天正10(1582)年6月1日夜[a]これは旧暦。新暦で計算すると1582年6月20日で時刻は午後10時頃。、丹波国亀山[b]現在の京都府亀岡市荒塚町近辺。で明智惟任日向守光秀《あけち・これとう・ひゅうがのかみ・みつひで》は主君で右大臣・信長への反逆を企て、明智左馬助秀満《あけち・さまのすけ・ひでみつ》、明智次右衛門光忠《あけち・じえもん・みつただ》、藤田伝五行政《ふじた・でんご・ゆきまさ》、斎藤内蔵助利三《さいとう・くらのすけ・としみつ》らと相談し、信長を討ち果たし天下の主となる計画を練り上げた。信長の命で、中国の毛利勢と対陣中の羽柴筑前守秀吉《はしば・ちくぜんのかみ・ひでよし》を援軍するには亀山から三草山《みくさやま》を越えるのが普通であるが、そこへは向かわずに馬首を東へ向けた。その数1万3千。兵らには「山崎を廻って摂津の地を進軍する」と触れておき、先に相談した宿老らに先陣を命じた。そして摂津街道を下り、桂川を越えた先の京都に到着したのは翌2日の早朝であった。光秀らの軍勢は信長の宿所本䏻寺[c]本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本稿でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。を包囲し、四方から乱入した。はじめ弓と槍で防戦していた信長は、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の口を閉めて無念にも御腹を召された。
日別: 2020年12月27日
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