城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

米澤藩上杉家御廟と林泉寺、そして善光寺 − Some mausoleums related in the Yonezawa-Domain Uesugi Clan

米沢城に眠る謙信公の霊柩が万が一の事態になったら避難させる場所に上杉家御廟がある

山形県米沢市御廟1丁目にある米澤藩主[a]本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。上杉家御廟は、藩祖で越後国春日山にて関東管領職を務めた不識院謙信《ふしきいん・けんしん》[b]云わずと知れた上杉謙信。公の御遺骸《ごいがい》をはじめとする歴代藩主の廟が杉木立《すぎこだち》の中に整然と立ち並び、森厳《しんげん》とした雰囲気に満ちた墓所として知られている。元々は公の霊柩が安置された米沢城本丸で大事が発生した場合に、その霊柩を一時的に退避させるために用意されていた場所であったが、元和9(1623)年に逝去《せいきょ》した初代米澤藩主・上杉権中納言景勝《うえすぎ・ごんちゅうなごん・かげかつ》公の御遺骸が埋葬されて以降は十一代に渡って米澤藩主が埋葬され、御霊屋《おたまや》の前には御廊下と拝殿が建ち、寄進された千基を越える石灯籠が並べられていた。それから明治6(1873)年の廃城令で米沢城本丸跡から改めて不識院謙信公の霊柩がこの場所に遷座されると、それに伴って拝殿や多数の石灯籠が撤去された上に参道も造り替えるなどして、現在観ることができる景観になったとされる。そして本御廟は昭和59(1984)年には全国の大名家墓所としては五番目となる国指定史跡に登録された。

今となっては一昨々年《さきおととし》は平成28(2016)年の初夏の候、仕事の関係で一ヶ月ほど遅れてとった「黄金週間+α[c]代休などを追加して少し長めの休みにした。」を前半・後半に分けてそれぞれ城攻めツアーへ。前半は長野県は諏訪市と松本市にある城跡を攻め、後半は前年に続く「奥州攻め」と題して福島県の他に宮城県と山形県まで足を伸ばし城跡や勇将らゆかりの地を巡ってきた。あり難いことに後半の二泊三日はすべて晴天に恵まれた 8)

その奥州攻め三日目は、山形県米沢市にて駅前にある駅レンタカー東日本の営業所でレンタサイクルを借り、米澤藩上杉氏にゆかりのある人々の寺院や御廟を巡ってきた。これらの場所が市内の西へ東へと思いの外離れていたにも関わらず、一日使って巡ることができたのはレンタサイクルのおかげである。ちなみに観光案内所が駅構内にあるので、『よねざわめぐり』と云う市内観光向けのマップを事前に手に入れておくことをオススメする。

こちらはGoogle Earth 3D上に今回巡ってきた場所など()を重畳した米沢市街の俯瞰図:

JR奥羽本線を中心に米沢市街地の西と東にある米澤藩上杉氏ゆかりの地を巡ってきた

米沢市街と米澤藩上杉家ゆかりの地

この日の午前中は前田慶次ゆかりの善光寺と上杉家を支えた人達が眠る春日山・林泉寺を巡り、お昼をはさんで午後は米沢城を攻めてきた。本稿では太字の場所について紹介する:

(駅レンタカー・米沢営業所) → 堂森・善光寺慶次清水無苦庵跡春日山・林泉寺善日山・千勝院 → 上杉家御廟 → 米沢城 → (駅レンタカー・米沢営業所)

堂森・善光寺と前田慶次郎供養塔

宿泊先を出て米沢駅近くにあるレンタカー屋でレンタサイクルを終日借りて(1,000円/当時)、まずは駅の東にある堂森・善光寺へ向かった。ただし駅の西側から車両に乗ったまま東側へ向かうには少々不便で、北側か南側から回り込む必要がある。さらに米沢バイパスを横断する場合は「地下横断歩道」を使う必要があった:

米沢駅前のレンタカー屋でレンタサイクルを借り、まずは駅の東側にある堂森善光寺へ

堂森善光寺と前田慶次ゆかりの地

そして羽黒川に架かる八幡原大橋を渡り、東北中央自動車道の高架をくぐってひたすら東へ進んでいくと、田園風景の中でひときわ目立つ山が見えてきた。この山の裏側に堂森・善光寺がある:

この山の裏側に善光寺があり、慶次はこの山頂の月見平に隣人や友人を招いてたびたび月見などの遊山を楽しんだとされる

国道R1から堂森・善光寺方面の眺め(拡大版)

この山の山頂は、いわゆる「月見平」と呼ばれ、往時は前田慶次郎が付近の住民や親しい友人らを招いて月見などの遊山《ゆさん》を楽しんだ場所であると云う。

また、道沿いには加賀前田家の家紋・加賀梅鉢《かが・うめばち》から派生した星梅鉢《ほし・うめばち》紋がついた「前田慶次・ゆかりの里・米沢」なる幟があちらこちらに立っているので迷うことはないであろう ;)

「米澤前田慶次の会」によるもの

「前田慶次・ゆかりの里・米沢」の幟

この山の麓に沿って南へ進んだところに真言宗豊山派・松心山光照院・善光寺があった:

宝暦13(1763)年に焼失し明和2(1765)年に再建、昭和50(1975)年の建替え

堂森・善光寺の仁王門

特に何も知らずに訪問した善光寺前には、予想外にも大勢の人だかりがあったので着いてはじめは何事かと思ったが、門前に建っていた『前田慶次郎 四百五回忌供養祭』なる看板を見て納得した。毎年6月4日には、晩年にここ堂森で隠棲生活《いんせい・せいかつ》をおくったとされる前田慶次郎利益《まえだ・けいじろう・とします》[d]前田慶次とも。他には利太、利大、穀蔵院飄戸斎《こくぞういん・ひょっとこさい》、あるいは穀蔵院忽之斎《こくぞういん・ひょつとさい》など多くの名前を持つ。の祥月命日《しょうつき・めいにち》の供養が執り行われているのだそうで、幸運にもその特別な日に参加できる機会に恵まれた 8)[e]境内では某漫画やパチスロの主人公である「傾奇者」前田慶次のコスプレをした人を何人か見かけたっけ :-) 。あと何故か元K-1レスラーでタレントの角田信朗《かくだ・のぶあき》氏も参加していたなぁ 。

本堂では善光寺の住職らによる供養祭が執り行われた:

この日は「前田慶次四百五回忌供養祭」が執り行われた

堂森・善光寺の本堂

県指定文化財「木造阿弥陀如来立像」と「木造伝長井時広夫妻坐像」が奉納されている

堂森・善光寺の本堂

供養祭では太鼓叩きや読経や法螺貝吹きが行われた:

前田慶次四百五回忌供養祭として太鼓叩きや法螺貝吹きと読経が行われた

前田慶次供養祭の様子

この日の本堂では『善光寺三尊』と「見返り阿弥陀」の伝説を持つ県指定重要文化財の『木造阿弥陀如来像』が御開帳されていた:

三尊は阿弥陀如来(中央)と観音菩薩・勢至菩薩(左右)の立像、手前にある木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代の作品

『善光寺三尊』(中央)と『阿弥陀如来立像』(左手前)(拡大版)

三体からなる立像のうち中央の金銅阿弥陀如来立像《こんどう・あみだにょらい・りゅうぞう》は右手を上げ、下げた左手の中指と人差し指を伸ばし、他の指を折り曲げた「善光寺式」と云われる来迎形である。その両脇侍である金銅観音菩薩立像《こんどう・かんのんぼさつ・りゅうぞう》と金銅勢至菩薩立像《こんどう・せいしぼさつ・りゅうぞう》は胸の前で両手を水平に重ねる梵筐印《ぼんきょういん》と宝冠を被った、こちらも「善光寺式」のお姿をしている。室町時代の作品。

