龍穏寺の境内には太田道灌公五百忌の砌《みぎり》に建立された銅像が建つ

埼玉県入間郡の越生《オゴセ》町龍ヶ谷452-1にある曹洞宗の長昌山龍穏寺《チョウシュウサン・リュウオンジ》[a]寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。は、桓武天皇[b]第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。在位の平安時代に修行僧らの信仰を集めて建立されたのが始まりとされる。そして室町時代には足利幕府六代将軍の義教《ヨリノリ》が開基となり、相模国守護で扇ヶ谷上杉家当主の持朝《モチトモ》が再建した。ときは戦国時代前で関東騒乱の時代。二人の公方[c]堀越公方《ホリゴエ・クボウ》と古河公方《コガ・クボウ》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。を取り持つ関東管領や地方武士らの対立が長く続いていた時代である。持朝が死去したあと、扇ヶ谷上杉家の家宰[d]家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。を務めていた太田資清《オオタ・スケキヨ》とその嫡子・資長《スケナガ》が亡き主人の遺徳を継ぎ、戦乱の最前線で廃寺寸前だった龍穏寺を中興し、新たに堂宇を建立したと云う。のちの太田道真・道灌父子である。文明18(1486)年、道灌は自得軒[e]越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。で隠居していた父のもとを訪ねて詩会を楽しんだが、その翌月に主人の上杉定正《ウエスギ・サダマサ》[f]上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。に暗殺された。享年55。死に際に『当方滅亡』と言い遺したと云う。

先月は令和3(2021)年の立夏の候近くの関東圏は、依然としてCOVID-19感染拡大による緊急事態宣言&まん延防止等重点措置[g]東京都で三度目の緊急事態宣言が発令中だった。自分の居住地区はまん延防止等充填措置中。N501Yの蔓延が危惧される中を十分な感染対策を意識したが、天気が良かったので帰りの電車はけっこう混雑していた :-(中にあったが、久しぶりに晴天との予報が出ていた埼玉県は越生町城跡を攻めてきた。ただ城は小一時間あれば攻略できそうだったので、かって『太公望[h]出自と経歴が不詳で伝説に包まれた古代中国・周の軍師で、のちに斉の始祖となった呂尚《リョショウ》のこと。の再来』と称され稀代の軍略家であり文化人でもあった太田道灌と彼の父・太田道真の墓所がある龍穏寺も参拝してきた。

ここ越生町は梅や「ゆず」といった特産物の他に、道真公の隠居処があったとされ、道灌公も父の庵を幾度か訪ね、そこで生まれた山吹伝説を町興しの一つにしていた[i]他にもいろいろあるが。。また、文化人たる道灌公の人柄を語り継ごうと、山吹伝説にあやかって町を横断する越辺川《オッペガワ》[j]埼玉県西部を流れる荒川水系の支流(一級河川)。近くに山吹の里歴史公園を造り、町民はもとより観光客の憩いの場としていた。他にもJRと東武が乗り入れている越生駅西口は「道灌口」、東口は「山吹口」と云った別名がついていたり、東口のロータリーには公の立像があった。また県道R30(飯能寄居線《ハンノウヨリイ・セン》)の寄居駅交差点前の広場には大きく「太田道灌生誕の地」なる説明板も。まぁ生誕の地かどうかは諸説あるので微妙な表現ではあるが :|。あと要所でよく見かけたのが「太田道灌を大河ドラマに!」の署名場。「道灌」の名を冠したうどん屋もあったし。この町の道灌押しには父の道真公もタジタジであろうと想像する:D

まずは今回の訪問ルート(城攻めを除く)。本稿では太字の場所について紹介する:

(越生駅東口)→ ロータリー → 「越生駅前」ー(川越観光自動車・黒山線・サンピア経由黒山行)→ 「上大満」→ ・・・ → 下馬門跡龍穏寺冠木門総門山門熊野神社鐘楼経蔵心字池本堂太田道真・道灌公墓所)→ ・・・ → 「上大満」ー(黒山線・サンピア経由黒山行)→ 「越生駅前」 → (越生駅西口)→ 山吹の里歴史公園 → (道灌うどん)→ (越生駅東口) → 越生駅交差点 → (越生神社) → ・・・ (城攻め)・・・  → (越生駅)

あと追加で、昨年攻めてきた東京都港区の太田道灌城[k]または太田道灌塁、あるいは番神山《バンジンヤマ》城とも。攻め、そして四年前の江戸城攻めの折りに東京国際フォーラムの地上広場で見てきた道灌公像、そして常設コーナで見た「太田道灌と江戸城」についても紹介する。

