関東で越後の上杉政虎[a]のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。と攻防戦を繰り広げていた小田原の北條氏康は、甲相駿三国同盟[b]善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。の誼で、甲斐の武田信玄による信濃国での軍事行動で政虎を牽制することに成功、これによって政虎が越後へ帰国するや反撃を開始し上杉方についていた国衆らを従属させ、河越城まで後退していた勢力圏の回復に務めた。氏康もまた信玄の要請に応じ、北條綱成らを川中島合戦の援軍として派遣するなど、同盟の一翼を担っていた駿河の今川義元亡きあとも[c]永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。両国の関係は悪くはなかった。しかし永禄11(1568)年に信玄が三河の徳川家康と共に駿河今川領へ侵攻すると、氏康は相駿同盟[d]氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。を重視して信玄に対抗した。翌12(1569)年、信玄は伊豆に駐屯する氏康らを牽制すると、2万の軍勢を率い上野国の碓氷峠を越えて武蔵国へ侵攻、鉢形城を包囲した後に南進して滝山城と多摩川を挟んだ拝島に着陣した。一方、城主・氏照が守備を北側に集中している間、信玄が送り込んだ別働隊が甲斐国の郡内より小仏峠を越えて城の南西から静かに近づいていた。
昨年は令和2(2020)年の師走の候、全国的にも COVID-19 の新規感染者数が右肩上がりになる少し前に、武田信玄(徳栄軒信玄[e]正式な姓名は源晴信《みなもとの・はるのぶ》、出家の法名の正式名が徳栄軒信玄。戒名としては法性院殿もしくは徳栄軒機山公。)が滝山城を包囲した際に本陣を置いたと伝わる拝島大日堂や拝島大師とその周辺を散策してきた。そのあとは多摩川を渡って、その前の週に攻めた滝山城跡を今度は搦手側(北側)から攻めて、往時、城主の北條氏照が見たであろう「風林火山」の旗指物を想像しながら城跡から拝島方面(武田軍本陣跡)を眺めてきた。
その昔、信玄が展開した滝山城包囲戦、いわゆる「滝山合戦」[f]他に、天文21(1552)年の長尾景虎が率いる越軍との戦いも含むらしい。では甲斐国の郡内[g]現在の山梨県東部の都留《つる》郡あたり。から岩殿城主・小山田兵衛尉信茂《おやまだ・ひょうえのじょう・のぶしげ》[h]後世では「裏切り者」の印象があるが、山縣昌景から一目おかれていた者であり、設楽原合戦で昌景ら赤備が壊滅した際も退却せずに後備についていたと云う。もしかしたら兄貴分の昌景を追って死に場所でも探していたのだろうか。率いる別働隊が小仏峠《こぼとけ・とうげ》を越えて武蔵国へ侵入し本隊に合流したと云う。これについて、江戸時代の軍記物である『関八州古戦録《かんはっしゅうこせんろく》』によると、北條勢が滝山城から迎撃したが廿里《とどり》あたりで待ち伏せされて一蹴されたのだとか。現在、その場所は廿里古戦場跡として東京都八王子の市指定史跡になっている他、その背後にある廿里山には廿里砦なる遺構が残っており、こちらは未だ COVID-19 と云った「単語」が存在していない時代、一昨年は平成31(2019)年の初めに攻めてきた。
武田軍本陣跡
本当は前の週の滝山城攻めのあとに多摩川を渡って巡る予定だったけど、あちこち歩き回っていたら脚に疲れが溜まっていたので翌週へ持ち越すことにした。この日は立川からJR青梅線・青梅行に乗り換えてJR昭島駅で下車し、徒歩で新奥多摩街道あたりを目指して「拝島大師北」交差点を渡り、そのまま大師通りを下りていくと拝島大日堂や拝島大師が見えてきた。到着したのが午前11:00頃だったけど、こんな時期でもあり人はまばらで、特に拝島大師は工事関係者以外に殆ど誰も居なかった。
こちらが、今回の散策+城攻めルートと実際のGPSアクティビティのトレース。主な訪問場所(★)については巡ってきた順番を示す番号付きのラベルを付与している。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は8.15㎞、所要時間は2時間40分(うち移動時間は1時間50分)ほど:
事前に少し調べてみたけど、往時、武田軍が布陣した場所が「拝島大日堂」なのか「拝島大師」なのか正確には分からなかったので(隣接しているし)両方見て回ることにした。「元木屋」はテレビでも紹介されたことがある御菓子屋さん。この店で滝山城ゆかりの伝説にあやかった銘菓を購入。そのあとは多摩川の河川敷で元木屋のお菓子を頂いて一休みし、拝島橋を渡って対岸にある滝山城跡へ。ここからひたすら歩いて滝ヶ原運動場を縦断し、城跡である滝山自然公園の北側入口まで回り込んで、城内から拝島大日堂周辺を眺めるために重臣らの屋敷跡を巡ってきた。帰りは大手口跡へ下りて、前週と同様にJR八王子駅行きバスを利用した:
