現在の福島県庁の入口にあたる県庁通りが、かっての福島城の大手門跡である

福島県福島市杉妻町2-16にある福島県庁周辺は、かっては奥州街道や米沢街道などが合流する陸奥信夫(むつ・しのぶ)郡にあって古くは室町時代から城郭が築かれ、奥州伊達氏の居城として杉妻城(すぎのめじょう)[a]「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。と呼ばれていた。伊達氏17代当主・政宗が他の奥羽諸大名らと抗争を繰り広げていた天正17(1589)年頃は杉妻城を含め伊達家にとって最大規模の領国を支配下に置いていた、まさに絶頂期であった[b]但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。。しかし天正19(1591)年の奥州仕置で豊臣秀吉によって領国の一部が召し上げられ、蒲生飛騨守氏郷が會津42万石[c]葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。に転封されると客将の木村吉清(きむら・よしきよ)[d]元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。に杉妻城を拠点とする信夫郡5万石が与えられた。この時、吉清は杉妻城を福嶋城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。に改めた。しかし氏郷が急死して蒲生氏が移封されると信夫郡を含む會津120万石は越後国から転封となった上杉権中納言景勝の領地となる。奥州仕置以降、旧領の奪還を目論む政宗との間に緊張が高まった関ヶ原の戦直前、福嶋城には猛将・本荘繁長[f]名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。が城主として派遣される。上方で西軍敗れるの報せを受け取った政宗は、すぐさま信夫山の麓まで侵攻し福嶋城に籠もる本荘繁長ら上杉軍と松川近くで激突した。

今となっては一昨々年(さきおととし)は平成28(2016)年の初夏の候、仕事の関係で一ヶ月ほど遅れてとった「黄金週間+α[g]代休などを追加して少し長めの休みにした。」を前半・後半に分けてそれぞれ城攻めツアーへ。前半は長野県は諏訪市と松本市にある城跡を攻め、後半は前年に続く「奥州攻め」と題して福島県の他に宮城県と山形県まで足を伸ばし城跡や勇将らゆかりの地を巡ってきた。あり難いことに後半の二泊三日はすべて晴天に恵まれた 8)

初日の午前中は福島県二本松市にある城を攻め、午後は宿泊地でもある福島県福島市へ移動した。二本松駅から午後2時過ぎのJR東北本線・福島行きに乗って20分ほどで福島駅に到着。この日の最後の城攻めとして福嶋城跡を巡るためコインロッカーに荷物を預け、駅の東口から福島県庁に向かって移動し、まず先に福島ゆかりの勇将であり『米沢上杉家に鬼神あり』と謳われた本荘越前守繁長(ほんじょう・えちぜんのかみ・しげなが)公の菩提寺である長楽寺(ちょうらくじ)を訪問した。それから長楽寺のお隣にある宝積寺(ほうしゃくじ)で、こちらも福島ゆかりの戦国大名で、福嶋城の前身にあたる杉目城で死去した伊達左京大夫晴宗(だて・さきょうたゆう・はるむね)公の墓所を参拝してきた。それから一級河川である阿武隈川(あぶくまがわ)を横目に見ながら県庁が建つ福嶋城跡を巡ってきた。

こちらは県庁入口脇の駐輪場前にあった説明板「福島城と奥州街道」に描かれていた福嶋城の縄張図と町割りを現在の地図に重畳させた想像図(下側が北):

福嶋藩時代の縄張図+江戸時代(元禄・宝永)の町割り+現代の市内地図を重畳させたもの

福嶋城の縄張と江戸時代の町割り(拡大版)

図中の「現在地」が、福島県庁が建っている敷地である。また町割りは江戸時代(元禄期または宝永期)とのこと。縄張図についても、近世城郭として改修された江戸時代の元禄15(1702)年に板倉重寛(いたくら・しげひろ)が陸奥福島藩3万石の領主として入封したあとのものである。

現在のところ県庁周辺はほぼ宅地化あるいは市街化されており、図中にあるような堀はもちろん土塁など城郭遺構は殆ど残っていない。ただし近世城郭の福嶋城を「想像」するのに手助けとなる、このような説明板の他に石碑や石柱などが建てられていた。

