三河の徳川家康は井伊谷城や浜松城など遠江国で大井川を境に西側の領土を略したが、この線引きが曖昧だとして、のちに信玄との共同作戦から離脱している。
しかしながら信玄を取り巻く各国の利害関係の複雑な交錯により、信玄の駿河侵攻は一挙には遂げることはできず、引揚げと出陣を幾度となく繰り返し、その間に小田原北條氏の武蔵滝山城攻めや小田原城攻め、そして三増峠合戦などあって、結局は足かけ三年もかかって元亀2(1571)年のはじめ頃になんとか掌握することができた。このとき信玄は齢51である[v]この年の冬に、かねてから病床に臥していた北條氏康が死去した。氏康の遺言には「再び武田と和睦せよ」とあった。。
ついに甲斐・信濃・駿河の三カ国を手に入れた信玄は、この頃からしきりに遠江や三河に入って家康の城を攻め立てている。もとより駿河侵攻で家康と共同作戦を組んだのは信玄の本心ではない。駿河攻めで横槍されないための封じ手であり、その駿河が手に入った以上、隣国を奪取することは当初から絵を描いていたことである。これは、すなわち今川義元が通り、そして通ろうとした道で京(上洛)を目指していたと考えるのが自然であろう[w]信玄としては謙信よりも義元の方がライバルではなかっただろうか。志半ばで亡くなった義元と同じルートで上洛することで「義元越え」を成就したかったのではないだろうか。。
上洛の準備が整った元亀3(1572)年の冬近く、甲府を進発し小田原北條氏の援軍と合流して、遠江・三河の家康領へ侵攻した。かくて行われたのが三方ヶ原合戦である。信玄は益なき戦いはしない男である。家康の居城・浜松城を攻めず三河へ向かおうとしたところ、家康と織田信長の援軍が追撃してきた。信玄は出来ることなら戦わずにすませたいと思っていたが、窮鼠猫を噛むがごとく家康が挑んできたので応戦した。織田の援軍の敗走と四郎勝頼の別働隊が加わったことで徳川勢は大敗北して浜松城へ潰走する。信玄は意地になって大局を忘れるような男ではないので、ここまで抑えつけておけばこの先害はないと見て浜松城を攻めるようなことはせず、西へ向かって浜名湖北岸の刑部城《おさかべ・じょう》[x]現在の静岡県浜松市帰宅細江町。で新しい年を迎えた。
ここで、有名な『甲陽軍鑑[y]甲斐武田氏の譜代家老の一人である春日虎綱(高坂弾正昌信)の口述を書き継いだ軍学書で、武田信玄や勝頼の合戦記録として、のちに小幡景憲《おばた・かげのり》が写本したものが最古の文献として現存している。』の中から三方ヶ原合戦の記述を探してみた。本書20巻23冊からなる甲陽軍鑑は特に研究素材として多くの校訂版や編集版が存在し、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができる。原本写しの良し悪しはあるけど、一番読みやすい現代語訳の写しは『甲斐志料刊行会編〜甲陽軍鑑』(本編20巻物・1935年)だろう。
たとえば『甲陽軍鑑・品第三十九目録・巻第一二』(コマ番号だと172)に:
一、元亀三壬申年、初の正月廿一日に信玄公法華宗身延へ御使をつかはされ候子細は、去年亥未に織田信長叡山をやくにより、身延を叡山になさるべく候間身延山を御所望あり、其代には長野に寺を立、今の身延より大きに御普請仰付られ可相渡と破仰、身延山各出家衆御返事に・・・
とあり、信玄公が遠江・三河に侵攻する元亀3(1572)年の初めに、この前年に信長によって焼き討ちされた比叡山延暦寺を甲斐国の身延山《みのぶさん》[z]現在の山梨県南巨摩《みなみこま》郡身延町と早川町の境にある山で、同地にある日蓮宗総本山・久遠寺《くおんじ》の山号。に復興しようと考えていたことが記されている。
さらに読み進めると(コマ番号だと173〜174):
