米沢城は、鎌倉時代に出羽国は置賜《おきたま》郡長井庄の地頭であった長井時広《ながい・ときひろ》[a]征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人で幕府創設に貢献した大江広元《おおえ・の・ひろもと》の次男。奥州藤原氏討伐の功により長井庄の地頭となった。が居館を置いたのがはじまりと伝えられ、室町時代に入ると伊達氏八代当主・宗遠《むねとお》が長井氏八代当主・広房を滅ぼし、天文17(1548)年には伊達氏十五代当主・晴宗が父・稙宗《たねむね》との骨肉の争い中に居城を移して城郭化した。そして伊達氏十七代当主でここ米沢城生まれの政宗が、天正19(1591)年に関白秀吉による奥州仕置で岩出山《いわでやま》城へ移つされるまで伊達氏十代212年の本拠地であった。その後は慶長3(1598)年まで蒲生飛騨守氏郷の筆頭家老・蒲生郷安《がもう・さとやす》が城主をつとめた。氏郷が急死したあとに會津120万石を賜った五大老の上杉権中納言景勝は上杉家の執政を務めた直江山城守兼続を城主においた。しかし秀吉死後に同じ五大老の一人である徳川家康との関係が悪化し、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後には徳川幕府より米沢30万石に減封され、ここ米沢城が明治維新まで米澤藩[b]本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。上杉氏の居城となった。現在、本丸跡の山形県米沢市丸の内1丁目4の松が岬《まつがさき》公園には上杉神社が建っている。
月別: 2020年4月
山形県米沢市御廟1丁目にある米澤藩主[a]本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。上杉家御廟は、藩祖で越後国春日山にて関東管領職を務めた不識院謙信《ふしきいん・けんしん》[b]云わずと知れた上杉謙信。公の御遺骸《ごいがい》をはじめとする歴代藩主の廟が杉木立《すぎこだち》の中に整然と立ち並び、森厳《しんげん》とした雰囲気に満ちた墓所として知られている。元々は公の霊柩が安置された米沢城本丸で大事が発生した場合に、その霊柩を一時的に退避させるために用意されていた場所であったが、元和9(1623)年に逝去《せいきょ》した初代米澤藩主・上杉権中納言景勝《うえすぎ・ごんちゅうなごん・かげかつ》公の御遺骸が埋葬されて以降は十一代に渡って米澤藩主が埋葬され、御霊屋《おたまや》の前には御廊下と拝殿が建ち、寄進された千基を越える石灯籠が並べられていた。それから明治6(1873)年の廃城令で米沢城本丸跡から改めて不識院謙信公の霊柩がこの場所に遷座されると、それに伴って拝殿や多数の石灯籠が撤去された上に参道も造り替えるなどして、現在観ることができる景観になったとされる。そして本御廟は昭和59(1984)年には全国の大名家墓所としては五番目となる国指定史跡に登録された。
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