西に急峻な地形を呈す奥羽山脈と南の比較的なだらかな阿武隈高地によって挟まれ、阿武隈川の支流である白石川が形成した白石盆地の独立丘陵上に築かれていた白石城[a]読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。は、初め藤原秀郷(ふじわら・の・ひでさと)[b]平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔・藤原経清(ふじわら・の・つねきよ)の次男・刈田常元(かった・つねもと)が寛治5(1091)年頃に築いたとされる。刈田氏はのちの白石氏で、南隣の伊達氏から養子を迎えて戦国時代には伊達政宗の傘下に入る。しかし白石城を含む陸奥国刈田郡は天正19(1591)年の奥州仕置で没収され蒲生飛騨守氏郷に与えられると、家老の蒲生源左衛門郷成(がもう・げんざえもん・さとなり)を城代とし城下町を整備して本丸を石垣で囲うなどの改修を施した。この後に會津転封となった上杉権中納言景勝は城代として甘糟備後守景継(あまかす・びんごのかみ・かげつぐ)を置くが、豊臣秀吉に取り上げられた旧領の回復を目論む政宗は秀吉死後に、慶長5(1600)年の徳川内府による會津上杉征伐に呼応して白石城を急襲し開城させた。その後、片倉小十郎景綱が城主となって改修した近世城郭の白石城跡が現在、宮城県白石市益岡町1-16の益岡公園で復元・整備されている。
今となっては一昨々年(さきおととし)は平成28(2016)年の初夏の候、仕事の関係で一ヶ月ほど遅れてとった「黄金週間+α[c]代休などを追加して少し長めの休みにした。」を前半・後半に分けてそれぞれ城攻めツアーへ。前半は長野県は諏訪市と松本市にある城跡を攻め、後半は前年に続く「奥州攻め」と題して福島県の他に宮城県と山形県まで足を伸ばし城跡や勇将らゆかりの地を巡ってきた。あり難いことに後半の二泊三日はすべて晴天に恵まれた 。
奥州攻め二日目は宿泊地を早々にチェックアウトして福島駅からJR東北線・仙台行に乗り白石駅に着いたのが朝8時半すぎ。駅構内にあるコインロッカーに荷物を預け、駅舎の隣にある白石市観光案内所でガイドマップなどを入手してからレンタルサイクル[d]一日300円の他に保証金500円は返却時に戻ってくる(当時)。を借りた。
こちらはGoogle Earth 3D上に今回の城攻めルート(★と矢印)を重畳したもの。この日の午前中は主に白石城攻め、お昼をはさんで午後は、江戸時代260余年に渡って白石城主を務めた片倉家ゆかりの墓所や寺院などを巡ってきた:
白石城は、徳川内府(とくがわ・だいふ)[e]「内府」は太政官の職の一つである内大臣の別称。徳川内府は徳川家康を指す。が起こした會津上杉征伐が関ヶ原の戦によって中断された際に伊達政宗に攻略され、慶長7(1602)年に入城した片倉小十郎景綱(かたくら・こじゅうろう・かげつな)が近世城郭に大改修して、以後明治維新まで片倉氏18千石歴代の居城となった。明治7(1874)年に廃城となって城内にあった門が民間に売却された他は本丸を囲っていた石垣を含めて全て破却された。
現在、白石城の本丸跡が益岡公園として整備されている他に、寺院に移築された門が現存しているので立ち寄ってきた(本稿では白石城にゆかりある太字の場所について紹介する):
白石駅 → 延命寺(厩口門) → 当信寺(東口門) → 当信寺(真田阿梅・大八の墓所) → 益岡公園(白石城跡) → 武家屋敷(三の丸跡) → 片倉家廟所 → 少納言喜多の墓所・田村家墓所・真田信繁墓所 → 常林寺 → 清林寺 → 傑山寺 → 伊達政宗公陣場跡 → 白石駅
ここ白石城を描いた古絵図は『刈田郡白石城下御絵図』(宮城県図書館蔵)や『白石増岡城図』(個人蔵)など意外と多くの残っているが、こちらは正保城絵図(しょうほう・しろえず)[f]命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。の中から『奥州仙台領白石城絵図』(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)の一部を抜き出し、分かりやすくするために回転させて注釈を追記したもの:
ただ不思議なことに古絵図によって本丸北西隅に建っていた「大櫓(おおやぐら)」こと御三重櫓が描かれていたり、描かれていなかったりするのだそうだ。例えば、正保元(1644)年に描かれた正保城絵図の場合、大櫓の位置には「乾櫓」と云う二重櫓が描かれていた。
この大櫓の築造年については諸説あって実際のところは不明である。関ヶ原の戦後に景綱が大改修した際は二重櫓で、その後に三重櫓としたと云う説や、景綱が最初に建てたのが三重櫓で、正保城絵図では幕府にはばかって二重櫓として描いたなど。また記録の中には、文政2(1819)年に火災で大櫓を含む本丸が焼失し再建されたのはその4年後の文政6(1823)年とも云われている。
そして益岡(ますおか)公園に立っていた案内図がこちら。古絵図と比較しても分かるとおり、廃城後に整備されているのは本丸跡・二ノ丸跡とその周辺で、それ以外の郭は宅地化・公園化が進んでいた:
本丸跡には「白石城天守閣」として復元された大櫓の他に「大手一ノ門」と「大手ニノ門」、そして廃城後に取り払われた本丸の総石垣も見事に復元されていた。また厩曲輪跡には歴代の城主の崇敬が厚かった神明神社が建っていた。
まずは城の東側にあったとされる水堀跡。現在は益岡公園の周囲を流れる水路になっていた。この水堀の左手が帯曲輪跡で、右手の道路はかっての奥州街道、:
かっての奥州街道に面した東側の出入口から公園内へ。往時、この辺りには東口門とも卯ノ方(うのかた)門とも呼ばれていた二の丸大手門が建っていた:
この東口門は三間一戸、二階建の屋根は瓦葺きで廃城後に当信寺(とうしんじ)の山門として移築されており現存する。また幕末には花頭窓(かとうまど)のある二階に「時の太鼓」を置いて刻を知らせていたと云う。このときの太鼓は常林時(じょうりんじ)に保存されている:
東口門跡を過ぎると左手には本丸石垣が見えてくる。白石城は本丸だけ総石垣造りであったが、廃城後に基底部を残して解体されたので下の方にだけ石垣があった:
この本丸石垣は、蒲生氏郷が改修した際に會津若松城と同様、近江国の穴太衆(あのう・しゅう)による野面積みであったが、片倉景綱が改修した際は石垣の補修に合わせて一部が打込み接ぎで積み直しされている:
二の丸跡から見上げた本丸石垣と土塀。これらは平成7(1995)年に往時と同じ野面積みで復元されたもの:
こちらも平成の世に復元された井戸屋形と本丸大手一ノ門。但し、どの古絵図をみても、この場所に井戸があったとは記録されていない:
同じく井戸屋形越しに復元された大櫓の北面を見上げたところ。一階には石落としを備えた切妻出窓(きりづまでまど)が設けられているのがわかる。そして天守の代用とされた大櫓を支える天守台石垣も往時と同様の野面積みで復元されていた:
このあとは本丸の枡形虎口に建つ二つの門をくぐって本丸跡へ向かった。まずは、こちらも復元された大手一ノ門。正保城絵図には「表門」と記され、二つの門で外枡形の虎口を形成する。また、先ほどの天守台石垣は野面積みであるのに対し、門の台座石垣は石の前面を加工して石と石との間に詰石を入れる打込み接ぎとなっていた:
この大手一ノ門は木造一階・本瓦葺き(もくぞうひとえ・ほんかわらぶき)で高さ3.47m、幅4.93mで復元された。そして一ノ門と二ノ門で囲まれた枡形虎口がこちら。奥にある一ノ門へ向かって坂になっており、周囲には狭間が設けられた土塀が巡らされていた:
そして大手二ノ門。見たとおりの木造二階建て本瓦葺きの櫓門である。枡形に向かって鉄砲狭間が設けられていた:
二ノ門の鏡柱は台湾産の檜を使用しており、櫓の高さは9.39m。左手に潜戸がある:
大手二ノ門の鬼瓦と鯱。鬼瓦には伊達家の「竪三つ引両」紋があしらわれていた。この「三つ引両」紋は鎌倉時代に征夷大将軍・源頼朝より奥州伊達郡を与えられた際に賜った家紋。また、伊達家は戦国大名の中でも最も家紋の種類が多い家でもある:
本丸跡から眺めた大櫓と大手ニノ門。共に平成の世に木造で復元された。これには某大河ドラマの影響もあったらしい:
まずは大櫓を除く本丸跡を土塁に沿って巡ってみることにした。まずは本丸御殿跡:
かって、ここ本丸は大きく分けて仙台藩主が宿泊した御成御殿(おなりごてん)、政庁の役割を持った表御殿(おもてごてん)、そして城主である片倉家の居館にあたる奥向御殿(おくむきごてん)が建ち、それぞれ多くの部屋や台所があった:
本丸御殿跡に建つ「片倉小十郎景綱公頌徳碑(しょうとくひ)」。廃城後、益岡公園となって大正4(1915)年に公の偉業を偲んで白石町(当時)によって建てられた石碑:
こちらは本丸南東隅の土塁上に残る巽(辰巳)櫓跡。往時は、この土塁の上に二層二階の櫓が建っていた:
本丸南側にある裏門(裏御門)と枡形、そして本丸土塁の跡。往時は本丸土塁の間に二層二階の櫓門が建ち、手前に枡形虎口があった:
本丸南西隅の土塁上に残る坤(未申)櫓跡。ここにも往時は二層二階の櫓が建っていたとされ、現在でも石材が残っていた:
このまま本丸土塁の上を歩いて北東隅の乾の方角に復元された大櫓へ向かった。規模としては往時24万石の高知城天守閣に匹敵するらしい:
明治7(1874)年に破却されてから120年ぶりに、三階櫓こと大櫓が復元された。昭和64(1989)年に復元の構想が提案され、平成2(1990)年の発掘調査を経て平成4(1992)年に着工、平成7(1995)年に完成した:
関ヶ原の戦後の慶長7(1602)年に、伊達政宗の側近である片倉小十郎景綱(かたくら・こじゅうろう・かげつな)が白石城の城主として入城した当時は、乾櫓と呼ばれた二層二階の櫓であり、徳川幕府から一国一城令が発令された元和元(1615)年に、景綱の嫡男・小十郎重長(こじゅうろう・しげなが)が城主となった時代もまた引き続き二重櫓が建っていた。
そして正保城絵図が提出された正保元(1644)年よりもあとに三代目城主となった小十郎景長(こじゅうろう・かげなが)の時代に二層二階から三層三階の櫓に改められたようで、この改築を契機に「大櫓」と呼ばれていたのではないかと云う説が有力である。一国に一つしか城を持てない時代にあっても伊達政宗が起藩した仙台藩は例外として仙台城の他に「南の砦」たる白石城の存続が認められ、これが名実ともに大櫓は「天守である」とされた由縁と思われる。
この大櫓は文政2(1819)年に焼失し、4年後の文政6(1823)年に再建された。そして明治7(1874)年に廃城となると破却された。現在、ここ益岡公園で観ることができる大櫓は文政時代に再建した時の姿を復元したものである。
復元された層塔型三層三階の大櫓は天守台石垣の天端[g]読みは「てんば」。石垣の最上部のこと。から高さ約16.7mあり、1階は東西9間×南北6間、3階は東西5間×南北3間[h]1間は約1.8m。の広さを持ち、戦後の木造復元天守閣では高さと広さで日本最大級を誇ると云う:
壁は白漆喰総塗籠(しろしっくい・そうぬりごめ)で、最上階の四面には花頭窓(かとうまど)が設けられ、廻縁(まわりえん)と手すりである高欄(こうらん)のある姿が天守をイメージさせていた。東面の北側隅には2間四方の附櫓(つけやぐら)があり、往時は通用口として使われていた。南面にも玄関があって、屋根に相当する覆屋(おおいや)をつけた階段が連結していたが、こちらは本丸御殿との連結をイメージした藩主専用の出入口だったらしい。一階の西面と北面、そして二階の壁には格子窓が設けられているが、御殿をはばかった一階の南面と東面、そして土塀には設けられていない。
大櫓の脇には井戸跡と鐘堂も移築されていた。城絵図によると本丸の井戸は、この場所ではなく御殿周辺の数カ所にあったようだ:
ということで、このあとは入場料300円(当時)で復元された大櫓の中に入ることにした。