一、同壬申年十月中旬に、山縣三郎兵衛信州いなへ打越、夫より東三河へ出て、信玄公遠州おもてへ御發向をきき・・・、信玄公十月中旬に甲府を御立あり、遠州たたら・飯田両城落として御仕置あり、・・・、家康八千の惣人数は五千是迄出て、信玄公と云名大将の、しかも三萬餘の大軍と家康出給はぬに合戦仕り、まくるは必定なり、・・・
とあり、まず山縣昌景を別働隊として信州伊那から東三河へ侵攻させ、信玄自らは本隊を率いて甲府を進発し(駿河から)三河に入り飯田城などを落としながら家康の領地に侵攻したことが記録されている。
このあと信玄公は四郎勝頼、典厩信豊、穴山信君《あなやま・のぶただ》の三人を大将にして二俣城攻めに入るが、その前に偵察にやってきた本多平八郎忠勝、大久保忠佐ら徳川勢と遭遇戦となる。忠勝が殿をつとめて武田勢の猛攻をかわす戦(一言坂の戦い)で次のような記述があった:
・・・、そこにて本多平八郎其歳廿五歳なれ共、家康したにおいて度々の誉有よし、内々武田の家へも聞ゆる様なりつるが、彼平八郎甲《かぶと》にくろきかの角を立て身命を惜しまず敵・味方の間へのり入、引上たる様子は甲州にてむかしの足軽大将原美濃守・横田備中・小幡山城・多田淡路・山本勘介此五人以来は信玄公の御家に多《あまた》なき人に相似たり、家康少身の家に過たる平八郎也、其上三河武者十人か七八人は唐の頭をかけて出る、是も過たりと、小杉右近助と申信玄公御旗本の近習、歌によみてみつけ坂にたつる、其歌は、家康に過たる物は二ッある唐の頭に本多平八、とよむ、・・・
家康の家臣である本多忠勝の名は勇猛な甲軍でも聞き及んでいたらしく、武田家中で云えば原美濃守虎胤《はら・みののかみ・とらたね》や横田備中守高松《よこた・びっちゅうのかみ・たかまつ》、あるいは山本勘助に匹敵するほどの武将と素直に認めていたようだ。
また三方ヶ原で家康を叩きのめした後、家臣の多くがこのチャンスを逃さず浜松城攻めを強く進言していたことが記録されていた。しかし高坂弾正が城攻め中に信長の後詰があると取り返しの付かないことになると進言したことで浜松城攻めはなくなったようだ:
・・・、如此に候と有儀をもつて穴山殿・四郎殿・典厩・逍遥軒、家老衆には馬場美濃・山縣三郎兵衛・内藤修理・小山田兵衛尉・小幡・眞田を始め濵松の城御せめなされ尤といさめ申上る、高坂弾正申は各人《おのおの》勿体なき事を申上られ候者かな、信長と家康と内談候し、濵松より美濃・岐阜の間に信長衆打続き陣取たる事必定なれば、只今濵松を御せめ有、はやき分にて廿日もかかり候は、其間に信長後詰をいたされ、本坂へ五万ばかり、今きれすぢを三万もはたらき申へく候、・・・
信玄は翌元亀4(1573)年の正月11日に刑部を進発して三河国に侵入し、家康方の菅沼定盈《すがぬま・さだみつ》が籠もる野田城を囲んだ。水の手を断ったあと城兵を助命すると云う条件で開城させたが、この攻囲中に信玄の病状が悪化した。武田軍が野田城を受け取ると、そこから豊川上流二里半にある長篠城に退り、さらに軍をここに留め置き、信玄自らは長篠から北一里半の渓谷地帯にある鳳来寺へ移って養生した。間もなく、いくらか病状が快方に向ったので、四郎勝頼に兵1万[aa]これに小田原北條氏からの援軍を加えているので、おそらく箝口令を敷いたとされる。を与えて家康の抑えとし、自らは豊川下流にある三河吉田城を我攻めしたが、またもや病状が悪化し、ついに昏睡状態になったため甲斐国へ撤退するが、翌4月12日に信州下伊奈の駒場で息を引き取ったと云う。享年53。
これより今川義元が夢を見、信玄が受け継いだ上洛への道はついに成就できず、彼も夢半ばで終わった。
これについて、同じく『甲陽軍鑑・品第三十九目録・巻第一二』には(コマ番号だと179〜181あたり):