①拝島大師 → (本堂・五重塔)→ 拝島大師の南大門 → (奥多摩街道)→ 大師通り → 大日堂仁王門 → 拝島のフジ → おねいの井戸 → ②拝島大日堂 → (鐘楼・薬師堂)→ 境内に残る土塁跡 → ③拝島日吉神社 → 境内に残る土塁跡 → 滝山城の眺め → ④元木屋 → ・・・ → ⑤拝島橋 → 多摩川 → 滝山城遠景 → ・・・ → (滝ヶ原運動場)→ ⑥滝山城北側 → 滝の曲輪跡 → 搦手口跡 → 大堀切跡 → 本丸跡(南側) → 堀切跡 → ⑦信濃屋敷跡 → 拝島大日堂の眺め → ⑧刑部屋敷跡 → ⑨カゾノ屋敷跡 → ・・・ → 大手口跡
なお一部(灰色)の訪問場所については前週の城攻め訪問記の方に記した。
まずは①拝島大師(正式名称は「本覚院《ほんがくいん》」)は天台宗の仏教寺院:
比叡山延暦寺の中興の祖で、第18代天台座主《てんだいざす》にあたる良源《りょうげん》(通称は元三大師《がんざんだいし》)を本尊とし、自らが彫った大師木像が安置されている。この木像は、元亀2(1571)年の織田信長による比叡山焼き討ちの際に、一人の大僧都《だいそうず》が持ち出したもので諸国を流浪した末、天正6(1578)年にこの地に安置して本覚院を創建したのが始まりとされる。
境内にあった一際目立っていたのが五重塔:
境内から少し離れた奥多摩街道沿いに建つ南大門:
由緒正しいこの場所に信玄が本陣を置いたと云う説があるらしい。しかしJR昭島駅からくると分かるが、多摩川に向かって緩い坂を下った先に拝島大師があり、こんな盆地のような立地に信玄が本陣を置くとは考えづらい:
次は大師通りを挟んで東側にある②拝島大日堂 へ:
見事な松を横目に参道を進んでいくと正面に見えてくるのが大日堂仁王門(昭島市指定有形文化財)。門の両側には阿形・吽形《あぎょう・うんぎょう》で一対をなす金剛力士像(鎌倉時代の作品)が安置されていた:
仁王門の左奥には拝島のフジ(東京都指定天然記念物)と呼ばれる巨木がある。推定樹齢約800年と云われ、伝承によると戦国時代初め、この地にあった明王院の境内に自生していたものが現存している。紫色の花を付けるのは春頃らしい:
境内には大きな池の他に、ここ拝島町でも有名な井戸の一つとされる「おねいの井戸」があった(昭島市指定旧跡):
この井戸には、氏照の家臣に石川土佐守なる者がおり、彼の七歳の娘「おねい」が眼病を患っていたが、ここ大日堂の井戸の水で眼を洗ったところ良くなったと云う伝説が残っている。
井戸の背後は高台になっていて、そこに建っているのが大日堂:
寺伝によれば、創建は天暦《てんりゃく》6(952)年とされ、玉川花井の島より大日如来の尊像が出現し、村人が拝んだところから「拝島」と云う地名が付いた[i]多摩川上流にある檜原村《ひのはらむら》の日原鍾乳洞《にっぱらしょうにゅうどう》に安置されていた大日如来像が洪水で玉川花井の島(川にできた中洲)に流れ着き、村人が御堂を建てて安置して拝んだと云うのが伝説らしい。と云う。
その後、滝山城築城に際し、その御堂を城の鬼門除けとして現在のこの場所に遷したとされる。前述の石川土佐守は往時、この拝島の他、羽村・久保・天間・高築の五ヶ村の領主で、娘の眼病平癒に対する感謝のしるしとして、天正元(1573)年に古くなった御堂を再興、さらにその一族が大日八坊《だいにちはちぼう》を建立したと伝えられている。この八坊[j]八つの寺院のこと。は本覚院・圓福寺・知満寺・密乗坊・龍泉寺・蓮住院・明王院で、現在残っているのは普明寺・本覚院・圓福寺の三寺のみ。ちなみに普明寺《ふみょうじ》が拝島大日堂で、本覚院が拝島大師らしい[k]前述の叡山焼き討ち後の話と違うけど・・・。大日堂と大師のどちらが正しいのだろうか 😐 。
拝島大師とは異なり、現在の拝島大日堂は良い感じの高台の上に建っているが、もともとは石段の下に建っていたらしい:
こちらが大日堂(東京都指定史跡)。現在は厄除・開運の祈願道場:
奇しくも小田原仕置の後に関東へ移封してきた徳川家康から十石を下賜され、江戸時代の享保17(1732)年に高台の上に再建され、さらに平成16(2004)年には平成の大修理として江戸期の姿に復元された。
こちらが本尊で御堂に安置されている木造大如来坐像(東京都指定有形文化財):
大日堂には他に釈迦如来坐像(平安時代の作品)と阿弥陀如来坐像(江戸時代の作品)も安置されているらしい(共に東京都指定有形文化財)。
また大日堂の回りには鐘楼や薬師堂が建っていたが、その裏には土居のようなものが残っていた:
大日堂のお隣に建つのは日吉神社。大日堂が建てられた戦国時代に山王社として建立されていたと云う説があるようで、江戸時代には延暦寺から山王大権現《さんのうだいごんげん》[l]比叡山の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神で、天台宗の鎮護神。日吉権現とも。を賜ったらしい:
明治時代初頭の神仏分離で大日堂の管轄を離れ、社号を日吉神社と改めて現在に至る。
この神社脇の柵で囲われたところ土塁と思われる遺構が残っていた:
これを説明するものは特に無かったが、往時は滝山城の砦(烽火台)なんかが建っていたのだろうか:
そして、こちらは日吉神社の参道を振り返ってみたところ:
現在、大日堂や日吉神社が建つ高台は小さな杜のような趣があり、木立の間から滝山城があった加住《かすみ》丘陵を眺めることができた:
風林火山の軍旗を掲げた信玄が滝山城と対峙した時、この高台と周囲の杜が存在していたとすると、先に見てきた拝島大師のような平地ではなく、滝山城北側を眺めることができるこの場所に本陣を置いてもおかしくはない立地に思えた。往時の大日堂は、未だこの高台上に建てられていなかったわけだし。さらに周囲には湧水も豊富だったようで、たとえ長陣になったとしても滝山城に篭もる北條勢より難儀することはないと判断したのかもしれない:
ちなみに滝山合戦については、地元の『立川氏文書《たちかわし・もんじょ》』(立川市指定有形文化財)や有名な『甲陽軍鑑[m]甲斐武田氏の譜代家老の一人である春日虎綱(高坂弾正昌信)の口述を書き継いだ軍学書で、武田信玄や勝頼の合戦記録として、のちに小幡景憲《おばた・かげのり》が写本したものが最古の文献として現存している。』に記されている。本書20巻23冊からなる甲陽軍鑑は特に研究素材として多くの校訂版や編集版が存在するようで、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができた。原本写しの良し悪しはあるけど、一番読みやすかった現代語訳は『甲斐志料刊行会編〜甲陽軍鑑』(本編20巻物・1935年)[n]ページが飛び飛びなので読みづらいけど。かな。
たとえば滝山合戦については『甲陽軍鑑・品第三十五』(コマ番号だと156)に:
・・・信玄公殊の外御大慶なり、かくて北條陸奥守居城瀧山へおしよせ、四郎勝頼公を大将分にさだめ攻めさせ給ふ、北條家の衆跡より来たるべき押へには逍遥軒を大将分にして山縣三郎兵衛を置き給ふ、内藤・眞田は小田原筋の手あてに仰せ付け・・・信玄公御旗本は、はい島・森の内にそなへを立てらるる、・・・
と記されている。どうやら信玄が本陣を置いたのは拝島の森の中であることは確からしいようだ。そして諏訪四郎勝頼[o]のちの甲斐武田家第二十代当主の武田勝頼とは言わずもがな。が寄手の大将で、多摩川を渡った瀧山(滝山)城の弱点とされた二の丸東側より攻め、内藤修理亮昌豊《ないとう・しゅりのすけ・まさとよ》と眞田源太左衛門尉信綱《さなだ・げんた・さえもんのじょう・のぶつな》らが城の南東にある尾崎山[p]現在の中央道八王子IC付近で、往時は尾崎山城があったとされる場所。から攻め寄せたのだと云う。また信玄の実弟・武田逍遥軒信廉《たけだ・しょうようけん・のぶかど》と赤備《あかぞなえ》の勇将・山縣三郎兵尉衛昌景《やまがた・さぶろう・ひょうえのじょう・まさかげ》ら別働隊が滝山城の支城(高月城)からの援軍に対する押さえとして配されていたと思われる。そうなると氏照ら2千の北條勢が篭もる滝山城は、信玄率いる2万の甲軍により三方から包囲されていたことになるのだろうか。そして押太鼓を合図に甲軍の猛攻が始まると三の丸まで攻め入り:
・・・瀧山の城三のくるわをせめちらす、陸奥守ニのくるわ二階門へあがり、さいはいをとって、ここをさいごとふせがるる、其日四郎勝頼公御年二十四歳、若気故、自身かま鑓を執て陸奥守ふせぎ給ふ、二階門の下迄追つ、返へしつ三度なから四郎殿鑓をあわせ給ふ、其相手は三度ながら諸岡山城といふ陸奥守内、大剛の者なり、信玄公聞し召し、小田原よりまへにて四郎典厩などうち死あれば、いかがと仰せ付けられ、早々瀧山をまきほぐし、つし・小山田・二つ田・きそ・かつ坂まで陣取り給ふ、・・・
さらに勝ち気に逸る若大将の四郎勝頼ら先手衆が二の丸に侵入し、城主・氏照と旗本らが防戦する。一方、氏照家臣の横地監物吉信《よこち・けんもつ・よしのぶ》や中山勘解由家範《なかやま・かげゆ・いえのり》らはそれぞれ家人を連れて千畳敷あたりの武田勢と激戦を繰り広げていた。氏照はここが正念場と自軍を叱咤し、自らも十文字槍を携えて寄手を突き伏せ薙ぎ伏せ奮闘する。その脇では氏照配下で師岡(諸岡)山城守《もろおか・やましろのかみ》[q]師岡将景《もろおか・まさかげ》。東京都青梅市にあった勝沼城(師岡城)主。なる剛の者が同じく十文字槍を振り回し、四郎勝頼と三度槍合わせをし双方一歩も譲らずであった。
