磐梯山麓の小丘陵に築かれた猪苗代城の本郭は土塁で囲まれ掘立柱建物があった

福島県は耶麻郡猪苗代町字古城跡《やまぐん・いなわしろちょう・あざ・こじょうあと》7150-1にあった猪苗代城は、相模国の豪族・三浦義明《みうら・よしあき》の七男で、源頼朝の御家人であった佐原義連《さわら・よしつら》の孫・経連《つねつら》が建久2(1191)年に築いたのが始まりと伝わる。経連は、祖父が奥州合戦《おうしゅう・かっせん》[a]文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した戦い。この戦により頼朝は建久3(1192)年に征夷大将軍となり武家政権が確立した。の功で与えられた會津四郡のうち猪苗代を領し、子孫ともども猪苗代氏を称した。猪苗代氏は代々独立志向が強く、同族で黒川城(のちの會津若松城)を居城としていた會津蘆名氏とは対立と従属を繰り返していたが、のちに蘆名氏より養子を迎え一門衆に落ち着いた。しかし第十二代当主・猪苗代盛国《いなわしろ・もりくに》は嫡子・盛胤《もりたね》を猪苗代城から追い出し[b]隠居していた盛国は後妻との子・宗国を溺愛し、後妻からの讒言《ざんげん》に乗せられて盛胤の廃嫡を画策したと云われる。伊達政宗に寝返えって摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗を招く原因を作った。以降、猪苗代城は蒲生上杉・加藤・保科ら會津領主によって城代が置かれ、幕末の戊辰戦争で焼失して廃城となった。なお猪苗代城の北西に伸びる丘陵上に築かれた鶴峰城《つるみねじょう》は猪苗代氏の隠居城として使われていたと云う。

今となっては一昨々年《さきおととし》は平成28(2016)年のお盆休みに、その前年の夏とその年の春に続く「奥州攻め」へ[c]それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。。今回は、4日間の日程のうち前半を宮城県、後半は福島県の城跡と勇将らの墓所を巡ってきた。ところどころ雨に遭遇するなど、すべて晴天に恵まれた訳ではなかったけど、一応は予定どおり攻めることができた:)

最終日となった四日目は午後に帰宅する前に猪苗代で城攻めし、さらに土津神社《はにつ・じんじゃ》にて會津松平藩初代藩主・保科正之公の墓所を参詣したあと、神社と通りを挟んで南側の杜にあるキリシタン殉難之地《じゅんなんのち》も巡ってきた。ここには江戸時代に苛烈な弾圧を受けたキリシタンの魂が眠る地であるが、一説に蒲生家の重臣で猪苗代城代を務めた岡越後守左内《おか・えちごのかみ・さない》は切支丹武将[d]左内は、主君でキリシタン大名として有名な會津宰相・蒲生氏郷(洗礼名はレオ)にならってキリスト教に入信した。氏郷の遺言で猪苗代の切支丹村を守護し布教活動したと云う。本人、またはその一族の墓とも伝えられている。

まず朝7時過ぎに会津若松で宿泊したホテルをチェックアウトして、コンビニでお昼を購入してから駅へ向かい、朝7時半近くのJR磐越西線・郡山行で猪苗代へ向かった。猪苗代駅には朝8時過ぎに到着し、構内のコインロッカーに荷物を預けて、猪苗代城跡+鶴峰城跡がある亀ヶ城公園へ徒歩で向かった。駅から公園入口までは20分ほど。この日は、この四日間で一番に天気がよく、稲が一面に広がる田んぼと磐梯山《ばんだいさん》を眺めながら歩いてきた。

こちらは猪苗代町役場前からみた猪苗代城跡の遠景:

猪苗代城は比高20mほどの馬の背状の細長い小丘陵を利用して築かれていた

猪苗代城遠景

こちらは公園内に建っていた「亀ヶ城公園案内図」(上が北方向):

城跡の他にわんぱく広場や体育館、駐車場が整備された総合公園

「亀ヶ城公園案内図」(拡大版)

公園としての歴史は意外と古く、戊辰戦争で焼失し荒廃したまま放置されていた城跡を、明治38(1905)年に町内の有志らが私財を投じて植栽し公園として整備したのだという。現在の状態は平成9(1997)年から総合公園として整備されたもので、猪苗代城跡や鶴峰城跡はもちろん、多目的広場や芝生公園、体育館、駐車場などの施設が町民向けに開放されていた。

猪苗代城跡の入口は案内図で云うと公園東側に記された(現在地)である。

そして Google Earth 3D を利用した亀ヶ城公園の俯瞰図と、その上に『亀ヶ城の歩き方』(リンクはPDF)記載の地形図をもとに猪苗代城跡(本郭・二ノ郭・帯郭)と鶴峰城跡の整備範囲を重畳したものがこちら(一部推測あり)。また明示はしていないが、公園外の住宅地は猪苗代城の三ノ郭に相当する:

上が北方向で、下側が猪苗代駅方面、上側が土津神社方面

亀ケ城公園周辺図(Google Earthより)

これらは城域と二つの城の境界は一部推測あり

亀ケ城公園周辺図(コメント付き)

これら二つの城が建っていたのは磐梯山麓から猪苗代湖北岸の沖積地《ちゅうせきち》に突出した赤埴火山体《あかはに・かざんたい》の火山性泥流堆積物《かざんせい・でいりゅう・たいせきぶつ》[e]磐梯火山《ばんだい・かざん》は磐梯山主峰(大磐梯)と櫛ヶ峰《くしがみね》、そして赤埴山《あかはにやま》の三つの峰からなる成層火山で、櫛ヶ峰や赤埴山を含んだ大きな山体から形成された古磐梯火山《こばんだい・かざん》のマグマや火山灰のこと。で構成された南北に長い馬ノ背状の細長く小さな丘陵で、この尾根を南北に分断する堀切を境に北に鶴峰城跡、南に猪苗代城跡が並立していた。

まずは公園入口から猪苗代城跡へ。

猪苗代城

こちらが猪苗代城跡の大手口にあたる「亀ヶ城址公園」の東側入口:

目の前の駐車場の奥に見えるのが冠木門・桝形虎口跡と大手道(散策路)

