元亀4(1573)年4月12日[a]新暦だと同年5月13日。に信濃国は三州街道《さんしゅうかいどう》[b]のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。の駒場[c]現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。で甲斐の武田信玄が没した。享年53。臨終に瀕して昏睡状態だった信玄はいきなり山縣昌景を呼びつけ、「其の方、明日は瀬田[d]近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。に旗を立てよ」と命じたと云う。これが公の最後の下知とされる。後世には「甲斐の虎」とも「戦国の巨星」とも呼ばれた信玄は、往時は第一流の戦上手であったと共に産業の奨励、治水・池溝《ちこう》の整備など政治家としてもまた卓抜した武将であったことは、没後450年以上たった現代でも広く知られているところである[e]現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。。甲斐武田氏は「武士」の先祖にあたる八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光《しんら・さぶろう・よしみつ》[f]河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。の末孫にあたるが、その流れは甲斐守に任じられた義光がその国で二男・武田冠者義清《たけだのかんじゃ・よしきよ》[g]逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。を授かり、義清の子から数代あって信義が甲斐武田氏の祖となった。甲斐武田氏が盛んになったのは信義から数えて十四代目の信虎からであり、その嫡男が晴信ことのちの信玄である。
参照
↑a | 新暦だと同年5月13日。 |
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↑b | のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。 |
↑c | 現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。 |
↑d | 近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。 |
↑e | 現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。 |
↑f | 河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。 |
↑g | 逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。 |
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