その手前左手にあるのが『木造阿弥陀如来像』で、大きく左下に首をひねって後ろを振り返った、通称「見返り阿弥陀如来」と称された珍しい姿をした立像は鎌倉時代の作品である。その昔、源頼朝との戦いに敗れた長田庄司忠次の妹・益王姫《ますおうひめ》]が御家に伝わる阿弥陀如来像を背負って出羽国へ落ち、ついには追手に見つかってしまったが、姫を守るため背中に背負った阿弥陀様が突然振り返り追手を睨み倒して難を逃れることができたと云う。この振り返った姿となった阿弥陀様を祀った益王姫が、ここ堂森・善光寺の中興の祖と伝えられている。

ここ堂森・善光寺には、他にも同じく山形県指定重要文化財の『傳・長井(大江)時広夫婦坐像』(室町時代の作品)が納められている。この長井時広《ながい・ときひろ》[f]征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人で幕府創設に貢献した大江広元《おおえ・の・ひろもと》の次男。奥州藤原氏討伐の功により長井庄の地頭となった。米沢城の基礎を築いた武士である。

そして本堂と阿弥陀塔の奥にあるのが前田慶次郎供養塔:

米沢の郷土資料には「慶長十七年六月四日に七十数才にて没した」とあるが、命日については諸説あり

前田慶次郎公供養塔(拡大版)

少年漫画『花の慶次』の主人公にして、世に「天下無双の傾奇者」として知られている前田慶次郎は、晩年は親交が深かった米澤藩家老・直江山城守兼続《なおえ・やましろのかみ・かねつぐ》に従い上杉家から禄をもらって米沢近郊のここ堂森で悠々自適な生活をおくり、慶長17(1612)年に死去したと云う[g]慶次郎の生年と没年には諸説あり。例えば生まれは天文10(1541)年とあったり、没年は「慶長十年十一月九日前田慶次利太、没す。時に年七十三」(加賀藩史料)とある。。享年79。この供養塔は堂森の里人と親交した慶次郎を偲んで昭和55(1980)年に建立された。

正確な生没年が不明な前田慶次郎の実父は「織田家四天王」の一人・滝川左近将監一益《たきがわ・さこんしょうげん・かずます》の一族の誰かとされているが、こちらも諸説あって不明である[h]一説として一益の従兄弟である滝川義太夫益氏《たきがわ・ぎだゆう・ますうじ》とも滝川義太夫益重《たきがわ・ぎだゆう・ますしげ》とも。あるいはこの二人は同一人物の可能性あり。。養父はのちの加賀大納言・前田利家の兄である前田利久。この病弱の兄に代って利家が前田家を継いだのちはその配下に入る。主君で第六天魔王こと織田信長による甲斐武田家討伐信長横死後の神流川《かんながわ》の戦い、そして小牧・長久手の戦いで織田旧臣・佐々内蔵助成政《さっさ・くらのすけ・なりまさ》との末森城の籠城戦などで功をあげる。

養父・利久死後は利家とは不仲になり前田家を出奔し京で浪人生活しながら、歌人や茶人といった往時有数の文化人らと交流を得る。この時から和歌や漢詩を独自に書写するなどして文化人としての目利きや教養を養ったとされ、のちの『前田慶次道中日記[i]京から米沢へ着くまでを記した道中記で現存する。米沢市指定文化財として影印版の他に現代語版も出版されている。にも影響を与えた。
そして太閤秀吉の天下の時代に、京で五大老の一人であった上杉弾正少弼景勝《うえすぎ・だんじょうしょうひつ・かげかつ》と家老・直江山城守に出会い、景勝より組外扶持方《くみほか・ごふちかた》という客分待遇で仕官する。

秀吉死後に景勝は同じ五大老の徳川家康と対立したが、それに同調し同盟を破棄して會津侵攻の動きをみせた隣国の最上義光に対し、先手をうって兼続を総大将とした上杉勢を出羽国の最上領に侵攻させた。慶次郎もまた皆朱の具足と大槍を持って参陣する。こちらは慶次郎着順の具足として伝わる朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足南蛮傘式《しゅ・うるしぬり・むらさきいと・すがけおどし・ごまいどうぐそく・なんばんかさしき》:

傳・前田慶次郎所用の具足

紫糸威朱漆塗五枚胴具足

記録に残る慶次郎着用の具足は三領あり、そのうちの二領が現存する[j]共に関ヶ原の戦の時代の貴重な遺品である。現在は米沢市内の宮坂考古館で鑑賞することができる。。双方ともにいかにも「慶次郎好み」の特異で鮮やかな朱を基調としたもので、こちらは南蛮傘と呼ばれる兜が特徴である。これは前後に鎬《しのぎ》を立てた「編笠形」横七段剥ぎの鉢に鍔状の一枚錣《いちまい・しころ》を周囲に廻らした南蛮風の異形な形をしている。肩当は筋状に打ち出した二枚の鉄板を蝶番でつないだ仕立てであり、袖は複数の魚鱗札を六段に綴じつけ、あたかも軍神・上杉謙信の化身である龍の鱗を表現しているかのようである。

前田慶次郎を加えた上杉勢25千は、義光の側近でもあった勇将・江口光清《えぐち・あききよ》ら兵300が籠もる畑谷城を陥落させ、最上家一の戦上手である猛将・志村伊豆守光安《しむら・いずのかみ・あきやす》ら兵1千が守備する長谷堂城を囲んだ。この城は義光の居城・山形城の最終防衛拠点である。しかし義光から送られた援軍の鮭延越前守秀綱《さけのべ・えちぜんのかみ・ひでつな》の奮戦もあって上杉勢は苦戦する。そして上方より家康率いる東軍が関ヶ原にて勝利したとの報を受け取った景勝は包囲を解いて退却するよう兼続に指示した。退却戦では剣豪・上泉伊勢守泰綱《かみいずみ・いせのかみ・やすつな》[k]新陰流の始祖である剣聖・上泉伊勢守信綱の孫にあたる。が討死し、兼続も被弾するが殿軍を務めた慶次郎の「鬼神のごとく」働きにより辛くも米沢城へ退却することに成功した。

慶次郎は、家康に反抗して敗れた景勝が會津120万石から30万石に転封された際も供に米沢へ移り、米澤藩の起藩にも貢献した。


こちらは善光寺境内にあった「慶次の力石」。力試しで慶次郎が使ったと伝わる安山岩の石:

慶次郎が堂森の里人と力試しをしたと伝えられる

「慶次の力石」

善光寺の裏山には、晩年の慶次郎が堂森の里人らと交流し月見などの遊山を楽しんだと伝わる月見平があるらしいので登ってきた:

境内に置かれた案内碑には朱槍が彫られていた

月見平の登山道入口

慶次郎供養塔や本堂を見下ろすことができ、本堂では前田慶次四百五回忌供養祭が続いていた

月見平への登山道からの眺め(拡大版)

登山道の途中には慶次郎の友人であった志田修理亮義秀《しだ・しゅりのすけ・よしひで》の墓碑があった。万年塔でありながら観音開きの格子目状の形状が特徴である:

上杉家二十五将に数えられ、兼続麾下で庄内支配を担当していた

志田義秀の墓

義秀は直江兼続家臣団の与板衆として活躍し、上杉家が會津へ移封された際は酒田城主となり、米沢へ移封されたのちは荒砥城主を務めてから米沢城で奉行職についた。寛永9(1632)年に逝去。享年73。

この印の先が月見平:

こちらは漫画でもおなじみの「大ふへん者」の文字が彫られていた

月見平への最後の案内板

しかしながら、この先に数匹の蜂がたむろって移動できず

この上が月見平

あともう少しで到着であったが登山道脇にスズメバチの巣があり、大きなスズメバチ数匹がたむろっていたため、残念ながら月見平にはよらずに下山することにした ;(。但し、その前に雰囲気だけでも「遊山」を楽しむため、ここから周囲を眺めてきた。こちらは日本百名山でもある祝瓶山《いわいがめやま》:

東北のマッターホルンと言われる日本三百名山の一つ

月見平付近から祝瓶山の眺め(拡大版)

こちらは米沢市万世町方面の眺め。正面にある早坂山の麓には東北中央自動車道が走っている:

ここから月見平みたいに遊山を楽しんでみた(この先に見える山は早坂山)

月見平付近から万世町の眺め(拡大版)

このあとは堂森・善光寺の東側にある「慶次清水」へ。この田んぼの奥に見える杜の中にある:

左手にある杜の中にある慶次清水は現在でも水が湧き出ている

堂森・善光寺裏の水田

往時、慶次郎の屋敷「無苦庵」で使われた水は、ここの湧水が使われていたとのこと。約100㎡の清水池は、現在でも田んぼなどの農業用水としても利用されている:

右手奥に見えるのが水神様の祠

慶次清水

池の脇には慶次郎自筆の歌碑が建っていた。慶次郎が京で浪人生活していたころに当代一の学者であった権大納言三条公冬《ごんだいなごん・さんじょう・きんふゆ》から『伊勢物語』を伝授されたと伝わる:

慶次郎は当代一の学者である権大納言・三条公冬から『伊勢物語』の伝授を受けたほどの知識人でもある

「慶次の句」(拡大版)

このあとは来るときに利用した米沢駅東線なる幹線道路へ戻り、道路を挟んで北側にあった慶次郎の屋敷「無苦庵」跡へ。こちらはそばに建っていた「無苦庵跡図」:

戦国武将として有名な前田慶次が晩年を過ごした屋敷跡で、堀と土塁を配していた

「明治22年調整字限図」(拡大図)

緑色破線が想定以降範囲であるが、現在は宅地化されて土塁の一部と堀跡が残るのみである

「無苦庵跡測量図」(拡大版)

慶次郎が友人の直江山城守や志田修理亮らを招いて余生を送ったとされる屋敷は、往時は東側に堀、西側に土塁を配した東西109m、南北72mの規模があったと云う:

慶次の友人である直江山城守や志田修理らも、この庵を訪ねたと云う

無苦庵跡

堂森・善光寺
山形県米沢市万世町堂森山下375

See Also堂森善光寺と前田慶次ゆかりの地 (フォト集)

【参考情報】

春日山・林泉寺

前田慶次郎ゆかりの地を巡ったあとは上杉家菩提寺である春日山・林泉寺へ。そのためにレンタサイクルで奥羽本線を越えてすぐ南下し県道R232に入ったら最上川を渡って山形大学の米沢キャンパス方面を目指した:

奥羽本線を越えたらすぐ南下して県道R232に入り、最上川の先にある山形大学の米沢キャンパスを目指すルートを使った

春日山・林泉寺

こちらが春日山・林泉寺の入口兼駐車場:

米澤上杉家二代当主の景勝公が米沢城下に建立した菩提寺

春日山・林泉寺

この林泉寺は、上杉景勝が関ヶ原の戦のあとに米沢へ移った際、実母である仙洞院《せんとういん》[l]「仙桃院」ではなく「仙洞院」が正しい。前者は史料的価値が乏しい軍記物にのみ現れ、後者は法名や過去帳からくる字である。が元和3(1617)年に會津を経て越後国より住職を招聘して建立した曹洞宗の寺院で、現代まで上杉家と直江兼続の菩提寺である他に、上杉氏ゆかりの御仁の墓所が移葬されている。従って上杉謙信の宗家にあたる山内上杉氏の菩提寺でもある[m]上杉謙信公は山内上杉氏十六代当主、景勝公は同十七代当主でもある。

こちらが境内案内図:

山形県指定史跡である上杉家菩提寺(武田信清・直江兼続墓所)では堂内拝観と境内拝観が提供されている(ともに有料)

『春日山林泉寺・境内案内図』(拡大版)

当寺は墓所はもちろん本堂内の拝観は全て有料であり、他の菩提寺のように気軽に墓所を参拝することはできない。

春日山・林泉寺の山門。建立当時の門は享保17(1732)年に焼失しているが、こちらは米沢市内の門東町にあった家老の竹俣《たけのまた》家の屋敷[n]現在の九里学園《くのりがくえん》高等学校(米沢市門東町1丁目1-72)。の門を明治35(1902)年に移築したもの:

往時の家老・竹俣三河守富綱や藩主上杉鷹山公がくぐられた門でもある

移築門である山門

山門をくぐって真っ直ぐの参道の先にあるのが本堂:

手前右にある「拝観受付」で拝観券(堂内および境内)を購入する必要あり

本堂

本堂や墓所へはこのまま向かうことはできないので、その手前にある受付で拝観料を払う。墓所を参拝する「境内拝観」(100円/当時)と本堂の隣にある宝物館を観覧できる「堂内拝観」(一般300円/当時)の二種類あり、お盆シーズンや法要が無い限り拝観は自由:

堂内拝観と境内拝観は共に有料

拝観券(当時)

写真撮影が禁止されていた「堂内拝観」では、まず本堂の中に入って林泉寺の御本尊である「釈迦三尊仏」さまを参拝し、毘沙門天像や『毘』の軍旗などを観てから、隣接した宝物館を拝見した。そちらには関東管領・上杉家と越後守護代・長尾家の霊牌所や米澤藩九代藩主・上杉鷹山《うえすぎ・ようざん》公の御書物など貴重な品々が展示されていた。個人的には、上杉政虎(のちの上杉謙信)の養父にあたる上杉憲実《うえすぎ・のりざね》公や景勝の実父である長尾政景公の位牌を拝見する機会があったことはよかった[o]この二年後には新潟県六日町で長尾政景公の墓所を訪問してきたが。。本堂裏にある庭園は残念ながら観る時間がなかった。

このあとは「境内案内図」に従い、本堂を出て直江兼続公をはじめとする上杉家ゆかりの人々の墓所を巡ってきた。

直江山城守兼続公とお船の方の墓所

まずは出羽米澤藩の基礎を築いた直江山城守兼続公とその妻・船《せん》の墓所(ともに県指定文化財):

米澤藩の礎を築いた兼続とその妻お船の墓所は県指定文化財でもある

直江兼続夫婦の墓所

五輪塔を覆う万年塔の正面にくりぬいた亀甲形は直江家の家紋である三盛亀甲花菱紋《みつもり・きっこう・はなびしもん》をかたどっている。兼続公は元和5(1620)年、米澤藩江戸鱗屋敷にて死去。享年60。公と死別したのちに薙髪《ちはつ》した船は寛永14(1637)年に死去。享年81。それぞれ二人の墓所はのちに林泉寺に改葬されて現在に至る。

