山形城本丸跡に石垣・大手橋・高麗門・櫓門からなる一文字門が一部復元された

山形県山形市霞城《かじょう》町1番7号にある霞城公園は、市内の中心部にあって馬見ケ崎川《まみがさきがわ》西岸に広がる扇状地北端に築かれていた羽州探題職《うしゅう・たんだいしき》[a]室町幕府が出羽国に設けた役職の一つで、他に大崎氏が世襲した奥州探題職がある。・最上氏の居城であり、のちに山形藩庁がおかれた山形城である。この城の起源は初代・羽州探題であった斯波兼頼《しば・かねより》が延文元(1356)年に出羽国最上郡山形に入部して築いた館であり、このとき室町幕府により許されて「最上屋形《もがみ・やかた》[b]「屋形」とは公家や武家らの館のこと。特に室町時代から「名門」を謳われた武家の当主や藩主に対する称号とされた。」と称すようになったのが最上氏の始まりとされている。近世城郭としての原型は、第十一代当主で出羽山形藩の初代藩主である最上義光《もがみ・よしあき》が文禄から慶長期(1592〜1615年)に拡張したもので、この時に本丸・二ノ丸・三ノ丸が築かれ、三重の堀と土塁が巡らされた輪郭式平城が完成した。のちに藩主となった鳥居忠政《とりい・ただまさ》[c]徳川家康の家臣で、関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城籠城戦で自刃した鳥居元忠《とりい・もとだた》の次男。長兄が早世していたため嫡男となる。改易された前藩主・最上氏に代わって山形藩主となった。は元和8(1622)年に現在公園で見ることができる二ノ丸の堀や石垣などを整備した他、明和4(1767)年には藩主・秋元涼朝《あきもと・すけとも》[d]幕府の老中の一人で、武蔵国河越藩・河越城主。転封されて山形藩主となる。が三ノ丸に御殿を新造した。明治3(1870)年に廃城、そして昭和24(1949)年に本丸と二ノ丸が公園として市民に開放された。

今となっては一昨々年《さきおととし》は平成28(2016)年の初夏の候、仕事の関係で一ヶ月ほど遅れてとった「黄金週間+α[e]代休などを追加して少し長めの休みにした。」を前半・後半に分けてそれぞれ城攻めツアーへ。前半は長野県は諏訪市と松本市にある城跡を攻め、後半は前年に続く「奥州攻め」と題して福島県の他に宮城県と山形県まで足を伸ばし城跡や勇将らゆかりの地を巡ってきた。あり難いことに後半の二泊三日はすべて晴天に恵まれた 8)

その奥州攻め最終日は、予定では早々に帰宅する予定であったが、せっかく天気が良かったので午前中は山形まで足を伸ばし山形城を攻めてから午後一番に山形新幹線の始発で帰京することにした。その方が自由席の空が多いと思ったので。ということで宿泊先を早々にチェックアウトし、米沢駅から朝8時ちょっと過ぎのJR奥羽本線・普通列車に乗って朝9時前に山形駅に到着。帰りの切符[f]当時、E3系の新幹線つばさは7両編成のうち自由席は1両しかないことに気付いて指定席に変更したが、この予想は当りだった。実際のところ、上りは新庄が始発だったので自由席は既に満席だった 😥 を購入した後ろ、徒歩で10分ほどのところにある霞城公園の南門へ向かった。

ちなみに駅西口を出ると霞城セントラルというビルが目に入ってくるが、そこの最上階から霞城公園を一望できるが、今回は城攻めを終えてからお昼を摂りに同じ最上階のレストラン街に立ち寄ると共に、霞城公園を眺めてきた。

まずは公園案内図(右上が北):

本丸・二ノ丸跡は昭和24(1949)年に公園化され37年後の昭和61(1986)年には国史跡に指定された

都市公園・霞城公園の案内図(拡大版)

太平洋戦争後、旧・帝国陸軍に接収されていた山形城の本丸跡と二ノ丸跡の一部が市に払い下げられ、昭和24(1949)年に霞城公園として文化とスポーツを奨励する拠点として市民に開放された。そのため現在でも二ノ丸跡には大規模なスポーツ施設が建っている。

こちらはGoogle Earth 3D上に案内図を参考にしながら今回の城攻めルートを示すラベルを重畳させたもの:

大戦後に払い下げられた山形城跡は桜の名所となり、そしてスポーツ奨励の中心地として開放された

霞城公園周辺図(Google Earthより)

平成3(1991)年に東追手門、平成18(2006)年には本丸大手橋、さらに平成25(2013)年には一文字門が復元された

城攻めルート

昭和61(1986)年に国の史跡指定を受け、市の復元事業の一環として平成3(1991)年には二ノ丸東追手(大手)門が復元されると平成18(2006)年には本丸虎口に架かる大手橋、そして平成25(2013)年に本丸虎口の枡形門を成す高麗門(一文字門)と築地塀《ついじべい》が復元された。

ということで、こちらが今回の城攻めルート:

(JR山形駅) → ①二ノ丸南追手門 → ②二ノ丸跡 → ③坤櫓跡《ひつじさるやぐら・あと》 → ④二ノ丸西不明門《にのまる・にしふめいもん》 → 三階櫓跡 → ⑤乾櫓跡《いぬいやぐら・あと》 → ⑥二ノ丸北不明門《にのまる・きたふめいもん》 → ⑦肴町向櫓跡《さかなまちむかいやぐら・あと》 → ⑧艮櫓跡《うしとらやぐら・あと》 → ⑨二ノ丸東追手門 → ⑩三ノ丸跡 → ⑪巽櫓跡《たつみやぐら・あと》 → ⑫本丸一文字門 → ⑬本丸跡 → ・・・ → ⑭霞城セントラル展望台 → (JR山形駅)

帰宅日ということで時間の都合もあったので、今回は本丸跡と二ノ丸跡だけ攻めてきた。他に気になった場所は三ノ丸土塁跡、最上義光歴史館、義光公の菩提寺である光禅寺、豊臣秀次の側室となった次女・駒姫と正室・大崎夫人の菩提寺である専称寺、そして長谷堂城跡など。


まずは霞城公園の南門にある①二ノ丸南追手門[g]「大手門」とも。本稿では「追手門」で統一した。

二ノ丸南側中央に設けられた桝形虎口に建つ門は東追手門と同じ桝形門

二ノ丸南追手門跡

三ノ丸との間には水堀である中堀(二ノ丸堀)が巡らされ、虎口付近の二ノ丸土塁は土橋を渡る寄手に横矢掛り《よこやがかり》できるように一部が屈曲していた:

中堀と土塁は寄手に合横矢を仕掛けれるように屈折していた

中堀と二ノ丸土塁

中堀と土塁は寄手に合横矢を仕掛けれるように屈折していた

中堀と二ノ丸土塁

二ノ丸南追手門は枡形虎口に設けられた内桝形門であり、現在も枡形と櫓門台座石垣が残っていた。これらの石垣は昭和59(1984)年に一部が補修されている。また江戸時代の前期(鳥居氏時代)と後期(秋元氏時代)の絵図を比較すると櫓門が:

二ノ丸東追手門と同じ枡形虎口で、往時は左手下に高麗門、中央奥に櫓門が建つ桝形門を形成していた

二ノ丸南追手門枡形(拡大版)

往時、手前に高麗門、奥の台座石垣上には続櫓が建っていた

櫓門台座石垣

こちらは説明板にあった鳥居氏の時代の南追手門想像図:

この追手門は土橋と高麗門、続櫓と櫓門からなる内枡形門であった

江戸時代前期の南追手門想像復原図(拡大版)

土塁が巡らされた二ノ丸は「土の郭《くるわ》」であるが、その虎口は全て石垣を用いた桝形門で固められていた。

それから南追手門跡を通って公園内部に入った先が②二ノ丸跡。ちょうどこの場所は植樹された桜の木があつまる「桜の園」と呼ばれるエリア。さらに、この先の本丸側は当時も発掘調査が続いていた:

二ノ丸内のその大部分は公園化されていたが、周囲の土塁は健在だった

二ノ丸跡

この発掘調査現場の奥が本丸跡で、そこでも発掘調査が続いていた

二ノ丸西側発掘現場

ここで一度、二ノ丸南追手門跡へ戻り、復元された雁木《がんぎ》から二ノ丸土塁上へあがった。ちなみ、この雁木は明治時代に陸軍歩兵第33連帯が山形城へ入部した際に雁木にあった石材を他に流用するために抜き取られた挙句、石段の機能が失われた末に土に埋められていたらしい。

