群馬県前橋市大手町で一際目立つ群馬県庁舎の周辺一帯は、かって征夷大将軍・徳川家康が関東七名城[a]内訳は河越城、忍城、唐澤山城、新田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。の一つとして『関東の華』と賞した前橋城跡であり、古くは群雄割拠の時代には厩橋城《マヤバシジョウ》[b]読みは他にっ《ウマヤバシジョウ》があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥 と呼ばれていた。15世紀末に西上野《ニシ・コウズケ》の国人衆であった長野氏が拠点としていた箕輪城の支城[c]石倉城とも。が始まりとされる。越後上杉氏、甲斐武田氏、そして小田原北條氏らが関東の覇権を争った戦国の世には、ここ厩橋城の争奪戦が幾度となく繰り広げられた。特に関東管領職に就いた上杉政虎[d]云わずと知れた、のちの上杉謙信。は、この地の静謐を旗印に越後の精兵を引き連れて越山するための拠点とした。のちに武田氏と北條氏の支配下に入り、この両雄が去ったあと、関八州《カンハッシュウ》に入封した家康が譜代の重臣らを城主に置いた。城は元和3(1617)年に大改修が施され、利根川河岸の急崖に臨む本丸を幾重もの郭で囲み、三層三階の天守を建てるなど近世城郭に変貌した。のちに前橋城と改称するも、『坂東太郎』の異名を持つ利根川の氾濫と侵食により一時は廃城になる[e]度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。が、幕末には再建[f]治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。されるも四年後の明治4(1871)年の廃藩置県で二度目の廃城となった。
今となっては一昨々年《サキオトトシ》は平成28(2016)年の鬱陶しい梅雨のとある週末、天気予報で群馬県は晴天になるとのことで、片道2時間半かけて高崎市と前橋市にある城跡を攻めてきた。午後は両毛線を使って高崎から前橋へ移動、汗ばむ気温の中をひたすら歩いて前橋城跡へ向かった。途中、お昼を摂ってエネルギーを補充し、群馬県庁舎や前橋公園がある「前橋市大手町」周辺を巡り、帰りは前橋駅へ向かう途中「群馬県における能発祥の地」でもある芳林山・長昌寺《ホウリンザン・チョウショウジ》に立ち寄ってきた。
こちらが今回の城攻めルート:
(JR前橋駅北口) → (駅前通り/県道R17) → (国道R50) → (「西洋亭 市 前橋店」) → (県庁前通り) → 前橋城・車橋門跡 → 二ノ丸跡/前橋市役所 → 三ノ丸跡/前橋地方裁判所 → 本丸跡/群馬県庁 → 本丸土塁 → 高浜門跡と土塁 → (利根川) → 虎姫観音堂《トラヒメ・カンノンドウ》 → (群馬県庁・展望ホール) → 前橋城跡の碑 → 北曲輪跡/前橋公園 → ・・・ → 長昌寺 → (JR前橋駅)
群馬県庁舎32階にある展望ホールからは前橋城跡を俯瞰できる他、前橋市街はもちろん利根川と赤城山、榛名山など群馬県ならではの眺望も楽しむことができた。
なお近世城郭の前橋城は:
- 前橋城① 〜 元和3(1617)年に酒井忠世《サカイ・タダヨ》が中世城郭の『厩橋城』を改修したもの
- 前橋城② 〜 慶應3(1867)年に松平直克《マツダイラ・ナオカツ》が再建したもの
に分類されるのが一般的なようだ。
これは、「前橋城②」の縄張図に相当する『再築・前橋城復元図』なるもので、往時の縄張図と現代の地図を重畳したもの:
「前橋城②」の縄張は、「前橋城①」の三ノ丸を本丸に変更した渦郭式[g]「渦巻き」状に郭が連なる縄張の種類。で、城域を巡る土塁の要所々々《ヨウショ・ヨウショ》には砲台が築かれ「近世城郭」として生まれ変わった[h]但し完成を急ぎ、短い工期であったため城門や居館は簡素な作りだったとか。。しかし城郭としての機能を果たさないまま明治4(1571)年を迎え、本丸御殿を残して破却された。この御殿はのちに県庁として再利用され、昭和3(1928)年に老朽化を理由に解体されたと云う(昭和庁舎)。
従って現在、県庁周辺で見ることができる(復元)遺構は「前橋城②」のものである。
こちらは国立国会図書館デジタルコレクション蔵の『諸国城之図(3巻)』に描かれた上州厩橋城の城絵図。「厩橋城」と題しているが、実体は中世ではなく近世城郭の「前橋城②」時代の縄張図:
西に利根川、北に広瀬川をそれぞれ天然の外堀とした平城で、郭内は土塁で区画されていたのが分かる。利根川に面した西側に本丸と二ノ丸が配されていた。
対して「前橋城①」の本丸は西側の利根川との間に河原が広がっていたが、長年の侵食で失われ、ついに本丸が崩壊するに至ったとされる。
まずは車橋門《クルマバシ・モン》跡と復元された台座石垣:
この門は、外曲輪から郭内[i]本丸、二ノ丸、三の丸、そして北曲輪。部に至る重要な門で、「前橋城①」の時代は冠木門[j]2本の柱の上に横木を1本置いた門。であったが、「前橋城②」の時代は櫓の二階を通って門の左右に渡ることが可能な渡櫓門に改築された。また、その台座石垣は1辺7.7m☓4.25m、高さは1.4mの間知石《ケンチイシ》が二段に積まれていた。現在は、この石垣の下に遺構が埋没保存されている。
古絵図によると、水堀に張り出した部分に木橋が架かり、台座石垣の上に櫓を載せた構造であったと推測されている:
県庁前通りを西へ進んでいくと通りを挟んで南側に前橋市役所が見えてくるが、その辺りが二ノ丸跡:
二ノ丸の周囲は利根川の河原につながる南西部を除き、北・東・南の三方に水濠と土塁が巡らされ、本丸を囲むように守備していたと云う。二ノ丸の北西は高浜曲輪《タカハマ・クルワ》、北東は三ノ丸、南は厩曲輪《ウマヤ・クルワ》、東は三ノ丸であった。
次に県庁を横目に北へ向かうと地方裁判所があるが、ここが三ノ丸跡:
不整形な三ノ丸も周囲には水濠と土塁が巡らされ、北と東に北曲輪、南に二ノ丸、西に本丸がそれぞれ配置されていた。
裁判所あたりから通りを挟んで西側の県庁あたりが本丸跡:
この場所は「前橋城①」では三ノ丸にあたり、この時代の本丸は利根川の侵食によってほぼ消失してしまっていた。そのため再建した「前橋城②」では旧・三ノ丸を新たな本丸にしたのだと云う。
新しい本丸もぐるりと水濠と土塁で囲まれ、西側には利根川の河岸が広がっていた[k]旧・三ノ丸の仕様をそっくり受け継いだので当然といえば当然だが。。
なお「前橋城①」の時代に本丸南側に築かれていた天守(三層三階の櫓)は利根川浸水による本丸崩壊後に廃城となって破却されているが、その場所はここではなく、利根川近くに建つ虎姫観音堂《トラヒメ・カンノンドウ》あたり:
さらに、昭和庁舎の裏にある駐車場と「高浜公園」なる緑地エリアの境界に本丸土塁の一部が残っていた:
本丸土塁をつたって高浜公園側に向かって県警本部の脇を抜けたところが本丸の高浜門跡:
手前が三ノ丸跡、この奥が本丸跡で、門跡の両脇に土塁が残っていた。
このあとは高浜公園に沿って西へ向かった。これは本丸跡のすぐ脇を流れる現在の利根川:
度重なる利根川の氾濫により、上野厩橋藩主が酒井氏から越前松平氏の頃には、川と城域の間にあった広い河川敷は侵食されて消失し、さらに本丸の崩壊が急速に進んでいた時代だった。本来は大河を利用した天然の要害であったがはずが、逆に川によって城が破壊していくと云う「皮肉」な結果となった。