長昌山・龍穏寺

今回は、JR八高線の越生駅東口のロータリーから川越観光自動車が運行する越生駅発の路線バス(黒山線)に乗車し、龍穏寺入口近くの上大満《カミダイマ》と云うバス停で下車した[l]片道294円(当時)だった。

県道R61(越生長沢線)沿いにある上大満《かみだいま》で下車する

R61近くの龍穏寺入口

ここの案内に出ているとおり、ここから2㎞ほど歩いて行くことになるが、こんなご時世の中を杜や川、そして小さな渓谷を見ながら歩くだけで心身のリフレッシュになった[m]他に自転車で登る人と遭遇したが、ほとんどは車かバイクで来ていたようだが。。時間としては片道30分くらい。まったくキツイ登板ではなかった。

しばらくして龍穏寺が近くなってきたところで下馬門《ゲバモン》跡が見えてくる:

大名はこの辺りで馬を下りて龍穏寺へ上山したと云う

下馬門跡

関三刹の一つに任命された際に設けられた門の礎石で出来ている

「下馬門」の碑

江戸時代の初めに龍穏寺は、徳川家康より曹洞宗の寺院の中で宗政を司る三つの寺院の一つに任命され寺格が上がり特権を与えられた[n]これを関三刹《カンサンサツ》と云い、他に大中寺(栃木県)と総寧寺(千葉県)がある。曹洞宗の総本山の一つである永平寺の住職は関三刹の寺院から選出された。。その権力の象徴の名残が道路の脇に建つ石碑で、かっての門の礎石で出来ている。往時、どんなに高位の武士(大名)であっても、この場所で馬や輿を下りて徒歩で龍穏寺の参道を上山しなければならなかったと云う。

このあと龍ヶ谷川を渡って道形に進むと龍穏寺の冠木門が見えてきた。この門の先に駐車場がある。ちなみに門の前に建つ六臂観音塔《ロッピカンノン・トウ》は江戸時代の作:

「長昌山・龍穏寺」と「曹洞宗・別格池」と掲げられていた

冠木門

さらに進むと真っ赤な総門が建っていた。なお、ここから先は禁葷酒《キンクンシュ》[o]「葷酒、山門に入るべからず」。酒や強い香りのするニラ・ネギ・ニンニクの類は煩悩の元になるので持ち込むな!と云う意味。である:

下馬門から数えて第三の門である

総門

総門をくぐって参道を登った先に山門(越生町指定有形文化財)が見えてきた:

総門をくぐり、杉並木と石畳の坂の上に出現する山門

山門(町指定有形文化財)

この山門は天保13(1842)年の再建。上層は入母屋造の銅瓦葺きで、階下には仏法を守護する四天王が、そして階上には観音菩薩と八大神将と十六羅漢が祀られているらしい:

無相門とも呼ばれ、天保13(1842)年の再建で、大正2(1913)年の罹災を免れた貴重な建築物である

山門(拡大版)

門内外の彫刻は江戸時代の名工・岸亦八《キシ・マタハチ》[p]上野国新田郡山之神村(現在の群馬県太田市)に住んでいた彫刻家・岸家四代の祖。によるもの:

龍穏寺では山門・経堂、そして熊野神社の彫刻を手がけた名工

彫刻家・岸亦八が彫った龍

階下の四隅内には四天王が祀られていた:

こち側は多聞天(毘沙門天)と持国天が祀らている

山門階下の四天王

こちら側には増長天と広目天が祀られている

山門階下の四天王

江戸時代には10万石で遇されていた龍穏寺は宝暦2(1752)年に伽藍が灰燼に帰したあと天保12〜15(1841〜1844)に再建され、その際に山門も再建された。さらに大正2(1913)年に再び本堂と庫裡を焼失したが、この山門と経堂《キョウドウ》は罹災を免れ現在に至るとのこと:

江戸時代に再建された山門は大正時代の罹災を免れ現在に至る

山門

外部と内部ともに贅を凝らした歴史的な建造物であり、なぜ国の重要文化財にならないのか不思議である

山門(拡大版)

こちらは山門の脇に建っている龍ヶ谷熊野神社(越生町指定有形文化財)。明応元(1492)年に紀州熊野本宮大社より分霊して龍穏寺の鎮守としたものが起源。江戸時代は格式が高かったため村人の参拝は許されなかったが、明治時代の神仏分離令により村の鎮守となったらしい:

寺鎮守の拝殿などの彫刻も山門を手掛けた名工・岸亦八の彫刻

龍ヶ谷熊野神社(町指定有形文化財)

熊野神社の拝殿も天保時代の再建であり、向拝《コウハイ》・拝殿扉・本殿・胴羽目《ドウハメ》・脇障子などの彫刻は山門同様に岸亦八の作。

また境内の土木工事を担当したのは、幕末の江戸湾に建造された品川御台場の工事にも出仕していた武蔵国長沢村の石工・八徳の三吉《ヤットク・ノ・サンキチ》で、山門前には工事で余った石積みが残っていた。

山門をくぐって石段を上ると右手には鐘楼、左手には経堂が建ち(ともに埼玉県の指定有形文化財)、中央には心字池があった:

仏教の御経を納めた蔵で、壁面の彫刻は岸亦八の作

経堂

大火の折、僧堂の天井にあった魚鼓《ほう》が池に滑り落ち消火したと云う

心字池

銅鍾の一代目は江戸時代、二代目は平成時代のもの

鐘楼と銅鐘

なお銅鐘は寛文12(1672)年と鋳造で二度の火災・戦争の供出を免れたものの昭和63(1988)年の強風による鐘楼倒壊で破損し、現在は平成3(1991)年に新鋳された鐘が架かっていた。

そして本堂へ向かう石段の前には太田道灌公の立像が建っていた:

腰に刀、左手に弓矢、右手に山吹の枝を持った道灌公の姿で、没後500年の砌に建立された

狩り姿の太田道灌公像(拡大版)

さらに、像の周囲には「江戸城(太田道灌築城)外濠の石垣」の説明板と石積みが置いてあった[q]同じものが山門近くにもあり。

これらの石は江戸城外濠に架かる神田橋橋台に使用されていたもの

「江戸城(太田道灌築城)外濠の石」

首都高速開設の際に取り外されたものが龍穏寺に寄贈された

神田橋御門あたりの石垣

この説明板からは「道灌が築いた時代の」江戸城の石垣と読みとってしまいそうだが、あくまでも徳川幕府の江戸城であり、それも江戸城三十六見附の一つで神田見附があった神田橋門あたりの石垣のようだ。現在は首都高速都心環状線が走っている、このあたりだろう。

さらに公が江戸城を築いたと云っても、もともとは室町時代初めに武蔵国江戸郷を治めていた江戸重継《エド・シゲツグ》ら江戸氏の居館があった場所。その跡地に公が兵站拠点を築いたのが始まりとする説が専らである。素早く軍事行動を起こせるよう、常に兵を駐屯させ、そのために必要な兵舎や練場、さらには寺院と云った生活に必要な都市機能を軍事施設に融合させたものであったと想像する。また、周囲が海であった高台に築かれていたので防衛施設として籠城することもできた本格的な城砦だったのだろう。まさに、これが稀代の築城・軍略家として知られるに至った太田道灌公の所以と云えよう。

そして、こちらが本堂:

堂内に御本尊の釋迦脇士伽葉阿難の像が安置されている

本堂

この本堂は大正2(1913)年の焼失し、昭和の時代に再建されたもの。それまでの本堂については、天正18(1590)年に太閤秀吉が小田原仕置後に与えた御朱印状に:

本堂。本尊釋迦脇士伽葉阿難の像を安ず、この堂の左右に廻廊を設け、冠木門の左右に續けり、中庭に小池あり、池中に辨天の小社あり。

と記されている。

本堂の向拝《コウハイ》:

この屋根の天井には壇家らの「一字」が並んでいた

向拝

本堂の右脇あるのが庫裡。建物は明治時代のもので、大正時代初めに民家から譲り受けたもの:

明治初期の民家を境内に移築したもの

庫裡

本堂の左奥の高台上が「太田道真・道灌之墓所」:

この上は「パワースポット龍穏寺」のエリアでもある

太田道真・道灌公の墓所入口

こちらが太田道真・道灌公の墓所。相州糟屋(現在の神奈川県伊勢原市)方面を向いていた:

左手の標柱裏が太田道真公、右手の標柱裏が道灌公の供養塔

太田道真・道灌公の墓所

道灌の父・太田道真公は長享2(1488)年に、ここ越生の地で死去したので菩提寺とされた龍穏寺に墓所があるのは当然である。従って道真公について説明板があってしかるべきなのに、なぜか道灌公の説明板しかなかった[r]さらに龍穏寺HPの境内図には太田道真を「道心」の誤字であった。恥ずかしくて何も云えない  👿 。 :(

向って左手が太田資清、号して道真公の墓所:

嫡子・道灌が亡くなった二年後に、ここ越生で死去した

太田道真(資清)公の墓所

太田資清(道真)は文武に励んだ武将であり、特に歌道に優れ、嫡子の資長に大きく影響を与えた。其れも其のはず、太田家は平安時代の武将で歌人としても有名な源頼政《ミナモト・ノ・ヨリマサ》の子孫なのである。道真は相模国守護の扇ヶ谷(上杉)持朝に仕え、のちに家宰職に就いた。妻は山内(上杉)家の家宰・長尾景仲《ナガオ・カゲナカ》[s]上州臼井城主。孫には長尾景春、外孫に太田道灌が居る。の娘。子息には資長、資忠《スケタダ》[t]図書助。下総国の臼井城攻めで討ち死にした。、資常など。

「上杉氏」は鎌倉時代に宗尊親王《ムネタカ・シンノウ》[u]後嵯峨天皇の第一皇子で、のちに鎌倉幕府第六代将軍に就いた。に従って京から鎌倉へやってきた重臣の一人で、後に四家に分かれ、居館の場所によって山内家(宗家)・犬懸《イヌガケ》家・扇ヶ谷《オウギガヤツ》家・宅間《タクマ》家と呼ばれた[v]従って初期の関東管領職はこの四家の間で持ち回りであった。。資清が家宰であった頃は、宗家の山内家の勢力が他の三家を圧倒し[w]こののち上杉禅秀《ウエスギ・ゼンシュウ》の乱で犬懸家は衰退、宅間家は他のニ家に対抗できず衰退。のちに山内家と扇ヶ谷家を並べて「両上杉氏」と称された。、扇ヶ谷家は山内家の足元にも及ばなかったと云う。

室町時代中頃の関東は騒乱が続き、同族でさえ栄枯盛衰が激しかった時代であった。永享11(1447)年の永享の乱[x]足利幕府・関東管領 vs 鎌倉公方の戦い。、翌12(1448)年の結城合戦、そして享徳3(1454)年から28年間続いた享徳の乱などである。道真は時に先手として敵を襲撃したり、主家の本拠地で自らが築いた河越城を守備し、主君・持朝を補佐するなどしていた。そして康正2(1456)年に嫡子・資長に家督を譲るも、自らは隠居せず引き続き持朝の側近くにおり、ときには歌人らを招いて連歌会を開くこともあったと云う。この頃から道真は、関東管領山内家の家宰・長尾景仲と共に「関東不双の案者(知恵者)」と称されるほどの有力者になっていた。

京で応仁の乱が勃発した応仁元(1467)年、主である持朝が河越城で死去した。享年52。関東管領の山内家が補佐していた堀越公方と敵対関係となり、その山内家からの圧迫で扇ヶ谷家の勢力は著しく低下し、和議を果たせぬまま失意の中でこの世を去った。

しかしながら、新しい当主の下で道真・道灌父子は両上杉家をもり立て、河越城・江戸城・岩付城の拠点を中心として武蔵・相模国を固めた。さらに文明9(1477)年に勃発した長尾景春の乱によって両上杉家の勢力は危機に陥るも、戦すれば常に勝利して、これまでの形勢を逆転させたのが道灌の軍略と智謀であった。

越生で隠居していた道真は、文明18(1486)年に息子が主君の居館で謀殺されたと云う悲報を受け取った。つい一ヶ月前に自らの隠居処を訪れて父子で詩会を楽しんだばかりであった。

道真は、その二年後の長享2(1488)年[y]あるいは明応元(1492)年と云う説あり。に病気で死去。享年81。亡骸はここ龍穏寺に葬られた。法名は「自得院殿実慶道真庵主」。

そして父の右隣にあるのが太田資長、号して道灌公の墓塔。公の墓塔は他に七年前に訪問した埼玉県さいたま市の芳林寺、そして六年前に巡ってきた神奈川県伊勢原市の洞昌院大慈寺、さらに太田家の子孫が開基した鎌倉の英勝寺にもある:

公の墓塔は他に神奈川県伊勢原市と鎌倉市にある

太田道灌(資長)公の墓塔

享徳の乱最中の康正元(1455)年、24歳で太田家の家督を継いだ資長(道灌)は、幼名を鶴千代丸と云い、永享4(1432)年に現在の神奈川県鎌倉市で生まれた[z]しかしながら地元鎌倉では道灌に対する関心は、ここ埼玉県や東京都と比較してそれほど高くない(銅像なんか建っていないし 😡 )。。そして15歳で元服して資長を名乗り、47歳で剃髪し号して道灌と名乗った。幼少時は鎌倉五山に学び神童と称されるほどの非常に優秀な子供だったが、若年から中年に至るまでの行動については実ははっきりとしていない。

