大徳寺塔頭の総見院は本䏻寺の変で生涯を閉じた織田信長公の菩提寺である

天正10(1582)年6月1日夜[a]これは旧暦。新暦で計算すると1582年6月20日で時刻は午後10時頃。、丹波国亀山[b]現在の京都府亀岡市荒塚町近辺。で明智惟任日向守光秀《あけち・これとう・ひゅうがのかみ・みつひで》は主君で右大臣・信長への反逆を企て、明智左馬助秀満《あけち・さまのすけ・ひでみつ》、明智次右衛門光忠《あけち・じえもん・みつただ》、藤田伝五行政《ふじた・でんご・ゆきまさ》、斎藤内蔵助利三《さいとう・くらのすけ・としみつ》らと相談し、信長を討ち果たし天下の主となる計画を練り上げた。信長の命で、中国の毛利勢と対陣中の羽柴筑前守秀吉《はしば・ちくぜんのかみ・ひでよし》を援軍するには亀山から三草山《みくさやま》を越えるのが普通であるが、そこへは向かわずに馬首を東へ向けた。その数1万3千。兵らには「山崎を廻って摂津の地を進軍する」と触れておき、先に相談した宿老らに先陣を命じた。そして摂津街道を下り、桂川を越えた先の京都に到着したのは翌2日の早朝であった。光秀らの軍勢は信長の宿所本䏻寺[c]本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本稿でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。を包囲し、四方から乱入した。はじめ弓と槍で防戦していた信長は、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の口を閉めて無念にも御腹を召された。

これは『信長公記《しんちょうこうき》[d]慶長(1598)年に成立した織田信長の一代記。信長を研究する上での根本史料である。』最終巻に記されている一節[e]勿論、現代語訳である。であるが、著者で信長の右筆を務めた太田和泉守牛一《おおた・いずみのかみ・ぎゅういち》本人は本䏻寺の変の場には居合わせていない。

ちなみに、本䏻寺の変について記した史料で信憑性の高い文献としては、他に『言経卿記《ときつねきょうき》[f]公家の山科言経が記録した日記。』、『兼見卿記《かねみきょうき》[g]公卿で京都吉田神社の神主である吉田兼見《よしだ・かねみ》の日記。』、『多聞院日記[h]興福寺多聞院主・多聞院英俊らが書き継いだ日記。』、『日々記《にちにちき》[i]勧修寺晴豊の日記。別名は『天正十年夏記』。』、『宇野主水日記[j]本願寺顕如の右筆を務めた宇野主水の日記。』、『御湯殿《おゆどの》の上の日記[k]正親町天皇に仕えた女官の日記。』がある。

今年は令和2(2020)年の立冬を過ぎた頃の連休を利用して、京都は紫野《むらさきの》大徳寺塔頭で、右府公[l]右大臣・織田信長公のこと。の菩提寺である総見院で開催されていた特別公開に参加してきた。自分が京都で右府公の墓所や本䏻寺の変ゆかりの場所を初めて巡ってきたのが五年前。その際は大徳寺も訪問したものの勝手知らずで総見院《そうけんいん》は拝観できなかったのが心残りであったが、ここで実現できた次第。冬に入り全国規模で COVID-19 が猛威を振っていたこの時期[m]出発前日には大阪府で過去最多の感染者数が報告されていた。、 国主導の GOTO トラベルを利用したが、市内は駅周辺を含め恐ろしいほどの人の多さだったことを覚えている。勿論、感染対策はしっかりと実行し密の状態に遭遇しないよう、公共機関を除いて可能な限り徒歩で移動したが、大徳寺境内は結構な観光客が居て緊張した。また同時に他の塔頭や、5年前は祖師堂が工事中だった妙覺寺にも立ち寄ってきた。

こちらが、今回巡ってきた経路と実際のGPSアクティビティのトレース。宿泊先がある新大阪から京都へ移動し、京都から市営地下鉄烏丸線・国際会館行に乗り換えて鞍馬口で下車。そこから妙覺寺大徳寺塔頭を巡るもので、基本的に五年前とまったく同じ。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は5.91㎞、所要時間は2時間37分(うち移動時間は1時間22分)ほどだった:

ほぼ五年前に初めて巡ってきたルートと同じ(妙覚寺→大徳寺)

My GPS Activity

さらに追加で、三年前に岐阜城を攻めたあとに拝観してきた臨済宗・崇福寺《そうふくじ》境内の織田信長公の廟所も紹介する。本䏻寺の変後、信長の側室であった於鍋の方が遺品を崇福寺へ持ち込んだのが廟所造営のキッカケとなったらしい。さらに崇福寺を開山した独秀乾才《どくしゅう・けんさい》禅師はのちに紫野・大徳寺第66世住職となったと云う由縁もある。

紫野大徳寺塔頭・総見院

総見院は本䏻寺の変で明智惟任日向守の謀反により49歳の生涯を閉じた右府公の菩提寺とされる。創建は、天正11(1583)年、右府公の一周忌を迎え、その追善供養のために秀吉が建立したが、実際は信長公亡き後の政権争いで主導権を握るためだったとされる。

開祖は千利休参禅の師であった古渓宗陳《こけい・そうちん》。創建当時、総見院含む大徳寺は寺勢大いに隆盛し、広大な境内に豪壮な塔頭が建ち並んでいたと云う。現在は、明治時代初年の廃仏毀釈《はいぶつ・きしゃく》[n]仏教寺院・仏像・経巻を破棄し、仏教を廃すことを意味する。神道国家である日本でも大政奉還後に解釈を捻じ曲げ暴走した民衆によって仏教施設が次々と破壊された。により塔頭伽藍や多くの宝物が灰燼に化したが、大正時代に入ってから再興され、往時の雰囲気をわずかに偲ぶことができる:

通常は拝観謝絶で非公開であるが、春と秋に特別公開(有料)される

総見院の正門(現存)

ここは他の塔頭と同様に原則的には「拝観謝絶」で、国の重要文化財である信長公木像を含め、織田家墓所は非公開であるが、毎年、春と秋に特別公開されている[o]なのでガイドの方の手慣れた説明には年季が入っていた :-)。今年は COVID-19 感染拡大防止のためか、完全予約制の上に10月10日〜12月5日までの土・日・祝日のみの限定での公開であった。拝観料は1,000円(当時):

当日は予約無しでも拝観できるようだった(キャンセルが多かった?)

総見院【予約制】特別公開

今回の拝観は初回(10:00〜)で予約だったので、時間がきたら表門から入って受付で名前を告げ、両手の消毒と検温してから境内へ:

左から正門、表門、そして土塀(更に右手には鐘楼がある)

総見院

表門の右手にある土塀は二重構造で厚みのある「親子塀」と呼ばれるもの

表門(現存)

表門から鐘楼との間には土塀が建っているが、これは正門と共に430年以上前に秀吉が創建した当時のままの姿で残るものらしい(現存)。特に、この土塀は「親子塀」と呼ばれ、内部に空洞を持ち二重構造になっているため通常のものよりも厚みがある。

こちらは鐘楼。これも創建当時のもので重要文化財。鐘は、信長の側近の一人である堀久太郎秀政が寄進したもので、銘文は本院開祖の古渓宗陳:

創建当時のもので、鐘は堀秀政の寄進と伝わる

鐘楼(重要文化財)

受付を過ぎて本堂へ向かう参道を歩いていると、茶筅塚《ちゃせんづか》と云う供養塔があった:

左手が本堂方面、右手奥には鐘楼、右手前が親子塀と呼ばれる土塀

境内

お茶を点てる際に使用する茶筅の供養塔

茶筅塚

そして本堂。まずはここで拝観前のガイダンスが行われた:

ここに信長公木像や、信長や秀吉ゆかりの品々が展示されていた

本堂

この回の定員は20名。全員が本堂内に並べられた椅子に座ってガイダンスを受けた。この日に拝観できる文化財は、ここ本堂と木造織田信長公坐像、三席ある茶室(内部と庭園)、信長公一族の墓碑といった特別公開物の他、掘りぬき井戸や侘助椿《わびすけ・つばき》といった境内の中にあるもの。所要時間はおよそ40分。ガイドの方が順に引率し簡単な説明をしてくれる。ガイドが終われば残り時間は自由に動いて拝観できるが、木造織田信長公坐像などが安置されている本堂内部は木像を含めて写真撮影は不可であった。

これは、受付でもらったリーフレット『紫野・大徳寺塔頭・総見院』の表紙にあった木造織田信長坐像の写し:

本堂仏間に安置されている信長公の木像は衣冠帯刀の姿を写した坐像である

木造織田信長坐像(重要文化財)

本堂仏間で見たこの木像は意外と大きなもので、衣冠帯刀《いかん・たいとう》の姿を映した高さ115cmの坐像。運慶・湛慶の流れを汲む当時の一級仏師・康清《こうせい》が天正11(1583)年に作成したもの。らんらんと輝き、人を射るような眼光は、亡き信長公の面影をよく伝えていると云われる。木像は2体造られ、そのうちの1体が遺骸の代わりに本能寺の灰と共に火葬にふされた。この像は沈香と呼ばれた香木で彫られたため、火葬された際に大変によい香りが京都市中を漂ったと云う。

ガイダンスを終えて本堂から出ると、まずは境内の北庭に三席ある茶室を観覧してきた。大徳寺と茶の湯の関わりは深く、多くの茶人との関係もあったと云うが、「大徳寺大茶会」のおり総見院の方丈で秀吉が茶を点てたと云う記録が残っていることで知られている。

まず一席目は香雲軒《こううんけん》:

表千家の十三代・即中斎の好みの茶室らしい

香雲軒

香雲軒には8畳の茶室と書院があった

香雲軒の書院

二席目の茶室へ向かう際に通った回廊の天井あたりには輿が置かれていた:

三席の茶室を結ぶ通路で、天井には輿が置かれていた

回廊

廃仏毀釈の難を逃れた信長公木像を運ぶ際に使用されたもの

輿

この輿は、明治初めの廃仏毀釈の難を逃れ、大徳寺の仏殿に隠されていた信長公の木像を総見院へ戻す際に使用されたもの。

二席目は寿安席《じゅあんせき》。昭和初期の実業家である山口玄洞《やまぐち・げんどう》氏が寄進したもの:

昭和初期の実業家である山口玄洞氏が寄進したもの

寿安席

襖の「五七桐」紋(豊臣家)は見続けると浮かび上がって見えてくると云う

寿安席の書院

そして三席目の茶室は龐庵《ほうあん》:

扁額は表千家の而妙斉《じみょうさい》の筆による

龐庵

三席目の茶室

龐庵の玄関と廊下

これは庫裡の前にある掘りぬき井戸。井筒は、加藤肥後守清正《かとう・ひごのかみ・きよまさ》が文禄・慶長の役から帰国する際に船の重しとして持ち帰ってきた朝鮮石と伝わる:

