新田金山城の水ノ手曲輪へ入る大手虎口は象徴的かつ一大防御拠点だった

新田金山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。は太田金山城または単に金山城と呼ばれ、室町時代後期の文明元(1469)年に岩松家純《いわまつ・いえずみ》[b]岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。が築いたのが始まりとされる。そして「下克上」が日ノ本での社会的風潮となった戦国時代初期は享禄元(1528)年に、岩松氏の筆頭家老であった由良成繁《ゆら・なるしげ》[c]はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。が主君を自害に追い込んで主家を乗っ取ると同時に新田金山城主の座についた。この城は、なだらかな平地にコブのように突き出た独立峰の金山山頂から樹根状に広がった尾根部を中心に縄張された山城であり、山頂部の実城、北方の北城、西方の西城、そして南方の八王子砦がそれぞれ大小の堀切によって分断されていた。古文書や発掘調査によると段階的に拡張されたとみられ、戦国時代の上野《こうずけ》の地にあって越後上杉氏、甲斐武田氏、相模北條氏といった有力大名らの抗争の狭間で改修と拡張を重ねていった結果と考えられている。現在、群馬県太田市金山町40-98にて復元整備されている金山城跡は昭和9(1934)年に国の史跡に指定され、堀切や土塁、そして石垣など中世の城郭としての遺構がよく残されている。

今となっては一昨々年《さきおととし》は平成28(2016)年の晩夏の頃、台風と秋雨前線によって週末はきまって愚図ついた天気であったが、そんな中で天気が良さそうだった群馬県太田市にある百名城の一つ、新田金山城を攻めてきた。

朝10時少し前に東武伊勢崎線・太田駅に到着、駅の北口にある太田市観光案内所にて『史跡・金山城跡』や『金山ハイキングガイド』などを入手し、城跡へのアクセス方法についていろいろ教えてもらった。この時間帯であれば駅前からタクシーで金山総合公園・モータープール(展望駐車場)まで行くのがベストと判断して早速タクシー乗り場へ。ちなみに帰りはハイキングガイドに従って実城から下山し、麓にある史跡金山城跡ガイダンス施設、そして新田義貞《にった・よしさだ》公と歴代城主である由良・横瀬一族の五輪塔がある金龍寺に立ち寄って、そのまま徒歩で太田駅へ戻ってきた。

こちらは県道R321から眺めた新田金山城跡がある金山の遠景:

県道R321から正面の丘陵が金山城(実城)跡

新田金山城の遠景

そして10分ほどでモータプールなる展望駐車場へ到着:

R321からドライブウェーを登った先にあるデートスポット(展望台)らしい

金山総合公園・モータープール

こちらは Google Earth 3D を利用した新田金山城跡の実城《みじょう》+西城《にしじょう》を中心としたエリアの俯瞰図に、リーフレット『史跡・金山城跡』(リンクはPDF)記載の遺構の位置や現在の施設などを重畳したもの(一部推測あり):

上が北方向で、下が南方向の金山周辺の俯瞰図で、図外には南方向に金龍寺、スバルの工場、そして太田駅がある

城跡周辺の俯瞰図(Google Earthより)

「展望駐車場」が金山総合公園・モータープールで、城攻めは西城跡から北東の実城跡へ進んだ

城跡周辺の俯瞰図(コメント付き)

現地にある案内板はもちろん、観光案内所で入手可能なリーフレットや『国指定史跡・金山城跡』(リンクはPDF)なる資料は金山城とその遺構についてとても図解で解説してくれているので、広大な城域ながら迷うこともなく、しっかり城攻めを堪能できた。是非とも太田市のホームページから入手し予習しておくことをオススメする:)

今回の城攻めルートは次のとおり:

(展望駐車場/金山総合公園・モータープール) → 西城筋違城門跡 → 見附出丸跡 → 平場(郭跡) → ・・・ → 西城跡 → (総合案内板) → 旧通路跡 → 西矢倉台西堀切 → 西矢倉台下堀切 → 西矢倉台跡 → 西矢倉台通路跡 → 物見台下堀切 → 馬場下通路跡 → 物見台跡 → 馬場跡 → 馬場曲輪跡 → 馬場下曲輪跡 → 月ノ池 → 大手虎口跡 → 大手虎口北下段曲輪跡 → 大手虎口南上段曲輪跡 → 水ノ手曲輪跡 → 日ノ池 → (三ノ丸跡) → 南曲輪跡 → (休憩所) → 御臺所曲輪跡 → 実城(本丸)/天主曲輪跡 → 天主曲輪裏馬場跡 → 天主曲輪石垣 → (二ノ丸跡) → ・・・ → (新田神社参道) → 腰曲輪跡 → 南木戸石垣 → ・・・ → 大手口石垣 → 桜ノ井戸 → (史跡金山城跡ガイダンス施設) →  ・・・ → 金龍寺 → ・・・ → (元祖呑龍 山田屋本店) → (太田駅)


まず駐車場を出て城域に入ると目の前にあるのが西城(奥)と見附出丸(手前)との間にある喰違い虎口の西城筋違《にしじょう・すじちがい》城門跡。奥の北土塁と手前の南土塁には堀(二重堀)があり、土橋が筋違いの形で残っていた[d]南土塁と北土塁を筋違いに配置して、ここに南からの通路を屈曲させて通し、容易には寄せ手の侵入を許さない構造になっている。

