宮城県多賀市市川にある多賀城跡は、天平9(737)年に「多賀柵《たがさく》」[a]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つ。本稿では「多賀城」と「多賀柵」の両方を特に区別なく使用している。として初めて『続日本紀[b]平安時代初期に菅原道真らによって編纂された史書。六国史《りっこくし》の中では『日本書紀』に続く二作目にあたる。』に登場し、他の史書では「多賀城」と記されていた。この城は、奈良時代に陸奥国の国府及び鎮守府が置かれた行政と軍事の拠点の一つで、神亀元(724)年に大和朝廷の命を受けた大野東人《おおの・の・あずまびと》が、蝦夷[c]読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。勢力との境界線にあって、松島方面から南西に伸びた低丘陵の先端に位置し、仙台平野を一望できる多賀に築いたのが始まりとされる。不整形な方形の外郭に築地[d]読みは「ついじ」。土を突き固めながら積み上げ、上に屋根をかけた塀の一種。を巡らし、中央部に政務や儀式を行う政庁が建ち、その周囲には行政実務を担う役所や兵舎などが併設された。天平宝字6(762)年には藤原南家の四男・朝狩《あさかり》が改修し、城外には道路で区画された町並みが形成された。しかし宝亀11(780)年には伊治呰麻呂《これはり・の・あざまろ》の反乱により城は焼失、後に復興されたが貞観11(869)年の大地震で建物は全て倒壊し、のちに再興された。最後は室町時代の南北朝争乱で落城・廃城となった。大正11(1922)年に国史跡に、そして昭和41(1966)年には特別史跡に指定された。
今となっては一昨々年《さきおととし》は平成28(2016)年のお盆休み、その前年の夏とその年の春に続く「奥州攻め」へ[e]それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。。今回は、4日間の日程のうち前半を宮城県、後半は福島県の城跡と勇将らの墓所を巡ってきた。ところどころ雨に遭遇するなど、すべて晴天に恵まれた訳ではなかったけど、一応は予定どおり攻めることができた。
初日は日本三代史跡の一つ[f]他には平城京(奈良県奈良市)と太宰府天満宮(福岡県太宰府市)。に数えられ、国の特別史跡でもある宮城県多賀城市の多賀城跡。事前の調査でかなり広大な敷地を歩きまわる可能性がありそうだったので余裕をもって半日をあてたのだけど、噂に違わぬ規模だったので後半はヘトヘトになってしまった。レンタサイクルっていう手もあったけど、駅に着くなりポツリポツリと雨が降っていたので残念ながら諦めて徒歩で移動することにした。
この日は朝8時くらいの東京発はJR新幹線はやぶさ101号・盛岡行に乗車して仙台に着いたのが朝9時半。コインロッカーに荷物を預けて昼飯を調達し、JR東北本線・小牛田《こごた》行に乗り換えて国府多賀城《こくふたがじょう》駅で下車。朝10時過ぎには北口出口前にある観光案内所で情報を入手して城攻め開始。
まず、こちらはGoogle Earth 3Dで俯瞰した多賀城跡の周辺図に主要な地名(★)を重畳したもの。城跡の西を流れるのは砂押川《すなおしがわ》と勿来川《なこそがわ》、北にあるのは加瀬沼《かせぬま》:
濃赤色の線で囲ったエリア(一部は推測)が特別史跡・多賀城跡[g]正確には外郭東門は奈良時代と平安時代とでは位置が異なっている。で、JR東北本線を挟んで北側がかっての古代城柵である多賀柵、南側の多賀神社近くあるのが廃寺跡《はいじあと》。前者と同時期に創建された多賀柵付属の寺院の跡。
同じく、こちらもGoogle Earth 3Dを利用して、今回の城攻めで巡ってきた遺構の位置(★)とそのラベルを地図上に重畳させたもの:
駅の北口から多賀城跡へ向かい、南門跡から南大路、政庁跡を巡り、それから作貫地区から北上して外郭北東隅、陸奥総社宮まで足を伸ばした。途中、雨に遭遇したので東屋に避難し、ついでに昼飯を摂ったあとに雨が止んでくれたので駅前へ戻り、南口へ渡って特別史跡である廃寺跡を巡ってきた。城攻めを終了した後は宿泊先の仙台へ戻る電車待ちの間、東北歴史博物館のまわりをうろうろしたり、そこに併築・整備されていた江戸時代の屋敷の「今野家住宅」を観覧してきた:
(国府多賀城駅・北口) → ①館前遺跡 → ②壺碑(多賀城碑) → ③外郭南門跡 → ④南大路跡 → ⑤政庁南門跡・西翼廊跡・東翼廊跡 → ⑥石敷広場跡・政庁正殿跡・後殿跡 → ⑦作貫地区(空掘覆屋・役所跡・空堀) → ⑧大畑地区(掘立柱式建築物跡) → ⑨外郭東門跡(奈良時代と平安時代) → ⑩外郭北東隅(加瀬沼) → ⑪陸奥総社宮 → ・・・ → ⑫多賀神社 → ⑬多賀城跡附寺跡(講堂跡・三重塔跡・金堂跡) → (東北歴史博物館) → (今野家住宅)→ (国府多賀城駅・南口)
朝10時過ぎから始めた城攻めは、お昼と中休みを挟んで夕方4時くらいまで。午後には雨は止んで気温も高くなり湿気がすごかったが、いや〜予想以上に歩き回った一日だった 。
こちらは駅舎北側から多賀城跡の眺望。往時、周囲は湿地帯に囲まれた緩やかな丘陵上に政庁が建っていた:
そして駅のすぐ側に復元整備されていたのが①館前遺跡:
昭和時代の発掘調査では平安時代の初め(9世紀前半)のものと推測される掘立柱建物《ほったてばしら・たてもの》跡が6棟発見された。その中には四面に廟《ひさし》がつく格式の高い建物もあり、その規模はこれから見に行く多賀城の政庁正殿に匹敵するものだったとか。中央から多賀柵に赴任した国司《こくし》と呼ばれる上級役人の邸宅か、もしくは役所の一部と考えられるのだとか。
このあとは多賀城市中央公園を横断して県道R35・泉塩釜線を渡り、多賀城跡へ向かった。
こちらは南門が建っていた丘陵の遠景。広大な敷地であるがため今ひとつ全体像が掴みづらいが、きちんと案内板が建っていたので予想したほど苦労はなかった:
多賀城南門《たがじょう・なんもん》跡に残る②壺碑こと多賀城碑。日本三代古碑の一つ[h]他には那須国造碑(栃木県大田原市)と多胡碑(群馬県高崎市)がある。で、神亀元(724)年の創建時と天平宝字6(762)年の改修時を伝える貴重な史料で、国の重要文化財:
多賀城の正門にあたる南門から城内に少し入ったあたり建っている。江戸時代に土中から発見された。硬い花崗岩でできた高さ196cm、幅92cmの碑面には「多賀城の位置」と「大野東人による724年の城の創建」、そして「藤原朝狩による762年の改修」が刻まれており、当時の記念碑と考えられている。
ここが多賀城の正門であった③外郭南門跡:
多賀城の南・東・西の外郭辺で確認されている門の一つで、発掘調査の結果、最終的には礎石式の格式の高い朱塗り総瓦葺二層の八脚門が建っていたと推定されている。多賀城市は将来、復元する予定らしい。
「築地塀」は、現在は全て埋没保存されているため石碑があるだけ。往時の南門脇には土をつき固めて高く築き上げた築地が建っていたと云う。推定でも高さ4m以上あったらしい:
さらに多賀柵は、政庁を中心に約1㎞四方を築地塀で囲まれていたと云う。但し、地盤が緩い場所では、築地の代わりに丸材や角材を密に並べた材木塀《ざいもくべい》が建っていた。
そして多賀柵の正門であった外郭南門跡から政庁方面を眺めたところ。南門から城の中枢部である政庁まで南北に真っ直ぐ延びた道路が南大路であった:
多賀柵の南大路を分断する道路を渡ると「多賀城・政庁跡入口」の案内板が建っていたので、ここから政庁跡へ向かった。現在の多賀柵跡内は便宜的に六つの地区[i]城前地区、作貫地区、大畑地区、六月坂地区、金堀地区、五万崎地区の六地区。に分けられているようで、政庁南大路《せいちょう・みなみおおじ》あたりは「城前地区」と云うのだそうだ:
こちらが外郭南門から政庁南門まで一直線に延びていた政庁南大路の推定復原。ちなみに時代によって道幅が異なっていたらしい(奈良時代は約13m / 平安時代は約23m):
政庁跡に置かれていた「政庁復元模型1/200」:
政庁は築城後に何回か(第I期〜第IV期)改修され、そのたびに建築物が増えていったらしい。特に第IV期の政庁は陸奥国大地震後に復興されたものである。ここでは政務の他に、重要な儀式などが行われていたと云う。
今から13百年以上前の飛鳥時代から平安時代にかけて大和朝廷は行政施設+軍事施設である「古代城柵《こだい・じょうさく》」を日本の各地に築いたが、特に蝦夷対策として東北には数多くの柵が作られた:
こちらはGoogle Earth 3Dを利用して現在の政庁跡を俯瞰し、主な建物跡にコメントを付与したもの。現在、これらの建物跡は発掘等調査後に埋没保存され、その上に建物の一部が平面復原されていた:
多賀柵の政庁は、現代の福島県・宮城県・岩手県の地域を含めた陸奥国府であり、さらに山形県・秋田県に相当する出羽国まで監督する広域の地方府であり、蝦夷対策を勧める鎮守府《ちんじゅふ》でもあった。
政庁がその存在と機能を最大限に兼ね備えた時期が天平宝字6(762)年に藤原朝狩が全面的に改修した時代である。このときは正殿・東西脇殿の他に、翼廊《よくろう》の付いた南門・東西楼・後殿《こうでん》が全て礎石式《そせき・しき》で建てられ、築地塀の各辺には東殿《とうでん》・西殿《せいでん》・北殿《ほくでん》が追加されたほか、政庁前の中央広場は石敷《いしじき》とされ、石組溝《いしくみみぞ》も敷設された。
こちらが南大路跡を上がった先にある⑤政庁南門《せいちょう・なんもん》跡。外郭南門と同様に、礎石の上に柱を載せた八脚門と、その門を飾るために東西に翼廊が取り付けられ、更にその外側には土居の上に建てられた築地塀があったと云う:
正門である外郭南門をくぐり南大路の石段を上がってくると、あたかも鳥が羽を広げたかのような雄大で巨大な政庁南門が登城者の眼前に現れたと云う。
こちらは南門の石組溝(現存):
そして⑥石敷広場跡:
この先は⑥政庁正殿跡:
政庁の中心に建っていた礎石《そせき》式の四面廂付建物《しめん・ひさしつき・たてもの》である。政務や儀式の際には陸奥国のトップである国司が在所する。現在は建物の基壇だけ復原されているが、その一部は発掘調査で検出したもので現存である。
正殿跡の背後(北側)にあるのが⑥政庁後殿跡:
あと政庁東殿跡。政庁東門の位置に建てられていたもので、築地塀を飾った建物だったとか:
政庁跡を土塀跡に沿ってぐるりと巡りながら他の建物跡を見たあとは、政庁跡から東へ移動して⑦作貫《さっかん》地区へ:
奈良〜平安時代にかけて主屋を中心にコの字型に配置された役所の建物があったしく、城攻め当時もその発掘現場があった:
こちらは役所跡と空堀。役所の建物は時代に応じて建て替えが何度かあったらしい。また空堀といっても中世時代のような防備のためではなく、自然の地形を活かして生活に役立てるものだったらしい:
ここから北上したところが政庁の東側にあたる⑧大畑地区:
大畑地区に残る掘立柱式建物跡:
この規模は南北45m以上、東西12m以上とされ城内で最も大きな建築物で、東西に廂《ひさし》が張り出していた。現在の平面復原では南北45m文の身舎《もや》と廂の柱の位置が示されていた。
こちらが⑨外郭東門跡【奈良時代】。門の一部が推定復原されている:
外郭東隅あたりにあった礎石式の八脚門で、国府多賀城と国府の津[j]湊《みなと》のこと。現在の塩釜港。を結ぶ最も往来が多かった門。平安時代に入ると、ここから西(写真手前)へ約80m移築された。
こちらが、その⑨外郭東門跡【平安時代】。推定復原図はあくまでも「推定」であり正確なものではない:
平安時代になると、多賀城を囲む築地塀や材木塀には櫓が設けられるようになり、この東門の前面には瓦葺き屋根の櫓が南北対象に建てられた上に、後年には何度か建替えがあったらしい:
また南北の櫓の前には石敷の道路があった。小石や瓦の破片が敷き詰められたのは平安時代から:
東門跡から西へ向かう道幅約16mの石敷道路跡を歩いて行った先には北門跡があった:
政庁の北側にあった役所の出入口にあたり、門の両側には材木塀《ざいもくべい》が付設されていた。現在は門の柱や材木塀の位置、役所の大きさを表す標柱が建っていた。往時は政務を司る役所の他に、木工や鍛冶などの工房、兵士らの宿舎などがあったという。
それから現代のアスファルト製の道路を渡って政庁の北にある加瀬沼方面へ。ここは⑩外郭北東隅にあたる場所:
ここから現代の道路に沿って東へ少し移動した所には⑪陸奥総社宮《むつそうしゃのみや》がある:
ここいらで雨が降ってきたので大畑地区にあった東屋で雨宿りを兼ねて昼食を摂りエネルギーを補給する。それから外郭南東隅を経由して南下し再び国府多賀城駅へ戻った。南東隅は雀山《すずめやま》と呼ばれた小高い丘の上に位置し、周囲は低湿地帯だった:
そして南口から歩いて多賀城廃寺《たがじょう・はいじ》跡へ。その途中には⑫多賀神社があった;
ここから道路を挟んで南側が⑬多賀城跡附寺跡。往時、多賀城から南東1㎞ほどのこの場所には陸奥国経営の無事と成功を祈願して寺院が建てられていた:
多賀城と同時期に創建された付属寺院は、昭和時代の発掘調査で、太宰府付属寺院の観世音寺と似た伽藍配置を持つていたことが判明した。中門から伸びる築地は東側の三重塔と西側の金堂を囲み、北側の講堂に取り付いて中心伽藍を形成していた。さらに講堂の北側には僧房・経蔵・鐘楼・倉が配置されいたと云う:
こちらが中門跡:
この門の先が寺院の境内。こちらが講堂跡:
そして三重塔跡:
以上で多賀柵/多賀城攻めは終了。
多賀城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 多賀城跡に建っていた説明板と案内板(多賀城市教育委員会)
- 『特別史跡・多賀城跡案内』のパンフレット(東北博物館発行)
- 『特別史跡・多賀城跡附寺跡』のパンフレット(多賀城市教育委員会)
- 『重要文化財・多賀城碑』のパンフレット(多賀城市教育委員会)
- 日本の城探訪(多賀城)
- 埋もれた古城(多賀城めぐり)
- Wikipedia(多賀城)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | 古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つ。本稿では「多賀城」と「多賀柵」の両方を特に区別なく使用している。 |
---|---|
↑b | 平安時代初期に菅原道真らによって編纂された史書。六国史《りっこくし》の中では『日本書紀』に続く二作目にあたる。 |
↑c | 読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。 |
↑d | 読みは「ついじ」。土を突き固めながら積み上げ、上に屋根をかけた塀の一種。 |
↑e | それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。 |
↑f | 他には平城京(奈良県奈良市)と太宰府天満宮(福岡県太宰府市)。 |
↑g | 正確には外郭東門は奈良時代と平安時代とでは位置が異なっている。 |
↑h | 他には那須国造碑(栃木県大田原市)と多胡碑(群馬県高崎市)がある。 |
↑i | 城前地区、作貫地区、大畑地区、六月坂地区、金堀地区、五万崎地区の六地区。 |
↑j | 湊《みなと》のこと。現在の塩釜港。 |
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