一方、百足衆《むかでしゅう》からの報告を聞いた信玄は、四郎とその介添役である典厩信豊《てんきゅう・のぶとよ》[r]信玄の実弟・武田典厩信繁《たけだ・てんきゅう・のぶしげ》の次男で、勝頼の従兄弟。の討ち死はあってはならないとして、滝山城の包囲を解いて引揚げを開始した:
・・・殊にかつ坂に明日相模川うちこす跡のおさへ衆山縣三郎兵衛・小幡尾張守・眞田源太左衛門・同兵部介兄弟一手なり、・・・、御さきは内藤修理・小山田兵部尉・芦田下総・小山田備中・安中左近・保科弾正・諏訪(五郎)殿・相木市兵衛・栗原左兵衛・板垣(三郎)殿・四郎勝頼公、此十一頭は先き衆なり、ニの手はあさり(式部丞)・原隼人・跡部大炊介、三は御旗本組衆・兵庫(信実)殿・諸牢人二百騎余り、井伊禰四右衛門・那和無理之介・五味興三左衛門是れ三人牢人頭兵庫殿につく、長坂長閑四十騎・小山田大学三十五騎・下曽根二十騎・大熊備前三十騎御旗本一手におす、御跡備へは逍遥軒・一城(信龍)殿・海士尾五十騎・白倉五十騎・・・・、典厩様御旗本前備へ衆市川宮内介三十騎、駒井右京進、外様近習五十騎の頭、典厩馬場美濃守と一組におす、・・・
小田原城攻めの前に被害を大きくしたくないと考えた信玄の動きは迅速かつ周到であった。滝山城から退陣したあと、大軍を四つの隊に分けて相模川を渡河し、そのまま川沿いを南下して小田原城を目指した。もちろん北條勢による追撃戦への備えも怠らない。山縣昌景、眞田信綱と昌輝の兄弟に加え、上野箕輪城主・長野業政の娘婿であった小幡尾張守信貞《おばた・おわりのかみ・のぶさだ》らが相模川渡河の警護を兼ねて殿《しんがり》を務めた。
ここで、小田原城へ向けて進軍した一陣(先手)は内藤昌豊、小山田信茂、芦田下総守信守《あしだ・しもうさのかみ・のぶもり》[s]依田信蕃《よだ・のぶしげ》の父。長篠・設楽原合戦では父子で二俣城の守将を務めた。、小山田備中守昌行《おやまだ・びっちゅうのかみ・まさゆき》[t]昌成とも。同姓ながら小山田信茂とは別の一族で、石田小山田氏の名跡を継いだ信濃国の国人衆の一人。高遠城で織田勢に攻められ討死した。、安中左近大夫久繁《あんなか・さこんたゆう・ひさしげ》[u]上野国安中城主。長篠・設楽原合戦で討ち死する。、保科弾正忠正俊《ほしな・だんじょうちゅう・まさとし》[v]信濃先方衆の一人で、槍弾正の異名を持つ勇士。、勝頼の異母弟で諏訪五郎こと仁科盛信《にしな・もりのぶ》、相木市兵衛昌朝《あいき・いちべえ・まさとも》[w]信濃国佐久郡の国衆の一人。眞田幸綱とは親交が深く、娘は幸綱の次男・昌輝の正妻。、栗原左兵衛尉詮冬《くりはら・さひょうえもんのじょう・あきふゆ》[x]父・昌清は「速攻の栗原」の異名を持つ戦上手。100騎の侍大将で、白地に黒の枠を染め抜いた形を旗印とした。、板垣三郎[y]詳細不明。信玄の傅役であった板垣信方の娘婿で、のちに板垣の名跡を継いだ板垣信安《いたがき・のぶやす》か?、そして四郎勝頼。
二陣は浅利式部丞信種《あさり・しきぶしょう・のぶたね》、原隼人佐昌胤《はら・はやとのすけ・まさたね》、跡部大炊介勝資《あとべ・おおいのすけ・かつすけ》。
三陣は旗本組衆、武田兵庫介信実《たけだ・ひょうごのすけ・のぶざね》[z]川窪信実とも。勝頼の叔父にあたり、長篠城包囲戦では鳶ヶ巣山陣地で監視していたが、徳川家重臣・酒井忠次らの奇襲を受け、松平伊忠《まつだいら・これただ》に討ち取られた。、那波無理之介・五味与惣兵衛ら野州・上州の浪人勢[aa]彼らも長篠城包囲戦では中山砦や久間山砦で監視していたが徳川勢の奇襲を受けて討死した。、長坂長閑斎光堅《ながさか・ちょうかんさい・みつかた》[ab]信玄とは乳兄弟で譜代家老衆の一人。甲陽軍鑑ではあまりよく書かれていないが、老齢ながら勝頼に最後まで付き従った忠臣である。、小山田大学助[ac]小山田昌行の弟で、織田信長の甲州攻めの際は高遠城に籠もり兄と共に討死した。、下曽根浄喜《しものそね・じょうき》[ad]武田家御一門衆。織田信長による甲州攻めでは武田信豊を討って信長方に寝返るも誅殺されたと云う。、大熊備前守朝秀《おおくま・びぜんのかみ・ともひで》[ae]元は越後の上杉輝虎(謙信)の家臣で、土地争いで謀反し敗れて信玄の家臣となる。遠江小山城主。四郎勝頼の最後の戦いでも奮闘した忠臣の一人。。
最後は本陣で信玄の他に、後備え(背後)を影武者を務めた武田信廉、一条信龍《いちじょう・のぶたつ》[af]信玄の異母弟。甲斐源氏の流れを汲む一条家の名跡を継ぐ。四郎勝頼の後見人。、海士尾《あまお》某、白倉某、他。前備え(前方)は市川宮内介昌房《いちかわ・みやうちのすけ・まさふさ》[ag]武田家の勘定奉行を務め、設楽原合戦で討死した。、駒井右京進政直《こまい・うきょうのしん・まさなお》[ah]父は駒井高白斎。譜代家老衆の侍大将で、のちの駿河深沢城代。、外様の近習頭、そして武田典厩信豊と古参の重臣で「不死身の鬼美濃」こと馬場美濃守信房。