井戸を囲む井筒は加藤清正が持ち帰った朝鮮石と伝わる

掘りぬき井戸

今なおこんこんと湧き出る水は毎朝のお供えに使われているとのこと

湧き水

こちらは秀吉が千利休から譲り受けて植えたとされる侘助椿《わびすけ・つばき》。早春に花を咲かせ、茶人に珍重された椿:

秀吉がこよなく愛したとされる樹齢400年の椿

侘助椿

樹齢は400年以上で、日本彩子の胡蝶侘助《こちょう・わびすけ》と云われている。

そして庫裡の裏が墓所になっており、信長公とその一族の供養塔がある:

右府公をはじめ信忠、信雄、徳姫、秀勝、信高、信好、秀雄、信貞、お鍋の方、そして帰蝶姫の墓碑がある

信長公一族の供養塔(拡大版)

右府(信長)公をはじめとしてその一族の五輪塔が並んでいた:

松平信康に嫁いだ次女の五徳姫は信好公の隣に墓碑がある

「信長公一族の墓碑ご案内」

こちら中央が右府公こと信長公の五輪塔で、その右手が嫡男の織田左近衛中将信忠《おだ・さこのえふちゅうじょう・のぶただ》公、左手が次男の織田中納言信雄《おだ・ちゅうなごん・のぶかつ》公の五輪塔:

右府公の戒名は「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」

信雄・信長・信忠の五輪塔

天正10(1582)年5月29日に30人ほどの小姓衆を同行させて上洛した右府公は、6月2日未明に逗留先の本䏻寺で桔梗紋を旗印とする明智軍の襲撃を受けた。初めは自ら弓や槍を手に奮闘したが、斎藤利三麾下の安田作兵衛国継《やすだ・さくべえ・くにつぐ》の槍[p]その後、右府公の行く手を阻んだ森乱丸こと森成利《もり・なりとし》を討ち取った。で手傷を負うと、自ら火を放った御殿で自刃して果てたと云うのが現代の通説である。享年49。

また嫡男の信忠は妙覺寺に逗留していたが、光秀の謀反を知ると本䏻寺へ向かうも父が自害したとの報せを受け、二条新御所へ移って、わずかな手勢で明智勢を三度も押し返したが衆寡敵せず自刃して果てた。享年26。

最終的に右府公の遺体はおろか信忠の首級も発見されることはなかったが、光秀は右府公が生きているのではないかと非常に恐れ、士卒に命じて徹底的に探させたが骸骨とおぼしきものさえ発見できなかったと云う。逆に、この事実が秀吉による味方の抱き込み工作に利用され、「右府公は生きておられる」との偽情報を諸将に流すことで多くの味方を得ることができた上に、明智軍の士気を落とすことに成功した[q]さらに、右府公の亡骸が発見されなかったことで、後世には多くの(そしてミステリアスな)憶測が生まれた。

そして本䏻寺の変から四ヶ月後には秀吉の手によって大徳寺で葬儀が盛大に行われ、ここ総見院に五輪塔が建てられた。

こちらは右手から信長公、次男の信雄、信雄の嫡男・秀雄《ひでかつ》の五輪塔:

信雄は小牧・長久手の戦後に織田宗家の当主として認められたのが由縁

秀雄・信雄・信長の五輪塔

信雄は小牧・長久手の戦いの後、秀吉から織田宗家の当主として認められ、いったんは豊臣家に出仕したが、秀吉死後の大坂の役で徳川方につく。そして家康から禄をもらい京都で隠居し茶や鷹狩などして悠々自適の日々をおくって寛永7(1630)年に京都で死去。享年73。この信雄から家督を継いだ秀雄は、のちに信忠の長子で幼名を三法師とした織田秀信が正式に織田宗家を継承すると、関ヶ原の戦ののちに父に先立って死去した。享年28。

こちらは左手から信忠、右府公四男の秀勝《ひでかつ》、七男の信高《のぶたか》、十男の信好《のぶよし》の五輪塔:

五男の勝長は兄の信忠と共に明智の軍勢に攻められて討ち死にしたと云う

信忠・秀勝・信高・信好の五輪塔

秀勝は秀吉の養子となった[r]秀吉には「秀勝」という名の養子が三人いた。石丸秀勝は秀吉が長浜時代にもうけた実子、豊臣秀勝は秀吉の甥でのちに養子となった。。天正13(1585)年に丹波亀山城で病死。享年18。信高は右府公とお鍋の方の長子で、本䏻寺の変後に秀吉に仕え羽柴姓を許された。慶長7(1603)年に死去。享年28。信好は、父が死去した際は幼年であったため秀吉に引き取られ、そのまま家臣となった。茶人。慶長14(1582)年に死去。享年は不詳。

ここに三男である信孝《のぶたか》の墓がないのは、本能寺の変後に柴田修理亮勝家・滝川一益らに与し、秀吉と対立したのちに自刃して果てたことが理由であろう。

あと若干分かりづらいが、信好の墓碑の右隣にあるのが右府公の次女[s]これまで一般に長女とされていたが、後年の研究では次女であったとする説が濃厚。そして、これまで次女とされた相応院が長女で、蒲生氏郷公に嫁いているが両人の墓碑は黄梅院にある。・徳姫の五輪塔:

一族の墓碑の一番端っこにあったが、秀吉とのつながりはあったらしい

徳姫の供養塔

晩年は清洲城主・松平忠吉から禄をもらい京都に隠遁した

徳姫の供養塔(コメント付き)

徳姫は家康の長子である松平信康《まつだいら・のぶやす》に嫁いだが、のちに信康と彼の母である築山殿《つきやまどの》と不仲となり、父の信長に二人の悪状を訴え、信康は二俣城で自害、その後に安土城へ送り返されてきた。本䏻寺の変後は次兄の信雄に保護され、小牧・長久手の戦い後に信雄の人質として秀吉のもとに送られた。京都で隠遁し、寛永13(1636)年に死去。享年78。

そして一族の墓碑の左側には右府公の正室であったとされる濃姫[t]帰蝶とも。「美濃からきた姫」から濃姫と呼ばれており本名ではない。こと鷺山《さぎやま》殿と於鍋の方こと興雲院《きょううんいん》殿の供養塔があった:

左が於鍋の方こと興雲院殿、右が濃姫こと鷺山殿

於鍋の方と濃姫の供養塔

濃姫に関しては史料が乏しく、その生涯が謎に包まれており、その最後についても多くの説がある。享年は不明。於鍋の方は近江国出身で、はじめ八尾山城主・小倉実房《おぐら・さねふさ》に嫁いだが六角承禎《ろっかく・じょうてい》に攻められて夫が討ち死にした後、右府公の側室となり、七男の信高、八男の信吉、六女の於振《おふり》をもうけた。晩年は京都で過ごし、慶長17(1612)年に死去。生まれた年が不明なため享年は不詳。変後に、於鍋の方が右府公と信忠公の遺品が岐阜の崇福寺へ持ち込んで廟所が造られたと云う。

以上で総見院の参拝は終了。五年前から念願であった信長公の供養塔を参拝することができてよかった。

See Also織田信長公墓所と総見院 (フォト集)

大徳寺塔頭・総見院
京都市北区紫野大徳寺町59

【参考情報】

紫野大徳寺塔頭・黄梅院

総見院のあと、こちらも是非、拝観したかった黄梅院へ。五年前はもちろん拝観できなかったが表門から「蒲生氏郷公墓地」と云う碑を目にしてから、かなり気になっていた塔頭。今回は特別公開の一つであったので喜び勇んで向かったものの、境内では前庭以外は撮影禁止。さらに氏郷公らの墓所は非公開 ;(。しかしながら千利休が作庭した「直中庭《じき・ちゅうてい》」や庫裡(重要文化財)、本堂障壁画(重要文化財)など貴重な美術品を(有料ながらも)見ることができたのは良かったかなぁ。拝観料は800円(当時):

この表門は筑前宰相・小早川隆景公が改築した兜型の門

黄梅院の表門

ここ黄梅院は、永禄11(1568)年に織田信長が足利義秋[u]義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。を擁して上洛した際、父・信秀の追善菩提のため羽柴秀吉に命じて建立した小庵「黄梅庵」を始まりとする。本䏻寺の変後の天正14(1586)年に秀吉により本堂と唐門が、そして天正17(1589)年には筑前宰相・小早川隆景により鐘楼・客殿・庫裡、そして表門がそれぞれ改築され「黄梅院」に改ためられたと云う。

非公開であるが、ここには信長の父である萬松寺殿(織田信秀)、蒲生氏郷夫妻、小早川隆景、そして洞春寺殿(毛利元就)夫妻と毛利三兄弟及び毛利一族の墓所があるらしい:

「蒲生氏郷公墓地」、「小早川隆景卿墓所」、「洞春寺殿家一門霊所」、「萬松寺殿霊所」の碑

黄梅院の墓碑

表門から入って受付へ向かう参道の正面にある大きな建物が国指定重要文化財の庫裡。天正17(1589)年に、豊臣政権で五大老を務めた小早川隆景によって寄進された切妻造・柿葺の建物で、禅宗寺院で現存する日本最古の庫裡なのだとか:

庫裡

そして前庭に建っていた鐘楼。鐘は天正19(1592)年に加藤清正により寄進されたもので、朝鮮から持ち帰ってきたものとされる。鐘の表面には獅子頭の彫刻が施されているのだとか:

鐘楼の釣鐘は加藤清正が朝鮮から持ち帰ってきたものを献上したもの

鐘楼

そして唐門をくぐり、受付で拝観料を支払って書院を経由して本堂へ。これ以降は写真撮影は禁止。

本堂前の端には利休66歳の時に作庭した「直中庭」があった。これは秀吉のたっての希望で瓢箪[v]千成びょうたんは秀吉の馬印として知られる。を象った池を手前に配置し、不動三尊石を正面に、そして清正が朝鮮から持ち帰った灯籠を配した苔一面の池泉枯山水庭園である。

そして本堂前から禅寺の風情を醸し出す破頭庭《はとうてい》を鑑賞した。これは半分を白川砂、もう半分を柱石で区切り苔を配して観音・勢至の二石でまとめた簡素な庭である。このような庭を見ていると、なぜか正座して背筋が自然と伸びてしまうのが不思議である。

See Also蒲生氏郷公墓所他と黄梅院 (フォト集)