ちなみに期待していた関ヶ原の戦い以前の伊達氏・蒲生氏・上杉氏の時代の遺構は全く残っていなかった :O

こちらは先の縄張図を参考に Google Earth 3D 上に今回の城攻めで巡ってきた場所や名跡(めいせき)を重畳させたもの()。水色の太線は水堀を表す:

戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に与して降伏・開城した後、廃藩置県で城郭は破却された

福島県庁周辺俯瞰図(Google Earthより)

県庁周辺部に福嶋城縄張予想図を重畳させ、今回巡ってきた場所を★で示した

福島県庁周辺俯瞰図(コメント付き)

ということで、こちらが大まかな城攻めルート:

(福島駅) → 米沢街道の庭坂口跡 → 本陣跡 → (長楽寺) → (宝積寺) → 大手門跡 → 馬場跡(福島県庁) → 本丸跡 → 二ノ丸御外庭(紅葉山公園) → 杉妻稲荷神社 → 土塁跡 → 板倉神社 → 阿武隈川と河川敷 → 土塁跡(福島第一小学校の校門) → (福島駅)


こちらは江戸時代に會津若松と米沢を結んでいた米沢街道の庭坂口出口付近。往時、ここには木戸が建っていたと云う。福島駅東口から吾妻通りを「置賜町(おきたまちょう)」交差点へ向かって行く途中にある:

江戸時代に會津若松と米沢を結んだ街道の入口で、木戸が建っていた

米沢街道の庭坂口跡

「置賜町」交差点から信夫通り(国道R13)を南下して、「栄町」交差点から駅前通りに入ったところにある「街なか広場」前には本陣跡がある。そして、この場所の目の前をとおるレンガ通りが旧奥州街道:

江戸への参勤交代に向かう大名の宿泊場所

本陣跡

福島藩には本陣が三軒あり、秋田藩・南部藩・米沢藩を除く奥羽諸藩や幕府役人が参勤交代で宿泊する場所で、黒澤本陣と寺島脇本陣と安斎脇本陣を合わせて福島三本陣と呼ばれていたのだとか。

このあとは長楽寺と宝積寺を訪問してから福島県庁へ。平和通り(国道R13)の「福島警察署前」交差点を南に折れた県庁通りに大手門跡がある:

福島藩初代藩主・板倉重寛が大手門を改修した

福嶋城・大手門跡

板倉氏福島藩初代藩主の板倉重寛(いたくら・しげひろ)が宝永6(1709)年に大手門改修を幕府に願い出て翌7(1710)年に完成した。外枡形の内側に建っていた大手門は渡櫓門形式で屋根には鯱、石垣の上には白塗りの土塀があり、塀には狭間が設けられていたと云う。

この県庁通りをそのまま南進すると県庁の敷地に入る。この辺りは本丸に対する腰郭跡にあたり、往時は侍屋敷や武器庫の他に馬場や舟入[h]阿武隈川から引き込んだ水路を利用していたようだ。などがあった:

この辺りは本丸を囲む腰郭の一つで侍屋敷や武器庫、馬場などがあった

馬場跡に建つ福島県庁

県庁前に建つ「福島城址」の碑。現在の状態から城址を想像するのはかなり難しい:

県庁の敷地内に建っていた(但し、ここは本丸跡ではない)

「福島城址」の碑

県庁の敷地を出て東側にある駐車場へ向かう途中には「本丸跡」の碑があった。この芝生が土塁なのかどうかは不明:

説明もない、ただの石碑である

福嶋城・本丸跡

なお国立公文書館のデジタルコレクションで閲覧が可能な『諸国城之図・4巻』には城下町を含む福嶋城の絵図が描かれていた。

県庁舎東で、本丸跡と通りを挟んだ目の前が「紅葉山(もみじやま)公園」。この公園一帯は、往時は二ノ丸御外庭(にのまる・おそとにわ)と呼ばれていた庭園で、福島藩主・板倉重寛が池や茶屋、築山(つきやま)[i]観賞用として庭園の中に人工的に作った山のこと。などを設けたのが始まりとされる。池は三河国八ツ橋[j]現在の愛知県知立市八幡町。の燕子花(かきつばた)の名所を真似て造ったとされる:

江戸時代の福嶋城で二ノ丸御外庭と呼ばれた庭園だったらしい

紅葉山公園

公園内にある偕楽亭(かいらくてい)跡:

二ノ丸跡には茶室や築山(つきやま)などが設けられた庭園で、現在も池を中心にした造りが面影を残していた

旧偕楽亭跡(拡大版)

ここは福嶋城の二ノ丸跡で庭園の一部、阿武隈川に沿って弁天山を借景とした風致の良い場所だったらしく、明治41(1908)年頃には偕楽亭と云う料亭が建っていたと云う。

こちらは杉妻(すぎのめ)稲荷神社とその脇に残る内堀土塁の一部:

福嶋城の艮(うしとら)方向の守りとして西向きに建っていた社を移設した

杉妻稲荷神社

かって福嶋城の二ノ丸だった紅葉山公園を囲むような土塁が残っていた

内堀土塁の一部

杉妻稲荷神社は、かっては杉妻明神とも云われ艮(うしとら)[k]「丑寅」とも。八卦の一つで方角としては北東を指す。の守護神として福嶋城に建っていたが、廃城後にここ紅葉山公園へ移設された。建物は天保11(1840)年の再建。

阿武隈川を望む場所には板倉神社が建っていた:

福島藩板倉氏初代当主である板倉重昌を祀ったのが始まりとされる

板倉神社

福島藩板倉氏の初代当主で三河深溝藩主であった板倉重昌(いたくら・しげまさ)を祀ったのが始まりとされる[l]板倉神社に建っていた説明板には「福島藩の初代藩主」と書かれていたが間違い。彼の子孫(それも養嗣子が板倉重寛である。)が福島板倉藩を受け継いだのが正しい。。重昌は家康の重臣の一人であった板倉勝重の次男。寛永14(1637)年に起こった島原の乱鎮圧の任にあたったが九州諸侯の統制をとることができずに解任された[m]代わりに老中だった「知恵伊豆」こと松平信綱が大将となった。。この恥辱に功を焦った重昌は板倉勢を率いて総攻撃を行ったが、一揆勢にあって小西行長の旧臣で鉄砲の名手であった駒木根友房(こまぎね・ともふさ)が放った銃弾を受けて討死にした。享年51。

この重昌の次男の家系がのちの福島藩主で福嶋城を改修した板倉重寛。重寛は信濃国坂木から福島へ3万石で転封されてきた。以降12代167年間、福島の地を治め明治時代を経て現在は二十代目が重昌流板倉家を継承している。二代・重泰(しげやす)、三代・勝里(かつさと)は城下町の発展にも力を注ぎ、現在の福島市の基礎を作った。初代・重寛は大手門に時を知らせる太鼓櫓、城内の二ノ丸には御居館や庭園を整備したと云う。

なお、板倉神社は平成23(2011)年3月11日の東日本大震災により損壊したが、復興の先駆けとなるため拝殿が再建され、復興碑が建てられていた。

また神社の脇には福島県放射能モニタの建屋があった。

そして板倉神社が建つ丘陵(土塁跡)と天然の外堀であった阿武隈川:

往時は土塁だったと予想できる

板倉神社下の石段

往時は対岸まで福島城の敷地だったとか

「天然の外堀」であった阿武隈川

阿武隈川の河川敷から右手に見えるのが福嶋城跡。往時は本丸まで水路が引かれ舟入場となっていた:

往時は阿武隈川から舟入のための水路が造られていたとか

阿武隈川と福嶋城跡

こちらは国道R115が走っている大仏橋から眺めた阿武隈川の上流:

現在は福嶋県と宮城県を流れる阿武隈川水系の本流で一級河川

阿武隈川

このあとは福島駅へ戻る途中に立ち寄った福島第一小学校前に残る土塁跡:

福島第一小学校の敷地内に残る土塁跡

土塁跡

明治30(1897)年に福嶋城の内堀を埋めて第二尋常小学校が開校した。当時の写真には土塁の一部と松並木が写っているのだとか。

以上で陸奥福嶋城攻めは終了。

See Also陸奥福嶋城攻め (フォト集)

【参考情報】

本荘越前守繁長公墓所と長楽寺

かっての陸奥福嶋城北二ノ丸[n]板倉氏が改修した近世城郭の福嶋城では外三ノ丸跡に相当する郭。に建つ曹洞宗・長楽寺は、室町時代の天文9(1540)年に越後上杉氏の重臣であった本荘家の菩提寺として越後小泉庄[o]現在の新潟県村上市。に創建された寺院で、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後にここ福島に移転されてきた。長楽寺の中興開基[p]創建後に寺を再建した人。は會津中納言・上杉景勝の命を受けて福嶋城主になった本荘越前守繁長(ほんじょう・えちぜんのかみ・しげなが)公である:

現在は福島市舟場町にある曹洞宗・長楽寺

長楽寺の山門

長楽寺には繁長公とその一族の墓所の他に、明治時代の社会事業家であり、女性として最初に藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受賞した福島県喜多方市出身の瓜生岩子(うりゅう・いわこ)女史の墓所がある:

他に長州藩士・世良修蔵暗殺を手引した仙台藩烏天狗組の碑などあり

「本荘繁長公御廟所」と「瓜生岩子乃自遺跡」

越後国揚北衆・本荘氏の菩提寺で、のちに越後から福島へ移築された

「曹洞宗・長楽寺」

こちらが本堂:

長楽寺は改修前の陸奥福嶋城・北二ノ丸に建っていた

本堂

本堂の脇にあるのが「繁長八幡宮」と呼ばれている八幡神社。死後、主君である上杉景勝から賜った別称が「武人八幡」であることが由来。公が74歳で亡くなった翌年に建立された。実質的に公の墓所に相当する。また、この御堂には繁長公の木像が安置されており、毎年9月15日を祭礼として一般公開されているのだとか:

ここが繁長公の墓になるらしい (公の木造が安置されている)

八幡神社

越後の国人衆である本荘氏は、関東秩父平氏[q]関東諸国の平氏の祖。江戸氏、河越氏、畠山氏、稲毛氏、豊島氏、渋谷氏、葛西氏など多くの庶流がある。の流れをくむ小泉行長(こいずみ・ゆきなが)を祖とする。行長が鎌倉時代に越後国の地頭職に任命されると、その本拠地は小泉荘と呼ばれるようになり、その子孫は本荘を名乗った。また行長の兄弟には同じく越後国守護・上杉氏に仕えた色部(いろべ)氏がいる。

室町時代に入ると、本荘氏は勇猛で独立意識の高い揚北衆(あがきたしゅう)[r]越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。の中で有力な一族となり、その本荘氏31代当主である繁長は幼少から「気性は剛毅で勇猛」と評されていたと云う。

揚北衆はのちに、主人であった越後国守護の上杉定実(うえすぎ・さだざね)の後継者問題で内部分裂し、繁長の父である本荘房長(ほんじょう・ふさなが)は弟の小河長資(おがわ・ながすけ)との確執によって病に倒れ失意のうちに他界する。さらに定実の後継者問題が破談になると、長資は守護代である長尾為景(ながお・ためかげ)の子・景虎の擁立を画策することで本荘氏の乗っ取りを推し進めた。しかし、父の死に際して長資に深い恨みを抱いていた繁長は、父の命日にこの恨みを晴らして本荘城[s]のちの村上城。を奪還する。さらに長資を支援していた景虎には揚北衆として従属はするが、父の件もあって完全には心服していなかった。このことがのちに反旗を翻した一因とも云われている。

永禄11(1568)年、主人である長尾景虎あらため上杉政虎からの恩賞に不満を持った[t]八幡原の戦いこと第四次川中島合戦の軍議で政虎の戦術を批判して対立した長尾藤景(ながお・ふじかげ)を、政虎の命で謀殺したが恩賞が無かったと云う。繁長は独立を目論み、甲斐国は武田晴信からの要請に呼応して反旗を翻した。当時、小田原北條氏と対陣していた政虎は本荘城を包囲するだけで積極的な城攻めができなかったが、その隙に乗じて繁長は、謀反の協力を仰いだにも関わらず裏切った同じ揚北衆の色部勝長(いろべ・かつなが)を夜襲して討ち取るなど猛烈に反抗した。しかし本荘城の防備も限界に近づいた頃、伊達氏と蘆名氏に頼んで嫡男を人質に出す条件で政虎と講和した。
主人に謀反して降伏した繁長であったが、上杉家中では引き続き影響力を残した特異な重臣であった。

それから、天正6(1578)年に急死した上杉政虎あらため上杉謙信の跡目相続で起こった御館の乱(おたてのらん)では上杉景勝の側について戦功をあげ[u]一方、人質であった嫡男の顕長は上杉景虎の味方について敗れたが、父である繁長の功績と本荘家廃嫡を条件に許された。、天正9(1581)年に起こった同じ揚北衆の新発田重家(しばた・しげいえ)の反乱鎮圧にも功績を残した。