このあとは多摩川を渡って(前週につづいて)滝山城跡へ。拝島日吉神社が建つ高台から下りて大師通りから多摩川へ向かう前に、奥多摩街道を渡った先にある④元木屋に立ち寄った。この和菓子屋のホームページには「永禄十二年、武田信玄は拝島大日堂に本陣を置き・・・」なんて興味深いことが書いてあったので:
信玄による滝山城攻めでも落城しなかった小さくとも力強かった滝山城と、「おねいの井戸」伝説にあやかったお菓子(150円/当時)を購入して多摩川河川敷で頂いた。
この日は天気が良く、多摩川河川敷のグラウンドでサッカーを楽しむ人達やサイクリングロードを利用する人が大勢いたっけ(こんな時期ではあるけど )。
そして多摩川に架かる⑤拝島橋を渡って対岸へ。こちらは橋の上から眺めた滝山城址方面:
橋を渡ったらすぐに右折して滝ヶ原運動場方面へ。「滝ヶ原運動場専用通路」なる狭い側道では車の行き来に注意しながら高月方面へえんえんと歩いていく。
こちらはグラウンドごしに眺めた⑥滝山城北側。ちょうど、これから向かう信濃屋敷跡から中の丸跡あたり。結構な断崖である:
こちらは信濃屋敷と中の丸の間にのこる竪堀と中の丸跡あたり:
さらに歩いて行くと本丸跡の北面が見えてきた:
滝ヶ原運動場を過ぎてさらに進んでいくと民家が見えてくるが、この辺が滝の曲輪跡で、その向こうに見えるのが山の神曲輪跡:
ここから搦手口にあたる公園北側の入口から滝山城跡へ入り、いくつか巡ってきたあと、⑦信濃屋敷跡へ。結構な広さを持ち藪化も激しい信濃屋敷跡であるが、先ほど通ってきた滝ヶ原運動場がある奥まですすんで行く:
周囲が宅地化され、大日堂や日吉神社がある高台は杜になっているので発見しやすい。往時は、城主・氏照はここから「風林火山」の軍旗を見たのだろうか:
次はお隣りにある⑧刑部屋敷跡。ここも前週の城攻めでは全て見てまわることができなかった郭:
刑部屋敷跡の北側には竪堀と池があったようだが、現在は藪化していてよく分からなかった:
さらにお隣の⑨カゾノ屋敷跡。しかし「カゾノ」って誰?[ai]「信濃」とか「刑部」に合わせると官位になるが、そんな官位は無いけど?:
この屋敷跡の東側には土塁が残っており、この先は谷戸口木橋が架かっていた巨大な空堀(横堀)がある:
土塁の上から二の丸東側の最終防衛ラインである大堀切(横堀)を見下ろしたところ。現在は復元された木橋が架かっている:
滝山城攻めで大将を務めた四郎勝頼率いる寄手は、ここ二の丸東側から攻め入ったと伝わる。
以上で滝山合戦跡めぐりは終了。今回は寄手の甲軍にでもなった気分で前週に引き続き滝山城跡を攻めてきた。
最後は拝島大日堂前で見かけた「疫病退散」の幟。アマビエも描かれていた:

「疫病退散」
滝山合戦(武田軍本陣跡) (フォト集)
武蔵滝山城攻め (3) (フォト集)
武蔵滝山城(2) (攻城記)
【参考情報】
- 拝島大日堂・拝島日吉神社・拝島大師に建っていた案内図・説明板
- 甲斐志料刊行会編 『甲陽軍鑑志料集成』(甲斐志料刊行会)
- 高坂弾正 著他『甲陽軍鑑』(温故堂)
- 御菓子司・元木屋
- パソ兄さん「武田軍の猛攻に耐えた滝山城!」(HOME > DELLパソコン・モバイル旅行記TOP > 東京都 > 滝山城)
- Wikipedia(滝山城〜天文21年の滝山合戦)
- 『戦国時代展 〜 A Centrury of Dream』(2016年刊 読売新聞社)
廿里砦跡・廿里古戦場跡
今となっては一昨年は平成31(2019)年[aj]この年は1月1日〜4月30日までが平成31年、5月1日〜12月31日までが令和元年。の立春の候、寒いが天気が良かった週末に東京都八王子市にあった初沢城跡を攻めてきた。そのあとお昼を食べてから、この城跡と京王高尾線やJR中央線を挟んで北にある、比高70mほどの廿里山山稜一帯にあったとされる廿里砦《とどり》[ak]読みは他に「ととり」。また「戸取」または「鳥取」とも。砦跡を攻めてきた:
永禄12(1569)年の徳栄軒信玄による小田原北條攻めの際、本隊が上野国の碓氷峠から武蔵国へ侵入し、北條氏の支城を牽制しながら南進、そして多摩川を挟んで拝島に本陣を置いて滝山城を西・北・東の三方から包囲した。時を同じくして、甲斐国の郡内から小山田信茂率いる1千ほどの別働隊が小仏峠を越えて武蔵国へ侵攻してきた。
これについて前述の『甲陽軍鑑・品第三十五』(コマ番号だと155)には:
・・・信玄公御承引なくて郡内の侍小山田兵部尉には、郡内よりすぐに武蔵の八王子へはたらき出で、瀧山において出合ひ申す様にと仰せ付けて八月二十四日巳刻に信玄公甲府を御立ちあり、小田原おもてへおもむき給ふに、北條家持ちの城々二三のくるわせめちらし、まきほぐしては其城もち分を焼きはらひ、又は少しも手を付くべからずと仰せ付け・・・、郡内の小山田兵部尉武蔵堺上野原に相備、加藤丹後を指し置き、兵部尉手勢二百騎、雑兵共に九百の人数をもって武蔵の内源蔵殿領分八王子へはたらき出る、こぼけ(小佛)坂を打ちこし、物見を越し候へば、とどり(戸取山)と云う所に北條陸奥守殿両おとな・布施出羽・横地三百騎、雑兵とも二千の人数をもってあひささゆる、・・・
とある。小田原の北條氏康は甲斐の武田信玄と手切れとなるや、甲斐と国境を接する檜原城[al]現在の東京都西多摩郡檜原村にあった山城。周辺は厳重に監視していたが、上野原[am]現在の山梨県上野原市あたり。から八王子に至る南方の峠には軍用道に使えるほど道が整備されていないことから警戒を怠っていたようだ。
まさに信玄はこの間隙《かんげき》を突ついて、警戒のゆるいルートから別働隊を侵入させて揺さぶりをかけた。ホント、信玄は「別働隊」を使うのが上手い。帰国時の三増峠合戦も同じ手を使っているし[an]と云うか、氏康は何度も信玄の別働隊にしてやられているが、懲りていないのだろうか。あるいは氏康は隠居しているので当主の氏政か?。
武蔵勝沼城主・師岡山城守将景《もろおか・やましろのかみ・まさかげ》から武田軍本隊の動勢について報告を受けていた滝山城主の氏照は想定外の場所からの敵の出現に驚き、信玄率いる本隊が攻め寄せる前になんとかしようと布施出羽守・横地監物・中山勘解由ら2千で迎撃したのだと云う。
こちらが廿里砦攻めのルートと実際のGPSアクティビティのトレース。主な訪問場所(★)については巡ってきた順番を示す番号付きのラベルを付与している。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は4.13㎞、所要時間は1時間45分(うち移動時間は1時間)ほど:
往時、北條勢が迎撃したのが廿里砦なのか、その周辺かなのかは不明である。おそらく今回攻めてきた廿里砦跡は滝山合戦後に北條氏が整備したもので、滝山合戦時には(現在のような規模で)存在していなかったのではないかと思う。前述の『関八州古戦録』には廿里山手に砦を築いて防戦したと云う記述があるようだけど。あと砦跡の規模も不明で、今回は行けるところまで行ってきたというところ。で、砦跡への入口は白山神社裏にあり、本殿の上あたりが廿里山の山頂で祠が建っていた。そこから一度下にある尾根に下りて、さらに藪をかき分けて南東側の尾根を巡ってきた。あと高尾駅って北口と南口の連絡通路が無いので、かなり遠回りする羽目になった(入場料を払うなら別だけど):
(高尾駅南口)→ ①白山神社(鳥居・社殿) → 参道 → ②白山神社の本殿 → 段郭跡 → ③祠 → 西の尾根筋 → 東の尾根筋 → ④土居跡 → 尾根筋南端 → ⑤竪堀跡 → ・・・ → ④土居跡 → ⑥大堀切跡 → ⑦郭跡 → ⑧尾根筋東端 → ・・・ → ①白山神社 → ⑨南浅川 → (高尾街道) → ⑩廿里古戦場跡 → ・・・ → (高尾駅北口)
こちらは南浅川に架かる橋の上から見上げた廿里砦跡:
登城口がある①白山神社の鳥居:
この鳥居の先に見える石段を上がった先に社殿がある。御祭神は伊邪那美命《いざなみのみこと》:
御由緒によると、創建は享禄3(1454)年で加賀一の宮(現在の石川県白山市)を勧請した。天文22(1553)年には滝山城主の大石源左衛門尉綱周《おおいし・げんざえもんのじょう・つなかね》[ao]大石定久《おおいし・さだひさ》。元・山内上杉氏の家老の一人であったが河越夜戦後は小田原北條氏に臣従し、北條氏康の三男・氏照を婿養子として迎え入れた。が大壇那となって社殿を造営したと云う。
社殿前からは、南浅川や甲州街道を挟んで南側にある初沢城址を眺めることができた:
社殿脇にある案内板にしたがって奥宮にあたる本殿へ向かう:
参道は初めは石段だが、途中から山道に変わる:
こちらが②白山神社の本殿。意外と広い削平地で、往時は郭だった可能性あり:
それから本殿の脇を登って廿里山の山頂へ。途中、土居なのか段郭なのか判断が付かない遺構がいくつかあった:
こちらが③祠が建つ山頂。ここも人工的な削平地に見えた:
祠が建つ尾根から北側を覗き込むと急崖だった:
この山頂から西へ向かって尾根筋が伸びていた:
遺構が残っているとされる東側の尾根に向かうため山頂から東側へ下りる:
少し急な斜面で、時期によっては枯葉で滑りやすいので注意しながら下にある尾根に下る。当時は倒木もあった:
下りた先の尾根は真っ直ぐ伸びているが、遺構が残っている南側の尾根方向へ向かう:
当時は藪をかき分けて南側の尾根へ向かった:
尾根道を南東へ進む:
しばらく尾根道を進んで行くと正面に④土居跡があった。櫓台か烽火台か何か建っていたのだろうか:
ここは尾根が交差する分岐点でもあり、大堀切が残る北東へ伸びる尾根筋へ向かうことができるが、先にこの尾根の南端へ向かうことにした:
こちらが尾根の南端。この先を見下ろすと、大分埋もれていたがかろうじて⑤竪堀跡を確認することができた:
このあとは再び④土居跡まで戻り、分岐点から北東へ伸びる尾根筋に入った:
しばらく進むと正面に倒木が見えてきた。尾根道が分断されるくらいの倒木だったので根っこ辺りまで下りて回り込で先へ進んだ。
尾根筋を下りていくと、その先に堀切のようなものが見えてきたので更に進むと、この尾根筋を断ち切るように設けられた⑥大堀切跡が出現した:
堀底へ下りてみると、こんな感じ:
こちらは堀切の向こう側へ渡って振り返って眺めたところ:
大堀切跡を越えてさらに尾根筋を東へ進む。こちらも結構、倒木が多かった:
すると遺構かどうか不明な平場があり、ここからもう一本、南へ尾根が緩やかに伸びていた:
ここが⑧尾根筋東端。急崖であったが、おそらく林野庁(森林総合研究所)の敷地でないだろうか:
ここからは八王子の市街地方面を眺めることができた。もう少し木がなければ滝山城も見えたかもしれない:
ここ廿里砦に於ける武田勢と北條勢の攻防戦については同じく甲陽軍鑑で:
・・・小山田兵衛尉此のはたらき是非手柄を心懸け候へばこそ出陣前に富士浅間大ぼさつへ願書をこめ候ほど、いさみたるしるしにて懸て一戦を遂、地戦の陸奥守衆、しかも二千に余り小山田衆に一倍よりおほき敵にて勝て、雑兵ともに二百五十一人、北條衆を小山田かたへうちとる、本の侍を三十二頭(首)をとる、中にかなさし平右衛門・野村源兵衛両人は、さいはいを手にかけたる侍なり、此のような頸帳をしたため、武蔵の瀧山にて信玄公御目にかかり、・・・
とある。滝山城から送られた北條勢2千は小山田信茂ら1千余に惨敗した。二倍の兵がありながら、しかも侍大将格の者も討ち取られている。その後、武田の別働隊は敗走する北條勢を追撃しながら滝山城を包囲している本隊に合流したらしい。
このあとは③祠へ戻って下山し白山神社を出て、南浅川《みなみあさかわ》に沿って廿里古戦場跡へ向かった。
こちらは、その途中で見た⑨南浅川。なんとも渓谷風の場所であった:
こちらが高尾街道。手前が高尾駅方面、正面の杜あたりに廿里古戦場跡の説明板が建っていた:
ちなみに、この先の右手は昭和天皇や大正天皇の墓所(墓陵)があり、さらに進むと八王子城跡の入口に至る。
この付近が⑩廿里古戦場跡になるのだそうだ:
個人的に、往時は廿里山に烽火台程度の施設があったが小山田信茂が率いる別働隊の奇襲を受けて壊滅し、逆に偽の狼煙を上げるなどして滝山城に火急の旨を知らせておびき寄せると同時に、廿里山とその山裾に伏兵を置いておき、様子を見に来た(5百ほどの)北條勢に奇襲をかけて追い散らしたくらいじゃないかなと思う。攻城戦の最中に二千もの大軍を、それも敵の目を回避しながら移動できるのか、あるいはそんな危険をおかす必要があったのかどうか、さらに守り手は猫の手も借りたいくらい忙しいはずなのに、いとも簡単に重臣らを外に出すとは考えづらいなぁと 。後詰が期待できない籠城戦ならなおさら腹をくくらないと。
ともあれ、常日頃から周辺の監視や偵察を怠らなかった武田の方が何枚も上手か。その代償は大きかったようだけど。
以上で廿里砦攻めは終了。最後は南浅川沿いで見かけた注意書き:

「イノシシ出没にご注意!」
廿里砦・古戦場巡り (フォト集)
【参考情報】
- 廿里古戦場跡に建っていた説明板
- 歴旅.こむ「廿里古戦場と廿里要害」(トップページ > カテゴリー > 2015年3月)
- 甲斐志料刊行会編 『甲陽軍鑑志料集成』(甲斐志料刊行会)
- 高坂弾正 著他『甲陽軍鑑』(温故堂)
- 古城の歴史「滝山城」〜北条流築城術を駆使した北条氏照の居城
- 余湖図コレクション(東京都八王子〜廿里(ととり)砦)
- Wikipedia(廿里古戦場)
- 逍遥軒『関東騒乱(後北條五代記・中巻)』〜同盟決裂
- 猫の足あと「長房白山神社」(トップ > 多摩地区の寺院 > 八王子の寺社 > 八王子の神社 > 長房白山神社)
参照
↑a | のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。 |
---|---|
↑b | 善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。 |
↑c | 永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。 |
↑d | 氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。 |
