郭が直線的に並んだ佐野城の本丸は二の丸と深い堀切で区切られていた

栃木県佐野市若松町504にある城山公園は、慶長7(1602)年に佐野藩が徳川家康の意向を受けて居城・唐澤山城を廃し、それにともなって新たに築いた佐野城跡にあたる。この城は秋山川東岸の独立丘陵を利用した連郭式の平山城で、南から三の丸、二の丸、本丸、そして北出丸《きた・でまる》といった郭《くるわ》を直線上に配し、それぞれ郭の間は空堀で区切り[a]これが堀切の由縁。、外郭には惣堀(水堀)を巡らせていたと云う。主郭部の規模は東西110m、南北390mを有し、築いた場所が下野国の春日岡《かすがおか》にあった惣宗寺《そうしゅうじ》[b]天台宗の寺院で開基は藤原秀郷《ふじわらのひでさと》。一般には佐野厄よけ大師の通称で知られる。の跡地であったことから春日岡城とも。藩主の佐野信吉《さの・のぶよし》は下野佐野氏の居城として相応しい近代城郭として完成させる予定であったが、築城から七年後の慶長19(1614)年に信吉は所領を没収されて改易となり、築城半ばで完成を見ることなく廃城となった。それから350年以上たった昭和63(1988)年から十年をかけて発掘調査が行われ、本丸跡から石畳の通路や石垣が検出された。現在の佐野城跡は区画整理などにより惣濠[c]内濠、外濠、その他の濠の総称。佐野城はともに水濠《みずぼり》。は消滅しているものの市指定文化財となっている。

今となっては一昨々年《さきおととし》は平成28(2016)年の霜降《そうこう》を過ぎた頃、少し肌寒いけど冬の訪れはまだ先かなぁという週末に栃木県にある城跡を二つ攻めてきた。午前中は未完の城・佐野城跡へ。早朝から移動し大宮、久喜、そして館林を経由して栃木県佐野市にある佐野駅についたのが朝10時前。片道3時間近くかかったが、城跡は駅と直結した公園なので幾分かは楽だったかな :)

こちらが佐野駅のコンコースから城跡がある城山公園口を見たところで、目の前は三の丸跡である:

佐野駅はJR両毛線と東武鉄道佐野線が乗り入れする

城山公園口

そして Google Earth 3D を利用して城山公園周辺図に縄張図(推定)を重畳したものが、こちら(赤色破線は堀切):

主な遺構は城山公園の中と佐野厄よけ大師にある

城跡周辺図(Google Earthより)

公園が実城にあたり、宅地化で消滅した惣濠跡は道路が示している

推定縄張図

本丸や二の丸などに相当する実城跡は明治の時代に公園化され、昭和の時代には発掘調査も行われて、既に消滅している内濠と外濠、そして小規模な濠が発見された。城攻め当時の園内には遊具や万葉の里・城山記念館なる施設があり、公園の外周を走る道路が内濠跡、外郭部は城が完成していれば城下町になっていたであろうと予想できる平坦地が現在は中学校や住宅地になっていた。さらに外側の外濠については廃城時は残っていたようで、のちの区画整理によって埋められたらしいが、近辺を歩いてみると水路としてその面影が残っていた。また城内にあった門が、近くにある佐野厄よけ大師の山門として移築されている。あと城の北端にあたる北出丸跡からは、前の居城である唐澤山城跡を眺めることができた。

こちらは園内の「佐野市指定史跡・名勝・佐野城跡」なる説明板には発掘調査で判明した遺構についての詳しい説明があるので、城攻め前に読んでおくことをオススメする:

独立丘陵を利用した連郭式平山城になるはずだった

「佐野城跡」説明板(一部)

まずは三の丸跡:

正面が佐野駅の「城山公園口」

三の丸跡

発掘調査で、駅舎が建つ三の丸南側からは石垣ではなく硬い岩盤を削り取って急峻な崖と削平地を作り出した切岸《きりぎし》が発見された。この時、切岸に沿って内濠の存在が確認されたらしい。推定で切岸上面と堀底までの高さは4mほど、さらに4mほど盛土して削平し三の丸を築いたとのこと。

