阿賀川沿いの岩崎山頂に築かれた向羽黒山城の一曲輪からは會津盆地を一望できた

鎌倉時代に征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人であった三浦一族[a]現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《みうら・どうすん》が最後の当主となった。の流れを汲む蘆名《あしな》[b]「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。氏が恩給地であった陸奥国會津で勢力を扶植《ふしょく》し、十六代当主・盛氏《もりうじ》の代に戦国大名として最盛期を迎え、越後国東部から會津四郡と仙道七郡の大部分[c]現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。を掌握して會津守護を自称した。また盛氏は永禄4(1561)年から永禄11(1568)年までのあしかけ8年の歳月を費やし、會津の要衝にあって阿賀川《あがかわ》[d]旧名は大川。沿いにある向羽黒山(現在の岩崎山)の山頂とその山腹を城域とする壮大で巨大な山城を築いた。これが福島県大沼郡会津美里町船場にあった向羽黒山城[e]岩崎城または巌館《いわたて》とも。である。そして、幼年であった嫡男の盛興《もりおき》を本城の黒川城(のちの會津若松城)主とし、自らは止々斎《ししさい》と号して隠居の身となり、この向羽黒山城を居城とした。ただし、隠居したとはいえ実質的には大御所として家中の全権を掌握し、持ち前の外交力を発揮して隣国の伊達家と並ぶ奥州屈指の大名に育て上げた。蘆名家滅亡後は伊達政宗蒲生氏郷上杉景勝らそれぞれが要衝として城を改修し、関ヶ原の戦後に廃城となった。

今となっては一昨々年《さきおととし》は平成28(2016)年のお盆休みに、その前年の夏とその年の春に続く「奥州攻め」へ[f]それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。。今回は、4日間の日程のうち前半を宮城県、後半は福島県の城跡と勇将らの墓所を巡ってきた。ところどころ雨に遭遇するなど、すべて晴天に恵まれた訳ではなかったけど、一応は予定どおり攻めることができた:)

三日目は、宿泊地の会津若松から AIZUマウントエクスプレスに乗って南若松駅(無人駅)で下車し、阿賀川を渡って会津美里町インフォメーションセンター(観光案内所)を経由して、羽黒山城跡へ向かうことにした。ちなみに会津美里町の案内によると、向羽黒山城跡のある白鳳山公園へはJR只見線の会津本郷駅が徒歩20分の最寄り駅であるとのことだが、いかんせん本数が少ないので南若松から徒歩40分かけて公園の麓にある観光案内所へ向かい、そこからさらに徒歩30分かけて城跡へ向かった(ピンク色の矢印):

会津鉄道の南若松から本郷大橋を渡り、観光案内所を経由して城跡へ

白鳳山公園の周辺図(拡大版)

駅から城跡へ向かうだけでも徒歩で1時間を要し、さらに広大な城域を歩きまわってきたので最後はホントに疲れた :$ [g]もちろん帰りも同じ時間を要すことになる。。おまけに駅を降りたら突然の大雨で足止めをくらい、30分近く駅舎内で雨宿りするはめになった。このあと、三曲輪広場の駐車場あたりでも再び大雨に遭遇し、駐車場にあったトイレの中で雨宿りした。雨は午前中のみで、午後は晴れ上がり一曲輪跡から會津盆地の眺めは最高だった :)。あと、阿賀川に架かる本郷大橋から城跡の遠景を眺めることができたのも良かった。

こちらが今回の城攻めルート:

(南若松駅) → 本郷大橋(眺望ポイント)→ 会津若松インフォメーション・センター → ①登城口(白鳳山公園入口) → (出世稲荷神社) → くるみ坂 → ②北曲輪跡 → 伝・盛氏屋敷跡 → ③三曲輪 → 三曲輪広場駐車場 → げんべ沼 → ④御茶屋場曲輪跡 → みかえり坂 → ⑤二曲輪跡 → ⑥水の手曲輪跡 → ⑦一曲輪跡 → 古城の道 → (家臣団屋敷跡) → ⑧弁天曲輪跡 → ・・・ → (南若松駅)

南若松駅を出て北上すると県道R128に出るので、それに沿って西へ向かい本郷大橋で阿賀川を渡る:

会津美里町は悪疫退散と五穀豊穣・家内安全を祈願する獅子舞が有名

本郷大橋の欄干

福島県と栃木県の県境にある荒海山を水源とし、会津南部を北上する清流

阿賀川(大川)

阿賀川は、福島県と群馬県に源流を持ち、新潟県を横断して日本海に注ぐ一級河川である阿賀野川水系《あがのがわ・すいけい》の本流の一つにあたる。別名は大川。支流に只見川《ただみがわ》がある。

この橋の眺望ポイントから向羽黒山城跡がある白鳳山公園を眺めると、こんな感じ:

手前の阿賀川の先に岩崎山・羽黒山・観音山の三つの峰が連なる白鳳山公園があり、白鳳三山または向羽黒山と呼ばれている

白鳳山公園の全景(拡大版)