・・・八千餘りもって吉田を、がぜめにと仰付られ、・・・、四月十一日未の刻より信玄公気相あしく御座候て、御脉殊の外はやく候、又十二日の夜亥刻に、口中にはくさ出来、御歯五ッ六ッぬけ、それより次第によはり給ふ、既に死脉うち申候につき信玄公御分別あり、各譜代の侍大将衆御一家にも人数を持ち給ふ人々悉く呼ばれ信玄公仰付られるは、六年先駿河出陣まへ板坂法印申候は、膈《かく》と云煩なりといひつる、・・・
・・・ 信玄わづらひなりとふ共、生て居たる間は我持の国々へ手さす者は有間敷候、三年の間ふかく謹しめとありて、御めをふさぎ給ふが、又山縣三郎兵衛をめし、明日は其方旗をば瀬田にたて候へと仰らるるは、御心みだれて此如、然共少く有て御めを開き仰らるるは、・・・
と綴られている。馬場・山縣・内藤ら8千余で強引に吉田城を攻めている時に信玄公の具合が悪くなった。脈が早くなり、口の中に腫物ができて 5、6本の歯が抜け段々と弱っていった。往時、公の従医《じい》であった板坂法印《いたさか・ほういん》[ab]板坂宗商《いたさか・そうしょう》とも。はじめは足利義輝の侍医だった。武田家滅亡後は加藤清正に仕えた。はこの病は膈《かく》であると診ていた。膈とは現代の胃癌・食道癌に相当する。
死の瀬して信玄公は「三年の間は戦を謹め」と云い残して目を閉じた。そして昏睡状態にも拘らず山縣昌景を呼びつけて「其の方、明日は瀬田に旗を立てよ」と下知したと云う。ここで、なぜ山縣かと云うと、赤備えの勇将である昌景は公の得意な戦術を担う別働隊の大将であり、殊更に先陣を賜っていたからで、ここでも瀬田へ先行し、到着したら風林火山の軍旗を立てて(信玄公がいる)本隊を待てと云う意味であろう。
信玄公の遺言についても甲陽軍鑑に綴られている[ac]但し、信玄公の(功徳を思い出すかような)教えと共にばらばらに記述されていて分かりづらい。が、その中で興味深いのが四郎勝頼に対して「越後の謙信を頼れ」という節(コマ番号だと181あたり):
・・・ 次に勝頼弓矢の取様輝虎と無事を仕り候へ、謙信はたけき武士なれば、四郎わかき者にこめみする事有間敷候、其上申合せてより頼むとさへいへば首尾違ふ間敷候、信玄おとなげなく輝虎を頼と云ふ事申さず候故、終に無事に成事なし、必勝頼謙信を執して頼むと申べく候、さように申、くるしからざる謙信也、・・・
で、信玄公は宿敵である謙信と和睦するように勝頼に告げた。その理由として、「謙信は勇ましく頼もしい武士なので、若いお前の弱みにつけ込んでくることは無いだろう。皆で『頼む』とさえ云えば間違いが起こることは無い」と述べた。長年の戦いで謙信の性格を見抜いていたことが分かる。武田家の後事を託すに値する男であると云っているのである。その一方、「儂は大人気なかったので謙信に『頼む』と云うことができず、とうとう今まで和睦することができなかった」と自らの後悔を語っている。さらに念を押して「必ず謙信に『頼む』と云うのだ。そうすればお前に悪いことはしない。それが謙信と云う男だ」とも。
信玄公の辞世の句は:
大ていは 地に任せ 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
この後は、再び「うぐいす廊下」を通り拝観路の分岐点まで戻って柳澤吉保公の霊廟へ:
開基二階堂道蘊の供養塔の脇を通って正面に建つのが柳澤吉保公霊廟。近づくと御堂に照明が灯いて鎮座している公の坐像を拝見できる:
こちらが信玄公墓所を含む案内図:
霊廟左手奥にあるのが柳澤吉保公夫妻の墓所(甲州市指定文化財)。参拝当時はこれ以上近づくのが禁止されていたため遠くからの拝見となった:
江戸時代中期、徳川五代将軍綱吉の寵愛を受けのちに大老格の地位にあって、甲府15万石藩主であった。はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたが、享保9(1724)年に嫡男の吉里が大和郡山15万石に転封となったため、吉保公の想いをくんでここ恵林寺へ改葬された。自らは甲斐源氏の一門衆である一条氏の末裔と称していた。
案内図によると柳澤吉保公墓所の奥には武田家臣供養塔があるが、こちらも近づいて拝見することは叶わなかった:
一応は配置図があった:
信玄公の四名臣として「武田四天王」の呼び名がある馬場美濃守信房公、山縣三郎兵衛尉昌景公、内藤修理亮昌豊公、そして高坂弾正忠昌信公の供養塔はもちろん、四郎勝頼を支えた家臣の供養塔がある他、珍しいところでは九州肥前国平戸藩主・松浦肥前守鎮信《まつうら・ひぜんのかみ・しげのぶ》公の供養塔もあるようだ。
こちらは大庫裏へ戻る途中に拝見した池泉回遊式の「恵林寺庭園」:
夢窓国師の代表的な築庭庭園として国の名勝指定を受けているらしい。
他に気になったものとしては、大庫裏の大広間の床間に掛かっていた武田二十四将図。色々なところで見たものとは違った絵図だった。詳細は不明。
以上で拝観は終了。このあと大庫裏を出て向ったのは武田不動尊。通常は、この奥にある霊廟に「武田不動尊三尊像」が安置されているが、当時は修復に出されていて見ることはできなかった:
ちなみに、この左手奥には信玄公の父である信虎公の墓所があった。そして境内にあった茶屋にて名物の武者団子で一服して恵林寺をあとにした。
最後は「信玄のみち」こと県道R38を渡って御土産・御食事処の「信玄館」へ:
ここには黄金の武田信玄公坐像がある:
これは店の開館33周年と武田信玄公生誕500年を記念して、もともと置かれていた信玄公像を黄金色にお色直ししたものらしい。黄金色にしたのは、その昔に甲州市塩山には金山があったことが理由の一つなのだとか:
最後も信玄公坐像。こちらは今回訪問した恵林寺の最寄り駅となる塩山駅北口に鎮座していたもの:
諏訪法性兜[ad]前立に金色の角を持つ赤鬼を配し、頭頂部から後頭部にかけてヤクの毛があしらわれ、あたかも獅子をイメージさせるかのような兜。諏訪大社は古来より日の本随一の軍神が祀られていたことから。《すわほっしょうのかぶと》を付けていない、まさに甲府の躑躅ヶ崎館にいる「御屋形さま」って感じがにじみ出ている。この像は信玄公生前に描かれ、現在は寿像として有名な高野山の成慶院所蔵の長谷川等伯筆「武田信玄公画像」を参考にして昭和63(1988)年に制作されたものらしい。
以上で恵林寺訪問と信玄公墓所参拝は終了。
恵林寺と武田信玄公墓所 (フォト集)
機山公と正室・三条夫人の墓所 (訪問記)
躑躅ヶ崎館攻め (フォト集)
【参考情報】
- 恵林寺のみどころ(臨済宗・妙心寺派・乾徳山恵林寺のホームページ)
- 恵林寺寺境内に建っていた説明板と案内図(恵林寺/甲州市教育委員会)
- Wikipedia(武田信玄)
- 海音寺潮五郎 『武将列伝・戦国揺藍篇』(文春文庫刊)
- 乃至政彦『謙信越山』(JBpressBOOKS刊)
- 甲斐志料刊行会編 『甲陽軍鑑志料集成』(甲斐志料刊行会)
- 太田牛一著・中川太古訳 『現代語訳・信長公記』(新人物文庫刊)
- 武田家の史跡探訪(恵林寺)
特別展「生誕500年・武田信玄公の生涯」
武田信玄公は令和3(2021)年に生誕500年を迎えた。山梨県立博物館では開館15周年記念と併せて、信玄公53年の生涯について多くの史料を展示する特別展『生誕500年・武田信玄の生涯』を3月から5月まで開催していた。国内は COVID-19 感染拡大中で、首都圏は二回目の緊急事態宣言が始まろうとする直前の週末に、感染対策をとりながら県境を越えて観賞してきた:
展示されていた史料は、国宝、重要文化財、県指定または市指定文化財など150点にものぼり、信玄公誕生から死没までに発生したイベントに応じた年代順に陳列されていた。これらの史料は甲斐武田家のみならず近隣の小田原北條氏、駿河今川氏、三河徳川氏、尾張織田氏、そして越後上杉氏らが蔵する貴重な品々が含まれていた。
さらに今回の展示終了後に補修・調査のため当分の間はお目にかかることができないことが決定している恵林寺(武田不動尊)蔵の不動明王坐像と二童子立像(共に県指定文化財)も展示されていた。
こちらが山梨県立博物館。周辺には孫子の風林火山の軍旗や武田菱の幟などが建っていた:
COVID-19 感染対策としてエントランスからではなく職員出入口から入館し、消毒や検温を終えてから観覧料を支払い企画展示室へ。係の人は入場者数を制限していると云っていたが、さすがにじっくり見ていると渋滞し始めたので年代順に拘らずに密を避けながら観賞してきた。
また展示品は全て撮影不可であったが売店で公式の展示図録(定価2,000円)[ae]4月以降に購入した場合は正誤表あり。を購入し、見てきた展示品を思い出しながら何度か見返したっけ :
特別展「生誕500年・武田信玄の生涯」 (フォト集)
山梨県立博物館
山梨県笛吹市御坂町成田1501-1
金龍山・信松院と信松禅尼の墓所
武田信玄の子女は一説に七男・五女[af]他に養子として織田信長の五男・勝長(津田源三郎)が居る。とされるが、信玄(勝千代)が12歳の時に迎えた正妻で扇ヶ谷上杉朝興の娘との間の子は難産の末に母子とも死去していると云う。また継室の三条の方との間には太郎義信、黄梅院《おうばいいん》、竜芳《りゅうほう》[ag]信玄の次男であるが盲目であるため嫡子にはならなかった。、信之[ah]齢11歳で夭折《ようせつ》したと云う説が専ら。、見性院《けんしょういん》、そして真竜院[ai]真理姫とも。現在でも生母の仔細は不明だが『上杉家御年譜』には太郎義信と同母と記されている。。そして側室の諏訪御料人《すわ・ごりょうにん》との間には諏訪四郎勝頼、同・禰津御料人との間には信清、同・油川夫人との間には仁科盛信《にしな・もりのぶ》、葛山信貞《かつらやま・のぶさだ》、松姫(信松禅尼)、菊姫(甲州夫人)を授かったとされる。
この兄弟にあって四女の松姫は、永禄10(1567)年に齢7歳で織田上総介信長の嫡男・勘九郎信忠との婚約が相成った。しかし元亀3(1572)年の三方ヶ原合戦以降、織田家と武田家は手切れとなり敵対関係となったためついに婚姻には至らなかった。さらに両家の関係が悪化の一途をたどる中、天正10(1582)年初めには兄・盛信の居城である高遠城へ避難、そして織田・徳川勢による甲州征伐が始まると甲斐の新府城へ避難、さらに高遠城が落城し兄・勝頼が新府城を放棄すると兄の一行とは別行動で、盛信の長男・信基と末娘・小督姫、勝頼の娘・貞姫、そして小山田信茂の孫娘で養女・香貴姫を連れて父祖の地甲府をあとにし武蔵国多摩郡恩方《おんがた》[aj]現在の東京都八王子市。へ逃避した。
こののち甲斐武田家が滅亡すると松姫は小田原北條家の庇護の下、武蔵国浄福寺城近くにある心源院で出家して法名を信松禅尼とした。松姫22歳であったと云う。そして天正18(1590)年の太閤秀吉による小田原仕置で北條家が滅亡して徳川家康が関八州を与えられた頃、信松禅尼は八王子の御所水《ごしょみず》へ移り庵を建てて寺子屋を開くなどして甥の信基と三人の姪を養育した。この庵が、現在の東京都八王子市台町《はちおうじし・だいまち》三丁目十八番の二十八にある曹洞宗の金龍山信松院《きんりゅうざん・しんしょういん》である:
こちらは松姫の東下之像:
信松院の山門はもちろん、仏殿や庫裏には武田菱があしらわれていた:
門をくぐって境内に入り、仏殿と庫裏前を通った正面に建っているのが御所水観音堂。松姫こと信松禅尼の庵跡である:
一際目立つ琥珀色の瓦を持つ大屋根、その左右と正面には守護神の金龍があしらわれ、純白色の柱と壁を持つ観音堂上には五重塔[ak]釈迦の御新骨を奉安するため塔で、仏法の「五蘊皆空《ごうんかいくう》」を教えを示す。の五層目を表す仏塔(舎利殿)が建立されている。観音堂の金色の棟飾りは気高い観世音菩薩の御姿を表現しているそうで、御本尊である聖観世音菩薩像は信松禅尼が生きている頃より大切に守られて今日に至る。
この堂の右手奥を進むと墓所になるが、その中央には信松禅尼(松姫尼公)の墓所がある:
関東に入封した家康は関東の代官頭に武田家旧臣の大久保長安《おおくぼ・ながやす》を任じ、武蔵国八王子に所領を与えた。長安は国境警備を目的に同じ武田家旧臣で構成されるのちの八王子千人同心[al]江戸幕府の職制の一つ。幕府の天領である武蔵国多摩郡八王子に配置された譜代旗本とその配下である。甲州街道往来を整備・監視した。を置いたが、彼らの心のよりどころとなったのが信松禅尼であったと云う。
信松禅尼が養育した仁科盛信の長男・信基は徳川家の旗本として仕官、同末娘の小督姫は出家して法名を玉田院と称し、勝頼の娘・貞姫は旗本の宮原義久の正室となった:
信松禅尼は元和2(1616)年に亡くなった。享年56。
一説に八王子に落ち延びていた松姫のもとに許婚である信忠から迎えの使者が訪れ、それに従い京へ向かう道中で本䏻寺の変の報を受け取り、後に出家すると父・信玄と兄弟ら武田一族とともに信忠の冥福を祈ったと云う。また慶長18(1613)年には異母姉の見性院と共に徳川2代将軍秀忠の御落胤で会津藩初代藩主となった保科正之公を養育している。
信松院へは、今となっては COVID-19 なんて単語が存在していない一昨々年《さきおととし》は平成29(2017)年の白露の候すぎに訪問した。
松姫と金龍山信松院 (フォト集)
【参考情報】
- 「松姫さまの生涯」(臨済宗・金龍山信松院のホームページ)
- 金龍山信松院に建っていた説明板
- Wikipedia(信松尼)
大寶山・建福寺と諏訪御料人の墓所
今となっては五年前は平成28(2016)年の冬至の候に長野県伊那市にある城跡を攻めてきたが、それに先立って武田信玄(晴信)公の側室にあって、現代ドラマや映画では湖衣姫《こい・ひめ》とか由布姫《ゆうひめ》の名で知られる諏訪御料人の墓所を参拝してきた。
諏訪御料人は実名や生年が不詳とされているが、甲陽軍鑑によると信州経営の第一歩に成功して信濃国諏訪郡を一手に治めた晴信は、諏訪頼重が前夫人との間に生した14歳の姫君が「かくれなき美人」であったので側室にしたとある。例えば『甲陽軍鑑・品第廿四』には(コマ番号だと97あたり):
諏訪の家断絶、但し頼茂息女其年十四歳になり給ふ、尋常かくれなき美人にてまします、これを晴信公妾にとある儀なり、然れ共板垣信形・飯富兵部・甘利備前三人を始め各家老衆諌め申さるるは、退治なされたる頼茂息女を召しおかるる儀、女人と申すとも敵にて候へは如何ごさろうへ申上らるる、さりながら三年以前に駿河より召しよせらるる生國は三河牛くぼの侍山本勘介ささやいて、・・・
とあり、板垣信方・飯富虎昌・甘利虎泰ら譜代家老らが「いかに女人とは云え、おん敵の片割をお側に召しおかれることはよろしからず」と云って諌めたが、山本勘助は「晴信公は御年こそお若けれ、最もすぐれた武将の素質をお持ちです。これほどの御大将に諏訪家の遺臣や親類どもが不逞なことを企てましょうぞ。かえって御腹に御曹司誕生し給うものなら、諏訪の家を立てていただけるであろうと出仕をのぞみ、忠心励まして仕えるでありましょう。これは武田家のおためになりはしますまいか」と説いたので家老共は納得した、とある。そして、この姫を甲府の躑躅ヶ崎館に迎えて諏訪御料人と呼ぶようになった。