そして次第に本丸御殿まで浸水するに及び、明和5(1768)年、時の藩主・松平朝矩《マツダイラ・トモノリ》はかねてよりの財政難もあって再建を諦め、幕府に願い出て河越城へ移り、「前橋城①」は廃城となった。
これは利根川近くに建つ虎姫観音堂:
「前橋城①」が廃城となり、水害の災禍に見舞われた前橋の城下町は寂れ果てたが、町民らはこれが昔の前橋城主時代にまつわる「御虎姫の祟り[l]上野前橋藩の第四代藩主で酒井雅楽頭忠清《サカイ・ウタノカミ・タダキヨ》が鷹狩中に見初めた御虎と云う娘を寵愛したため、奥女中らが罠にはめて酷い仕打ちで生きたまま利根川の淵に沈めてしまった。この時、御虎は「城を取り潰し、七代まで祟ってやる」と叫んだと云う。本丸が崩壊したのは忠清から数えて七代目の藩主の時代だったとか。」によるものだと考え、この場所に姫を観世音に祀り、河川の守護神である辨財天《ベンザイテン》と共に永くその加護を祈念するため御堂を建てたと云う。現在の六角堂は昭和43(1968)年の建立。
あと、前述のとおり酒井氏が築いた三層三階の天守が建っていたのが、本丸崩壊前のこの御堂あたりらしい。
このあとは県庁32階にある展望ホールへ。休日も直通エレベータがあるので利用時間を確認して昇ってきた。
まずは利根川上流を含む県庁から北側の眺望:
こちらは展望フロア直下の眺め。水色破線が城域:
それから再び県警本部あたりまで戻って道路に面した「三ノ丸緑地」へ。これは三ノ丸土塁の一部:
この土塁は本丸北砲台と呼ばれた砲台跡であり、土塁上の削平地に城址碑が建っていた。旧厩橋藩ゆかりの人達の手で明治41(1908)年位建立された:
このあとは北上して北曲輪跡にある前橋公園へ:
園内の「さちの池」脇に残る北曲輪の土塁。腹巻石垣は後世の造物:
以上で前橋城攻めは終了。
前橋(厩橋)城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 前橋城車橋門跡、前橋城址碑前に建っていた説明板と案内板(日本経済新聞社・前橋市)
- 日本の城探訪(前橋城/厩橋城)
- 埋もれた古城(前橋城)
- タクジローの日本全国お城めぐり(群馬 > 上野 前橋城(前橋市))
- Wikipedia(前橋城)
- 虎姫観音 (日本伝承大鑑 > 群馬 > 虎姫観音)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINI刊)
厩橋城
古来、前橋は「厩橋《マヤバシ》」と称し、上野国にあって東山道《トウサンドウ》[m]五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。の駅《ウマヤ》が近かったことが、その名の由来とされる。ここに厩橋城《マヤバシジョウ》が築かれたのは十五世紀末で、箕輪城主・長野氏の一族で厩橋長野左衛門尉方業《マヤバシ・ナガノ・サエモンノジョウ・マサナリ》とされる。以降、箕輪城の支城として厩橋衆が拠《ヨ》っていたが、天文20年(1551)年に北條氏康が第二十八代関東管領・上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》らを駆逐し、その勢力が上野に及ぶに至り、厩橋城は小田原北條氏に攻略されて氏康の四男・藤田(北條)氏邦《フジタ(ホウジョウ)ウジクニ》の支配下に入った。
一方、越後国に落ちた憲政の要請を受け長尾景虎[n]この後に憲政の養子となり、関東管領職を継承して上杉政虎に改名した。は永禄3(1560)年に越後の精兵を率いて上野国へ侵攻するとたちまちに厩橋城を落とし、関東攻略のために越山・越冬する越後上杉勢の「駐屯地」として利用するため、城代として越後北条城主・北条高広《キタジョウ・タカヒロ》が置かれた。しかし、この地勢的にも戦略的にも重要な拠点として、この厩橋城とその周辺は越後上杉氏、小田原北條氏、そして甲斐武田氏を中心とした関東における群雄争覇の波に巻き込まれることになった。