標高408mの岩崎山の山頂を中心に城域が広がり、黒川城から直線距離で6km南にある

向羽黒山城跡

南から北へ會津盆地に突き出た岩崎山(標高408.8m)と羽黒山(標高344m)と観音山(標高285.5m)からなる白鳳三山《はくほうさんざん》のうち岩崎山とその麓一帯が向羽黒山城の城域である:

阿賀川に架かる本郷大橋から城址の遠景を眺めることができる

白鳳三山(右手が北方面)

阿賀川を渡ってから、さらに西進し県道R130と合流する交差点から南へ向かって行くと右手に観光案内所が見えてくる。そして、案内所と県道R128 を挟んだ目の前が白鳳山公園入口であり登城口でもある:

この坂道を30分ほど徒歩で登っ向羽黒山城跡へ向かった

城跡入口

平成13(2001)年に史跡に指定された向羽黒山城跡

「国指定史跡・向羽黒山城跡入口」の碑

こちらが観光案内所で入手したパンフレット『国指定史跡・向羽黒山城跡』に掲載されていた白鳳山公園散策map:

車であれば三曲輪跡にある駐車場まで一気に登って行けるが徒歩だと30分位

白鳳山公園散策map(拡大版)

この城跡入口から徒歩30分ほどかけて三曲輪《さんのくるわ》跡を目指す。途中「向羽黒山城跡整備資料室」なる建物があり、史跡整備で発掘された史料が展示されているらしかったが当時は休館だった。仕方がないので入口に貼ってあったポスターを撮ってきた:

当時は休館中だった向羽黒山城跡整備資料室にて

「蘆名氏を語らずに会津は語れない」

そして登城道へ戻り、雨が上がって少し霞んだ会津美里町の風景を眺めつつ歩き続け、白鳳三山で一つ目の峰にあたる観音山とその麓に造られていたフィールド・アスレチック前を通過し、さらに歩き続けた先には二つ目の峰である羽黒山が左手に見えてきた:

三曲輪跡へ続く登城道で、左手上が白鳳三山の一つである羽黒山

登城道

標高344.0mの羽黒山には羽黒山神社(と出世稲荷神社)が建つ:

この石段を180段程登った先に羽黒権現を祀った社が建っている

羽黒山神社

蘆名盛氏が隠居していた頃は羽黒山神社と出世稲荷神社は羽黒山の西北の峰に遷されたが、蘆名家が滅亡すると社殿は幾度も荒廃したが都度、村人により再建されて現在に至るとのこと。

さらに進んでいくとと伝・蘆名盛氏屋敷とされる北曲輪《きたぐるわ》跡へ向かう分岐点がある。この分岐点は、会津美里町のホームページで公開している『向羽黒山城跡縄張図』だと赤矢印の始点あたり:

羽黒神社入口脇にあるくるみ坂への分岐で、正面奥が三曲輪跡方面

北曲輪跡方面の分岐点

赤矢印の始点あたりが分岐点であり、終点が盛氏館跡の北曲輪

『向羽黒山城跡縄張図』

ここを折れて行くと、さらに北曲輪跡とくるみ坂との分岐点が見えてくる。くるみ坂を下った先は十日町口であるが、急斜面になるので散策は不可であり通行止めになっていた:

この先は城の十日町口に至るが、現在は通行不可になっている

くるみ坂

左手奥が十日町口へおりるくるみ坂、右手奥が北曲輪跡方面

くるみ坂と北曲輪の分岐

こちらが蘆名盛氏の屋敷跡として伝えられている北曲輪跡:

あくまでも伝えられるところでは蘆名家中興の祖・盛氏の屋敷があったと云う

北曲輪跡

この曲輪の内部は三段構成になっており、屋敷が建っていたとされる場所は土塁と堀で囲まれていた:

屋敷が建っていたとされる場所は土塁と堀で囲まれていた

北曲輪跡

ここには盛氏の屋敷が建っていたと伝わるが、試掘調査では未完成であった可能性も伺えるのだとか。と云うのも、天正3(1575)年に盛氏の嫡男である盛興が急死したため、盛氏は再び黒川城へ移ることになり、ここ北曲輪と三曲輪の整備を一部中断せざるを得なかったからだと云う。

あと、実際に歩きまわるとわかるが屋敷跡にしては予想以上に広い郭であった:

北曲輪は土塁と堀に囲まれていた

土塁

屋敷跡は三段に造成されているが、未完成という可能性もあるのだとか

このあとは再び登城道へ[h]なお北曲輪跡から登城道へ出た目の前には駐車場とトイレがあるが、そこは三曲輪広場ではない。あしからず。戻り管理棟の前を通って、北曲輪跡と対面にある三曲輪《さんのくるわ》跡へ向かった。こちらは、その合間から見えた三曲輪跡:

登城道から眺めた三曲輪跡は北曲輪跡と登城道を挟んで南側にある

三曲輪跡の遠景

管理棟のすぐ脇に三曲輪(三の丸)の虎口跡があるので、ここから中に入る。『向羽黒山城跡縄張図』では赤矢印で折れた辺り。虎口片側には土塁らしきものが残っていたが、反対側は管理棟が建てられていて、ばっさりと改変されてしまっているようだった:

虎口には左手に土塁、右手の土塁は改変されて管理棟になっていた

三曲輪の虎口跡

赤矢印に従って登城道から三曲輪跡へ向かう

『向羽黒山城跡縄張図』

こちらが東西約30m、南北約40mの規模を持っていた三曲輪跡:

東西約30m、南北約40mの規模を持ち、主に馬場として使われたらしい

三曲輪跡

三曲輪は主に馬場として使われていたところであるが、城の西北を見張るのに適した郭であったことから、西側から南側にかけて幾重もの段曲輪が展開され、望楼や陣屋などが併設されていたと推測される:

郭の周囲には幾重もの段郭が設けられ、望楼や陣屋などがそれぞれ設けられていたと云う(現在の会津美里町の眺め)

三曲輪跡か城の西北の眺め(拡大版)

このあとは登城道へ戻って二曲輪《にのくるわ》跡方面へ。

ちょうど三曲輪広場の駐車場へ向かう手前には二曲輪と三曲輪とを分断する、城中で最大級の大堀切が残っていた:

手前(三曲輪跡方面)から奥の二曲輪跡へ向かう登城道脇に残る

大堀切跡

土橋に相当する登城道の両脇の藪下に残っていた

大堀切跡(コメント付き)

こちらは登城道からそれぞれ藪下の堀切跡を見下ろしたところ:

三曲輪と二曲輪の間にある大堀切を土橋跡の登城道から見下したところ

大堀切跡(左手)

こちら側は藪化していてよく分からなかったが、この下には源平池がある

大堀切跡(右手)

こちらが三曲輪広場の駐車場。この辺りで大雨に見舞われたのでトイレで雨宿りした:

右手奥にトイレがある

三曲輪広場の駐車場

しばらくすると雨がやんだので、ここから少し降りたところにある「げんぺ沼[i]「源平沼」とも。」へ。往時は山城にあって貴重な水の手の役割を果たしたのだろうか:

往時はもっと大きな池だった

げんぺ沼

この沼には福島県の天然記念物であるモリアオガエル[j]日本産のカエルの中で樹木の上に産卵するのは、この種だけとされている。が生息しているらしい。

このあとは駐車場を経由して再び登城道へ戻り、『向羽黒山城跡縄張図』の赤矢印に従って、御茶屋場曲輪《おちゃやばくるわ》跡へ:

「二西曲輪群」辺りが二曲輪と三曲輪との間にある大堀切

『向羽黒山城跡縄張図』

ほどなく公園の休憩所風な場所が出現するが、こちらが御茶屋場曲輪跡:

蘆名盛氏が盛大な茶会を開いていた場所と云われている

御茶屋場曲輪跡

現在でも、この場所で毎年5月に御茶会が開かれているのだとか

四阿

この曲輪は往時、盛氏が時折盛大な茶会を開いていた場所と伝えられており、現在でも盛氏を偲んで毎年5月の最終日曜日にはここで茶会が催されているらしい。そういうこともあってか、黒川城跡(現在の會津若松城)が建つ会津盆地の眺めはすばらしかった。天気がよければ磐梯山を望むことができるらしい[k]この日の天気は午後から晴れ間が出たけど、磐梯山は雲の中だった 😥

右手に流れるのが阿賀川(大川)で、右手奥に會津若松城天守が見えた

会津本郷町の眺め

同じく御茶屋場曲輪跡からの眺望。この奥には麓まで落ち込む竪堀跡があった:

手前を流れるのが阿賀川で、正面には館山が見え、その先には猪苗代湖がある

御茶屋場曲輪跡からの眺望(拡大版)

次は二曲輪跡へ。登城道を挟んで御茶屋場曲輪と反対側にある「みかえり坂」を登る。『向羽黒山城跡縄張図』の赤矢印に従って腰曲輪跡・二曲輪跡・水の手曲輪跡を巡ってきた:

御茶屋場曲輪跡の手前、登城道を挟んで二曲輪方面にある

みかえり坂の入口

二曲輪跡を降りて、駐車場脇から水の手曲輪跡へ

『向羽黒山城跡縄張図』

見返り坂は往時に造られた石段であり、その脇は石積が残っていた:

しっかりと造られた石段は往時の遺構である

みかえり坂

これは往時の石積遺構である

坂の脇に残る石積み

みかえり坂の石段を上った先には幾重かの腰曲輪があった。こちらは二東曲輪群に含まれる一段目の腰曲輪:

二曲輪を囲む腰曲輪一つで、左手上に二段目の腰曲輪、さらにその上が二曲輪となる

腰曲輪跡(拡大版)

この腰曲輪には竪堀のような堀跡が残っていた:

この下にも腰曲輪があるようだ(藪化してよく判からなかったが)

竪堀?