しかし領国問題など[v]出羽国の最上義光による庄内侵攻に備えて次男を大宝寺氏へ養嗣子として送り込んだり、因縁深い色部氏との争いなど。で太閤秀吉から一揆扇動の嫌疑をうけ、繁長は改易となり一族ともども大和国に流された。その後、文禄2(1593)年に秀吉が起こした文禄の役に参陣して罪を赦免(しゃめん)され上杉家に帰参した。慶長3(1598)年に景勝が會津に加増・転封されると1万石を拝領して、かって伊達領だった守山城の城代となる。

このあとは、関ヶ原の戦い直後のどさくさに紛れて會津へ侵攻してきた伊達政宗率いる27千の軍勢と福嶋城下で激戦をくりひろげ、政宗の「鼻っ柱」を折ってやった繁長は景勝から武勇を讃えられた。この時、繁長は齢60である。

繁長は関ヶ原の戦の敗戦処理でも貢献し、主家が米沢に減封された後も引き続き福嶋城主を務め、慶長18(1614)年に福島の地で死去。享年74。
本荘家は上杉景勝より上杉一門として遇され「竹の葉に向かい雀」紋の使用を許されている。


八幡神社の横にあるのが本荘家歴代の墓所。関ヶ原の戦い後、本荘氏四代まで福嶋城主だった。手前から二代目の本荘充長(ほんじょう・みつなが)、三代目の本荘重長(ほんじょう・しげなが)、一番奥が四代目の本荘政長(ほんじょう・まさなが):

五代目からは主家が米沢に減封された際に鮎貝城へ移った

本荘家累代の墓所

二代目の充長は繁長の次男であり、大宝寺義興(だいほうじ・よしおき)の養嗣子として大宝寺義勝(だいほうじ・よしかつ)と名乗っていたが最上義光に滅ぼされ実家に戻ってきた。五代目以降は、主家の上杉氏が関ヶ原の戦後に會津120万石から米沢30万石に減封された際に共に移り、米沢・鮎貝城主となった。

See Also本荘繁長公墓所と長楽寺 (フォト集)

【参考情報】

松川の戦い

太閤秀吉が亡くなって二年後の慶長5(1600)年、専横の動きをいっそう活発化させる徳川内府(とくがわ・だいふ)[w]「内府」は太政官の職の一つである内大臣の別称。徳川内府は徳川家康を指す。と大老である會津中納言・上杉景勝の関係が悪化する。その一方で景勝は本拠地である會津若松城近くに阿賀野川の交通を利用した新たな城下町を建設するため、神指城(こうざし・じょう)の築城を開始し人夫12万を動員していたが、これが内府から「豊臣家に対して別心あり」と詰問され上洛を要請された。内府には上洛の意思はあるが延期したい旨を伝えるも謀反の嫌疑ありとして受け入れられず上洛そのものが中止となる。この強引な内府の対応に景勝の家老・直江山城守兼続(なおえ・やましろのかみ・かねつぐ)が挑発的な文面[x]通称『直江状』として新潟県歴史博物館に写本が現存している。で応対したことで、徳川幕府は既に準備が整っていた會津上杉征伐を開始する。

そして、ここぞとばかりにこの動きに呼応したのが、かって秀吉から會津の地を取り上げられた伊達政宗である。この時、政宗は内府から上杉領49万石を与える口約束[y]これが実現すると伊達政宗の領地は100万石を越えることになるので「百万石の御墨付(おすみつき)」と云われた。をとりつけ、自力で景勝を討てば旧領が回復できる上に百万石の大身である。いそぎ大坂城から陸奥相馬領を経て帰国し27千の軍勢を會津白石口へ進撃させた。

この脅威に景勝は本荘越前守繁長(ほんじょう・えちぜんのかみ・しげなが)を福嶋城へ派遣し、阿武隈川を挟んで北東にある梁川城(やながわ・じょう)の須田大炊頭長義(すだ・おおい・ながよし)[z]信濃国の武将で、猛将・村上義清と共に武田晴信の信濃侵攻に対抗した須田満親(すだ・みつちか)の嫡男。と共に政宗率いる伊達勢の會津侵攻に備えさせた。
さらに同盟を破棄して幕府方についた隣国・最上義光による挟撃を恐れて、兼続率いる25千の軍が出羽国に侵攻、畑谷城を落としたあと兵1千が守備する長谷堂城(はせどう・じょう)を包囲した。

