難攻不落と知られた土気城の搦手には高い切通しを持つクラン坂がある

奈良時代は神亀《じんき》年間(724〜729年)[a]この時代の天皇は第四十五代の聖武天皇《しょうむ・てんのう》。に鎮守府将軍の大野東人《おおの・の・あずまびと》が蝦夷[b]読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。の侵入に備えて陸奥国に多賀柵[c]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つで、多賀城とも。を、そして上総国に貴船城《きふね・じょう》なる城砦[d]本稿では、こちらの城砦を「土気古城」と称す。を築いたと云う。この城は、室町時代に入ると相馬胤綱《そうま・たねつな》[e]千葉氏の庶流(御別家)で相馬氏三代当主。の家臣・土気三郎が土気荘園の地頭に任じられて入城し[f]これに関して、胤綱の子で「土気太郎」なる者が任じられたと云う説があるが、胤綱にはそのような子は居ないので家臣が入城した説が有力。土気城と呼ばれた。その後は大関城の畠山重康《はたけやま・しげやす》[g]鎌倉幕府の有力御家人の一人で、征夷大将軍・源頼朝から厚く信頼されていた畠山重忠《はたけやま・しげただ》の子孫。が居城としたが、長享元(1487)年に中野城の酒井定隆《さかい・さだたか》[h]上総酒井氏の祖とされる人物であるが、出自は複数の説があり不明。一説に酒井清伝《さかい・せいでん》と呼ばれる人物を祖とするが、この定隆と同一人物かどうかも不明。が攻め落として城を再興し改修した。それから五代約100年に亘って土気酒井氏の居城となる[i]子孫は土気酒井氏と東金酒井氏に分れた。。そして、戦国時代は永禄7(1564)年の国府台合戦[j]通説として、この年の国府台合戦を「第二次」国府台合戦と称す。で、それまで北條氏康麾下で各地を転戦していた土気城主の酒井胤治《さかい・たねはる》が突如、里見方に寝返った[k]一説に、年初めに始まった戦への出陣命令で手間取って出陣が遅れていたとき、氏康が胤治の行動に不信感を抱いているとの報を受け、これに反発して離反したのだと云う。。怒った氏康は、胤治とは同族である東金酒井胤房《とうがね・さかい・たねふさ》と、戦場では友軍として共に戦った臼井城の原胤貞《はら・たねさだ》らを土気城攻めに差し向けた。

今となっては五年前は、平成28(2016)年の大雪《たいせつ》の候に入る直前の週末に千葉県千葉市にある土気城跡を攻めてきた。この日は朝9時前に千葉駅に到着し、JR外房線・勝浦行に乗り換えて30分ほどで土気駅に到着。駅ナカのコンビニで水を調達して、駅北口から県道R20(大網街道)沿いを隣駅の大網駅方面へ向って進んで、途中から伊南房州通往還《いなん・ぼうしゅうつう・おうかん》[l]千葉県千葉市中央区浜野から外房を通って館山市北条へ至る街道。と呼ばれている街道に入って住宅街へ。

こちらは Google Earth 3D を利用して土気城跡周辺図に主要な場所を付記し、さらに『土気城跡概略図』を(参考情報に記したサイトを真似して)大まかに縮尺を合わせてから重畳させたもの。土気城は大網城[m]千葉県は大網白里《おおあみしらさと》市にあった平山城。現在はJR東金線により城域が分断・破壊されてしまっている。から西へ約2.6㎞の逆三角形をした標高90mほどの舌状台地に築かれた平山城である:

主な遺構は老人ホーム周辺にあり、田畑にも空堀を一部見ることができた

城跡周辺図(Google Earthより)

実城跡・二ノ丸跡・善勝寺曲輪跡は遠景のみで、三ノ丸跡やクラン坂に遺構が遺る

土気城跡概略図(重畳表示)