大櫓南面の階段を上がって行くと藩主専用の玄関が入口で、附櫓の通用口が出口であった:
こちらが大櫓の一階。中心にある身舎(もや)は往時は畳敷きであり、その周囲には東面・西面それぞれ1間、南面・北面それぞれ2間の長さの武者走りが設けられていた:
こちらは大櫓二階。こちらも規模は小さくなるが一階と同様の構成で、外側には犬走りが設けられていた。なお階段は現代向けに途中に踊り場が設けられているが、往時は真っ直ぐに延びた急角度の階段であった:
西面の格子窓から眺めた城址北西側にそびえる青麻山と白石市街の眺め。向かって右手奥が本城の仙臺城がある仙台市方面:
ここが大櫓の最上階。広さは30畳ほど。この階は物見の役割を兼ねており敵の動きを監視しながら軍議することができたとされる。外は高欄が4周に巡り、花頭窓が廻縁への出入口になっており、加えて外側が板戸、内側が腰障子の二重引戸になっているのが分かる:
花頭窓から高欄に出ると城下はもとより遠く蔵王山(ざおうさん)も一望できた:
こちらは高欄から本丸大手門の枡形虎口を見下ろしたところ。一般的な枡形とは異なり、内部は細く長く造られているのが特徴である:
同じく高欄から見下ろした本丸御殿跡、巽櫓跡、裏門方面:
このあとは本丸跡を出て二の丸跡へ。こちらは本丸西側の馬場跡から見上げた大櫓:
こちらが二の丸跡。城絵図には「御屋敷」とあるが詳細は不明。現在は遊具の他に片倉家お抱えの力士「谷尾風」の横綱力士像や俳人松尾芭蕉の句碑などが建っていた:
そして厩曲輪跡のに建つ神明社(しんめいしゃ)。祭神は天照皇大神。平安時代の大同2(806)年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらむろ)の創祀と伝えられ、藤原秀衡、蒲生氏郷、上杉景勝の臣・甘粕備後守など名だたる武将の崇敬が厚かった社と云われる。現在の社殿は昭和10(1935)年の再建:
このまま神明社の参道を使って益岡公園の北側出入口へ向かうと鳥居が見えてくるが、この辺りが厩口門(うまやぐちもん)跡:
厩曲輪に馬を出入りさせる際に使った門とあるが、正保城絵図では大手門とあるので実質的な大手口にあたるのであろう。ここに建っていた櫓門は延命寺に移築されている:
但し、もとは入母屋造りであったが移築後に切妻造に改造された上に、一階の両側に花頭窓、二階に眼象窓(げんじょうまど)が設けられるなど往時の姿からかなり変わってしまった。
こちらは三の丸跡に建つ片倉家中・小関(おぜき)家の武家屋敷。260余年前の古建築物である:
こちらは白石大橋から眺めた白石川。阿武隈川の支流であるこの川を挟んで左手が白石城方面、右手が伊達政宗公陣場跡:
以上で白石城攻めは終了。
白石城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 益岡公園と神明社、延命寺、当信寺、常林寺に建っていた説明板と案内板(白石市)
- 「歴史・ロマン・・・今、ここに蘇る白石城・歴史探訪ミュージアム・武家屋敷」のページ (白石城管理事務所)
- 日本の城探訪(白石城)
- 余湖図コレクション(白石城/宮城県白石市大手町)
- Wikipedia(白石城)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINE刊)
片倉小十郎歴代御廟と傑山寺
白石城攻めの後はお昼を摂ってから「みちのくおとぎ街道」こと県道R113沿いに、白石城主の片倉家廟所などがある愛宕山[i]日本各地には「愛宕山」の名前を持つ山が多く、その殆どが京都の愛宕神社と関連するらしい。の麓へ移動した。
まずGoogle Earth 3D上に午後に巡ってきたルート(★と矢印)を重畳したのがこちら。お昼は白石市特産の白石温麺(しろいし・うーめん)を頂いてから、片倉家廟所や菩提寺などを巡ってきた:
本稿では実際に巡ったルートに関わらず、片倉家にゆかりある太字の場所について紹介する:
白石駅 → 延命寺(厩口門) → 当信寺(東口門) → 当信寺(真田阿梅・大八の墓所) → 益岡公園(白石城跡) → 武家屋敷(三の丸跡) → 片倉家廟所 → 少納言喜多の墓所・田村家墓所・真田信繁墓所 → 常林寺 → 清林寺 → 傑山寺 → 伊達政宗公陣場跡 → 白石駅
こちらは愛宕山の麓に建っていた「白石城主片倉小十郎歴代御廟周辺案内図(白石市)」。片倉家御廟は左側の麓にある:
県道R113から片倉家御廟所などがある愛宕山を眺めたところ:
県道R113を西へ向かって行き、少し坂になってきたところで「片倉小十郎御廟所」の案内板が見えてくる。ここを左折して登った先が駐車場になっており、そこに御廟をはじめとする墓所への入口がある。ちなみに「小十郎(こじゅうろう)」の名は片倉家の当主が代々踏襲して使用する通称である:
一般の墓地を抜けて奥へ進んだところに白石城主・片倉家歴代廟所がある:
延宝8(1680)年に、三代城主の小十郎景長(こじゅうろう・かげなが)が白石城を望むここ愛宕山の麓に傑山寺(けっさんじ)から改装して作った廟所で、初代城主の景綱から九代城主の景貞と、七代城主・村廉(むらかど)の正妻・郷姫の合わせて10体の阿弥陀如来像と、十代城主・宗景の角柱[j]宗景は九代目までの城主と同じ阿弥陀如来像では畏れ多いと謙虚に墓碑にしている。が苔むした花崗岩の玉垣(たまがき)の内側に整然と並んでいた:
こちらが墓所の配置で、片倉家初代城主の景綱を中心に十代城主まで並ぶ。十代城主の宗景は文政2(1818)年に焼失した白石城本丸を文政12(1832)年に再建した。その嫡男で十一代城主の邦憲(くにのり)は奥羽越列藩同盟に与して戊辰戦争で敗戦し、白石城は没収の上に蝦夷地開拓のためここ白石を離れることになった:
御廟の中心に鎮座するのが片倉家初代城主・小十郎景綱(こじゅうろう・かげつな)の阿弥陀如来像。片倉家の菩提寺である傑山寺にも墓標があり、ここに分骨されて弔われている。云わずと知れた仙台藩初代藩主・伊達政宗の片腕にして股肱の近臣である:
伊達氏十六代当主・輝宗に見出され徒小姓(かちこしょう)として仕え、のちに忠臣・遠藤基信(えんどう・もとのぶ)の推挙で輝宗の嫡子・梵天丸(のちの藤次郎政宗)の傅役(もりやく)兼近習となり、主と共に奥羽伊達家を盛り立てた重臣の一人である。享年59。御廟の傍らには、公に仕えて殉死した家臣六名の墓碑もあった。
こちらは二代城主・小十郎重長(こじゅうろう・しげなが)の阿弥陀如来像:
小十郎景綱の嫡子。大坂夏の陣では病に伏せていた父・景綱の代わりに政宗に従って参陣。道明寺の戦いで後藤又兵衛基次(ごとう・またべえ・もとつぐ)率いる豊臣勢と激突してこれを討ち取る。これより知勇兼備の名将であると「鬼の小十郎」と称された。正室は江戸屋敷にて死去し、後妻は真田左衛門佐信繁の三女・阿梅(おうめ)である。その縁で真田信繁の家臣を保護している。享年76。
こちらが三代城主・小十郎景長の阿弥陀如来像:
二代・重長には男子が生まれなかった為に、重長の死後に仙台藩士・松前安広(まつまえ・やすひろ)[k]松前藩初代藩主・松前慶広の側室の七男で、政宗に請われて仙台藩に仕えていた。と重長の長女・喜佐の三男である景長が家督を継いだ。仙台藩を揺るがした寛文事件(伊達騒動)では奉行として藩政を仕切り、伊達62万石をお取り潰しから救ったと云う。
こちらは「惣家中の碑」。白石片倉氏の旧臣が蝦夷に移住する際に建てた片倉小十郎惣家中先祖代々の供養碑である:
戊辰戦争で仙台藩は奥羽越列藩同盟に与して敗戦。明治4(1871)年、往時の城主・片倉邦憲は家臣と共に白石を離れて蝦夷へ開拓移住することになった。入植先は、現在の胆振支庁・登別市である幌別郡(ほろべつぐん)の他、現在の札幌市白石区[l]極寒に耐えながらも短期間で成果を上げたことから、開拓使が彼らの郷里の名前をとって「白石村」と命名したことが始まり。・手稲区である。なお、白石城本丸跡には昭和の時代に登別市と白石市との間で姉妹都市提携を結んだ記念碑が建っていた:
場所は変わって、こちらが臨済宗妙心寺派・常英山(じょうえいざん)傑山寺(けっさんじ)。片倉小十郎景綱が慶長13(1608)年に片倉家の菩提寺として創建した:
境内に入ると本堂前には、自身の墓標でもある一本杉の切り株に腰を下ろし、鎖帷子(くさりかたびら)に陣羽織と烏帽子姿で愛用の篠笛(しのぶえ)を持つ片倉小十郎景綱公の銅像があった。公は笛の名手でもあり、戦場でも愛用の「潮風」を手放さなかったと云う:
境内の案内に従い、本堂に向かって左手奥にある階段を登って境内の裏側へ向かうと小十郎景綱公の墓標である「一本杉」(市指定天然記念物)が見えてくる。公の遺骸は傑山寺に埋葬され、遺言により一本の杉を植えさせて墓標にしたと云う。俗説に、敵に墓を特定されて暴かれることがないようにとの配慮であったとも。また一本杉の傍らには奥方の五輪塔も建立されていた:
奥州伊達氏十七代当主・政宗が二本松畠山義継との対立で父・輝宗を亡ったのは齢19の時である。家督を継いでから天正17(1589)年頃に至るまで近隣の大名らと絶えず攻戦して會津四郡(刈田・信夫・伊達・安達)と仙道七郡を斬り平らげ、さらには出羽国まで手を伸ばし、旧領と合わせるとおよそ百万石を領有する絶頂期にいた。
この影の立役者が小十郎景綱であることは云うまでもない。例えば後世で云う「人取橋の戦い」では、常陸佐竹・會津蘆名の連合軍3万余が一気に伊達氏を葬るために進撃してきた。自軍の四倍の兵力である。凄まじい混戦の中で大将の政宗が敵兵に取り囲まれると、小十郎は大音声で「片倉、怯むな。大将政宗、ここにあり」と叫び敵兵を己に引きつけ、政宗は九死に一生の死地を脱することができたと云う。この小十郎が軍師たる由縁は「劣勢の時に必死にねばり、持ちこたえて逆襲する」と云う采配からくるものである。
こののちの天正18(1590)年、関白秀吉が小田原城を囲むと政宗のこの一連の侵略戦が惣無事令に違反していると責め、謝罪のために小田原へ参陣せよと厳しく督促してきた。齢24になった政宗は持ち前のそこ知れない図太さで、秀吉が本気になるまで切り取れる間に切り取ってしまおうと考え、重臣らの意見さえも無視して戦に明け暮れていた。
しかし小田原を囲んだ上方勢の大軍とその軍威が盛んであるとの報せを次々と受けるに至り、やっと重い腰をあげ、重臣らを集めて軍議を開いた。この時、原田宗時(はらだ・むねとき)は「小田原が陥ちる前に関白に会うべし」と云い、猛将・伊達成実(だて・しげざね)は「もう遅うござる。国に篭もって戦うべし」と云う。そんな中で片倉小十郎はというと賛成とも反対とも云わない。ただ眠そうな顔でものうげに坐っているだけであった。
その夜、政宗がひそかに小十郎の屋敷へ向かった。小十郎はその来訪を待っていたかのような風で、手にしていた団扇で蝿を追い払う身振りをする。その意味を聞くと、小十郎は「蝿というものは五月蝿いもので、払っても払ってもまた寄ってきます」と云う。すなわち一時に勝利して撃退したとしても何度もやって来るだろう、と云う意味である。政宗は「うむ、うむ。」と頷いて秀吉に謝罪しに行く決心がついたと云う。
伊達家の柱石として武勲をあげた景綱の葬礼に際し、齢49の政宗は自らの愛馬を下賜して棺を引かせ、功臣に別れを告げたと云う。
このあとは境内の西へ向かい片倉家十一代目以降の当主と代々の奥方の墓所を参拝してきた:
さらに進んだ高台の上には仙台松前家の墓所があった:
この墓所には全国でも例を見ない将棋型をした墓が並び、松前藩初代城主・松前慶広(まつまえ・よしひろ)の側室の七男安広とその子の広国の墓がある。広国は伊達騒動で抜群の働きをなし、のちの歌舞伎でも名高い松前鉄之助のモデルである。
臨済宗妙心寺派常英山傑山寺
宮城県白石市南町2丁目7-20
片倉小十郎歴代御廟と真田幸村ゆかりの地 (フォト集)
【参考情報】
- 片倉家御廟と傑山寺に建っていた説明板と案内板(白石市)
