宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2にある瑞鳳殿《ズイホウデン》は、寛永13(1636)年に江戸藩邸で70年の生涯を閉じた仙臺藩[a]本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。祖・伊達権中納言政宗《ダテ・ゴンチュウナゴン・マサムネ》公の遺命により、仙臺城本丸と広瀬川を挟んで向かい合う経ヶ峯《キョウガミネ》に造営された御霊屋《オタマヤ》である。桃山時代の遺風を伝える豪華絢爛な建築物として昭和6(1931)年には国宝に指定されたものの、昭和20(1945)年の米軍による仙台空襲で全て灰燼に帰した。現在、拝観可能な建物は昭和54(1979)年に再建されたもので、さらに平成13(2001)年には御廟の大改修が施され一部が創建当時の姿に戻った。瑞鳳殿の周辺には二代藩主・忠宗《タダムネ》公の御霊屋である感仙殿《カンセンデン》と三代藩主・綱宗《ツナムネ》公の善応殿《ゼンノウデン》など仙臺藩主にゆかりある御廟が他にもいくつある上に、政宗公の菩提寺にあたる瑞鳳寺を含め、その一帯が「経ヶ峯伊達家墓所」として市指定史跡とされている。なお御廟再建に先立って実施された学術調査では政宗公の墓室から遺骸と共に公遺愛の太刀や脇差、そして煙管《キセル》など多くの副葬品が検出されたと云う。
今となっては昨々年《オトトシ》は、平成30(2018)年の初秋の連休を利用して福島県浜通りにあった城跡をいくつか攻めてきたが、その時の宿泊先が仙台市内だったと云うこともあり、帰宅する前に、その前年(当時)の仙臺城攻めでは時間の都合で拝観できなかった瑞鳳殿に初めて足を運んできた。
この日は瑞鳳殿へ向かう前に、これも昔の城攻めでその御仁なりを知った仙臺藩士・細谷直英《ホソヤ・ナオヒデ》[b]細谷は仙臺藩の隠密・探索方の一人で、東北地方のヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、白河戦線では長脇差一本で夜襲を30数回仕掛け、全て勝利して官軍を恐怖のどん底に陥れた。衝撃隊が黒装束であったことから鴉組と呼ばれ、直英は東北地方で民衆の英雄となったと云う。と、江戸後期の経世論家《ケイセイロンカ》・林子平《ハヤシ・シヘイ》が眠る寺院を参拝するため仙台駅西口から循環系の市営バスに乗って向かい、参拝を終え、今度は瑞鳳殿で向かうため再び仙台駅西口へ戻ってきた 。
瑞鳳殿へ向かう公共期間のアクセスはホームページで案内しているとおり「るーぷる仙台」なる市内循環型の観光バスが最寄りの停留所が近くて楽なのだけど、乗る前から大行列で、乗ったら乗ったで車内は混雑しているし、その割に料金が高い[c]大人260円(当時)。ので路線バスを選択することにした。この時は仙台駅西口ターミナルから八木山動物公園駅(霊屋橋経由)行に乗って「霊屋橋・瑞鳳殿入口」なる停留所で下車した[d]大人190円(当時)。。バスを降りて少し歩くことになったけど特に問題はなかったので、帰りも利用することにした 。
こちらはバス停近くの霊屋橋上から眺めた経ヶ峯。瑞鳳殿をはじめとする仙臺藩主・伊達家の御廟が建つ丘陵。橋の下を流れるのは広瀬川:
こちらが「霊屋下」と呼ばれている経ヶ峰伊達家墓所入口。すぐ近くに、るーぷる仙台の停留所があった:
そして、この参道を登って駐車場を過ぎた先には御廟に隣接する正宗山・瑞鳳寺《マサムネヤマ・ズイホウジ》がある:
ここは伊達政宗公の菩提寺として寛永14(1637)年に二代藩主・忠宗によって創建された御一門格の寺院。御本尊は釈迦三尊像。山号である「正宗山」の大額を掲げた山門は仙臺藩江戸屋敷の門に倣って建てられたと云う。
こちらは山門の棟に掲げられた伊達家の家紋の二つ。ちなみに伊達家の家紋は戦国大名の中でもっとも数が多い:
仙台笹《センダイザサ》とも呼ばれる「竹に二羽飛び雀」は伊達家の定紋《ジョウモン》[e]家々で定まっている正式な家紋で、表紋とも。で、竹笹の円の中で雀が向かい合っている意匠である。越後国守護で、越後上杉氏八代(にして最後の)当主・上杉定実《ウエスギ・サダザネ》より養子縁組の引き出物として伊達実元《ダテ・サネモト》に贈られたもの。他に宇和島伊達藩で、この定紋をアレンジした「宇和島笹」紋がある。
なお実元は越後国守護を継承する予定であったが、父・稙宗《タネムネ》と兄・晴宗《ハルムネ》との間で勃発した天文の乱により頓挫した。実元は後に亘理伊達《ワタリ・ダテ》家の祖となる。
もう一方の「三つ引き両」紋は、奥羽藤原氏追討の褒美として征夷大将軍・源頼朝から下賜された家紋である。その意匠は丸の中に縦に三本の線を引いたシンプルなもので、現在の仙台市の市章の基にもなっている。
伊達家には他に替紋として「十六葉菊」紋、豊臣秀吉から「豊臣」姓とともに賜った「五七桐」紋、「横三つ引き両」紋、「九曜」紋、「雪輪に薄」紋がある。
こちらは境内にある鐘楼と梵鐘:
本堂玄関前に展示されていた梵鐘は、寛永14(1637)年にときの藩主・忠宗が願主となり、藩祖・政宗公菩提のために命じて鋳造したもので、宮城県指定文化財である。また現在、鐘楼に架けられた二代目の梵鐘は昭和50(1975)年の政宗公の御遺体を再埋葬した際に新たに鋳造されたもの。重量は1,550㎏、口径103㎝。
こちらは本堂。本堂屋根の棟には「三つ引き両」紋が掲げられ、賽銭箱にはそれに加えて「竹に雀」紋があしらわれていた:
本堂に隣接した庫裡前には、先の大戦で空襲を受ける前の瑞鳳殿の屋根隅棟《ヤネ・スミムネ》に据え付けられていた青銅製龍頭彫刻瓦《セイドウセイ・リュウズチョウコク・ガワラ》が展示されていた。頭の角は焼け落ちた際に折れてしまったと云う:
そして本堂脇には、俗に「高尾門」と呼ばれていた冠木門が建っていた:
三代藩主・綱宗の側室「椙原お品」の邸にあったものを移築もの。門の正面に掲げられた家紋は藩祖・政宗公が使っていたとされる「雪に薄」紋。
このあとは参道へ戻り、瑞鳳殿へ向かった。この赤柵から先が経ヶ峯墓所の境内となる:
石段となった参道を登っていくと、いわゆる見学コースの「上り」と「下り」が合流する地点に到達する。瑞鳳殿へは向かって左手の石段を上って行く:
そして合流点近くに建っていた「伊達家経ヶ峯墓所」の案内図:
「上り」の石段を登って瑞鳳殿へ向かい、瑞鳳殿から出たら、今度は時計廻りに感仙殿と善応殿をそれぞれ参拝して、帰りは「下り」の石段を降りて合流点に戻ってくるコース。
と云うことで、樹齢380年余と云われる杉木立に囲まれた石段を登って瑞鳳殿へ(上り)。この石造りの階段は戦争による焼失を免れた現存遺構の一つである:
こちらは途中にあった手水所《テミズシャ》跡。参拝者が身を清めるために手水を使うところ:
明治時代の廃仏毀釈《ハイブツ・キシャク》に伴い、御廟の祭祀を仏式から神式に変更した。もともと水が湧く立地ではなかったが、参道石段の中ほど西側に清水を発見し、これを祭祀用としたと云う。現在、水は涸れ石の囲いのみが残っていた。
ちなみに現在は瑞鳳殿の境内に手水舎が置かれている。
この石段を登った先が瑞鳳殿:
境内に入るには観覧料[f]大人550円(当時)。が必要で、この入口の手前に売店とトイレが併設された観覧券売り場がある。
こちらが瑞鳳殿配置図と観覧順路の案内図:
昭和の時代に再建された瑞鳳殿は、正門である涅槃門、灯籠が配置された石段、拝礼の施設である拝殿、橋廊下、御供所《ゴクショ》、瑞鳳殿本殿を囲む唐門、そして政宗公が眠る本殿から構成されている。なお御供所は現在は資料館になっている。
手水舎の先にあるのが御霊屋の正門にあたる涅槃門:
再建されたこの門は樹齢数百年の青森檜葉《アオモリ・ヒバ》が用いられ、空襲で焼失する前と同じく、表扉上部の蟇股《カエルマタ》[g]梁に設置して荷重を分散させるため下側が広くなっている部材のこと。には瑞獣《ズイジュウ》[h]古代中国で考えだされた想像上の動物で、鳳凰、鸞《ラン》、麒麟、竜、霊亀《レイキ》、獬豸《カイチ》、九尾の狐。である「麒麟」が、そして左右の妻飾り《ツマカザリ》には「牡丹と唐獅子」といった豪華な飾り彫刻が施されている。
また表扉には太閤秀吉から下賜され、伊達家の家紋の一つである「十六菊」紋があしらわれていた:
こちらが涅槃門前から見上げた瑞鳳殿の全景:
このあとは涅槃門脇から入って石段を上がる。石段の両脇には奉納された伊達家重臣らの石灯籠が配置されていた:
これらの翻刻銘文《ホンコク・メイブン》から判明している奉納寄進者は片倉小十郎重長、佐々若狭守元綱[i]政宗公の近習の一人。公が江戸で死去したあと三代将軍・徳川家光から殉死禁止令が発せられたため殉死を断念する。、奥山常辰《オクヤマ・ツネトキ》[j]奥山大学として知られ、のちの伊達騒動の主要人物の一人。、白石刑部大輔宗貞《シロイシ・ギョウブタユウ・ムネサダ》[k]白石城主で、のちの登米伊達《トメ・ダテ》氏。、亘理伯耆守宗根《ワタリ・ホウキノカミ・ムネモト》[l]政宗公の庶子。母は太閤秀吉の愛妾であった香の前《コウノマエ》。、茂庭周防守良元《モニワ・スオウノカミ・ヨシモト》[m]良綱とも。伊達氏重臣の一人・茂庭綱元《モニワ・ツナモト》の二男。政宗の命で家督を相続する。この仕置に憤った父は仙臺藩を出奔した。、津田近江守頼康《ツダ・オオミノカミ・ヨリヤス》[n]仙臺藩の奉行の一人。、古内重廣《フルウチ・シゲヒロ》[o]父は政宗に滅ぼされた国分盛重《コクブ・モリシゲ》。のちに召しだされ二代藩主となる忠宗の側近となる。主君・忠宗の死去に伴い殉死した。。
また、これら石灯籠の幾つかも空襲時に損壊しているものがあり、その一部は修復・復元されているのだとか。
そして石段の上にあるのが拝殿。本殿へ進む前に拝礼するために整えられた施設である:
往時、正面扉を開けると、橋廊下《ハシロウカ》と唐門《カラモン》を通して瑞鳳殿本殿に安置された政宗公の尊像《ソンゾウ》に拝礼することができたと云う。また側面からも回廊が左右へ伸びており、現在は資料館になっている御供所ともつながっていた。
ただし再建された拝殿は、その奥の本殿がよく見えるように簡略化された装飾と構造になっている。