「亀ヶ城址公園」入口

そして Google Earth 3D による城跡の俯瞰図に、整備された遺構(復元も含む)の大凡の位置を重畳したものがこちら。公園内には本郭跡とニノ郭跡と帯郭跡があり、小学校や歴史情報館などが建つ公園の外が三ノ郭跡に相当する:

佐原経連《さはら・つねつら》が築いた日本最古の平山城跡である

亀ヶ城址公園俯瞰図(拡大版)

公園内に本郭跡と二ノ郭跡、公園外の小学校や情報館周辺が三ノ郭跡にあたる

猪苗代城跡俯瞰図(コメント付き)

総じてここ猪苗代城は、猪苗代氏が城主であった中世城郭と會津藩の支城であった近世城郭に区別することができる。
前者の縄張は標高551mの丘陵頂部に、土塁で囲んだ南北に長い本郭と標高549mの二ノ郭を置き、一段下がって周囲を囲むように帯郭(北・南・西)と胴丸を設け、これらを大きな空堀で囲んだ輪郭式の山城である。そして後者は東側に大きく拡張され、山城全体を本郭とし、東側の平坦地に土塁と堀で囲んだニノ郭と三ノ郭を設けた総構《そうがまえ》を持つ梯郭式の平山城である。

こちらが今回の城攻めルート。まずは猪苗代城跡から:

(JR猪苗代駅) → 亀ヶ城公園入口 → ①冠木門跡 → ②内枡形虎口跡 → ③大手口多聞櫓台石垣 → ④櫓門跡 → ⑤三本杉井戸跡 → ⑥大手道 → ⑦胴丸(東帯郭)跡 → ⑧二ノ郭櫓門跡 → ⑨二ノ郭跡 → ⑩井戸門跡 → ⑪西門跡・搦手道 → ⑫黒門跡 → ⑬本郭跡 → ⑭東門跡 → ⑮横堀・二重土塁跡 → ⑯西帯郭跡 → ⑰南帯郭跡 → ⑱北帯郭跡 → ・・・ → (鶴峰城跡)

公園入口から駐車場を抜けると①冠木門跡と②内枡形虎口跡、③大手口多聞櫓台石垣、そして④櫓門跡から成る大手口跡が見えてくる。こちらは近世城郭期のものである。

往時は冠木門の脇に多聞櫓が建ち、門をくぐると枡形虎口に入り、右手奥へ鈎型に折れて櫓門を抜けた先に大手道があった:

西側は方面石垣、北側は多聞櫓台石垣で囲まれた内枡形虎口で右奥が大手道

枡形虎口跡

大手口を守る冠木門と枡形虎口、そして多聞櫓台座石垣が残っていた

桝形虎口・冠木門跡

この虎口を含む大手道周辺には数多くの石垣が残り、野面積みや打込接《うちこみはぎ》、切込接《きりこみはぎ》など多彩な石積技法を見ることができた。特に枡形虎口の北側に設けられた大手口多聞櫓台石垣は、唯一築城当時の姿を今に伝える野面積みの石垣であり、側面中央の巨石は鏡石である:

築城当初の姿を今に伝える野面積みで、隅石も特徴ある

大手口多聞櫓台石垣

側面は築城当初の姿を今に伝える野面積みで、真中に鏡石がある

大手口多聞櫓台石垣

野面積みの中でも自然石を主体として、その一部に割石を使い目地の通らない布積み崩しと云う積み方を用い、隅石は不均等な石を交互に曳き違えているが、これと同じ積み方は會津若松城の天守台石垣にも見ることができ、まさに文禄〜慶長期の戦国時代末期の仕様である。

こちらは枡形虎口西側の法面石垣:

桝形虎口西側の石垣であり、鏡石が据えられているらしい

枡形虎口・法面石垣

多聞櫓台石垣や胴丸法面石垣と同様、威厳ある大手口にするために鏡石が据えられているとのことだが、この時は確認できなかった。

こちらは桝形虎口北側にある④櫓門跡。法面石垣(左手)と大手口多聞櫓台石垣(右手)を跨いで櫓門が建っていた:

桝形虎口を抜けて二ノ郭へ向かう前に多聞櫓が建つ門をくぐることになる

桝形虎口・櫓門跡

現在の猪苗代町出身で近くの尋常小学校に通っていたある野口英世博士も幼年期は猪苗代城が遊び場だったと云う

大正時代の櫓門跡

櫓門跡を過ぎた正面には⑤三本杉井戸跡があった。これは城内に二つある石組の丸井戸の一つ:

木枠の中には石組による丸井戸がある

三本杉井戸跡

そして⑥大手道にあたる石段。これは昭和の時代に造られたもの:

大手口から帯郭跡、そして二ノ郭を抜けて本郭へ通じる道

大手道

大手口から本郭の間には二ノ郭の他に東西南北に設けられた帯郭があるが、こちらは東帯郭にあたる⑦胴丸跡の法面石垣:

胴丸北側にある法面石垣とかっての追手道は後世に作り直されている

胴丸(東帯郭)跡と大手道

こちらが大手道を挟んで残っていた胴丸法面石垣:

胴丸は4つある帯郭のうちの一つで東側に設けられた

胴丸法面石垣

中世城郭を代表する野面積みである

胴丸法面石垣

猪苗代城は東側に石垣が設けられているの対して、西側は中世城郭に見られる土塁と堀で守備されていたことから、石垣は近世城郭の天守閣と同様に、城の防備というよりは象徴として意味合いが大きいのではないかと云われている。

胴丸を含む東西南北に配置された帯郭跡はあとまわしにして、まずは二ノ郭跡へ向かうため大手道を登っていくと、本郭下で南(左手)と北(右手)に分岐する合坂《あいざか》に到着する:

帯郭跡からさらに石段を登るた先には南北へ分岐する合坂がある

大手道

左手が大手道、正面の土塁の上が本郭跡で、右手が本郭の東虎口方面

合坂

この合坂から末広がりに伸びる石段を南側へ向かって登っていくと⑧二ノ郭櫓門[f]大手櫓門とも。跡が見えてくる:

石段の先が櫓門あとで、台座石垣の一部が残っていた

二ノ郭櫓門前石段

こちらが⑧二ノ郭櫓門跡。ここが、その奥にある二ノ郭の虎口に相当する:

大手櫓門とも云われ、右手にある二ノ郭の虎口に相当する

二ノ郭櫓門跡

城攻め当時は、石段の両脇に櫓門の台座石垣や礎石が残っていたのを見けたが、発掘調査では他に本柱・寄掛柱《よせかけばしら》の礎石や葛石《かずらいし》、三つ巴紋の軒丸瓦や菊紋の軒平瓦、そして鉄釘や乳金具《ちちかなぐ》などが発見されたのだとか:

一方の櫓門n台座石垣の上から見たところで、左手が二ノ郭跡

二ノ郭虎口跡

ここに建つ櫓門をくぐった先が二ノ郭(跡)

櫓門の礎石

こちらが⑨二ノ郭跡の中から見た櫓門台座石垣。ここも枡形虎口になっているのが判る:

二ノ郭跡の中から見た二ノ郭櫓門の台座石垣で、枡形虎口になっている

枡形虎口

そして二ノ郭跡:

本郭の南側(搦手と大手)を守備する土塁に囲まれた郭

二ノ郭跡

土塁に囲まれた二ノ郭の中には登城者の待機場所と番所を兼ねた腰掛《こしかけ》や武器を保管した土蔵があったと云う:

この土塁の上に駆け上がるための雁木《がんぎ》が設けられていた

土塁

本郭の南側を守備する二ノ郭は土塁に囲まれていた

土塁

また櫓門の他に、城内で二つ目の井戸を守備する⑩井戸門と搦手を守備する石垣造りの搦手門が建っていた:

の下に城内で二つ目の井戸跡があった(現在は枯れている)

井戸門跡

こちらが搦手口にあたる二ノ郭の⑪西門跡。この先が西帯郭に通じていたことがその名前の由来だとか:

二ノ郭搦手虎口にあたるこの石垣の上には隅櫓が建っていたと云う

西門台座石垣

この下は西帯郭で、右手の石垣の上には西門の隅櫓が建っていた

西門跡

西門から帯郭へ下りていくのが搦手道である。大手道の石段は作り替えられていたが、こちらは往時の石段が埋没保存され、それ以外の排水用石積や階段の踏面《ふみづら》らしき石材が散乱していた:

往時の排水用石積や階段の踏面石が散乱しているのがわかる

搦手道跡

このあとは再び二ノ郭跡へ戻って本郭南側の虎口跡へ。往時、ここには黒門と呼ばれる櫓門が建っていた:

石段に建っていあ黒門を境に左手が二ノ郭跡、右手が本郭跡

黒門跡

本郭南側の虎口建っていた隅櫓と連結した櫓門だった

黒門跡

⑫黒門跡の石段を登った先が⑬本郭跡。また試掘調査では礎石建物や掘立柱建物の存在が確認されていると云う:

古絵図によれば屋形、茶室、塩蔵、土蔵、庭などが建っていたと云う

本郭跡

この郭も二ノ郭と同様に土塁で囲まれていたが、その一部には石材を使って腰巻石垣や雁木が設けられていた:

土塁が巡らされた本郭には居館や隅櫓、そして黒門と東門が建っていた

本郭跡と土塁

本郭の周囲を巡る土塁には腰巻石垣や雁木などが設けられていた

土塁

本郭土塁の南西隅(西門)には隅櫓が建っていたが、古絵図によって一層または二層の櫓のように異なる描写がされているらしい。

こちらは本郭土塁上から眺めた磐梯山:

本丸土塁の上から眺めた磐梯山南東側には観光地として有名な猪苗代スキー場がある

磐梯山の眺め(拡大版)

福島県耶麻郡猪苗代町、磐梯町、北塩原村にまたがる磐梯山(標高1,819m)は会津若松市がある會津盆地から見ると綺麗な三角形をしていることから「會津富士」と呼ばれている。


天正12(1584)年、主家にあたる會津の蘆名盛隆《あしな・もりたか》が暗殺され、生後一ヶ月の遺児・亀王丸が早世すると家中は混乱した。他家から養子を迎えることになったが、これにより家中が二分して伊達氏と佐竹氏の代理戦争[g]伊達家は政宗の弟・小次郎が養子候補、佐竹家は「坂東太郎」こと義重の次男・義廣が候補だった。の様相を呈した。その中で蘆名一門衆であり隠居していた猪苗代盛国《いなわしろ・もりくに》は、これを機に主家からの独立を目論んで伊達政宗についた[h]政宗は黒脛巾組《くろはばきぐみ》に命じて盛国の後妻に近づき、盛国に伊達勢に寝返るようにそそのかしたと云う説が有力だとか。。一方、佐竹氏は関白秀吉の後ろ盾を借りて次男を養子に出すことに成功し、蘆名義廣《あしな・よしひろ》が新当主に納まった。

その後、盛国は嫡男を追い出して乗っ取った猪苗代城に伊達勢を招き入れ、城の西にある高森山に本陣を置いた蘆名義広ら1万余と対峙した。そして城を出た政宗ら2万余の軍勢は摺上原《すりあげはら》で激突、盛国の軍勢は蘆名勢の先鋒を務めた実子・盛胤の軍勢に攻めかかり、同族同士の戦いとなった。緒戦は天候を味方につけた蘆名勢の優勢であったが、後詰が傍観を決め込んだこともあり、天候が変わったことを読んだ伊達勢が一斉に反撃すると蘆名勢は足並みが大いに乱れて総崩れとなった。

この戦いで佐竹派の重臣らは討ち死し、義廣が実家の常陸へ逃げ帰ったことで事実上、戦国大名としての蘆名家は滅亡した。一方の盛国は摺上原の戦いの功績で伊達家の一門衆の端に加えられたが、天正18(1590)年の秀吉による奥州仕置を前に死去したと云う。