この概略図にあるように、土気城の城域のうち実城二ノ丸跡などは老人ホームのひまわりの郷の敷地であるため許可なく立ち入りは出来ないが、それ以外の郭だと三ノ丸跡は畑、馬出曲輪跡は住宅地にある他、小田原北條氏との激戦を繰り広げた搦手側のクラン坂にいたっては遺構が良好に残っていた。また、いくつかある空堀うち畑の中にあるものはだいぶ藪化していたが確認することはできた。

ほとんど埋もれてしまった城跡ではあるけど、三ノ丸跡の道祖神脇に「土気城跡」の説明板が建っており、そこに描かれていた『土気城跡概略図』がこちら。郭や空堀の位置が記されていたので、加工して城跡の周辺図に重畳させるのに使用した:

三ノ丸跡にある道祖神脇に建っていた説明板より

『土気城跡概略図』(拡大版)

土気駅から歩いて住宅地に入ると大手口の手前にある馬出曲輪の空堀跡がある。と云っても埋められた空堀の上が宅地化されているので痕跡は道路くらいだけど:

大手口前の馬出曲輪の空堀

空堀跡

痕跡は家の前に走っている道路くらいか

空堀跡(コメント付き)

道路と空堀手前にある土塁跡と高低差からも空堀の痕跡が見て取れた:

右手の土塁に対して、左手の建物と道路は空堀を埋めて造られたらしい

空堀跡

そして空堀跡を渡った先が馬出曲輪跡。郭に巡らされた土塁跡が少しだけ残っていた:

宅地化されて狭くなっているが、土塁が一部残っていた

馬出曲輪跡の一部

ちなみに馬出曲輪跡の地下にはJR外房線の土気トンネルが通っている。

さらに進んでいくと空堀が残っており、その先が土気古城の大手口跡であり、土気城の三ノ丸虎口である:

両脇に空堀が残り、土橋跡を渡った先が三ノ丸虎口(大手口)

空堀跡

空堀跡は民家の敷地なので中に入ることは不可

空堀跡(コメント付き)

外堀に相当する空堀跡は藪化が激しいが、一応は残っていた:

藪化が激しかったが、結構な深さで残っていた

空堀跡

空堀跡の先が土気古城の大手口跡であり、土気城の三ノ丸虎口。この土塁上には貴船大明神が建っていた。また石段の脇には『貴船城(土気古城)』の石碑があった:

右手下にあるのが『貴船城(土気古城)』の石碑

大手口跡・三ノ丸虎口跡

三ノ丸虎口の土塁上に建つ貴船大明神:

土気城の三ノ丸土塁上に建てられ、右手下は空堀

貴船大明神

三ノ丸の土塁は良好に残っていた:

こちら側が三ノ丸跡、右手上に貴船大明神が建つ

三ノ丸土塁

三ノ丸跡には「土気城跡」の説明板が建っていた:

ここが土気城の三ノ丸跡

道祖神と説明板

こちらが三ノ丸跡。土気城内で最も広い郭である。現在は大部分が畑になっていた:

右手奥が井戸沢曲輪跡

三ノ丸跡

さらに道形を北上すると二ノ丸虎口跡付近となるが、ここは二重堀の喰い違いになっており、こちらも藪化が激しかったが堀は残っていたし、改変されているようだが土塁も残っていた:

手前が三ノ丸跡、奥が二ノ丸跡で、間に二重空堀が残っていた

二ノ丸の空堀

二重の空堀と土塁で喰違いになっていたらしい

二ノ丸の空堀(コメント付き)

二ノ丸虎口と大きく改変されていた空堀跡。このまま直進すると善勝寺曲輪跡に建つひまわりの郷(私有地):

両脇が空堀であるが、右手の空堀は大きく改変されていた

二ノ丸虎口跡

この形から想像するに、意外と堀幅は広かったようだ

空堀

このまま右手の道路を進むとグラウンドがあるが、ここも二ノ丸跡:

古くは日本航空の研修センター跡地だったとか

二ノ丸跡

このまま進むと搦手方面となる。土気城の主郭部にあたる実城跡(と金谷曲輪跡)、そして善勝寺曲輪跡は私有地のため立ち入れないが、脇から覗くことはできた:

白い建物の裏が善正寺曲輪跡で、右手奥が本丸(実城)跡

善勝寺曲輪跡

土気城の本丸にあたり、この右手奥が金谷曲輪跡

実城跡

永禄7(1564)年の「第二次」国府台合戦で小田原北條氏を裏切って安房の里見氏に寝返った土気城主・酒井胤治は、翌8(1565)年に同族の東金酒井胤房・政辰父子、そして同輩で臼井城主・原胤貞らを先鋒とする小田原北條勢の報復攻撃を受けた。

金谷口(搦手)より寄せてきた北條勢に対し、胤治は土気城に籠もり頑強に抵抗した。一方の北条氏康は、宿敵である里見義堯・義弘父子の他、強敵である越後の上杉政虎といった多くの敵を同時に相手をしなければならなかったことから、長陣を避けて土気城攻めから撤退を決断した。

房総半島における里見氏と北條氏との戦いの最前線となった土気城には毎年のように北條勢が攻め寄せてきたが、里見氏と上杉氏の援軍でしばらく凌いでいた。しかしながら上杉と北條との間で繰り広げられた「イタチごっこ[n]上杉政虎こと上杉謙信は領土欲がなく戦に勝利してもすぐに越後に帰国してしまい、北条氏康はその期を見て奪われた領土の奪還を行った。このような戦い方が幾度となく繰り返され関東諸将らは疲れ果ててしまったと予想する。」の攻防戦による疲弊が大きくなることが不利であると悟った胤治は、天正4(1577)年頃には嫡男を人質にして氏康の軍門に降った。これは既に北條方についていた同族の東金酒井氏の切り崩しもあったらしい。

そして胤治の嫡男・康治が当主の時代、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、土気酒井氏と東金酒井氏は小田原北條氏に与して敗れ、土気城は徳川・東海道北上軍団(浅野長吉[o]のちの浅野長政。)が開城し、豊臣方に接収された後に廃城となった(石田堤史跡公園に置かれていた説明図より):

緑円内が土気城

「小田原征伐時の関東」(拡大版)

その後、土気・東金両酒井氏は関東に入封した徳川家康の旗本として家名を存続することになったと云う。


実城跡を眺めたあとは、このまま道形に進んで搦手口跡に相当するクラン坂入口へ:

実城搦手口跡から搦手方向へ向かって延びるクラン坂

クラン坂入口(搦手口跡)

クラン坂は搦手道の一部であり、土気城の実城から金谷口付近まで続き、この経路から小田原北條氏の寄手が攻め込んで、深い切通し《きりとおし》を防御施設として土気城の守手と一進一退の激戦が繰りひろげられたと伝わる。ちなみに「クラン坂」と云う呼び名は、昼間でも暗いという暗闇(クラヤミ)が訛ったもの、あるいは善勝寺曲輪の御蔵前から「蔵(クラ)の坂」からきたとも。

こちらがクラン坂:

現代でも、この道を利用する人は少ないようで藪化が進んでいた(ゴミも)

クラン坂

この切通しの高さがすごく、閉鎖感や圧迫感もあった:

垂直に切り立った切通しで、頭上からの攻撃には無防備になる

クラン坂の切通し

部分的に風化している箇所もあるが、往時はこの切通しを進む寄手に対して土気城の守手は頭上から矢玉を撃ちかけていたのだろうか:

経年による風化や雨風によって破壊された箇所があるが、それでも8m以上の高さ垂直壁は圧巻である

クラン坂の切通し(拡大版)

クラン坂は蛇行している箇所もあり、寄手の進行速度が落ちたところを頭上から矢玉や巨石、熱湯や糞尿などを落として反撃していたのだろう:

第二次国府台合戦での激戦地になった土気城の絡手道

クラン坂

高いところでは10m以上はあると見られる切通し。頭上を見上げても守手の気配を掴むのは至難の業である:

現代でも天候が悪かったり、灯りがなければ通りたくない雰囲気を醸し出していた

クラン坂の切通し(拡大版)

何千年もの時を経て堆積し隆起した切通しの「壁」である:

ここまで圧巻な高さと見事な垂直立ちする切通しは他では見られない

クラン坂の切通し

また、クラン坂には関東の各所に遺る横穴墓《よこあなぼ》[p]台地や段丘の斜面に穴を掘り、人間を埋葬した施設のこと。鎌倉周辺に多く遺る「やぐら」とも。以前、見たことがあるもあったが、ゴミの不法投棄があるなど正直なところ雰囲気はよくない:

本来は神聖な場所であるが、ゴミが不法投棄されるなど罰当たりな箇所があった

横穴墓

クラン坂の突き当りには分岐点があった。左手が金谷口(金谷地区)方面、右手が南玉(南玉地区)方面:

左手が金谷口、右手が南玉不動尊方面

クラン坂の分岐点

こちらが第二次国府台合戦で北條勢が土気城の本丸目指して攻め寄せた搦手・金谷口跡:

ここが土気城の金谷曲輪の堀切にあたる

金谷口方面のクラン坂

ここより先が満栄寺がある金谷地区になる

金谷口跡

一方、南玉不動尊の滝(大網白里市)方面の南玉口跡は、現在はJR外房線が通っていた:

この先に土気城の馬出曲輪跡の下を通過する土気トンネルがある

南玉口跡(JR外房線)

このあとはクラン坂を戻り、二ノ丸跡、三ノ丸跡を経て再び馬出曲輪跡の住宅街へ。そこから南下して善勝寺へ。ここは土気城の実城から500mほど離れた位置にあり、善勝寺口と呼ばれ出郭があったとされている。境内は高台の上にあり、土塁跡らしきものが残っているらしい。

こちらは善勝寺の山門:

現在の善勝寺が建つ場所は土気城の出郭跡とされている

善勝寺口跡

以上で土気城攻めは終了、なのだけど土気駅南側に広がるダウンタウンの中にある城楽台公園《じょうらくだい・こうえん》は土気城に由来する物見台跡の言い伝えがあるらしいので、帰りに遠回りして見てきた。ただの公園だったけど :X

(Google Map でのランドマークは自分が登録しておいた)

城楽台公園

最後はクラン坂の分岐点前に建っていた狩猟禁止区域の標識:

「特定猟具使用禁止区域(銃)」

See Also土気城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a この時代の天皇は第四十五代の聖武天皇《しょうむ・てんのう》。
b 読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。
c 古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つで、多賀城とも。
d 本稿では、こちらの城砦を「土気古城」と称す。
e 千葉氏の庶流(御別家)で相馬氏三代当主。
f これに関して、胤綱の子で「土気太郎」なる者が任じられたと云う説があるが、胤綱にはそのような子は居ないので家臣が入城した説が有力。
g 鎌倉幕府の有力御家人の一人で、征夷大将軍・源頼朝から厚く信頼されていた畠山重忠《はたけやま・しげただ》の子孫。
h 上総酒井氏の祖とされる人物であるが、出自は複数の説があり不明。一説に酒井清伝《さかい・せいでん》と呼ばれる人物を祖とするが、この定隆と同一人物かどうかも不明。
i 子孫は土気酒井氏と東金酒井氏に分れた。
j 通説として、この年の国府台合戦を「第二次」国府台合戦と称す。
k 一説に、年初めに始まった戦への出陣命令で手間取って出陣が遅れていたとき、氏康が胤治の行動に不信感を抱いているとの報を受け、これに反発して離反したのだと云う。
l 千葉県千葉市中央区浜野から外房を通って館山市北条へ至る街道。
m 千葉県は大網白里《おおあみしらさと》市にあった平山城。現在はJR東金線により城域が分断・破壊されてしまっている。
n 上杉政虎こと上杉謙信は領土欲がなく戦に勝利してもすぐに越後に帰国してしまい、北条氏康はその期を見て奪われた領土の奪還を行った。このような戦い方が幾度となく繰り返され関東諸将らは疲れ果ててしまったと予想する。
o のちの浅野長政。
p 台地や段丘の斜面に穴を掘り、人間を埋葬した施設のこと。鎌倉周辺に多く遺る「やぐら」とも。以前、見たことがある