兼続は初め樋口与六《ひぐち・よろく》。永禄3(1560)年に越後国]上田庄《えちごのくに・うえだのしょう》の坂戸城下で生まれた。永禄7(1564)年に上田長尾家当主・政景が死去すると、上杉謙信こと上杉輝虎の養子になった政景の子で、のちの景勝である顕景《あきかげ》に従って春日山城に入り、小姓として近侍した。天正6(1578)年、急死した謙信の後継者争いである御館の乱では側近の一人として景勝を補佐し勝利した。天正9(1581)年には母親の兄で後継者の居なかった与板城主・直江大和守景綱《なおえ・やまとのかみ・かげつな》[p]長尾家三代に仕えた宿老の一人。特に謙信の信頼は厚く奉行職で内政・外交に活躍した。「景」の字は謙信こと長尾景虎からの偏諱である。の娘・船の婿養子となって直江家を継ぎ、山城守兼続と称す。

慶長3(1598)年に太閤秀吉の命で越後から會津120万石に加増移封された際は米沢6万石を拝領した。秀吉死後の慶長5(1600)年に主人・景勝が同じ五大老の徳川内府《とくがわ・だいふ》(家康)と対立し、その強引なやり方に挑発的な文面[q]通称『直江状』として新潟県歴史博物館に写本が現存している。で応対したことが江戸幕府による會津上杉討伐の引き金となる。しかし上方で盟友・石田治部少輔三成《いしだ・じぶのしょうゆう・みつなり》率いる西軍が家康ら東軍に敗北し、翌6(1601)年には家康に謝罪して米沢30万石に減封となった。

兼続は景勝公の執政として風采堂々、躯幹長大《くかんちょうだい》、弁舌爽やか、そして博学多識、殊に文を好んで詩歌をよく詠み、多くの学問に通じた御仁と伝わる。特に米沢城下で市の建設や荒蕪地《こうぶち》の開拓、産業や学問の隆盛を指導するなど「米沢開拓」に貢献した。その甲斐あって上杉家の表高30万石を実高50万石といわれるまでに豊かな藩としたと云う。

こちらは兼続公所領の甲冑として有名な金小札浅葱糸威二枚胴具足《きんこざね・あさぎいとおどし・にまいどうぐそく》:

胴以下は江戸時代のもの

「愛」の兜と金小札浅葱糸威二枚胴具足

兜の表面全体を錆地風な漆で茶一色に塗り、上杉謙信公の「飯縄権現《いづな・ごんげん》」の前立てを持つ六十間筋兜に似た古式でいかにも戦国時代の作品である。立物である「愛」の字の前立は通説どおり「愛宕権現《あたご・ごんげん》」または「愛染明王《あいぜん・みょうおう》」のどちらかの軍神からとったものとされ、表裏に渡金を施した金銅製「愛」の字の透かし板を銀製の瑞雲に銅の小鋲でカシメ止めした仕様になっている。ただし注意すべき点として、この写真にある具足の胴以下は江戸期の作であり、「愛」の兜との組み合わせで台帳に記述があるのは白糸系の威を使った桃山期の水浅葱糸素懸威両引合具足であるとされる。

慶長5(1600)年、下野国小山で家康が會津上杉討伐を中止し、三成ら西軍と対峙するために上方へ反転した際、兼続をはじめとする上杉諸将は家康の軍勢に追撃戦を仕掛けて時間稼ぎをすれば三成ら西軍との挟撃が成功するものと考えていた。実際、謙信公以来の上杉家の軍法『速戦』をもってすれば可能であった。ところが上杉勢は動かずに静観してしまう。領国防衛という当初の目的から逸脱した戦に対して「人の危うきに乗ずるは、上杉兵法に非ず」と、これまで一度として兼続と見解を異にしなかった主君・景勝がめずらしく首を縦に振らなかったからである。兼続は「もし今、内府を討たねば次は上杉が討たれる」と懸命に翻意を促すも景勝は自説を曲げることはなかった。

兼続は仕方なく方針を大転換し、上杉家の永世中立を画策するため苦渋に満ちた手段を講じた。家康の宿老・本多佐渡守正信《ほんだ・さどのかみ・まさのぶ》に誼を通じ、幼いながら男子がいるにもかかわらず、正信の次男・政重を直江家の養嗣子として迎えた。徳川との絆を強固にすることこそが上杉家の生き残りの途と考えたからである[r]政重は兼続の実子・景明《かげあき》が元服したこととを見届けたあとに上杉家を出奔して加賀前田家に仕えた。しかし元来が病弱な景明は元和元(1615)年に父に先立って病死した。享年22。このため兼続には後継者は残っておらず、のちに直江家は無嗣断絶となる。

兼続は生前、景勝からの家督継承の勧めも断って絶家することを決意していた。折から藩の財政が逼迫しており、自ら三万石の禄を主家に返すことで景勝への最後の奉公としたのである。

ここで主君・景勝に尽くした、いかにも兼続らしいエピソードをもう一つ。
太閤秀吉全盛の時代、聚楽第《じゅらくだい》に諸将が集まった中で奥州の雄・伊達政宗が懐中から一枚の金貨をこれみよがしに取り出してみせた。「方々、新鋳《あらぶき》の大判でござる」。皆が小判十枚分の値打ちがあるという大判を珍しがってひねくりまわしている中、離れたところで扇を二開きにしてじっとそれを眺めている上杉家の執政・直江山城守兼続がいた。これを遠慮とみた政宗が「山城よ、構わぬから手に取って見よ」と云うと、兼続はさもつまらなそうに「銭金は下賤が手に取るもの。我が手は従三位越後宰相《じゅうさんみ・えちごさいしょう》(上杉景勝)が采配を預かる手でござれば、左様な品に触れ申さず」と云って扇を跳ねてその大判を投げ返したから、政宗は思わず赤面したと云う。

そして兼続の正妻であるお船の方は越後与板城主・直江大和守景綱の娘。初めは総社長尾氏から婿を迎えたが、のちに逝去したため未亡人となった上に直江家断絶のおそれがあった。そのとき主君・景勝の命で直江家を相続することとなった樋口兼続を婿に迎えた。その人となりは賢明にて胆力ありと評され、兼続との間に一男一女をもうけた。さらに景勝の嫡子で二代藩主となる定勝《さだかつ》を夫とともに養育した。63歳のときに夫と死別し貞心尼と号した。再び未亡人となったが養子を迎えることはなかったため、船が亡くなったあとに直江宗家は断絶した。


吉江常陸介宗信公と累代の墓所

こちらは吉江常陸介宗信《よしえ・ひたちのすけ・むねのぶ》と吉江家累代の墓所:

老体に鞭を打って越中国魚津城に篭って織田勢を迎え撃った勇将の一人

吉江常陸介宗信の墓所

上杉謙信麾下にあって越中国や下野国を転戦した。謙信死後に攻勢に出た織田信長の北陸方面軍[s]柴田勝家、佐々成政、そして前田利家らが率いた4万の軍勢。本䏻寺の変の翌日に魚津城は陥落した。が越中国魚津城を囲んだ天正10(1582)年、御館の乱で疲弊していた景勝からの援軍が望めない時、老体に鞭打って奮戦した宗信は一族の多くと山本寺景長《さんぽんじ・かげなが》、竹俣慶綱《たけのまた・よしつな》、そして中条景泰《なかじょう・かげやす》ら諸将と共に自刃した。享年77。吉江家は子の景資の家系が継いで、以後米澤藩上杉家譜代の重臣として仕えた。

甘糟備後守景継公の墓所

こちらは甘糟備後守景継《あまかす・びんごのかみ・かげつぐ》の墓所:

謙信・景勝の上杉二代に仕えた剛勇で名高き武将だった

甘粕備後守景継の墓所

景継は上田長尾家譜代の臣である登坂加賀守清高《のぼりさか・かがのかみ・きよたか》の嫡男で、謙信の命によって甘糟氏を相続した[t]のちに上杉四天王で越後十七将の一人である甘糟近江守景持《あまかす・おうみのかみ・かげもち》とは親戚筋にあたる。景持は第四次川中島合戦(八幡原合戦)では殿軍となり、妻女山から下って追撃してきた甲軍と激戦を繰り広げ、その駆け引きの妙を謙信の軍配と勘違いする甲軍が多かった。。幼少より剛勇無双にして鎗と長刀の名手と謳われた。慶長3(1598)年には奥州刈田郡白石城の城主になり伊達政宗の抑えになるも、同5(1600)年の関ヶ原の戦の前哨戦では不在時を政宗率いる伊達軍に強襲されて白石城を失ったが、そのあとの陸奥福嶋城下での攻防戦である松川の戦いでは伊達勢を敗走させた一人。慶長16(1611)年に逝去。享年62。

水原常陸介親憲公の墓所

こちらは水原常陸介親憲《すいばら・ひたちのすけ・ちかのり》の墓所:

本名は「水原」であるが大坂の陣の論功で宛名が「水原」だったので改めた

「杉原」常陸介親憲公の墓域

初めは大関親憲。天性沈勇にして才略があり、容貌魁偉《ようぼう・かいい》にして身の丈また鴨居に頭が当る程の偉丈夫《いじょうふ》であったと云う。16歳の時に謙信に仕え、川中島をはじめ数多くの戦場を疾駆した。御館の乱では景勝を支持し、のちにその景勝の命により新発田重家の乱で討死にした揚北衆・水原家の名跡を継いだ。景勝が會津へ移封された際は猪苗代城代を任された。「北の関ヶ原」と云われた慶長出羽合戦では、直江兼続麾下に加わり最上義光《もがみ・よしあき》領へ侵攻して撤退戦では殿の一翼を担う働きをした。また伊達政宗との陸奥福嶋城攻防戦では同じ揚北衆である本荘繁長の援軍として派遣された。

慶長19(1614)年の大坂冬の陣では、鴫野《しぎの》[u]大坂城北東、大和川南岸の湿地帯にあった鴫野村付近。の戦いに上杉勢二番手として鉄砲隊を率いて活躍し、豊臣勢を退かせると云う功をあげ、二代将軍・秀忠より感状と褒美を賜った。その感状の宛名が書き間違いで「杉原常陸」になっていたのを、親憲は大袈裟に異議を申上することなく、あとで読みは「すいばら」のままで「杉原」の字に姓を改めた。

元和2(1616)年、景勝が駿府城にて家康の病気見舞いした帰途、板谷峠で急逝《きゅうせい》する。享年71。謙信公と同じ13日を命日[v]謙信公は天正6(1577)年3月13日で、親憲公は元和2(1616)年5月13日(ともに旧暦)。ちなみに家康はその二十日後に逝去した。とすることから上杉家墓所に近い此の場所に葬祭された。

鐡孫左衛門泰忠の墓

こちらは鐡孫左衛門泰忠《くろがね・まござえもん・やすただ》の墓:

鐡上野守景信の養子となり、会津神指城築城の総奉行を務めた

鐵孫左衛門泰忠の墓

初め島倉泰忠。のちに、坂戸城主・長尾政景の家臣で謙信没後に景勝の直臣となった鐡上野守景信《くろがね・こうずけのかみ・かげのぶ》の養子となった。関ヶ原の戦い直前の神指城《こうざしじょう》築城の惣奉行を務めた。大坂冬の陣でも軍奉行として戦功をあげて二代将軍・秀忠より感状と褒美を賜わり、江戸城の石垣や堀の普請総監も務めた。寛永12(1635)年に逝去。享年72。

武田信清公の墓所

こちらは武田信清《たけだ・のぶきよ》の五輪塔:

『甲斐の虎』武田信玄の七男であり、米澤藩上杉氏の家臣

武田信清公の五輪塔

甲斐国守護・武田信玄の七男で、上杉景勝の正妻・菊姫の弟にあたる。天正10(1582)年に織田信長による甲州征伐で武田家が滅亡したあと、姉の縁故に頼んで越後上杉家に身を寄せた。のちに米澤藩上杉家においても上杉一門の高家衆として遇され、のちに武田姓に復帰した。寛永19(1642)年に逝去。享年83。


こちらは謙信公股肱の臣・秋山源蔵と侍大将・長尾権四郎の墓。両人の詳細は不明:

謙信公股肱の臣の一人とされるが詳細は不明

秋山源蔵の墓

詳細は不明

長尾権四郎家の墓

こちらは新貝弥七《しんがい・やしち》の墓:

赤穂浪士討ち入りの時に堀部弥兵衛らと渡り合って討ち死にした

新貝弥七の墓

弥七は、米澤藩四代藩主・上杉綱憲《うえすぎ・つなのり》の次男・義周《よしちか》が吉良家の養子となった際に小姓として江戸へ勤めた。元禄15(1703)年12月14日の赤穂浪士の討ち入りの際に主君を守って応戦したが堀部弥兵衛金丸《ほりべ・やへえ・かなまる》らとわたり合うも玄関先にて無念にも討ち死にしたと云う。

こちらは三股隼人吉親《みつまた・はやと・よしちか》の墓:

吉親は米澤藩三代藩主・上杉定勝の死去に殉死した小姓頭の墓

三股隼人吉親の墓

吉親は米澤藩二代藩主・定勝公の小姓頭。正保2(1645)年に公が逝去されたおりに、他の小姓らと共に追腹したと云う。


上杉家の方々の墓所

林泉寺境内にある「開基・上杉家廟所」。米澤藩初代藩主・景勝公の御母堂で綾御前こと仙洞院の方が建設した、この伽藍の中には上杉氏代々の奥方や子女、支侯家らの墓所がある:

この伽藍の中に上杉氏代々の奥方や子女、支侯家らの墓所がある

「開基・上杉家廟所」

まずは上杉謙信公にとって腹違いの姉君であり、初代米澤藩主・景勝公の実母でもある仙洞院(綾御前)の墓所:

実名から綾御前とも呼ばれ、のちに林泉寺の中興開基と称される

仙洞院の墓所

父は越後守護代の長尾為景《ながお・ためかげ》、母は正室である上条上杉氏の娘。上田長尾氏の嫡子・政景に嫁ぎ二男二女をもうける。長男は早世し、次男の顕景は謙信の養子、長女は小田原北條氏康の七男でこれも謙信の養子となった上杉景虎の正室、次女は畠山義春の正室とされる。上杉家が越後・會津・米沢と転封したことで藩の財政は厳しいものがあったが、林泉寺の建立に尽力し中興開基と讃えられている。慶長14(1609)年に米沢城二の丸御殿で逝去。享年82。

こちらは景勝公の正室であり、武田信玄の四女でもある甲州夫人菊姫の墓所:

武田信玄の四女で、上杉景勝公の正室となった

甲州夫人菊姫の墓所

別名は阿菊御料人または甲斐御前とも。謙信公が急死して家督争いが勃発した当時、甲斐武田家と相模北條家は同盟を締結しており共に上杉景虎支援のため越後国境へ出兵していたが、景勝の側近である兼続は大胆にも武田家との和睦を成立させ[w]往時、武田家は織田・徳川に長篠・設楽原で大敗し有能な家臣を数多く失った他に、国内における求心力も低下していたため大金と軍備の増強が急務という事情があった。甲越同盟が締結された。その両家の絆の証として景勝の正室に嫁いだのが武田勝頼の妹でもある菊姫であった。菊姫は質素倹約を奨励した才色兼備の賢夫人として上杉家中からも敬愛され、共に御家先代の時代には反目し争いが絶えなかった隣国同士であったが、これを契機に上杉家では武田家を丁重に遇すようになったとされる。慶長9(1604)年に伏見屋敷で逝去。享年47。

こちらは鍋島夫人市姫の墓:

鍋島勝茂公の長女で徳川家康の養女として上杉定勝公の正室となった

鍋島夫人市姫の墓所

肥前佐賀35万石の鍋島信濃守勝茂《なべしま・しなののかみ・かつしげ》公の長女で、徳川家康の養女となって米澤藩二代藩主・定勝公の正室となった。寛永12(1635)年に逝去。享年42。

こちらは第三代米澤藩主・綱勝《つなかつ》公の正室で會津夫人と呼ばれていた媛姫《はる・ひめ》の墓:

姫の父は名君の誉高い会津松平家初代当主の保科正之公である

會津夫人媛姫の墓所

媛姫は、會津若松城主で會津松平家初代当主として名君の誉高い保科正之公の娘。万治元(1658)年に逝去。享年19。この六年後に夫の綱勝も嫡子がいないまま急死する。享年26。これにより無嗣断絶で米澤藩上杉氏は改易になるところであったが、岳父であった正之のおとりなしにより、綱勝の妹が嫁いでいた吉良家から養子をもらい受け上杉氏の名跡が続くことになった。

こちらは第九代米澤藩主・上杉鷹山の側室・阿豊《おとよ》の方の墓:

米沢藩中興の祖と仰がれる第九代藩主・上杉鷹山公の側室

阿豊の方の墓所

法名は浄鏡院《じょうきょういん》殿。第四代藩主・綱憲《つなのり》の六男・勝延の三女。鷹山公の正室が34歳で逝去した後は代って賢夫人として家中のみならず領内からも敬愛され、文学詩歌等に優れ、恭順貞淑にして琴瑟相和して藩政改革に内助の功が実に偉大であったとされる。文政4(1820)年に米沢にて逝去。享年81。

こちらは米澤新田藩藩主・上杉駿河守勝周《うえすぎ・するがのかみ・かつちか》公の墓:

第四代米澤藩主・綱憲の四男で、のちに米澤新田藩を立藩した

上杉駿河守勝周の墓所

第四代藩主・綱憲の四男。のちに米澤新田藩を立藩した。米澤藩上杉氏の分家にあたり支侯《しこう》と称された他、江戸上屋敷が建っていた場所から麻布様[x]現在の東京都港区麻布である。とも。延享4(1747)年に逝去。享年52。

春日山・林泉寺
山形県米沢市林泉寺1-2-3

See Also上杉家御廟と春日山林泉寺 (フォト集)

【参考情報】

善日山・千勝院

林泉寺のあとは上杉家御廟へ向かう途中に立ち寄った善日山・千勝院《ぜんにちざん・せんしょういん》へ。林泉寺の脇を流れる掘立川に沿って北上し、県道R233に出たら途なりに西へ進んだところにある:

奥羽本線を越えたらすぐ南下して県道R232に入り、最上川の先にある山形大学の米沢キャンパスを目指すルートを使った

善日山・千勝院

こちらが県道R233に面した千勝院の入口:

越後国春日山城の麓では上杉謙信公の戦勝祈願所であった

善日山・千勝院

かっては越後国の春日山城を居城とした上杉謙信公が戦勝を祈願した「千手院《せんじゅいん》」と云う寺院であった。『毘』の軍旗のもと、数多い戦に必ず勝利されたので「千遍戦えば千遍勝つ」と云うことで寺号を「千勝院」に改称した。上杉氏が會津、そして米沢と移封されたことに伴い、現在地に寺院を構えた:

謙信公は刀毘沙門天を守護本尊として祀り、出陣前に必ず護摩をたいた

本堂

謙信公は刀八毘沙門天《とうはち・びしゃもんてん》[y]「刀八」は兜跋《とばつ》からきているものと考えられ、それ故に戦国時代には多くの武将らの信仰を集めたと云う。また頭上に如来様を頂いている姿が特徴である。を守護本尊として祀り、出陣前には必ず護摩をたいて戦勝を祈願したと云われる。降魔《こうま》の神である毘沙門天の一字を白地に大書し、御本尊の代わりとして戦場へ持参したことから、『毘』の軍旗は「御旗本尊《みはたほんぞん》」とも称された。

こちらは刀八毘沙門天の像。某大河ドラマに合わせ、記念として建立されたもの:

毘沙門天の信仰の過程で発祥した異形系の一つで、頭上に如来を頂いている姿が特徴である

刀八毘沙門天の像(拡大版)

善日山・千勝院
山形県米沢市城西1丁目6-10

See Also上杉家御廟と春日山林泉寺 (フォト集)

【参考情報】

上杉家御廟

千勝院に立ち寄ったあとは、そのまま県道R233を西へ進んでいけば右手に「上杉家御廟」の案内板が見えてくるので、そこを右折し突き当りにある国指定史跡・米澤藩主・上杉家廟所へ:

米沢城の西北に位置し、本来は城が大事になった際に謙信公の遺骸を退避する場所であった

上杉家御廟

住宅街を抜けた先にぽつんと見える杜が廟所であり、空堀と土塁が廻らされた約6000坪の敷地に藩祖不識院謙信公と米澤藩主初代から十一代まで[z]上杉家廟所の歴史」の記述は紛らわしい。米沢藩の初代藩主は景勝公であり、謙信公は藩祖であって初代ではない。従って「二代」は「初代」であり、「十二代まで」ではなく「十一代まで」である。本稿では後者の数え方で統一した。が埋葬されている。昭和の時代に入って国指定史跡に認定された:

藩祖不識院謙信公と米澤藩主十一代までが埋葬されている

国指定史跡・米澤藩主・上杉家墓所

入口に建つ大門をくぐると左手に管理事務所があり、まずそこで拝観料金(一般400円/当時)を支払い、参拝記念として上杉家の家紋「竹の葉に向い雀」が入った入場券と「参拝のしおり」をもらった:

当時の拝観料は一般400円だった

「参拝のしおり」と「拝観記念」の入場券

そして大門から真っ直ぐに北方へ延びた参道の先に伽藍に囲まれた廟所へ向かう。途中、左手に「上杉家墓所資料館」と云う小さい小屋があり、そこには鷹山公墓誌や数珠、そして廟所の屋根に掲げられていた古い鬼瓦などが展示されていた。

御廟前に建つ「懸り乱れ龍」(左)と「刀八毘沙門」(右)の軍旗、そして正面の藩祖不識院謙信公の廟所

廟所入口(拡大版)

