伊勢宗瑞が伊豆国統治の拠点として龍城山に築いたのが韮山城(本城)である

伊豆半島北部に広がる田方《タガタ》平野の東部に位置し、箱根山から天城山《アマギサン》に至る山並みの中にあって独立丘の一つである天ヶ嶽《テンガダケ》[a]天ヶ岳または天狗岳とも。を中心とする尾根一帯に築かれていた韮山城跡は、はじめは応仁の乱後の文明年間(1469〜1487年)に伊豆国堀越《イズノクニ・ホリゴエ》[b]現在の静岡県伊豆の国市。を拠点とした堀越公方《ホリゴエクボウ》・足利政知《アシカガ・マサトモ》[c]本来は室町幕府公認の「鎌倉公方」として関東へ下向する予定であったが、享徳の乱《キョウトクノラン》や山内・扇ヶ谷両上杉氏の内乱等により鎌倉に入ること叶わず、伊豆の堀越に留まらざるを得なかった。の筆頭家老・外山豊前守の城館[d]居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。であったと云う。政和死後に起こった兄弟間の内紛[e]長男の茶々丸《チャチャマル》が、嫡男で三男の潤童子《ジュンドウジ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。では室町幕府十一代将軍・足利義澄《アシカガ・ヨシズミ》[f]足利政知の次男。が、当時は興国寺城主であった伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》[g]延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《イセ・シンクロウ・モリトキ》、その後は出家して早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。に命じて堀越公方となった茶々丸を追放した[h]宗瑞に攻められて自刃したと云う従来説の他、最近は伊豆国から追放されたと云う説が有力。その後に伊豆奪還を狙っていたが宗瑞の返り討ちにあって自刃したのだと云う。。この功により韮山の城館を手にいれた宗瑞は、伊豆国支配の足がかりとして本格的な城郭の造営に着手、天ヶ嶽北西に連結する龍城山に韮山城を築いた。宗瑞は、その後も勢力を拡大し小田原城を奪取して嫡男・氏綱の居城とするも、自らは永正16(1519)年に死去するまで、ここ韮山城を居城とした。

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参照

参照
a 天ヶ岳または天狗岳とも。
b 現在の静岡県伊豆の国市。
c 本来は室町幕府公認の「鎌倉公方」として関東へ下向する予定であったが、享徳の乱《キョウトクノラン》や山内・扇ヶ谷両上杉氏の内乱等により鎌倉に入ること叶わず、伊豆の堀越に留まらざるを得なかった。
d 居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。
e 長男の茶々丸《チャチャマル》が、嫡男で三男の潤童子《ジュンドウジ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。
f 足利政知の次男。
g 延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《イセ・シンクロウ・モリトキ》、その後は出家して早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。
h 宗瑞に攻められて自刃したと云う従来説の他、最近は伊豆国から追放されたと云う説が有力。その後に伊豆奪還を狙っていたが宗瑞の返り討ちにあって自刃したのだと云う。