大徳寺塔頭・黄梅院
京都市北区紫野大徳寺町83-1

【参考情報】

紫野大徳寺塔頭・興臨院

そして最後に拝観した特別公開の塔頭が興臨院。ほとんど成り行きだったけど[w]ここの前に拝観した黄梅院で興臨院と抱き合わせで拝観料を払ったため。。大永年間(1521〜1528)に能登国の守護である畠山左衛門佐義総《はたけやま・さえもんのすけ・よしふさ》が創建し、その法名が寺号となっている。能登・畠山氏が衰退後は、信長の重臣で、豊臣政権で五大老を務めた前田利家が天正9(1581)年に本堂屋根の葺き替えを支援するなどして畠山家に加えて加賀前田家の菩提寺となったらしい。境内には畠山家歴代の墓所がある(非公開)。拝観料は600円(当時)。創建当時の姿で残る表門は檜皮葺きの唐門で国指定重要文化財:

とても珍しい檜皮葺の平唐門

興臨院の表門(重要文化財)

表門をくぐり本堂へ向かう正面に唐門(国指定重要文化財)、そして右手にあるのが庫裡:

左手奥にあるのが方丈玄関の唐門

唐門と庫裡

玄関にあたる唐門に入った先には禅宗の建築様式として知られる花頭窓《かとうまど》があり、そこから方丈庭園を眺めることができた:

客待の花頭窓などは禅宗の建築様式のひとつ

花頭窓から眺めた方丈庭園

下駄履きに靴を預けて本堂へ向かうと正面にあるのが白砂と石組を基本とした方丈庭園が出現する。この庭は方丈の解体修理の完成時に史料を基に復元されたもの:

理想の蓬莱世界を表現した枯山水

方丈庭園

理想の蓬莱世界を表現した枯山水

方丈庭園

本堂。往時の本堂は創建直後に焼失し、天文2(1533)年に再建されたもので、のちに前田利家が屋根を修復した:

前田利家によって屋根の葺き替えが行われた

本堂(重要文化財)

方丈内の室中の上部が響き天井となっており、天井の真下で手を叩くとよく響くが、人が天井の下に集まると少しも響かない効果があるのだとか。

そして本堂脇の庭は見事な紅葉だった。まさに心が落ち着く風景である:

見事に色づいた紅葉

こちらは庫裡の中から眺めた参道の紅葉:

庫裡の中から見事な紅葉を眺めたところ

庫裡の玄関と紅葉

なお加賀前田家の菩提寺は、この大徳寺には他に芳春院《ほうしゅんいん》がある。

See Also加賀前田家菩提寺の興臨院 (フォト集)

大徳寺塔頭・興臨院
京都市北区紫野大徳寺町80

【参考情報】

紫野大徳寺とその他の塔頭

五年前に初めて訪れた時は基本的に「塔頭は非公開で拝観謝絶である」と云うことを知らなかったので、全ての塔頭を見て回る気持ちにはなれず残念な思いをしたが、今回は特別公開の期間であったので、お目当ての総見院や黄梅院、そして興臨院の他に、いくつかの塔頭は表門ギリギリまで入って眺めてきた。しかしながら大部分はやはりそれ以上は立ち入ることもできなかった[x]実は龍光院に間違って立ち入ってしまい関係者から注意されてしまった。『拝観謝絶』って立札ないし門が開いていたのでてっきり中まで入れるのかと思ったのだが :-( 。俗世の感覚は通用しないと思った方が良い。あと、お金払って参拝しても写真撮影禁止ってのが多かった :(

まずは総門をくぐってすぐ右手に建っていた「大徳寺山内図」。初めての人は、これがないと迷ってしまうだろう:

(この図に拝観が可能かどうかを記載してもらうと余計な気を使わなくてもよいのだが)

「大徳寺山内図」(拡大版)

こちらが大徳寺の総門。車の乗り入れは原則禁止は分かるが、時間帯によっては犬を散歩させることは可能だという感覚が理解できん:O:

最盛期には末寺が280余、塔頭は130余を数える寺領を有していた

総門

ここ大徳寺は、鎌倉時代末期の正和4(1315)年に宗峰妙超《しょうほう・みょうちょう》禅師が開基した臨済宗大徳寺派大本山で、現在も市内で有数の規模を誇る。室町時代には「一休さん」の呼び名で親しまれた一休宗純《いっきゅう・そうじゅん》をはじめとする名僧を輩出した。

山内図の脇にあるのが国指定重要文化財である勅使門《ちょくしもん》。慶長時代の京都御所の門を移築したもの:

江戸時代に京都御所にあった門をここに移築した

勅使門(国指定重要文化財)

この勅使門から大徳寺の宗務本所《しゅうむ・ほんじょ》まで重要文化財の建築物が一直線に並んでいる。

こちらは一際目立つ山門(三門)。現在は二層二階の門であるが、創建当初は一階建。天正17(1589)年に千利休が上層を建てて金毛閣《きんもうかく》と名づけた:

雪駄をはいた千利休の木像が安置されたことが利休切腹の一因となった

山門(国指定重要文化財)

この時、門の二階には雪駄を履いた千利休の木像が安置されたが、これが秀吉の怒りを買い、二年後の利休切腹の一因となったと云う。

山門の奥にあるのが仏殿。寛文5(1665)年に再建されたもの。手前右手から大きく延びているのは「大徳寺のイブキ(市指定天然記念物)」と云う高木で、仏殿が再建された当時に植栽されたと云う:

天井画を描いたのは妙覚寺に墓所がある狩野元信

仏殿(国指定重要文化財)

仏殿の奥にあるのが法堂《はっとう》。寛永13(1665)年の建立:

当時は何かの儀式があって立ち入ることができなかった

法堂(国指定重要文化財)

