鎌倉時代に征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人であった三浦一族[a]現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《ミウラ・ドウスン》が最後の当主となった。の流れを汲む蘆名《アシナ》[b]「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。氏が恩給地であった陸奥国會津で勢力を扶植《フショク》し、十六代当主・盛氏《モリウジ》の代に戦国大名として最盛期を迎え、越後国東部から會津四郡と仙道七郡の大部分[c]現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。を掌握して會津守護を自称した。また盛氏は永禄4(1561)年から永禄11(1568)年までのあしかけ8年の歳月を費やし、會津の要衝にあって阿賀川《アガカワ》[d]旧名は大川。沿いにある向羽黒山(現在の岩崎山)の山頂とその山腹を城域とする壮大で巨大な山城を築いた。これが福島県大沼郡会津美里町船場にあった向羽黒山城[e]岩崎城または巌館《イワタテ》とも。である。そして、幼年であった嫡男の盛興《モリオキ》を本城の黒川城(のちの會津若松城)主とし、自らは止々斎《シシサイ》と号して隠居の身となり、この向羽黒山城を居城とした。ただし、隠居したとはいえ実質的には大御所として家中の全権を掌握し、持ち前の外交力を発揮して隣国の伊達家と並ぶ奥州屈指の大名に育て上げた。蘆名家滅亡後は伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝らそれぞれが要衝として城を改修し、関ヶ原の戦後に廃城となった。
今となっては一昨々年《サキオトトシ》は平成28(2016)年のお盆休みに、その前年の夏とその年の春に続く「奥州攻め」へ[f]それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。。今回は、4日間の日程のうち前半を宮城県、後半は福島県の城跡と勇将らの墓所を巡ってきた。ところどころ雨に遭遇するなど、すべて晴天に恵まれた訳ではなかったけど、一応は予定どおり攻めることができた。
三日目は、宿泊地の会津若松から AIZUマウントエクスプレスに乗って南若松駅(無人駅)で下車し、阿賀川を渡って会津美里町インフォメーションセンター(観光案内所)を経由して、羽黒山城跡へ向かうことにした。ちなみに会津美里町の案内によると、向羽黒山城跡のある白鳳山公園へはJR只見線の会津本郷駅が徒歩20分の最寄り駅であるとのことだが、いかんせん本数が少ないので南若松から徒歩40分かけて公園の麓にある観光案内所へ向かい、そこからさらに徒歩30分かけて城跡へ向かった(ピンク色の矢印):
駅から城跡へ向かうだけでも徒歩で1時間を要し、さらに広大な城域を歩きまわってきたので最後はホントに疲れた [g]もちろん帰りも同じ時間を要すことになる。。おまけに駅を降りたら突然の大雨で足止めをくらい、30分近く駅舎内で雨宿りするはめになった。このあと、三曲輪広場の駐車場あたりでも再び大雨に遭遇し、駐車場にあったトイレの中で雨宿りした。雨は午前中のみで、午後は晴れ上がり一曲輪跡から會津盆地の眺めは最高だった 。あと、阿賀川に架かる本郷大橋から城跡の遠景を眺めることができたのも良かった。
こちらが今回の城攻めルート:
(南若松駅) → 本郷大橋(眺望ポイント)→ 会津若松インフォメーション・センター → ①登城口(白鳳山公園入口) → (出世稲荷神社) → くるみ坂 → ②北曲輪跡 → 伝・盛氏屋敷跡 → ③三曲輪 → 三曲輪広場駐車場 → げんべ沼 → ④御茶屋場曲輪跡 → みかえり坂 → ⑤二曲輪跡 → ⑥水の手曲輪跡 → ⑦一曲輪跡 → 古城の道 → (家臣団屋敷跡) → ⑧弁天曲輪跡 → ・・・ → (南若松駅)
