栃木県足利市家富町2220にある鑁阿寺《ばんなじ》とその周辺の敷地は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》から数えて三代目の源義康《みなもとの・よしやす》[a]父は源義家の四男・義国《よしくに》で31歳の若さで病死した。が平安時代の末期に、ここ下野国足利荘[b]現在の栃木県足利市にあった荘園。に下向して自らの邸宅に堀と土居を築いて居館としたのが始まりとされる[c]これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。。この時、自らは足利氏[d]足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。を名乗る一方で、兄の義重《よししげ》は新田氏の祖となった。そして義康の子・足利義兼《あしかが・よしかね》が発心得度して邸宅内に大日如来を本尊とする持仏堂を建立し、足利氏の氏寺《うじでら》とした。また、その子で三代目当主の足利義氏《あしかが・よしうじ》[e]戦国時代初期に古河公方《こがくぼう》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。は父の死後に本堂を建立したが安貞3(1229)年に落雷で焼失した。その後、本堂は足利尊氏の父で、七代目当主である足利貞氏《あしかが・さだうじ》により禅宗様式を取り入れたものに再建された。これが現在の真言宗大日派・鑁阿寺の本堂にあたり、大正11(1922)年には国指定史跡[f]本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。に、さらに平成25(2013)年に本堂が国宝に指定された。
今となっては五年前は平成28(2016)年の霜降《そうこう》を過ぎた頃、少し肌寒いけど冬の訪れはまだ先かなぁという週末に栃木県にある城跡を二つ攻めてきた。午前中は佐野城跡を攻め、佐野厄よけ大師近くにあった佐野ラーメンを頂いて体を温めたあと、午後はJR両毛線高崎行に乗って足利駅へ移動し、駅北口から徒歩10分ほどのところにある足利氏館跡(と足利学校)を巡ってきた。どうもこの時期は七五三にあたるようで観光客に加えて多くの家族づれを見かけた。館跡の鑁阿寺境内の他に、4つある門前にも車が無造作に駐車してあって、写真を撮るのに苦労した記憶がある 。
室町時代には幕府から厚い保護を受けていたようで、遺構としても水堀や土居で囲まれた中世地方武士の典型的な館様式である単郭[g]主郭のみの縄張。の「方形館《ほうけいかん》」の姿が、780年以上経った現在までよく残っている。
こちらは境内に置かれていた案内図(伽藍図)。鑁阿寺が建つ足利氏館跡は、一辺が約200m四方の堀と土塁で囲まれていた:
こちらは鑁阿寺がある足利氏館跡へ向かう手前、大日大門通り沿いの空き地に建っていた「征夷大将軍・足利尊氏公像」:
鑁阿寺がある栃木県足利市は、前述のとおり、かっては足利荘が栄えて清和源氏「八幡太郎」義家の流れを汲む足利氏発祥の地である。足利氏で有名人は、別に初代征夷大将軍の尊氏だけでない。おまけに尊氏の時代は、足利氏館は使われておらず、彼自身も生涯で一度も、ここ足利荘に足を踏み入れたことはなかった。
そのまま大日大門通りを北上していくと見えてくるのが、現在は鑁阿寺の山門に相当する楼門。その手前に見えるのは水濠に架かった反橋《そりばし》:
ここが往時の足利氏館の南側に位置する表玄関であった。反橋と濠と楼門を横から見ると、こんな感じ:
楼門は、足利義兼が建久7(1196)年に創建するも承久の乱の兵火にあい焼失したが、永禄7(1564)年に足利幕府十三代将軍である足利義輝《あしかが・よしてる》によって再建された。
水濠に架かる反橋は太鼓橋と呼ばれ、江戸時代は安政年間の再建:
まざに構造雄大で手法剛健な楼門は入母屋造の行基葺きで、門の両側に安置されている仁王像は安土桃山時代の作だとか。そして足利氏館の周囲には水濠と土居が巡らされていた:
楼門をくぐった先、正面に建っているのが国宝で鑁阿寺の本堂。ここが足利氏館の主郭にあたる:
建久7(1197)年に足利義兼が建立したものは安貞3(1229)年に落雷で焼失したが、正安元(1299)年に足利尊氏の父・貞氏によって再建されたもの。また応永14(1407)年から永享4(1432)年の改修で本瓦葺に改められた。関東地方における禅宗様式の建築物として重要な文化財であることから平成の時代に国宝に指定された。
本堂の棟には鯱がのり[h]鯱は火災が発生したら水を口から吹き出して鎮火させる想像上の生き物とされ、本堂は一度、落雷で焼失していることに関係している。、足利二つ引紋があしらわれていた他、正面向拝《しょうめん・こうはい》の唐破風上には巨大な鬼瓦が載っていた:
こちらは鐘楼。建久7(1196)年に足利義兼が建立したもの(重要文化財)。梵鐘は江戸時代の再鋳であるが太平洋戦争時の供出は歴史資料の観点から免れることができたと云う:
鐘楼の近くで、館に巡らされていた土居の一部を見ることができた。800年近く経過しているとは思えない程、見事な土居:
心字池《しんじいけ》。往時も、このような庭園があったのだろうか:
このまま東へ向かい、東門(県指定文化財)を外から眺めたところ。切妻造で四脚門:
本堂と同様に永享4(1432)年の改修で再築され本瓦葺きになった。
次は薬医門形式の北門(市指定重要文化財):
これは移築門であり、もともとは館の外に建てられていた千手院[i]現在の足利幼稚園周辺。の門。薬医門としては典型的な江戸時代末期の風格を持つ。
これは校倉《あぜくら》(市指定重要文化財)。創建当時は鑁阿寺の宝物を収蔵していたが、現在は足利家伝来の大黒天を祀っている:
この隣りにあるのが蛭子堂《ひるこどう》(市指定重要文化財)。足利義兼の妻で、源頼朝の妻・北条政子の同母妹である時子を祀っている[j]御堂の名前に所以する悲しい伝説があるらしい。:
同じく校倉の隣りにある大酉堂《おおとりどう》。創建当時は足利尊氏公を祀っていたようだが、現在は金剛山伝来の大酉大権現[k]古くから武神として崇められていた。近世から商売繁盛、福の神として信仰されている。が祀られている:
大酉堂の隣りにあって、一際目立つ真っ赤な門で囲まれた社が御霊屋《おたまや》(県指定文化財)。本殿には源氏の祖を祀り、拝殿には最後の足利将軍である十五代義昭公の像が祀られている:
このまま館跡の西端へ移動して、外から眺めた西門(県指定文化財)。本瓦葺きになったのは室町時代であるが、切妻造で四脚門といった総体的に鎌倉時代の武家造りの基本である剛健な素木造り:
再び館跡へ戻って多宝塔《たほうとう》(県指定文化財)。創建は足利義兼である。焼失後に江戸時代の元禄5(1692)年に再建されたと伝えられていたが、相輪の宝珠に刻まれた銘から寛永6(1629)年に再建された説が有力とのこと:
徳川五代将軍綱吉の生母・桂昌院尼公《けいしょういん・にこう》が再建したもので、多宝塔としては国内で一番大きいとされ、塔の奥には足利家の大位牌と、徳川歴代将軍の位牌が祀られている。
江戸時代には徳川幕府からも保護を受けた鑁阿寺であるが、それは徳川氏が源氏庶流新田氏の後裔と(強引に)称していることが背景にある。ここ足利荘から新田荘に分家したことを徳川氏が先祖発祥の地であると(勝手に)広め、それを誇示するために先祖の(と偽りつつ)菩提供養のために寄進したのが、現在見ることができる多宝塔である。
いかにも「征夷大将軍」の血筋であると主張するための強引な言い回しであり、他にも徳川家康が興した「徳川」氏は新田氏系「得河」氏の末裔であると主張する説があるが、現在のところ、それを立証する証拠は存在していない。
こちらは経堂《きょうどう》(重要文化財)。これもはじめは足利義兼の建立で、のちに応永14(1407)年に鎌倉公方・足利満兼《あしかが・みつかね》が再建したもの。お経を納める建物としては全国でも有数の規模を持つ:
経堂の隣りにあるのが不動堂(県指定文化財)。これもはじめは足利義兼の建立であるが、現在のものは江戸時代の文禄元(1592)年に、足利尊氏の四男・基氏《もとうじ》の末裔である喜連川国朝《きつれがわ・くにとも》が再建したもの:
こちらは足利義兼の御手植と称されている大銀杏《おおいちょう》であるが、古地図には記載されていないのだとか:
と云うことで、人混みの中を単に仏閣を眺めてきただけ であるが、ある意味で「歴史の奥深さ」を知ることができた足利氏館攻めは終了。
最後は楼門に立てかけてあった案内板。やはり由緒ある寺で人生のイベントを祝えるのは幸せ者だろう:

「十一月中 七・五・三祝祈願」(大変に混みます)
足利氏館と足利学校 (フォト集)
【参考情報】
- 鑁阿寺境内に建っていた案内板・説明板
- 日本の城探訪(足利氏館)
- Wikipedia(鑁阿寺)
- 小京都の古刹・足利氏の氏寺・大日尊・鑁阿寺のホームページ(トップページ > 建築物案内)
史跡・足利学校
足利氏館跡の鑁阿寺境内を巡ったあとは、ちょうど文化庁開催の「足利学校国宝展」が開催されていた、日本最古の学校で国指定史跡になっている足利学校へ。この時の前年に日本遺産にも認定されている[l]このあと、世界遺産認定を目指しているようだ。。
ただ創建についてはいくつか説があるらしく、奈良時代または平安時代の創建説。また足利義兼や関東管領・上杉憲実《うえすぎ・のりざね》が開いたとか。「学校」としての歴史が始まるのは室町時代中期からだそうで。これは、上杉憲実が学校を整備し「孔子」の教えである儒学の経典「五経」のうち四経を寄進し、鎌倉から快元《かいげん》なる禅僧を呼び寄せて初代の校長とし、以後は学問の道を興し学者の養成に力を注いだと云う。この後も、憲実の子・憲忠《のりただ》が残りの易経を寄進するなど学校の基礎を固めた。