こちらは正保元(1644)年の正保城絵図《しょうほう・しろえず》[h]命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫《もみじやま・ぶんこ》に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。の中から国立公文書館のデジタルアーカイブ蔵の『出羽国最上山形城絵図』にコメントを付与したもの[i]城絵図の一部を抜粋し、さらに北を上にして回転させている。

本丸と二ノ丸、そして三ノ丸までを抜粋し、コメントを付与した

正保城絵図〜『出羽国最上山形城絵図(一部抜粋)』

二ノ丸の土塁上には櫓が計6基があったが、そのうち最上氏が城主の時代から天守の代わりとされた三階櫓は江戸時代に取り壊されたと云う。

こちらは二ノ丸の南西隅に建っていた③坤櫓跡。台座石垣・雁木《がんぎ》、栗石[j]内部の排水性を高め、石垣の沈下を防ぐための小石。などが復元されていた:

廃城まで、ここに建っていた二階櫓の石垣と雁木や栗石が復元されていた

坤櫓跡

発掘調査で発見された石垣は埋没保存されている

坤櫓跡

発掘調査では櫓建物の台座石垣が発見された。周囲の土層や破棄されていた瓦の形から江戸時代には少なくとも三回以上の建替え、もしくは瓦の葺き替えが行われていたと云う。それらの遺構は復元した石垣の中に埋没保存されている。

さらに土塁の上を移動して ④二ノ丸西不明門へ。江戸時代には西追手門(西大手門)と呼ばれていた:

二ノ丸にある他の追手門と同様に内枡形門で枡形と櫓門台座石垣が残る

二ノ丸西不明門跡

二ノ丸に設けられた他の門と同様に内桝形門であり、現在も枡形虎口と櫓門台座石垣(現存)が残っていた。特に台座石垣は廃城後、一度も補修が行われていない状態のままらしい。

こちらは中堀と西不明門:

こちらに残る石垣は現存ながら一度も補修されていないのだとか

二ノ丸西不明門跡の枡形虎口

二ノ丸西側の土塁の上から眺めた西不明門跡

西不明門と中堀

再び二ノ丸土塁上を北へ移動する。ちょうど西側の土塁の中間あたりが、最上氏時代に天守の代わりをしていたとされる三階櫓が建っていた場所であるが、櫓台跡や説明板などは無かった:

最上氏が城主の頃に建てられたが、後に破却された

三階櫓跡(推測)から眺めた中堀

さらに北を目指して土塁上を歩く:

三階櫓跡からさらに北上する(左手が中堀、右手が二ノ丸跡)

二ノ丸土塁上

北端あたりに到着すると、こちらも説明板などはなかったが、往時は一層の平櫓が建っていたとされる⑤乾櫓跡

二ノ丸土塁の北西隅には平屋型の櫓が建っていた

乾櫓跡

そして、こちらが二ノ丸の北端にある⑥二ノ丸北不明門跡

この虎口には外枡形(左手)と内枡形(右手)が形成されていた

二ノ丸北不明門跡

公園の北門に相当する北不明門は外枡形と内枡形の両方で形成された城内で唯一の門で、高麗門の両脇にある城塁が出張っていることで外と内の枡形に対し相横矢《あいよこや》[k]横矢掛りの発展型で、門の両側から側面攻撃を仕掛けることができる構造。を懸けることができた:

二ノ丸土塁の横矢が二段にわたって設けられている

城塁と中堀

北不明門には外(手前)と内(奥)に枡形が形成され相横矢が可能だった

外枡形跡から眺めた北不明門

中堀の堀幅は最大20mほど

城塁と中堀

再び公園内の二ノ丸土塁へ上がり南へ移動していくと、土塀が建っていたとされる場所に塀礎石《へい・そせき》の列が復元されていた[l]おそらく実物はこの土の下に埋没保存されているはず。

往時はこの石の上に土塀を建てていた

塀礎石(復元)

二ノ丸土塁の北側には屏風折れ《びょうぶおれ》が設けられ、北不明門に寄せてきた敵に横矢をかけれるようになっていたが、その城塁上には往時は二階櫓が建っていた。ここが⑦肴町向櫓[m]往時、この櫓から見渡せる城下北側に肴町《さかなまち》という町人街があったとされる。。この櫓は、最上氏が改易され鳥居氏が入封したあとの改修で建てられたものとされる:

二ノ丸北東側にある横矢の城塁上で、現在はベンチが置かれていた

肴町向櫓跡

三ノ丸に対して二ノ丸土塁と中堀、さらに土塀を屏風折れすることで守り手は身を隠しながら寄手に側面攻撃を仕掛けることが可能にな強力な施設であった:

二ノ丸北東側にある横矢の城塁上から中堀を経て三ノ丸跡を見下ろす

屏風折れした城塁と中堀

さらに土塁の上を進んでいくと城の鬼門にあたる二ノ丸東隅には⑧艮櫓跡があった。当時はまだ発掘調査中だったので、おそらく現存の石垣と思われる:

この当時は発掘調査中であったため立入り不可であった

艮櫓跡

平成28年度・史跡山形城二ノ丸土塁(北東部)発掘調査によるもの

「通行止めのお知らせ」

この跡地では櫓台に相当する石垣と天端石[n]石垣の最上部で、その上の建物を支える部分のこと。山形城で天端石が現存していたのは初めてのことらしい。《てんばいし》が検出された。艮櫓は二階櫓で、これも鳥居氏の時代に改修された。

さらに二ノ丸土塁上を進んでいくと土塀が現れ、その先に公園で一番の見所であり、山形市制百周年を記念して平成3(1981)年に復元された⑨二ノ丸東追手門が見えてくるので土塁から降りてじっくり見てみることにした。ちなみに続櫓《つづきやぐら》内は発掘史跡の他、復元時の資料、霞城公園のジオラマ、さらには石落としなどが展示されていた(入場無料/当時)。

こちらが二ノ丸跡から見た土塁・土塀、櫓門、そして続櫓。こちらが山形城の大手口にあたる:

霞城公園整備計画に基づいて平成3(1981)年に復元された桝形門

二ノ丸追手門

二ノ丸側から見た東追手門の土塀、渡櫓、櫓門、続櫓、そして土塁

コメント付き

なお江戸時代前期(〜松平氏時代)までは渡櫓は存在せずに櫓門だけであったが、江戸時代後期(秋元氏時代)に現在のような渡櫓が櫓門の上に設けられたて渡櫓門になった。渡櫓門と続櫓は木造で矩折一重櫓《かねおり・いちじゅうやぐら》で本瓦葺入母屋造(一部は両脇戸附櫓門)の塗籠式。高さ12.9m、奥行き8.1m、幅31.8m。

桝形門で一ノ門にあたる渡櫓門は一階が櫓門、二階が渡櫓、そして続櫓と土塀が接続する。渡櫓と続櫓が展示スペースになっていた(土足厳禁)。映画のロケ地としても使われることがあるらしい[o]例えば、平成26(2014)年の松竹映画『超高速! 参勤交代』など。

一階の櫓門の上に渡櫓が置かれた渡櫓門で、近代映画のロケ地ともなった

渡櫓門

雁木風の石段を登って続櫓の中に入ることができる

続櫓

脇にある雁木風の石段を登って続櫓と渡櫓内の展示スペースへ。これらの建屋は古写真と城絵図を参考にし、現存する石垣から建物の寸法を割り出して復元したのだとか。櫓内部は図面が残っていないので、城内や同時期の他の城の図面を参考にして造られた:

渡櫓と続櫓の中は発掘調査の成果、復元作業の説明、ジオラマなどが展示されていた(無料+土足厳禁)

渡櫓内の展示スペース(拡大版)

これは山形城跡こと霞城公園のジオラマ[p]山形市は30年かけて山形城の本丸・二ノ丸を復元する計画があるのだとか。既に公園内にあったプールやテニスコート等は撤去され、将来的には現在ある球場や武道館なども撤去されるらしい。。ちなみ本丸跡に御殿が建っているが、当時は存在していなかった:

山形城跡の霞城公園のエリアのジオラマであるが、当時は本丸跡には御殿は存在してなかった

霞城公園のジオラマ(拡大版)

このあとは外に出て桝形門内部へ。こちらが櫓門の冠木。この木は長さ13.8m、高さ84m、幅54cmの巨木を使用している。これだけの木材を国内で調達するのは困難だったため台湾から調達したのだと云う:

巨大な部材は長さ13.8m、高さ84cm、幅54cmで、台湾から調達した

櫓門の冠木

この先に見えるのが枡形と二ノ門

櫓門の門扉

こちらが東追手門の内枡形と、桝形門の一ノ門にあたる高麗門。最上氏の時代の東追手門は中堀に突き出した外枡形であったが、鳥居氏の時代に二ノ丸の中に収まるように内枡形に変更された:

最上氏の時代は外枡形であったが、鳥居氏の時代に内枡形になった

東追手門枡形

本丸の大手口とは異なり、寄せ手は東追手門は左に折れる経路をとる

枡形と高麗門

江戸時代初期(最上氏時代)の東追手門は、二ノ丸北不明門と同様に中堀と三ノ丸に向かって張り出す外枡形であったが、江戸時代前期(鳥居氏時代)の改修では二ノ丸が拡張されたため、城内に枡形を設けた内枡形に変更された。

こちらが三ノ丸側から見た高麗門周辺部。三ノ丸まで侵攻した寄手は、この高麗門から枡形へ入り、左へ折れて櫓門をくぐって二ノ丸に侵入する。近世城郭の中でも左折の枡形は珍しいのだそうだ:

外枡形から大手橋を渡り高麗門をくぐったら左に折れる経路となる

二ノ丸東追手門

枡形門の二ノ門である高麗門と枡形を構成する建屋が復元された

コメント付き

二ノ丸にあった他の桝形門と同様に、大手門にあたる東追手門は渡櫓門を一ノ門、高麗門を二ノ門とする内桝形門であり、土塀で枡形を囲い北側と南側に多聞櫓(それぞれ北櫓と続櫓)を置いて厳重な守備を敷いていた。

二ノ門は木造一重櫓で本瓦葺入母屋造塗籠《ほんがわら・いりもやづくり・ぬりごめ》、屋根は軒出桁造《のき・だしけたづくり》[q]梁または腕木を側柱筋よりも外に突出させ、先端に桁を出した造り。、背後の二つの控柱にも屋根が付いている高麗門形式:

木造一重櫓で本瓦葺入母屋造塗籠、屋根は軒出桁造で復元された

高麗門(表)

二ノ門は背後の二つの控柱にも屋根が付いている高麗門形式

高麗門

江戸中期(堀田氏時代)には現在のように中堀ぎりぎりまで張り出した位置に移動されたと云う。従って、復元された枡形門は一ノ門と二ノ門とでは時代が異なると云う

中堀に架かる大手橋を渡って三ノ丸跡へ向かうとJR奥羽本線の高架があるが、線路を含めたその辺りが外枡形跡。この高架から東追手門を振り返ると野面積みで復元された急勾配の高石垣を観ることができた:

左手奥にJR山形駅があり、霞城セントラルがそびえているのが見えた

中堀と東追手門の続櫓・土塀

当時、北櫓は倉庫として使われており開放されていなかった

中堀と東追手門の北櫓・土塀

こちらは公園と併走するJR奥羽本線。霞城公園は桜の名所でもあるため車窓からも眺めることが可能らしい:

霞城公園は桜の名所であり並走するJRの車窓からも観賞できるらしい

中堀とJR奥羽本線

公園を出た先が⑩三ノ丸跡。こちらは最上義光歴史館

最上家に関する史料を収蔵・展示している

最上義光歴史館

再び公園内の二ノ丸跡へ戻って、「最上義光公勇戦の像」を観る。兜は三十八間覆輪筋兜《さんじゅうはちけん・ふくりん・すじかぶと》ではなかった:

長谷堂城の戦いで會津・上杉勢を迎撃せんと決戦場の富神山へ向かって進撃せんとする英姿である

「最上義光公勇戦の像」(拡大版)

この騎馬像は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いを前に會津上杉氏の執政・直江山城守兼続率いる23千の大軍を迎え、自ら陣頭に立って指揮奮戦し、敵を撃退してよく山形を死守した山形城主・最上義光が決戦場とした富神山《とがみやま》へ向かって進撃せんとする英姿《えいし》[r]但し、鎧兜の類は時代考証にとらわれずに表現したものとのこと。であるとのこと。右手にかざしているのは愛用の指揮棒で、「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光《せいわてんのうまつよう・やまがたでわのかみ・うはつのそうよ・よしあき》[s]最上家は清和源氏の支流であり、山形出羽守の官位をもち、剃髪はしていないが仏に仕える身であることを宣言するもの。鉄製で重さは1.75kgある。」と彫っていたと云う。