廟所の配置は江戸(米澤藩)時代と明治時代以降とでは若干異なっていた。
江戸時代は廟所入口である南正面に門桝形を設け、そこに入ると東西に参道が延び、さらにその参道から北側に鎮座する廟屋に向かってそれぞれ参道が延びていた。そして廟屋の前には拝殿が建ち、その中の御廊下を通って御拝礼の間に向かう。また廟屋の北と南、各参道の両側には家臣が奉献した約1500基もの石灯籠が並び建っていたと云う。そして廟所の中央に置かれたのが米澤藩初代藩主である上杉景勝公の廟屋で、それを中心に二代藩主から十一代藩主までの廟屋が左右に並んでいた。一方、藩祖にあたる上杉謙信公の御遺骸は米沢城本丸に祀られていた。
明治9(1876)年には廃城となった米沢城本丸跡から謙信公の御遺骸がこの地に遷座され、拝殿や石灯籠が撤去され、新たに参道が作り替えられるなどして現在の景観になったと云う。

廟所は藩祖で不識院殿こと上杉輝虎(謙信)公の廟屋を中央にして、その両側に初代から十一代目までの米澤藩主の廟屋の他に、十代藩主の早世した世嗣と十三代藩主の記念碑が横一列に建ち並んでいる:

米沢城本丸跡からここに遷座された謙信公の御遺骸

藩祖・不識院殿の廟屋

初代・三代・五代・七代・九代・(世子・顕孝公)・十一代が並置されている

向かって左手の廟屋の並び

二代・四代代・六代・・八代・十代が並置されている

向かって右手の廟屋の並び

廟屋は、初代・景勝公から七代・宗房《むねふさ》公までは社造《やしろづく》りで欅《けやき》の丸柱を使っており、八代・重定《しげさだ》公以降は九代藩主・鷹山公の発案による宝形造りで、材質も杉や檜の角柱と藩の財政事情を鑑みて簡素なものに変更された。「上杉家廟所の歴史」にある現在の配置図がこちら:

廟所配置図


不識院謙信公の廟屋

こちらが米澤藩の藩祖として祀られている上杉謙信公の廟屋前に置かれた「上杉輝虎公之閟宮」の位牌:

廟屋配列の中央正面に鎮座する上杉家初代・謙信公廟と位牌

謙信公の廟屋と「上杉輝虎公之閟宮」

鎌倉公方を補佐する関東管領職を世襲していた山内上杉家第十五代当主・上杉憲政の養子となって第十六代山内上杉氏の家督と関東管領職を譲り受けた長尾景虎《ながお・かげとら》は憲政の偏諱をうけて上杉政虎《うえすぎ・まさとら》と改名し、のちに室町幕府の第十三代征夷大将軍・足利義輝《あしかが・よしてる》から偏諱を受けて上杉輝虎《うえすぎ・てるとら》と称した。そして、こののちに出家して不識院謙信の法号を拝承した。

公は享禄3(1530)年に越後守護代・長尾為景の末子として春日山城で生まれた。幼名は虎千代で、元服して平蔵景虎。七歳から林泉寺に入門し六代住職・天室光育《てんしつこういく》から厳しい教育を受ける。十四歳で還俗して兄・晴景《はるかげ》に代り長尾家を相続した。

幼い歳頃から戒律の厳しい寺で修行したこともあって、家臣らも自分と同じように「義」を重んじているはずと云う性善説に立った考えをしていた節があり、ここまで「体を張って」ついてきた家臣らとの間に微妙な隔たりがあったのも事実である。晩年には何人かの家臣が恩賞や領地の問題で謀反したり、そんな家中に嫌気がさして自らも出家騒動を起こしたりと、どこか憤懣《ふんまん》を抑えきれないところがでてきて次第に酒の量が増えていった。

天正6(1578)年3月15日に越後の精兵を率いて関東に遠征し宿敵・小田原北條氏を討ち、その勢いをもって三度目の上洛を果たそうとしていた謙信であったが、3月9日に居城・春日山城内で卒中を起こし、倒れて昏睡状態に陥ると3月13日に帰らぬ人となった。生涯七十余度戦い、二十数度の引き分けを挟むものの、遅れを取ること僅かに二度と云う驚異的な勝率を誇る闘将・上杉謙信の最後であった。享年49:

極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし

四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒

御遺骸には甲冑を着せ太刀を帯びさせて甕中《かめちゅう》に納めて漆で密封し城中の不識院に埋葬された。のちの上杉家の移封に伴って春日山城から會津若松城、ついで米沢城の本丸南東隅に改葬されて祠(御堂)が建てられ、明治維新後に歴代藩主が眠るこの廟所に移葬された:

逝去されたのち御遺骸は春日山城の不識院に埋葬されたことから

「不識院殿」

御廟では関東の名門・山内上杉氏から譲り受け、米澤藩上杉氏の家紋となった「竹の葉に向い雀」を数多く見かけた:

藤原北家勧修寺流の代表紋である

「竹の葉に向い雀」紋

ちなみに謙信は他に、「巴紋」と「九曜紋」が複合された「九曜巴紋《くようともえ・もん》」を使用しているが、これは日本の武神である「八幡大菩薩」こと八幡神《やはたのかみ》を表わし、桓武平氏の流れをくむ武家の一つである長尾家でも代々崇敬していたとされる。

上杉権中納言景勝公の廟屋

謙信公の廟屋の左隣りが覚上院殿こと米沢藩初代藩主・上杉権中納言景勝公の廟屋:

米澤藩初代藩主である覚上院殿こと景勝公の御廟

上杉景勝公の廟屋

公は弘治元(1556)年に越後国魚沼郡上田庄の坂戸城主・長尾政景の次男として誕生した。幼名は卯松《うのまつ》。母は上杉謙信の異母姉である綾姫《あやひめ》こと仙洞院。早世した長男の義景《よしかげ》に代わり、僅か五歳で元服して喜平次顕景《きへいじ・あきかげ》を名乗る。永禄7(1564)年に父の政景が城下の野尻池で溺死[aa]酒に酔った事故、謙信の命を受けた宇佐美駿河守定満《うさみ・するがのかみ・さだみつ》による謀殺、武田信玄や北條氏康による暗殺など説があるが真相は不明である。して家督を継ぐが、間もなく春日山城に入城し謙信の養子として迎えられ、加冠《かかん》して上杉弾正少弼景勝[ab]「弾正少弼」の官職は謙信こと長尾景虎が初めて上洛した際に後奈良天皇から叙任されたもの。これにより実質的な謙信の後継者に名指しされたことに相当する。に改めた。

謙信死後、もう一人の養子であった相模国・北條氏康の七男・上杉三郎景虎《うえすぎ・さぶろう・かげとら》との間で跡目争いが勃発し、一年にも及ぶ泥沼の内乱[ac]いわゆる御館《おたて》の乱。を繰り広げた。景勝は、この厳しい状況を打破するために甲斐の武田勝頼と盟約を結び、劣勢になった景虎を鮫ヶ尾城《さめがおじょう》に追い詰めて自刃させた。

しかし国内の混乱はすぐには収まらず、息をつく間もなく揚北衆の新発田因幡守重家《しばた・いなばのかみ・しげいえ》が謀反して強力に抵抗した。さらにそんな越後の状況を知った織田信長が加賀と能登を攻略して越中の国境をうかがいはじめた上に、景勝の同盟者であった武田家を滅ぼして信濃や上野からも織田の軍勢が越後を目指して押し寄せてきた。

景勝はまさに上杉家滅亡の危機に立たされることとなったが、信長が本䏻寺で斃れてこの難局を乗り切ることができた。程なく羽柴秀吉が台頭してくると誼《よしみ》を結んで上杉家の安泰を図るともに、宿敵・新発田重家を討って国内を平定。さらに佐渡国も鎮定して秀吉の全国統一に協力すると69万石で大名に返り咲いた。こののち豊臣政権の中では五大老の重席に昇りつめ、蒲生飛騨守氏郷亡きあとの會津120万石を継承して国内でも屈指の大大名となる。養父で軍神と謳われた謙信でさえ成し得なかった地位である。

