城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

仙臺城 − Sendai Castle

仙臺城の本丸北壁には伊達政宗が築いた時代を含む三つの異なる時期の石垣が遺っていた

関ヶ原の戦が終わった慶長5(1600)年、『独眼竜』の異名を持つ伊達左京大夫政宗《だて・さきょうたゆう・まさむね》が、広瀬川西岸の切り立った段丘上に築かれていた城跡[a]千体城、または千代城。国分《こくぶん》氏の居城。のちに政宗と対立して滅亡した。に、二年余の歳月をかけて築いた山城が仙臺城[b]これは旧字体で読みは「せんだい・じょう」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体で、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と記す。である。それ以降13代270年にわたって伊達氏の居城となり、仙臺藩の政庁が置かれた。初代藩主である政宗は大規模な工事を敢行して青葉山に石垣と土塁で防備した本丸を築き[c]同時に、現在は「三ノ丸」と呼ばれている「東丸《ひがしまる》」も築いた。ちなみに本丸の西にある郭が「西丸《にしまる》」。、東と南は広瀬川と竜ノ口《たつのくち》渓谷の断崖、西が険しい青葉山と御裏林《おうらばやし》に囲まれたまさに天然の要害であったが、徳川幕府による泰平の世にはもはや時代遅れの城郭であり、二代藩主・忠宗《ただむね》の時代には平地に二ノ丸を造営して藩政の中心とし、急峻で幾度も折れ曲がる従来の大手道を廃止し、二ノ丸に大手門を築いて新たな登城道が整備された。ここで仙臺城は中世城郭の山城から近世城郭の平山城へと変貌した。明治4(1871)年に廃城となり、その後の火災や地震、米軍による仙台空襲によって城郭及び建造物の多くが焼失した。平成15(2003)年には国史跡に指定され、現在は宮城県仙台市青葉区川内1-2の仙台城跡として整備されている[d]平成23(2011)年3月11日の東日本大震災でも甚大な被害を被った。

今となっては一昨々年《さきおととし》は平成28(2016)年のお盆休みに、その前年の夏とその年の春に続く「奥州攻め」へ[e]それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。。今回は、4日間の日程のうち前半を宮城県、後半は福島県の城跡と勇将らの墓所を巡ってきた。ところどころ雨に遭遇するなど、すべて晴天に恵まれた訳ではなかったけど、一応は予定どおり攻めることができた:)

二日目は宿泊先の仙台から市営地下鉄(東西線)・八木山動物公園行に乗って大町西公園駅で下車。駅の西出口1から城跡の麓にある青葉山公園へ向かった。広瀬川を渡って仙台国際センター前の交差点まで徒歩10分ほど。

こちらはGoogle Earth 3Dで俯瞰した伊達政宗公の御霊屋《おたまや》である瑞鳳殿《ずいほうでん》を含む仙臺城跡の周辺図に主要な施設名()を重畳したもの。ちなみに当時は瑞鳳殿には立ち寄らず、それから二年後に参拝してきた:

伊達政宗が城を築いて400年以上経った現在でも広瀬川の流れは大きく変化していない

仙臺城跡周辺図(Google Earth より)

こちらは同じくGoogle Earth 3D上に今回巡ってきた遺構名()を重畳したもの。青葉山と広瀬川の間にある段丘上に建つ宮城縣護國神社あたりが本丸跡、東北大学あたりが二ノ丸跡、仙台市博物館あたりが三ノ丸跡で、広瀬川以北の仙台市街地が城下町となる。仙臺城には天守は建てられなかったが天守台は造られていたと云う:

見どころは大手門以南の三ノ丸跡から本丸跡であるが、本丸跡はいろいろ建物が建っていて改変が激しい

仙臺城跡(コメント付き)

城攻めには仙台市のホームページの「仙台城跡のみどころ」が参考になる。ただし本丸跡は車の乗入れが可能な展望台兼観光地となっており、本丸会館といった建物や駐車場があって城の遺構は期待できない。その代わり「青葉城資料展示館」や「仙台城見聞館(ガイダンス施設)」[f]前者の展示館は入城有料、後者の見聞館は入城無料。は意外とよかった。あとは伊達政宗公の騎馬像あたりから旧城下町である市街地の眺望がくらいだろうか。むしろ三ノ丸跡に復原された門跡やその台座石垣、そして本丸北壁の石垣の方がオススメ。

こちらが今回の城攻めルート:

(大町西公園駅) → 大町頭跡 → 白石片倉氏屋敷跡 → 三ノ丸外堀跡(長沼・五色沼) → 子ノ門跡 → 三ノ丸跡 → 巽門跡 → (造酒屋敷跡) → 清水門跡 → 沢ノ門跡 → 本丸北壁の石垣 → 詰ノ門跡 → 本丸跡 → 艮櫓跡 → 伊達政宗卿騎馬像 → 懸造跡 → 巽櫓跡 → 埋門跡 → 宮城縣護國神社 → 西ノ丸跡 → (天守台跡) → (青葉城資料展示館) → 大広間跡 → (仙台城見聞館) → ・・・ → 中ノ門跡 → 大手門跡(脇櫓+北側土塀) → 支倉常長像 → 二ノ丸跡 → ・・・ → (大町西公園駅) → ・・・ → (仙台駅)

