埼玉県本庄市児玉町八幡山446にある城山公園は、戦国時代初期に関東管領職[a]幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。に就いていた山ノ内上杉家八代当主・憲実《のりざね》の居城として築かれた雉ヶ岡城[b]あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。跡である[c]もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。。しかし城域が狭く守り難いことから、憲実は上野国の上州平井城を居城とし、この城は家臣の有田豊後守定基《ありた・ぶんごのかみ・さだもと》[d]こののちに「夏目」姓を名乗った。に与え、交通の要衝であった鎌倉街道の押さえとした。こののち相模・伊豆二ヵ国を平定し、ここ武蔵国へも積極的に手を伸ばしていた新興勢力・小田原北條氏の圧迫を受け、天文15(1546)年の河越夜戦《かわごえよいくさ》[e]合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。以後は北條氏の傘下に入って鉢形城の支城となった。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、加賀の前田利家、越後の上杉景勝らが率いる北国口勢が攻囲して開城させたと云う。仕置後は関八州を拝領した徳川家康の家臣・松平清宗《まつだいら・きよむね》が入城するも、慶長6(1601)年に嫡男の家清[f]竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。の代で三河国吉田城に転封され、雉ヶ岡城は廃城となった。
今となっては五年前は、平成28(2016)年の小雪の候の週末を利用して雉ヶ岡城跡を攻めてきた。この日は朝10時すぎくらいに最寄り駅のJR八高線・児玉駅に到着するように移動したのだけれど、途中の東武東上線・森林公園駅で濃霧のため電車が動かず足止めを喰らった。この先の小川町《おがわちょう》駅でJR八高線に乗り換えて児玉駅へ向かう予定だったのだけれど、10分ほど遅れて発車、小川町駅での乗り換えは少し走ることになったけどギリギリ間に合ったと記憶している。あとで調べてみたら、この日の埼玉県全域は前日の大雨とそのあとの暖気流の影響で広範囲に濃霧が発生したらしい。それでも目的地の児玉町に着いた時には寒かったけど青空が広がっていたっけ。
JR児玉駅から雉ヶ岡城跡の城山公園までは徒歩15分ほど。駅から国道R462へ向って西へ進み、「児玉駅入口」交差点を渡ってさらに西へ道形に進んで行くと公園入口が見えてくる:
園内に置かれていた『県指定史跡・雉岡城跡』なる説明板の『雉岡城縄張り推定復元図』によると、この公園入口周辺は土塁があった場所らしいので後世に改変されていたことが分かる:
廃城後の雉ヶ岡城跡は幕末から明治時代にかけて田畑化が進み、三ノ郭跡には児玉高等女学校が建てられたらしい。昭和の時代に入るとさらに改変が進んで、城攻めした当時は二ノ郭跡と本郭跡の大部分は市立児玉中学校、三ノ郭跡は県立児玉高等学校の敷地になっていた。また城郭に巡らされていた水堀の大部分は埋め立てられていたが、園内には、その面影を残す池や井戸跡があった。ちなみ生野山は小田原仕置の際に上杉景勝が陣を置いたとされる古墳群で、JR八高線を越えてゴルフ場の先、関越道より少し手前にある:
そんな環境ではあるが、昭和の時代に埼玉県の史跡として本郭跡とニノ郭跡の一部、そして東ノ郭跡と南ノ郭跡が城山公園として整備・復元されたようで、それらの遺構は堀や土塁が主体であるものの、天正時代に施行されたとされる北條流築城術の一部を見ることができた[g]江戸時代の城主であった松平清宗・家清父子は1万石の身であり、城を改修ほどの余力はなかったため、北條流築城術がそのまま残ったと考えられる。。なお児玉高等学校の校門周辺にも土塁が残っていた[h]当然ながら各学校の敷地内への立ち入りは禁止。。
こちらは城山公園前を通る道路であるが、往時は水堀(手前)と空堀(奥)だった:
公園入口から入った先が南ノ郭跡で、この郭を巡るように公園の外へ向って土塁が残っていた。これらの土塁は二段になっていた:
この南ノ郭は平坦ではなく斜度がついた郭で、中央に土居があって二段構えになっていた:
こちらは南ノ郭東側の土塁上から見下ろした水堀跡。東側の土塁はだいぶ低くなっていた:
ちなみに園内に生えているのは桜の木[i]約300本ものソメイヨシノで、春の季節は公園全体が桜色に包まれ、夜は提灯が灯り、夜桜を楽しめるらしいが、城攻め当時は季節外れだった 😕 。あり、「雉岡城跡の桜」として埼玉県本庄市の名所として知られている。
公園を北へ進むと池として整備された水堀跡がある:
こちらは土居の上にある南ノ郭上段跡:
南ノ郭西側から公園入口方面を眺めたところ。二段になった南側土塁と緩やかな斜度がついた郭であることが分かる:
それから南側土塁上へあがって:
現在は道路になっている城址南側の堀跡を見下ろす:
こちらは城の南西の方位(坤《ひつじさる》)に設けられた大手門跡。往時は土塁が切れて大手門が建っていたようだが、廃城後に破壊された上、後世にだいぶ埋められたようだ:
昭和の時代に建てられたものだろうか、大手門土塁上には騎馬像が建っていた[j]特に説明はするものは見つからなかったが、最後の城主であった松平家清あたりだろうか。:
往時は大手門の西側も南ノ郭であったが、現在は中学校の敷地になっていた:
こちらは南ノ郭西側の一角に残っていた角馬出跡:
昨年まで(当時)は「盲目の国学者」と呼ばれた塙保己一《はなわ・ほきいち》[k]埼玉の三偉人の一人。他に、近代日本における最初の女性医師・荻野吟子《おぎの・ぎんこ》、日本近代経済の父と呼ばれた渋沢栄一がいる。記念館が建っていたらしい。