そして政宗は會津黒川城へ入城し、會津四郡、仙道七郡を斬り平らげておよそ百万石を領有し、こちらも事実上、奥州の覇者となるも、これが秀吉に睨まれるきっかけとなった。

天正18(1590)年、秀吉による奥州仕置後に會津・仙道十一郡42万石で移封してきた蒲生氏郷は、猪苗代城に城代として筆頭家老・蒲生郷安《がもう・さとやす》、町野左近、玉井数馬らを配した。ここで、氏郷が會津若松城天守閣を竣工させた同時期に、猪苗代城も一部改修されている可能性があるらしい。

慶長3(1598)年には越後国から上杉景勝が會津に入封、猪苗代城は水原親憲《すいばら・ちかのり》、今井源左衛門らが城代を務めた。

関ヶ原の戦後の慶長6(1601)年には蒲生秀行が會津に入封、猪苗代城は関十兵衛、岡越後守左内《おか・えちごのかみ・さない》、岡左衛門佐が城代を務めた。その後、會津に加藤嘉明《かとう・よしあきら》・明成《あきなり》父子が移封され、猪苗代城には城代が置かれたが、実際には番頭が交代で務めたと云う。

寛永20(1643)年に保科正之《ほしな・まさゆき》が入封すると一国一城令の例外として猪苗代城は幕末まで會津藩の要の城として存続した上に、正之公の墓所を守護する役目も担った。

慶應4(1868)年の戊辰戦争では新政府軍が攻め寄せたことで、會津勢は猪苗代城を焼き払って放棄した。これにより猪苗代城は廃城となる。


本郭の北東隅にある虎口には東門が建っていた。この先は大手道に向かって石段が設けられ、二ノ郭下の合坂に通じていた:

本郭東側の虎口には東門が建っていた

東門跡

そして本郭土塁上に登って帯郭をいくつか見下ろしたところ。まずは⑱北帯郭跡:

本郭土塁から見下ろした帯郭には番屋や穴蔵、角場などがあった

北帯郭跡

こちらは本郭西側の⑮横堀跡と二重土塁:

本郭土塁と帯郭の土塁で二重土塁になっているのが判る

本郭西側の二重土塁と横堀跡

現在は横堀跡が公園の遊歩道になっていた

本郭西側の二重土塁と横堀跡

そして西門跡の下にある⑯西帯郭跡:

本郭跡から見下ろした郭には番小屋があった

西帯郭跡

このあとは本郭土塁から帯郭跡を巡ってきた。こちらは西帯郭の虎口跡。虎口の先は北帯郭跡:

虎口の土塁を境界として左手が西帯郭跡、右手が北帯郭跡

西帯郭虎口跡

正面の虎口を境界として手前が西帯郭跡、奥が北帯郭跡

西帯郭虎口跡

西郭跡から本郭下の横堀跡に造られた遊歩道に沿って南へ移動する:

左手の本郭土塁と右手の土塁で二重土塁になっているのがわかる

横堀跡と二重土塁

本郭土塁は意外と高く、帯郭の土塁とは比高10mほど:

公園遊歩道が横堀跡で、比高10mの本郭土塁が最終防衛ラインである

横堀跡と本郭土塁

このまま南へ進んでいった先にあるのが⑰南帯郭跡。この郭には番小屋、土蔵、そして火薬庫があった:

ここには番小屋、土蔵、そして火薬庫があったという

南帯郭跡

この郭も土塁が巡らされていた。また発掘調査では柵列《きれつ》[i]城柵の一種で、木杭《くい》を立てて並べ、横木を通して設けた施設。に伴う布堀の溝が見つかった。また、この土塁上からは郭下に残る深い空堀を見下ろすこともできた:

本郭や二ノ郭と同様に土塁が巡らされた郭である

南帯郭の土塁

深い空堀の下にあるのは図書歴史情報館

南帯郭下の空堀

さらに土塁上からは県内最大の猪苗代湖を眺めることができた:

面積は琵琶湖・霞ヶ浦・サロマ湖についで日本第四位の広さで、湖面の標高の高い湖としても有名である

猪苗代湖の眺望(拡大版)

このあとは空堀下に降りてから[j]この当時は一部が通行不可だった。今思えば、理由は不明 😐 。再び横堀跡の遊歩道を使って⑱北帯郭跡へ:

右手上が本郭跡で、往時は番小屋と角場があったと云う

北帯郭跡

この郭からは発掘調査で掘立柱建物の痕跡が見つかっている他、番小屋や角場《かどば》[k]別名は放銃教場。いわゆる射撃の練習場のこと。があったとされている。

こちらは、先ほど見下ろした本郭土塁:

左手上が本郭跡で、かなり急角度で高い土塁であったことが判る

本郭土塁と北帯郭跡

最後に、こちらは鶴峰城の南郭跡から眺めた猪苗代の本郭跡周辺の遠景。本郭は標高551m:

猪苗代城ができる前に築かれたと云う鶴峰城跡から眺めたところ

猪苗代城遠景

以上で猪苗代城攻めは終了。このあとは猪苗代城の附城に指定されているお隣の鶴峰城跡へ。

See Also猪苗代城攻め (フォト集)

【参考情報】

鶴峰城

猪苗代城跡俯瞰図(コメント付き)猪苗代城跡の北西にある丘陵は鶴峰城《つるみねじょう》跡と云われ、猪苗代氏代々の隠居城であったという説があるが、往時は猪苗代城の別郭(分郭)であったと考えられ[l]一城別郭とも。ひとつの城が一つの郭《くるわ》に相当すると云う城は他に甲斐国の砥石城・米山城がある。、會津宰相猪苗代城跡俯瞰図(コメント付き)・蒲生氏郷が近世城郭として猪苗代城を改修したのに対し、鶴峰城は全く手が加えられておらず、猪苗代氏が退去した中世期頃の遺構が多く残されているらしい。

猪苗代城の北帯郭跡から北へ伸びる散策路を進んでいくと正面に丘陵が見てくるが、これが鶴峰城跡であり、その手前が堀切跡になっている:

猪苗代城の北帯郭跡から散策路を進んだ先にある標高555mの丘陵である

鶴峰城跡遠景

こちらは Google Earth 3D による城跡の俯瞰図に大凡の遺構の位置を重畳したもの。鶴峰城は南北に縦走する尾根を竪堀で分断していくつかの郭を構成している:

佐原経連《さはら・つねつら》が築いた日本最古の平山城跡である

亀ヶ城址公園俯瞰図(拡大版)