幕府率いる上杉征伐軍が江戸から會津白河口へ向けて出陣し下野国(しもつけのくに)小山に着陣すると、上方で石田治部少輔率いる西軍が伏見城を攻撃し落城させた旨が知らされ、家康は即刻上洛の方針に転換した。この時に開かれた軍議「小山評定」で會津征伐中断と諸大名らの西上が決定し、家康は転進前に結城秀康を主力に、會津上杉氏に面した伊達政宗、最上義光、堀秀治ら諸大名に上杉監視の命を下した:

徳川内府が會津上杉征伐を中止して上方へ反転した後の状況

関ヶ原の戦い前の奥州地方の戦況

政宗は城主・甘糟備後守景継(あまかす・びんごのかみ・かげつぐ)が不在の白石城を包囲して開城させ、さらに梁川城と福嶋城を落とすべく進撃している最中に美濃国の関ヶ原で内府率いる東軍勝利の報せと、同時に内府から軍勢を動かすべからずの命を受け取る。しかし旧領回復の悲願が目の前にちらつく政宗は独断で進撃するも本荘繁長が守備する福嶋城からの抵抗に加えて、會津若松城から景勝率いる2万の軍勢が福嶋城へ向かっている報せを受けて、やむを得ず白石城へ引き返した。

翌慶長6(1601)年になっても政宗による単独の福嶋侵攻は続き、遂に福島城下で松川を挟んだ信夫山(しのぶやま)の黒沼神社付近に本陣を置いて決戦を挑む。旧・松川は現在とは異なり、信夫山の南側を流れていた:

往時、松川は信夫山(しのぶやま)の南側を流れ、福島城にとって天然の外堀になっていた

松川の戦い布陣図(予想)

伊達勢は政宗と騎馬鉄砲隊から構成される旗本衆、片倉備中守景綱(かたくら・びっちゅうのかみ・かげつな)と小十郎重長(かたくら・こじゅうろう・しげなが)、援軍として老将・茂庭石見守綱元(もにわ・いわみのかみ・つなもと)と屋代勘解由兵衛景頼(やしろ・かげゆひょうえ・かげより)の合わせて27千。

対して、上杉方が守る福嶋城は繁長の他に、會津若松城からの援軍として猛将・水原常陸介親憲(すいばら・ひたちのすけ・ちかのり)の5百、二本松城から安田上総介能元(やすだ・かずさのすけ・よしもと)の3百、白石城代の甘糟備後守景継の他、蒲生氏郷の重臣の一人である岡和泉守左内(おか・いずみのかみ・さない)と同じく氏郷の旧臣・青木新兵衛(あおき・しんべえ)といった一騎当千の勇将も籠城していた。また白河口の二本松城との間にある大森城には繁長の六男・重長が2百の兵で伊達の遊軍から福嶋城の背後を守備した。さらに白石口の間にある梁川城は須田長義の他、佐竹氏から援軍として重臣の車丹波守斯忠(くるま・たんばのかみ・つなただ)[aa]関ヶ原の戦いでは中立の立場をとった佐竹氏としては公に上杉氏を助けることはできないので、家中から追放して浪人として上杉氏に送り込まれた。関ヶ原の戦い後には佐竹氏に復帰している。ら5百で守備していた。上杉勢はなんとかかき集めて6千弱であるが、兵を分散させているため福嶋城は前年からの籠城戦で補充がなく劣勢である。

緒戦は大軍である伊達勢が上杉軍を圧倒して迎撃してきた守備勢を福嶋城へ追い込むことに成功する。
内府からいつ停戦の下知がくるか分からない状況で、旧領を切り取れるだけ切り取ってしまおうと考えていた政宗にとってこの決戦で敗れるわけにはいかず、自ら旗本衆を引き連れて福嶋城の二ノ丸を突破する。