そして法堂と廊下で繋がっている先が大徳寺の宗務本所《しゅうむ・ほんじょ》。いわゆる本坊[y]大寺院の僧房の一つで、その寺の寺務を取り仕切っている。

当時は拝観謝絶

宗務本所の表門

そして本所の裏へ回って他の塔頭を巡ってきた。まずは大仙院。永正6(1509)年に近江国の守護大名・六角近江守政頼《ろっかく・おうみのかみ・まさより》を開祖として創建された。ここは常時公開の塔頭の一つ:

本堂内部の床の間と玄関は日本最古の方丈建築物で、常時公開の塔頭

大仙院の表門

隣にあるのが真珠庵。永享年間(1429〜1441)に一休宗純(一休さん)を開祖として創建されたが、応仁の乱で焼失し、延徳3(1491)年に堺の豪商・尾和宗臨《おわ・そうりん》によって再建された。通常は非公開だが、今回は特別公開されていた:

本堂内部の障壁画は長谷川等伯の作とされる

真珠庵の表門

芳春院《ほうしゅんいん》の参道を歩いていると左手にあったのが如意庵。こちらは昭和の時代に再建されたらしい。常時非公開:

常時非公開で拝観謝絶の塔頭

如意庵の表門

その隣にあるのが龍泉庵。明治初めの廃仏毀釈で一度廃絶したが昭和の時代に復興された。常時非公開:

常時非公開で拝観謝絶の塔頭

龍泉庵の表門

こちらが大徳寺境内でもっとも北にある芳春院。慶長13(1608)年に加賀国の前田利家の正妻・芳春院が建立したものだが、寛政8(1796)年に焼失し再興されるも、廃仏毀釈で荒廃したのち明治8(1875)年に復興された。加賀前田家の菩提寺の一つとされ、芳春院と前田利長・前田利常の御霊屋がある。常時非公開:

寺号は前田利家の正妻・まつの法号を由来とし、常時非公開で拝観謝絶

芳春院の表門

次は再び興臨院・黄梅院がある参道へ。これは天正17(1589)年に浅野幸長・石田三成・森忠政が創建した三玄院《さんげんいん》。石田三成・森忠政・古田織部らの墓所がある。常時非公開:

常時非公開で拝観謝絶の塔頭

三玄院の表門

隣りにあるのが正受院《しょうじゅいん》。常時非公開:

常時非公開で拝観謝絶の塔頭

正受院の表門

黄梅院の隣りにあるのが大徳寺で一番古い龍源院《りょうげんいん》。ここは五年前にも一度訪問している通年公開の塔頭:

(五年前に訪問しているので今回は参詣せず)

龍源院の表門

その目の前にあるのが徳禅寺《とくぜんじ》。応仁の乱で焼失した禅寺を一休宗純がここに再建した。常時非公開:

常時非公開で拝観謝絶の塔頭

徳禅寺の表門

その隣にあるが養徳院《ようとくいん》。室町幕府3代将軍・足利義満の弟・満詮《みつあきら》の建立。常時非公開:

常時非公開で拝観謝絶の塔頭

養徳院の表門

大友宗麟が建立した瑞峯院《ずいほういん》は通年公開の塔頭の一つ。提灯には大友家の「抱き杏葉《ぎょうよう》」紋が描かれていた:

豊後国の戦国大名である大友宗麟の建立で、通常公開の塔頭

瑞峯院の表門

そして隣にあるのが大慈院《だいじいん》。ここは立花宗茂公の墓所がある。常時非公開だが、境内にある精進料理の店には入れるようだ:

常時非公開で拝観謝絶の塔頭であるが境内の店には入れた

大慈院の表門

立花宗茂と茶匠・藤村庸軒《ふじむら・ようけん》の菩提寺である

大慈院の本堂

こちらは塔頭ではないけど近衞家廟所。常時非公開:

五摂家筆頭の墓所には宝篋印塔が整然と並べられているのだとか

近衞家廟所

五年前にも参詣していきた通年公開の塔頭の一つ高桐院。なんと当時はCOVID-19蔓延のため拝観休止中であった:

大判の切石が敷かれ両脇に赤松の列植が続くのは五年前と同じ

高桐院の参道

違うのはCOVID-19の影響で拝観できなかったこと

拝観停止中

高桐院のお隣が玉林院。ここには尼子家臣の山中鹿介の位牌があるのだとか。常時非公開であるが境内にある児童福祉施設には入れる:

常時非公開で拝観謝絶であるが児童福祉施設には立ち入り可

玉林院の表門

こちらは龍光院《りゅうこういん》。黒田長政が父である黒田如水の追善供養のために建立している。檜皮葺きの平唐門である表門は兜門とも呼ばれ重要文化財。提灯には黒田家の「藤巴《ふじどもえ》」紋が描かれていた。常時非公開:

常時非公開で拝観謝絶の塔頭だが間違って入ってしまった

龍光院の表門(兜門)

最後は梶井門。太閤秀吉が文禄・慶長の役を始める前に朝鮮国からの外交使節団を滞在させた場所:

大徳寺派朝鮮通信使ゆかりの地とされている

大徳寺の梶井門

See Also大徳寺散策(2) (フォト集)