この日は瑞鳳殿を参拝する人達は多かったが、特に橋廊下と唐門あたりから一段と混雑してきた:
橋廊下は拝殿と本殿との間にある中庭的な空間であり、往時は吹き放して両側に勾欄《コウラン》[p]いわゆる「手すり」。を設けていた。さらに左右には家臣が奉納した石灯籠があったが、現在は礎石が残るのみである。
唐門は、往時は天井に金箔を施したことから「金唐門《キンカラモン》」とも呼ばれ、正面の虹梁《コウリョウ》[q]梁の一種で、虹のようにやや弓なりになったアーチ状の装飾。の上下に竜虎図と二十四孝説話《ニジュウシ・コウセツワ》を題材にした透彫りが挿入されていた。但し、再建された現在は銅板製の門になっている。
唐門ごしに見えるのが、こちらも再建された政宗廟こと瑞鳳殿本殿。この内部下に伊達政宗公が眠っている:
政宗公が生前に遺した「時鳥《ホトトギス》の初音を聞き遺骸を経ヶ峯に葬るように」との命に従い、遺領相続を終えた二代藩主・忠宗がその翌年の寛永14(1637)年秋に経ヶ峯の東側に、居城・仙臺城本丸を向くように西向きに御霊屋を建立して「瑞鳳殿」と命名した。桃山文化の遺風を伝える華麗な建築を誇っていた。
その後、忠宗と三代藩主・綱宗の御霊屋(感仙殿と善応殿)がそれぞれ経ヶ峯の西側に建立された。両者は瑞鳳殿と向かい合うように東向きに建っている。四代藩主以降は経ヶ峯の南東にある大年寺山の墓所に埋葬された。
昭和6(1931)年には大日本帝国政府の国宝保存法に基づいて国宝に指定された。
しかし太平洋戦争末期の昭和20(1945)年の夏に米軍による仙台空襲によって瑞鳳殿、感仙殿、善応殿の全てを焼失した。
戦後、昭和46(1971)年には再建準備が開始され、三年後の昭和49(1947)年には起工式と発掘調査が行われた。この調査で政宗公の遺骨の他に副葬品が出土した:
遺物の中には梨地《ナシジ》煙管箱に入った二本の煙管と竹製の掃除具があったという。公は大の煙草好きと知られ、毎朝起きると一服し、昼と就寝前にも吸っていたと伝わる。当時は刻み煙草を煙管に詰め火を着けて吸っていたと云う。公愛玩の煙管は長さが69㎝とかなり長いものだった。
そして五年の歳月を経て昭和54(1979)年に瑞鳳殿の本殿、拝殿、涅槃門、そして御供所が竣工した。
さらに平成13(2001)年には改修が施され、門扉には伊達家の家紋「竹に雀」と「九曜」が掲げられ、花頭窓《カトウマド》に鳳凰、柱には彫刻獅子頭、屋根には竜頭瓦がそれぞれ復原されたことにより創建当時の姿になったと云う:
本殿は木造三間四方の建物で、内部には須弥壇《シュミダン》が設けられ、政宗公の御木像《オモクゾウ》が安置されており、壁や天井には仏画や鳳凰などが描かれていた:
本殿屋根の隅棟には復元された青銅製龍頭彫刻瓦が設置されていた:
本殿両脇には殉死した家臣・陪臣らを供養する宝篋印塔《ホウキョウ・イントウ》が建っていた。こちらも再建の際に作り直されたものらしい。その他、再建時に据え変えられた古い銅製九曜紋鬼瓦と青銅製龍頭彫刻瓦が展示されていた。
瑞鳳殿で最後の建物は「竹楼」とも呼ばれていた御供所《ゴクショ》。いわゆる参拝者が供え物を準備する控所に相当するもので、政宗公が晩年に移った若林城の一部を移築したものであった:
再建された御供所は、現在は資料館として戦災で焼失した御供所の外観を模し、発掘調査の説明図やビデオ、仙臺藩主三代の復元容貌像、遺品などが展示されている。
こちらは資料館前に立っていた臥龍梅《ガリュウバイ》:
臥龍梅とは朝鮮ウメのことで、地面に伏臥《フクガ》したように見える様態がその名の由来。文禄の役で渡朝とした政宗公が持ち帰り仙臺城に植えさせたのち、隠居したのちに若林城に移植したもの。現在の梅は国指定天然記念物から取木されたもので、瑞鳳殿の再建記念でここに植樹されたと云う。
『独眼竜』伊達政宗
政宗は、永禄10(1567)年に米沢城で伊達家第十六代当主・輝宗と、その正室で最上義守《モガミ・ヨシモリ》の娘・義姫[r]最上氏第十一代当主で出羽山形藩の初代藩主・最上義光《モガミ・ヨシアキ》の妹。対立していた伊達氏に嫁いで同盟を結ぶ。最上御前とも。出家後は保春院《ホシュイン》と号す。の嫡男として生まれた。幼名は梵天丸《ボンテンマル》。元服して藤次郎政宗《トウジロウ・マサムネ》と称す。なお同年に輩出した勇将は、他に真田信繁(幸村)や立花宗茂がいる。
政宗の少年時代の性格はどことなく締まりがなく、引っ込み思案で恥ずかしがり屋であった。のちに疱瘡[s]現代で云う天然痘。の毒が右目に入って失明したことが一層、彼の性格を暗くせしめたと云う。さらに男まさりな母はそんな嫡男を愛せず弟の竺丸《ジクマル》[t]のちの小次郎。を偏愛したことが、政宗のその後の個性を決定し、そして伊達家当主としての運命を決定する要因の一つになった。死後に自分の木像を造るなら両目具備したものせよと遺すくらい、片目であったことに「劣等感」を感じていたのである。