角馬出跡の奥には金毘羅社の参道入口があるが、ここが馬出とニノ郭をつなぐ土橋と空堀だった:
土橋が架かっていた空堀は南ノ郭と二ノ郭の間に設けられたもの:
このまま金毘羅神社へ向かった。こちらは途中に眺めたニノ郭跡と本郭跡。ともに中学校の敷地になっている:
金毘羅神社と芭蕉句碑はニノ郭と南ノ郭の間に設けられた土塁上に建っていた:
このまま神社の拝殿の裏を進んでいくと二ノ郭と本郭との間にある空堀があった:
空堀の堀底から本郭の土塁を見上げたところ:
こちらは本郭の土塁に上がって先程の空堀を振り返って見下ろしたもの。予想外に幅広な空堀だった:
ここ雉ヶ岡城は、鉢形城の支城として小田原北條氏によって大規模に改修され、堀と土塁を駆使して数多くの郭《くるわ》を設け、大手門と角馬出を装備した非常に複雑な縄張りを持つ平山城である。城代は鉢形城主・藤田(北條)氏邦の家臣・横地左近忠晴《よこち・さこん・ただはる》で、雉ヶ岡城を北武蔵と西上野支配の拠点の一つとした。ちなみに城山公園の南にある天龍寺は横地左近の開基とされる。
天正18(1590)年に秀吉の怒りに触れた小田原北條氏は総勢20万もの大軍を相手に防衛戦を挑んだ。このうち豊臣方で前田利家と上杉景勝が率いる北国口勢3万が上野から武蔵へ侵攻、北條方の各拠点を平定しながら小田原城へ向けて南下してきた。雉ヶ岡城攻囲戦では利家ら加賀勢は女堀川《おんなぼりがわ》を挟んで北側に、そして景勝ら越後勢は生野山のある東側にそれぞれ布陣した。この時、雉ヶ岡城代の横地は戦わずに開城し、氏邦が籠城する鉢形城へ逃げ去ったと云う。またこの城攻めで、雉ヶ岡城の南東にある真福寺の御本尊が失われたと伝わっているようで、雉ヶ岡城の落城後、利家は児玉の豪族の久米氏に、この戦で離散した農民らが児玉の土地に戻れるよう計らわせたのだと云う。
小田原北條氏が滅亡した後、武蔵国に転封となった徳川家康は、ここ児玉の地に一族の竹谷松平清宗を1万石で配した。この時に雉ヶ岡城は八幡山城と改名したと云う。清宗の嫡男・家清が城主となると城下町の町割りなどを行っているが、城の改修まで行う余裕は無かったようである。慶長6(1600)年の関ヶ原の戦後は三河国吉田に転封となり、八幡山城(雉ヶ岡城)は廃城となった。
このまま土塁上を高等学校の敷地へ向って移動する:
高等学校のグランドが三ノ郭跡。さらに奥に見える校舎が建っている場所が北ノ郭跡:
ここから先へは立ち入れないので、再び城山公園内へ。この辺りには水堀跡の池が残っていた:
堀跡は池以外にも残っていた。この空堀の先は先程みた金毘羅神社や角馬出跡:
実際に堀底を歩いてみると400年以上経っているのに、現在でもこれほどの規模であることに驚かされた:
こちらは「水道の井戸」跡。大正時代に造られ、児玉町の上水道に使用されていたそうで、この場所が選定されたのは湧き水があった水堀跡だったからだろうか:
この後は散策路を通って公園外にある東ノ郭方面へ:
こちらが東ノ郭跡。位置的には高等学校のグランドの東側であり宅地化されているが、土塁が民家の脇を抜けていた:
県立児玉高校の校門周辺も東ノ郭跡であり、土塁が良好に残っていた:
道路を挟んで南側には民家の脇に水堀跡が残っていた:
以上で雉ヶ岡城攻めは終了。このあとはお昼を摂りに、いったん公園入口側へ戻った。
こちらは児玉中学校側から眺めた南ノ郭の土塁と水堀跡。しかしながら、この土塁の高さもすごい。比高差は30mほどあろうか:
雉ヶ岡城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 雉岡城跡に建っていた説明板・案内板(本庄市教育委員会)
- 本庄市ホームページ(ホーム > 組織から探す > 教育委員会事務局 > 文化財保護課 > 担当情報 > 歴史 > 近世(児玉地域)
- 日本の城探訪(雉ヶ岡城)
- 余湖図コレクション(埼玉県児玉町/雉ヶ岡城)
- タクジローの日本全国お城めぐり(埼玉 > 武蔵 雉岡城(本庄市児玉町))
- Wikipedia(雉岡城)
参照
↑a | 幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。 |
---|---|
↑b | あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。 |
↑c | もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。 |
↑d | こののちに「夏目」姓を名乗った。 |
↑e | 合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。 |
↑f | 竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。 |
↑g | 江戸時代の城主であった松平清宗・家清父子は1万石の身であり、城を改修ほどの余力はなかったため、北條流築城術がそのまま残ったと考えられる。 |
↑h | 当然ながら各学校の敷地内への立ち入りは禁止。 |
↑i | 約300本ものソメイヨシノで、春の季節は公園全体が桜色に包まれ、夜は提灯が灯り、夜桜を楽しめるらしいが、城攻め当時は季節外れだった 😕 。 |
↑j | 特に説明はするものは見つからなかったが、最後の城主であった松平家清あたりだろうか。 |
↑k | 埼玉の三偉人の一人。他に、近代日本における最初の女性医師・荻野吟子《おぎの・ぎんこ》、日本近代経済の父と呼ばれた渋沢栄一がいる。 |
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