彼の行動が知られるようになったのは文明8(1476)年に駿河国の今川家の内訌《ナイコウ》鎮定に向った時からである。ちなみに、この時に今川方で交渉に当たったのが伊勢新九郎盛時[aa]延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《イセ・シンクロウ・モリトキ》、その後は出家して早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。と云う説があるらしい。一方、この機を逃さず武蔵国では鉢形城で長尾景春《ナガオ・カゲハル》[ab]伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。が主家の山内上杉家に謀反した。景春が、両上杉家と対立する古河公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》と連携することで関東一帯を巻き込む新たな戦乱となった。急遽帰国した道灌は上杉方の主力として各地を転戦した。現在、伝承されている道灌の戦歴の多くは、この長尾景春の乱の鎮定に関わるものである:

(山吹の里歴史公園に建っていた説明板より)

「太田道灌時代の関東情勢図」

道灌は家宰でありながら軍師としての役割も担っていた。景春討伐に際し、戦術レベルに加えて政略・戦略レベルで主人らに献策していたと云う。さらに後方で策を巡らすのではなく、戦場で卓越した指揮を執ることにも秀でいた。ただ実戦で指揮した戦は30回余とされ、戦国時代にあったような数千の兵が動く合戦ではなく騎馬数百の規模[ac]但し、古来の軍記物は兵数を騎馬の数だけで代用していた節があるので、足軽は数に入っていないことが多い。のようである。

また道灌の用兵の真髄は「足軽之軍法」であった。比較的小数の兵を軽快に動かして敵の機先《キセン》を制し、連戦即欠主義で時間をかけずに戦うのである[ad]例外もある。武蔵国小机城攻めには二ヶ月余り要している。。敵勢力に対峙するように(陣)城を築くのは兵站を効率よく運用するためであり、そのための築城技術は欠かせなかった[ae]現代では「道灌がかり」と云う形容を用いることあるようだが、父の道真が築城のエキスパートであり道灌はその影響を受けたとする説あり。。加えて足軽を集団レベルで機能的に動かす訓練・調練も欠かすことができないことを熟知していたであろう。幼年時に鎌倉五山で学問の基礎を習得していた道灌は『孫子』、『呉子』、『三略』などの武経七書《ブケイシチショ》の他、易学の経典『易経』にも通じていたとされる。

ともあれ景春の乱は文明12(1480)年に終結し、関東から景春・成氏らの勢力は一掃された。この四年間の過程で扇ヶ谷家の勢力は大いに盛り返し、関東管領・山内家に迫るほどになった。これ全て道灌の力によると云っても過言ではなく、彼に対する声望は主君をしのぐほどに高まった。

しかしながら道灌の軍略と高潔な人柄はかえって主君の不興を買うことになり、文明18(1486)年に相州糟屋(現在の神奈川県伊勢原市)にある主人・上杉定正《ウエスギ・サダマサ》の居館で謀殺された。享年55。法名は「香月院殿春苑静勝道灌大居士」。

この謀殺については諸説あるが、定正が関東管領・山内(上杉)顕定《ヤマノウチ・ウエスギ・アキサダ》に乗せられて仕組んだと云う説が専らになっている。

道灌が謀殺されたあと、嫡男の太田資康《オオタ・スケヤス》[af]妻は三崎要害の城主で道灌の盟友である三浦道寸の娘。は江戸城に入城し家督を継ぐも、すぐに定正の追手に攻められて山内上杉氏を頼ったとされる。一方、父の道真は敵たる扇ヶ谷上杉家に残ったが隠居の身であると云う以外に、その理由は不明である。

以上で龍穏寺の太田道真・道灌公の墓所参拝は終了。再び徒歩で最寄りのバス停まで戻って越生駅前へ向かった。

See Also太田道灌公墓所巡り (2) (フォト集)
See Also太田道灌公墓所 (訪問記)
See Also太田道灌公墓所巡り (フォト集)

【参考情報】

山吹の里歴史公園

龍穏寺にて太田道真・道灌公の墓所を参拝したあとは越生駅まで戻って、駅東口から越辺川《オッペガワ》に架かる「山吹橋」を渡り、その先にある山吹の里歴史公園へ:

越辺川に架かるこの橋を渡った先に山吹の里歴史公園がある

山吹橋

昭和58(1983)年度の都市公園事業の一環として整備された歴史公園は、太田道灌にまつわる『山吹伝説』の故地を史跡として再現した場所らしい:

ここは道灌が歌道を志す切っ掛となった場所らしい

史跡・山吹の里

こちらが伝説に出てきたとされる詩を刻んだ歌碑。この詩は後拾遺和歌集《ゴショウイワカシュウ》の一つらしい:

この古歌を知らなかった道灌が歌道に励む切っ掛となったらしい

歌碑

往時、父の庵を訪ねて越生へやってきた資長(道灌)は、この詩を知らなかったがために娘の思いを汲むことができなかったと恥じて、歌道に励むことにしたと云うのが伝説の主旨である。しかしながら道灌にまつわる『山吹伝説』は他にも江戸山吹(現在の東京都新宿区山吹町)とするものがあるようだ。幼年時に鎌倉五山で学び神童と称された道灌が古歌の掛け合いに恥じ、その後に文武両道の名将となるとは、いささか出来すぎた話である。

こちらは明治時代に、この伝説を描いた揚州周延《ヨウシュウ・チカノブ》作の『雪月花・武蔵・高田花・太田道灌・山吹乃古事』(船橋市西図書館/船橋市デジタルミュージアムより)と云う浮世絵:

浮世絵の中には富士山と江戸城が描かれている

『雪月花・太田道灌・山吹乃古事』

なお、公園がある辺りは古くからヤマブキ(山吹)[ag]バラ科ヤマブキ属。丘陵地によく見られる落葉の低木で、黄金色の花をつける。が自生し、かっての地名も山吹であったらしい。園内には2千株を越えるヤマブキがあるらしいが、惜しくも見頃(4月下旬から5月上旬)が過ぎていた。

園内には伝説に出てくる(らしい)水車小屋が再現されていた:

道灌が箕を借りようと立ち寄った貧しい民家を再現しているらしい

水車小屋

この公園はさらに上の高台まで上ることができた。こちらからの越生町の眺めは良かった:

ここが伝説にまつわる史跡なのかどうかは不明

高台の公園

See Also太田道灌ゆかりの地巡り (フォト集)

【参考情報】

越生駅周辺

こちらは越生駅西口(道灌口)のロータリーに建つ太田道灌公像:

この銅像は神奈川県の伊勢原市役所前に屹立していた像と同じ

「太田道灌公に学ぶ文武両道」

西口駅前通りを県道R30(飯能寄居線)へ向って歩いていき、越生町観光案内所の先にある広場には大きく「太田道灌生誕の地」と云う説明板が掲げられていた:

この隣には「越生に散った若き志士・渋沢平九郎」の説明板があった

「太田道灌生誕の地」

この説明板によると、越生は太田資長(道灌)の生誕地とあった。龍ヶ谷には山枝庵《サンシアン》なる砦跡があり、そこが資長の生誕の地らしい。道灌の父・道真の居館・自得軒は健康寺付近にあり、周辺には陣屋、馬場、才(砦)、道灌橋など関係のある名前が残っているとのこと。

See Also太田道灌公墓所巡り (2) (フォト集)

太田道灌城(番神山城)

今となっては、まだ日本で COVID-19 の感染が確認されていなかった[ah]国内で最初の感染者が確認されたのは公式の記録で令和2(2020)年1月15日である。昨年は、令和2(2020)年の正月、年始恒例の浅草寺参拝のあとは東京都台東区から港区へ移動し、新橋駅界隈にあったとされる仙台藩上屋敷跡を巡り、さらに正月の風物詩である箱根駅伝のランナーを横目に東京メトロ・神谷町駅(虎ノ門)近くの神谷町緑道(城山ガーデン)へ向かった。

現在は再開発されて高層ビルが建ち並ぶ都市部にありながら緑化空間が広がるオアシス的な場所になっているが、伝承として古くから豪族が居を構えたことから「城山」と呼ばれ、江戸時代には大名の藩邸もあったと云う歴史的に由緒ある土地であったらしい。そして、この一角には太田道灌が江戸城の出城として築いた太田道灌城(番神山城)[ai]または太田道灌塁とも。があったと云う。

この城に関しては東京都の港区史[aj]中世  > 「第二章 中世後期の港区城」 > 「第四節 港区の城館」の項。に次のように記されている:

太田道灌塁

芝神谷町(現在の虎ノ門五丁目)には、文明年間に太田道灌によって築城された別名番神山城(ばんじんやまじょう)とも呼ばれる平山城があったという。江戸時代に出石藩仙石家藩邸があった場所である。江戸時代から土取場(つちとりば)として掘り崩されていたが、明治時代までは土塁などが明瞭に残っていたという。標高二〇メートル、二〇〇×一〇〇メートルの規模で、江戸城の南を固める拠点として築かれたのであろう。

しかながら現地に行ってみると特に目印になるものや説明板などはなく城の位置も規模も不明だったので、正直なところ、高層ビルの間をうろうろしてきた程度だった :O。そんな中で印象に残ったのは意外と高低差があったこと。けっこう階段を登り下りすることになったし。

そう云うことで、こちらが攻略ルートならぬ散策ルート。前述の港区史にある『仙石家藩邸があった場所』というのが「仙石山」の石碑があるところ:

神谷町緑道からアークヒルズ仙石山森タワー周辺を散策してきた

My GPS Activity

これが神谷町緑道の入口。緑道は比高50mほどの高台上にある:

周囲の高層ビルのでせいで、今ひとつ要衝具合をつかめなかった

神谷町緑道(城山ガーデン)入口

エスカレーターを上がった先もまだ階段が続いていた

踊り場辺り

緑道へ上がってしまうと(緑を増やそうとして造った)花壇なのか土居なのか判断できないもの以外は特に目立ったものはなかった。

緑道から出て高台から下る途中にはアークヒルズ仙石山森タワーがある。ビルの開業は平成25(2013)年。高台の上に地上47階の高さである:

このビルは出石藩仙石家(江戸時代)の藩邸跡になる

城山に建つ超高層ビル

地上47階、地下4階の超高層ビル

アークヒルズ仙石山森タワー

こちらが、このあたりが「仙石山」であったことを物語る石碑。建立は昭和13(1938)年で仙石家藩邸とは直接は関係はない:

現在は背後に建築物があるが、石碑は存在しているようだ

港区虎ノ門5丁目6-9あたり

この石碑は昭和13(1938)年4月の建立

「仙石山町會防護團」の石碑

以上で太田道灌城攻めは終了。

See Also太田道灌城攻め (フォト集)

【参考情報】

  • 東京坂道ゆるラン(太田道灌の出城・番神山城)[ak]リンク切れ:https://sakamichi.tokyo/?p=12985 😕️
  • 攻城団(太田道灌城)(HOME > 東京都 > 番神山城)
  • ニッポン城めぐり(太田道灌城)
  • ADEACデジタル・アーカイブ(トップ > 検索「太田道灌城塁」)

「太田道灌と江戸城」パネル展

今となっては三年前は、平成30(2018)年の小満《ショウマン》の候すぎの週末に江戸城外郭の見附跡のうち鍛冶屋橋門跡を巡ったあとに初めて立ち寄った東京国際フォーラムにて、開都五百年記念で昭和32(1957)年に建立された太田道灌像と江戸城との関係について解説していたパネル展を見てきた[al]本稿執筆現在、このパネル展は常設コーナーになっているとのこと。。ちなみに東京国際フォーラムは旧都庁跡であり、さらに江戸時代の土佐藩と阿波藩の上屋敷跡でもある。

こちらが東京国際フォーラム地上広場のJR東京駅・丸ビル方面側に建っている太田道灌像(二代目[am]一代目の像は朝倉文夫氏の実兄・渡辺長男氏が制作したが大戦中に供出された。):

開都五百年記念として昭和33(1958)年に建立された朝倉文夫氏の作品は旧都庁のシンボルであった

太田道灌像(拡大版)

東京にゆかりの深い人物として、この像は旧丸の内第一本庁舎があった鍛冶屋橋通り沿いに建立され、長らく旧都庁舎のシンボルだったと云う。平成3(1991)年の都庁移転後、この地に東京国際フォーラムが建てられたことに伴い平成8(1996)年に移設された。以前と同様に、居城であった江戸城跡(皇居)を望むように建っていた。

またパネル展では「関東戦国史と太田道灌の足跡」なるパネル解説の他に日本各地にある太田道灌像の一覧、そして寛永期江戸城の天守閣の模型が展示されていた。

関東戦国史と太田道灌の足跡(抜粋)

享徳3(1454)年、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・山内上杉憲忠を暗殺したのをきっかけに、関東では利根川を境に室町幕府の関東の拠点である鎌倉を押さえた上杉氏と、下総国古河に追いやられた古河公方の成氏が対峙する「享徳の乱」が始まった。この頃、道灌は家督を譲られ、長禄元(1457)年に千葉氏に対抗する拠点として江戸氏の館があった今の江戸城本丸近くに江戸城を築く。築城の際、現在の赤羽、湯島、品川、川崎夢見ヶ崎が候補地となったが、地形などを考慮して江戸に決めたとされる。