現代に知られる「伊達政宗」の人間像は、みにくい容貌を恥じる幼少時のコンプレックスから生まれたものと考えられるが、凡人と違うのは、これを強烈な個性、とりわけ他人に対して小さな自分を大きく見せる「演出家」に転換させた彼の素質にあると思われる。そして、この個性は政宗が歳を重ねるにしたがって顕著になっていく。
戦国乱世・弱肉強食の理が常である奥羽の片田舎で、この頼りない御世継ぎの姿と奥方の偏愛の光景をまざまざとみてきた家臣らの不安は募るばかりである。そんな孤独な政宗を信じて疑っていなかったのが父・輝宗と、近習として彼から政宗養育の命を受けていた片倉景綱である。
天正5(1577)年の暮れ、11歳になった梵天丸は元服して藤次郎政宗の名を与えられた。その昔、九代当主の大膳大夫《ダイゼンタユウ》が同じく「政宗」と名乗り、武勇優れ歌道に精通したなかなかの人物であり、伊達家では由々しき名前とされていた。これは、まさしく輝宗が尋常ならず片目の嫡男に胸を張って伊達家を継いで欲しいと願っていた証でもある。この時、政宗は「御先祖政宗公は文武両道の達人でおわしましたと申しますのに、拙者ごときが御名を継ぎましては、名誉ある御名前を汚すことになりはしますまいか」と一応辞退した。輝宗は一言、「では汚さぬように務めるがよい」と告げた。この言葉は元服した少年の心に深く染み付いた。
天正12(1584)年の暮れ、輝宗から家督を譲られた政宗が伊達家十七代当主となる。政宗18歳のことである。対して41歳の輝宗はまだまだ男ざかりで、病弱でもないのに年若な政宗に遺領を譲った。もちろん輝宗が、政宗を当主たる人物と認めたからであるが、その他にも、政宗ではなく弟の小次郎を当主にと妻である義姫からの声が強かったことで夫婦仲が曇り、それが家臣らの人心に動揺を与えたからであろうと考える。このとき輝宗は「いっそのこと自分の眼が黒いうちに藤次郎に家を継がせてしまおう。さすれば奥も諦めようし、家中の者共の心も落ち着くであろうに」と決心した。そして自らはすぐさま隠居して、今は同盟しているが、対伊達家の動きが怪しい最上家の居城・山形城に近い小松城に引き移った。
ここで政宗の人生に大きく影響を与えたイベントを二つあげたい。一つは父・輝宗の非業の死、そして豊臣秀吉との対面である。
政宗の生涯最大の悲劇は家督相続の翌年に起こった。父の代には伊達家に服属していたが、政宗に代替わりしたのちに離反し會津蘆名氏と常陸の佐竹氏を後ろ盾にして反抗した大内定綱《オオウチ・サダツナ》を、政宗率いる伊達勢は小手森城《オデモリジョウ》に攻め、三日かけておとし、城中の老若男女8百余人を撫で斬りにした[u]後世に政宗による「小手森城の撫で斬り」とも語り継がれた皆殺しである。良くも悪くも家督を継いだ政宗に対する強烈な印象を周囲の各国に知らしめることになった。が、定綱はひそかに脱出し二本松畠山義継《ニホンマツ・ハタケヤマ・ヨシツグ》を頼った。ここで諦めては周囲の人々の自分に対する認識が改まらないとして、政宗は二本松城を攻めようとした。わりを喰った義継は恐れて降伏を申し送るも、政宗は許さず跳ねつけると、義継は哀訴嘆願《アイソ・タンガン》してやまない。しからばと政宗は降伏を認める代わりに人質を出した上に所領のほぼ全部を没収すると突きつけた。所領没収を承諾できない義継は食い下がるが政宗は聞かない。「それで気に入らずばそれまでのこと。攻め潰すまでのこと」。強硬な政宗に対して、折れたと見せかけた義継は御礼言上のため輝宗・政宗父子に対面した。その翌日、政宗は鷹狩に出かけたが、それと入れ違いに再び義継が御隠居の輝宗に御礼言上したいとやってきた。昨夜お礼に来て、またお礼にくるという。訝しく思った輝宗以下重臣たちではあったが、苛烈な仕置が下された義継を哀れと思って対面する。何事もなく対面が終り門まで見送ってきた輝宗を、突如として義継をはじめ畠山家臣らが拉致した。伊達家の家臣は仰天してあとを追うが、義継らは慌てず騒がず、悠々と二本松さして引き上げていく。政宗は鷹狩先で急報に接し、馬に鞭打って追いかけ、追いついた時には父・輝宗を拉致した義継一行は阿武隈川を渡らんとしていた。川を渡れば義継の領内である。政宗は歯ぎしりしながらも、その跡を追う。二本松城に入られるとどうすることも出来ない。政宗は懊悩《オウノウ》し、焦慮《ショウリョ》し、煩悶《ハンモン》し、隻眼《セキガン》は火を噴かんばかりになった。そして、ついに決心して泣きながら叫んだ。「仕方がないぞ。お家のために父上には死んでいただく。父上もろとも撃てい!」。抑えに抑えていた伊達勢の怒りは一気に爆発し、あらんかぎりの鉄砲が一斉に火を噴いた。義継は狼狽し、輝宗を続けざまに刺しとおし、死骸に腰をかけて割腹して果てた。これをみて伊達勢は一斉に殺到し、義継の家臣らを一人残らず討ち取り、義継の死骸をズタズタに斬り離して、この死骸を藤曼《フジツル》で縫い合わせ、町のはずれに磔にして晒したと云う。輝宗は享年42。義継は享年34。
実母からの愛は薄く、家臣供からも好意をもって見られていなかった自分を理解し、愛しぬき、廃嫡せずに、全ての反対を押し切って家を継がせてくれた父を殺さねばならなかった政宗にとって、これは終生忘れることが出来ない出来事であった。政宗19歳のことである。
