東京都八王子市高月町から丹木町三丁目までの敷地を有する都立滝山公園は多摩川に面した加住《かすみ》丘陵上にあり、今から500年前の大永元(1521)年に武蔵国の守護代を務めていた大石氏[a]元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。が築いたと伝わる滝山城跡[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。にあたる。滝山城は、こののち関東管領上杉氏を駆逐した小田原北條氏康の三男・氏照[c]別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。の居城となり、北の多摩川と南の谷地川に挟まれるように続く東西およそ900mの天然の要害として拡張が繰り返された平山城で、現在でも北條流築城術[d]曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。を随所で伺うことができる城跡である。また近年の研究では、永禄4(1561)年に越後国の上杉輝虎[e]云わずと知れた、のちの上杉謙信。率いる越軍が小田原北條氏の居城である小田原城を攻めた際に滝山城下[f]滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。で攻防戦があったと云う記録がないことから、氏照ははじめ浄福寺城(由井城)を拠点とし、このときの教訓から越軍や甲軍らを監視するために小田原城の支城として新たに築いたのが滝山城と云う説がある。昭和26(1591)年に国史跡に指定され、現在は都とNPO法人の有志らによって整備保全が行われている。
昨年は令和2(2020)年の師走の頃、全国的にも COVID-19 の新規感染者数が右肩上がりになる少し前に、この年の最後になる城攻めとして滝山城跡へ。一度、七年前に攻めた城跡ではあるけど、当時いくつか見落とした遺構があることを知って再訪してきた次第。七年前はまだ続日本100名城なるものは無かったし、当時も今も城跡を保守してくれているボランティアの方々のホームページは比べることができないくらい情報が充実していたこともあったので。そんな中で新しく知った情報などから、今回は前回の城攻めルートに加えて次の遺構:
- 山の神曲輪跡と小宮曲輪枡形虎口跡
- 大馬出跡と横堀跡
- 本丸西側の出丸跡から本丸南側虎口跡までの腰曲輪群(搦手側の防御施設)
- 中山勘解由屋敷跡(推定)
を巡るルートを追加して滝山城跡を堪能してきた。実は、この日はこれ以外にも滝山合戦で武田信玄が本陣を置いたとされる拝島大日堂まで足を伸ばす予定だったけど、これらの遺構を巡ったあとに多摩川を渡る体力が無くて諦めてしまった[g]歩きまわて足が棒になってしまった。その翌週に改めて滝山合戦跡を巡ってきたけど 。
。
しかしながら、こんな時期に考えることは皆同じようで園内では多くの人達に遭遇した[h]予想外に大勢の家族連れや城マニアの人が居たので驚いた。まぁ公園なんで人が多いのは仕方がない。この時期だし。しかし七年前の時とは比べようがないほどの盛況ぶり。。他にもボランティアでガイドする人もいたっけ。もちろん公園ではあるけど感染防止対策を徹底して楽しんできた。
初日の城攻め(大手口から)
この日はJR八王子駅まで移動し、北口にある西東京バスの⑫のりばから「ひ01・戸吹スポーツ公園入口」行きのバスに乗車して滝山街道沿いにある「滝山城址下」で下車[i]所要時間は20分ほどで、料金は片道で大人315円(当時)。。バス停から滝山街道こと国道R411を挟んだ向かい側に緑色の「戦国の名城・滝山城入口」なる案内板が建っているところが公園入口の一つ。ちなみに公園入口は他にも沢山あるようだが、今回は前回と同じ入口からスタートした:
こちらが、今回の城攻めルートと実際のGPSアクティビティのトレース。主な遺構(★)については巡ってきた順番を示す番号付きのラベルを付与している。公園入口にあたる大手口跡(推定)からスタートして、初めに山の神曲輪跡を目指し、二の丸跡から大馬出跡、そして中の丸跡でお昼を摂って、本丸跡へ移動したら出丸跡まで降りてぐるりと半周して本丸跡へ戻り、最後は家臣らの屋敷跡へ向かい、谷木戸口木橋跡から公園の出口を目指して、再びR411へ向かう途中で中山勘解由屋敷跡(推定)を眺めてきた。R411に出てしまえば西東京バスのJR八王子駅行きのバス停が何箇所かにあるので帰りは特に困らなかった。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は8.41㎞、所要時間は4時間(うち移動時間は2時間15分)ほどだった。ちなみに少林寺は北條氏照の開基で、現在でも壇家の多くは氏照家臣団の末裔らしい:
①大手口跡 → 天野坂 → ②枡形虎口跡 → ③三の丸跡 → ④小宮曲輪跡 → 「北の備え」小宮曲輪北側の枡形虎口跡 → ⑤山の神曲輪跡 → ・・・ → ③三の丸跡 → コの字型の土橋跡 → ⑥千畳敷跡 → 西馬出(角馬出)跡 → 南馬出跡 → ⑦二の丸跡(西側) → ⑧大馬出跡 → (大池跡)→ 行き止まりの曲輪跡 → 東馬出跡 → ⑦二の丸跡(東側)→ 櫓門跡? → 枡形虎口跡 → ⑨中の丸跡 → 引橋(復元) → 枡形虎口跡 → ⑩本丸跡(南側/北側) → 櫓台跡 → 堀切跡 → 腰曲輪跡 → 堀切跡・武者溜・竪堀跡 → 出丸跡 → ⑪馬出跡 → 腰曲輪跡・竪堀跡 → ⑫弁天池跡 → 腰曲輪跡 → 大堀切跡 → 枡形虎口 → ・・・ → ⑬信濃屋敷跡 → ⑭刑部屋敷跡 → ⑮谷戸口木橋跡 → ・・・ → 少林寺 → ⑯中山勘解由屋敷跡
園内は基本的によく整備されていて案内板や説明板は充実しているし、バス停前の滝山観光駐車場や園内の所々で『リーフレット・滝山城跡』の印刷物を入手できるので特に困らないはず。
大手口側から城攻めをすると、それほど要害感はないが公園北側の滝ヶ原運動場から城跡を眺めると往時は多摩川に侵食されてできたであろう急峻な断崖になっているらしく、この翌週に多摩川を渡った先の東京都昭島市側から滝山城搦手口跡を攻めた際に見てきた。こちらについてはその一部を本稿後半で紹介する。
①大手口跡にあたる公園入口から民家を抜けて園内に入ると現在は散策路になっている天野坂《あまのざか》と呼ばれていた堀底道がある。高い土塁に囲まれて鈎型に折れてから三の丸へ向かう大手道となる:
三の丸跡の前に目前には小宮曲輪跡とそれを囲むように設けられた横堀が出現する。七年前は小宮曲輪を囲む空堀に入ることができたと記憶するが、現在は城跡の一部が民有地になっているようで立入禁止の札が建っていた:
天野坂からの堀底道を上って行くと、左手の小宮曲輪と右手の三の丸の間に設けられていたとされる②枡形虎口跡に至る。現在は散策路になっているため消滅していたが:
大手道から右手にあるのが③三の丸跡。滝山城の南側大手を守備する曲輪で三方が空堀で囲まれている:
三の丸との合流点からは④小宮曲輪跡へ。ここも枡形虎口があったようだが現在は消滅している。また曲輪の名前は、城主・氏照の家臣の中に西多摩出身の家臣(小宮氏)からきているらしい:
こちらは小宮曲輪跡から大手道の枡形虎口跡を見下ろしたところ。虎口前でまごついている寄手の頭上から攻撃できる曲輪であった:
小宮曲輪は北へ向かって延びており、その脇にある散策路を進んで、今回の城攻めで追加した山の神曲輪跡方面へ。途中、右手には弁天池跡を眺めることができた:
散策路を山の神曲輪方面へ進んでいくと、「北の備え」と呼ばれる小宮曲輪北側にあった枡形虎口跡に至る(図は『リーフレット・滝山城城跡』から一部引用):
もともとは城の北側にある山の神曲輪方面から攻めてきた寄手の進路を阻み反撃するための施設だったらしい。この虎口により、寄手は狭い通路を一列に並んで進まなければならず、横堀で囲まれた小宮曲輪からは寄手の頭上や側面に攻撃できたと云う:
山の神曲輪跡へ向かう前に小宮曲輪北側を巡る横堀へ。江戸時代に発刊された『諸国古城之図』によると、この空堀を挟んで左手が小宮曲輪、右手は(誰かの)屋敷が建っていた曲輪とのこと:
こちらが小宮曲輪北側を巡っていた横堀跡:
再び散策路に合流して⑤山の神曲輪跡へ。「山の神」とは民間信仰の一つとして祀られた神であり、戦時は城下の民衆らの避難場所とされたらしい:
位置的には本丸よりも北にあり多摩川の眺望はよかった[j]他にも米空軍・航空自衛隊の横田基地や西武ドーム(メットライフドーム)が見えた。。また、ここから更に北には滝山城の支城とされる高月城《たかつき・じょう》跡があるのだが周囲が藪化していたため残念ながら拝むことはできなかった:
そして、ここから戻って大手道がある三の丸跡前へ。こちらは「都立滝山公園の碑」。ここが実質的な公園の出入口の一つにあたるのだろう:
そして、今回の城攻めでよく見かけた「八王子・滝山城は500歳」の幟。これは逆算すると、すなわち永元(1521)年に大石氏が築城したと云う説が元になっているようだ:
さらに進んでいくと「コの字型土橋」なる説明板が見えてくる。三の丸から進んできた寄手は、ここから直進できずに進行速度が落ちる上に、四回も向きを変えることになり、城から幾度も側面迎撃を受けることになる:
土橋跡を過ぎた左手には城内で最も広い郭とされる⑥千畳敷跡が見えてくる。平時は役場的な施設が建っていたらしい:
千畳敷の北端からは、湧水や雨水を溜めて戦時には水源の代わりにし、平時には宴を楽しんだとされる弁天池の跡を眺めることができる。当時は一部の遺構にブルーシートが掛けられていたので、いかにも池っぽく見えた:
後で本丸西側下を巡った際はもっと詳細に見ることができた。
こちらは千畳敷と空堀を挟んで設けられていた西馬出こと角馬出《かくうまだし》跡。二の丸を守備する施設の一つである:
そして前回はこのまま中の丸跡へ向かったが今回は二の丸跡へ。
滝山城の特徴の一つである「二の丸の最終防衛ライン化」の説によると、本丸より一段高く三つの尾根が交差するところに複数の削平地を設け、それらを一体化して「主郭」としている。それぞれの尾根には西馬出、東馬出、南馬出、そして大馬出を設け、巨大な横堀と土橋で枡形虎口を形成させた堅固な二の丸を最終防衛ラインとすることで本丸や中の丸を確実に守れると考えたのかもしれない。現在でも見所の一つなので、可能ならば二の丸跡を一周してみることをオススメする 。
まずは二の丸南西側を取り囲む横堀:
横堀沿いの散策路を東へ向かっていくと二の丸下の南馬出に入る土橋が出現する。この上にある南馬出とその先にある大馬出が連続して設けられていることから重馬出《かさねうまだし》と呼ぶ:
土橋を渡った先が南馬出跡。二の丸に設けられた馬出の中で最も小さい郭:
そして、ここから二の丸虎口と大馬出に分岐し、それぞれ土橋が残っていた。まずは南馬出から二の丸虎口に接続する土橋。この先は往時は枡形虎口になっていたようだが残念ながら一部の土塁を除いて消滅していた:
こちらが⑦二の丸跡。ちなみに現在は散策路によって東西二つの区画に分離されており、こちらは西側にあたる。したがって個人的には⑥千畳敷よりも広い郭に見えた:
二の丸東側に残る土塁に昇って屏風折れの横堀を見下ろしたあとは、再び南馬出の分岐点へ戻って大馬出に接続している土橋を渡る:
こちらは土橋の上から見た二の丸南側に残る土塁と屏風折れした横堀:
こちらが⑧大馬出跡。二の丸の周囲に設けられた馬出の中では最大級である:
大馬出の西と南には土塁が巡らされており、この上から大馬出の周囲に巡らされた空堀を見下ろすことができた:
と云うことで、大馬出の周囲に巡らされた横堀へ降りてみた(図は『リーフレット・滝山城城跡』から一部引用):
しっかりと整備されているおかげか、良好に残っていた横堀(堀底道):
堀底道から先程見下ろした大馬出の土塁を見上げてみた:
大馬出東側には大池と呼ばれた池があったらしい。こちらも弁天池と同様に湧水や雨水などを溜めて戦時の水源としたのだろうか:
大池と二の丸南側の横堀に挟まれた狭い郭は「行き止まりの曲輪(ふくろのねずみ)」と呼ばれているらしい。現在はそのまま散策路が通っていたが:
ここから二の丸南側の横堀と土塁の屏風折れを眺めてみると、こんな感じ:
そして二の丸守備を目的として設けられた四つある馬出のうち最後の東馬出跡がこちら:
ここからは二の丸跡を縦断している散策路を北上して中の丸跡や本丸跡を目指すことに。と云うことで、まずは二の丸東側に巡らされた横堀とそこに架かる土橋を渡って二の丸跡の中へ:
こちらは散策路で分断された二の丸跡の東側。土塁が残っていた:
二の丸と北側で隣接している郭が中の丸で、その間には空堀(横堀)が設けられている。これは二の丸跡から空堀越しに眺めた中の丸跡:
こちらが二の丸と中の丸の間に設けられた空堀:
二の丸跡(東側)から出て散策路に戻ると「中の丸南側の防御(櫓門の推定)」と云う説明板がある:
さらに進んで枡形虎口を経由して⑨中の丸跡へ。前回攻めた時よりも綺麗に整備されていて驚いた:
本丸と同様に重要な施設があったと考えられており、北側は約70mの断崖、南には二の丸との間に深さ15mの空堀と土塁が設けられていたことから北條氏照が城主であった頃の大規模な改修で削平・盛土して造られた郭ではないかと云う説あり。また、前述の『諸国古城之図』には中の丸が「千畳敷」と記述されている。
また中の丸南側のトイレの背後には土塁が残っており、そこから二の丸との間の空堀を見下ろすこともできた:
中の丸跡の中央に建つ瓦葺の建物は昭和30年代に建てられた国民宿舎の一部で、滝山城とは関係ない[k]ってガイドの人に教えてもらった。続日本100名城のスタンプの他に古い甲冑なんかがあるらしい。:
中の丸跡の北端下には多摩川に向かって腰曲輪が数多く設けられていたらしいが藪化していて確認できず。しかしながら多摩川と昭島市方面の眺めは良かった:
中の丸跡でお昼を摂ったあとは本丸跡へ。中の丸と本丸との間には大堀切があり、現在はそこに架かっていたであろう引橋[l]曳橋とも。有事には本丸側に橋を引いて寄手を渡らせないようにできたと云う。が木橋として復元されていた:
引橋を渡って本丸に入る東側の虎口も枡形だった:
平成8(1996)年に東京都が行った発掘調査で発見された遺構は、現在は埋没保存して表面のタイルで平面復元していた。
この虎口跡を抜けた先が⑩本丸跡になるわけだが、この郭は南北の二段に大きく削平されており、こちら下段にあたる南側はほぼ土塁によって囲まれていた:
本丸跡(南側)ある「史蹟・滝山城跡」の碑と、内壁に丸石を積んだ大井戸跡:
上段にあたる北側に行くには霞《かすみ》神社[m]ここ加住(かすみ)地区の日露戦争戦没者の供養のために明治時代に創建された。の裏手にまわる:
こちらが上段にあたる本丸跡(北側)で、こちらの郭には土塁はない。滝山城にとって本丸北側は搦手にあたる:
この郭には江戸時代末期に造営され平成の時代に再建された金毘羅様が祀られており、中の丸との間にある大堀切の堀底道から参道が設けられていた。前回は上から見下ろしたが、今回は下まで下りて見上げてきたが、その高さには驚くばかり:
本丸の櫓台跡に建つ金毘羅社の脇から、本丸西側にある出丸跡へ下りることができる虎口がある:
ここから下りて堀切や出丸跡などの搦手防御を意識した遺構を巡りながら弁天池跡まで南下し、再び本丸跡まで戻ってきた(図は『リーフレット・滝山城城跡』から一部引用):
ちなみに七年前は本丸西側へ下りることはできなかったと記憶している。これも城ブームのおかげだろうか。
こちらが本丸西側下にある腰曲輪跡。こちら側には自然の地形を利用した大小さまざまな腰曲輪が設けられていたが、大部分は藪化していてなかなか立ち入れなかった:
本丸と出丸との間に残る堀切:
この堀切を下りて出丸下へ行くと竪堀が残っていた:
一部が竹林化していたが、往時は武者溜《むしゃだまり》として使用し、このあと見てまわる出丸や馬出といった施設と共に、本丸北側の搦手口からの寄手に対抗できるようにしていたと思われる:
さらに土塁を下りて行くと他にもいくつか残っていた竪堀を見ることができた:
堀切を上がって腰曲輪跡へ戻り出丸跡へ。この郭の上から、先程みた竪堀を見下ろすことができた:
こちらは出丸跡から見下ろした馬出跡と空堀:
出丸跡を下りて、更にその下にある馬出跡へ移動すると土橋(「本丸下西側周辺図」中の①地点)が出現した:
この土橋を渡った先が⑪馬出跡。搦手方面から侵入した寄手が本丸や出丸を攻撃中に、ここから挟み撃ちにしようとした意図があったのかもしれない:
このあとは空堀を下りて本丸跡西側へ移動した。土橋が架かっていた空堀はそのまま竪堀となって西側に落ち込んでいた(「本丸下西側周辺図」中の②地点):
この空堀を下りて竪堀に変化する手前にある横堀に沿って移動していくと、再び竪堀があった(「本丸下西側周辺図」中の③地点):
ほぼ完全に埋もれてしまった横堀を抜け出てたら弁天池跡を目指して南下する:
しばらく歩いていると、だいぶ埋もれているが大きな竪堀と遭遇する:
複数の腰曲輪跡に巡らされた犬走りのような通路をさらに進んでいく:
ところどころに折れを設けて横矢を仕掛けることができるようになっていた:
三方を土塁で囲まれたT字路のような分岐点を左に折れて腰曲輪を抜けていくと本丸跡(南側)に至る:
こちらは分岐点を右に折れて進んでいった先にある腰曲輪跡から眺めた⑫弁天池跡:
この腰曲輪にも立派な土塁が残っていた:
こちらは別の腰曲輪から先程の土塁あたりを見渡したところ:
今度は本丸跡南側に連なる腰曲輪跡を進んでいく。この先は、本丸と中の丸の間にある大堀切下の腰曲輪跡:
多くの腰曲輪跡を抜けた先も腰曲輪跡だった 。これは中の丸や二の丸、そして本丸から囲まれた郭[n]一説に堀とも。:
ここから本丸跡方面へ上がった先には、先程通った木橋(引橋)と大堀切跡が出現する:
次は本丸(南側)にある枡形虎口跡へ。寄手が枡形虎口に侵入すると横矢(側面攻撃)を受けることになる:
本丸跡まで半周して戻ってきたので、次は二の丸の空堀を隔てた東側にある家臣屋敷跡へ。屋敷跡が連なっているのは、城の弱点とされたその場所に城主・氏照が最も信頼していた重臣らを配置し尾根の守備を任せていたからだと云う。
まずは⑬信濃屋敷跡。往時はここも枡形虎口であったが現在は消滅していた。また隣接する刑部屋敷の他に郭内も土塁で区画されていたようだ:
家老である大石家の中で「信濃守」を名乗ったのは下野国の祇園城(下野小山城)で城代を務めた大石信濃守照基《おおいし・しなのかみ・てるもと》と云われる。
こちらは隣接する⑭刑部屋敷跡との間に残る土塁:
ここも枡形虎口を擁した郭であった:
この郭跡については翌週の滝山合戦跡巡りでも詳細に見てきたので、ここまでとする[o]城攻めの後に多摩川を渡って滝山合戦巡りする予定だったので、時間の都合で切り上げたが結局は叶わなかった 😐 。。
そして、このまま東側の公園出口へ向かうが、その途中に⑮谷戸口木橋跡(引橋跡)があった:
当初、二の丸の東側は尾根続きになっていたことが城の弱点とされ尾根道からの侵入を防ぐために、のちの改修で巨大な空堀と引橋を設けたと云う。橋が架かる堀は大池の土手とつながり、防御線を形成していたと考えられている:
そして復元された引橋を渡ってしばらくすると公園の出入口に到着する:
この先すぐ滝山街道に下りる道があるが少林寺[p]北條氏照の開基で、現在の壇家の殆どは北條氏家臣の末裔らしい。方面の道を進む。
こちらが金龍山・少林寺:
ここから滝山街道へ向かってさらに進むと左手下あたりに養鶏場の建物が見えてくるが、その奥が⑯中山勘解由屋敷跡(推定)とされる:
中山勘解由家範《なかやま・かげゆ・いえのり》は北條氏照の重臣の一人で、永禄12(1569)年の滝山合戦時は廿里砦《とどり・とりで》で小山田信茂率いる甲軍の迎撃を指揮した人物であり、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では八王子城主の氏照に代わり城代を務めて籠城戦を指揮し、加賀前田氏・越後上杉氏と激戦に及んで討ち死した勇将である。墓所は八王子城下にあり、主人・氏照の脇で眠っている。
このあとは多摩川を渡って昭島市まで足を伸ばす予定だったけど終了して帰途についた。
翌週の城攻め(搦手口から)
この日のメインは滝山城跡ではなく、永禄12(1569)年に小田原城攻撃に向かう武田信玄が2万の軍勢で滝山城を包囲した際に本陣を置いたと伝わる拝島大日堂を訪問するためなので、JR青梅線の昭島駅からの移動であった。多摩川を挟んで北側にある高台から滝山城跡を望み、そのあとに多摩川に架かる拝島橋を渡って滝山城の搦手口跡まで歩き、前週に続いて滝山城攻めへ。と云っても、主たる目的は信濃屋敷跡から拝島大日堂を眺めることと、一部見忘れた遺構の再確認といったところだけど[q]実は、当時開催していた「滝山城ワードラリー」なるイベントで見落としたワードを確認することもあった なにせマグカップが貰えるらしいので。 。
拝島大日堂から南下して河川敷にある拝島自然公園でお昼を摂り、国道R16が通る拝島橋を渡って対岸にある滝ヶ原運動場を横断した:
こちらが、この時の城攻めルートと実際のGPSアクティビティのトレース。拝島橋を渡って河川敷を歩いてきたところから。主な遺構(★)については巡ってきた順番を示す番号付きのラベルを付与している。滝ヶ原運動場を過ぎたところは私有地のため縦断はできず、ぐるりと廻ってくる必要がある。最後は、前週のスタート地点である大手口跡。ちなみに本稿では④堀切跡あたりまで紹介する:
滝ヶ原運動場 → ①滝の曲輪跡 → ②搦手口跡 → 大堀切跡 → ③本丸跡(南側) → ④堀切跡 → ⑤信濃屋敷跡 → ⑥刑部屋敷跡 → ⑦カゾノ屋敷跡 → ・・・ → ⑧大手口跡
運動場を過ぎた先から滝山公園へ向かう道に入って搦手口跡を目指していくが、ちょうど民家が建ち並んでいるところが①滝の曲輪跡らしい:
こちらが②搦手口跡。公園入口でもあり、ここからは城道が石畳の坂になっていた:
ここも枡形虎口で、櫓が建っていたと思わせるような土塁が残っていた:
しばらく坂道を登っていくと本丸と中の丸の間にある大堀切の堀底道に到着する:
そして③本丸跡にある金毘羅社の参道となる階段。改めて重機の無い時代に人力で堀った凄まじさに驚くばかりである:
この後は③本丸跡へ上がり、④堀切跡で見落とした竪堀を確認してきた[r]そちらは初日の城攻め(大手口から)の方にまとめた。。以上で滝山城攻めは終了。
最後は、小宮曲輪跡から山の神曲輪跡へ行く途中に見かけた注意書き:

「大切に利用して下さい」
武蔵滝山城攻め (2) (フォト集)
武蔵滝山城攻め (3) (フォト集)
武蔵滝山城 (攻城記)
武蔵滝山城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 国指定史跡・よみがえる滝山城
- 『戦国の名城(国指定史跡)滝山城跡』リーフレット(滝山城跡群・自然と歴史を守る会)
- 滝山城跡・滝山公園内に建っていた案内図・説明板
- 日本の城探訪(滝山城)
- パソ兄さん「武田軍の猛攻に耐えた滝山城!」(HOME > DELLパソコン・モバイル旅行記TOP > 東京都 > 滝山城)
- Wikipedia(滝山城)
- 天竺老人 日本の城ある記(TOP > 関東の城 > 武蔵 > 滝山城)
- 余湖図コレクション(中山勘解由屋敷)
- 攻城団(中山勘解由屋敷跡)(HOME > 東京都 > 滝山城 > フォトギャラリー)
参照
↑a | 元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。 |
---|---|
↑b | 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。 |
↑c | 別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。 |
↑d | 曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。 |
↑e | 云わずと知れた、のちの上杉謙信。 |
↑f | 滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。 |
↑g | 歩きまわて足が棒になってしまった。その翌週に改めて滝山合戦跡を巡ってきたけど ![]() |
↑h | 予想外に大勢の家族連れや城マニアの人が居たので驚いた。まぁ公園なんで人が多いのは仕方がない。この時期だし。しかし七年前の時とは比べようがないほどの盛況ぶり。 |
↑i | 所要時間は20分ほどで、料金は片道で大人315円(当時)。 |
↑j | 他にも米空軍・航空自衛隊の横田基地や西武ドーム(メットライフドーム)が見えた。 |
↑k | ってガイドの人に教えてもらった。続日本100名城のスタンプの他に古い甲冑なんかがあるらしい。 |
↑l | 曳橋とも。有事には本丸側に橋を引いて寄手を渡らせないようにできたと云う。 |
↑m | ここ加住(かすみ)地区の日露戦争戦没者の供養のために明治時代に創建された。 |
↑n | 一説に堀とも。 |
↑o | 城攻めの後に多摩川を渡って滝山合戦巡りする予定だったので、時間の都合で切り上げたが結局は叶わなかった 😐 。 |
↑p | 北條氏照の開基で、現在の壇家の殆どは北條氏家臣の末裔らしい。 |
↑q | 実は、当時開催していた「滝山城ワードラリー」なるイベントで見落としたワードを確認することもあった ![]() |
↑r | そちらは初日の城攻め(大手口から)の方にまとめた。 |
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