大徳寺
京都府京都市北区紫野大徳寺町53

【参考情報】

妙覺寺

現在の妙覺寺が建つ場所は、往時に織田信長や信忠らが宿所として逗留していた場所[z]旧名は二条衣棚《にじょう・ころものだな》。現在の京都市中京区古城町あたりで、「上妙覚寺町」など地名として残っている。本䏻寺から北東にあたる。(以下、旧妙覺寺)ではなく、天正11(1583)年に豊臣秀吉の洛中整理命によって移建されたところである。

日蓮宗の本山(由緒寺院)であり、京都日蓮宗名刹三具山および京都十六本山の一つで、開山は竜華院日実上人《りゅうげいん・にちじつ・じょうにん》。旧妙覺寺は戦国時代初期に焼失、その後に再建された。往時、美濃国の戦国大名で、信長の舅にあたる斎藤山城守道三《さいとう・やましろのかみ・どうさん》との関係が深く、彼の四男で信長の義弟にあたる日饒《にちじょう》は妙覺寺19世住職である。これが信長の宿所となった由縁であり、20数度の上洛のうち旧妙覺寺に逗留したのは18回に及ぶ。本䏻寺の変時に逗留していた信忠は防御施設がほとんどない旧妙覺寺ではなく、その東にあった二条御所に籠城したと伝わることから、旧妙覺寺そのものは焼失を免れたとされる説が有力である。

現在の妙覺寺は、天明8(1788)年に発生した天明の大火により焼失するが、その後に再建されたもの。

こちらは境内案内図:

五年前は祖師堂が工事中で拝観することができなかった

「妙覺寺境内案内図」(拡大版)

これは京都府指定有形文化財である大門:

この門は聚楽第の裏門を移したと伝えられている

大門

寺伝によると、秀吉が天正18(1590)年に移設した聚楽第《じゅらくだい》の裏門を寛文3(1663)年に移築したものと云われる。

そのため潜戸《くぐりど》は城門によく見られる両潜《りょうくぐり》扉を持っている:

城門特有の両潜扉《りょうくぐりとびら》になっていた

大門の潜戸(表側)

城門特有の両潜扉《りょうくぐりとびら》になっていた

大門の潜戸(裏側)

さらに梁の上には伏兵を配置できる空間が設けられている:

ここには伏兵が潜めるように空虚が設けられていた

天井の梁

こちらが境内:

左手には本堂・大玄関・方丈、正面が祖師堂

境内

こちらも府指定有形文化財の祖師堂。五年前に来た時は工事中ですっぽりネットが被されていたので拝見できなかった:

五年前に来た時は工事中のためネットがかけられて拝見できなかった

祖師堂(拡大版)

寺務所と方丈《ほうじょう》、そして大玄関《おおげんかん》。この背後には書院・奥書院があり、大玄関の奥に屋根だけ見えるのが本堂:

当時は秋季昼夜特別拝観(有料)が開催されていた

寺務所・方丈と大玄関

大玄関から少しだけ中庭を覗くことができた:

当時は秋季昼夜特別拝観(有料)が開催されていた

大玄関

当時は秋季昼夜特別拝観(有料)が開催されていた

大玄関から望む中庭(拡大版)

少しだけ屋根が見えた本堂。旧妙覺寺の本堂が信長の常宿だったと云う。さらに現在の妙覺寺には伊達政宗も投宿したらしい:

信長公の常宿とされている

本堂の屋根

こちらは唐門。この奥に法姿園《ほうしえん》があり、その先に本堂がある:

この先に法姿園、そして本堂がある

唐門

元信は室町時代の絵師で狩野派の祖・狩野正信の子(狩野派二代目)

「狩野元信之墓」の碑

門前には「狩野元信《かのう・もとのぶ》の墓」と刻まれた石碑があったが、彼の一族の墓所は境内の外にある。元信は室町時代の絵師で、狩野派の祖・正信の子。狩野派の画風を大成し、近世における狩野派繁栄の礎を築いたと云う[aa]本稿執筆中に「”新しい足利義満像”示す新たな肖像画を発見」なるニュースを見た。その肖像画は狩野元信の一派によって描かれたとする説が有力なのだとか。「つぼ」の形をした印がトレードマークらしい。

See Also日蓮宗・妙覺寺巡り (フォト集)

妙覺寺
京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135

【参考情報】

崇福寺

崇福寺《そうふくじ》は今回の大徳寺散策とは直接は関係はないが、三年前に岐阜城を攻めたあと長良川を渡ったところにある道三塚へ向かう途中に参詣してきた。この臨済宗妙心寺派の寺院(寺号は神護山)には織田信長・信忠父子の位牌が安置された廟所がある:

「織田信長公霊廟所」の他にも貴重な史料を有料で拝観できた

神護山・崇福寺

創建は文明元(1469)年で美濃国の守護代・斎藤利安《さいとう・としやす》[ab]長弘とも。孫には明智日向守光秀の重臣となった斎藤利三がいる。。開山は尾張出身の独秀乾才《どくしゅう・けんさい》禅師で、のちに紫野・大徳寺第66世となった他、本䏻寺の近くにあった妙心寺にも在住していたのだと云う。そして、三世は有名な快川紹喜《かいせん・じょうき》禅師。のちに甲斐国の守護・武田信玄の招請に応じて恵林寺《えりんじ》に任し、武田氏滅亡後の天正10(1582)年に「案禅必ずしも山水をもちひず、心頭滅却せば、火自ずと涼し」と云う辞世を遺した傑僧である。

山門をくぐって境内にはいると本堂、庫裡、そして鐘楼が見えてくる。信長父子の廟所は本堂の裏手にある:

左手奥が本堂、右手の建物が庫裡、右手の手前には鐘楼がある

境内

右手には、その昔は西美濃三人衆の一人で、のちに信長の家臣となった稲葉一鉄が寄贈した梵鐘[ac]元和元(1615)年に改鋳されたため現存していない。を掲げていた鐘楼がある:

稲葉一徹ゆかりの鐘楼

鐘楼

一鉄寄贈の梵鐘は江戸時代に改鋳されたため現存していない

現代の梵鐘

こちらは関白・一条兼良《いちじょう・かねよし》卿寄贈の中門(現存)と土塀。斎藤利安の兄・利藤とその子・利国は関白一条家とのつながりが強かったらしい:

岐阜守護代の斎藤利藤と一条家とは縁が深い

中門と土塀

信長父子の廟所を拝観するため庫裡にある受付へ向かい拝観料200円(当時)を支払ってから、本堂前の扉をくぐり本堂脇を通って廟所へ:

ここから入って本堂脇を通って裏に廟所へ向かう(無断立入禁止)

墓所入口

本堂裏にある信長父子の廟所入口

廟所入口

廟所に入って正面にあるのが織田信長公と織田信忠公の墓碑。高さは139cm、幅39cm、厚さ30cmの墓碑は位牌型をしていた:

織田信長父子廟にある位牌形をした墓標は市指定史跡である

織田信長父子の墓碑

墓碑には縦二列に父子の法名が刻まれていた:

右手が信長公、左手が信忠公の法名

父子の法名が刻まれた墓碑


(墓碑右側)   摠見院殿贈一品大相刻圀泰岩大居士  <織田信長公>

(墓碑左側)   大雲院殿三品羽林高岩大禅定門 <織田信忠公>

そして廟所の東側にある土壇上には、格子塀で囲まれた宝形銅葺屋根《ほうぎょう・どうぶきやね》木造彩色の位牌堂が建っており、その中には秀吉によって京都紫野の大徳寺・総見院で執り行われた葬儀で使われた位牌が安置されているのだとか:

宝形胴葺屋根木造彩色の小堂に父子の位牌が安置されている

位牌堂

最後はJR岐阜駅北口前に立つ黄金の信長像:

岐阜市制120周年を記念して平成21(2009)年に建立された信長公像は南蛮マントを羽織り種子島と西洋兜を持っていた

黄金に輝く信長公像(拡大版)

See Also崇福寺の織田信長公父子廟 (フォト集)

崇福寺
岐阜県長良福光2403-1

【参考情報】

参照

参照
a これは旧暦。新暦で計算すると1582年6月20日で時刻は午後10時頃。
b 現在の京都府亀岡市荒塚町近辺。
c 本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本稿でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。
d 慶長(1598)年に成立した織田信長の一代記。信長を研究する上での根本史料である。
e 勿論、現代語訳である。
f 公家の山科言経が記録した日記。
g 公卿で京都吉田神社の神主である吉田兼見《よしだ・かねみ》の日記。
h 興福寺多聞院主・多聞院英俊らが書き継いだ日記。
i 勧修寺晴豊の日記。別名は『天正十年夏記』。
j 本願寺顕如の右筆を務めた宇野主水の日記。
k 正親町天皇に仕えた女官の日記。
l 右大臣・織田信長公のこと。
m 出発前日には大阪府で過去最多の感染者数が報告されていた。
n 仏教寺院・仏像・経巻を破棄し、仏教を廃すことを意味する。神道国家である日本でも大政奉還後に解釈を捻じ曲げ暴走した民衆によって仏教施設が次々と破壊された。
o なのでガイドの方の手慣れた説明には年季が入っていた :-)
p その後、右府公の行く手を阻んだ森乱丸こと森成利《もり・なりとし》を討ち取った。
q さらに、右府公の亡骸が発見されなかったことで、後世には多くの(そしてミステリアスな)憶測が生まれた。
r 秀吉には「秀勝」という名の養子が三人いた。石丸秀勝は秀吉が長浜時代にもうけた実子、豊臣秀勝は秀吉の甥でのちに養子となった。
s これまで一般に長女とされていたが、後年の研究では次女であったとする説が濃厚。そして、これまで次女とされた相応院が長女で、蒲生氏郷公に嫁いているが両人の墓碑は黄梅院にある。
t 帰蝶とも。「美濃からきた姫」から濃姫と呼ばれており本名ではない。
u 義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。
v 千成びょうたんは秀吉の馬印として知られる。
w ここの前に拝観した黄梅院で興臨院と抱き合わせで拝観料を払ったため。
x 実は龍光院に間違って立ち入ってしまい関係者から注意されてしまった。『拝観謝絶』って立札ないし門が開いていたのでてっきり中まで入れるのかと思ったのだが :-( 。俗世の感覚は通用しないと思った方が良い。
y 大寺院の僧房の一つで、その寺の寺務を取り仕切っている。
z 旧名は二条衣棚《にじょう・ころものだな》。現在の京都市中京区古城町あたりで、「上妙覚寺町」など地名として残っている。本䏻寺から北東にあたる。
aa 本稿執筆中に「”新しい足利義満像”示す新たな肖像画を発見」なるニュースを見た。その肖像画は狩野元信の一派によって描かれたとする説が有力なのだとか。「つぼ」の形をした印がトレードマークらしい。
ab 長弘とも。孫には明智日向守光秀の重臣となった斎藤利三がいる。
ac 元和元(1615)年に改鋳されたため現存していない。