また、政宗は天正18(1590)年の小田原に参陣する際に、自分の居ぬ間に大事が起こらないよう母の偏愛を受けた弟の小次郎を誅殺した。これについては、江戸時代の創作の中に母から参陣祝いの招きを受けた政宗が毒殺されかけたことがその原因としているものがあるが、詳細は不明である。さらに、この毒殺未遂説については義姫の兄・最上義光による伊達家乗っ取りの陰謀説があるのだと云う。いずれにせよ、前には父を殺さねばならず、今度は実の弟を殺めなければならなかった、この苛烈無残な戦国の世にあって政宗は悲劇の人物といわねばならない。
伊達家の当主となった政宗は近隣の大名らと絶えず戦をし、天正17(1589)年冬に至るまでの四年間に會津四郡、仙道七郡[v]現在のJR東北本線沿線一帯。を斬り平らげ、出羽の国まで手を伸ばし、旧領と併せておよそ百万石を領有し、會津の黒川城(のちの會津若松城)を居城としていた。
こうした忙しい間にも、政宗は日の本中央の形勢に対して情報収集を怠らず、そればかりか誼《ヨシミ》を通じるために諸大名らに贈物を「ばら撒いて」いた。その相手は豊臣秀吉はもちろん、彼の周囲の人々から前田利家、三好秀次、徳川家康、浅野長吉(のちの浅野長政)、和久宗是《ワク・ソウゼ》[w]元は足利将軍家に仕えていたが、のちに織田信長と豊臣秀吉に出仕する。小田原仕置では政宗と秀吉の間を取り持ち、政宗に便宜を計った。秀吉死後は政宗に招かれて客人となる。大坂の役では秀吉の恩顧に報いるため暇乞いして大坂城に籠もり、討ち死にした。、富田知信《トミタ・カズノブ》(のちの富田一白)、木村清久《キムラ・キヨヒサ》、施薬院全宗《ヤクイン・ゼンソウ》[x]秀吉の側近で医者。ら。そうかと思うと、秀吉と対立する小田原北條氏とも頻繁に連絡をとり、常陸の佐竹氏を北と南から挟撃しようと策を巡らしたりと、20を少し越しただけの歳ながら「遠交近攻」を見事にやってのける、おそろしいほどの辣腕ぶりであった。
他にも成長した政宗の性格を知る話がいくつかある:
政宗が蘆名家を滅ぼして會津に入封したことを太閤秀吉から詰問されたことがあった。政宗は使者を上洛させて弁明させている間、相馬や白河など周辺の豪族等を片っ端から攻めて潰していた。まさに煮ても焼いても食えない図太さである。
あるいは、秀吉が小田原城を囲んだ際に上洛の最後通牒があった。小田原仕置については既に籠絡していた秀吉の側近どもから知らせがあったので事情は飲み込んでいる。しかし、すぐには豊臣氏と小田原北條氏のどちら側につくか態度を明確にせず、依然として佐竹氏と合戦に明け暮れている。時勢がどちらかに落ち着くまで両天秤にかけておいて、今のうちに切り取れるだけ切り取っておいた方が得であると算盤《ソロバン》を弾いたのである。政宗は徹底した現実主義であり、損得を計算して動く打算家でもあった。
そして、もう一つのイベントが太閤秀吉との対面である。天正18(1590)年の小田原仕置の際は、いろいろ損得を計算してギリギリまでどちら側につくか態度を明確にしなかったが、さすがに小田原城を囲んだ上方勢の大軍とその軍威が盛んであるとの報せを次々と受けるに至り、重い腰をあげて軍議を開き、右腕である片倉小十郎景綱の助言を得て秀吉に遅参の謝罪をしに行く決心をつけた。この謝罪の旅は、当初は上野に出て真っ直ぐ小田原の石垣山へ向かう予定であったが、戦時中でもあるので、まずは米沢に出て、そこから越後、信濃、甲斐に入り一ヶ月かかってやっと小田原に着いた。この時の政宗の姿はまことに奇妙で、髪を短く切って禿《カブロ》[y]戦国時代における意味は「おかっぱ」の髪型。江戸時代には髪飾りを沢山付けた高島田のことを指す。にし、甲冑の上に白麻の陣羽織を着ていたと云う。まるで死罪を命じられることを期して死装束《シニショウゾク》のつもりであったようなのだが、当の本人はそんなつもりは毛頭無い。これは演出である。奇抜な演出で周囲を驚かせておいて、籠絡している秀吉の側近らの同情を買うのである。ここでも打算家ならではの演出を発揮した。しかし上には上がいるもので、この時の相手である秀吉も政宗に劣らぬ「演出家」である。それも政宗とはスケールが桁違いなのである。秀吉は大金をかけて派手で豪華絢爛であるが、政宗のそれはいささか田舎くさい。置かれた地位の相違であるが、秀吉も下賤の位から身を起こし、常に自らの素性に劣等感を持っていた人物である。そして、自らの弱みを隠すために誇大な演出を考え出し、その裏では例外なく計算しつくした打算家の顔がある。この時、秀吉との対面はすぐには許されなかったが、蟄居中の政宗は籠絡済みの側近に対して相当強引なこじつけで申し開きをしたり、千利休に茶の湯の稽古をしてもらうなど、秀吉の耳に入りそうな「プチ演出」をいくつか披露している。秀吉の怒りが収まるまで少し時間はかかったが、ついには「伊達と云う奴、奥州の田舎者と思うていたが、命の瀬戸際にいながら洒落たことをする。見事な奴じゃ。気に入った。会ってとらそうわい」と石垣山城の本丸での謁見が許され、死罪といったお咎を受けることはなく、旧蘆名家領の會津・岩瀬・安積の三郡の没収だけで済んだのである[z]百万石から七十余万石への減封となった。。そして政宗は小田原仕置の結末を見ることなく早々に国へ帰り、国替えの準備にあたった。そして會津黒川城から新たに岩出山城を居城とした。