再び、みかえり坂を上がって行くと脇には石垣(二曲輪石組)が残っていた:

二曲輪石組と呼ばれ、現存の石垣とのこと

みかえり坂脇の石垣

さらに上り続けると一段目の腰曲輪跡に到着。この上に二曲輪の虎口がある:

二曲輪下の腰曲輪で、さらに石段の上が虎口

腰曲輪跡

二曲輪に三つある虎口の一つで、この先が二曲輪跡

二曲輪虎口跡

そして、ここが二曲輪[l]一曲輪の別称「実城《みじょう》」に対して「中城《なかじょう》」とも。跡。現在は芝生が張られ四阿と展望施設が整備されている:

近くに水の手があり、実質的に近世城郭で云う本丸に相当する郭であった

二曲輪跡

ここは、いわゆる近世城郭で云う本丸に相当する郭であり、平坦で広く、周囲360度を見渡すことができる位置にある上に、生活に必要な水の手が近くにあり、生活機能が重視されているのが特徴である。また、この削平地から礎石が発見されており建物が建っていた痕跡が残る。

こちらが展望台:

阿賀川の清流を眼下に眺望絶佳のこの郭から盛氏の夢を伝える

二曲輪展望台

ここから阿賀川越しに會津盆地を眺めることができた:

中央の杜あたりに見える天守が會津若松城で、蘆名家・伊達家の時代は黒川城と呼ばれていた城跡である

黒川城跡の眺望(拡大版)

これが三つある虎口の一つで、天正時代に大きな外枡形に改修された三日町口《みっかまちぐち》虎口。往時、この坂を下った先に石積でできた内枡形の門が建っていた[m]このあと水の手曲輪跡を散策した時に見かけることになる。と云う:

天正時代に大きな外枡形に改修され、この下に石積で出来た虎口があった

三日町口虎口跡

天正時代に石積石垣のある内枡形の門が建てられ、水の手曲輪があった

虎口から見下ろす

また虎口の名前にあるように、城の周囲には宿町(城下町)がいくつもあったらしく、現在も三日町という地名で残っているのだとか。

さらに二曲輪跡を散策すると、いろいろ石材が散乱していた:

これも建物の礎石として使われたものであろうか?

散乱していた石材

そして、こちらが三つ目の虎口。ここには門が建っていらしく、現在でも礎石が残っていた:

二曲輪南側の虎口には門が建ち、手前の坂道脇には石積みが築かれていた

二曲輪南側虎口跡

このあとは、そのまま虎口跡から二曲輪跡を出て階段を下りていく。すると公園の道路に出るが、ここはニ曲輪と一曲輪《いちのくるわ》の間に設けられていた巨大な堀切跡であり、道路は堀底道にあたる。さらに、ここには一曲輪の虎口として門が建っていたと云う:

この道路は二曲輪(左手)と一曲輪(右手)との間にあった堀切だった

堀切・門跡

現在、ここはトイレのある駐車場になっているが、トイレの脇には水の手曲輪跡へ向かう入口[n]水の手曲輪の虎口ではない。がある:

二曲輪下にある駐車場の奥から入る(ここは虎口ではない)

水の手曲輪方面の入口

この入口から右手に二曲輪跡を見ながら進んでいくと分岐点(一つ目)が出てくるが右手に折れて水の手曲輪方面へ。ちなみに左手へ進むと、先ほど見てきた「げんぺ池」や三曲輪跡方面となる:

左手へ進むと「げんぺ池(源平池)」、右手奥が水の手曲輪跡

一つ目の分岐点

分岐点からニ曲輪の下にあたりまでくると二つ目の分岐点が出現する。ここにある石段を登った先が、二曲輪跡で見た三日町口虎口である:

手前が堀切で、右手奥の石段上が二曲輪の三日町口虎口である

内枡形の虎口跡

この石段の上が二曲輪の三日町口虎口

三日町口虎口方面

二つ目の分岐点をさらに進むと、土塁と切岸で囲まれた内枡形虎口跡が見えてくる。鈎の手に折れた虎口の先が水の手曲輪である:

往時は石積石垣でてきた門があったらしく、周囲には石が散乱していた

水の手曲輪の内枡形虎口

矢印のように鍵の手になった内枡形虎口で門が建っていた

コメント付き

石積・石垣で造られた虎口には門が建ち、水の手曲輪内は馬出のような構造だったと云う。こちらは水の手曲輪跡の中から見た虎口:

曲輪側は馬出のような形をしており、内枡形の虎口から守り手が出撃できるような構造だった

水の手曲輪跡と虎口(拡大版)

こちらが水の手曲輪跡。緩やかな傾斜の中に馬出のような削平地や堀が設けられていた:

ゆるやかな斜面にたくさんの堀が設けられていた

水の手曲輪内の堀

一部の堀底には井戸が設けられ、現在も石組の遺構が残っていた:

緩やかな傾斜を持つ郭を分断する堀

堀底には井戸が設けられているところがあった

石組

山の斜面を利用して小さな郭と堀から構成されていた水の手曲輪の西側の沢には三日町口大手があった。北曲輪にあった十日町口大手と共に向羽黒山城の大手口とされている[o]あるいは、どちらかが搦手口か。

往時、この曲輪の先には城の大手口にあたる三日町口大手があった

水の手曲輪跡

このあとは再び駐車場まで戻り、掘切跡の道路を挟んで向かい側に建つ説明板脇にある石段を登って一曲輪跡へ。『向羽黒山城跡縄張図』の赤矢印に従って竪堀脇を登って標高408.8mの岩崎山山頂を目指すことになるが、この郭周辺は中世の山城の特徴であるさまざまな遺構が残っており見応えが多かった:

二曲輪下の駐車場の向かい側にある入口から石段を登って一曲輪跡へ

『向羽黒城一曲輪』の説明板と石段

竪堀を横目に石段を登って一曲輪跡へ

『向羽黒山城跡縄張図』

石段を登り始めると、まずは右手に巨大な竪堀が見えてくる:

標高408.8mの岩崎山山頂にある一曲輪から堀切(公園の道路)まで落ち込んでいる竪堀

竪堀(拡大版)

このような石段を登っていく:

これらの石段は往時の遺構である

一曲輪跡へ続く石段

その途中に竪堀が山頂から麓まで落ち込んだ様を見ることができる:

一曲輪から落ち込んでいる竪堀を見上げたところ

竪堀

先ほどの入口がある麓前落ち込んでいる竪堀を見下したところ

竪堀

さらに登っていくと幾重かの腰曲輪跡があり、そこから往時は三日町口大手と呼ばれていた会津本郷町を眺めることができた:

手前下には堀切跡(公園の道路)があり、その先の小丘が二曲輪跡、さらに先が三日町口大手があった辺り

二曲輪と三日町口大手方面の眺め(拡大版)

こちらは三日月堀跡。堀や土塁で厳重に守られた、まさに中世の山城の典型的な技工が随所に見ることができた:

詰めの曲輪であった一曲輪は多彩な堀や土塁で厳重に守られていた

三日月堀跡

さらに石段を上って行くと横矢を仕掛けることができる場所だったり、:

正面や側面から寄手を迎撃できる登城道になっていた

一曲輪跡へ続く石段

枡形虎口が良好に残っていた:

この上にある一曲輪を囲む腰曲輪に設けられた施設の一つ

桝形虎口

鍵の手に折れた虎口の周囲には土塁が残っていた

桝形虎口

そして、ここが岩崎山の山頂。この先に見える横堀で囲まれた土居が一曲輪下にある腰曲輪跡:

奥に見える腰曲輪の周囲には横堀が設けられていた

「岩崎山頂・向羽黒城址」の標柱

こちらが腰曲輪を囲む横堀と土橋跡:

寄手が一曲輪へ向かうには横堀に架かる土橋を渡る必要がある

土橋跡

左手上の腰曲輪に沿って設けられた横堀

横堀

石段を登って二段になった腰曲輪(下段)へ:

一曲輪へ向かう石段を登ると腰曲輪がある

石段

一曲輪の下には多くの腰曲輪があり、大手道沿いには上下二段構成だった

腰曲輪跡下段

こちらは上段の腰曲輪跡。脇には石材がゴロゴロしていたが、これは石庭《いしにわ》の遺構と考えられている:

この郭には石庭の遺構と考えられる石材が多数残っていた

腰曲輪跡上段

この腰曲輪跡の上が実城とも本丸とも呼ばれた一曲輪跡。東西約40m、南北は最大で約30mほどの他の郭と比べると小さく細長いのが特徴である:

「国指定史跡・向羽黒山城跡・一曲輪」のヒュ中が建つ

一曲輪跡

この曲輪の東南側は阿賀川畔まで169mの絶壁になっているらしく、実際に Google Earth 3D上で城址の南側から俯瞰してみると、阿賀川に抉《えぐ》られて絶壁になっていたであろうことが想像できた[p]さらに現在は田畑になっている河畔も、往時は阿賀川が流れていたであろうことも想像できる。。こちらは弁天曲輪跡から見上げるとよく判る;

現在、国指定史跡となった岩崎山周辺の城跡は白鳳山公園の一部として整備されていた

白鳳山公園周辺図(Google Earthより)

一曲輪の南東側は阿賀川が抉りとった急崖になっているのがよく判る(現在の川の流れは西にずれている)

向羽黒山城跡周辺図(コメント付き)