また三の丸南側では地表下1.5mの深さから石組の井戸跡が発見された。現在は埋没保存されている。

三の丸跡に建つ鐘つき堂。城址との関係は不明:

梵鐘は無く、ベンチが設けられていた

鐘つき堂

そして掘り切り跡の道路を横切って二の丸跡へ向かった:

この道路を境に奥が三の丸跡、手前が二の丸跡

堀切跡

城址の碑が建っている場所が二の丸虎口跡:

ここから先が二の丸跡で、枡形虎口であったろうと推測されている

「史跡・佐野城址」の碑

二の丸跡は大部分が公園として整備されており、「万葉の里」なる記念館が建っていた:

佐野城の歴史や発掘調査で出土した遺構が展示されていた

「万葉の里」城山記念館

ここに佐野城の発掘調査についてパネル展示もあった(無料)

常設展示室

この建物は城山公園整備事業の一環として平成5(1993)年に建てられ、常設展示室には城山こと佐野城の歴史や発掘調査で出土した遺構の一部が展示されていた。

記念館の前に広がる二の丸跡と、公園の端から内濠跡の道路を見下ろしたところ:

奥には堀切があって、その先本丸跡、左手は内濠跡に落ち込んだ急崖

二の丸跡

公園下の道路は内堀跡である

内濠跡

そして本丸と二の丸の間にある堀切跡:

左奥が本丸、右手前が二の丸で、現在は土橋ならぬ石橋があった

堀切跡

こちらは堀底跡におりたところ。現在、堀底は遊歩道になっていた:

左手上が本丸、右手上が二の丸(正面が公園の石橋)

堀切跡

発掘調査では、奥に見える石橋近くで東西・南北にはしる石組の溝が発見されたと云う。その一部はクランク状に折れ曲がっていたことから、城内は排水機構が整備されていたと考えられている。

そして本丸跡。本丸は昭和から平成の時代にかけて佐野市による発掘調査が実施された:

本丸の中央部からは礎石建物の跡が発見された

本丸跡

まず本丸の中央部からは建物跡が発見された。柱を支える礎石《そせき》が等間隔で整然と並べられていたことから、南北四間・東西六間以上[d]南北7m、東西10m以上。の規模であったと推測され、主殿またはそれに付属する建物であっと考えられている。また周辺からは桐紋の棟込瓦《むなごみ・がわら》が多数、出土している。当時の佐野家は豊臣家との深いつながりがあったことが伺える。

佐野城を築城した佐野信吉《さの・のぶよし》は関白秀吉の奉行衆の一人・富田一白《とみた・いっぱく》の子で、のちに佐野房綱《さの・ふさつな》[e]号して佐野了伯《さの・りょうはく》。の娘婿で養嗣子となって下野佐野氏の家督を継いだ。ちなみに房綱の兄は、唐澤山城を居城として小田原北條氏、越後上杉氏といった有力大名らと渡り合った戦上手の第15代当主・佐野昌綱《さの・まさつな》である。

時代が徳川の治世に移ると幕府の命で、難攻不落でのちに関東七名城の一つに謳われた唐澤山城を廃し、佐野城の築城を始めることとなったが、その理由は慶長19(1614)年に江戸で起った火事を唐澤山城から発見し、急ぎ江戸へ向かって消火活動で活躍したことが関係していると云われている。この豊臣家に近い大名が江戸の状況をつぶさに知ることができる場所を居城としていたことが御公儀から危険視されたからと推測される。

信吉は、さらに実兄で伊予宇和島藩初代藩主の富田信高《とみた・のぶたか》の改易に連座する形で、自らも佐野藩を改易された[f]8年後に赦免されたものの、同年に没した。。この結果、佐野城は未完のまま廃城となった。