會津藩の東を守備するために改修された猪苗代城に対して、鶴峰城はほぼ手付かずの状態で残っていた

鶴峰城跡俯瞰図(コメント付き)

猪苗代城との境界線である掘り切り跡に造られた散策路から逸れて丘陵へ登っていくと南郭の虎口跡が見えてくる。但し、昔はスキーのジャンプ台が建っていたらしく、部分的に改変されている可能性が高い:

猪苗代城跡から堀切を挟んだ先にある南郭の虎口

南郭虎口跡

そして虎口を過ぎると細長い削平地に出るが、ここが①南郭跡。ここから猪苗代城の本郭を望むことができた:

猪苗代城とは堀切を挟んだところにある小さい郭

南郭跡

南郭跡を更に進んでいくと土塁が見えてくるが、この左手奥が②主郭南虎口:

20160821-鶴峰城攻め-011.resized

主郭南虎口跡

この左手奥は主郭南虎口に通じていた

南郭北側に残る土塁

主郭南虎口を過ぎたところには堀切が残っていた:

南郭(手前)と主郭(奥)を分断する堀切(右手氏はは猪苗代小学校)

堀切跡

こちらは土橋の上から左右それぞれの堀切跡を眺めたところ:

土橋から西側(左手)の堀切を見下ろしたところ

土橋から堀切(左手)

土橋から東側(右手)の堀切を見下ろすと猪苗代小学校が見えた

土橋から堀切(右手)

堀切跡を渡った先が③主郭跡。周囲は土塁で囲まれ、北東隅(右手奥)に物見櫓、東側(右手)には東門が建っていたと云う:

尾根の頂部(555m)に築かれた細長い郭である

主郭跡

主郭西側には④枡形虎口跡がある。ただし、大部分の石垣が崩れており、かろうじて枡形の形状がわかる程度であった:

西側の斜面に設けられた石積みの虎口が大手口とされている

主郭西側枡形虎口跡

こちらは主郭跡から猪苗代湖方面の眺め:

主郭跡から亀ヶ城公園と猪苗代湖、會津若松方面の眺めは視界を遮るものがほとんど無いので素晴らしかった

主郭跡からの眺め(拡大版)

主郭東側中央部の土塁が一部途切れているが、そこが⑤東門跡:

主郭東側中央部の土塁が途切れているところが門跡

東門跡

さらに散策路に沿って北へ進むと⑥物見櫓跡があるが、西側と比較するとこの東側は急な勾配になっていた:

主郭の北東隅に残る物見櫓跡で、この先は急勾配となっている

物見櫓跡

主郭の北東隅に残る物見櫓跡から主郭内部を眺めたところ

物見櫓跡と主郭跡

主郭東側の土塁上から。左手下には猪苗代小学校があるが、これは旧・猪苗代尋常高等小学校で、野口英世博士の母校でもある:

猪苗代小学校がある主郭の東側は急勾配であった

主郭東側

主郭跡を出て北へ向かうと、ここにも虎口(⑦主郭北虎口跡)があり、堀切で分断されていた:

ここも堀切で分断され土橋が設けられていた

主郭北虎口跡と堀切跡

土橋の上から城址東(小学校)側へ落ち込む巨大な堀切を見たところ

東側へ落ち込む堀切

堀切に架かった土橋を渡り、さらに尾根を伝って北へ向かうと⑧北郭跡に到着した。この郭は尾根筋からそのまま接続した高低差のない細長い郭で、意外と規模も小さいので出郭または物見櫓台だったのかも知れない:

この先にある北郭に向かって武者走り跡が残っていた

尾根筋を北へ

細長く小さい郭であり、出丸敵な役割だったのかもしれない

北郭跡

北郭跡から西側斜面の散策路で降りていく途中には⑨帯状の平場群があるが、これは小さな土塁と布堀りの細長い溝によって築かれた柵列《きれつ》跡だという:

北郭の西側斜面に残る小さな帯状恩平場群れのこと

柵列跡

こちらが亀ヶ城散策路のスタート地点

「鶴峰城址・散策路」

そして亀ヶ城公園北側の入口に到着した:

この先の丘陵上が鶴峰城の北郭跡で、右手には柵列跡があった

亀ヶ城公園の北側出入口

以上で鶴峰城攻めは終了。

See Also鶴峰城攻め (フォト集)

【参考情報】

土津神社と保科正之公墓所

城攻めを終えて軽くお昼を摂った後は亀ヶ城公園の北に位置し、會津若松城からは艮《うしとら》の方角[m]すなわち丑と寅の間で、鬼が出入りする「鬼門」にあたる。に建ち、會津藩祖・保科正之《ほしな・まさゆき》公が祀られた土津神社《はにつ・じんじゃ》へ。公園北口を出て県道R7交差点から磐梯山の麓にある猪苗代スキー場へ向かう緩い坂を真っ直ぐ上って行った先に神社がある:

スキー場へ向かう途中に土津神社とキリシタン殉教の地がある

案内板

猪苗代塩川線(県道R7)と猪苗代スキー場線の交差点から伸びる坂

土津神社の参道

こちらは神社の手前にあった歴代藩主の御休息所跡。もとは藩祖・正之公の御遺体を一時安置した御仮小屋で、のちに神社へ参拝する藩主が休息するための御殿[n]八間四方の木造平屋建中門造、屋根は茅葺き、内装は武家屋敷様式。が建っていた。神社が再建された後、昭和の時代まで県の研修所として再利用されていたらしい:

土津神社へ参詣する歴代藩主の休憩所として使われたと云う

御休息場跡

この建物は昭和の後期まで県の研修施設として再利用されていた

旧・積慶寮

こちらが土津神社。正面の石段の先にある太鼓橋を渡って鳥居をくぐるのが本来の参道であるが、当時は平成23(2011)年の東日本大震災により鳥居が損傷したため通行不可だった:

当時は東日本大震災で正面の大鳥居が損傷したため通行不可だった

土津神社

會津藩祖で三代将軍・徳川家光公とは異母兄弟にあたる保科正之《ほしな・まさゆき》公が祀られた土津神社は、二代藩主で嫡男の正経《まさつね》が延宝3(1675)年に造営した。往時、その豪華絢爛な様式は東照大権現[o]徳川家康とはいわずがな。を祀った日光東照宮にも比されたとも。しかしながら戊辰戦争の戦禍で伽藍など大部分が焼失し、現在見ることができる建造物は明治13(1880)年に再建されたものである。

神社境内と周辺の案内図がこちら。今回は、四日間の『奥州攻め』を終えて帰京する時間もあるので土津神社と保科正之公の墓所、そしてキリシタン殉難の地だけ巡ってきた。:

今回は土津神社と會津中将・保科正之公の墓所、そしてキリシタン殉教の地を巡ってきた

案内図(拡大版)

これは土田堰《はにた・せき》)と呼ばれる用水路。これは神社を永久に祭祀するための御神料《ごしんりょう》を得るための新田開拓に必要な用水路として造られた。300年以上経った今も猪苗代の水田を潤している:

永久祭祀にむけ御神料を得るための新田開拓に必要な用水路であった

土田堰

これが東日本大震災で被災した大鳥居。修復工事を行うため大鳥居の周辺は通行止めだった:

当時は大鳥居の修復工事があるため参道は通行止めだった

大鳥居

太鼓橋を渡った後は大鳥居を迂回するルートで男坂(女坂)なる石段をあがると社務所のある境内に到着する。なお會津中将・保科正之公の墓所は、この境内のさらに奥にある奥の院と呼ばれる高台にある。:

左手の建物が社務所、正面の石段上が拝殿、右手が神楽殿

境内

こちらが拝殿とその背後にある本殿:

左手に神饌所《しんせんしょ》、右手に神楽殿、背後に幣殿と本殿ある

拝殿

拝殿とは幣殿で連結されている

本殿

拝殿脇にある末社《まっしゃ》は保科正之公に仕えた大老・家老、そして土津神社の初代神官・服部安休《はっとり・あんきゅう》[p]本䏻寺の変で討ち死にした森蘭丸の孫にあたる。と早世した嫡男・七男を祀ったものもある:

會津藩の大老・家老、初代神官の他、正之公の嫡男と七男も祀っている

末社

こちらは日本一の石碑とされている「土津霊神之碑」(猪苗代町指定重要文化財):

重量は約30トン、全高7.6m、面積は22畳分で日ノ本一の石碑である

土津霊神之碑

保科正之公の生い立ちと事績を刻んだ石碑で、その大きさは日本最大である。伝説によると、初めは石碑の下に置かれた亀石は猪苗代湖を向いていたが、一夜のうちに湖まで這い出してしまったので、反対向きにしたのだと云う(写真右手が猪苗代湖方面)。なお亀は中国電ライオン瑞獣《ずいじゅう》の一つで、會津松平家の将来の繁栄を祈願するものらしい。

次は保科正之公の墓所がある奥の院へ向かう:

小高い高台までは、ここから距離は500m、時間にして徒歩15分ほど

奥の院入口

案内図によればこ、入口から距離は500m、時間にして徒歩15分ほど。杉並木の間にある緩やかな坂なのだけれど玉石が敷き詰められていて長時間の歩きは意外とと辛かった:

杉並木の間を玉石が敷き詰められた緩やかな坂

奥の院参道

しばらく歩くと町道と交差するが、そこには円清水《まるしみず》なる泉がある:

保科正之公が寿蔵地を決めるために歩いていた時に沸き出ていた泉

円清水

ここは保科正之公が自らの墓地(寿蔵地《じゅぞうち》)を決めるため歩いていた時に足元から清水が湧き出た場所で、この囲いの底には公の足跡が残っているらしい。

ちなみに町道を円清水とは反対側へ歩いて行くと見祢山《みよやま》部落がある。會津宰相・蒲生氏時代はキリシタン集落だったが、のちに壮絶な弾圧があったと云う:

かっては隠れキリシタンが多く住んでいたとされ、岡越後左内が守護した

見祢山部落

再び参道へ戻り奥の院へ進む。ちなみに先程の町道から奥の院の目の前の駐車場まで車で行くことも可能:

坂は緩いが玉石が引き詰められていて現代の靴で歩くには難儀した

杉並木と参道

そして奥の院へ到着。この門の扉には葵の御紋が掲げられていた:

ここに會津藩祖・會津中将こと保科正之公が眠る

奥の院

こちらは門と墓所の間に置かれた「會津中将源君之墓《あいづ・ちゅうじょう・げんくん・のはか》」の墓碑と石灯籠:

墳墓の手前に置かれた大きな石灯籠二基と表石

「會津中将源君之碑」

石碑の奥に見える円墳が墓所で、その頂上に「土津神墳鎮石《はにつしん・ふんしずめいし》」と刻んだ八角形の鎮石が建てられていた:

公の棺上に円墳を築き、頂上に土津神墳鎮石と刻んだ八角形の鎮石を置いた

保科正之公の墓所

公が江戸藩邸で亡くなる前に會津に帰郷し、磐椅神社《いわはし・じんじゃ》に参拝して「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と自らの埋葬地を猪苗代湖を一望できる磐梯山麓にと決心したのだと云う。これが遺言となり、二代藩主・正経によって造営され葬儀の後に棺が納められた。そして、猪苗代城は公の墓所を守護すると云う役割も担っていたとされる。


江戸時代初期の三名君の一人[q]他に水戸藩主・徳川光圀、岡山藩の池田光政がいる。とされた保科正之公は、徳川二代将軍・秀忠の四男として誕生した。幼名は幸松《こうまつ》。母は秀忠の乳母の侍女で、のちの浄光院[r]正妻・お江の性格から側室は認められず最初は妾扱いだった。小田原北條氏の旧臣・神尾栄嘉《かんお・さかよし》の娘とも。。母の出自から庶子扱いとして誕生してすぐに武田信玄の次女である見性院《けんしょういん》[s]武田家重臣・穴山信君《あなやま・のぶただ》の正妻。本能寺の変後に信君が横死すると穴山家を切り盛りした。に預けられた。その後、見性院の妹である信松尼《しんしょうに》[t]武田信玄の五女。織田信長の嫡子・信忠と婚約していたが信玄の西上作戦に伴い婚約破棄で兄・仁科盛信の下で暮らす。武田家滅亡直前に兄・勝頼とは別行動をとり、のちに小田原北條氏の庇護を受けた。も加わり、武蔵国八王子で養育された。