この演出家同士の対面で、政宗は金をかけた豪華な演出が大きな効果を生み出すことを学んだ。この後、蒲生氏郷との確執で再び秀吉に謝罪した時の服装や朝鮮出兵時の出で立ちの他、仙臺城の本丸御殿、はたまた死後の御霊屋・瑞鳳殿で大いにその絢爛豪華な演出を披露することになる。
一方、打算家としての振る舞いは秀吉死後に「北の関ヶ原」と云われた慶長出羽合戦で、徳川家康から釘をさされていながらも、これを無視して會津中納言・上杉景勝率いる精兵らと福嶋城下の松川あたりで激戦を繰りひろげた。ここでも切り取れるだけ切り取っておいて「百万石の御墨付き」を既成事実化しようとやっきになったのであるが、相手は毘沙門天の権化と云われたほどの不識院謙信公に猛鍛錬された猛将勇卒がまだ多数残っていて猛烈に強い。しきりに上杉勢相手に攻撃を仕掛けるも、手痛く叩き返されるだけなのだが、決して懲りない。そのうち関ヶ原で家康率いる東軍が勝利しても、依然として攻撃を仕掛けては叩きのめされることを繰り返していた。しかし、もう日の本で家康に反抗する者はなく、誰もが認めた天下人であり、家康本人ももう諸大名らに遠慮する必要は無いのである。政宗はずいぶんと手厳しく家康から叱られたので、さすがに恐れ入って兵を収めた。慶長5(1600)年、政宗35歳の時である。
さらに慶長19(1614)年から始まった大坂の陣では、同世代である真田信繁(幸村)率いる豊臣勢と対決した:
そして家康死後の徳川泰平の世では、ニ代将軍・秀忠、三代将軍・家光まで仕えた。高齢になっても江戸参府を欠かさず忠勤に励んだことから家光からは伊達の親父様と慕われた。また、なかなかの文学的才能があり、多くの作品を残した。まさしく先祖の「政宗」に恥じない文武両道の達人となった。
寛永13(1636)年春に参勤交代に出発した政宗は急に病状が悪化し、江戸の仙臺藩外桜田上屋敷に入った後も好転せずに5月24日に死去した。享年70。官位は従三位権中納言、陸奥守。昭和の時代の発掘調査によって、死因は食道癌と腹膜炎の併発と判明した。
辞世の句は:
曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く
東京都千代田区にある日比谷公園内にある心字池《シンジイケ》付近は、政宗から三代・綱宗の時代まで仙臺藩外桜田上屋敷が建っていた場所で、「仙臺藩祖・伊達政宗終焉の地」とされている:
この屋敷は、慶長6(1601)年に家康から与えられ寛文元(1661)年まで上屋敷《カミ・ヤシキ》として使用された。往時の敷地は、東西は心字池西岸から第一花壇あたりまで、南北は日比谷濠沿いの国道R20(晴海通り)から噴水広場あたりまでとされる。政宗の時代には家康は三度、秀忠と家光はそれぞれ四度の訪問があったと云う。
ここで政宗の異名である「独眼竜《ドクガンリュウ》」の由来について。中国五代の時代の後唐《コウトウ》の第一世・昭宗《ショウソウ》は本名を李克用《リ・コクヨウ》と云い、鴉軍《カラスグン》と呼ばれた精鋭兵を率いて反乱鎮圧に功績があった猛将であった。克用は幼少にして片目になったが射術の名手で、のちに人々は歴戦の強者として「独眼竜」と呼ぶようになったと云う。これが隻眼の豪傑を「独眼竜」と呼ぶようになった由来である。
こちらは政宗死後の延宝4(1676)年頃に幕府御用絵師の狩野安信《カノウ・ヤスノブ》が描いた肖像画(仙台博物館蔵):
政宗の遺言に従って両眼を備えたものになっているが、左右を見比べると片目であった右目が小さく描かれている。
このあとは瑞鳳殿を出て石畳の道を進んで二代藩主と三代藩主の御霊屋へ。
この両脇に石灯籠が立ち並ぶ石段を登った先に感仙殿と善応殿がある。当時、手前に建つ涅槃門は修復中だった:
涅槃門をくぐった先には、空襲で焼失した感仙殿から出土した板碑《イタビ》や奉納された石灯籠があった:
板碑は、中世の仏教で使われていた供養塔の一種で、死者への追悼供養するために梵字や供養する内容を刻んで建てられたもの。のちに木製の卒塔婆《ソトバ》にとって変わられた。破棄された板碑は、その形から用水路の蓋などに転用されたと云う。ここにある板碑は、二代藩主・忠宗公の御霊屋を発掘した際に墓室の蓋石や土留《ドドメ》として使われていたもので、宗教的な意味合いは無いとのこと。
こちらが、その二代藩主・忠宗公の御霊屋である感仙殿と、殉死した家臣らの宝篋印塔:
竣工当時は、瑞鳳殿と同様に本殿、唐門、拝殿、御供所、廟門からなる華麗な御霊屋であったが、明治時代の廃仏毀釈《ハイブツ・キシャク》により本殿以外は全て破却された。瑞鳳殿とともに国宝に指定された本殿であるが、昭和20(1945)年の空襲により焼失した。現在の御霊屋は昭和60(1985)年に再建され、平成の時代の改修では彫刻・獅子頭が復元された。