さらに周囲は土塁や空堀、腰曲輪で厳重に固められ「詰城《つめのしろ》」として使われることを想定した作りになっていたと云う。これらは蘆名家ののちに會津に入封した伊達家、蒲生家、そして上杉家も向羽黒山城を戦略的に重視して、それぞれ改修を加えてもとされる。

こちらは搦手にあたる曲輪の西端から眺めた一曲輪跡:

細長い一曲輪の西端にあたる搦手側から眺めたところ

一曲輪跡

一曲輪北東端には櫓台のような遺構が残っているとのことだったが、当時は伐採した材木置き場になっていてよく分からなかった。この櫓は蘆名家ではなく蒲生氏郷が築いたものである。しかしながら、現在でもここからの眺望はなかなか素晴らしかった:

一曲輪北東端にある蒲生氏郷が築いた櫓台遺構あたりから三日町大手口(現在の会津美里町)の眺望

櫓台跡からの眺望(拡大版)

蘆名盛氏が失意のうちに居城を黒川城に移したあと、向羽黒山城は一時は廃城になった。そして盛氏死後、蘆名家は世継ぎ問題で混迷し、その隙を着いた伊達政宗が蘆名義広《あしな・よしひろ》[q]常陸国の戦国大名・佐竹義重の次男・盛重が蘆名家に養子入りした。率いる16千を摺上原《すりあげはら》で破ると、義広は黒川城を捨てて常陸国へ逃走した。ここで蘆名家は滅亡となる。

こののち蘆名家の旧領は伊達政宗が支配し黒川城を居城としていたが、天正18(1590)年の関白秀吉の惣無事令《そうぶじれい》を破ったとして没収され、蒲生氏郷の所領となる。氏郷は會津若松城を居城とし、向羽黒山城は引き続き拠点の一つとして石垣を用いた城郭に改修された。ただし城代は不明。

氏郷死後、越後から上杉景勝が會津に入封すると、同様に向羽黒山城を二年の歳月をかけて大改修を施した。一説に、秀吉死後に會津討伐を起こした徳川家康らを迎撃する拠点と考えていたとも。しかし関ヶ原の戦で敗れた上杉家が米沢に転封されると、蒲生秀行が會津に復帰するが、この時に廃城となった。


こちらが搦手口。『向羽黒山城跡縄張図』の赤矢印に従って下りていくと「古城の道」に至るが、その途中にも大小の堀切が残っていた:

ここを降りて行くと古城の道になる

搦手口

大堀切を経て古城の道から公園道路へ

『向羽黒山城跡縄張図』

一曲輪跡を出てしばらく下りていくと、逆Y字型をした大堀切を横切るように搦手道が通っているので、連続した堀切を通過することになる。これは1つ目の堀切と土橋:

一曲輪下の大堀切は逆Y字型になってので堀切が連続する

1つ目の堀切

そして2つ目の堀切と土橋:

一曲輪下の大堀切は逆Y字型になってので堀切が連続する

2つ目の堀切

大堀切を通過すると道幅が狭くなった「古城の道」に入る。本丸である一曲輪に入る道は3つあり、その一つの搦手道に相当する:

一曲輪に続く登城道の一つであり、この先から道幅が狭くなっていた

古城の道

こちらが搦手口:

左が「二の丸跡・お茶屋場跡」、右が「窕坂《うつろざか》」方面となる

一曲輪・搦手口

ここから公園の道路[r]ここの道路は二曲輪下にあった道路とは異なり、後世の造物で堀切跡ではない。に出るので、「二の丸跡・お茶屋場跡」の案内板に従って公園の道路を東へ進む。しばらく歩くと三日町大手口跡へ向かう側道が見えてくる:

ここは、二曲輪下にある道路とは異なり、後世の造物で堀底道ではない

公園の道路

この下は家臣団の屋敷跡

三日町大手口方面

このまま一曲輪の入口前の堀底道へ合流し、そのまま東進すると岩崎山弁天神社・御水神社が建つ弁天曲輪跡に至る:

この曲輪跡には弁天(宗像)神社と御水神社と云う二つの祠が建つ

弁天曲輪跡

こちらが岩崎山弁天神社こと宗像《むなかた》神社。この神社の祭神は海津見糸《あまつみ》の女神弁財天である:

この宗像の神は海津見糸《あまつみ》の女神弁財天である

岩崎山弁天神社

それから反対側が急崖となっている小径を通って御水神社へ。こちらの社は急峻な崖の上に建っていたが、往時はこの場所に櫓でも建っていたのだろうか:

御水神社へ向かう小径の左手は急崖だった

御水神社へ向かう

城域の急峻な東端に建つ社は、往時は櫓であったのだろうか

御水神社

ここは岩がごつごつとした狭い場所であったが、往時は天然の堀とされた阿賀川と會津盆地が一望できる場所でもあった:

眼下には、往時は天然の外堀であったろう阿賀川(大川)が流れている(往時は河畔も川だったのだろう)

弁天曲輪跡から城の南側の眺望(拡大版)