元和3(1617)年、見性院の縁で信濃国高遠《しなののくに・たかとお》へ移り、甲斐武田氏の旧臣で高遠藩主であった保科正光《ほしな・まさみつ》の子として育てられた。そして寛永6(1629)年、異母兄で徳川三代将軍・家光と次兄で駿河大納言・徳川忠長と対面した。家光・忠長から大変に気に入られ、幕命により保科肥後守正之《ほしな・ひごのかみ・まさゆき》に名を改め高遠藩主となった。

父・秀忠の死後、次兄・忠長は家光との政争に敗れ改易されたのちに自刃。身内で相談する者がいなくなった家光は正之をことのほか可愛がったと云う。正之もまた兄を助け、藩政でも手腕をふるい領民から慕われた。寛永13(1636)年に出羽国山形藩20万石で移封[u]この時、一緒に山形へ移りたいと高遠の農民らが逃散したとも。、さらに寛永20(1643)年には陸奥国會津23万石の大身となる。以降、正之の子孫が會津松平家を激動の幕末まで継承した。

慶安4(1651)年に病に冒された家光を見舞った際、枕元まで呼び寄せられて「肥後よ、宗家を頼みおく」と声をかけられたと云う。これに感銘を受けた正之はのちに『會津家訓十五箇条』を定めた。その第一条には『會津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主がそれを裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない』と記した。以降、歴代の藩主・藩士らはこれを忠実に守った。特に最後の藩主・松平容保はこの遺訓を固く守り、薩長ら官軍と激戦を繰りひろげた

寛文9(1669)年に嫡男の正経に家督を譲って隠居、同12(1672)年に江戸の三田藩邸で死去した。享年63。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義からこれを固辞し、生涯を保科姓で通した。松平姓は三代藩主・正容からである。

See Also 保科正之公墓所と岡左内公墓所 (フォト集)

土津神社
福島県耶麻郡猪苗代町字見禰山3

【参考情報】

  • 土津神社境内に建っていた説明板と案内板
  • 『土津神社と周辺マップ 〜 保科正之公の史跡を訪ねて』(発行・猪苗代町)
  • Wikipedia(保科正之)

キリシタン殉難の地(岡左内墓所?)

土津神社とは土田堰と町道を挟んで反対側に、「キリシタン殉難之地入口」と書かれた標柱と石碑が建っている場所がある:

正面の石碑の背後に回ると谷へ下りる道がある

「キリシタン殉難之地入口」の標柱と石碑

この先には弾圧で亡くなった殉教徒らの墓所と石碑が建っている

「キリシタン殉難の地」の案内板

こちらが「キリシタン殉教の地」の石碑:

江戸時代中期に熱心な信者は尽く弾圧され亡骸が埋葬された

「キリシタン殉教の地」の碑

ここ猪苗代でキリスト教が布教され、神学校(セミナリヨ)などが建っていた正確な年代は不明であるが、會津の地を治めた會津宰相こと蒲生氏郷はレオン(レオ)と云う洗礼名を持つキリシタン大名の一人であり、彼の家臣も主人に倣ってキリスト教に入信する者が少なからずいたらしい。殉死が習わしの時代である。多分に主従関係の信頼や絆によるものとされ、主義主張までがキリスト教に傾倒していたかは疑問である。

氏郷もはじめはキリスト教に興味は無かったが、天正13(1585)年に友人である高山右近(洗礼名はジュスト)に誘われて教えを受けたところ、聡明な氏郷は感激して洗礼を受け、會津入封に伴いキリスト教の布教を許したとされる。なおシオメンの洗礼名を持つ黒田孝高(黒田官兵衛)も左近と氏郷の勧めでキリスト教に入信したと云う。

そんな氏郷の重臣の一人に岡四郎左衛門定俊《おか・しろうざえもん・さだとし》、通称を岡左内《おか・さない》[v]あるいは岡野左内、岡野定政、岡野定俊とも。のちに越後守《えちごのかみ》を称す。とする勇士がいた。持ち前の勇猛さと機転の速さでめきめきと頭角をあらわし、晩年には一万石で猪苗代城代をも務めた[w]城代は氏郷の時代ではなく、氏郷没後に嫡男・秀行に仕えた時代である。。後世では金銭を蓄財して金貸しの真似事までして、仲間内からは吝嗇《りんしょく》[x]いわゆるケチ。者とも守銭奴とも言われずいぶん評判が悪かったと綴られたらしいが、そこは「腐っても鯛」である。氏郷麾下の時代は猛将として聞こえ、氏郷死後の形見分けとして公愛玩の猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織を賜るほど、氏郷に気に入られていた人物であった。

そんな彼がキリシタンとなるに至ったきっかけは、もちろん主人・氏郷の入信である。洗礼名はジョアン。左内は天正14(1586)年の九戸政実《くのへまさざね》の乱鎮定後に加増された。初め會津猫魔ヶ岳の麓、泉村にて5百石。次に猪苗代湖西岸で2千5百石。さらに天正20(1592)年には磐梯山麓のここ見祢山で4千石の所領を賜った。

文禄元(1595)年、主人は朝鮮出兵のため九州肥前国・名護屋城に参陣し、左内も従った。しかし氏郷は陣中で体調を崩し、翌年には會津に一時帰国した。この時、左内は氏郷から奥州のキリシタンを秀吉に知られずに密かに會津領へ集めて保護する計画を聞かされた。左内は會津若松城下の多くのキリシタンを磐梯山の山裾へ分散して住まわせ、ひと目のつかない山奥に教会やセミナリヨを建てるために人知れずに奔走した。これが家中における左内の異様なまでの累進の理由である。左内は猛将でありながら、行政能力も兼ね備えた人物であった。