ここで政宗と一騎打ちの話が二つ残っている。
一つは青木新兵衛。上杉家の侍大将・甘糟備後守の手にあって黒母衣に鳥毛の棒を立て、小振りの馬に騎乗して柄短(つかみじ)な十文字槍の使い手である。伊達勢に取り囲まれていた仲間を助けに駆け寄せ難なく救出し、城へ戻ろうとするところ七幅七尺の大きな母衣と大鳥毛の出しが邪魔になって味方の柵を乗り越えられずにもたついていたところ、兜の前立てに大きな三日月を飾った騎馬武者がまっしぐらに斬りかかってきた。新兵衛は槍を取り直して甲冑の内側をめがけて突いたが狙いが外れ、三日月の前立てにあたり片方が折れたが、新兵衛の勢いが強いと悟った騎馬武者は鞭を打って信夫山方面に逃げ去った。のちに新兵衛はその騎馬武者が政宗であったと聞いて、もう一槍で仕留めたものをと口惜しく思ったと云う。
もう一つは岡左内。持ち前の勇猛さと機転の速さで蒲生氏郷から1万石をあてがわれた重臣で、氏郷亡き後は浪人して上杉から禄をもらう身である。この戦では、九戸政実(くのへ・まさざね)の乱における功績で氏郷の召し替えの所領から拝領した角栄螺(つのさざえ)の兜と、氏郷の形見分けで拝領した陣羽織、そして南蛮の鳩胸鴟口(はとむねとぶくち)の具足を身に付けていたと云う。緒戦で松川を境に伊達・上杉両軍が布陣した際、手勢のキリシタン兵50騎程を率いて渡河する左内を先頭に上杉勢も多数渡河する。対岸では政宗が十二段に構えた陣立てを河川敷へ進ませていたが、なにやら少勢がこちらに向かっているが目に入った。政宗が物見に聞くと上杉勢であると云う。「ええい、こしゃくな。撫で斬りにせよ。」と発し、片倉備中以下4千の兵がどっと攻めかかった。馬上で両刃(もろは)の薙刀を振り回し伊達勢を斬り伏せていた左内は頃合いをみて後退しようとした。対して僅か数百の敵に翻弄されて怒り心頭であった政宗は無謀にもただ一騎、先鋒の先に出て追撃していくと、目前には落ち着きはらって対岸へ向かう騎馬武者が居る。緋色(ひいろ)の陣羽織を風になびかせ、頭には金色に輝く栄螺の変わり兜。この異装の武者が岡左内と知っていた政宗は名乗りもせずにいきなり斬りつけた。一太刀目は兜の房を斬り、二太刀目は錣(しころ)に当たって跳ね返り陣羽織を切り裂いた。諸事何事も無かったが、かっての主人・氏郷公遺愛の陣羽織を切り裂かれて左内は怒った。「名乗りもせず、背より斬りつけるは何者か」と振り返って見れば漆黒の具足に長々とした三日月の前立てをつけた騎馬武者がいる。政宗と左内は馬上で乱戦となるが、左内の太刀・貞宗二尺七寸は狙いを外さず政宗の兜の眉庇(まびさし)を断ち、続く二の太刀で政宗の兜の錣を斬り落とした。この時、主人の危機を知った政宗の馬廻り衆が寄せてくる。その隙に左内は対岸へ上がってそのまま福嶋城へ退去した。左内は、あとで自分を追ってきた武者が総大将の伊達政宗であることを知って大いに口惜しがった。「粗末な具足だったので雑兵と見誤った。大将と分かっていれば引き返して討ち取ったものを」。政宗の具足は鉄打出しの五枚胴であるが一切の飾り気がなく、派手好み左内の眼には粗末な装いに見えたのだろう。

こののち梁川城から須田大炊と車丹波が密かに阿武隈川を渡河し信夫山の背後から伊達本陣を突き崩すと敵は混乱し、それに呼応した繁長が福嶋城から打ち出して敵を挟撃し、陣屋や小荷駄方(こにだかた)に火をかけたことで伊達勢は戦線を維持できず本陣の帷幕(いばく)を奪われて、戦線離脱し白石城へ退却したと云う。

左内と政宗の一騎打ちの後日談が一つ。徳川内府に反抗し敗れた上杉景勝が国許を発って謝罪の旅に出たが、その行列の先頭に立つ左内は「一国の主により斬りつけられたは良き記念である」と切り裂かれた陣羽織を錦糸(きんし)の縒り糸(よりいと)で縫い合わせて自慢気に着用していたことが、たちまちに諸国の噂となった。この話を聞いた伊達政宗はたいそう困惑の体であったと云う。