- 『レンタサイクルでまわろう・白石城下・小十郎めぐりまっぷ』(白石市観光案内所)
- 『白石史跡探訪・片倉小十郎と真田幸村』(白石市商工観光課・白石市観光案内所)
- 日本の城探訪(白石城)
- Wikipedia(片倉景綱)
- 海音寺潮五郎『武将列伝 〜 戦国終末篇』(文春文庫刊)
- 加来耕三『戦国軍師列伝』(人物文庫刊)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINE刊)
片倉喜多・田村家墓所と真田幸村ゆかりの地
片倉家御廟のあとはすぐ近くにある少納言喜多の墓所、田村家墓所、そして真田信繁の子息の墓所を参拝してきた。
まずGoogle Earth 3D上に午後に巡ってきたルート(★と矢印)を重畳したのがこちら。先に参拝してきた片倉家御廟の西側にこれらの墓所があるので、いったん県道R113に戻って少し西へ向かって坂を上って行くと案内板があるはず:
本稿では実際に巡ったルートに関わらず太字の場所について紹介する:
白石駅 → 延命寺(厩口門) → 当信寺(東口門) → 当信寺(真田阿梅・大八の墓所) → 益岡公園(白石城跡) → 武家屋敷(三の丸跡) → 片倉家廟所 → 少納言喜多の墓所・田村家墓所・真田信繁墓所 → 常林寺 → 清林寺 → 傑山寺 → 伊達政宗公陣場跡 → 白石駅
再び愛宕山の麓に建っていた「白石城主片倉小十郎歴代御廟周辺案内図(白石市)」。案内図の左側に描かれた「滝の観音」の入口から、これらの場所を全て巡ることができる:
片倉家御廟の駐車場にレンタサイクルを置いたままにして一度、県道R113へ戻り、少し坂を登った先の民家の脇に案内板と階段が見えてくる。「喜多の墓」と書いてあるが、その奥に田村家の墓所がある:
階段を登り、途中「青面金剛(しょうめんこんごう)」の碑と滝の観世音堂を過ぎた先に少納言喜多こと片倉喜多の墓所がある:
喜多は、片倉家初代城主である小十郎景綱の異父姉[m]父は「人取橋の戦い」で殿軍を務め政宗を救って討ち死にした鬼庭左月斎良直(おににわ・さげつさい・よしなお)。遠藤基信と共に政宗の父・輝宗を支えた重臣の一人。にあたり、梵天丸こと伊達政宗の御乳母となり少納言喜多と称されていた。晩年は、ここ滝の観世音堂で過ごしたと云う。享年72。
のちに日本三賢婦の一人と讃えられた。また、弟・景綱のために白地に黒釣鐘の馬印を考え、「名を天下に鳴り響かせよ」と励ましたエピソードが残る。この黒釣鐘の左右には片倉家が深く信仰した愛宕権現(あたご・ごんげん)の守札が据えられている。また現在、この黒釣鐘は白石市の市章にもなっている:
喜多の墓所の脇をさらに進んでいくと大きな作業道路にぶつかり、その奥に田村清顕(たむら・きよあき)一族らの墓所への入口がある:
こちらが田村清顕公とその一族、ならびに大坂の陣で討ち死にした真田左衛門佐信繁(幸村)の供養塔:
陸奥三春城主で田村氏[n]一説に田村氏は坂上田村麻呂(さかのうえ・の・たむらまろ)の末裔とされる。第二十五代当主の清顕は佐竹氏と蘆名氏に対抗するため一人娘である愛姫(めごひめ)を伊達政宗の正室として継がせた。清顕が天正14(1586)年に没すると家中で争いがおこるが、清顕の弟の息子でのちに政宗から偏諱を受けた宗顕(むねあき)が第二十六代当主の座を継ぐ。
宗顕は、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置に参陣しなかった理由で領地を没収され浪人となるが、その後、愛姫のつてで白石城下にて隠遁する。その子・定廣(さだひろ)は片倉喜多の名跡を継いで片倉金兵衛(かたくら・きんべえ)を名乗り片倉家の御一家衆となる。そして片倉家二代城主・小十郎重長のつてで大坂の陣で討ち死にした真田左衛門佐信繁の六女・阿菖蒲(おしょうぶ)を妻とし仙台藩士として生きることになった。晩年は喜多が住んでいた滝の観世音堂を守ったと云う。
