城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

滝の城 − Takino Castle

滝の城の二の郭と外郭との間には逆L字型の中堀が残っていた

柳瀬川とその支流の東川《あずまがわ》が合流して出来た段丘端に築かれ、天然の外堀である柳瀬川に面した南側は急崖、北側は三重の堀と土塁によって守られた滝の城は、室町時代末期に関東管領・山内上杉氏の家臣で武蔵国守護代の大石氏[a]のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。が、居城である滝山城に対する支城として築いたと云う説の他、扇ヶ谷《おおぎがやつ》上杉氏の家宰・太田道灌江戸城河越城を結ぶ清戸道《きよとみち》[b]江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。の間に築いた「つなぎの城」と云う説もある。道灌死後の戦国時代初期には伊勢宗瑞《いせ・そうずい》[c]伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。とその一族が、ここ武蔵国へ侵攻し、天文6(1537)年に三代目当主・北條氏康が河越夜戦《かわごえ・よいくさ》で両・上杉氏と古河公方らに勝利すると、滝の城は滝山城とともに氏康の三男・氏照の支配下に入った。その後、滝の城は反北條氏を掲げた太田三楽斎《おおた・さんらくさい》らが籠もる岩付城に対する境目の城として北條流築城術で改修された。しかし天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置の際、豊臣方の浅野長吉《あさの・ながよし》[d]のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。勢に攻められて一日で落城し廃城となった。現在は埼玉県所沢市大字城23-1番にて滝の城址公園の一部が整備・保存されている。

今となっては一昨々年《さきおととし》は、平成28(2016)年のまだ梅雨が鬱陶しかった初夏のとある週末、堀や土塁が良好な状態で復元・整備されていると声がインターネット上で多かった埼玉県所沢市の滝の城跡を攻めてきた。特に「北條流築城術」の宝庫らしい。この日はJR武蔵野線の東所沢駅から所沢青梅線沿線を25分程歩いて公園へ向かった[e]所沢駅から公園内にある運動場近くまでバスがあることを、これを書いている時に知った  😥

こちらは公園で入手した『埼玉県指定史跡「滝の城跡」』(滝の城跡保存会作成)の裏面に描かれていた『滝の城跡・縄張り図』を参考に、Google Earth 3D上に公園周辺と城跡の遺構などを加筆したもの:

城址公園の南側が運動場、関越道の少し奥に東川が流れている

滝の城址公園周辺(Google Earthより)

現在、公園内で整備・復元されている遺構の他に、公園外は一部だけ残っていた

滝の城跡(コメント付き)

なお『滝の城跡・縄張り図』と同等の絵が、所沢市のホームページの滝の城跡で公開している『埼玉県指定史跡・滝の城跡・発掘調査概報』(PDF)にも掲載されていた。現地では、こちらの縄張り図を参考に城攻めすることをオススメする ;)

こちらは公園内にあった案内図(下側が北):

二の郭跡にあった「滝の城跡保存会」の掲示板前に置かれていたもの

「滝の城跡縄張り図」(拡大版)

滝の城は、本郭・二の郭・三の郭といった内郭と、それを囲むように外郭・出郭が配置された多郭式の平山城で、内郭は発掘調査が行えるほど良好に遺構が残っているとのことで、大正時代には県史跡として文化財に指定されている。実際のところ、昭和から平成の時代にかけて10回以上も発掘調査が行われているのだとか。


今回は城跡の外郭にあたる北側から公園の入口へ:

公園北側から入ると、すぐ目の前は二の郭を巡る二重堀跡

埼玉県指定文化財・滝の城跡入口

公園入口の奥には外郭と二の郭の間に巡らされた二重堀跡があった:

外堀と内堀から構成される二重堀は北條流築城術の一つ

二重堀跡

土塁を中心に左手が外堀跡、右手が中堀

土塁上から二重堀跡

土塁の上から眺めると、現在は宅地化された側の外堀跡と公園内の内堀で「二重堀」が構成されているのがよく分かる。この「二重堀」こそ北條流築城術の特徴の一つである。

土塁を外れて城跡西側の道路近くにはオドロオドロシイ「血の出る松跡」なる標柱が建っていた:

現在、黒松の木は枯れてしまって残っていない

「血の出る松跡」

その昔、傷をつけると赤色の樹液が出るとされる大きな黒松が立っていたらしい。これが、小田原仕置で落城した際に討ち死にした城兵の血ではないのかと云う言い伝えにつながったと云う。昭和47(1972)年に枯死して伐採されており、現在は存在しない。

この「血の出る松跡」の隣にある土塁上が物見櫓跡。土塁上には「物見櫓跡」の碑が建っていた:

左手に「血の出る松跡」があり、右手の土塁上が物見櫓跡

七曲り側の物見櫓跡

土塁の手前にある内堀の堀底から見上げた土塁上の物見櫓跡

物見櫓跡

こちらは中堀の掘底道からの眺め。奥に見える土塁の先が外堀跡、右手の土塁上が二の郭跡:

正面の土塁奥が外堀で、この内堀とで二重堀を形成していた

逆L字型の中堀跡

逆L字型の中堀により堀底を進む寄手に横矢を仕掛けることができた

コメント付き

中堀が逆L字型に折れ曲がり、横矢を仕掛けることが可能になっていた。この「横矢掛《よこやがかり》」の多用もまた北條流築城術の特徴。ちなみに、この中堀は二の郭へ入る土橋風の遊歩道から見下ろすと、さらによく分かる。

このあとは公園の遊歩道に戻り、二の郭跡を目指した。これは土橋風の遊歩道で、この両側に中堀が走っている:

外郭跡(手前)から二の郭跡(奥)へ向かう遊歩道が土橋風になっていた

二の郭の土橋跡

こちらが逆L字型に折れた中堀と土塁群:

横矢掛かりの中堀を中心に、左手の土居上が二の郭跡、正面の土居が物見櫓跡、右手の土居の奥が外堀と外郭跡

逆L字型に折れた中堀(拡大版)

対して、こちらは土橋跡から北側へ伸びる中堀。左手が外堀跡、右手が二の郭跡で、こちらも綺麗に整備されていた:

手前の土橋から奥の外堀方向に伸びる二重堀であった

北へ伸びる中堀

土橋風の遊歩道を渡りきって二の郭跡へ。遊歩道を見てわかるとおり車が通行できるので、二の郭跡の一部は駐車場として使われていた:

「二の丸」に相当し内郭の中では一番広い

二の郭跡

他には、本郭跡に建つ城山神社の社務所、そして「滝の城跡保存会」の掲示板が建っていた。この掲示板には発掘調査に関する情報の他に、縄張り図が印刷されたパンフレットも入手できた:

神社や本郭跡に建っている

城山神社の社務所

三ッ鱗紋が描かれた「北條氏照公の持城・武州・滝の城」の幟

掲示板

二の郭跡の周囲には低いながらも土居跡が残っていた。往時は高い土塁で囲まれていたと想像できる:

土居の手前辺りから発掘調査で「地鎮祭祀跡」が検出されたらしい

二の郭土居跡

前述の『発掘調査概報』によると、二の郭跡から方形の掘り込みが確認され発掘調査を実施したところ築城に伴う地鎮祭祀《じちんさいし》跡らしきものが検出されたらしい。

このあとは内堀に架かる土橋風の遊歩道で本郭跡へ。本郭跡には城山神社の境内にもなっていた:

拝殿の奥にも土塁や櫓台跡のような高まりが残っていた

本郭跡

ここにはいろいろ石碑が建っていた:

なぜか本郭跡の端っこに建っていた

「滝の城址」の碑

側面には「北條陸奥守氏照の持城」と彫られていた

「瀧之城本丸之址」の碑

ここから城址南側を流れる柳瀬川を見下ろしたところ。残念ながら沢山の杜で遮られて目視することはできなかったが :|

眼下のテニスコートや野球場、そしてJR武蔵野線の間に柳瀬川が流れているが全く見えなかった

本郭跡から城址南側の眺望(拡大版)

本郭跡の北西隅は稲荷神社が建てられるなど改変はされているが、櫓台跡の土塁が残っていた:

この土塁の上は意外と広く、稲荷神社が建っていた

本郭の北西隅にある櫓台跡

さらに三の郭跡側へ向かって行くと四脚門《よんきゃくもん》跡がある。往時、ここには内堀の先にある馬出・三の郭・出郭へ続く曳き橋が架かっていたが、天正18(1590)年の落城に伴い焼失したのだと云う:

ここから馬出を結ぶ通路として曳き橋が架けてあった

四脚門跡

こちらは四脚門跡から内堀こしに眺めた馬出跡。そして往時、架かっていた四脚門と曳き橋の想像図。ここが虎口であり、そして大手口にあたる:

往時は、眼下の内堀との間に曳き橋が架けられていた

本郭跡から眺めた馬出跡

発掘調査では門の部材が出土し、内堀も土橋状に浅くなっていたらしい

四脚門想像図

本郭跡から降りて二の郭跡を経由して馬出跡・三の郭跡へ。遊歩道右手には二の郭と本郭との間にある内堀を見ることできた:

二の郭跡から馬出跡・三の郭跡へ向かう遊歩道は土橋のように細い

三の郭跡へ続く遊歩道

二の郭と本郭の間にある空堀

内堀

対して、遊歩道右手には二の郭を巡る中堀を見ることができる:

左手が二の郭跡、右手奥には二つの大型土塁があるが、その間の鞍部には障子堀の延長が入り込んでいたらしい

中堀(拡大版)

現在は埋没保存されて目では確認できないが、発掘調査の結果、中堀とその奥にある二つの大型土塁の間の鞍部は障子堀になっていたと云う。この「障子堀」もまた北條流築城術の特徴の一つである。

馬出跡の手前から内堀ごしに、先ほど本郭跡にあった四脚門跡と本郭の虎口を眺めたところ:

往時は曳き橋を渡り四脚門が建っていたところが本郭虎口であった

馬出跡から眺めた本郭跡

そして内堀と稲荷神社が建つ本郭の櫓台跡。往時、曳き橋があったとされる本郭の虎口下には土橋状の土居も確認できた:

馬出跡(手前)から内堀を挟んで本郭跡(左手)とその櫓台跡、二の郭跡(右手奥)が見える

本郭櫓台跡と内堀(拡大版)

内堀の先に見える低い土居が本郭の虎口を結ぶ土橋跡

内堀と土橋

こちらが二の郭跡と三の郭跡の間にある馬出跡。三の郭跡から見下ろすと馬出のすぐ隣に中堀があるのがわかる:

ここから三の郭の脇の大手道を通って出撃していた

馬出跡

三の郭跡からは手前を走る大手道の先に馬出と中堀が見える

馬出跡と中堀

そして三の郭[f]別名は茶呑郭《ちゃのみくるわ》。跡:

家臣団の屋敷が建っていたとされる郭

三ノ郭の虎口

周囲は土塁で囲まれていたらしく、ここに建っていた御殿で家臣らと茶の湯を楽しんだと云われている。また発掘調査では、大井戸跡が検出された(現在は埋没保存):

直径10mの漏斗状で六段の階段を伴う井戸跡が発見された

三の郭跡と大井戸跡

こちらは三の郭跡から見下ろした柳瀬川が流れる城址南側の斜面:

現在は、この下に滝の城址公園運動場があり、その先の鉄橋下が柳瀬川

城址南側の斜面(拡大版)

三の郭と馬出の間にある大手道を下りていくと門跡があり、その先には物見櫓として使われたであろう大型の土塁がある:

大手道を下ると門跡があり、その先にある土塁は物見櫓だった

大手道跡

この門跡とされる場所からは石敷と柱穴が検出され、炭化材と焼土が出土された。また同じく出土した「ウズマキかわらけ[g]見込みに沈線渦巻きが施された土器。」は他にある扇ヶ谷上杉氏の城や館跡からも多数発見されていることから、ここ滝の城が扇ヶ谷上杉氏の支配下にあったことが分かったのだと云う[h]これが太田道灌(扇ヶ谷上杉氏)による築城説の根拠らしい。

こちらは門跡から眺めた中堀と大型の土塁。横矢を仕掛けることが可能な折りが幾重か見ることができた:

二の郭の巡る堀と土塁には北條流築城術を多数見ることができた

横矢掛を持つ空堀と土塁

ここ滝の城は、山中城と云った小田原北條氏が支配した他の城と同様に、典型的な「土の城」である。その実体は関東ローム層で出来ていたため、水分を含むと滑りやすくなる特徴を持つ:

水分を含むと滑りやすい関東ローム層を利用した土の城である

「土の城」

このあとは柳瀬川が流れる城址南側へ下りることにした。これは三の郭を巡る中堀(堀切)の堀底道を利用した遊歩道:

右手の土居は三の郭跡で、この先が城址の南側に通じている

中堀跡

降りていく途中、左手に大型の土塁が出現するが、こちらも物見櫓であったと思われる:

三の郭とは堀切を挟んで大型の土塁上に残る

物見櫓跡

物見櫓跡から先の堀底道はまるで竪堀に変化したかのように城址南側に落ち込んでいた。そのためか、この辺りからは階段になっていた:

三の郭と出郭との間の堀切が城址南側では竪堀のように落ち込んでいた(そのために階段か?)

階段に変化した遊歩道(拡大版)

こちらが野球場やテニスコート側から見上げた城址南側の急崖。遊歩道が設けられて改変されてしまったので、往時の急崖の面影は残っていない:

遊歩道が作られる等して改変され、急崖の面影は残っていなかった

城址南側の急崖

こちらが霧吹きの井戸跡。藪でよくわからないが、石組みの井戸になっているらしい:

藪化してよく分からないが、石組の井戸らしい

霧吹きの井戸跡

そしてグランドを横切って「天然の外堀」であった柳瀬川を渡り、対岸へ移動した。こちらが対岸から眺めた比高20mほどの段丘上に築かれた滝の城跡:

埼玉県および東京都を流れる荒川水系の一級河川

柳瀬川

天然の外堀ごしに眺めた城址南側は比高20mほどの段丘であった

滝の城跡遠景

最後は城址公園内にあった注意書き:

IMGP0229.resized

「マムシに注意」

以上で滝の城攻めは終了。

See Also滝の城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。
b. 江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。
c. 伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。
d. のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。
e. 所沢駅から公園内にある運動場近くまでバスがあることを、これを書いている時に知った  😥
f. 別名は茶呑郭《ちゃのみくるわ》。
g. 見込みに沈線渦巻きが施された土器。
h. これが太田道灌(扇ヶ谷上杉氏)による築城説の根拠らしい。

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    予想に反し、規模は小さいながらも「北條流築城術」を堪能できる見事な遺構だった。ホント、埼玉県は保存状態の良い城が多い(東京都や神奈川県と比較して)。あと[外郭跡」と「出郭跡」にも少しだけ遺構が残っているらしい。これを書いている時に知った。

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