この日の午後は郡山経由で会津若松へ向かうため昼過ぎには仙台駅へ向かった。

こちらは国立国会図書館デジタルコレクション蔵の『諸国城之図(4巻)』に描かれた奥州仙臺城の一部を抜き出し、北側を上にして注釈を追記したもの:

江戸時代に造られた仙臺城の古絵図は意外と多い

『諸国城之図〜奥州仙臺城(抜粋)』

政宗が築いた本丸と東丸(三ノ丸)、そして忠宗が築いた二ノ丸からなる

『諸国城之図〜奥州仙臺城(抜粋)』(コメント付き)

初代藩主の政宗が築いた本丸と東丸(現・三ノ丸)はそれぞれ山頂の最終防衛拠点と麓の居館に相当し、まさに戦国時代中期まで主流であった「山城」の構成である。一方、徳川天下の時代に二代藩主の忠宗が追加した二ノ丸には石垣や土塁は設けられず軍事的な要素は全く排除された郭で、これが中世城郭であった仙臺城が近世城郭に変貌した分岐点であると云われている。

また、これは同じように大手道が作り替えられたことと非常に密接な関係がある:

政宗の時代は赤色、忠宗の時代は青色(赤色破線は推測)

仙臺城の新旧・大手道

政宗の時代の大手道(旧・大手道)は急坂で屈曲が多いが、忠宗の時代には二ノ丸と本丸間の利便性を考慮し、大手門を新設した上で新たな登城路(新・大手道)が整備された。また政宗の時代、広瀬川のどこに橋が架かっていたかによって北から、あるいは南からの大手道が推測できる。


こちらが市営地下鉄・大町西公園駅の出口:

旧・城下町の一角にあたり、左手の坂を下ると三ノ丸へ至る

仙台市営地下鉄の大町西公園駅

江戸時代、このあたりは大町頭《おおまちがしら》と云われた城下町の一角で、仙台藩の重臣らの屋敷が建っていた。往時、ここ大町頭から広瀬川に架かる大橋に至る坂は「大坂《おおさか》」と呼ばれ、仙台七坂の一つに数えられている。

この「大坂」を下って行くと広瀬川に架かる大橋が見えてくる:

往時は天然の外堀でもあった一級河川で、河川敷にも石垣が遺る

広瀬川

手前が三ノ丸跡、橋を渡って「大坂」を登った先が城下町跡(市街地)

大橋

往時の大橋は木橋であるが、明治8(1875)年の広瀬川の大洪水で流失した。そして大橋の上から仙臺城跡の遠景:

大橋の上から広瀬川ごしに眺めた仙臺城の三ノ丸跡、そして本丸跡

広瀬川と仙臺城跡の遠景(拡大版)

この眺めには、城下町から大坂を下って城内へ向かって行けば仙臺城と切立った崖上に輝く本丸御殿が自然と目に入ってくるという、いかにも政宗らしい「演出」があったであろうと予想できる。

仙臺城は広瀬川を天然の外堀としていたため、その河川敷にも石垣が残っていた。その先が三ノ丸跡、そして遠くに見える段丘上が本丸跡で、その背後が青葉山[g]標高は203.16m。山と云うよりは丘陵。

そもそも「仙臺」と云う地名は、伊達政宗がこの地に城を築いた際に改めたものである。

これは地形測量図から生成された城跡の3次元模型。仙台城見聞館に展示されていたもの:

地形測量データから(おそらく3Dプリンタを使って)作成された城域の3次元模型で、最も高い断崖上が本丸跡

仙臺城の3次元模型(拡大版)

この模型で、城域の東側を流れる広瀬川(とその河川敷)に面した64mにも及ぶ断崖上の平坦地が本丸で、その南側も渓谷が深く続き、西側は鬱蒼たる原生林が続く御裏林と青葉山がある。本丸(海抜118m)とそれ以外の二ノ丸(同60m)や三ノ丸(同40m)の高低差がよく判る。

大橋を渡った先が三ノ丸跡になるが、この郭は堀と土塁で堅固に守られた武家地で、往時ここには伊達家の家臣団の中でも重臣クラスである「大身侍《だいしん・さむらい》」の屋敷がつらなっていたと云う。
こちらは白石城主・片倉小十郎の屋敷跡:

延宝5(1677)年から幕末まで白石城主・片倉家の屋敷があった

片倉小十郎屋敷跡

この場所は三ノ丸外堀の東側に位置し、延宝5(1677)年から幕末まで屋敷があった。ちなみに「小十郎」は片倉景綱を祖とする片倉家家代々の通称である。片倉家は伊達家が最も信頼した重臣の家筋であり、仙臺藩南方の防備を担う白石城は江戸時代の『一国一城制』の例外として残された城の一つでもある。

こちらは仙台国際センター前の交差点で、この左奥が青葉山公園の入口。ここを左折すると政宗が築城した時代の旧・大手道跡で、直進すると二代藩主・忠宗時代の新・大手道跡になる:

左折すると政宗時代の大手道跡、直進すると忠宗時代の大手道跡

新旧大手道の分岐点

今回の城攻めでは本丸跡への往路を三ノ丸を含む旧・大手道跡から、そして復路で大手口跡を含む新・大手道跡を通ることにした。

そして三ノ丸跡の青葉山公園出入口に建つ「史跡・仙台城跡」の碑と公園案内図:

三ノ丸跡であり、青葉山公園の出入口

「史跡・仙台城跡」

ここ三ノ丸跡から本丸跡、そして東北大学の敷地である二ノ丸跡など仙臺城の見所が紹介されていた

「青葉山公園・仙台城跡」(拡大版)

この公園出入口脇にある長沼と奥にある五色沼は、往時は三ノ丸外堀の一部だった;

一部は埋没しているが三ノ丸の外堀で、博物館側には土塁が遺る

長沼

日本フィギュア・スケート発祥の地でもある三ノ丸外堀跡

五色沼

仙臺城とは関係はないが、この五色沼は明治時代に日本人高校生がドイツ人教師から初めてフィギュア・スケートの指導を受けたことから「日本フィギュア・スケート発祥地」と云われているのだとか。

さらに公園を西へ向かうと三ノ丸北側の虎口にあたる場所に子ノ門《ねのもん》[h]正保城絵図には子ノ方門《ねのかた・もん》との記述あり。の台座石垣が残されていた:

三ノ丸北側の虎口であり、石垣は昭和の時代に修復された

子ノ門跡

この場所には木造二階建・瓦葺の門が建っていた

子ノ門の台座石垣

往時は木造二階建・瓦葺の櫓門が建っていた。現在は仙台市博物館敷地内の出入口であるが、道路の両脇に残された石垣は昭和時代に修理されたものである。

こちらが三ノ丸跡に建つ仙台市博物館:

築城当初は政宗の屋敷があったが、現在は仙台市博物館が建っている

三ノ丸跡

三ノ丸跡における発掘調査では、御池跡や四阿《あずまや》、茶屋と見られる建物跡が検出されたことから政宗の屋敷が営まれていたと推測されている。その後、忠宗が二ノ丸を追造した頃には蔵屋敷へと姿を変えたと云う。

築城当初は東丸《ひがしまる》と呼ばれ、のちに三ノ丸と呼ばれた郭は東西約140m、南北約120mの広さを持ち、水堀と土塁が巡らされていた:

左手には外堀である長沼があり、右手が博物館の敷地

三ノ丸東側土塁

土塁の高さは約3.6m。但し場所によって高さが異なるのだそうで、三ノ丸南側虎口の巽門脇は約9.0m、子ノ門脇は13.5mもの高さがあったと云う。

博物館の建物の周囲には「仙台市」と縁ある御仁らの石碑がいろいろ建っていたが、その中に昭和10(1935)年に造られた「伊達政宗公胸像」がある:

政宗公騎馬像の一番最初の作品で、戦後に胸より上だけ捨てられていた

初代「伊達政宗公胸像」

これは、いわゆる本丸跡に現在建っている騎馬像の一番最初の作品にあたり、太平洋戦争中に供出され、戦後に胸より上のこの部分だけが塩釜市内に捨てられていたらしい。拾った人は神社に奉納し、その後に博物館に寄贈されたと云う。

このあとは博物館の敷地を出て長沼方面へ出て旧・大手道跡へ。その途中に巽門《たつみもん》跡があった:

三ノ丸に二つある虎口の一つで、こちらは南側にあたる(もう一つは子ノ門)

巽門跡

ここは三ノ丸南側の虎口にあたる場所で、往時は瓦葺・二階建ての巽門が建っていたが昭和20(1945)年の仙台空襲で焼失した[i]実際は焼失せずに無事で、戦後に進駐軍のトラックを通すために破却されたとされる説あり。。現在は台座石垣と門の礎石《そせき》が復原されていた:

復原された巽門の礎石14個と雨落溝《あまおちみぞ》

巽門の礎石

昭和59(1984)年の発掘調査で門の礎石14個と雨落溝《あまおちみぞ》などが検出され、遺構を埋没保存したその上に復原された。

こちらは一旦、長沼あたりまで出てから振り返って旧・大手道を眺めたところ:

旧・大手道から眺めた三ノ丸外堀跡(一部は埋没している)

長沼

右手奥が巽門跡で、この先の折れ曲がった坂道を上がると清水門跡

旧・大手道

こちらが旧・大手道の一部。直進が少なく、何度も折れ曲がる坂道は政宗が築城した当初の大手道だったとされている:

幾度も折れ曲がった政宗時代の大手道は坂道であった

旧・大手道

この坂道を上って行くと造酒屋敷《ぞうしゅやしき》跡の案内板がある。発掘調査が続いているようで立入りはできなかったが、この先にある湧水を使って造った酒から「仙台藩御用酒の発祥の地」とされている:

大和国から招聘された酒造職人が屋敷を与えられ御用酒を作っていた

造酒屋敷跡

仙台藩御用酒に用いたと云われる湧水(清水)で、清水門の由来でもある

清水門跡近くの湧水

これは、政宗が柳生但馬守宗矩《やぎゅう・たじまのかみ・むねのり》の紹介で、往時、酒造の本場だる大和国[j]現在の奈良県。から招いた榧森《かぐのもり》の又五郎なる職人を住まわせた屋敷と「御酒屋《おさかや》」と呼ばれた醸造所があったと云う。この先にある清水門跡の脇には「清水」なる湧水が現在も残っており、その水を使って明治時代まで藩御用達の酒を作っていたのだとか。この「清水」が清水門の由来とも。

さらに坂道を上って行くと清水門跡が見えてくる:

この右奥が仙台藩御用酒発祥とされる名水の源流である湧水がある

清水門跡

こちらが復原された清水門の台座石垣。この門は三ノ丸から沢ノ門に至る大手道の間に設けられた要衝であった:

この野面積の石垣の上に二階建ての二重門が建っていたとされる

清水門の台座石垣

門の名前は、この付近にあった藩御用酒の醸造に使われた湧水にちなむ

清水門の台座石垣

清水門は入母屋造・二階建ての二重門とされ、のちに塀に出入口のある形状に変更されたと云う。なお東日本大震災では石垣の出隅《ですみ》部分が「く」の字に変形してしまったらしい。それ以外にも幾度かの地震で崩落するなど被害を受けるたびに修復されてきたと云う[k]石垣の背面をコンクリートで固めるなどしている一方で、伝統工法で旧状に復することも実施されているらしい。

大手道の両側とその付近にある帯曲輪にある石垣は野面石や割石が使われている:

伊達政宗による築城当時の時代の名残が遺る

野面積みの石垣

さらに坂を登ると鬱蒼とした「壁」が見えてくるが、これが沢ノ門台座石垣。さらに、この先のある清水門跡から沢ノ門跡へ至る大手道は大きく屈曲しており、草に覆われている石垣から側面攻撃ができるようになっていた:

清水門から沢ノ門へ至る大手道は大きく屈曲し、横矢掛かりで反撃できた

沢ノ門台座石垣

ここに平屋建て切妻造で瓦葺きの門が建っていた

沢ノ門跡

沢ノ門跡を過ぎると、旧・大手道は二代藩主・宗忠以来の新・大手道と合流する。そして、この先に本丸跡がある:

左手からの旧道、手前からの新道が合流し、この先に本丸北壁がある

新旧・大手道の合流点

現在は車道になっている大手道を上って行くと本丸北壁の高石垣が出現する:

大手道が屈曲する先には本丸の北側(北壁)の高石垣が出現する(石垣上が艮櫓跡)

本丸北壁石垣(拡大版)

本丸は北側と北西側に高石垣が築かれており、本丸虎口の詰門に向かって左側を北壁石垣、右側を北西石垣と呼ぶらしい[l]今回は後者の北西石垣を見忘れてしまったが  😮

現在見ることができる北壁の高石垣は、江戸時代中期の正保3(1646)年と寛文8(1668)年の二度の地震を経て修復された石垣で、四角く加工された切石を使用した布積みである:

一番外側の石垣は正徳3(1713)年の時代のもので、その背後には政宗による築城当時の石垣が埋め込まれていた

本丸北壁石垣(拡大版)

この高石垣は平成時代初期の解体修復工事に併せて発掘調査も実施されたとかで、藩祖・政宗による築城以来、二度に渡って大規模な改修が行われた上に、最後に改修された時期の石垣が重複していることが判明したらしい。

すなわち慶長6(1601)年に政宗による築城当時の石垣と、元和2(1616)年の地震後に崩壊した石垣を盛土に埋め改めて積んだ石垣、そして現在見ることができる石垣の三世代にわたるとのこと:

石垣の高さは最大17mに及び、角度はおよそ70度の急勾配だった

本丸北壁石垣

石垣の高さは最大17mに及び、角度はおよそ70度の急勾配だった

本丸北壁石垣

築城当時は旧・千体城の地形を利用しながら山の斜面を切り崩し整形した緩やかな勾配に自然石を積んだ野面積みであった。何度かの地震を経て築き直された石垣は、さらに度重なる地震に耐え、300年以上も持ちこたえた切石積みの石垣である:

中世城郭から近世城郭への変貌は石垣から見て取れる

本丸北壁石垣

現在見ることができる一番外側の石垣は正徳3(1713)年の仙臺藩五代藩主・伊達吉村が城主の時代であり、その背後には初代藩主・伊達政宗による創築当時の野面積みの石垣が埋められている。

本丸北壁の高石垣は高さが最大で17m、角度は70度の急勾配を有す:

平成9(1997)から同16(2004)年にかけて石垣解体修復工事が実施された際は石垣が全て外され、本丸も一時的に解体された

本丸北壁石垣(拡大版)

このまま本丸北壁の高石垣前を通り本丸虎口にあたる詰ノ門跡へ。宮城縣護國神社の鳥居の奥が門跡:

現在は宮城縣護國神社の参道入口になっていた

詰ノ門跡

本丸の正門にあたり、二階建て・瓦葺の櫓門が建ち、棟には鯱瓦が載せられ、その両側には三層櫓の東脇櫓と西脇櫓が建っていたと云う。規模は大手門と同じで、正保3(1646)年の地震で被災し、現在は礎石が二つ残っているだけ:

本丸の正門として北側に設けられていた二階建ての櫓門で、両脇には三重櫓が二基建っていた(青葉城資料展示館にて)

詰ノ門と東・西脇櫓の模型(拡大版)

鳥居をくぐり詰ノ門跡を過ぎた枡形には本丸御殿の表向へ向かう際にくぐる御成門《おなりもん》が建っていた。唐破風をつけた格調高いこの門は、天皇や将軍のみが御殿の大広間に入ると時にだけ開く門であった[m]ゆえに仙臺城が現存していた時代は一度も開くことはなかったと云う。

大手道から詰ノ門をくぐり枡形をぬけた所にある門で一度も開くことはなかった

御成門跡

これは本丸跡で見かけた「仙臺城俯瞰図」。と云っても本丸だけだけど:

埋門跡近くにあった案内図であるが、描かれているのは本丸のみ(現在の本丸跡には宮城縣護國神社などが建っている)

「仙臺城俯瞰図」(拡大版)

ここ本丸は広瀬川を臨む断崖上にあることから城下町(現在の市街地)を眺めるにはうってつけのロケーションである。さすが「戦国一の演出家」の呼び名(?)が高い伊達政宗の御目にかなった眺望を、400年以上経った現在でも堪能できる。

まずは東脇櫓の台座石垣前から仙台駅がある市街地の眺め。かって城下町には奥州街道が縦断していた:

政宗が基礎を造った仙台市街地の町並みで、正面あたりに市役所・県庁、すこし右手にはJR仙台駅がある

本丸跡からの眺望(拡大版)

こちらは本丸から北側の眺め。個人的に好きな仙臺藩士・細谷十太夫直英《ほそや・じゅうだゆう・なおひで》[n]幕末の仙臺藩で隠密・探索方を務めた藩士で、東北地方のヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、白河戦線では長脇差一本で夜襲を30数回仕掛け、全て勝利して官軍を恐怖のどん底に陥れた。衝撃隊が黒装束であったことから鴉組《からすぐみ》と呼ばれ、直英は東北地方で民衆の英雄となったと云う。が眠る龍雲院がある:

本丸から城址北側の眺めで、この先に市街地の中に龍雲院がある

本丸跡からの眺望(拡大版)

そして本丸跡北東隅へ移動する。往時、ここには艮櫓が建っていた:

本丸北東隅に三層三階の櫓が建っていた

艮櫓跡

艮櫓跡から、旧・城下町の仙台市街の眺め:

本丸から見下ろした旧・城下町であるが、この高低差を解消し、見上げるのではなく劇場型に本丸を遠望できる演出が素晴らしい

艮櫓跡前からの眺望(拡大版)

本丸と城下町との間にこれだけの高低差がありながら、勇壮な本丸を「見上げる」のではなく、まるで劇場にいるかのように眺めることができたのは広瀬川とその河川敷の存在によって「遠望」することができたからであろうと予想できる。

これが本丸に建つ伊達政宗卿騎馬像(三代目):

初代は昭和10(1935)年の建立だが10年後の戦時中に供出された

伊達政宗卿騎馬像

終戦後に二代目がセメント製立像、そして昭和37(1962)年に三代目が建立

伊達政宗卿騎馬像(拡大版)

昭和10(1935)年に建立された初代は戦時中に供出され、二代目が昭和29(1954)年に建立された白色セメント製立像[o]セメント会社で有名な小野田セメント(株)が制作した。現在は岩出山城跡である城山公園内で「伊達政宗平和像」として展示されている。これは戦後に進駐軍の指導により、戦争を連想させないよう扇子を手にした袴姿である。、そしてこの三代目は昭和37(1962)年の建立。