【参考情報】

伊達晴宗公墓所と宝積寺

長楽寺の隣にある宝積寺(ほうしゃくじ)は伊達政宗の祖父・伊達晴宗公の菩提寺である:

晴宗公の正室・栽松院が夫の菩提を弔うために創建した

宝積寺の参道

曹洞宗・琥珀山・宝積寺の参道入口の左手にある伊達家15代当主・伊達晴宗公の墓所:

伊達家の内紛で嫡子・輝宗と争ったのち杉妻城(福嶋城)で死去した

伊達晴宗公の墓所

福嶋城の前身である杉妻城(すぎのめじょう)は、奥州伊達氏の内紛である天文の乱(てんぶんのらん)[ab]伊達氏14代当主・稙宗(たねむね)とその嫡子で15代当主・晴宗(はるむね)の父子間の内紛が、のちに奥羽諸大名を巻き込む大乱となった。最終的に将軍・足利義輝の仲裁を受けて稙宗が晴宗に家督を譲る条件で和睦し終結した。後は晴宗が家督を次男・輝宗(てるむね)に譲って自らの隠居城となったが、依然として伊達家の実権を握っていた。しかし輝宗が晴宗の腹心である中野宗時や牧野久仲を謀反の罪で追放したあとは実権は完全に輝宗の手に移った。その後、父子の関係も改善され、孫にあたる梵天丸(のちの伊達藤次郎政宗)との交流もあったと云う。

晴宗は天正5(1578)年に杉妻城で死去。享年59。

See Also伊達晴宗公墓所と宝積寺 (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。
b. 但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。
c. 葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。
d. 元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。
e. 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。
f. 名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。
g. 代休などを追加して少し長めの休みにした。
h. 阿武隈川から引き込んだ水路を利用していたようだ。
i. 観賞用として庭園の中に人工的に作った山のこと。
j. 現在の愛知県知立市八幡町。
k. 「丑寅」とも。八卦の一つで方角としては北東を指す。
l. 板倉神社に建っていた説明板には「福島藩の初代藩主」と書かれていたが間違い。彼の子孫(それも養嗣子が板倉重寛である。)が福島板倉藩を受け継いだのが正しい。
m. 代わりに老中だった「知恵伊豆」こと松平信綱が大将となった。
n. 板倉氏が改修した近世城郭の福嶋城では外三ノ丸跡に相当する郭。
o. 現在の新潟県村上市。
p. 創建後に寺を再建した人。
q. 関東諸国の平氏の祖。江戸氏、河越氏、畠山氏、稲毛氏、豊島氏、渋谷氏、葛西氏など多くの庶流がある。
r. 越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。
s. のちの村上城。
t. 八幡原の戦いこと第四次川中島合戦の軍議で政虎の戦術を批判して対立した長尾藤景(ながお・ふじかげ)を、政虎の命で謀殺したが恩賞が無かったと云う。
u. 一方、人質であった嫡男の顕長は上杉景虎の味方について敗れたが、父である繁長の功績と本荘家廃嫡を条件に許された。
v. 出羽国の最上義光による庄内侵攻に備えて次男を大宝寺氏へ養嗣子として送り込んだり、因縁深い色部氏との争いなど。
w. 「内府」は太政官の職の一つである内大臣の別称。徳川内府は徳川家康を指す。
x. 通称『直江状』として新潟県歴史博物館に写本が現存している。
y. これが実現すると伊達政宗の領地は100万石を越えることになるので「百万石の御墨付(おすみつき)」と云われた。
z. 信濃国の武将で、猛将・村上義清と共に武田晴信の信濃侵攻に対抗した須田満親(すだ・みつちか)の嫡男。
aa. 関ヶ原の戦いでは中立の立場をとった佐竹氏としては公に上杉氏を助けることはできないので、家中から追放して浪人として上杉氏に送り込まれた。関ヶ原の戦い後には佐竹氏に復帰している。
ab. 伊達氏14代当主・稙宗(たねむね)とその嫡子で15代当主・晴宗(はるむね)の父子間の内紛が、のちに奥羽諸大名を巻き込む大乱となった。最終的に将軍・足利義輝の仲裁を受けて稙宗が晴宗に家督を譲る条件で和睦し終結した。