天正18(1549)年にはキリスト布教のため日本で活動していたフランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学・・・」と記されている。また徳川家康との関係も良好で、将軍の運勢を占って献上したのだとか。
こちらは学校の校門にあたる入徳門《にゅうとくもん》。創建は江戸時代は寛文8(1668)年であるが、その後に焼失・再建を経て、明治42(1909)年に裏門を移築・修繕した:
「入徳」とは「徳に入る」と云う意味で、道徳心を習得する場所(学校)に入ると云うことを表しているのだとか。
こちらが足利学校のシンボルで、江戸時代から今日まで受け継がれてきた学校門:
門の大額に掲げられた「学校」とは儒学の教科書の一つである孟子の中にある単語なのだとか。
学校門をくぐって左手にあるのが遺跡図書館:
当時開催されていた「足利学校国宝展」は、平成27(2016)年に足利学校が日本遺産に認定され、その一周年を記念して開催されていたもの。この建物の中で国宝である 『文選[m]永禄3(1560)年に小田原の北條氏政が寄進した中国南宋時代の詩文集。現存する最古のもの。《もんぜん》』や『周易注疏[n]関東管領・山内上杉家九代当主・上杉憲忠が寄進した中国南宋時代の周代の易占の書。《しゅうえきちゅうそ》』など四種77冊の国宝書籍が展示されていた。
孔子廟の門である杏壇門《きょうだんもん》。一度焼失したあとに再建されたもの:
そして、こちらが孔子廟(聖廟)。孔子を祀ってある廟:
この廟には孔子座像《こうしざぞう》と小野篁公像《おののたかむらこうぞう》が安置されている:
こちらは、寄棟造で茅葺き屋根を持つ方丈の玄関。唐破風の鬼瓦にある「學」の字は足利学校を中興した上杉憲実の筆跡を模写したものらしい:
方丈の隣りにあるのが庫裡。竈のある土間や台所、そして湯殿などがあり、校長含む学生たちの生活の場として使われた:
方丈は北と南のニカ所に庭園があった。こちらは南庭園:
書院庭園の形態を持つ築山泉水《つきやませんすい》式の庭園で、巨石と老松が特徴である。
南庭園の奥には、足利学校の中興の祖である(という説が有る)関東管領・上杉憲実公に対する顕彰碑が建っていた:
これは現代の学生寮に相当する衆寮《しゅりょう》と呼ばれる建物:
その他、木小屋や土蔵があった:
裏門は一般人や学生が出入りしていた通用門。周囲にある土塁は高さが約2mで、総延長は約210mだとか:
以上、遺跡博物館で国宝を眺めていたため、その他の施設については足早に巡ってきたが、意外と熱心に観覧する人が多かったように思えた 。
そして、こちらは駅へ向かう際に国道R293に架かっていた歩道橋上から眺めた足利学校:
最後は「足利学校の入學証」。ちなみに入学するには参観料として420円(当時)が必要だった:

入学証
足利氏館と足利学校 (フォト集)
【参考情報】
- 足利学校に建っていた説明板
- 史跡内マップ(「栃木県・足利市A100」トップページ > 史跡足利学校 > 足利学校史跡内マップ)
- 『日本最古の学校・国指定史跡 足利学校』リーフレット(史跡足利学校事務所)
- 『日本遺跡認定一周年記念特別展・足利学校国宝展』(足利市教育委員会/史跡足利事務所・編集)
参照
↑a | 父は源義家の四男・義国《よしくに》で31歳の若さで病死した。 |
---|---|
↑b | 現在の栃木県足利市にあった荘園。 |
↑c | これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。 |
↑d | 足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。 |
↑e | 戦国時代初期に古河公方《こがくぼう》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。 |
↑f | 本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。 |
↑g | 主郭のみの縄張。 |
↑h | 鯱は火災が発生したら水を口から吹き出して鎮火させる想像上の生き物とされ、本堂は一度、落雷で焼失していることに関係している。 |
↑i | 現在の足利幼稚園周辺。 |
↑j | 御堂の名前に所以する悲しい伝説があるらしい。 |
↑k | 古くから武神として崇められていた。近世から商売繁盛、福の神として信仰されている。 |
↑l | このあと、世界遺産認定を目指しているようだ。 |
↑m | 永禄3(1560)年に小田原の北條氏政が寄進した中国南宋時代の詩文集。現存する最古のもの。 |
↑n | 関東管領・山内上杉家九代当主・上杉憲忠が寄進した中国南宋時代の周代の易占の書。 |
当時はすごい車の数だったが、重要文化財にぶつけると大変なことになることを知っていて車で来ている輩なのか甚だ疑問だった。