そして艮櫓と巽櫓との間にあった懸造《かけづくり》[p]「掛作」とも。跡。古絵図を見る限り、この数寄屋風建物は、いかにも政宗の好みそうな演出である:

眺望を活かして賓客の接待などで使われた数寄屋風書院造りの建物

懸造跡

広瀬川に面した崖に突き出すように建てられた数寄屋風書院造りの建物で、その構造は京都の清水寺本堂の舞台に類似する

懸造の姿絵図(拡大版)

と云うのも、ここ本丸からの眺望を活かし、招待した賓客の接待に利用した数寄屋風書院造りの建物は広瀬川に面した断崖上に大きく突き出た構造で、床下は貫《ぬき》で固められた長い床束《ゆかづか》という支柱で支えられており、それはまた京都の清水寺本堂の舞台にも類似した演出であった。趣のある建物である反面、戦時は崖を登ってくる寄手に鉄砲を撃ちかけることが考慮されているのだとか。

こちらは懸造跡の急崖から広瀬川を見下ろした眺望:

断崖上に築かれた本丸跡から見下ろした広瀬川

懸造跡からの眺望

さらに本丸跡を崖線に沿って南へ進むと井戸跡と急崖が見えてくる:

らしいが、その痕跡は全く見当たらない

井戸跡

経年により自然崩落したと思われる

急崖部

再び、広瀬川と仙台市内の眺望。さらに目を南へ向けて伊達政宗公が眠る瑞鳳殿を望む:

本丸直下には馬場や厩が建っていた

本丸跡

広瀬川に囲まれた中洲には仮屋(花壇《かだん》屋敷)があったと云う

からの

広瀬川向こうの丘陵が瑞鳳殿などが建つ御霊屋

眺望

さらに先へ進むと本丸南東隅に建っていたとされる巽櫓跡がある:

本丸に四基あった三層櫓の一つで、入母屋造・瓦葺で附櫓があった

巽櫓跡

本丸に四基あった三層櫓の一つで、入母屋造・瓦葺の屋根を持ち、附櫓がついていた。正保3(1646)年の地震で倒壊したあとは再建されなかったと考えられている。発掘調査では櫓の台座石垣や礎石跡が検出され、現在は埋没保存されている。

さらに進むと宮城縣護國神社の駐車場があり、その出入口から本丸跡の外にある竜ノ口渓谷へ向かう途中に埋門跡があった:

本丸南側虎口にあたり、往時ここには平屋建・瓦葺の門が建っていた

埋門跡

城外から埋門に至るには向きを二度変更する必要がある

埋門跡

本丸南側虎口にあたるこの場所には平屋建《ひらやだて》・瓦葺の門が建っていたと云う。この門は西側を向いて建ち、門の前で二度方向を変更しなければならない防御性の高い構造になっていたのだとか。

このあとは再び、本丸会館や青葉城資料展示館などがある本丸跡へ。

こちらは幕末から大東亜戦争に至る幾多の戦役で御国に捧げられた御霊を祀る宮城縣護國神社:

昭和20(1945)年の仙台大空襲の戦火で全焼したがのちに再建された

宮城縣護國神社の拝殿

この拝殿裏が西ノ丸跡で、往時は実際には建てられることはなかったと云う天守台がある:

この背後にある小山が天守台跡

西ノ丸跡

こちらは本丸大広間跡とその平面復原。さらに仙台城見聞館で展示していた大広間の推定模型:

東西33.5m、南北26.3m,建築面積は約830㎡で畳敷きは260畳にも及ぶ

大広間の平面復原

俗に「千畳敷」と呼ばれていた本丸大広間(仙台城見聞館にて)

推定模型

政宗がそれまで居城としていた岩出山城は街道から外れ城下町が狭く、自領の西端に位置し他国との国境が近かったことから、関ヶ原の戦後に新城の築造を計画したが、「百万石の御墨付き」が反故にされた挙句に散々な加増[q]徳川家康からは「口約束」で會津上杉家の領土である陸奥刈田《かった》・伊達郡など合計50万石近くの加増であったが、実際には刈田郡の2万石だけだった。だったので、計画を練り直し、廃城となっていた城跡を改修して新しい居城とすることにしたのだと云う。

併せて、唐の詩人の『七言律詩《しちごんりっし》』にある「仙臺初見五城楼《せんだい・はじめてみる・ごじょうのろう》」と云う詩[r]漢の文帝が「仙臺」と呼ばれた仙遊観と云う壮大な宮殿を建て、その素晴らしさを讃えた時によんだ詩。にちなんで、「千代」と云う地名から「仙臺」に改めた。