文禄3(1594)年初めに氏郷は伏見城完成の祝いで病をおして上洛したが、かなり病状が悪化して誰の目にも重病であることは明らかであった。翌4(1594)年には完成した伏見蒲生屋敷にて権中納言・前田利家のつてで医師・曲直瀬道三《まなせ・どうさん》の診察を受けたものの病状は一向に好転せず、衰えが甚だしかったと云う。

氏郷の枕元に一人呼ばれた左内は會津見祢山のセミナリオが完成したことを報告した。氏郷は弱々しいが、だがしっかりとした声色で「うむ。良きかな。ジュストにも神父と宣教師の派遣を頼んでおいた。これにて、九戸での無垢の者を撫で斬りにした罪も幾分かは許してもらえるか」と。そして「ジョアンよ、汝、以後も見祢山の村を守るように。これ、我が最後の下知なり」。左内はしっかりと主人の目を見て「心得ました」と答えた。その答えに氏郷は安心して目を閉じた。そして翌日、主人は臨終の時を迎えた。左内は主人の墓前の前で「殿、見祢山の里は御意のままに」と小さくつぶやいた。

氏郷亡きあと會津蒲生家は混乱し、お家騒動もあって転封となった。左内は迷わず會津磐梯山に帰農し、亡き主人の遺命を守り、見祢山のキリシタンを保護する道を選んだ。そして蒲生家が去った會津には越後より上杉景勝が入部した。慶長4(1599)年に左内は直江山城兼続に仕え、同6(1601)年の「北の関ヶ原」と呼ばれた陸奥福嶋城下の松川の戦いでは伊達政宗と一騎打ちするなど戦功をあげた。上杉家が米沢に転封されると、左内は再び牢人して會津見祢山の土豪に戻った。亡き主人の遺言に沿ってあくまでもキリシタン村を守るためであったと云う。そして再び會津の領主となった蒲生秀行に仕えたと云う。

左内の猪苗代時代は、徳川幕府による禁教令が発布される前の元和8(1622)年まで記録が残っているから、その頃に没したと思われる。

そして寛永元(1624)年、三代将軍・家光が発した禁教令により、ここ見祢山の里でも苛烈なキリスト教弾圧が始まり、セミナリオは破壊され、棄教に応じない信徒らは悉く処刑され、この殉教の地に葬られたと云う。

こちらが、今も眠る殉教徒らの墓所:

一説に岡左内もしくはその家族もここに眠っているとか

殉教徒らの墓所

一説に、この墓は岡左内とその一族の墓と伝えられるが定かではない:

蒲生氏郷公が配下で知勇兼備の将・岡左内とその一族の墓所とも

キリシタン殉教の地

この当時も深い杜の中に天の光がやさしく差し込んでいた:

切支丹殉教の地に差し込む天の光

天の光

こちらは猪苗代駅へ向かう途中に見かけた日本基督教団猪苗代教会:

猪苗代町内で見かけた

現在のキリスト教支部

最後は殉教の地の隣で見た、土津神社初代社司を務めた服部安休《はっとり・あんきゅう》の墓所:

林羅山の下で儒学を修め、保科正之公の會津藩に召し抱えられた

服部安休之墓

安休は林羅山の下で儒学を修め、保科正之の會津藩に召し抱えられた。織田信長の小姓・森蘭丸の孫と云われている。

See Also 保科正之公墓所と岡左内公墓所 (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した戦い。この戦により頼朝は建久3(1192)年に征夷大将軍となり武家政権が確立した。
b. 隠居していた盛国は後妻との子・宗国を溺愛し、後妻からの讒言《ざんげん》に乗せられて盛胤の廃嫡を画策したと云われる。
c. それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。
d. 左内は、主君でキリシタン大名として有名な會津宰相・蒲生氏郷(洗礼名はレオ)にならってキリスト教に入信した。氏郷の遺言で猪苗代の切支丹村を守護し布教活動したと云う。
e. 磐梯火山《ばんだい・かざん》は磐梯山主峰(大磐梯)と櫛ヶ峰《くしがみね》、そして赤埴山《あかはにやま》の三つの峰からなる成層火山で、櫛ヶ峰や赤埴山を含んだ大きな山体から形成された古磐梯火山《こばんだい・かざん》のマグマや火山灰のこと。
f. 大手櫓門とも。
g. 伊達家は政宗の弟・小次郎が養子候補、佐竹家は「坂東太郎」こと義重の次男・義廣が候補だった。
h. 政宗は黒脛巾組《くろはばきぐみ》に命じて盛国の後妻に近づき、盛国に伊達勢に寝返るようにそそのかしたと云う説が有力だとか。
i. 城柵の一種で、木杭《くい》を立てて並べ、横木を通して設けた施設。
j. この当時は一部が通行不可だった。今思えば、理由は不明 😐 。
k. 別名は放銃教場。いわゆる射撃の練習場のこと。
l. 一城別郭とも。ひとつの城が一つの郭《くるわ》に相当すると云う城は他に甲斐国の砥石城・米山城がある。
m. すなわち丑と寅の間で、鬼が出入りする「鬼門」にあたる。
n. 八間四方の木造平屋建中門造、屋根は茅葺き、内装は武家屋敷様式。
o. 徳川家康とはいわずがな。
p. 本䏻寺の変で討ち死にした森蘭丸の孫にあたる。
q. 他に水戸藩主・徳川光圀、岡山藩の池田光政がいる。
r. 正妻・お江の性格から側室は認められず最初は妾扱いだった。小田原北條氏の旧臣・神尾栄嘉《かんお・さかよし》の娘とも。
s. 武田家重臣・穴山信君《あなやま・のぶただ》の正妻。本能寺の変後に信君が横死すると穴山家を切り盛りした。
t. 武田信玄の五女。織田信長の嫡子・信忠と婚約していたが信玄の西上作戦に伴い婚約破棄で兄・仁科盛信の下で暮らす。武田家滅亡直前に兄・勝頼とは別行動をとり、のちに小田原北條氏の庇護を受けた。
u. この時、一緒に山形へ移りたいと高遠の農民らが逃散したとも。
v. あるいは岡野左内、岡野定政、岡野定俊とも。のちに越後守《えちごのかみ》を称す。
w. 城代は氏郷の時代ではなく、氏郷没後に嫡男・秀行に仕えた時代である。
x. いわゆるケチ。