それから天文15(1546)年に諏訪四郎勝頼[am]幼名は不詳、「四郎」は通称。「勝」は父の幼名である勝千代から、「頼」は諏訪氏の通字。が誕生した。しかしながら、この時期の諏訪御料人と勝頼の幼年時代(乳母や傅役など)に関する記録が少なく詳細は不明なのだとか。元服した四郎勝頼は、城代の秋山虎繁《あきやま・とらしげ》に代わって信濃国高遠城主となり、諏訪御料人もこれに付き従ったとされる。
そして諏訪御料人の墓所は、南信濃で諏訪家の家老の系譜を持つ保科家の菩提寺である臨済宗の大寶山建福寺《だいほうざん・けんぷくじ》にある。
当時は宿泊先だった松本からJR篠ノ井《しののい》線で辰野へ向かいJR飯田線に乗り換えて伊那市駅へ。駅前からJRバスで中央病院行に乗車し高遠駅で下車した[an]片道520円(当時)で25分ほど。。そして信州伊那アルプス街道沿いにある高遠駅から建福寺までは徒歩で5分ほど。この高台の上が境内:
こちらが建福寺の山門:
そして本堂。屋根の棟中央には保科氏の家紋である角九曜《かく・くよう》があしらわれていた:
開創は安元2(1176)年で、のちに興国禅寺を建立、天正7(1579)年に妙心寺派となり保科氏の時代に大寶山建福寺と改号して菩提寺とした。
本堂裏手の境内西側には諏訪御料人、保科正直公、そして保科正光公の墓碑が並んでいた(右から):
右端にあるのが諏訪御料人の墓碑。没年も不詳で、一説に天文23(1554)年とされる:
法名は乾福寺殿梅巌妙香大禅定尼。諏訪頼重の息女で、武田信玄が天文11(1542)年に諏訪氏を滅ぼした後に側室とされ古府中の躑躅ヶ崎館へ移って勝頼を産んだ。その後病の身となり、勝頼の成長を待つことなくわずか25歳ほどの短い生涯を終えて、ここ建福寺に葬られた。勝頼は高遠城主であった永禄5(1562)年から元亀2(1571)年までの間、亡き母の供養につとめたと云う。
諏訪御料人と保科正直・正光の墓所 (フォト集)
【参考情報】
- 大寶山建福寺に建っていた説明板
- 海音寺潮五郎 『武将列伝・戦国揺藍篇』(文春文庫刊)
- 甲斐志料刊行会編 『甲陽軍鑑志料集成』(甲斐志料刊行会)
- Wikipedia(諏訪御料人)
参照
↑a | 新暦だと同年5月13日。 |
---|---|
↑b | のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。 |
↑c | 現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。 |
↑d | 近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。 |
↑e | 現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。 |
↑f | 河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。 |
↑g | 逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。 |
↑h | もちろん COVID-19 感染拡大の緊急事態宣言等の下で自粛生活を強いられていたことも理由ではあるが。 |
↑i | 右近衛大将《うこんえのたいしょう》の略。右大臣とも。 |
↑j | 所要時間は10分くらい。片道大人350円(当時)。 |
↑k | 信玄が整備した軍用道とは全く関係のない現代の道路。 |