南若松駅を出て北上すると県道R128に出るので、それに沿って西へ向かい本郷大橋で阿賀川を渡る:
阿賀川は、福島県と群馬県に源流を持ち、新潟県を横断して日本海に注ぐ一級河川である阿賀野川《アガノガワ》水系の本流の一つにあたる。別名は大川。支流に只見川《タダミガワ》がある。
この橋の眺望ポイントから向羽黒山城跡がある白鳳山公園を眺めると、こんな感じ:
南から北へ會津盆地に突き出た岩崎山(標高408.8m)と羽黒山(標高344m)と観音山(標高285.5m)からなる白鳳三山《ハクホウ・サンザン》のうち岩崎山とその麓一帯が向羽黒山城の城域である:
阿賀川を渡ってから、さらに西進し県道R130と合流する交差点から南へ向かって行くと右手に観光案内所が見えてくる。そして、案内所と県道R128 を挟んだ目の前が白鳳山公園入口であり登城口でもある:
こちらが観光案内所で入手したパンフレット『国指定史跡・向羽黒山城跡』に掲載されていた白鳳山公園散策map:
この城跡入口から徒歩30分ほどかけて三曲輪《サンノクルワ》跡を目指す。途中「向羽黒山城跡整備資料室」なる建物があり、史跡整備で発掘された史料が展示されているらしかったが当時は休館だった。仕方がないので入口に貼ってあったポスターを撮ってきた:
そして登城道へ戻り、雨が上がって少し霞んだ会津美里町の風景を眺めつつ歩き続け、白鳳三山で一つ目の峰にあたる観音山とその麓に造られていたフィールド・アスレチック前を通過し、さらに歩き続けた先には二つ目の峰である羽黒山が左手に見えてきた:
標高344.0mの羽黒山には羽黒山神社(と出世稲荷神社)が建つ:
蘆名盛氏が隠居していた頃は羽黒山神社と出世稲荷神社は羽黒山の西北の峰に遷されたが、蘆名家が滅亡すると社殿は幾度も荒廃したが都度、村人により再建されて現在に至るとのこと。
さらに進んでいくとと伝・蘆名盛氏屋敷とされる北曲輪《キタグルワ》跡へ向かう分岐点がある。この分岐点は、会津美里町のホームページで公開している『向羽黒山城跡縄張図』だと赤矢印の始点あたり:
ここを折れて行くと、さらに北曲輪跡とくるみ坂との分岐点が見えてくる。くるみ坂を下った先は十日町口であるが、急斜面になるので散策は不可であり通行止めになっていた:
こちらが蘆名盛氏の屋敷跡として伝えられている北曲輪跡:
この曲輪の内部は三段構成になっており、屋敷が建っていたとされる場所は土塁と堀で囲まれていた:
ここには盛氏の屋敷が建っていたと伝わるが、試掘調査では未完成であった可能性も伺えるのだとか。と云うのも、天正3(1575)年に盛氏の嫡男である盛興が急死したため、盛氏は再び黒川城へ移ることになり、ここ北曲輪と三曲輪の整備を一部中断せざるを得なかったからだと云う。
あと、実際に歩きまわるとわかるが屋敷跡にしては予想以上に広い郭であった:
このあとは再び登城道へ[h]なお北曲輪跡から登城道へ出た目の前には駐車場とトイレがあるが、そこは三曲輪広場ではない。あしからず。戻り管理棟の前を通って、北曲輪跡と対面にある三曲輪跡へ向かった。こちらは、その合間から見えた三曲輪跡:
管理棟のすぐ脇に三曲輪の虎口跡があるので、ここから中に入る。『向羽黒山城跡縄張図』では赤矢印で折れた辺り。虎口片側には土塁らしきものが残っていたが、反対側は管理棟が建てられていて、ばっさりと改変されてしまっているようだった:
こちらが東西約30m、南北約40mの規模を持っていた三曲輪跡:
三曲輪は主に馬場として使われていたところであるが、城の西北を見張るのに適した郭であったことから、西側から南側にかけて幾重もの段曲輪が展開され、望楼や陣屋などが併設されていたと推測される:
このあとは登城道へ戻って二曲輪《ニノクルワ》跡方面へ。
ちょうど三曲輪広場の駐車場へ向かう手前には二曲輪と三曲輪とを分断する、城中で最大級の大堀切が残っていた:
こちらは登城道からそれぞれ藪下の堀切跡を見下ろしたところ:
こちらが三曲輪広場の駐車場。この辺りで大雨に見舞われたのでトイレで雨宿りした:
しばらくすると雨がやんだので、ここから少し降りたところにある「げんぺ沼[i]「源平沼」とも。」へ。往時は山城にあって貴重な水の手の役割を果たしたのだろうか:
この沼には福島県の天然記念物であるモリアオガエル[j]日本産のカエルの中で樹木の上に産卵するのは、この種だけとされている。が生息しているらしい。
このあとは駐車場を経由して再び登城道へ戻り、『向羽黒山城跡縄張図』の赤矢印に従って、御茶屋場曲輪《オチャヤバクルワ》跡へ:
ほどなく公園の休憩所風な場所が出現するが、こちらが御茶屋場曲輪跡:
この曲輪は往時、盛氏が時折盛大な茶会を開いていた場所と伝えられており、現在でも盛氏を偲んで毎年5月の最終日曜日にはここで茶会が催されているらしい。そういうこともあってか、黒川城跡(現在の會津若松城)が建つ会津盆地の眺めはすばらしかった。天気がよければ磐梯山を望むことができるらしい[k]この日の天気は午後から晴れ間が出たけど、磐梯山は雲の中だった 😥 :
同じく御茶屋場曲輪跡からの眺望。この奥には麓まで落ち込む竪堀跡があった:
次は二曲輪跡へ。登城道を挟んで御茶屋場曲輪と反対側にある「みかえり坂」を登る。『向羽黒山城跡縄張図』の赤矢印に従って腰曲輪跡・二曲輪跡・水の手曲輪跡を巡ってきた:
見返り坂は往時に造られた石段であり、その脇は石積が残っていた:
みかえり坂の石段を上った先には幾重かの腰曲輪があった。こちらは二東曲輪群に含まれる一段目の腰曲輪:
この腰曲輪には竪堀のような堀跡が残っていた:
再び、みかえり坂を上がって行くと脇には石垣(二曲輪石組)が残っていた:
さらに上り続けると一段目の腰曲輪跡に到着。この上に二曲輪の虎口がある:
そして、ここが二曲輪[l]一曲輪の別称「実城《ミジョウ》」に対して「中城《ナカジョウ》」とも。跡。現在は芝生が張られ四阿《アズマヤ》と展望施設が整備されている:
ここは、いわゆる近世城郭で云う本丸に相当する郭であり、平坦で広く、周囲360度を見渡すことができる位置にある上に、生活に必要な水の手が近くにあり、生活機能が重視されているのが特徴である。また、この削平地から礎石が発見されており建物が建っていた痕跡が残る。
こちらが展望台:
ここから阿賀川越しに會津盆地を眺めることができた:
これが三つある虎口の一つで、天正時代に大きな外枡形に改修された三日町口《ミッカマチグチ》虎口。往時、この坂を下った先に石積でできた内枡形の門が建っていた[m]このあと水の手曲輪跡を散策した時に見かけることになる。と云う:
また虎口の名前にあるように、城の周囲には宿町(城下町)がいくつもあったらしく、現在も三日町という地名で残っているのだとか。
さらに二曲輪跡を散策すると、いろいろ石材が散乱していた:
そして、こちらが三つ目の虎口。ここには門が建っていらしく、現在でも礎石が残っていた:
このあとは、そのまま虎口跡から二曲輪跡を出て階段を下りていく。すると公園の道路に出るが、ここはニ曲輪と一曲輪《イチノクルワ》の間に設けられていた巨大な堀切跡であり、道路は堀底道にあたる。さらに、ここには一曲輪の虎口として門が建っていたと云う:
現在、ここはトイレのある駐車場になっているが、トイレの脇には水の手曲輪跡へ向かう入口[n]水の手曲輪の虎口ではない。がある:
この入口から右手に二曲輪跡を見ながら進んでいくと分岐点(一つ目)が出てくるが右手に折れて水の手曲輪方面へ。ちなみに左手へ進むと、先ほど見てきた「げんぺ池」や三曲輪跡方面となる:
分岐点からニ曲輪の下にあたりまでくると二つ目の分岐点が出現する。ここにある石段を登った先が、二曲輪跡で見た三日町口虎口である:
二つ目の分岐点をさらに進むと、土塁と切岸で囲まれた内枡形虎口跡が見えてくる。鈎の手に折れた虎口の先が水の手曲輪である:
石積・石垣で造られた虎口には門が建ち、水の手曲輪内は馬出のような構造だったと云う。こちらは水の手曲輪跡の中から見た虎口:
こちらが水の手曲輪跡。緩やかな傾斜の中に馬出のような削平地や堀が設けられていた:
一部の堀底には井戸が設けられ、現在も石組の遺構が残っていた:
山の斜面を利用して小さな郭と堀から構成されていた水の手曲輪の西側の沢には三日町口大手があった。北曲輪にあった十日町口大手と共に向羽黒山城の大手口とされている[o]あるいは、どちらかが搦手口か。:
このあとは再び駐車場まで戻り、掘切跡の道路を挟んで向かい側に建つ説明板脇にある石段を登って一曲輪跡へ。『向羽黒山城跡縄張図』の赤矢印に従って竪堀脇を登って標高408.8mの岩崎山山頂を目指すことになるが、この郭周辺は中世の山城の特徴であるさまざまな遺構が残っており見応えが多かった:
石段を登り始めると、まずは右手に巨大な竪堀が見えてくる:
このような石段を登っていく:
その途中に竪堀が山頂から麓まで落ち込んだ様を見ることができる:
さらに登っていくと幾重かの腰曲輪跡があり、そこから往時は三日町口大手と呼ばれていた会津本郷町を眺めることができた:
こちらは三日月堀跡。堀や土塁で厳重に守られた、まさに中世の山城の典型的な技工が随所に見ることができた:
さらに石段を上って行くと横矢を仕掛けることができる場所だったり、:
枡形虎口が良好に残っていた:
そして、ここが岩崎山の山頂。この先に見える横堀で囲まれた土居が一曲輪下にある腰曲輪跡:
こちらが腰曲輪を囲む横堀と土橋跡:
石段を登って二段になった腰曲輪(下段)へ:
こちらは上段の腰曲輪跡。脇には石材がゴロゴロしていたが、これは石庭《イシニワ》の遺構と考えられている:
この腰曲輪跡の上が実城とも本丸とも呼ばれた一曲輪跡。東西約40m、南北は最大で約30mほどの他の郭と比べると小さく細長いのが特徴である:
この曲輪の東南側は阿賀川畔まで169mの絶壁になっているらしく、実際に Google Earth 3D上で城址の南側から俯瞰してみると、阿賀川に抉《エグ》られて絶壁になっていたであろうことが想像できた[p]さらに現在は田畑になっている河畔も、往時は阿賀川が流れていたであろうことも想像できる。。こちらは弁天曲輪跡から見上げるとよく判る;
さらに周囲は土塁や空堀、腰曲輪で厳重に固められ「詰城《ツメノシロ》」として使われることを想定した作りになっていたと云う。これらは蘆名家ののちに會津に入封した伊達家、蒲生家、そして上杉家も向羽黒山城を戦略的に重視して、それぞれ改修を加えてもとされる。
こちらは搦手にあたる曲輪の西端から眺めた一曲輪跡:
一曲輪北東端には櫓台のような遺構が残っているとのことだったが、当時は伐採した材木置き場になっていてよく分からなかった。この櫓は蘆名家ではなく蒲生氏郷が築いたものである。しかしながら、現在でもここからの眺望はなかなか素晴らしかった:
蘆名盛氏が失意のうちに居城を黒川城に移したあと、向羽黒山城は一時は廃城になった。そして盛氏死後、蘆名家は世継ぎ問題で混迷し、その隙を着いた伊達政宗が蘆名義広《アシナ・ヨシヒロ》[q]常陸国の戦国大名・佐竹義重の次男・盛重が蘆名家に養子入りした。率いる16千を摺上原《スリアゲハラ》で破ると、義広は黒川城を捨てて常陸国へ逃走した。ここで蘆名家は滅亡となる。
