伊勢宗瑞が伊豆国統治の拠点として龍城山に築いたのが韮山城(本城)である

伊豆半島北部に広がる田方《たがた》平野の東部に位置し、箱根山から天城山《あまぎさん》に至る山並みの中にあって独立丘の一つである天ヶ嶽《てんがだけ》[a]天ヶ岳または天狗岳とも。を中心とする尾根一帯に築かれていた韮山城跡は、はじめは応仁の乱後の文明年間(1469〜1487年)に伊豆国堀越《いずのくに・ほりごえ》[b]現在の静岡県伊豆の国市。を拠点とした堀越公方《ほりこしくぼう》・足利政知《あしかが・まさとも》[c]本来は室町幕府公認の「鎌倉公方」として関東へ下向する予定であったが、享徳の乱《きょうとくのらん》や山内・扇ヶ谷両上杉氏の内乱等により鎌倉に入ること叶わず、伊豆の堀越に留まらざるを得なかった。の筆頭家老・外山豊前守の城館[d]居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。であったと云う。政和死後に起こった兄弟間の内紛[e]長男の茶々丸《ちゃちゃまる》が、嫡男で三男の潤童子《じゅんどうじ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。では室町幕府十一代将軍・足利義澄《あしかが・よしずみ》[f]足利政知の次男。が、当時は興国寺城主であった伊勢宗瑞《いせ・そうずい》[g]延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、その後は出家して早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。に命じて堀越公方となった茶々丸を追放した[h]宗瑞に攻められて自刃したと云う従来説の他、最近は伊豆国から追放されたと云う説が有力。その後に伊豆奪還を狙っていたが宗瑞の返り討ちにあって自刃したのだと云う。。この功により韮山の城館を手にいれた宗瑞は、伊豆国支配の足がかりとして本格的な城郭の造営に着手、天ヶ嶽北西に連結する龍城山に韮山城を築いた。宗瑞は、その後も勢力を拡大し小田原城を奪取して嫡男・氏綱の居城とするも、自らは永正16(1519)年に死去するまで、ここ韮山城を居城とした。

今となっては五年前は、平成28(2016)年の立冬の候の週末を利用して静岡県伊豆の国市にあった韮山城跡を攻めてきた。この日は、まずはJR東海道本線で熱海へ向かい、熱海から同じくJR東海道線・島田行に乗り換えて三島駅で下車。さらに伊豆箱根鉄の駿豆線《すんずせん》・修善寺行に乗り換え、最寄り駅である韮山に着いたのが朝10時少し前。

駅前にある自販機で飲料水を入手して、線路沿いに南下。そして交差点に建っていた標柱にしたがって、今度は左折して東にある蛭ケ島公園方面へ。その昔、平治の乱で敗れた源義朝《みなもとの・よしとも》の嫡男、兵衛佐頼朝《ひょうえのすけ・よりとも》は捕らえられると死罪を免れ、伊豆国のここ蛭ヶ島《ひるがしま》へ配流されたと云う。往時、頼朝は14歳。そして34歳の時に以仁王《もちひとおう》から平家追討の令旨《りょうじ》を受け取ると挙兵を決意し、やがては鎌倉幕府を開府、その初代征夷大将軍に任じられた。頼朝は、挙兵するまでの間に、のちに正室となる北條政子とこの蛭ヶ島で過ごしたのだとか。

城攻め当時は「伊豆の国時代まつり」(リンクは PDF)なるイベントが開かれていて、蛭ヶ島公園では自衛隊(静岡地方隊)が車両を展示したり炊き出しを提供していた。自分も城攻めする前に豚汁を頂いたっけ:)

こちらは Google Earth 3D を利用して韮山城跡周辺の遺構(含む推定)を記したもの。現代も城跡の周辺は田畑が占めており、その昔は沼地であったことが伺える地勢である:

「韮山城跡」は龍城山にある本城跡の他に、天ヶ岳の尾根に設けられたいくつかの砦跡からなる

韮山城跡周辺図(Google Earth より)

伊豆の国市のホームページで公開されている『韮山城跡概要パンフレット』によると、現在の「韮山城跡」は城池親水公園の西側にある龍城山《りゅうじょうざん》上に築かれた本城と、その南側にそびえる標高128mほどの天ヶ岳(天ヶ嶽)尾根に設けられた砦群★、そして学校の敷地になっている低地部を含めた、総面積が約98万㎡の城域を指すようである。戦国時代初期に北條早雲こと伊勢宗瑞が伊豆国支配を目的として築いた「韮山城」が本城に相当し、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置に対抗して、城主の北條氏規《ほうじょう・うじのり》が本城南側の天ヶ岳から伸びる尾根上に砦を築いたのだという。ちなみに図中の赤字★は豊臣勢が築いた附城《つけじろ》跡。

これに従って、本稿では初めに五年前に攻めてきた本城跡を紹介し、そのあとに最近攻めてきた砦跡について紹介する。

なお韮山城跡について詳細は、伊豆の国市が策定した「百年の計」に基づく調査・研究の成果が非常に参考になった。本稿ではその一部も引用した。例えば、これは韮山城の縄張図(『4.韮山城跡の遺構と変遷』に掲載)に加筆したもの:

図中で水色部分が調査・研究の成果で判明した遺構

韮山城縄張図(拡大版)

 

韮山城・本城跡

星状に広がる天ヶ岳の尾根のうち、北西に伸びる尾根先端に築かれた本城は、南側が堀切で断ち切られて南北約400m、東西約100m、標高約50mという細長い丘陵上にあり、遠くから見ると「龍」のような形をした平山城である。

