和田城のあとに築かれた高崎城跡には土塁と乾櫓・東御門が残るのみである

鎌倉時代に上野国の国人であった和田氏[a]鎌倉幕府の御家人の一人和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。がかって築いた砦はのちに和田城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。と呼ばれ、約160年の間、和田家の居城となった。和田業繁《わだ・なりしげ》が城主であった室町時代には関東管領・山内上杉氏に従属し古河公方や小田原北條氏、そして甲斐武田氏らと対立した。主人である上杉憲政《うえすぎ・のりまさ》が越後国の長尾景虎を頼って落ちたあとは、義父で箕輪城主の長野業政《ながの・なりまさ》に従って西上野の国人衆らと共に和田城を含む多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」で上杉・北條・武田らを相手に対抗した。しかし業政死後は武田信玄に降伏・従属し、長篠城包囲戦で業繁が討ち死にするとその子・信業《のぶなり》は小田原北條氏に下り家臣として重用された。そして天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で和田城は北国勢[c]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。の攻撃により落城し廃城となった[d]信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。。この後に関八州へ入封した徳川家康の重臣・井伊直政がこの城跡に近世城郭を築いた。これが群馬県高崎市高松町1にあった高崎城である。しかし現在は宅地化が進み、三ノ丸外囲《さんのまる・そとがこい》の土居と水濠、そして復元された東御門や乾櫓が移築されているだけであった。

今となっては一昨々年は、平成28(2016)年の鬱陶しい梅雨の時期にあって、群馬県は晴天になるとの予報を信じて高崎市と前橋市にある城跡を攻めてきた。午前中は高崎城跡。この日、JR東海道本線に乗って片道二時間かけて高崎に着いたのが朝10時少し前。駅から城跡までは徒歩で15分ほど。

今から四百年以上前の天正18(1590)年、関白秀吉[e]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。による小田原仕置ののちに三河国から移封してきた家康は、戦国期に廃城となった和田城跡で関東の交通の要衝でもあるこの場所に、重臣の井伊直政に命じ城を築かせた。直政は、慶長3(1598)年にはそれまでの箕輪城から拠点を移し「高崎」と改称[f]直政は最初は「松ヶ崎」に改名しようとし、城下の竜広寺の住職・白庵に相談すると、諸木には栄枯があることを説かれ「成功高大」の意から「高崎」にすべしと進言され、これを採用したと云う。して高崎城と呼んだ。同時に町人や寺社も移して城下町を整備したと云う。

高崎藩初代藩主となった直政は慶長5(1600)年にあった関ヶ原の戦いの功で近江国へ加増移封され、このあとは諏訪氏・酒井氏・戸田氏・藤井松平氏が高崎藩主を歴任した。そして、現在(ささやかながら)観ることができる遺構は、このあとの元和5(1619)年に入城してきた安藤重信《あんどう・しげのぶ》をはじめとする安藤氏三代が近世城郭として整備・改修したものとされる。

こちらは高崎城を描いた古絵図を北を上にしていくつか並べたもの。その中には国立国会図書館デジタルコレクション蔵『諸国城之図(3巻)』がある:

井伊直政が築いた頃の縄張図

慶長期高崎城縄張図

北を上にして回転させたもの

諸国城之図・高崎城

天守とされた御三階櫓が建っていた時代

元和期高崎城縄張図.

高崎城は、烏川《からすがわ》東岸の断崖上に築かれた輪郭梯郭複合《りんかく・ていかく・ふくごう》式平城である。その内訳は、断崖の西端寄りに本丸を設け、その周囲に榎曲輪《えのきぐるわ》・西曲輪・西の丸、梅の木曲輪を輪郭式に、さらに二ノ丸・三ノ丸を梯郭式に配置している。郭内だけでも5万坪を越える広大な城域だったと云う。

明治6(1873)年に廃城となると城内にあったほとんどの建物は破却されたか、もしくは民間に払い下げられた。とりわけ本丸・二ノ丸は宅地化で消滅、三ノ丸にあった水濠と土居の一部を観ることはできるが、消滅した跡地には公園または市の公共施設などが建っているだけである:

お濠端通りに面した交差点脇に建っていた城跡の説明板

「史跡・高崎城址」の碑

この碑が建つあたりが三ノ丸の東御門跡で、その周辺は公園化され、その敷地には東御門の他、県指定重要文化財に指定された乾櫓《いぬい・やぐら》といった復元建造物が建ち、公園外周部に沿って土居と水濠の一部があった。