そして、こちらは弁天曲輪跡から眺めた風景の動画二つ。
まずは阿賀川ごえに蘆名家の居城・黒川城跡(會津若松城跡)がある会津若松方面の眺め。午後は晴れ上がったが、靄がかかって磐梯山は拝めず :(

最後は一曲輪があった岩崎山南側斜面の眺め。阿賀川に面した側は169mほどの絶壁となっていたのが判る:

以上で向羽黒山城攻めは終了。

See Also向羽黒山城攻め (フォト集)

【参考情報】

會津蘆名家花見ヶ森廟

向羽黒山城跡を攻めてから三年後のGWは史上初の10連休で、その前半に福島県の城跡を巡ってきたが、会津若松に入ると残念ながら天候に恵まれなかったこともあり、一部の予定を変更して會津蘆名家の墓所と八角神社を参詣してきた。

なお廟所や遺構には「葦名」の字が使われていたが、本稿では碑銘や説明板の記述を除き「蘆名」の字で統一している。

雨のため予定していた小田山城跡攻めを断念して少し途方にくれたところ、小田山公園の入口前で偶然見つけた「旧會津領主・葦名家廟所」の標柱:

小田山公園入口前の小田山通り沿いにある

「旧會津領主葦名家廟所」の標柱

この奥にある広場が、會津蘆名家の中興の祖とも言われる第十六代当主・蘆名盛氏《あしな・もりうじ》を初めとした三代の当主が眠る「花見ヶ森《はなみがもり》廟所」であった:

周囲は閑静な住宅街の中に中興の祖をはじめとする三代の墓所がある

蘆名家花見ヶ森廟入口

こちらが廟所に建っていた「葦名系図」。蘆名家は桓武平氏の流れを汲む相模国三浦氏から興った氏族の一つとされる:

三浦義明の七男・佐原義連《さはら・よしつら》を初代とし、嫡子・森連《もりつら》の四男・光盛の代から蘆名姓を名乗る

「葦名系図」(拡大版)

初代当主は、平安時代末期に相模国の豪族で衣笠城主であった三浦三浦介義明《みうら・みうらのすけ・よしあき》の七男である佐原義連《さわら・よしつら》。三浦氏の居城・衣笠城の支城の一つである佐原城主で、征夷大将軍・源頼朝《みなもと・の・よりとも》の御家人の一人。文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した奥州合戦《おうしゅう・かっせん》に参陣し、その功で陸奥国會津四郡を与えられた。そして、義連の孫にあたる三代当主・佐原光盛《さはら・みつもり》から「蘆名」姓を名乗る。

こちらが會津の地を治めて三百数年の蘆名家にあって、十六代当主であり中興の英主とも謳われた蘆名修理大夫盛氏《あしな・しゅりたゆう・もりうじ》公の墓所:

蘆名家を奥州を代表する戦国大名に押し上げた中興の祖の墓所

蘆名盛氏公の五輪塔

第十六代・蘆名盛氏公の墓

墓標

盛氏は大永元(1521)年に蘆名盛舜《あしな・もりきよ》の子として東黒川館で生まれた。兄の氏方《うじかた》は母が下賤の身であったため、天文10(1541)年に家督を継承した。妻は陸奥守護・伊達稙宗《だて・たねむね》の娘。この翌年に隣国の伊達家で稙宗と嫡子・晴宗《はるむね》との間で内紛(天文の乱)がおこった際、初めは稙宗を支援したが、のちに晴宗に味方した。この盛氏による支援が晴宗勢優位を決定づけた。また、これと同時期の天文16(1548)年には、それまでの拠点である東黒川館を大改修して黒川城(後の會津若松城)とし、新たな居城とした。

また永禄元(1558)年には晴宗の娘を嫡男である盛興《もりおき》の正室に迎え、同盟関係の伊達家を北の抑えとすると、積極的に隣国へ介入した。たとえば陸奥の田村隆顕《たむら・たかあき》や二本松(畠山)義国《にほんまつ・よしくに》、二階堂盛義《にかいどう・もりよし》、常陸の佐竹義重、そして越後の上杉謙信らと戦うために、相模の北條氏康や甲斐の武田信玄と同盟するなど遠交近攻の政策を推し進め版図を広げた。内政面でも金山開発や商人による流通を奨励するなど持ち前の政治力を発揮した。

そして會津一帯から仙道方面(現在の福島県仲通り方面)をほぼ勢力下に置いた頃、永禄4(1561)年に向羽黒山城の築城を開始、会津盆地の南の口を固める要衝として七年後に完成すると家督を盛興に譲り、自らは剃髪して止々斎《ししさい》と号して隠居城とした。隠居したとはいえ、蘆名家の政治・軍事の実権は盛氏が握り家中の統制にあたった。