近隣の国衆らを謀略で震え上がらせた「出羽の狐」こと最上義光は、天文15(1546)年正月、山形の地で誕生。幼名は白寿丸、元服し源五郎・義光[t]「義」の字は、室町幕府第十三代征夷大将軍・足利義輝よりの偏諱。を名乗った。奥羽伊達氏の傀儡であった父・義守《よしもり》は次男・義時《よしとき》を偏愛し家督を譲ろうとして嫡男の義光との間で国を二分する内紛が勃発した。奥州伊達氏の後ろ盾と、近隣豪族の天童氏や延沢氏からなる「最上八楯《もがみ・やつだて》[u]出羽国の有力豪族からなる領主の連合体。天童氏を盟主としたことから「天童八楯」とも。」の援軍を得た義守により、義光は四面楚歌となるが有能な直臣と共に巧みに切り抜け、妹・義姫《よしひめ》[v]伊達輝宗の正室で、伊達政宗の母。出家して保春院《ほしゅんいん》。兄・義光とは仲がよかった。の仲介により伊達氏と和睦、隣国の城を次々に攻略した上に伊達氏の内紛に乗じて独立した。

出羽最上氏第十一代当主となった義光は出羽統一をかかげ、父の側についた近隣の国衆らを武力と謀略で斬り伏せた。そして天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置に参陣して本領24万石を安堵された。翌年の九戸政実《くのへ・まさざね》の乱鎮定後に総大将の豊臣秀次が山形城に寄宿した際に三女・駒姫を見初めて側室に差し出すように執拗に迫り、義光は断るも度重なる要求に最後は屈して渋々差し出した。しかし文禄4(1595)に秀次が謀反の疑いで切腹となった際、駒姫も連座して京三条河原で処刑された[w]五大老の前田利家、徳川家康らが助命嘆願し、最後は秀吉がそれを聞き入れて早馬を出したが時は既に遅かったと云う説あり。。義光夫妻の悲嘆は激しく、駒姫の母で正室の釈妙英はまもなく後を追うように自害。自身も甥の伊達政宗とともに秀次への加担を疑われ謹慎となった。この時、義光の秀吉に対する憎悪は決定的となり、のちの「北の関ヶ原」と云われた慶長出羽合戦では豊臣方ではなく、徳川方について會津宰相・上杉景勝と対決した。

長谷堂城の戦いで上杉勢を撃退した功により57万石の賜り、出羽山形藩の初代藩主となった。江戸時代に入り、領内の復興や城下町の整備や治水工事、諸税務の免除、最上川の海運や産業の奨励など自国民に寛容な治世をしき、草深い出羽国に文化の華を咲かせたと云う。
慶長18(1613)年には病をおして江戸で二代将軍・秀忠、駿府で家康とそれぞれ謁見した。その翌19(1614)年に山形城で病死。享年69。

次男の家親《いえちか》が山形藩を継ぎ、そして家親死後に子・義俊《よしとし》が継いだが、このときに後継者争いで内紛が勃発し幕府の仲介が入って、義光死後のわずか9年で山形藩最上家は改易となった。


このあとは再び二ノ丸土塁上にあがって南へ移動した。こちらにも塀礎石が復元されていた:

土塁の上に石列を埋めて基礎石とし、その上に土塀を建てていた

塀礎石

江戸時代後期(秋元氏時代)には土塀を透塀《すかしべい》に建て替えたと云う。土塀は礎石の上に土を積み上げて造るのに対し、透塀は格子のように木材を組み立てて建てた塀らしい。

そして二ノ丸南東隅に復元された⑪巽櫓跡。ここから瓦葺の二階櫓の台座石垣と瓦が発掘された:

櫓跡は散策路の休憩施設になっていた

巽櫓跡

こちらは二ノ丸南側の①二ノ丸南追手門近くにあった横矢の復元エリア。土塁を屈折させて南追手門に攻め寄せる敵を側面から攻撃するための施設である:

南追手門に攻め寄せる敵を側面から攻撃するための施設

二ノ丸南側の横矢

二ノ丸土塁上に横矢は七ヶ所設けられていたと云う。発掘調査の結果、土塁が屈折している部分にも塀礎石がめぐらされていた。

このあとは①二ノ丸南追手門あたりから二ノ丸跡へ降りて、県体育館の脇を通って本丸跡へ向かった。城攻め当時も本丸とその周辺の発掘調査は継続されており、本丸南土塁の一部だけ遺構を埋没保存させた状態で復元されていた:

往時は水堀で、石垣手前にあるのは崩落石垣(江戸時代後期のもの)

復元された本丸南土塁の一部

発掘調査後に現存石垣の上に新しい石垣を積み、隅は算木積だった

コメント付き

本丸石垣は打込接ぎ《うちこみはぎ》で加工し、横目字《よこ・めじ》が通らない乱積みである。石垣の背後に栗石による裏込めをもち排水や荷重の分散などの工夫が見られるとのこと。根石から7mほどの高さまでが残存石垣(現存)、その上に新しい石垣を積み、隅石は算木積して復元している。また堀の中に積まれた崩落石垣は発掘調査中に検出された大量の石材で、江戸時代後期に発生した「御櫓崩《おんやぐらくずれ》」なる事故で崩落した石垣は拾われることがなく埋められていたと考えられるのだとか。

ここから本丸東側の大手口へ回り込むと二ノ丸と接続する大手橋が復元されていた。これらは明治29(1896)年に帝国陸軍による兵営建設のため石垣が壊され内堀が埋められていた:

左手が本丸大手口枡形、木橋・中堀を挟んで右手が二ノ丸跡

復元された大手橋

復元した大手橋は木製で、橋脚の位置も発掘調査の結果に基づいて決定しているため等間隔ではないのだとか。長さは21.8m、幅5.4m、中央部の高さが6.7m:

発掘調査後の平成10(1998)年から八年の歳月を費やして復元した

枡形石垣と高麗門と大手橋

本丸大手口の高麗門。こちらは二ノ丸東追手門のものに準じて復元されている:

鏡柱、冠木、控柱などは国産の檜が使われ、枡形石垣も同時に復元された

高麗門(拡大版)

二ノ門は二本の控柱にそれぞれ屋根を持つ高麗門形式

高麗門

高麗門の特徴は扉が開いていても閉じていても屋根の下に収納されることである。間口4.8m、棟高6.9m。

これら大手橋、高麗門、枡形、そして櫓門を含めて ⑫本丸一文字門と呼ぶ。平成の時代に復元されたのは江戸時代後期(秋元氏時代)のもの。ちなみに最上氏時代は本丸の西と東の二カ所に虎口があった。従って大手口が南東に変更されたのは鳥居氏の時代から:

本丸の大手にあたり、櫓門・高麗門・桝形全体のこと本丸一文字門と呼び、櫓台石垣の上にあるのが一文字櫓

本丸一文字文字門想像復原図(拡大版)

そして高麗門をくぐって枡形に入る。右に折れた先には往時は一文字櫓門[x]真上から見ると「一の字」に見えるから。が建っていたが、現在は櫓台石垣が復元されていた:

石垣と土塀、そして一文字櫓門によって囲まれた虎口

枡形

一文字櫓の確たる史料が存在しないことが当面の問題らしい

櫓台石垣

なお一文字櫓門については確たる史料が存在しておらず(当時)、完全復元を目指し、現在は眠っている古絵図や古写真がないか多くの人に協力を募っているとのこと。

そして⑬本丸跡。当時も本丸御殿跡の調査が継続中であった。本丸は東西約144m、南北約133mのほぼ方形であった:

当時も本丸御殿に関する発掘調査が続いていた

本丸跡

発掘調査が続いていたため一部の立入りが制限されていた

本丸跡

最上氏が改易された後、石高の減少[y]最上氏の時代は57万石で、廃城時の水野氏は5万石。もあり、広大な城域の維持が困難となると江戸時代後期には本丸御殿は使われず、三ノ丸に建てた新御殿で政務が行われたのだとか。

将来的には一文字櫓門を復元し、本丸跡には御殿の平面復元を設けた広場にするようだ:

将来は本丸土塁、本丸一文字櫓、本丸御殿平面復元などを整備した広場にするようだ

「本丸御殿広場完成イメージ図」(拡大版)