他には、公園で城跡をイメージさせるためだけに模擬された追手御門[g]大手御門とも。の石垣がある:

高崎城の大手門に相当する櫓門の台座石垣を後世に模擬したもの

追手御門の模擬石垣

これは後世の造物である

追手御門の模擬石垣

こちらが本丸の乾櫓。廃城後に農家に払い下げられ納屋として使われていたものを市が昭和49(1974)年に買い取って、昭和52(1977)年にこの場所に移築復元した[h]もちろん本丸跡が消滅しているため、実際の位置は現在の位置から西方300mの地点であるとか。

二層本瓦葺、入母屋造の屋根を持ち、腰屋根を巡らした平入りの建物

乾櫓

移築復元ということで屋根瓦は高崎城のものとして伝承されていた瓦を譲り受けて転用し、鯱や塀は地元の名士宅に現存していたものをそれぞれ模造、鉄砲狭間にあっては修景のために追加したものである。また、この櫓は本丸土塁の上に建っていたので本来は台座石垣は存在せず、現在櫓の下にあるのは模擬石垣である。

往時、本丸には乾櫓を含む四つの隅櫓と、天守に相当する御三階櫓《ごさんかい・やぐら》が建っていたと云われ、この乾櫓以外は廃城時に全て破却された。こちらは説明板に描かれていた乾櫓の平面図:

安藤氏が改築した

乾櫓図面

乾櫓は二層二階・本瓦葺・入母屋造の屋根を持ち、腰屋根を廻らせた平入りの木造建築物で、一階と二階が同じ広さを持つ、いわゆる「重箱櫓」形式であった。主に武器や食糧を保管する蔵として使われていたと云う。元和5(1619)年に城主となった安藤家で三代藩主を務めた安藤重博《あんどう・しげひろ》が享保時代(1716〜1736年)の間に、それまで平屋だった蔵を二層二階の櫓に改築したと云う。

復元された乾櫓脇には東御門が移築されていた。こちらも乾櫓と同様に廃城後に民間へ払い下げられていたもの:

追手御門から約240m南にある出枡形の北側にあった平屋門

東御門

追手門の南にあり、往時は武士や商人が通行した通用門だった

東御門

東御門は追手御門から約240m南にある出枡形の北側にあった平屋門で、部屋が隣接し、潜戸《くぐりど》はは乗籠が通過できるようになっていた。記録によれば、東御門は寛政10(1798)年と天保(1843)年の二度にわたり火災で焼失し、その後に再建されたものが現在に至るとされる。但し、払い下げられた際にかなり低く削れられるなど改変具合が想像以上に大きかった。

 こちらが天守こと御三階櫓が映った古写真(高崎市立中央図書館蔵)。破却前に撮影されたものとされる:

  手前の建物は東京鎮台(旧帝国陸軍)高崎分営の兵舎

御三階櫓古写真

かって本丸西隅に築かれていた御三階櫓は三層三階の層塔型天守であった。この天守には台座石垣がなく土塁の上に築かれていたため一階は長方形だった。各階の屋根には千鳥破風が並べられ、最上階には廻縁は無いが花頭窓を設けて郭式高い建築物にしていたのだとか。

この他、三ノ丸の土居と水濠が一部残っていた。こちらは三ノ丸外囲《さんのまる・そとがこい》の土居:

この土塁と、その先にある濠は往時の面影をとどめていた

三ノ丸外囲の土居

この土塁と、その先にある濠は往時の面影をとどめていた

三ノ丸外囲の土居

三ノ丸を囲っていた水濠は幅が約10m、土居の高さは最大約6m。三ノ丸北端には馬出、東側中央に追手御門、南東隅には外側に大きく張り出した横矢枡形があったと云う。

これらの水濠は道路を敷くために少し幅が狭くなっているらしい:

土居は右手の堀を堀った土砂で築く「掻き揚げ」手法で造られた

三ノ丸外囲の土居

左手の道路拡張で一部狭くなっているが、往時からここにあった濠

三ノ丸の水濠

 こちらは城址公園脇から眺めた三ノ丸南側跡に建つ高崎市役所[i]地上21F・地下2Fの高層ビルで平成10(1998)年に竣工。最上階に展望ロビーがあるのだとか。知らなかった  😥 。この奥にある二ノ丸跡や本丸跡は完全に消滅していた:

三ノ丸跡地に建つ高崎市役所

三ノ丸跡

最後は土居の脇に建っていた注意書き:

IMGP0067.resized

「土塁は文化財です。」(上がってもいいのか?)