↑l | 慶長(1598)年に成立した織田信長の一代記。信長を研究する上での根本史料である。 |
↑m | 佐々木次郎とも。近江国守護大名・六角義賢の次男。信長に攻められた義賢が穴山信君に親書を送った時の使者で甲斐国に居た。 |
↑n | 通常、開山堂は開放されているようだが当時は夢窓国師像が調査点検のため安置されておらず閉められた状態だった。 |
↑o | 拝観料は大人500円(当時)。感染対策は特に恵林寺の人が監視している訳ではなかった。 |
↑p | 新暦だと同年12月1日。 |
↑q | この時代、甲斐国や信濃国に割拠していた国衆のほとんどは「甲斐武田氏の祖」にあたる武田信義の子孫とされる。 |
↑r | 正妻は扇ヶ谷上杉家当主・朝興の娘で上杉の方と呼ばれた。政略結婚であるが仲が良かったのだと云う。初産が難産して夫人と子が亡くなった。 |
↑s | 義元は信虎を人質にとれば甲斐国は属国になったも同然と喜んで協力し信虎を軟禁したと云う。 |
↑t | 読みは「くるまがかり」。名付け親は信玄であり、景虎(謙信)をはじめ上杉勢はそう呼ばれていたことは全く知らなかったらしい。 |
↑u | これ対して、長尾景虎(上杉謙信)の戦闘指向は「敵の大将を討ち果たすことに専念する」である。 |
↑v | この年の冬に、かねてから病床に臥していた北條氏康が死去した。氏康の遺言には「再び武田と和睦せよ」とあった。 |
↑w | 信玄としては謙信よりも義元の方がライバルではなかっただろうか。志半ばで亡くなった義元と同じルートで上洛することで「義元越え」を成就したかったのではないだろうか。 |
↑x | 現在の静岡県浜松市帰宅細江町。 |
↑y | 甲斐武田氏の譜代家老の一人である春日虎綱(高坂弾正昌信)の口述を書き継いだ軍学書で、武田信玄や勝頼の合戦記録として、のちに小幡景憲《おばた・かげのり》が写本したものが最古の文献として現存している。 |
↑z | 現在の山梨県南巨摩《みなみこま》郡身延町と早川町の境にある山で、同地にある日蓮宗総本山・久遠寺《くおんじ》の山号。 |
↑aa | これに小田原北條氏からの援軍を加えているので、おそらく箝口令を敷いたとされる。 |
↑ab | 板坂宗商《いたさか・そうしょう》とも。はじめは足利義輝の侍医だった。武田家滅亡後は加藤清正に仕えた。 |
↑ac | 但し、信玄公の(功徳を思い出すかような)教えと共にばらばらに記述されていて分かりづらい。 |
↑ad | 前立に金色の角を持つ赤鬼を配し、頭頂部から後頭部にかけてヤクの毛があしらわれ、あたかも獅子をイメージさせるかのような兜。諏訪大社は古来より日の本随一の軍神が祀られていたことから。 |
↑ae | 4月以降に購入した場合は正誤表あり。 |
↑af | 他に養子として織田信長の五男・勝長(津田源三郎)が居る。 |
↑ag | 信玄の次男であるが盲目であるため嫡子にはならなかった。 |
↑ah | 齢11歳で夭折《ようせつ》したと云う説が専ら。 |
↑ai | 真理姫とも。現在でも生母の仔細は不明だが『上杉家御年譜』には太郎義信と同母と記されている。 |
↑aj | 現在の東京都八王子市。 |
↑ak | 釈迦の御新骨を奉安するため塔で、仏法の「五蘊皆空《ごうんかいくう》」を教えを示す。 |
↑al | 江戸幕府の職制の一つ。幕府の天領である武蔵国多摩郡八王子に配置された譜代旗本とその配下である。甲州街道往来を整備・監視した。 |
↑am | 幼名は不詳、「四郎」は通称。「勝」は父の幼名である勝千代から、「頼」は諏訪氏の通字。 |
↑an | 片道520円(当時)で25分ほど。 |
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