本城を含む韮山城は、小田原北條氏が滅亡したあと徳川家康配下の内藤信成《ないとう・のぶなり》の城となり、関ヶ原の戦後の慶長6(1601)年に廃城となった。その後は韮山代官の御囲地《おかこいち》となって立ち入りが制限されたことから、大きな改変なく、現在でも中世からの姿を残しているらしい。とはいえ本城に巡らされていた水濠は埋められて部分的に側溝となり、居住区であった御座敷《おざしき》や三ノ丸跡は高校の敷地になっていた。

これは城池親水公園の説明板に描かれていた『伊豆国田方郡・韮山古城図』の一部で、本城と御座敷の縄張りがよく分かる史料である:

寛政5(1793)年3月に描かれた当時の縄張り

『伊豆国田方郡・韮山古城図』

この古地図が示すように、細長い丘陵の北から南へ向かって郭が並ぶ連郭式の縄張り具合を Google Earth 3D を利用して、現在の地形に重畳させたものがこちら(一部推定あり):

南北約400m、東西約100m、標高約50mの龍城山に残る平山城である

本城跡(Google Earthより)

龍城山頂部と尾根の先端には堀切や土塁などが良好に残されていた

本城跡(コメント付き)

蛭ヶ島公園から東へ向かうと正面に龍城山が見えてくるので、そのまま県道R136を渡り韮山中学校方面へ向かう。すると民家と韮山体育館の間に水路があるが、これは水堀跡あるいは沼地跡とされる:

往時、韮山城の周囲は湿地帯だったらしく水堀の他に沼地や池があった

水路

往時の韮山城周辺は湿地帯だったらしく、水堀の他にも池や沼地があった。現在、城地以外はほぼ埋められて宅地化されているが現在でも水分の多い地質(水理地質[i]天城山系と狩野川《かのがわ》による扇状地なのだろうか?)なようで、その間を流れる水路はその名残りとされる。

そして案内板にしたがって中学校の北側から回り込むようにして「城池親水《しろいけしんすい》公園」へ向かっていくと本城と天ヶ嶽の尾根を断ち切った巨大な堀切跡が出現する。公園へ向かう道路が通れるほど巨大で、その切岸は圧巻の高さを誇る:

「堀切5」と呼ばれている天ヶ嶽の尾根を断ち切る巨大な堀切

堀切跡

堀切を過ぎたところが城池親水公園の入口であり分岐点である:

左は本城の登城口、直進すると江川邸・郷土資料館、右手上は天ヶ嶽登山口

城池親水公園の入口

ここから左へ折れると城池の西側をとおりながら本城の登城口方面へ、遊歩道を直進すると右手奥に公園があり、さらに進むと城池の東側をとおりながら郷土資料館(現・江川文庫資料収蔵館)や江川邸に至る。また右手の土居を登ったところに天ヶ嶽の登山口がある。

まずは遊歩道を直進し、往時は外堀として機能していたであろう城池ごしに本城東側の眺めてから、池を回り込んで登城口へ向かった:

正面の杜の窪みが堀切跡で、左手が天ヶ嶽方面、右手が本城方面

本城遠景

正面に向かって左手から本丸跡、二ノ丸跡、権現曲輪跡あたり

本城遠景

城池ごしの正面が登城口、城の背後には霊峰富士がそびえていた

本城遠景

釣りしている人を横目に城池を回り込んだ先に登城口があるが、その手前に往時の外堀にあたる水堀が残っていた:

韮山城へ戻って登城道に入る前に残る水堀跡

外堀跡

そして登城口の階段を登って三ノ丸跡方面へ向かった。上がったところが権現曲輪と三ノ丸との間の堀切跡のようで、堀底道が遊歩道となっていた。

三ノ丸跡は韮山高校のテニスコートになっていたが、その脇には土塁が残っていた:

現在は県立韮山高校のテニスコートになっていた

三ノ丸跡

わずかに残る三ノ丸の土塁

土塁

権現曲輪と三ノ丸の間に設けられた堀切は御座敷跡(韮山高校の敷地)側まで伸びていた:

左手が権現曲輪跡、右手が三ノ丸跡、正面下は御座敷跡へ至る

堀切跡

県立韮山高校の敷地になっていたため立ち入りできず

御座敷跡

こちらが権現曲輪跡。その際に石積みのある虎口っぽい場所をとおるが、これは後世の造物である:

三ノ丸(手前)と権現曲輪(奥)を結ぶ虎口(石積は後世の造物)

虎口跡

権現平とも呼ばれ、伊勢宗瑞が熊野権現を勧請したと伝わる

権現曲輪跡

権現曲輪には土塁が残っており、その上には伊勢宗瑞が韮山城を築城した際に勧請したと伝わる熊野神社の社が鎮座していたが、この幅広の土塁から想像して櫓台として使われていた可能性があるとのこと:

現在は熊野神社の社が建っているが、往時は櫓が建っていた?

権現曲輪の土塁

伊勢宗瑞が勧請した熊野権現を祀る

熊野神社

権現曲輪跡と二ノ丸跡の間は三方向の分岐点でもある。一つ目は権現曲輪とその南側にある二ノ丸との間に設けられた堀切を利用し、その堀底道が登城道となって城池方面へ向かうルートである。ここの堀底道は鉤形に折れており、寄手を権現曲輪や二ノ丸から横矢で攻撃できるようになっていた:

左手が権現曲輪の切岸、右手が二ノ丸の切岸で、堀底道は城池方面へ向かう

堀切と堀底道

この堀底道は東側で鉤形に折れており、防御力が上がっていた

鉤形に折れた堀底道

二つ目は御座敷跡である韮山高校へ向かうルートで、最後は切岸に沿って二の丸跡へ向かうルート:

二ノ丸跡へ向かうルートと、韮山高校のグラウンドへ向かうルート

二ノ丸の切岸

三つ目のルートから二ノ丸跡へ。この郭に巡らされた土塁が良好な状態で残されていた:

虎口を除く全周に土塁が巡らされた郭

二ノ丸跡

こちらは二ノ丸西側の虎口跡あたりから眺めた沼津アルプス[j]鷲津山は標高392m、大平山は標高356m。方面:

沼津アルプス方面の眺めで、左手のピークは大平山と鷲頭山、右手が奥沼津アルプスである

二ノ丸西側の虎口あたりからの眺望(拡大版)

二ノ丸南側の虎口から本丸跡へ向かう:

虎口を除く全周に土塁が巡らされた二ノ丸から本丸へ向かう

二ノ丸南側の虎口

こちらは二ノ丸(手前)と本丸(奥)の間に設けられた堀切と土橋:

手前の二ノ丸と奥の本丸との間に設けられた堀切と土橋

二ノ丸跡から

反対に、手前の本丸と奥の二ノ丸との間に設けられた堀切と土橋

本丸跡から

そして眺めた場所が異なるが、この堀切は竪堀となって西側と東側へそれぞれ落ち込んでいた:

堀切下にある城池側の遊歩道から竪堀を見上げたところ

東側の竪堀

土橋の上から韮山高校側に落ち込んだ竪堀を見下ろしたところ

西側の竪堀

標高が約50m(比高差約35m)で、城内で最も高い位置にある郭が本丸跡:

本城内で最も高い位置にある本丸へ登るための階段(後世の造物)

階段

他の郭と比較すると小さいが、周囲の眺めは良かった

本丸跡

最高位ともあって田方《たがた》平野の北部一帯、霊峰富士や山中城がある箱根山方面の眺めは良かった[k]実は本城南側にそびえる標高128mの天ヶ嶽砦からの眺めの方が抜群だった。

本城を中心とする田方平野を一望できた(小田原仕置で包囲された際は豊臣勢の陣が一望できた?)

富士山の眺め(拡大版)

こちらは本城の南側にある天ヶ岳の眺め:

本城よりも高い位置にあり、本城の南側を守備する砦群が築かれた

天ヶ岳の眺め

小田原北條氏の祖である伊勢宗瑞が、ここ伊豆国支配の拠点として韮山の城館を大規模に改修し、興国寺城から居城を移したのが明応2(1493)年頃と云われるが正確な築城時期は不詳である。宗瑞は、のちに小田原城を攻略し、嫡男の氏綱[l]「北條」姓を名乗ったのは氏綱の頃からで、宗瑞は死ぬまで「伊勢」姓であったとされる。の居城(小田原北條氏の居城)としたあとも生涯、韮山城を居城とした。晩年の宗瑞は、扇ヶ谷上杉氏の重臣である三浦道寸・荒次郎父子を滅ぼすべく、相模国の三崎要害で三年間の籠城戦を繰り広げ、永正13(1516)年に道寸が自刃[m]道寸の辞世の句『討つものも討たるるものも土器《かわらけ》よ  砕けてあとはもとの土塊《つちくれ》』は有名。して落城し、悲願であった相模国の平定を成し遂げた。そして二年後の同15(1518)年に家督を嫡男・氏綱に譲って隠居すると翌16(1519)年8月15日に韮山城で死去した。享年64。
室町幕府出仕から駿河国へ下向し、伊豆・相模二ヵ国を平定して戦国大名の先駆けとなった、波乱に満ちた生涯を閉じたのである。遺骸は伊豆修善寺に葬送して荼毘に付され、遺言にしたがって相模湯本に菩提寺の早雲寺が創建されて埋葬された。

その後、小田原北條氏はその矛先を武蔵国に向けるが、韮山城は依然として伊豆統治の拠点として機能していた。宗瑞に仕えていた譜代家臣の一人である清水氏が伊豆郡代を代々務め、清水氏を含む伊豆衆は小田原北條三代目当主の氏康の代には宿老格となった[n]清水氏は氏康の傅役でもあり、清水康英《しみず・やすひで》の母は氏康の乳母でもあった。

その後、河東《かとう》[o]駿河国の富士川以東の地域。の領有権を巡って隣国の駿河今川氏や甲斐武田氏ら対立すると、氏康の四男・氏規《うじのり》が永禄12(1569)年に韮山城主として入城、のちの甲斐の武田信玄との抗争に対抗するための西方の軍事拠点とした。


こちらは本丸南側の虎口と尾根筋:

本丸から天ヶ嶽方面へ伸びる尾根筋の先に塩蔵があったと云う

本丸南側虎口

本丸跡から南側には約15m四方の小さな郭があり、その周囲は高い土塁で囲われていた。これらは塩蔵だったと云う伝承があるらしい:

高い土塁で囲まれた小さな郭二つは塩蔵跡と伝わる

土塁で囲まれた塩蔵跡

そして、ここが本城の最南端。この削平地には櫓台が建っていたとされる:

見張り台に相当する櫓が建っていたらしい

本城最南端

このあとは権現曲輪と二ノ丸の間にある堀切の堀底道から階段を下りて城外へ。

こちらは下りたところの城池に面したところにあった窪地。舟入といった施設があったのだろうか:

権現曲輪と二ノ丸の間の堀切を下りたところにあった

舟入跡?