以上で高崎城攻めは終了。

See Also高崎城攻め (フォト集)

【参考情報】

上野和田城

現在の高崎は、平安時代には上野赤坂《こうずけ・あかさか》と呼ばれ鎌倉街道の宿駅《しゅくえき》[j]街道沿いに集落で、のちに宿場と呼ばれた交通上の拠点のこと。と云うこともあって多くの勢力がひしめき合った関東の要衝の一つであった。

鎌倉時代には御家人であった和田氏が戦に敗れ、遠く離れたここ赤坂に落ち延びて土着した。その子孫は赤坂から「和田」に改め、烏川《からすがわ》東岸に築いた居館はのちに和田城と呼ばれるようになった。この城は天正18(1590)年に落城するまでの約160年間、和田家代々の居城とされてきた。

和田氏は室町時代に入ると関東管領・山内上杉《やまのうち・うえすぎ》氏に従属するも、その第十五代当主・憲政《のりまさ》が古河公方・足利義氏《あしかが・よしうじ》や小田原北條氏綱・氏康父子らに勢力圏を圧迫され河越夜戦《かわごえ・よいくさ》で大敗し、いよいよ氏康の手が上野国に及ぶに至ると越後国の長尾景虎を頼って居城の平井城からおちていった。この時の城主・和田業繁《わだ・なりしげ》[k]「業」の字は「上州の黄斑(猛虎)」と呼ばれ勇将の誉高い長野業政からの偏諱である。業政の養女を正室とした。は義父で箕輪城主の長野業政《ながの・なりまさ》に従って上野の国衆らをまとめ、和田城を含む多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」を構築し小田原北條氏や甲斐武田氏と対抗した。しかし業政が亡くなったのち武田信玄によって「小豪族ネットワーク」は瓦解し、永禄5(1562)年に業繁はついに信玄の軍門に下った。

永禄6(1563)年頃には関東管領職を拝領した越後の上杉政虎[l]云わずと知れた上杉謙信。「政」の字は前・関東管領・上杉憲政からの偏諱。が信玄の勢力下に入った和田城を何度か攻撃するも、武田勢の牽制もあってなんとか守りとおすことができた。これ以降、業繁は「上野先方衆[m]先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。」として信玄の主要な合戦に参陣することとなった。

しかし信玄が亡くなり、勝頼の代になった天正3(1575)年に長篠城包囲する君ヶ伏床砦《きみがふしど・とりで》で徳川方の酒井忠次率いる別働隊の強襲を受けて討ち死にした。和田家の家督は娘婿の信業《のぶなり》[n]甲斐武田氏の譜代家老・跡部勝資《あとべ・かつすけ》の子で和田業繁の婿養子となった。が継ぎ、武田家滅亡後は小田原北條氏に属し、上野国が織田信長の重臣・滝川一益《たきがわ・かずます》の領有となると一旦は織田家に属すが、本䏻寺の変後は再び小田原北條氏の配下となった。

そして天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では前田利家・上杉景勝ら北国勢の攻撃を受け和田城は落城、のちに廃城となった。

江戸時代には、この城跡を取り込む形で高崎城が築かれたが、現在でも和田城の縄張などその詳細は不明である。

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 鎌倉幕府の御家人の一人和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。
b. 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。
c. 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。
d. 信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。
e. 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。
f. 直政は最初は「松ヶ崎」に改名しようとし、城下の竜広寺の住職・白庵に相談すると、諸木には栄枯があることを説かれ「成功高大」の意から「高崎」にすべしと進言され、これを採用したと云う。
g. 大手御門とも。
h. もちろん本丸跡が消滅しているため、実際の位置は現在の位置から西方300mの地点であるとか。
i. 地上21F・地下2Fの高層ビルで平成10(1998)年に竣工。最上階に展望ロビーがあるのだとか。知らなかった  😥
j. 街道沿いに集落で、のちに宿場と呼ばれた交通上の拠点のこと。
k. 「業」の字は「上州の黄斑(猛虎)」と呼ばれ勇将の誉高い長野業政からの偏諱である。業政の養女を正室とした。
l. 云わずと知れた上杉謙信。「政」の字は前・関東管領・上杉憲政からの偏諱。
m. 先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。
n. 甲斐武田氏の譜代家老・跡部勝資《あとべ・かつすけ》の子で和田業繁の婿養子となった。