天正6(1578)年に上杉謙信が死去すると越後国内はもちろんのこと、厩橋城を取り巻く情勢も大きく変化し、城代の高広は甲斐の武田勝頼に降伏した[o]北条高広はそれまでも小田原北條氏に寝返るなど主君・謙信に対して謀反を企ては許されると云うことがあった。。
天正10(1582)年に武田勝頼が敗死すると織田信長の重臣・瀧川一益《タキガワ・カズマス》が厩橋城に入城して関東管領を称した[p]一益が関東管領職についたかどうか諸説あり。が、同年に起こった本䏻寺の変後の神流川決戦《カンナガワ・ケッセン》で北條氏直《ホウジョウ・ウジナオ》勢に破れて本国の伊勢国に落ちていくと、厩橋城は再び北條氏邦の手中に帰した:
天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、すでに豊臣勢に降伏していた松井田城主・大道寺政繁《ダイドウジ・マサシゲ》・直繁《ナオシゲ》父子の道案内と浅野長吉《アサノ・ナガヨシ》[q]徳川家康と籠城中の小田原城を発し上杉景勝・前田利家・真田昌幸ら北国勢に合流したのちの浅野長政。らに攻められて落城した(石田堤史跡公園に置かれていた説明板より):
そして、同年の夏に関八州へ入封した三河の徳川家康は、譜代の家臣である平岩親吉《ヒライワ・チカヨシ》を3万3千石で厩橋城主に置いた。
慶長6(1601)年の関ヶ原の戦後に親吉が甲斐府中・甲府城へ移封されると、代わって川越藩の河越城主・酒井重忠《サカイ・シゲタダ》が厩橋城に入城し、以後は九代の間、酒井氏のよる厩橋藩政が続いた。この時に「厩橋」から「前橋」に改められ、前橋城が近世城郭化された。
【参考情報】
- 前橋城址碑の解説板(群馬県)
- Wikipedia(前橋城) 〜 室町時代・安土桃山時代
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINI刊)
長昌寺と本城氏墓所
前橋城攻めを終えて帰宅するためにJR前橋駅へ向かう途中、ちょうど群馬県庁前を南下したところにある芳林山・長昌寺に立ち寄った。この曹洞宗の寺院は厩橋城主・長野方業《ナガノ・マサナリ》の開基とされ、戦国期には群雄争覇の波に巻き込まれた中、天正9(1581)年には火災で堂宇を焼失するも、時の城主・北条高広《キタジョウ・タカヒロ》によって再建されたと云う:
武田家が滅亡し、織田家の重臣・瀧川一益《タキガワ・カズマス》が厩橋城に入城すると、一益は周辺の土豪らを招集し城内で能興行を催すとともに、長昌寺には町民を集め、能興行鑑賞の機会を設けたと云う。これが上州における初めての能興行と伝えられている:
留書によると、ここ長昌寺で催された能興行の出席者の中には眞田安房守昌幸の姿もあったと云う。こののち一益の孫である瀧川一積《タキガワ・カズアツ》[r]一益の嫡男・一忠《カズタダ》の子。は昌幸の五女・於菊《オキク》[s]のちの趙州院《チョウシュウイン》殿。眞田信之(信幸)・信繁らの妹。初めは石田治部少輔の姑の甥に嫁いたが、関ヶ原の戦後に離縁された。一積とは再婚。と結婚している。さらに、その縁で大坂夏の陣で討ち死にした眞田幸村の娘である阿梅とあぐりを養女とした。
箕輪衆の長野氏の開基ということで本堂の鬼瓦には檜扇《ヒオウギ》紋があしらわれていた:
本堂前には本城(楯岡)満茂公の一族に関連する五輪塔墓石(市指定史跡)があった:
本城豊前守満茂《ホンジョウ・ブゼンノカミ・ミツシゲ》は出羽山形城主・最上義光《モガミ・ヨシアキ》の重臣の一人。最上氏庶流の一族で、山形に居た頃は「楯岡《タテオカ》」姓だった。関ヶ原の戦後の慶長7(1602)年に主君・義光の出羽入封に伴い、由利郡[t]現在の秋田県由利本荘市。に4万5千石で与えられ、「本城」姓に改めた。
元和8(1622)年に出羽最上氏は改易となり、本城氏は出羽国を離れて上野国厩橋の酒井忠世《タカイ・タダヨ》[u]酒井重忠の嫡男。厩橋藩第二代藩主。徳川家光の時代に幕府の老中・大老を歴任した。の下に身を寄せた。以後、本城氏は酒井氏が寛延2(1622)年に姫路藩へ転封されるまでの120年余を前橋の地で暮らしたと云う。
ここ長昌寺には江戸時代末までは初代・満茂、二代・親茂《チカシゲ》、三代・満旨《ミツムネ》、四代・満武《ミツタケ》をはじめとする一族の墓石と石仏、そして満茂の位牌があったと云うが、現在は満茂夫人と次女、そして満茂の養子・親茂が眠る。
本城氏墓所と長昌寺 (フォト集)
【参考情報】
- 長昌寺の説明板(前橋市教育委員会)
- 長昌寺のホームページ (長昌寺について)
- Wikipedia(楯岡満茂)
参照
↑a | 内訳は河越城、忍城、唐澤山城、新田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。 |
---|---|
↑b | 読みは他にっ《ウマヤバシジョウ》があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥 |
↑c | 石倉城とも。 |
↑d | 云わずと知れた、のちの上杉謙信。 |
↑e | 度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。 |
↑f | 治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。 |
↑g | 「渦巻き」状に郭が連なる縄張の種類。 |
↑h | 但し完成を急ぎ、短い工期であったため城門や居館は簡素な作りだったとか。 |
↑i | 本丸、二ノ丸、三の丸、そして北曲輪。 |
↑j | 2本の柱の上に横木を1本置いた門。 |
↑k | 旧・三ノ丸の仕様をそっくり受け継いだので当然といえば当然だが。 |
↑l | 上野前橋藩の第四代藩主で酒井雅楽頭忠清《サカイ・ウタノカミ・タダキヨ》が鷹狩中に見初めた御虎と云う娘を寵愛したため、奥女中らが罠にはめて酷い仕打ちで生きたまま利根川の淵に沈めてしまった。この時、御虎は「城を取り潰し、七代まで祟ってやる」と叫んだと云う。本丸が崩壊したのは忠清から数えて七代目の藩主の時代だったとか。 |
↑m | 五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。 |
↑n | この後に憲政の養子となり、関東管領職を継承して上杉政虎に改名した。 |
↑o | 北条高広はそれまでも小田原北條氏に寝返るなど主君・謙信に対して謀反を企ては許されると云うことがあった。 |
↑p | 一益が関東管領職についたかどうか諸説あり。 |
↑q | 徳川家康と籠城中の小田原城を発し上杉景勝・前田利家・真田昌幸ら北国勢に合流したのちの浅野長政。 |
↑r | 一益の嫡男・一忠《カズタダ》の子。 |
↑s | のちの趙州院《チョウシュウイン》殿。眞田信之(信幸)・信繁らの妹。初めは石田治部少輔の姑の甥に嫁いたが、関ヶ原の戦後に離縁された。一積とは再婚。 |
↑t | 現在の秋田県由利本荘市。 |
↑u | 酒井重忠の嫡男。厩橋藩第二代藩主。徳川家光の時代に幕府の老中・大老を歴任した。 |
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