以上で韮山城・本城攻めは終了。

こちらは韮山駅へ向かう途中に眺めた富士山:

ここ伊豆の国市は富士山の眺めと韮山反射炉といった二つの「世界遺産」を同時に見ることができる

富士山(拡大版)

See Also韮山城攻め (フォト集)

【参考情報】

韮山城砦群

韮山城(本城)の訪問記を書こうと調べものをしている時に、この城には砦があったことを思い出した。五年前に攻めた時は時間がなかったのと天ヶ岳山頂への登山口が見つからなかったので諦めたと記憶しているが、今までその存在をすっかり忘れてしまっていた[p]そう云うこともあって、今の今まで「本城」が韮山城だと思っていた 😯 。

そこで、どうせなら砦跡を巡ってから訪問記を書こうと思い立ち、COVID-19 の緊急事態宣言#2[q]自分の居住地区では令和3(2021)年1月8日〜3月21日まで。が解除されて県外移動も可能になった令和3(2021)年の穀雨《こくう》[r]4月20日から立夏までの期間。春雨が百穀を潤すことから。の候に入る前のホント久しぶりに晴天になった週末に、静岡県は伊豆の国市韮山まで五年ぶりに足を運んで韮山城周辺の砦跡を攻めてきた。

結論から云うと、この砦跡は「要害度」が高く見ごたえがある遺構や山頂からの眺望は素晴らしかったのだが、想像していたよりもはるかにキツイ登山だった。例えば、道なきルートを藪をかき分けて進んだり、斜度のきついロープ場や切岸を何度も登り下りする必要があった。そのため体力を予想以上に消耗し、時間も無くなったりして予定していた砦跡を全て巡ってくることができなかった :(。この砦を攻めるなら、しっかりとした登山靴とグローブは必須[s]斜面は軽石のように砕けやすく滑りやすかった。そのため、もしかしたら滑落するんじゃないかとか、ここを進むと後戻りできないじゃないかといった恐怖心さえも感じた :mrgreen:。あと詳細な縄張図も[t]これは前述の伊豆の国市のホームページ「韮山城跡」で公開されていた「百年の計」の『4.韮山城跡の遺構と変遷』に掲載されているものが良い。

これは天ヶ岳の尾根端に残る砦群の縄張図:

伊豆の国市が公開している『4.韮山城跡の遺構と変遷』に掲載されていた図に加筆したもの

『韮山城縄張図』(拡大版)

予定では天ヶ嶽砦跡の他に和田島砦《わだじまとりで》跡、土手和田砦《どてわだとりで》跡、金谷砦跡(推定)、そして江川砦を攻める予定だったけど、最後の二つの砦跡は巡ってこれなかった。

そして、こちらが今回の砦攻めルートと実際のGPSアクティビティのトレース結果。主な遺構()については巡ってきた順番を示す番号付きのラベルを付与している。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は4.42㎞、所要時間は2時間58分(うち移動時間は1時間02分)ほど:

土手和田砦跡からスタートし天ヶ嶽砦跡、下山して和田島砦跡へ

My GPS Activity

事前に調べた情報だと最高位にあたる天ヶ岳へ登るルートは、その尾根端に築かれていた砦跡からそれぞれ登って行けるような感じだったが、実際は藪化が激しく、登山道かどうかはっきりと分かる箇所は少なかった。また尾根続きで登り下りできるかどうか怪しい箇所や、掴まって登り下りが危険そうなロープ場もあった[u]ロープがよれよれになっていたり、切れて短くなっていたりしていた。さらに大部分のロープがナイロン製なので掴んでも滑りやすい。。基本的に案内板はなかったので縄張図とGPSの情報だけを頼った。なお天ヶ岳から西側へ伸びる尾根筋から土手和田砦跡へ下りるルートは激しい藪化と深い堀切のため発見できなかったので、下山して麓側から攻めてきた(赤字は個人的に危険だと感じた箇所):

韮山駅 → ・・・ → 若宮八幡神社(①和田島砦跡)→ ②竪堀 →(急斜面をよじ登る)→ ③堀切 →(ロープ場を登る)→(尾根筋を進む)→(分岐点)→(土手和田砦方面の尾根筋を下る)→ ④土居 → ・・・ →(分岐点)→(藪をかき分けて進む)→ ⑤堀切 →(ロープ場とは反対側の急斜面をよじ登る)→ ⑥天ヶ嶽砦跡 → ⑦虎口跡 → ⑧堀切 → ⑨堀切 →(急崖を下りずに)→ ⑩堀切(を見下ろす)→ ・・・ →(天ヶ嶽砦跡北端)→(江川砦方面の尾根を下る)→ ⑪堀切 → ・・・ →(天ヶ嶽砦跡北端)→(下山する)→ ・・・ →(水神宮)→ ⑫土手和田砦跡 → ⑬横堀+畝 → ⑭竪堀 → ・・・ → 韮山駅

これが天ヶ嶽砦跡群の遠景。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では数万の豊臣勢が韮山城を包囲したが、天ヶ嶽砦は本城の南側を守備する外郭の役割を担っていたと考えられている:

小田原仕置の時に、韮山城本城のを守備する外郭の役割があった

韮山城天ヶ嶽砦跡群

外堀と本城、そしてこれら外郭を含めて韮山城と称す

コメント付き

韮山城本城は標高約50mほどの平山城であるが、その周囲は水堀と池や湿地帯で囲まれていた。また東側には天ヶ岳北東の尾根端に江川砦があった:

往時、周囲は湿地帯であり、池や水堀が天然の外郭をを形成していた

韮山城本城跡

標高128mほどの天ヶ嶽砦は詰城《つめのしろ》ではなく、本城背後の防塁としての役割が大きかったのだと云う:

標高約128mの山頂部は狭いが削平されいた他、複数の堀切が残っていた

天ヶ嶽砦跡

天ヶ岳西側と南西側に伸びる尾根筋には、標高40mほどの土手和田砦と標高70mほどの和田島砦があった:

標高40mほどの尾根端は幾重かの段郭が設けられていた

土手和田砦跡

標高70mほどの尾根端は狭く細長い郭だった

和田島砦跡

この他に、今回の城攻めでは巡ってこなかった江川砦跡や金谷砦跡がある。

和田島砦跡

天ヶ岳南側の尾根筋にあったとされる①和田島砦跡は、現在は若宮八幡宮が建っているが、これといって明確な遺構は残っていなかった。この尾根筋を南へ向かったところに竪堀があるらしいが藪化が激しくて見に行くことができなかった。そう云うこともあって天ヶ嶽砦群に含めない史料もあるようだ。

この「村社・若宮八幡神社」の参道入口から砦跡へ登って行く:

ここから右手上の山頂に建つ八幡宮を目指す

「村社若宮八幡神社」石碑

初めは舗装された道路だが、斜度がきつくなると(整備された)山道となる。この山道を作るのに腰郭などが破壊されている可能性があるとかないとか:

腰郭があったとされるが参道によって破壊された?

八幡宮の参道

参道を登った先が若宮八幡神社。上下二段の郭からなり、八幡様は上段に祀られていた。下段には特に土塁などは残っていなかった:

主郭は二段構えになっており、上段には若宮八幡神社の社が建つ

主郭跡上段

周囲は急崖で、正面奥が虎口跡、右手に上段がある

主郭跡下段

社の周囲には土居のようなものがあった:

これが遺構なのかどうかは不明

土居跡?

これが遺構なのかどうかは不明

土居跡?

こちらは南側の虎口跡。南側は尾根筋が細長く延びていて竪堀があるようだが藪化が激しくて立ち入らなかった:

ここが砦であったかどうか、その詳細は不明である

南側の虎口跡

このあとは参道入口へ下りて土手和田砦跡へ向かう予定だったけど、縄張図を眺めていたら天ヶ岳南西の尾根に登れそうな箇所があったので登山にチャレンジしてみた。この右手上あたりへ:

右手にある斜面を登ると竪堀があり、そこを過ぎると急斜面になる

ここから尾根上へ


天ヶ嶽砦跡と尾根筋

天ヶ岳の尾根上へ登る途中に②竪堀があった:

手前へ落ち込む竪堀の他に、左奥にも竪堀があった

竪堀

ここから竪堀の上を右手へ進み、急斜面をよじ登った

コメント付き

ここで、竪堀を見下ろすような位置まで上がってから天ヶ岳南西の尾根筋へ直登しようと思ったのだけど、予想外に急斜面だったので靴幅くらいの巻き道を水平移動し適当な木に掴まって上へ登った。これを何回か繰り返してジグザグに登っていく感じで。まさか四つん這いで斜面を登ることになるとは思っていなかったけど、手袋を持ってきておいてよかった。ここで注意したいのは、大量の枯葉と斜面にむき出している白っぽい岩盤。意外と脆くて崩れやすく、その砂に足を取られると滑落する危険があると云う事。今回はカメラなどの機材を背負いながらの登山になってしまい、この岩盤と枯葉にこの先でも苦戦する羽目に :$

こちらが登った先の尾根筋の南端。木がたくさん生えているので、これに掴まりながら登ってきた:

この時期にしては枯葉も多く、斜面を登る際は注意した

尾根筋の南端

尾根筋を北へ向かおうとすると眼の前に大きな③堀切が出現した:

岩盤を削って造られた見事は堀である

巨大な堀切

岩盤を掘削して造られた堀切で、中央あたりには岩盤土橋が埋もれていた:

岩盤を削って作った堀切だった

岩盤

かなり埋もれていたが、中央には岩盤土橋があった

岩盤土橋

そして、この堀切の切岸がものすごく高く険しかったが、左手にロープ場があったので助かったって感じ:

向って左手にあったロープ場から切岸の上にある尾根筋へ登った

ロープ場

尾根筋を直角に掘削したかのような高く険しい切岸

切岸

こちらが天ヶ岳から南西側に伸びた尾根筋上。緩やかな斜度があるが両側は急崖である:

緩やかな斜度を持つ尾根筋を北へ向かうと別の尾根筋との分岐点がある

天ヶ岳南西の尾根筋上

この尾根筋を天ヶ岳へ向って登っていくと、今度は西側に伸びた尾根筋との分岐点に至る:

左手の尾根は結構な藪化だった

尾根の分岐点

ハイカーが通るからか天ヶ岳方面の尾根は藪が少なかった

コメント付き

土手和田砦方面へ向かうために天ヶ岳から西側に伸びる尾根に向かった。ここまでの尾根筋とは異なり、藪化が激しく、緩やかに下っていく勾配であった。

途中には削平地の他に④土居があった:

この尾根筋には南側に土居がいくつか残っていた

土居

土手和田砦跡がある西側へ下りていくほど周囲の藪化は激しくなっていた。尾根筋の南側は結構な急崖であったので、藪をかき分けた先に尾根筋が無い!なんていう場面があって以降は慎重に下りることにした。

こちらは途中に眺めた尾根筋北側の眺め。韮山中学校の敷地が見えた:

尾根筋を下れば下るほど藪化が激しく、そんな状況下でここが一番眺めが通っていた箇所かな

尾根筋北側の眺め(拡大版)

もうすぐ土手和田砦との間に設けられたと云う大堀切が見えてくるかと思って下っていたら、ここから先へは進めなくなった :(

しばらく周辺をうろうろしてみたが下へ下りる道はなかった

尾根端

土手和田砦跡へは麓の水神宮から行けるらしいことは分かっていたので、ここは天ヶ嶽砦跡を目指すため分岐点へ戻ることにした。

分岐点へ戻り、再び天ヶ岳から南西側に伸びた尾根筋上を登って行くと削平された場所があり、その先には⑤堀切があった。これも岩盤削り出しだった:

天ヶ岳から南西側に伸びた尾根筋で最も広い郭だった

削平地

削平地から堀切を見下ろしたところ

堀切

この⑤堀切の先には畝《うね》状の堀切が残っていた:

まさに北條流築城術の一つである

畝付きの堀切

そして、この先の切岸(急崖)を見上げてしばし絶句 :O

ここを登りきれば天ヶ嶽砦跡であるが・・・

天ヶ嶽砦西側の切岸

向って左手奥にはロープ場あったが根本がグラグラしていたので、あえて右手の急崖を木に掴まって休みながら登ることにした。この斜面もまた滑りやすい白っぽい岩盤だった:

左手奥にあるロープ場はかなり頼りない感じだった

左手奥のロープ場

木に掴まりながらゆっくりと登る(滑りやすいので注意)

を回避して右手上へ

なんとか登りきったところが⑥天ヶ嶽砦跡の中央あたり。郭の大部分が尾根筋である:

右手土塁の奥あたりへ登ってきた

天ヶ嶽砦跡

この砦の中央には土塁があり、その周辺が⑦虎口跡らしいが、実はさきほど回避したロープ場を登ってくるとここに到達するようだ:

この土塁の上に天ヶ岳の山頂を示す三角点があった

土塁と虎口跡

この先が急崖でロープ場になっていた

虎口跡

土塁の上に登ると三角点の標柱があるので、ここが天ヶ岳の山頂であり、天ヶ嶽砦の最高位にあたる。と云うことで眺めは良かった:

伊豆三山である城山と葛城山

天ヶ嶽砦からの眺望

を越えた正面奥には伊豆長浜城跡がある

天ヶ嶽砦からの眺望

沼津アルプス方面の眺め(大平山と鷲頭山)

天ヶ嶽砦からの眺望

天ヶ岳西側正面の丘陵が守山《もりやま》:

鎌倉幕府執権の北條氏の拠点で、麓には初代執権・北條時政が建立した願成就院がある(菩提寺でもある)

守山(拡大版)

この山の麓には、鎌倉幕府の初代執政で源頼朝の正妻・北條政子の父である北條時政の菩提寺である願成就院《がんじょうじゅいん》があり、裏側には北條氏邸(円成寺)跡がある。また近くには堀越公方・足利政知《あしかが・まさとも》の御所があったと云う。

土塁から下りて尾根筋を更に南へ向っていくと⑧堀切がある。こちらも岩盤を掘削して造られたもだが、片側だけ土橋として残されていた:

片側だけ掘削して造られた堀切で、残された部分が土橋になっていた

土橋

片側だけ掘削して造られた堀切は竪堀となって落ち込んでいた

堀切

緩やかな登りの傾斜を持つ尾根筋を、さらに南へ向かう:

両側は急崖

尾根筋

すると⑨堀切がある。こちらも岩盤を垂直に削って彫られたもの:

現在は経年によって浅くなっているが、往時は結構な深さだったろう

堀切

堀は大分埋もれていたが、岩盤が垂直に掘削されていた

切岸

この堀切を越えると急崖のロープ場で、この下にも⑩堀切の他に竪堀などがあった。そして、下に見える尾根筋をさらに進んでいくと金谷砦(推測)跡に至るらしい:

この下の尾根筋をさらに南へ向かうと金谷砦亜になるらしい

急崖下の堀切

ここを滑りながら下りてロープにつかまって下りるようだ

コメント付き

この時点で、ここを下りてまた登って戻ってくる余力がなかったので、今回は折り返しで天ヶ嶽砦の主郭跡北側へ向かった:

天ヶ岳の尾根筋でもあって狭い

天ヶ嶽砦主郭跡

こちらが主郭跡の北端:

 

手前右下を下ると北東に伸びる尾根に下りることができる

天ヶ嶽主郭の北端

そして、ここから韮山城北側にある田方平野の眺め。正面左手に見える愛鷹山《あしたかやま》の背後には富士山があるのだが、当時は雲で隠れてしまっていた:

中央下に少しだけ本城の本丸跡が見え、藪を挟んで右手には城池、その右奥は山中城跡がある箱根(大涌谷)方面

韮山城北側の眺望(拡大版)

ここからは本城の本丸跡を見下ろすことができた:

云うなれば本城が丸見えである

本城跡

当時は「韮山城跡」の幟が立っていた

本丸跡

そして、ここから北東へ尾根が伸びているのだが、その尾根筋との落差は大きく急斜面だった:

主郭から北東へ伸びる尾根は岩石がが突き出ていて危険な切岸だった

尾根を見下ろしたところ

見てのとおり、見下ろしたところから下りていくことは危険なので、北端から南側へ少し行ったところにある巻き道を下っていく。右手は急斜面で、ロープは張ってあったけど枯葉と砕けやすい白っぽい軽石が多かったので滑りそうで難儀した。

尾根筋へ下りたところにあったのが⑪堀切。形状としては⑧堀切と似ていて片側に土橋がある堀切:

左手が土橋、右側の堀はそのまま竪堀になっていた

土橋と堀切

片側で大きく抉られて掘削された堀底は竪堀となって落ち込んでいた

大きな堀が竪堀

堀切の奥には削平地があり、さらに江川砦方面へ向かう尾根筋と、堀切のある尾根筋に分岐される:

直進すると江川砦方面の尾根、右奥下には堀切がある別の尾根へ至る

堀切の先

この先も体力の都合で省略し、再び主郭北端までよじ登り、城池親水公園のある麓へ下山することにした:

主郭北端から城池親水公園がある麓へ続く尾根筋を下った

下山口

そもそも「登山道」として整備されたものではないようで結構な急斜面な箇所があったので、登りはしんどそう:|

下りてきた登山道を振り返って見たところ

例えばロープ場とか

ここに下りてきた。右手下にあるのが本城との尾根を断ち切った堀切跡。ここが天ヶ岳の登山口の一つになるのだろう:

天ヶ岳から公園がある麓へ下ってくると、正面の藪から出てこれた

登山口

このあとは天ヶ岳西側の尾根筋から行くことができなかった土手和田砦跡へ。麓にある水神宮なる参道から行ってみることにした。

土手和田砦跡

こちらが城池親水公園を出て韮山中学校のグラウンド越しに眺めた⑫土手和田砦跡

城池親水公園から出てすぐのところか眺めたところ

土手和田砦

このまま中学校の脇を通って水神宮の参道入口へ。斜面の補強材の角度から想像するに、意外と急峻な崖地だったのかもしれない:

途中、石段付きの登り口があったが藪化が激しくて先へ進めなかった

水神宮の参道入口

このまま階段を上がっていくと水神宮の敷地に到着する。この敷地は砦の腰郭跡:

土手和田砦は多くの腰郭や段郭があったらしい

腰郭跡

水神を祀る社であるが、この砦の周辺も湿地帯または池があったかも

水神宮

ここまで上がってきた階段の奥に砦あとへの登城道が続いていた:

水神宮が建つ腰郭跡から上へあがる道がある(右手下の階段は参道)

登城口

この砦は北側と南側はそれぞれ腰郭が階段状に設けられた比較的に単純な構造をしているようだが、この時期は結構な藪化で遺構の大部分が埋もれていて分かりづらかったのが残念だった ;(。例えば、こんな腰郭跡:

右手上が砦の主郭方面で、右手正面の切岸もなかなかのもの

腰郭跡

この上にある腰郭には土居の上に畝状のものが残っていた。これは石と土で造られていた:

腰郭の土居の上に残されていたもの

畝状のもの

畝は岩石と土で固められていた

コメント付き

この郭の上には主郭に巡らされた⑬畝つきの横堀が残っていた:

複数の畝堀が主郭を巡る逆L字型の横堀である

横堀+畝

横堀を畝で区切った北條流築城術の空堀であった

コメント付き

主郭の南側の横堀。堀底から畝を見るとこんな感じ:

主郭は右手上にある

畝堀

畝によって階段状になった横堀

コメント付き

堀の一部は経年で埋もれていたが、畝の方はしっかりと残っていた:

(わかりづらいが)左手前から右奥に走る畝

斜めから見た畝

(わかりづらいが)上から下へ縦に走っている畝

上から見た畝

畝の上に登ってから見た横堀。堀は奥で竪堀に変化していた:

畝で区切られた横堀の西側で、この先は竪堀に変化していた

横堀

こちらは主郭西側の横堀:

主郭は左手上にある

畝堀

逆L字型の横堀と畝で、さらに右奥には竪堀が残っていた

コメント付き

こちらが土手和田砦の主郭とその切岸。主郭を最高位として何段かの腰郭が巡らされていた:

主郭は何段かの腰郭の上に建つ砦の最高位

主郭切岸

こちらが主郭跡。かなり藪化していたが奥(北側)に向って段差があった:

奥(北側)に向って腰郭が段々に設けられていた

主郭跡

そして主郭から見下ろした⑭竪堀

北と南は幾重かの腰郭が設けられ、西は急崖、東は堀で守られていた

竪堀

主郭の東側、畝堀とは垂直に設けられた堀

竪堀

最後は、天ヶ岳西側の尾根を見上げたところ。完全に杜化し、向こう側にある大堀切などの遺構は全く目視できなかった:

土手和田砦跡から杜の向こうの尾根筋に登れるのだろうか?

天ヶ岳の尾根

以上で砦群攻めは終了。今回は和田島砦と土手和田砦、そして天ヶ嶽砦の一部だけしか巡れなかったが機会があれば体力を温存できるルートと装備でのぞみたい。

See Also韮山城砦群攻め (フォト集)

【参考情報】

小田原仕置・韮山城包囲戦

天正17(1589)年12月下旬、京で小田原北條氏第四代当主の氏政が関白秀吉に拝謁するため上洛するとの噂が立っていた頃、当の氏政は秀吉との対決を想定して領国内の家臣や他国衆らに戦支度を命じ、防衛体制を整えていたとされる。北條陸奥守氏照を筆頭に御一門衆と宿老の松田・遠山氏らは本城の小田原城へ入城する一方で、豊臣軍を迎撃することになる上野国や伊豆国における主要な拠点には御一門衆と重臣らが配された[v]上野国の松井田城には宿老の大道寺政繁、北條安房守氏邦は居城の鉢形城、相模国の津久井城には重臣の内藤綱秀がそれぞれ在城した。

伊豆国の駿河方面に対する最前線の山中城には重臣の松田康長《まつだ・やすなが》と玉縄北條氏勝らが在城し、ここ韮山城には北條美濃守氏規《ほうじょう・みののかみ・うじのり》と重臣の大藤与七らが、そして下田城には重臣で伊豆奥郡代である清水康英《しみず・やすひで》がそれぞれ在城した。

翌18(1590)年2月には秀吉軍の諸勢が出陣、一ヶ月遅れて秀吉が出陣し、徳川家康、織田信雄、そして豊臣秀次《とよとみ・ひでつぐ》が率いる東海道北上軍が小田原北條勢と伊豆・駿河国境の黄瀬川《きせがわ》で戦闘して、ついに小田原仕置の幕が切って落とされた。3月27日に秀吉が沼津の三枚橋城に着陣すると豊臣軍の本格的な侵攻が開始された。