しかし秀吉死後は同じ五大老の徳川家康と対立し、養父が掲げた「義」を押し通そうとするも敗れて米沢の地に減封された。実父の死以来、人に笑顔を見せることがなかった景勝は元和9(1623)年に米沢城で逝去した。享年69。謙信公御遺骸の避難場所であったこの地で火葬に附され遺骨は紀州高野山に納めて、灰燼・冠服を葬り、廟を建てて位牌を納めて廟所とした。

以後、八代藩主・重定《しげさだ》公までは景勝公を中心に左右交互に廟屋を建てて高野山に納骨する形式が採られた。


こちらは九代藩主で上杉鷹山こと治憲《はるのり》公の廟屋:

出羽国米澤藩9代藩主で、「鷹山」は藩主を隠居したあとの号

上杉治憲(鷹山)公の廟屋

公は日向国高鍋藩《ひゅうがのくに・たかなべはん》六代藩主・秋月種美《あきづき・たねみつ》の次男。母方の祖母が米澤藩四代藩主・上杉綱憲《うえすぎ・つなのり》公の娘である由縁で、八代藩主・重定公の養子となる。

明和4(1767)年に公が家督を継いだ米澤藩は農業の不作や飢饉、自然災害などが重なって深刻な財政難にあり、今まさに領地を返上するといった間際に藩士・農民への倹約を奨励するなど藩の建て直しを断行、閉鎖されていた学問所を再興させ身分によらず学ばせて優秀な人材の確保に成功し、藩の借金を完済した。これにより後年には江戸時代屈指の名君と云われた。

享和2(1802)年に剃髪して鷹山と号す。文政5(1822)年に老衰で逝去した。享年72。公は生前に師である儒学者・細井平州《ほそい・へいしゅう》の薫陶を受け、儒教の孝道上、親を火葬とすることは忍びないとして、養父である重定公を土葬とし、自らを加えた十一代藩主・斉定《なりさだ》公までこれに倣って廟屋が建てられている。


最後は御廟の目の前にある米澤藩主・上杉家菩提寺である法音寺《ほうおんじ》へ:

大日如来尊様が御本尊である他、謙信公ゆかりの泥足毘沙門尊がある

八海山・法音寺

慶長6(1601)年に米沢へ移封されたのに伴って上杉景勝公により米沢城二の丸に伽藍を建立し、以後米沢藩主上杉家の菩提寺となった。明治時代に入り廃藩置県による廃城令と神仏分離令により現在の場所に移転して復元された。本尊は大日如来尊さまで、上杉家歴代藩主の位牌、善光寺如来像、泥足毘沙門天像などが安置されている。

米澤藩主上杉家御廟
山形県米沢市御廟1-5-30

See Also上杉家御廟と春日山林泉寺 (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。
b. 云わずと知れた上杉謙信。
c. 代休などを追加して少し長めの休みにした。
d. 前田慶次とも。他には利太、利大、穀蔵院飄戸斎《こくぞういん・ひょっとこさい》、あるいは穀蔵院忽之斎《こくぞういん・ひょつとさい》など多くの名前を持つ。
e. 境内では某漫画やパチスロの主人公である「傾奇者」前田慶次のコスプレをした人を何人か見かけたっけ :-) 。あと何故か元K-1レスラーでタレントの角田信朗《かくだ・のぶあき》氏も参加していたなぁ 。
f. 征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人で幕府創設に貢献した大江広元《おおえ・の・ひろもと》の次男。奥州藤原氏討伐の功により長井庄の地頭となった。
g. 慶次郎の生年と没年には諸説あり。例えば生まれは天文10(1541)年とあったり、没年は「慶長十年十一月九日前田慶次利太、没す。時に年七十三」(加賀藩史料)とある。
h. 一説として一益の従兄弟である滝川義太夫益氏《たきがわ・ぎだゆう・ますうじ》とも滝川義太夫益重《たきがわ・ぎだゆう・ますしげ》とも。あるいはこの二人は同一人物の可能性あり。
i. 京から米沢へ着くまでを記した道中記で現存する。米沢市指定文化財として影印版の他に現代語版も出版されている。
j. 共に関ヶ原の戦の時代の貴重な遺品である。現在は米沢市内の宮坂考古館で鑑賞することができる。
k. 新陰流の始祖である剣聖・上泉伊勢守信綱の孫にあたる。
l. 「仙桃院」ではなく「仙洞院」が正しい。前者は史料的価値が乏しい軍記物にのみ現れ、後者は法名や過去帳からくる字である。
m. 上杉謙信公は山内上杉氏十六代当主、景勝公は同十七代当主でもある。
n. 現在の九里学園《くのりがくえん》高等学校(米沢市門東町1丁目1-72)。
o. この二年後には新潟県六日町で長尾政景公の墓所を訪問してきたが。
p. 長尾家三代に仕えた宿老の一人。特に謙信の信頼は厚く奉行職で内政・外交に活躍した。「景」の字は謙信こと長尾景虎からの偏諱である。
q. 通称『直江状』として新潟県歴史博物館に写本が現存している。
r. 政重は兼続の実子・景明《かげあき》が元服したこととを見届けたあとに上杉家を出奔して加賀前田家に仕えた。しかし元来が病弱な景明は元和元(1615)年に父に先立って病死した。享年22。このため兼続には後継者は残っておらず、のちに直江家は無嗣断絶となる。
s. 柴田勝家、佐々成政、そして前田利家らが率いた4万の軍勢。本䏻寺の変の翌日に魚津城は陥落した。
t. のちに上杉四天王で越後十七将の一人である甘糟近江守景持《あまかす・おうみのかみ・かげもち》とは親戚筋にあたる。景持は第四次川中島合戦(八幡原合戦)では殿軍となり、妻女山から下って追撃してきた甲軍と激戦を繰り広げ、その駆け引きの妙を謙信の軍配と勘違いする甲軍が多かった。
u. 大坂城北東、大和川南岸の湿地帯にあった鴫野村付近。
v. 謙信公は天正6(1577)年3月13日で、親憲公は元和2(1616)年5月13日(ともに旧暦)。ちなみに家康はその二十日後に逝去した。
w. 往時、武田家は織田・徳川に長篠・設楽原で大敗し有能な家臣を数多く失った他に、国内における求心力も低下していたため大金と軍備の増強が急務という事情があった。
x. 現在の東京都港区麻布である。
y. 「刀八」は兜跋《とばつ》からきているものと考えられ、それ故に戦国時代には多くの武将らの信仰を集めたと云う。また頭上に如来様を頂いている姿が特徴である。
z. 上杉家廟所の歴史」の記述は紛らわしい。米沢藩の初代藩主は景勝公であり、謙信公は藩祖であって初代ではない。従って「二代」は「初代」であり、「十二代まで」ではなく「十一代まで」である。本稿では後者の数え方で統一した。
aa. 酒に酔った事故、謙信の命を受けた宇佐美駿河守定満《うさみ・するがのかみ・さだみつ》による謀殺、武田信玄や北條氏康による暗殺など説があるが真相は不明である。
ab. 「弾正少弼」の官職は謙信こと長尾景虎が初めて上洛した際に後奈良天皇から叙任されたもの。これにより実質的な謙信の後継者に名指しされたことに相当する。
ac. いわゆる御館《おたて》の乱。

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    本稿から「ふりがな」は大かっこ()ではなく二重山かっこ《》を使うことにした。

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