こうして蘆名家の最盛期を築いた盛氏であるが、その勢いに翳りが見えてきたのは十七代当主である盛興が嫡子を授かることなく急死してからである。

黒川城に戻った盛氏は、盛興の未亡人を二階堂盛義から人質として預かっていた盛隆《もりたか》に娶らせて十八代当主に据え、自らは後見人として引き続き政務を執った。

しかし敵方である二階堂氏出身の当主に一部の重臣らは反発し、家中の統制が困難になる兆しが出てきた天正8(1580)年、盛氏は病死した。享年60。


こちらが十七代当主である蘆名修理大夫盛興《あしな・しゅりたゆう・もりおき》公の墓所:

第十七代・蘆名盛興公の墓所

墓標

齢15で偉大な父から家督を譲られたが実権は持っていなかった

蘆名盛興公の五輪塔

母は盛氏の正室で伊達稙宗の娘。永禄4(1561)年に齢15で家督を相続し黒川城主となるも、実権は父が掌握していた。永禄9(1566)年には伊達晴宗の四女を妻として迎えた。

しかし天正2(1574)年に病死。死因は酒毒とされている。享年27。

盛興には世継ぎがなく、蘆名氏と敵対し後に降伏した二階堂氏から養子を迎えて家督を継がせることになった。


最後は十八代当主である蘆名盛隆《あしな・もりたか》公の墓所:

第十八代・蘆名盛隆公の墓所

墓標

二階堂盛義の嫡男であるが、蘆名盛氏に敗れて人質となっていた当主

蘆名盛隆公の五輪塔

陸奥国の戦国大名である須賀川二階堂氏の第七代当主・二階堂盛義《にかいどう・もりよし》の長男として生まれた盛隆は、父が蘆名盛氏と対立し敗れて降伏した際に人質として蘆名家に送られた。のちに盛氏の嫡男・盛興が早世すると、盛氏の養子となり、盛興の未亡人と結婚して蘆名家を継いだ。

養父・盛氏が死去すると蘆名家の実権を掌握すると、実父・盛義と共に衰退していた二階堂氏の勢力回復に務めたが、これが蘆名の重臣らの反発を招き、幾度か内乱に発展した。さらに謙信死後に上杉家の当主となった景勝と争っていたことから、逆に蘆名家中の撹乱を狙って重臣らが調略されるなど混迷した。

最後は黒川城内で家臣に襲われて死去。享年24。

こののち蘆名家は隣国の伊達氏や佐竹氏らに翻弄され、天正17(1589)年に伊達政宗と摺上原の戦いで大敗し、最後の当主・蘆名義廣《あしな・よしひろ》は支配地を失って、実家にあたる常陸国の佐竹家を頼って落ち延び、ここに奥州の戦国大名・蘆名氏は滅亡した。


最後は会津若松市内にある八角神社《やすみ・じんじゃ》。伊舎須弥神社《いさすみ・じんじゃ》とも呼ばれている:

神様が落とした鉾が八角の水晶に化けたことが名の由来

鳥居

この当時は拝殿と本殿の補修工事中だった

八角神社

こちらは左から八角天満宮、その隣が八角神社の拝殿。ここにあった會津蘆名家の東黒川館は後に黒川城下として発展し、蒲生氏郷が會津に移封され會津若松城とした:

戊辰戦争では薩摩兵の屯所として使用された

八角天満宮と八角神社

八角神社境内を出て東側の塀近くには「石造層塔」があった:

会津若松市指定文化財で、石造五層で高さ十丈余の宝塔(一部欠落)

「石造層塔」

もともとは五層の宝塔であったが現在は上部二層が無くなり塔身も火袋になっている。台座に「永徳四年」の銘が刻まれているおり、會津蘆名氏七代当主・直盛《なおもり》が東黒川館を築いた年と合致する。

以上で、會津蘆名家墓所の参詣は終了。

See Also會津蘆名家墓所とゆかりの地  (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《みうら・どうすん》が最後の当主となった。
b. 「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。
c. 現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。
d. 旧名は大川。
e. 岩崎城または巌館《いわたて》とも。
f. それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。
g. もちろん帰りも同じ時間を要すことになる。
h. なお北曲輪跡から登城道へ出た目の前には駐車場とトイレがあるが、そこは三曲輪広場ではない。あしからず。
i. 「源平沼」とも。
j. 日本産のカエルの中で樹木の上に産卵するのは、この種だけとされている。
k. この日の天気は午後から晴れ間が出たけど、磐梯山は雲の中だった 😥
l. 一曲輪の別称「実城《みじょう》」に対して「中城《なかじょう》」とも。
m. このあと水の手曲輪跡を散策した時に見かけることになる。
n. 水の手曲輪の虎口ではない。
o. あるいは、どちらかが搦手口か。
p. さらに現在は田畑になっている河畔も、往時は阿賀川が流れていたであろうことも想像できる。
q. 常陸国の戦国大名・佐竹義重の次男・盛重が蘆名家に養子入りした。
r. ここの道路は二曲輪下にあった道路とは異なり、後世の造物で堀切跡ではない。