まず3月29日に秀次を大将とした6万もの豊臣勢本隊が山中城を攻撃して即日に落城させた。同時に織田信雄を大将とする4万もの支隊は韮山城を包囲した:

緑円内が韮山城(石田堤公園に置かれていた説明図より)

「小田原征伐時の関東」(拡大版)

豊臣勢は韮山城と天ヶ嶽砦の東側に附城《つけじろ》を築き、本城の北と西に堀を挟んで諸勢を配した:

赤色が豊臣勢、水色が小田原北條勢の推定布陣図

韮山城跡包囲布陣図(Google Earth より)

韮山城・天ヶ嶽砦跡から山中城方面の眺めがこちら。ここで籠城していた北條勢は、一日で落城した山中城の様子(煙など)が見えたかも知れない:

標高120mほどの天ヶ嶽砦から箱根方面も一望できた

山中城跡方面の眺め

こちらは小田原口方面。こちら側には織田信包《おだ・のぶかね》、蒲生飛騨守氏郷、そして稲葉貞通《いなば・さだみち》が布陣した:

こちら方面に蒲生、稲葉、織田勢らが本陣を置いた

小田原口方面

十八町口方面には筒井定治《つつい・さだはる》、生駒一正《いこま・かずまさ》、蜂須賀家政《はちすが・いえまさ》、福島正則、戸田勝重《とだ・かつしげ》らが布陣した:

この先には筒井、生駒、蜂須賀、福島、戸田らが本陣を置いた

十八町口方面

蛭ヶ島口方面には岡本良勝《おかもと・よしかつ》、山崎片家《やまざき・かたいえ》、中川秀政《なかがわ・ひでまさ》が布陣した:

この下に岡本・山崎勢らが本陣を置いた

蛭ヶ島口方面

和田島口方面には細川忠興と森忠政《もり・ただまさ》が布陣した:

左手が和田島砦で、このあたりに細川・森らが本陣を置いた

和田島口方面

こちらは韮山城・本城の伝塩蔵跡から眺めた太閤陣場附城方面。大将で松坂中将こと織田信雄《おだ・のぶかつ》の本陣が置かれた:

韮山城本城の本丸跡あたりから見たところ(正面奥の山)

太閤陣場附城方面

城主の氏規は大軍相手に100日以上の籠城戦を耐え抜き、最後は徳川家康の説得で開城した。氏規は幼少期に外祖母で、「海道一の弓取り」と称された今川義元の実母である寿桂尼《じゅけいに》の下に人質として預けられ駿府に置かれていたが、同時期に松平竹千代(徳川家康)と知己の間柄になっていたことが開城交渉に影響があったと云う説がある。

【参考情報】

  • 伊豆の国市のホームページ「韮山城跡
    • 『韮山城跡』のパンフレット
    • 「韮山城跡〜戦国時代のはじまりと終りを語る城〜」で公開されている『百年の計』の資料
  • Wikipedia(小田原征伐〜韮山城)
  • 『戦国北条家一族辞典』(黒田基樹著/戎光祥出版)
  • 『戦国北条五代』(黒田基樹著/講談社)

参照

参照
a 天ヶ岳または天狗岳とも。
b 現在の静岡県伊豆の国市。
c 本来は室町幕府公認の「鎌倉公方」として関東へ下向する予定であったが、享徳の乱《きょうとくのらん》や山内・扇ヶ谷両上杉氏の内乱等により鎌倉に入ること叶わず、伊豆の堀越に留まらざるを得なかった。
d 居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。
e 長男の茶々丸《ちゃちゃまる》が、嫡男で三男の潤童子《じゅんどうじ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。
f 足利政知の次男。
g 延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、その後は出家して早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。
h 宗瑞に攻められて自刃したと云う従来説の他、最近は伊豆国から追放されたと云う説が有力。その後に伊豆奪還を狙っていたが宗瑞の返り討ちにあって自刃したのだと云う。
i 天城山系と狩野川《かのがわ》による扇状地なのだろうか?
j 鷲津山は標高392m、大平山は標高356m。
k 実は本城南側にそびえる標高128mの天ヶ嶽砦からの眺めの方が抜群だった。
l 「北條」姓を名乗ったのは氏綱の頃からで、宗瑞は死ぬまで「伊勢」姓であったとされる。
m 道寸の辞世の句『討つものも討たるるものも土器《かわらけ》よ  砕けてあとはもとの土塊《つちくれ》』は有名。
n 清水氏は氏康の傅役でもあり、清水康英《しみず・やすひで》の母は氏康の乳母でもあった。
o 駿河国の富士川以東の地域。
p そう云うこともあって、今の今まで「本城」が韮山城だと思っていた 😯 。
q 自分の居住地区では令和3(2021)年1月8日〜3月21日まで。
r 4月20日から立夏までの期間。春雨が百穀を潤すことから。
s 斜面は軽石のように砕けやすく滑りやすかった。そのため、もしかしたら滑落するんじゃないかとか、ここを進むと後戻りできないじゃないかといった恐怖心さえも感じた :mrgreen:
t これは前述の伊豆の国市のホームページ「韮山城跡」で公開されていた「百年の計」の『4.韮山城跡の遺構と変遷』に掲載されているものが良い。
u ロープがよれよれになっていたり、切れて短くなっていたりしていた。さらに大部分のロープがナイロン製なので掴んでも滑りやすい。
v 上野国の松井田城には宿老の大道寺政繁、北條安房守氏邦は居城の鉢形城、相模国の津久井城には重臣の内藤綱秀がそれぞれ在城した。