仙臺藩二代藩主の伊達忠宗は、政宗と彼の正室・愛姫《メゴヒメ》との間にできた次男であり嫡男。伊予国宇和島藩初代藩主で宇和島城主の伊達秀宗は異母兄にあたる。38歳の時に父より治世を引き継ぎ、法治体制の確立を進め、新田開発や治水・港湾の整備など産業・経済の振興を図り、領内の安定に尽力し、仙臺藩の実質的な基礎固めを成し遂げた御仁。さらに仙臺城の大手道や二ノ丸、そして東照宮を造営した。万治元(1658)年7月に死去。享年60。御霊屋は四代藩主・綱村によって建立された。
こちらは三代藩主・綱宗公の御霊屋である善応殿:
竣工当時は、本殿、唐門、拝殿、廟門などが建ち、瑞鳳殿や感仙殿よりは簡素な装飾であったと云う。感仙殿と同様に明治時代に入って本殿のみとなり、昭和の時代の戦災で焼失したが、のちに感仙殿と共に再建された。但し、焼失前の史料が乏しかったため、綱宗公が好んだ鳳凰と牡丹が装飾に使われて復原したと云う。
仙臺藩三代藩主の伊達綱宗は、父・忠宗の六男として誕生した。19歳の時、兄が早世《ソウセイ》していたため三代藩主となる。しかし21歳の時に叔父・伊達宗勝[aa]伊達政宗の十男。幼年の綱村の後見となり、藩政を専横すると伊達騒動に発展した。のちに改易・御家は断絶となった。や家臣団と対立し御公儀より藩主失格と見なされて隠居させられた。そのため、当時2歳の嫡男(のちの綱村)が四代藩主となる。その後、綱宗は江戸の大井屋敷で隠居生活をおくり、書画や和歌、能楽などの芸術文やで才能を発揮し、多くの秀作を残した。正徳元(1711)年に死去。享年72。遺体は仙台へ送られ、父が眠るここ経ヶ峯に埋葬された。御霊屋は五代藩主・吉村によって建立された。
そして感仙殿北側には九代藩主・周宗《チカムネ》公、十一代藩主・斉義《ナリヨシ》公夫妻の墓所である妙雲界廟《ミョウウンカイ・ビョウ》がある:
四代以降の藩主は大年寺(無尽灯廟・宝華林廟)に埋葬されたが、例外として九代藩主と十一代藩主夫妻は瑞鳳殿近くのこの場所に埋葬された。
このあとは下りの石段をおりて見学コースの合流点へ向かい経ヶ峯をあとにした:
瑞鳳殿
宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2
伊達政宗公墓所と伊達家経ヶ峯墓所 (フォト集)
【参考情報】
- 経ヶ峯歴史公園内の瑞鳳殿と瑞鳳寺に建っていた説明板と案内版
- 『仙台藩祖・伊達政宗公霊屋・瑞鳳殿』のパンフレット(公益財団法人・瑞鳳殿)
- 公益財団法人・瑞鳳殿のホームページ「瑞鳳殿のご案内」(TOP>瑞鳳殿のご案内)
- Wikipedia(伊達政宗)
- 海音寺潮五郎 『武将列伝 〜 戦国終末篇』(文春文庫刊)
- 『一個人(特別編集) 〜 戦国武将の知略と生き様』(K.Kベストセラーズ刊)
仙臺藩上屋敷跡
今年は、令和二(2020)年正月の東京界隈は未だ COVID-19 に汚染されておらず、色々な場所を自由に散策することができたが、今となっては本当に羨ましい時期であった 。
例年どおり朝から浅草寺を参拝し早めのお昼を摂ってから、その足で都営浅草線で新橋まで移動。汐留口から巨大な地下通路を通って地上へ。しかしながら高層ビルが乱立していて、ここが地上なのか地下なのか一瞬混乱してしまった 。地上に出てまずは日本テレビ本社ビル、通称「日本テレビタワー」を探す。正直なところビルを見上げて歩いてもどれがお目当ての建物なのか、さっぱり分からないので何度も地図で確認した。
江戸時代初期、徳川二代将軍・秀忠の時代になると幕藩体勢が確立し、諸大名ら参勤交代で江戸に滞在することが多くなるが、その際に使用したのが「江戸藩邸」と呼ばれた屋敷で、江戸城からの距離に応じて、近い方から上屋敷《カミ・ヤシキ》・中屋敷《ナカ・ヤシキ》・下屋敷《シモ・ヤシキ》に分かれる。仙臺藩の藩邸は火事の多い江戸にあってか、その場所や数がまちまちなのだとか。
政宗の時代には江戸城の日比谷御門に近い、現在の日比谷公園内に上屋敷(外桜田上屋敷)があり、政宗はそこで死去した。この屋敷の脇には米沢藩上杉家、長州藩毛利家の上屋敷が建っていたと云う。そして忠宗がニ代藩主であった寛永18(1641)年には、東新橋の日本テレビタワーあたりに芝口上屋敷(浜屋敷)が与えられたと云う:
この他に愛宕下[ab]愛宕神社が建つ愛宕山近くで、西新橋三丁目付近。に中屋敷、麻布と品川大井と大崎袖ヶ崎などに下屋敷があったと云う。
こちらが今回の散策経路と実際のGPSアクティビティのトレース。ちなみに Garmin Instinct[c] で計測した移動距離は計7.27km(16:16分/km)、所要時間は2時間ほど、消費カロリーは720Cだった[ac]但し、仙臺上屋敷跡の散策に加えて、このあとの太田道灌城攻めも含む。:
とは云っても現代に残る遺構は日本テレビタワーから随分と離れた「銀座東七丁目」の交差点周辺に展示されていた屋敷の礎石くらいである。
これは芝口上屋敷を描いた唯一の絵図である『伊達家芝上屋敷絵図』。享保から天明時代(1716〜1788)の頃の屋敷を描いたものらしい。図中の右手が汐留川、浜御殿、東京湾方面:
こちらが周囲のビルと見間違えそうな日本テレビタワー。地上32階、地下4階、塔屋《トウヤ》2階:
このビルの北玄関が上屋敷の表門跡だった:
この歌川広重作の『江戸勝景・芝新銭坐之図《エドショウケイ・シバシンセンザノズ》』に描かれた冠木門が上屋敷の表門で、日テレタワー北玄関あたりから基礎の木組み遺構が発見されたのだとか:
寛永18(1641)年に拝領した屋敷は、当初は下屋敷として用いられていたが、延宝4(1676)年には上屋敷となり、以後は幕末まで仙臺藩の江戸に於ける拠点となった。
往時の面影なんか全く残っていない上屋敷跡:
このあとは東銀座方面へ向かい、七丁目交差点に展示されていた他藩のものを含む遺構を見てきた。
こちらは芝口上屋敷の御殿の土台に使われていた礎石と、江戸にあった大名屋敷の石組溝(排水溝)に使われていた石群で、四角錐の形をした間知石《ケンチイシ》と、板状に加工された切石:
最後は、江戸城攻め(TAKE3)の訪問記から引用してきた仙臺濠跡。現在の飯田橋駅から秋葉原駅近くを流れる神田川は、その開削工事を仙臺藩が担当した。濠の完成は四代藩主・綱村の時代であるが、外濠の工事には藩祖・政宗も関わっていたのだとか:
仙臺藩江戸上屋敷跡巡り (フォト集)
【参考情報】
- 日本テレビタワー周辺に建っていた説明板・案内板(仙台市・日本テレビ)
- 仙台市のホームページ 「東京に残る政宗公ゆかりの地」 (ホーム > 市政情報 > 首都圏における仙台関連情報 > 東京に残る政宗公ゆかりの地)
- 仙台市博物館・学芸員・小井川百合子著『江戸に仙台を見る』 (PDF)
- Wikipedia(仙台藩)
- ニッポン城めぐり − 汐留屋敷
参照
↑a | 本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。 |
---|---|
↑b | 細谷は仙臺藩の隠密・探索方の一人で、東北地方のヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、白河戦線では長脇差一本で夜襲を30数回仕掛け、全て勝利して官軍を恐怖のどん底に陥れた。衝撃隊が黒装束であったことから鴉組と呼ばれ、直英は東北地方で民衆の英雄となったと云う。 |
↑c | 大人260円(当時)。 |
↑d | 大人190円(当時)。 |
↑e | 家々で定まっている正式な家紋で、表紋とも。 |
↑f | 大人550円(当時)。 |
↑g | 梁に設置して荷重を分散させるため下側が広くなっている部材のこと。 |
↑h | 古代中国で考えだされた想像上の動物で、鳳凰、鸞《ラン》、麒麟、竜、霊亀《レイキ》、獬豸《カイチ》、九尾の狐。 |
↑i | 政宗公の近習の一人。公が江戸で死去したあと三代将軍・徳川家光から殉死禁止令が発せられたため殉死を断念する。 |
↑j | 奥山大学として知られ、のちの伊達騒動の主要人物の一人。 |
↑k | 白石城主で、のちの登米伊達《トメ・ダテ》氏。 |
↑l | 政宗公の庶子。母は太閤秀吉の愛妾であった香の前《コウノマエ》。 |
↑m | 良綱とも。伊達氏重臣の一人・茂庭綱元《モニワ・ツナモト》の二男。政宗の命で家督を相続する。この仕置に憤った父は仙臺藩を出奔した。 |
↑n | 仙臺藩の奉行の一人。 |
↑o | 父は政宗に滅ぼされた国分盛重《コクブ・モリシゲ》。のちに召しだされ二代藩主となる忠宗の側近となる。主君・忠宗の死去に伴い殉死した。 |
↑p | いわゆる「手すり」。 |
↑q | 梁の一種で、虹のようにやや弓なりになったアーチ状の装飾。 |
↑r | 最上氏第十一代当主で出羽山形藩の初代藩主・最上義光《モガミ・ヨシアキ》の妹。対立していた伊達氏に嫁いで同盟を結ぶ。最上御前とも。出家後は保春院《ホシュイン》と号す。 |
↑s | 現代で云う天然痘。 |
↑t | のちの小次郎。 |
↑u | 後世に政宗による「小手森城の撫で斬り」とも語り継がれた皆殺しである。良くも悪くも家督を継いだ政宗に対する強烈な印象を周囲の各国に知らしめることになった。 |
↑v | 現在のJR東北本線沿線一帯。 |
↑w | 元は足利将軍家に仕えていたが、のちに織田信長と豊臣秀吉に出仕する。小田原仕置では政宗と秀吉の間を取り持ち、政宗に便宜を計った。秀吉死後は政宗に招かれて客人となる。大坂の役では秀吉の恩顧に報いるため暇乞いして大坂城に籠もり、討ち死にした。 |
↑x | 秀吉の側近で医者。 |
↑y | 戦国時代における意味は「おかっぱ」の髪型。江戸時代には髪飾りを沢山付けた高島田のことを指す。 |
↑z | 百万石から七十余万石への減封となった。 |
↑aa | 伊達政宗の十男。幼年の綱村の後見となり、藩政を専横すると伊達騒動に発展した。のちに改易・御家は断絶となった。 |
↑ab | 愛宕神社が建つ愛宕山近くで、西新橋三丁目付近。 |
↑ac | 但し、仙臺上屋敷跡の散策に加えて、このあとの太田道灌城攻めも含む。 |
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