この先にある西城への食い違い虎口で土塁には石垣が残っていた

西城筋違城門跡

奥にある北土塁の前には見附塹壕《みつけざんごう》と呼ばれる堀跡と石垣が残っていた。但し、手前の南土塁には、発掘調査の結果、石垣はなく厚く堆積した砂層の上に盛土したものらしい:

土橋から見た西城筋違城門の北側土塁前に残る堀跡

見附塹壕跡

土塁の上部に鉢巻石垣が施されている

北側土塁の石垣

このあとは実城側の西城跡ではなく、逆方向の城址西端へ。

ここは見附出丸《みつけ・でまる》跡。緩やかな坂をもつ削平地で、往時は武者溜まりであった可能性がある:

上州金山城の西側を守る最前線な郭

見附出丸跡

さらに西へ向かうと見附出丸西虎口ある:

この切り通しの道を下りて行くと堀切があり、土橋の先にもう一つ郭(平場)ある

見附出丸西虎口

この切り通しに沿って下りていくと堀切と土橋がある:

中央の土橋の両端には堀切が残っていた

見附出丸西虎口前の堀切と土橋

土橋の上から見た(少し藪化した)堀切

見附出丸下の堀切

なお土橋脇には「大手前塹壕」と書かれた標柱が建っていたが、ここは大手口ではないはず。そして堀切を渡った先には小さい郭があり、城址の碑が建っていた:

この郭は小田原北條氏の支配下にあった頃に造られたものか?

見附出丸の先にある平場

実質的に、この平場が新田金山城の最西端の防衛拠点で、おそらく由良氏が城主の時代ではなく小田原北條氏の支配下にあった頃に追加された郭ではないかと推測される。同様に追加されたのが見附出丸であり、発掘調査では北條流築城術の痕跡が残っていたのだとか。

城址最西端ともあって金山の南側に広がる太田市街の眺めはよかった:

最西端の郭から金山南側に広がる太田市街の眺望で、中央に一際目立つビルが太田市役所

平場からの眺望(拡大版)

それからモータプールの駐車場前まで戻り、西城跡から実城跡に向けて進んだ。

こちらが西城《にしじょう》跡。実城から西へ進んだところの尾根筋を削平した郭で、城主が由良氏の時代に上杉・武田・北條らの攻撃をうけて設けられた郭とされる:

金山山頂の尾根に造られた曲輪の一つ

西城跡

西城跡から遊歩道を通って東へ進むと四阿《あずまや》と総合案内板が見えてくる:

ここには「史跡金山城跡主要部」なる大きな案内板がある

総合案内板と「史跡・金山城跡」の碑

四阿の背後にある土塁脇をさらに東へ進むと遊歩道の分岐点があるが、左手の階段を上がって西矢倉台跡へ向かう。この矢倉台の西側にある堀切は二重堀(西堀切と下堀切)になっている:

ちなみに右手は公園管理用道路で、そのまま南曲輪まで直行できる

遊歩道の分岐点

階段を上がり土塁上を進むと歩いていると旧通路と呼んでいる跡が残っていた。これは、この先にある西矢倉台西堀切内の通路よりも昔に造られた通路。地山を削り出して造ったものらしい:

西矢倉台西堀切内の通路よりも古い時期に桟道に直結していた道路

旧通路跡

この先には旧通路と直交するように西矢倉台西堀切《にしやぐらだい・にしほりきり》跡が残っていた。これが二重堀の一つ目:

西城から実城までの間に4つある堀切のうち一番西寄りにある堀切

西矢倉台西堀切

他の堀切とは異なり、堀底に石を敷いて通路として利用していた

堀底道(復元)

この堀切は西城から実城までの間に4つある堀切のうち、最も西寄りにあるもので、他の堀切とは異なり、堀底に石を敷いて通路として利用していたのが発掘調査で明らかになった。また、右手の土塁上から柱穴《ちゅうけつ》[e]柱を支えるために堀られた穴。が発見されことから敵兵が北側から侵入してくるのを防ぐため柵があったと考えられている。

この石敷きの堀底をつたって下りていくと旧通路跡と合流し、急斜面に丸太を架けて復元された桟道《かけはし・みち》に続くが、当時は老朽化して通行止めだった。往時、この桟道は城の西を守る西城と本丸に相当する実城を結ぶ連絡道の一部として造られたもので、西城が陥落した場合は桟道を落として寄手の侵攻を防ぐ狙いがあったとされる。

ということで再び遊歩道へ戻り実城方面へ進んでいくと、西城から実城までの間で2つ目の堀切(二重堀の二つ目)に相当する西矢倉台下堀切が出現した:

西城から実城までの間に4つある堀切のうち西から2つ目の堀切

西矢倉台下堀切

その名のとおり、この左手上にあった西矢倉台の下に設けられ、その断面は上部が逆ハの字であるのに対し、下部は箱状(|_|)に掘られ、簡単には攻め登れないような工夫がされていたと云う。現在は土砂で埋まっているが、往時はこの1.5m下に堀底があったとされる。

そして西矢倉台跡へ上がる石段があったが、当時はこちらも一部が崩落して通行禁止だったため遊歩道から回りこむようにして上がった:

遊歩道と石段の両側から上がれるようだが、往時は片側が通行禁止だった

西矢倉台跡

こちらは、遊歩道に戻った先で復元されていた西矢倉台通路跡:

この通路は築城時と拡張時で位置が異なる

西矢倉台通路跡

この通路は、由良氏が城主の時代は急峻な谷側(写真の右手)に設けられていたが、北條氏の支配下にあった時代には山側に移設されたらしい。こちらが谷側に残る石垣で、写真左上が北條氏の時代、写真右下が由良氏の時代の通路になる:

左上が北條氏が移設した新しい通路、右下が由良氏の通路である

西矢倉台通路の谷側に残る石垣

西矢倉台通路の谷側に残る石垣を境に異なる時代の通路

コメント付き

このまま遊歩道となっている西矢倉台通路跡を実城に向かって東へ向かう:

石敷きの西矢倉台通路を東へ向かうと物見台下虎口が見えてくる

西矢倉台通路跡を進む

すると物見台下堀切が出現し、土橋を渡った先には基壇状《きだんじょう》の石積みで復原された物見台下虎口が見える。なお物見台跡は写真の左上にある:

堀切に架かる土橋を渡ると基壇状石積みの物見台下虎口がある

物見台下の堀切と虎口

こちらが物見台下にある堀切と土橋:

左上から右下に落ち込む物見台下堀切に架かる土橋

土橋

土橋の上から見下した谷側の物見台下堀切(堀切というか竪堀?)

物見台下堀切から竪堀

こちらが山側の堀切と、物見台跡を見上げたところ。岩盤を断ち切って石積みした堀切になっていた:

土橋の上から見上げた山側の物見台下堀切(右上が物見台跡)

物見台下堀切

土橋の上から見上げた物見台跡で、現在は展望台が建っていた

物見台跡

そして石敷の土橋を渡った先が虎口。ここには門が建ち、その先がすぐには見通せないように通路が喰違いになっていた:

この基壇城石垣は顎のように下側が突き出た形をしている

基壇状石垣の顎石

虎口の先が馬場下通路跡。虎口から竪堀までの間には石敷きの通路が発見されたと云う:

いわゆる復原ゾーンの説明図にあたり、この城跡には他にも詳細な図が説明板ととともに立っているので参考になる

馬場下通路跡(拡大版)

そして、竪堀に架かる木橋方向(左手)と堀底道(正面から右手下)をつたう石段への分岐点:

左手の木橋が竪堀を渡るルート、正面から右下が竪堀を下りるルート(危険)

馬場下通路の分岐点

竪堀の堀底へ下りるルートは「危険」ということで、素直に木橋を渡って馬場跡へ:

竪堀を跨ぐように架けられた木橋(復原)で、左手上が馬場跡

馬場下通路の木橋

藪化しているが堀底には石段があったことが発掘調査で判明している

竪堀

馬場下通路に面して建物の礎石《そせき》や岩盤を刳り貫いた柱穴が発見されたことから、狭い通路に沿って建物が建っていたことが判明している。また通路の先を行き止まりにして寄手を惑わす工夫がされていた:

番所などとして使われていたと思われる

礎石建物址

岩盤を刳りぬいて柱を立てた簡易な建物跡の先は行き止まりである

この先は行き止まり

このあとは掘立柱建物《ほったてばしら・たてもの》跡の背後に岩盤を削って造ったとみられる石段を上がって馬場跡へ。ここが大手口馬場跡。左手奥が物見台方面、右手が馬場曲輪方面:

左手奥には物見台があり、幅約1.2mの石塁が約72mにわたって発見された

大手口馬場跡

この分岐点から、まずは物見台跡へ:

物見台の基壇は自然の地形に沿って等脚台形に造らていた

物見台跡

往時の物見台は、その基壇が自然地形の沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見された。また釘や火縄銃の弾丸も出土していると云う。

現在は観光用の展望台が建っていたので城跡の周囲を眺めてみた。まずは城の南側にあった太田口《おおたぐち》方面の眺望。群馬県太田市街地を望むことができた:

手前の丘陵は八王子砦跡(大八王子山・中八王子山・小八王子山)で、金山城の出丸に相当する

太田口方面の眺望(拡大版)

ここから谷を挟んで見える丘陵が八王子山砦[f]大八王子山と中八王子山と小八王子山からなる。跡で、新田金山城の出丸に相当する。天正2(1574)年に謙信率いる越軍が新田金山城を攻めた際、この物見台から周囲が良く見渡せることを危惧した謙信は物見台から唯一死角となる現在の太田市藤阿久町(写真右下)に陣を構えたという。

対して、こちらは城の北側にあった長手口《ながてぐち》方面の眺望。上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)を眺めることができた:

観光用の展望台から上州金山城北側の眺望で、上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)が見えた

長手口方面の眺望(拡大版)

こちらが馬場通路に残る石塁跡。物見台から東へ延びる斜面には幅約1.2mの石塁が約72mも続いていた。往時、この背後にある長手口《ながてくち》からの攻撃に備えるため築地塀《ついじ・べい》が建っていたと考えられている:

幅1.2m、長さ72mの石塁は北の長手口からの攻撃に備える防塁だった

馬場通路の石塁跡

城の北側の防備を険しく見せるために石塁の上に築地塀あったらしい

馬場通路の石塁跡

馬場通路を東へ向かった先にあるのが馬場曲輪跡。ここには上下二段の石垣と弧を描く根石列で区画された小さい曲輪、そして石段と通路があったと云う:

馬場通路から東へ向かうと排水路が整備され建物が建つ曲輪があった

馬場曲輪跡

さらに岩盤を刳りぬいた柱穴が240個以上も見つかったことから建物や柵列があったことが分かった。その他、曲輪の中央部には石組の排水路があったと云う。まさに実城に入る前の防衛拠点であったことが伺える:

二段構成の上段にある曲輪は柵列と排水路で囲まれていた

石積排水路

上下二段にわたって石垣が積まれていた

馬場曲輪上段の石垣(復原)

こちらが馬場下曲輪跡。右手上にある馬場下通路の南側に設けられた郭で、岩盤を刳り貫いた柱穴が見つかったことから、往時ここにも多数の建物が建っていたと考えられている:

右上手にある馬場下通路の南側に立地する曲輪

馬場下曲輪跡

そして、ここから先にある実城方面の案内図(想像):

馬場下曲輪から大手虎口、水ノ手曲輪、三ノ丸、二ノ丸、南曲輪、御台所曲輪方面の(想像)案内図

実城方面の案内図(拡大版)

馬場下曲輪跡から東へ向かうとまず大手道跡が見えてくる。何度か発掘調査が実施され、一部の遺構は埋没保存されているらしい。当時は立入り禁止だった:

発掘調査が続く大手道は立入禁止だった(当時)

大手道跡

大手道跡の目の前には発掘後に復原整備された月ノ池《つきのいけ》がある:

汚泥が堆積していた窪地状の池は、戦国時代の池であることが判明した

月ノ池

発掘前まで汚泥が堆積していた窪地状の池であったらしいが、その痕跡を調査した結果、上下二段の石垣で囲まれ戦国時代に造られた池であったことが判明したらしい。現在は、最上面以外は往時の石垣をそのまま残して整備していると云う。実城跡で復原されている日ノ池《ひのいけ》と同様に、長い籠城戦に耐えられるよう生活水を確保するための貯水池として機能していたと予想される。

月ノ池の上には、三ノ丸下塹壕と呼ばれた大堀切《おおほりきり》がある。これは、西城から実城までの間に4つある堀切のうち最も東にある堀切。尾根筋を断ち切るように岩盤を深く掘り下げ平になっているのが分かる:

西城から実城までの間に4つある堀切のうち一番西寄りにある堀切

大堀切

この堀切は城内で最も重要な大手虎口前にあり、長さ約46m、堀幅約15m、深さ約15mと規模も最大である。また、堀底から長さ約7m、高さ約1.5m、幅約1.8mのの石積みでできた畝《うね》状の障害物が見つかったと云う。これは北條流築城術の影響を受けたと考えられている。

そして大手虎口。ここは谷地形を利用して築かれ、月ノ池の脇から正面の土塁まで大規模で威厳を備えた「構え」となっていた。手前には由良氏の時代と小田原北條氏の時代の門の礎石が検出された:

谷地形を利用し大手通路が緩やかに曲がり、両側に基壇状の曲輪がある

大手虎口(復原)

月ノ池の脇に建っていた大手門から続く大手道、それを守備し横矢を射るために両側に配された基壇状の水ノ手曲輪、そこに建つ兵舎、そして大手道の行く手を遮るように築かれた土塁が特徴的である。

大手虎口は水が集まりやすい地形に造られているため、降雨で石垣が崩れないようにするための効果的な排水機構が備わっていた。郭内にある石組の排水路に集められた水は大手道両側にある石組の排水路によって大手虎口(手前)側を伝って郭外へ排出される仕組み:

大手虎口北下段曲輪から集められた降雨は大手道両側から排出される

大手通路と排水路

こちらが大手虎口北下段《おおてこぐち・きたげだん》曲輪跡。降雨で水が集中しやすい大手虎口のために排水溝を設けて水流を分散させていた他に、郭面に段差を設け、大手道に向けて傾斜をつけることで郭内がぬからないようになっていた:

水ノ手曲輪北側の斜面に設けられ、排水機構として段差と傾斜が特徴である

大手虎口北下段曲輪跡

こちらは大手道を挟んで反対側(南側)にある大手虎口南上段《おおてこぐち・みなみじょうだん》曲輪跡から見た檀状土塁と土塁石垣:

大手道が通る水ノ手曲輪を囲むように壇上に積み重ねられた石垣と郭跡(大手虎口北下段と南上段)と三ノ丸跡(民家)

水ノ手曲輪跡と壇上石垣(拡大版)

さらに、今度は三ノ丸跡手前に復原された石段の上から見下ろした大手道と水ノ手曲輪跡、そして上下段の腰曲輪が南と北に配置されているのが分かる:

大手道を挟んで南側と北側)にそれぞれ上下段の腰曲輪が配置されている

土塁石垣から見下した水ノ手曲輪付近

井戸底には補強のための木枠が残り、現在も水が満たされていた

井戸

大手道からさらに実城方面へ向かうには、三ノ丸から壇上に伸びた土塁石垣の両脇を抜けるようにして設けられた北通路と南通路のいずれかを使用する必要がある。こちらは南通路側:

土塁石垣は石垣の上に土塁を載せたものである

土塁石垣と南通路(表)

土塁石垣脇の大手道は何度が改修されて折り、その度に幅が変化している

土塁石垣と南通路(裏)

中世戦国時代の関東にあって土塁を主な防衛設備としていた多くの城郭に対し、ここ新田金山城の土塁は土壇状の石垣の上に造られているのが特徴である。この土塁石垣では何度かの改修が施されていることが発掘調査で分かっている:

関東の他の城とは異なり、土塁は石垣で造られているのが特徴である

土塁石垣と北通路

三ノ丸から壇状に伸びた土塁石垣:

右手奥の三ノ丸から壇状に伸びた土塁石垣

土塁石垣

こちらは水ノ手曲輪跡に建っていた石敷き遺構[g]建物内の湿気を防ぐために、その基礎部が石敷きになっていたことから。展示施設。武器庫と兵士らの詰所を兼ねていたらしい:

石敷きされた当時のままの建物の基礎を展示している

石敷き遺構展示施設

実際の遺構は建物跡の離れた東脇から発掘された

そして復原された日ノ池《ひのいけ》。両脇に井戸が見つかっており、斜面から湧水を集めることができる構造であった:

ほぼ円型の池で、山の上では稀な大池であった

日ノ池(復原)

斜面からの流水や湧水を集めることができる構造になっていた

日ノ池の石段

ほぼ円形の日ノ池は、発掘調査によって石垣や石敷、二カ所に設けられた石組井戸の存在、そして谷を堰き止め斜面からの湧き水を集約して貯める構造になっていたことが判明した。これらの結果を元に、往時の姿を可能な限り復原したものが現在の日ノ池である。

また山の上としては稀なほど大きな池であり、大手虎口と同様に、新田金山城における象徴的な場所であるとされ、生活用水ではなく戦勝祈願や雨乞いなどを行う儀式の場であったと考えられている[h]この池からは水の信仰に関わる平安時代の遺物も発見されており、築城以前から神聖な場であったとも推測されている。

こちらは、壇状に伸びた土塁石垣の上に築かれた三ノ丸跡[i]現在は私有地の為に立入り禁止。

壇状に伸びた土塁石垣の上にあるのが三ノ丸跡

三ノ丸跡

三ノ丸とは大手道を挟んで対面にあるのが南曲輪跡。ここには休憩所の他にトイレや城の模型、そして日本百名城の石碑[j]日本百名城のスタンプは休憩所に設置されている。が建っていた:

 

この休憩所に百名城のスタンプが置いてある(右奥はトイレ)

南曲輪跡

スタンプは休憩所に設置されている

「日本百名城 金山城」の碑

南曲輪跡から城址南側の眺望:

当時は霞が出ていたが群馬県太田市街地は眺めが良かった

南曲輪から南側の眺望

手前にある丘は上州金山城の出城であった八王子砦跡

コメント付き

こちらは埼玉県秩父市方面。霞んでいてよくわからないが、富士山がほんの少しだけ頭を出していた:

霞んでよくわからないが、この先は富士山・秩父山渓方面になる

南曲輪から南側の眺望

霞んでいるが富士山が少しだけ見えた

コメント付き

このあとは本丸跡がある実城方面へ移動した。実城下にある郭が御臺所《みだいどころ》曲輪跡。この郭には御殿が建っていたと云う:

実城(本丸)下にある郭で、御殿が建っていたと云う

御臺所曲輪跡

こちらは実城跡手前で見かけた太田市指定天然記念物の金山の大ケヤキ。樹高17mながらも、目通り廻りは6.8mもあり、推定樹齢は800年ほどとうことから新田金山城の歴史を見守ってきた貴重な史料でもあり、御神木として扱われていた。昭和初期まで七本あった大ケヤキであるが、現在は一本だけである:

上州金山城の歴史を見守ってきた樹齢800年ほどの大木のうちの一本

金山の大ケヤキ

参道である長く緩やかな石段を登った先が実城(本丸)跡:

実城の奥には天主曲輪と北城があった

実城(本丸)跡

現在は御嶽《みたけ》神社(と稲荷神社)と新田神社が建っている:

御嶽神社の御祭神は国乃常立神《くにのとこたちのみこと》

「本丸址」の碑と稲荷神社と御嶽神社

新田神社は明治8(1875)年に建立され、新田義貞公を祀っている

「史蹟・金山城址」の碑と新田神社

新田金山城の最高位にある実城は戦前まで本丸と呼ばれ、それ以降は天主曲輪と呼ばれているらしい。そもそも、この郭は新田金山城を鎮護する神聖な場所であり、源氏の守護神である八幡宮が祀られていたと云う。廃城後には源氏である新田義貞公を祭る新田祠という小さな石の宮が建っていたのだとか。また、鬼門にあたる北東[k]「艮《うしとら》」の方位で丑と寅の間に相当する。隅の角を削って「ひずみ」を設け、鬼門除けをしている郭でもある。


新田金山城がある上野国の新田領は戦国時代後期から越後上杉氏、甲斐武田氏、相模の小田原北條氏といった有力な戦国大名らの抗争の迫間《はざま》にあって、城主の由良成繁《ゆら・なりしげ》はときに戦禍に巻き込まれながらも巧みな外交戦略で生き残りを図った。その際、城下は10数回も攻撃を受けるものの、城の中枢である実城にまで攻めこまれたことは一度もなく、その堅牢さを誇ったと云う。その間、小田原北條氏の支城であった館林城や桐生氏の居城である柄杓山城《ひしゃくやまじょう》[l]別名は桐生城。を陥すなど勢力の拡大に務めた。そして天正2(1574)年、嫡男の国繁《くにしげ》に家督と居城の新田金山城を譲って、自らは柄杓山城に隠居した。

こちらは Google Earth 上に新田金山城周辺にあった城や砦などを重畳したもの。柄杓山城は北西方面、南東方面には館林城があるがいずれも距離はある:

新田金山城は足利氏館からも近く、周辺には多くの城や砦があった

新田金山城跡周辺図(コメント付き)

そして新田神社前に建っていた「金山城主系図」がこちら。新田氏の祖で新田義重《にった・よししげ》は八幡太郎義家の孫であり源義重と呼ばれた。上野国新田荘《こうずけのくに・にったのしょう》を本拠とした武士団で新田姓を称した。また戦国時代には新田氏の家老格である横瀬氏が下克上で城主となった:

家祖の新田義重《にった・よししげ》は八幡太郎義家の孫にあたる

「金山城主系図」

新田金山城主となった国繁であったが、天正10(1582)年に甲斐武田氏が滅亡し織田勢による上野国支配が始まると滝川一益《たきがわ・かずます》に仕え、さらに本䏻寺の変後の神流川の戦いで小田原北條勢に敗れると、北條氏に転じた。

天正12(1584)年、由良氏にとっては運が悪い事件が勃発する。小田原北條氏を離反した元・越後上杉氏の重臣・北条高広《きたじょう・たかひろ》が籠もる厩橋城《まやばしじょう》を北條氏直が攻め落としたお祝い言上の折り、次の常陸佐竹攻めに備えて由良氏の新田金山城と館林城の借用を依頼された。国繁は承知したが、城内の重臣らは城の接収と勘違いし、国繁の母で齢71の妙印尼《みょういんに》[m]館林城主・赤井照光(重秀)の娘で赤井輝子《あかい・てるこ》とも。北條勢相手に一歩も引くことなく籠城戦を指揮した女傑である。を城代として籠城してしまった。さらに籠城勢は常陸の佐竹義重や上野の佐野宗綱と手を結んだことに激怒した氏直は国繁とその弟を小田原城に幽閉した。しかし力攻めでは負けなかった籠城勢であったが北條氏の調略により開城し、館林城とともに北條陸奥守氏照に明け渡された。

これ以降、新田金山城は小田原城北條氏の支配下に入り、北條流築城術によって石垣の城として改修された。

一方、国繁ら由良氏は新田金山城・館林城を失い、所領も減ったことで次第に小田原北條氏との対立が鮮明になっていく。そして天正15(1587)年、ついに国繁は佐竹義重に通じて北條氏直に反旗を翻したが、翌年には降伏し小田原城送りとなった。天正18(1590)年に太閤秀吉による小田原仕置が始まると、国繁の嫡男・貞繁《さだしげ》と母の妙印尼が、秀吉が派遣した北国勢[n]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。を手引して北條勢が篭もる新田金山城を落城させた。この功により由良氏は秀吉に仕えることになり常陸国牛久に所領を安堵された。そして新田金山城は廃城となった:

緑円内が新田金山城(石田堤公園に置かれていた説明図より)

「小田原征伐時の関東」(拡大版)

小田原仕置後に関八州に入封した徳川家康の重臣・榊原康政《さかきばら・やすまさ》は館林城主として10万石を与えられ、この金山の地も領したと云う。それから約350年後の昭和9(1934)年には金山城跡が国の史跡に指定された。


天主曲輪の北西隅には城内最大の石垣の上に隅(角)矢倉規模の大型建造物があったらしい:

ここには城内最大の石垣を台座とした隅矢倉が建っていたらしい

天主曲輪(実城)の北西隅

このあとは参道である石段を下りて新田神社が建つ天主曲輪跡東側下へ。ここには武者走りが残っていた:

左手上が新田神社が建つ天主曲輪(実城)跡

武者走り跡

武者走り跡を進んで北城方面へ向かったところにある腰曲輪跡から城址北東の栃木県足利市方面の眺め:

天主曲輪跡下にある腰曲輪跡から眺めた栃木県足利市方面の眺め(渡良瀬川周辺にも城や砦あった)

城址北東の眺め(拡大版)

さらに進むと天主曲輪裏馬場跡がある。馬場とされるが、実際には厩《うまや》が建っていた郭:

音に敏感な馬のために城内でも静かな搦手方面に厩が建っていた

天主曲輪裏馬場跡

更に進んで天主曲輪跡の北西隅あたりにくると、先ほどの隅矢倉跡の下あたりに天主曲輪石垣(金山城石垣)が残っていた:

野面積で長い石の大きい面を奥に小さい面を表にして積んでいる

天主曲輪石垣

この城の石垣は近くで採掘された金山石が主に使用されているが、比較的に大きな石は柱状節理の山麓の根石を山頂から山腹まで運び上げるという大工事であったと推測されている。

石垣の積み方はいわゆる野面積みで、長い石の大きな面を奥に、小さい面を手前にして配置しているため、別名「ごぼう積み」とも言われているのだとか。断面は直線的で緩傾斜し、栗石を大量に使用しているために強固になっているのも特徴。

このまま稲荷神社下辺りまでくると二ノ丸との間に設けられた堀切があった:

左手上が天主曲輪(実城)跡、右手上が二ノ丸跡

天主曲輪の堀切

堀切右手の柵の向こう側が二ノ丸跡であるが、現在は私有地(竹林)となって立入り禁止であった:

現在は竹林(私有地)となり立入禁止だった

二ノ丸跡

このままぐるりと実城(本丸/天主曲輪)跡を反時計回りに一周したあとは御臺所曲輪跡を経由し大手口ではなく、新田神社参道入口へ。ここから観光案内所で入手した『金山城ハイキングガイド』(リンクはPDF)を参考に麓にあるガイダンス施設まで下りることにした。こちら側にも腰曲輪跡や木戸跡などいろいろ遺構があった:

この上が新田神社がある実城(天主曲輪)跡方面

新田神社参道入口

位置的には南曲輪跡の下になる

腰曲輪跡

そのまま参道兼ハイキングコース[o]ガイドによると「西山コース」の一部にあたる。一部に急坂あり。を下りていくと南木戸入口跡がある:

ハイキングコースの脇に「南木戸入口址」の石碑が建つのみ

南木戸入口跡

さらに下りていくと「南木戸残存石垣」の碑が建っていた。ここが新田金山城の最南端となる:

ここが城の最南端で腰曲輪が幾段にも設けられていた。

南木戸残存石垣の碑

新田金山城は北面が急峻、それに対してこちら南面は緩い傾斜になっているので腰曲輪を幾段にも重ねて寄せ手の侵入を防いでいた。

途中、ちょっと急斜面でジグザグな坂や車道と交差する所があるが特に迷うことなくハイキングコースを下りることができた:

金山城ハイキングコースにもなっている西山コース

ハイキングコース兼参道

そして県道R321(金山城址線)と合流すると、次は「史跡金山城跡ガイダンス施設」へ向かう。この施設の山側にも別のハイキングコースの入口があるが、実はここが新田金山城の大手道になるようだ。

そしてガイダンス施設とR321を挟んで向かい側には大手口の石塁が少しだけ石塁が残っていた:

県道321号線を挟んで金山城跡ガイダンス施設との向かい側にある

大手口石塁

この脇には桜ノ井戸があった。この場所はちょうど八王子砦跡の中八王子山矢倉台西面の山腹にあたる:

城内の他の井戸と同様に金山石で丸く囲まれた湧水

桜ノ井戸

古来より新田金山城には七つの井戸があったとされ、桜ノ井戸もその一つである。城内の他の池と同様に金山石で丸く囲まれた湧水である。

そして、こちらがガイダンス施設。入場料は無料。金山城にまつわる史料や実城の大手口のジオラマなどの展示やビデオ視聴ができた:

上州金山城にまつわる史料や展示やビデオ視聴ができる

太田市史跡金山城跡ガイダンス施設

このあとは新田義貞公・由良・横瀬一族の五輪塔がある金龍寺へ。

こちらはその途中に見上げた八王子砦跡の遠景。この砦は大手口を守備する他に麓に建てられた城主らの居館の防衛も担っていた:

上州金山城の南側、大手口を守備するために築かれた小さい砦

八王子砦跡

最後は二ノ丸跡に掲げられていた注意書き:

IMGP1362.resized

「たけのこをとらないでください」

以上で新田金山城攻めは終了。この新田金山城は関東七名城[p]誰が云ったかは知らないが、他に唐澤山城河越城忍城厩橋城、宇都宮城、そして多気城がある。の一つに数えられている。

See Also新田金山城攻め (フォト集)

【参考情報】

新田義貞公供養塔・由良氏五輪塔と金龍寺

史跡金山城跡ガイダンス施設から市街地へ10分ほど歩いたところにある曹洞宗の金龍寺は、南朝の名将・新田義貞公ゆかりのの禅林《ぜんりん》[q]曹洞宗および臨済宗大応派に所属する寺院の総称。である。寺名は公の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」からきている。

応永24(1417)年に新田金山城主・横瀬貞氏《よこせ・さだうじ》が、祖父にあたる義貞公の御遺骨をこの地に移し廟所と定め木像を安置したが、それから170年以上経った天正18(1590)年におこった関白秀吉による小田原仕置後、由良氏は移封となり寺も寺僧は寺宝とともに移されたが、義貞公の木像や墓所は残されたまま荒廃した。

そして関八州を与えられた徳川家康の重臣の一人で館山城主となった榊原康政が、これを惜しみ田畑を寄進して金龍寺を再興させ、現在に至っていると云う。

こちらが現在の大田山金龍寺の本堂。ちなみに屋根の棟にあしらわれていた家紋は三葉葵紋と五七の桐紋で、特に歴代の新田金山城主とは関係はないようだった[r]新田氏は「大中黒・新田一つ引」紋であり、横瀬・由良氏は「五三の桐」紋であり、榊原氏は「源氏車」または「九曜」紋のため。

寺名は新田義貞公の法名にちなんでいる

大田山金龍寺の本堂

本堂左手奥に「由良氏五輪塔と新田義貞公供養塔」の入口がある:

本堂に向かって左手奥

由良氏五輪塔と新田義貞公供養塔の入口

こちらが由良氏五輪塔と新田義貞公供養塔:

太田市指定重要文化財である

由良氏五輪塔と新田義貞公供養塔

手前に並ぶ9個の五輪塔が由良・横瀬一族の五輪塔(残り一個は指定なし)で、奥の最上段にある高い供養塔が新田義貞公の供養塔:

横瀬・由良氏の五輪塔は9基あり、横瀬国繁から由良成繁に至る新田金山城の歴代城主とその一族を弔っている

金龍寺・由良氏五輪塔並びに新田義貞公供養塔の配置図(拡大版)

横瀬・由良氏の五輪塔は9基あり[s]1基は指定外とだけ記されていた。、横瀬国繁《よこせ・くにしげ》から由良成繁《ゆら・なるしげ》に至る新田金山城主と、その一族を弔うために建立されたものとされる。安山岩で造られた五輪塔には紀年銘・法名・五大が刻まれている。ちなみに由良氏は一族で同名の人物が多くいる:

左手から4基目が戦国時代に生き残った由良成繁公の五輪塔

由良(横瀬)一族の五輪塔

手前から2基目が由良成繁の嫡男・国繁公の五輪塔

由良(横瀬)一族の五輪塔

そして新田義貞公の供養塔が奥の最上段に置かれている。これは寛永14(1637)年の新田義貞三百回忌法要で建立されたもので、銘の入った石英斑岩《せきえい・はんがん》製の基礎部の上に、安山岩製の多層塔を重ねたもので高さは246cmもある:

寛永14(1637)年の新田義貞300回忌法要で建立された

新田義貞公の供養塔

寛永14(1637)年の新田義貞300回忌法要で建立された

供養碑

こちらは太田駅北口に建つ新田義貞公銅像。義貞の鎌倉攻めの戦場・稲村ヶ崎《いなむらがさき》で海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に勝利を祈願したと云う『稲村ヶ崎太刀投げ』がモデルらしい:

モデルは「稲村ヶ崎太刀投げ」の図とされる

新田義貞公銅像

新田義貞は、正安2(1300)年に鎌倉幕府後期の御家人であった新田朝氏《にった・ともうじ》の嫡男として誕生した[t]生年については諸説あり。。文保2(1318)年に父の死去をもって家督と継承し、新田氏本宗家の八代当主となる。元弘3(1333)年には、北条執権時代の鎌倉幕府軍に属し河内国の千早城《ちはやじょう》に篭った楠木正成《くすのき・まさしげ》を攻撃するも、対陣中は密かに倒幕の機会を伺っており、ついに戦線離脱して上野国新田荘(現在の群馬県太田市)で倒幕の兵を挙げた。利根川を渡って八幡原(現在の高崎市八幡町)より鎌倉街道を南下、武蔵国に入るころ鎌倉から脱出してきた足利尊氏の嫡男・千寿王(のちの足利義詮《あしかが・よしあきら》)と合流。これを契機に各地から義貞の軍に加わろうとする者が増え、『太平記』によると20万を超える軍勢になったと云う。鎌倉街道を南進した義貞軍は小手指原《こてさしはら》(現在の埼玉県所沢市)と分倍河原《ぶばいがわら》と関戸(共に現在の東京都府中市)で幕府軍を破り、稲村ヶ崎(現在の神奈川県鎌倉市南西部にある岬)の干潟《ひがた》から鎌倉へ侵攻、ついに鎌倉を落とし北条執権時代の鎌倉幕府を滅亡させた。

こちらは現在の分倍河原駅ロータリーに建つ新田義貞騎馬像:

東京都府中市にある高安寺城跡を攻めた際に(昔から馴染みある駅まで行って)撮ってきた

「新田義貞公之像」(拡大版)

倒幕の功により複数の官位を賜り、ついに左近衛中将に列せられた。しかし、倒幕後の武家政権のあり方ついて足利尊氏と対立、建武2(1335)年に後醍醐天皇から尊氏追討の宣旨《せんじ》を賜り、楠木正成と共に足利勢と戦った。しかし翌2(1336)年には湊川合戦で楠木正成軍は全滅、義貞も敗走した。

足利勢の攻勢に後醍醐天皇は勢力の挽回を図るも、尊氏は逆に光明天皇《こうみょうてんのう》を擁立・即位させて北朝とした。一時は和議がなったものの再び後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を宣言した。義貞は、越前国は敦賀金ケ崎城《つるが・かねがさきじょう》を拠点として軍勢を建て直すも、足利勢の猛攻により落城、嫡男の義顕ら多くの将兵を失った。落城の折難を逃れて生き延びた義貞は杣山城《そまやまじょう》へ籠もり、再起を図ろうとしたが越前国藤島(現在の福井県福井市)で足利勢の大軍と遭遇した。部下が退却を進言するも「部下を見殺しにして自分だけ生き残るのは不本意である」と前進するも、矢の乱射を浴び落馬して起き上がったところを眉間に矢を受けて壮絶な最後を遂げた。享年38。
清和源氏累代の家宝である名刀の鬼切・鬼丸と共に、公の首級は京へ運ばれて獄門に掛けられたと云う。

公の死から500年以上のちの明治時代に、義貞及び南朝側の諸将は朝廷のために尽力した忠臣または英雄として再評価され、義貞には正一位が贈位された。

See Also新田義貞公と横瀬・由良氏の供養塔 (フォト集)

【参考情報】

参照

a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。
b 岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。
c はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。
d 南土塁と北土塁を筋違いに配置して、ここに南からの通路を屈曲させて通し、容易には寄せ手の侵入を許さない構造になっている。
e 柱を支えるために堀られた穴。
f 大八王子山と中八王子山と小八王子山からなる。
g 建物内の湿気を防ぐために、その基礎部が石敷きになっていたことから。
h この池からは水の信仰に関わる平安時代の遺物も発見されており、築城以前から神聖な場であったとも推測されている。
i 現在は私有地の為に立入り禁止。
j 日本百名城のスタンプは休憩所に設置されている。
k 「艮《うしとら》」の方位で丑と寅の間に相当する。
l 別名は桐生城。
m 館林城主・赤井照光(重秀)の娘で赤井輝子《あかい・てるこ》とも。北條勢相手に一歩も引くことなく籠城戦を指揮した女傑である。
n 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。
o ガイドによると「西山コース」の一部にあたる。一部に急坂あり。
p 誰が云ったかは知らないが、他に唐澤山城河越城忍城厩橋城、宇都宮城、そして多気城がある。
q 曹洞宗および臨済宗大応派に所属する寺院の総称。
r 新田氏は「大中黒・新田一つ引」紋であり、横瀬・由良氏は「五三の桐」紋であり、榊原氏は「源氏車」または「九曜」紋のため。
s 1基は指定外とだけ記されていた。
t 生年については諸説あり。