築城後、日枝《ヒエ》神社をはじめ、築土《ツクド》神社、平河天満宮、市ヶ谷亀ケ岡八幡など今も残る寺社を周辺に勧請した(現在はいずれも移転)。神仏の力を借りるということもあるが、戦国時代にみられる要地に寺社を配して陣所や砦にするという狙いもあった。

こちらはパネルに描かれていた「太田道灌が築城した江戸城(全体想定図)」:

江戸氏の居館跡に築いたとされる兵士常駐の本格的な城郭だった

作家が推定した太田道灌の江戸城(拡大版)

See Also江戸城攻め(7) (フォト集)

【参考情報】

  • パネル展の解説文・図・写真・模型(東京国際フォーラム)

参照

参照
a 寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。
b 第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。
c 堀越公方《ホリゴエ・クボウ》と古河公方《コガ・クボウ》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。
d 家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。
e 越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。
f 上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。
g 東京都で三度目の緊急事態宣言が発令中だった。自分の居住地区はまん延防止等充填措置中。N501Yの蔓延が危惧される中を十分な感染対策を意識したが、天気が良かったので帰りの電車はけっこう混雑していた :-(
h 出自と経歴が不詳で伝説に包まれた古代中国・周の軍師で、のちに斉の始祖となった呂尚《リョショウ》のこと。
i 他にもいろいろあるが。
j 埼玉県西部を流れる荒川水系の支流(一級河川)。
k または太田道灌塁、あるいは番神山《バンジンヤマ》城とも。
l 片道294円(当時)だった。
m 他に自転車で登る人と遭遇したが、ほとんどは車かバイクで来ていたようだが。
n これを関三刹《カンサンサツ》と云い、他に大中寺(栃木県)と総寧寺(千葉県)がある。曹洞宗の総本山の一つである永平寺の住職は関三刹の寺院から選出された。
o 「葷酒、山門に入るべからず」。酒や強い香りのするニラ・ネギ・ニンニクの類は煩悩の元になるので持ち込むな!と云う意味。
p 上野国新田郡山之神村(現在の群馬県太田市)に住んでいた彫刻家・岸家四代の祖。
q 同じものが山門近くにもあり。
r さらに龍穏寺HPの境内図には太田道真を「道心」の誤字であった。恥ずかしくて何も云えない  👿 。
s 上州臼井城主。孫には長尾景春、外孫に太田道灌が居る。
t 図書助。下総国の臼井城攻めで討ち死にした。
u 後嵯峨天皇の第一皇子で、のちに鎌倉幕府第六代将軍に就いた。
v 従って初期の関東管領職はこの四家の間で持ち回りであった。
w こののち上杉禅秀《ウエスギ・ゼンシュウ》の乱で犬懸家は衰退、宅間家は他のニ家に対抗できず衰退。のちに山内家と扇ヶ谷家を並べて「両上杉氏」と称された。
x 足利幕府・関東管領 vs 鎌倉公方の戦い。
y あるいは明応元(1492)年と云う説あり。
z しかしながら地元鎌倉では道灌に対する関心は、ここ埼玉県や東京都と比較してそれほど高くない(銅像なんか建っていないし 😡 )。
aa 延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《イセ・シンクロウ・モリトキ》、その後は出家して早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。
ab 伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。
ac 但し、古来の軍記物は兵数を騎馬の数だけで代用していた節があるので、足軽は数に入っていないことが多い。
ad 例外もある。武蔵国小机城攻めには二ヶ月余り要している。
ae 現代では「道灌がかり」と云う形容を用いることあるようだが、父の道真が築城のエキスパートであり道灌はその影響を受けたとする説あり。
af 妻は三崎要害の城主で道灌の盟友である三浦道寸の娘。
ag バラ科ヤマブキ属。丘陵地によく見られる落葉の低木で、黄金色の花をつける。
ah 国内で最初の感染者が確認されたのは公式の記録で令和2(2020)年1月15日である。
ai または太田道灌塁とも。
aj 中世  > 「第二章 中世後期の港区城」 > 「第四節 港区の城館」の項。
ak リンク切れ:https://sakamichi.tokyo/?p=12985 😕️
al 本稿執筆現在、このパネル展は常設コーナーになっているとのこと。
am 一代目の像は朝倉文夫氏の実兄・渡辺長男氏が制作したが大戦中に供出された。