そして本丸の東側からは地表下1.5mほどの地点から、両端に石垣が設けられた通路と井戸跡が発見された:

実際の遺構は埋没保存されており、これは復元したもの

本丸の石畳と石垣(復元)

城跡から発見された石畳(佐野市教育委員会より)

石畳(拡大版)

この通路には石畳が敷き詰められ、本丸中央にあった主殿に向かって階段が続いていたと云う。また石畳には側溝が設けられ、排水機構を備えていたと考えられている。なお、実際の遺構は埋め戻されており、これらは復元である。

そして本丸の北側にある堀切。堀切の向こう側が北出丸跡である:

左手が本丸跡、右手が北出丸跡

本丸と北出丸の間の堀切

堀底は遊歩道になっていた

本丸と北出丸の間の堀切

但し、堀底は埋められて遊歩道化していた:

堀底は埋められて遊歩道になっていた

本丸と北出丸間の堀切

公園化された現在は土橋ならぬコンクリート製の橋を渡って北出丸跡へ移動する:

本丸跡から眺めた北出丸(鐘の丸)跡

土橋跡

こちらが北出丸(または鐘の丸)跡:

独立丘陵の最北端に位置する出丸

北出丸(鐘の丸)跡

北出丸には搦手口がある:

中央奥の階段から下りるルートが搦手道

搦手口跡

また北西端は隅櫓跡らしい:

佐野城の北端に位置する場所に櫓が建っていたと云う

隅櫓跡

右手下は急崖であり、現在でも眺望は悪くない

隅櫓跡(コメント付き)

北出丸の三方は急崖になっており、予想外に眺望が良かった。逆に安全のために手すりが必要なのではと思ってしまった:

ちょうど下に見える道路が内濠跡に相当する

北出丸跡の下

こちらが、その北出丸跡の北端からの眺望。方位としては唐澤山城跡を眺める感じ:

上杉謙信も落とせなかった唐澤山城を廃し、新たにここ佐野城を築いたのは江戸幕府に遠慮したからとされる

唐澤山城跡方面の眺め(拡大版)

搦手口から内堀跡の道路へ下りる。急峻な切岸は公園化によって大きく改変されていたが、道路は往時の内濠を埋め、それに沿って敷かれているためクネクネと曲がっている:

堀切下より見上げた西側斜面の上には搦手口がある

搦手道跡

急崖の切岸は公園・都市化で改変され、堀跡に沿って道路が敷かれていた

道路は内濠跡

現在は中学校の敷地になっている城址東側は、往時は城下町として町割りが行われていたと想像する。学校への道は内濠跡にあたる:

現在は佐野市立城東中学校の敷地になっている

城址東側

中学校の東側には外濠があったとされる。現在は全て埋められているが、地形的に土手や水路は往時の姿(土塁や惣濠)を連想できるものが残っていた:

比高5mほどの土手が往時の外堀の名残であった

土塁跡

小さい水路は往時の外堀の名残であった

水路

このあとは佐野駅の南口へ向かい、佐野城の門が移築されていると伝わる佐野厄よけ大師へ。

こちらは殿町通り。その由縁は佐野信吉が佐野城を築いた際に城の西を通っていた山中《やまなか》道である:

城山の西を通る山中道は殿町通りと呼ばれている

殿町通り

佐野城が廃城となったあと、もともと建っていた惣宗寺(現在は佐野厄よけ大師)に門が移築された:

現在は佐野厄け大師の山門となっている

佐野城の移築門

現在は佐野厄除大師の山門となっている

佐野城の移築門

以上で「未完の」佐野城攻めは終了。

See Also佐野城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

a これが堀切の由縁。
b 天台宗の寺院で開基は藤原秀郷《ふじわらのひでさと》。一般には佐野厄よけ大師の通称で知られる。
c 内濠、外濠、その他の濠の総称。佐野城はともに水濠《みずぼり》。
d 南北7m、東西10m以上。
e 号して佐野了伯《さの・りょうはく》。
f 8年後に赦免されたものの、同年に没した。