こちらは石積み井戸跡:

本丸御殿跡から見つかった井戸跡

石積み井戸跡(拡大版)

そういうことで本丸跡や二ノ丸跡の県立博物館前には発掘された石垣がたくさん展示されていた:

本丸跡から出土した石材で、将来的に再利用されるとのこと

本丸跡に展示されていた石材

隅石とわれ、石垣の角に使われる長方形の切石

二ノ丸跡に展示されいた石材

こちらは公園内に建っていた山形市郷土館(旧・済生館)。明治6(1873)年に私立病院として設立された三層楼の建物で国指定重要文化財。当時は県庁側にあったがのちに公園内に移設されたらしい:

明治時代に設立された私立病院で、済生館と呼ばれた

以上で山形城攻めは終了。

このあとJR山形駅へ向かう前にお昼を兼ねて⑭霞城セントラル展望台へ。最上階エレベータホール奥に展望エリアがあり、そこから霞城公園を眺めることができた:

霞城セントラル最上階にある展望台からの眺望で、手前のR18の先に見えるのが南追手門跡で、野球場方面が北門跡になる

霞城公園の遠望(拡大版)

最後に、新幹線の車窓から関ヶ原の決戦直前に直江山城守が率いる會津・上杉勢が山形侵攻で包囲した長谷堂城跡をなんとか観ることができた:

山形新幹線の蔵王駅を少し過ぎたあたりからの眺め

車窓から長谷堂城跡

See Also山形城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

a 室町幕府が出羽国に設けた役職の一つで、他に大崎氏が世襲した奥州探題職がある。
b 「屋形」とは公家や武家らの館のこと。特に室町時代から「名門」を謳われた武家の当主や藩主に対する称号とされた。
c 徳川家康の家臣で、関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城籠城戦で自刃した鳥居元忠《とりい・もとだた》の次男。長兄が早世していたため嫡男となる。改易された前藩主・最上氏に代わって山形藩主となった。
d 幕府の老中の一人で、武蔵国河越藩・河越城主。転封されて山形藩主となる。
e 代休などを追加して少し長めの休みにした。
f 当時、E3系の新幹線つばさは7両編成のうち自由席は1両しかないことに気付いて指定席に変更したが、この予想は当りだった。実際のところ、上りは新庄が始発だったので自由席は既に満席だった 😥
g 「大手門」とも。本稿では「追手門」で統一した。
h 命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫《もみじやま・ぶんこ》に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。
i 城絵図の一部を抜粋し、さらに北を上にして回転させている。
j 内部の排水性を高め、石垣の沈下を防ぐための小石。
k 横矢掛りの発展型で、門の両側から側面攻撃を仕掛けることができる構造。
l おそらく実物はこの土の下に埋没保存されているはず。
m 往時、この櫓から見渡せる城下北側に肴町《さかなまち》という町人街があったとされる。
n 石垣の最上部で、その上の建物を支える部分のこと。山形城で天端石が現存していたのは初めてのことらしい。
o 例えば、平成26(2014)年の松竹映画『超高速! 参勤交代』など。
p 山形市は30年かけて山形城の本丸・二ノ丸を復元する計画があるのだとか。既に公園内にあったプールやテニスコート等は撤去され、将来的には現在ある球場や武道館なども撤去されるらしい。
q 梁または腕木を側柱筋よりも外に突出させ、先端に桁を出した造り。
r 但し、鎧兜の類は時代考証にとらわれずに表現したものとのこと。
s 最上家は清和源氏の支流であり、山形出羽守の官位をもち、剃髪はしていないが仏に仕える身であることを宣言するもの。鉄製で重さは1.75kgある。
t 「義」の字は、室町幕府第十三代征夷大将軍・足利義輝よりの偏諱。
u 出羽国の有力豪族からなる領主の連合体。天童氏を盟主としたことから「天童八楯」とも。
v 伊達輝宗の正室で、伊達政宗の母。出家して保春院《ほしゅんいん》。兄・義光とは仲がよかった。
w 五大老の前田利家、徳川家康らが助命嘆願し、最後は秀吉がそれを聞き入れて早馬を出したが時は既に遅かったと云う説あり。
x 真上から見ると「一の字」に見えるから。
y 最上氏の時代は57万石で、廃城時の水野氏は5万石。