こののち蘆名家の旧領は伊達政宗が支配し黒川城を居城としていたが、天正18(1590)年の関白秀吉の惣無事令《ソウブジレイ》を破ったとして没収され、蒲生氏郷の所領となる。氏郷は會津若松城を居城とし、向羽黒山城は引き続き拠点の一つとして石垣を用いた城郭に改修された。ただし城代は不明。
氏郷死後、越後から上杉景勝が會津に入封すると、同様に向羽黒山城を二年の歳月をかけて大改修を施した。一説に、秀吉死後に會津討伐を起こした徳川家康らを迎撃する拠点と考えていたとも。しかし関ヶ原の戦で敗れた上杉家が米沢に転封されると、蒲生秀行が會津に復帰するが、この時に廃城となった。
こちらが搦手口。『向羽黒山城跡縄張図』の赤矢印に従って下りていくと「古城の道」に至るが、その途中にも大小の堀切が残っていた:
一曲輪跡を出てしばらく下りていくと、逆Y字型をした大堀切を横切るように搦手道が通っているので、連続した堀切を通過することになる。これは1つ目の堀切と土橋:
そして2つ目の堀切と土橋:
大堀切を通過すると道幅が狭くなった「古城の道」に入る。本丸である一曲輪に入る道は3つあり、その一つの搦手道に相当する:
こちらが搦手口:
ここから公園の道路[r]ここの道路は二曲輪下にあった道路とは異なり、後世の造物で堀切跡ではない。に出るので、「二の丸跡・お茶屋場跡」の案内板に従って公園の道路を東へ進む。しばらく歩くと三日町大手口跡へ向かう側道が見えてくる:
このまま一曲輪の入口前の堀底道へ合流し、そのまま東進すると岩崎山弁天神社・御水神社が建つ弁天曲輪跡に至る:
こちらが岩崎山弁天神社こと宗像《ムナカタ》神社。この神社の祭神は海津見糸《アマツミ》の女神弁財天である:
それから反対側が急崖となっている小径を通って御水神社へ。こちらの社は急峻な崖の上に建っていたが、往時はこの場所に櫓でも建っていたのだろうか:
ここは岩がごつごつとした狭い場所であったが、往時は天然の堀とされた阿賀川と會津盆地が一望できる場所でもあった:
そして、こちらは弁天曲輪跡から眺めた風景の動画二つ。
まずは阿賀川ごえに蘆名家の居城・黒川城跡(會津若松城跡)がある会津若松方面の眺め。午後は晴れ上がったが、靄がかかって磐梯山は拝めず :
最後は一曲輪があった岩崎山南側斜面の眺め。阿賀川に面した側は169mほどの絶壁となっていたのが判る:
以上で向羽黒山城攻めは終了。
向羽黒山城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 白鳳山公園に建っていた説明板と案内板(会津美里町教育委員会)
- 『国指定史跡・向羽黒山城跡』のリーフレット(会津美里町観光協会)
- 向羽黒山城跡に関する縄張図や案内図など各種資料(会津美里町教育委員会)
- 日本の城探訪(向羽黒山城)
- タクジローの日本全国お城めぐり(福島 > 岩代 向羽黒山城(会津美里町))
- 『完全詳解・山城ガイド』(学研ムック刊)
- Wikipedia(向羽黒山城)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINI刊)
會津蘆名家花見ヶ森廟
向羽黒山城跡を攻めてから三年後のGWは史上初の10連休で、その前半に福島県の城跡を巡ってきたが、会津若松に入ると残念ながら天候に恵まれなかったこともあり、一部の予定を変更して會津蘆名家の墓所と八角神社を参詣してきた。
なお廟所や遺構には「葦名」の字が使われていたが、本稿では碑銘や説明板の記述を除き「蘆名」の字で統一している。
雨のため予定していた小田山城跡攻めを断念して少し途方にくれたところ、小田山公園の入口前で偶然見つけた「旧會津領主・葦名家廟所」の標柱:
この奥にある広場が、會津蘆名家の中興の祖とも言われる第十六代当主・蘆名盛氏《アシナ・モリウジ》を初めとした三代の当主が眠る「花見ヶ森廟所 《ハナミガモリ・ビョウショ》」であった:
こちらが廟所に建っていた「葦名系図」。蘆名家は桓武平氏の流れを汲む相模国三浦氏から興った氏族の一つとされる:
初代当主は、平安時代末期に相模国の豪族で衣笠城主であった三浦三浦介義明《ミウラ・ミウラノスケ・ヨシアキ》の七男である佐原義連《サワラ・ヨシツラ》。三浦氏の居城・衣笠城の支城の一つである佐原城主で、征夷大将軍・源頼朝《ミナモト・ノ・ヨリトモ》の御家人の一人。文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した奥州合戦《オウシュウ・カッセン》に参陣し、その功で陸奥国會津四郡を与えられた。そして、義連の孫にあたる三代当主・佐原光盛《サハラ・ミツモリ》から「蘆名」姓を名乗る。
こちらが會津の地を治めて三百数年の蘆名家にあって、十六代当主であり中興の英主とも謳われた蘆名修理大夫盛氏《アシナ・シュリタユウ・モリウジ》公の墓所:
盛氏は大永元(1521)年に蘆名盛舜《アシナ・モリキヨ》の子として東黒川館で生まれた。兄の氏方《ウジカタ》は母が下賤の身であったため、天文10(1541)年に家督を継承した。妻は陸奥守護・伊達稙宗《ダテ・タネムネ》の娘。この翌年に隣国の伊達家で稙宗と嫡子・晴宗《ハルムネ》との間で内紛(天文の乱)がおこった際、初めは稙宗を支援したが、のちに晴宗に味方した。この盛氏による支援が晴宗勢優位を決定づけた。また、これと同時期の天文16(1548)年には、それまでの拠点である東黒川館を大改修して黒川城(後の會津若松城)とし、新たな居城とした。
また永禄元(1558)年には晴宗の娘を嫡男である盛興《モリオキ》の正室に迎え、同盟関係の伊達家を北の抑えとすると、積極的に隣国へ介入した。たとえば陸奥の田村隆顕《タムラ・タカアキ》や二本松(畠山)義国《ニホンマツ・ヨシクニ》、二階堂盛義《ニカイドウ・モリヨシ》、常陸の佐竹義重、そして越後の上杉謙信らと戦うために、相模の北條氏康や甲斐の武田信玄と同盟するなど遠交近攻の政策を推し進め版図を広げた。内政面でも金山開発や商人による流通を奨励するなど持ち前の政治力を発揮した。
そして會津一帯から仙道方面(現在の福島県仲通り方面)をほぼ勢力下に置いた頃、永禄4(1561)年に向羽黒山城の築城を開始、会津盆地の南の口を固める要衝として七年後に完成すると家督を盛興に譲り、自らは剃髪して止々斎《シシサイ》と号して隠居城とした。隠居したとはいえ、蘆名家の政治・軍事の実権は盛氏が握り家中の統制にあたった。
こうして蘆名家の最盛期を築いた盛氏であるが、その勢いに翳りが見えてきたのは十七代当主である盛興が嫡子を授かることなく急死してからである。
黒川城に戻った盛氏は、盛興の未亡人を二階堂盛義から人質として預かっていた盛隆《モリタカ》に娶らせて十八代当主に据え、自らは後見人として引き続き政務を執った。
しかし敵方である二階堂氏出身の当主に一部の重臣らは反発し、家中の統制が困難になる兆しが出てきた天正8(1580)年、盛氏は病死した。享年60。
こちらが十七代当主である蘆名修理大夫盛興《アシナ・シュリタユウ・モリオキ》公の墓所:
母は盛氏の正室で伊達稙宗の娘。永禄4(1561)年に齢15で家督を相続し黒川城主となるも、実権は父が掌握していた。永禄9(1566)年には伊達晴宗の四女を妻として迎えた。
しかし天正2(1574)年に病死。死因は酒毒とされている。享年27。
盛興には世継ぎがなく、蘆名氏と敵対し後に降伏した二階堂氏から養子を迎えて家督を継がせることになった。
最後は十八代当主である蘆名盛隆《アシナ・モリタカ》公の墓所:
陸奥国の戦国大名である須賀川二階堂氏の第七代当主・二階堂盛義の長男として生まれた盛隆は、父が蘆名盛氏と対立し敗れて降伏した際に人質として蘆名家に送られた。のちに盛氏の嫡男・盛興が早世すると、盛氏の養子となり、盛興の未亡人と結婚して蘆名家を継いだ。
養父・盛氏が死去すると蘆名家の実権を掌握すると、実父・盛義と共に衰退していた二階堂氏の勢力回復に務めたが、これが蘆名の重臣らの反発を招き、幾度か内乱に発展した。さらに謙信死後に上杉家の当主となった景勝と争っていたことから、逆に蘆名家中の撹乱を狙って重臣らが調略されるなど混迷した。
最後は黒川城内で家臣に襲われて死去。享年24。
こののち蘆名家は隣国の伊達氏や佐竹氏らに翻弄され、天正17(1589)年に伊達政宗と摺上原の戦いで大敗し、最後の当主・蘆名義廣《アシナ・ヨシヒロ》は支配地を失って、実家にあたる常陸国の佐竹家を頼って落ち延び、ここに奥州の戦国大名・蘆名氏は滅亡した。
最後は会津若松市内にある八角神社《ヤスミ・ジンジャ》。伊舎須弥神社《イサスミ・ジンジャ》とも呼ばれている:
こちらは左から八角天満宮、その隣が八角神社の拝殿。ここにあった會津蘆名家の東黒川館は後に黒川城下として発展し、蒲生氏郷が會津に移封され會津若松城とした:
八角神社境内を出て東側の塀近くには「石造層塔」があった:
もともとは五層の宝塔であったが現在は上部二層が無くなり塔身も火袋になっている。台座に「永徳四年」の銘が刻まれているおり、會津蘆名氏七代当主・直盛《ナオモリ》が東黒川館を築いた年と合致する。
以上で、會津蘆名家墓所の参詣は終了。
會津蘆名家墓所とゆかりの地 (フォト集)
【参考情報】
蘆名家花見ヶ森廟と八角神社に建っていた説明板・案内板
- 会津若松市の見どころ − 名刹と神社(旧市街周辺)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINI刊)
参照
↑a | 現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《ミウラ・ドウスン》が最後の当主となった。 |
---|---|
↑b | 「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。 |
↑c | 現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。 |
↑d | 旧名は大川。 |
↑e | 岩崎城または巌館《イワタテ》とも。 |
↑f | それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。 |
↑g | もちろん帰りも同じ時間を要すことになる。 |
↑h | なお北曲輪跡から登城道へ出た目の前には駐車場とトイレがあるが、そこは三曲輪広場ではない。あしからず。 |
↑i | 「源平沼」とも。 |
↑j | 日本産のカエルの中で樹木の上に産卵するのは、この種だけとされている。 |
↑k | この日の天気は午後から晴れ間が出たけど、磐梯山は雲の中だった 😥 |
↑l | 一曲輪の別称「実城《ミジョウ》」に対して「中城《ナカジョウ》」とも。 |
↑m | このあと水の手曲輪跡を散策した時に見かけることになる。 |
↑n | 水の手曲輪の虎口ではない。 |
↑o | あるいは、どちらかが搦手口か。 |
↑p | さらに現在は田畑になっている河畔も、往時は阿賀川が流れていたであろうことも想像できる。 |
↑q | 常陸国の戦国大名・佐竹義重の次男・盛重が蘆名家に養子入りした。 |
↑r | ここの道路は二曲輪下にあった道路とは異なり、後世の造物で堀切跡ではない。 |
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