↑e | 正式な姓名は源晴信《みなもとの・はるのぶ》、出家の法名の正式名が徳栄軒信玄。戒名としては法性院殿もしくは徳栄軒機山公。 |
↑f | 他に、天文21(1552)年の長尾景虎が率いる越軍との戦いも含むらしい。 |
↑g | 現在の山梨県東部の都留《つる》郡あたり。 |
↑h | 後世では「裏切り者」の印象があるが、山縣昌景から一目おかれていた者であり、設楽原合戦で昌景ら赤備が壊滅した際も退却せずに後備についていたと云う。もしかしたら兄貴分の昌景を追って死に場所でも探していたのだろうか。 |
↑i | 多摩川上流にある檜原村《ひのはらむら》の日原鍾乳洞《にっぱらしょうにゅうどう》に安置されていた大日如来像が洪水で玉川花井の島(川にできた中洲)に流れ着き、村人が御堂を建てて安置して拝んだと云うのが伝説らしい。 |
↑j | 八つの寺院のこと。 |
↑k | 前述の叡山焼き討ち後の話と違うけど・・・。大日堂と大師のどちらが正しいのだろうか 😐 |
↑l | 比叡山の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神で、天台宗の鎮護神。日吉権現とも。 |
↑m | 甲斐武田氏の譜代家老の一人である春日虎綱(高坂弾正昌信)の口述を書き継いだ軍学書で、武田信玄や勝頼の合戦記録として、のちに小幡景憲《おばた・かげのり》が写本したものが最古の文献として現存している。 |
↑n | ページが飛び飛びなので読みづらいけど。 |
↑o | のちの甲斐武田家第二十代当主の武田勝頼とは言わずもがな。 |
↑p | 現在の中央道八王子IC付近で、往時は尾崎山城があったとされる場所。 |
↑q | 師岡将景《もろおか・まさかげ》。東京都青梅市にあった勝沼城(師岡城)主。 |
↑r | 信玄の実弟・武田典厩信繁《たけだ・てんきゅう・のぶしげ》の次男で、勝頼の従兄弟。 |
↑s | 依田信蕃《よだ・のぶしげ》の父。長篠・設楽原合戦では父子で二俣城の守将を務めた。 |
↑t | 昌成とも。同姓ながら小山田信茂とは別の一族で、石田小山田氏の名跡を継いだ信濃国の国人衆の一人。高遠城で織田勢に攻められ討死した。 |
↑u | 上野国安中城主。長篠・設楽原合戦で討ち死する。 |
↑v | 信濃先方衆の一人で、槍弾正の異名を持つ勇士。 |
↑w | 信濃国佐久郡の国衆の一人。眞田幸綱とは親交が深く、娘は幸綱の次男・昌輝の正妻。 |
↑x | 父・昌清は「速攻の栗原」の異名を持つ戦上手。100騎の侍大将で、白地に黒の枠を染め抜いた形を旗印とした。 |
↑y | 詳細不明。信玄の傅役であった板垣信方の娘婿で、のちに板垣の名跡を継いだ板垣信安《いたがき・のぶやす》か? |
↑z | 川窪信実とも。勝頼の叔父にあたり、長篠城包囲戦では鳶ヶ巣山陣地で監視していたが、徳川家重臣・酒井忠次らの奇襲を受け、松平伊忠《まつだいら・これただ》に討ち取られた。 |
↑aa | 彼らも長篠城包囲戦では中山砦や久間山砦で監視していたが徳川勢の奇襲を受けて討死した。 |
↑ab | 信玄とは乳兄弟で譜代家老衆の一人。甲陽軍鑑ではあまりよく書かれていないが、老齢ながら勝頼に最後まで付き従った忠臣である。 |
↑ac | 小山田昌行の弟で、織田信長の甲州攻めの際は高遠城に籠もり兄と共に討死した。 |
↑ad | 武田家御一門衆。織田信長による甲州攻めでは武田信豊を討って信長方に寝返るも誅殺されたと云う。 |
↑ae | 元は越後の上杉輝虎(謙信)の家臣で、土地争いで謀反し敗れて信玄の家臣となる。遠江小山城主。四郎勝頼の最後の戦いでも奮闘した忠臣の一人。 |
↑af | 信玄の異母弟。甲斐源氏の流れを汲む一条家の名跡を継ぐ。四郎勝頼の後見人。 |
↑ag | 武田家の勘定奉行を務め、設楽原合戦で討死した。 |
↑ah | 父は駒井高白斎。譜代家老衆の侍大将で、のちの駿河深沢城代。 |
↑ai | 「信濃」とか「刑部」に合わせると官位になるが、そんな官位は無いけど? |
↑aj | この年は1月1日〜4月30日までが平成31年、5月1日〜12月31日までが令和元年。 |
↑ak | 読みは他に「ととり」。また「戸取」または「鳥取」とも。 |
↑al | 現在の東京都西多摩郡檜原村にあった山城。 |
↑am | 現在の山梨県上野原市あたり。 |
↑an | と云うか、氏康は何度も信玄の別働隊にしてやられているが、懲りていないのだろうか。あるいは氏康は隠居しているので当主の氏政か? |
↑ao | 大石定久《おおいし・さだひさ》。元・山内上杉氏の家老の一人であったが河越夜戦後は小田原北條氏に臣従し、北條氏康の三男・氏照を婿養子として迎え入れた。 |
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