そして高くそびえる楼閣《ろうかく》と云う意味を持つ「五城楼」にちなんで、本丸には天守ではなく華麗な桃山建築の御殿を築いた。御主殿や長局、大台所、書院、そして懸造などの屋敷の中にあって、俗に「千畳敷」とよばれることになる大広間は、まさに本丸御殿の象徴であった。

大広間には全部で14の部屋があり、部屋の周囲には板敷きの広縁《ひろえん》と落縁《おちえん》が二重に巡り、「上段の間」から「孔雀の間」、「檜の間」、「虎の間」、「鹿の間」へと続く部屋は表座敷とされていた。さらに藩主が座る上段の間、天皇や将軍を迎えた際に使用する「上々段の間」は大広間の中でも最も格式の高い部屋であった。

政宗は本丸御殿の造営のために、往時「天下無双の匠」と呼ばれた紀伊国の大工・刑部左衛門国次《おさかべ・さえもん・くにつぐ》や鶴衛門家継《つるえもん・いえつぐ》、山城国の絵師・佐久間左京《さくま・さきょう》など多くの優れた職人を仙台へ招いたと云う。

慶長15(1610)年に本丸御殿が完成し、翌16(1611)年にはスペインの使節で、江戸幕府より日本沿岸の測量を許可されたセバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno)が仙台を訪れ、大広間で政宗に謁見したが、この仙臺城を目の当たりした感想として「城は日本の最も勝れ、また最も堅固なるものの一つ にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、(以下、略)」とのちに述懐している。

そして、明治4(1871)年の廃城後に東北鎮台《とうほく・ちんだい》が仙臺城を本営とした際に本丸とともに大広間を含む御殿は全て破却された。


このあとは本丸跡を出て中ノ門跡へ。この門は大手門から本丸へ至る新・大手道の途中に設けられていた二層の櫓門だった:

食違いの台座石垣は手前が野面積み、奥が切込接ぎで積まれていた

屈曲した大手道跡と中ノ門跡

かっての新・大手道は中ノ門の前後で大きく屈曲していたらしいが、現在の車道もそのままの状態を残していた。また門が建っていた喰違の台座石垣は南側が野面積み、北側が切込接という対照的な積み方になっていたのが特徴。平成時代の解体修復工事の際には多数の金箔瓦が出土した。門は廃城後も建っていたが大正9(1920)年に老朽化のために解体され、現在の知事公館の門に移築されたと云う。

上から見下ろした喰違いの中ノ門台座石垣と、古絵図での中ノ門:

奥の石垣が野面積み、手前の石垣が切込接ぎになっているのが特徴

喰違の中ノ門跡

大手門から本丸へ至る新・大手道の途中に設けられた二階門で寅門《とらのもん》とも呼ばれていた

中ノ門

中ノ門跡の材座石垣は東日本大震災により石垣西面が傾き、北面と南面には亀裂が入ったと云う。

このまま二ノ丸跡に建つ東北大学方面へ下りていくと大手門跡。まずは青葉城資料展示館でみた大手門と脇櫓と土塀、そして大手道のジオラマ:

脇櫓は大手門の南側に配され一階がL字型で白漆総白壁造、大手門は素木造二階建の櫓門だった

大手門と脇櫓と新・大手道のジオラマ(拡大版)

大手門は素木造《しらきづくり》・二階建、屋根は入母屋造・瓦葺。幅が約19.7m、高さは約12.5mの櫓門形式で、正面の冠木には菊と桐の金箔押しの装飾金具をあしらい、棟には鯱頬を頂いていたと云う。脇櫓は大手門の南側に配され、一階がL字形で北東隅に入母屋造・瓦葺の二階を載せていた。壁と柱は白漆喰塗籠《しろしっくい・ぬりごめ》の総白壁造だった。昭和6(1931)年に国宝に指定されたが、昭和20(1945)年の仙台空襲で大手門と脇櫓は焼失した。

こちらは現在の大手門跡:

往時は大手門・脇櫓・土塀が建っていたが土塀を除き全て空襲で焼失した(昭和の時代に脇櫓が復原された)

現在の大手門跡(拡大版)

大手門は仙臺城の「顔」とも云うべき豪壮な建築物で昭和6(1931)年に国宝となった

焼失前(拡大版)

ここに建つ脇櫓は、民間の寄付により昭和42(1967)年に木造モルタル漆喰仕上げで外観復原された:

昭和42(1967)年に木造モルタル漆喰仕上げで復原された大手門脇櫓

脇櫓(表)

一階がL字型、隅に二階を載せて白漆喰で塗り込めた総白壁造

櫓門(裏)

復原された脇櫓と道路を挟んで向かいにある大手門北側土塀。実は、この土塀は仙台空襲の被災を免れ、ここ仙臺城に遺る最古の建造物である:

太平洋戦争中の空襲の戦禍を免れ、唯一遺る仙臺城の遺構である

大手門北側土塀

しかしながら東日本大震災でその一部が倒壊したので復旧された

大手門北側土塀

しかし平成の時代の東日本大震災により土塀の一部が倒壊し、壁の表面が各所で剥がれ落ちてしまった。さらに土塀の内部には変形が見られたと云う。当時は土塀本来の白漆喰壁で復旧されていた。

この土塀より北側が現在、東北大学の川内キャンパスになっている二ノ丸跡である:

現在は東北大学の敷地になっている

二ノ丸跡

二ノ丸は政宗の死後の寛永15(1638)年に、二代藩主・忠宗が利便性を考慮して本丸より一段低い場所に造営した郭である。その広さは東西約310m、南北約200mで、藩政を司る政庁、藩主の居所、そして能舞台や書院からなる二ノ丸御殿が建てられた。二ノ丸からは城下町も近く、まさに中世城郭の山城から近世城郭の平山城へと変貌したのが、この時代である。忠宗以降、仙臺城の中心は完全に二ノ丸へ移った。その後、四代藩主・綱村《つなむら》によって更に拡張され、奥向きの殿舎が建てられた。
二ノ丸御殿は明治15(1882)年に火災により焼失した。

最後は、二ノ丸跡に建っていた仙臺城址の碑と支倉常長《はせくら・つねなが》の銅像:

ここは二ノ丸跡で、かって近世城郭・仙臺城の中心地だった

「史跡・仙台城跡」

政宗の使節の一人として太平洋・大西洋を渡り、ローマ教皇パウロ五世に謁見した

「支倉常長像」

常長は、政宗が送り出した慶長遣欧使節の一人として、慶長18(1613)年に月ノ浦(現在の石巻市)を出帆し、太平洋と大西洋を横断したのちスペインに上陸、元和元(1615)年にはローマ教皇パウロ五世に謁見し政宗からの親書を渡した。しかし日本国内は禁教令が発せられ教徒らの弾圧が始まった時であっため帰国まで五年を要した。帰国後、二年後に失意のうちに死去した。享年51。

以上で仙臺城攻めは終了。

See Also仙臺城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 千体城、または千代城。国分《こくぶん》氏の居城。のちに政宗と対立して滅亡した。
b. これは旧字体で読みは「せんだい・じょう」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体で、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と記す。
c. 同時に、現在は「三ノ丸」と呼ばれている「東丸《ひがしまる》」も築いた。ちなみに本丸の西にある郭が「西丸《にしまる》」。
d. 平成23(2011)年3月11日の東日本大震災でも甚大な被害を被った。
e. それまで東北地方は宮城県仙台市しか行ったことがなかった自身にとって、一年弱の短期間で三回目の訪問となる。
f. 前者の展示館は入城有料、後者の見聞館は入城無料。
g. 標高は203.16m。山と云うよりは丘陵。
h. 正保城絵図には子ノ方門《ねのかた・もん》との記述あり。
i. 実際は焼失せずに無事で、戦後に進駐軍のトラックを通すために破却されたとされる説あり。
j. 現在の奈良県。
k. 石垣の背面をコンクリートで固めるなどしている一方で、伝統工法で旧状に復することも実施されているらしい。
l. 今回は後者の北西石垣を見忘れてしまったが  😮
m. ゆえに仙臺城が現存していた時代は一度も開くことはなかったと云う。
n. 幕末の仙臺藩で隠密・探索方を務めた藩士で、東北地方のヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、白河戦線では長脇差一本で夜襲を30数回仕掛け、全て勝利して官軍を恐怖のどん底に陥れた。衝撃隊が黒装束であったことから鴉組《からすぐみ》と呼ばれ、直英は東北地方で民衆の英雄となったと云う。
o. セメント会社で有名な小野田セメント(株)が制作した。現在は岩出山城跡である城山公園内で「伊達政宗平和像」として展示されている。これは戦後に進駐軍の指導により、戦争を連想させないよう扇子を手にした袴姿である。
p. 「掛作」とも。
q. 徳川家康からは「口約束」で會津上杉家の領土である陸奥刈田《かった》・伊達郡など合計50万石近くの加増であったが、実際には刈田郡の2万石だけだった。
r. 漢の文帝が「仙臺」と呼ばれた仙遊観と云う壮大な宮殿を建て、その素晴らしさを讃えた時によんだ詩。

2 個のコメント

  1. ミケフォ

    「時代遅れの城」とはいえ、政宗が仙臺城を築いた頃は徳川の天下が始まったばかり。政宗は「野望」を捨てきれず、再び風雲に乗じて野望を遂げようとしていたのでは?と思ってしまう。来るべく戦に備えて難攻不落の堅城を造った政宗、恐るべし。

  2. ミケフォ

    実は、うちのご先祖様は仙臺藩の大工だった。そういう意味で政宗には親近感がわく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

© 2020 Mikeforce::Castles

テーマの提供は Anders Noren先頭へ ↑