この墓所は片倉金兵衛こと田村定廣が祖父と父、そして妻の父である幸村の菩提を弔うために建立したもので、没後は妻の阿菖蒲と共に葬られた。
こちらが真田左衛門佐信繁の供養塔(左)と娘・阿菖蒲の墓所(右):
場所は変わって、こちらは浄土宗・功徳山(くどくさん)当信寺(とうしんじ)。市指定文化財の阿弥陀如来を本尊とする:
本堂の右奥には真田左衛門佐信繁の遺児・阿梅(おうめ)と大八(だいはち)の墓所がある:
慶長20(1615)年の大坂夏の陣で討死にした真田左衛門佐信繁の三女・阿梅が仙台藩・片倉家に迎えられた経緯は実際のところ不明であり、通説として信繁が最後を覚悟して知勇兼備を見込んだ敵将・片倉小十郎重長の陣地に送り込んで託したとある一方で、阿梅は豊臣家滅亡後に小十郎重長麾下の兵に乱妨取り(らんぼうどり)されて片倉家の侍女になっていたが、真田の旧臣によって信繁の遺児であることが分かり、重長の継室に迎えられたと云う説がある。また阿菖蒲と大八は阿梅の縁で片倉家を頼ったと云う。
阿梅は子には恵まれず、前妻の娘の子・景長を養子とした。享年78。遺言として、夫・小十郎重長は傑山寺(けっさんじ)に墓所があるが、西国生まれの自分は西国人も通るであろう街道沿いに埋葬してほしいと遺したという。阿梅の墓碑は如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)を模している。
大八は齢28の時に仙台藩に召し抱えられ、はじめは真田四郎兵衛守信(さなだ・しろうべえ・もりのぶ)を名乗っていたが、幕府から逆賊の子の登用について仙台藩が詰問された経緯があったため、真田姓を憚って片倉久米之介守信に改名し、仙台藩士として生きた。享年59。幕末期には真田姓に復し、仙台真田家を起こした。
こちらは浄土真宗・本願寺派・法源山(ほうげんさん)清林寺(せいりんじ)。真田家遺臣が開基した寺院である:
信繁の家臣・三井豊後景国(みつい・ぶんご・かげくに)は、大坂夏の陣の道明寺口で伊達政宗との激戦で受けた傷のため翌日の決戦には参陣できず、大坂城の落城後に京都本願寺に落ちて傷を癒やした。その時に浄土真宗の教えに触れて帰依し、主人の遺児がいる陸奥国白石へやってきて開基したとされる。寺紋は六連銭であった。
片倉小十郎歴代御廟と真田幸村ゆかりの地 (フォト集)
【参考情報】
- 「喜多の墓」と「田村家墓所」に建っていた説明板と案内板(白石市)
- 『レンタサイクルでまわろう・白石城下・小十郎めぐりまっぷ』(白石市観光案内所)
- 『白石史跡探訪・片倉小十郎と真田幸村』 (白石市商工観光課・白石市観光案内所)
- Wikipedia(田村清顕)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINE刊)
伊達政宗公陣場跡
この日の最後は白石川緑地公園の対岸にある「伊達政宗陣場跡」へ。と云っても説明板が建っているだけだけど。途中には、戊辰戦争で仙台藩士に誅殺された長州藩士・世良修蔵の墓があったりする[o]斬殺された世良修蔵の首級は白石市内にある月心院に葬られたらしい。。
まずGoogle Earth 3D上に午後に巡ってきたルート(★と矢印)を重畳したのがこちら。傑山寺からだと白石上山線こと県道R12を北上して白石大橋を渡ってすぐの交差点を左折すると右手に青色の説明板が見えてくる:
本稿では実際に巡ったルートに関わらず太字の場所について紹介する:
白石駅 → 延命寺(厩口門) → 当信寺(東口門) → 当信寺(真田阿梅・大八の墓所) → 益岡公園(白石城跡) → 武家屋敷(三の丸跡) → 片倉家廟所 → 少納言喜多の墓所・田村家墓所・真田信繁墓所 → 常林寺 → 清林寺 → 傑山寺 → 伊達政宗公陣場跡 → 白石駅
陣場跡の入口に建っていた「維新史跡と石造物ルート」の案内図:
こちらは白石川。この川を挟んだ対岸に政宗が本陣を敷いた:
こちらが陣場跡。白石川に対して少し小高い丘になっており、白石城を真南に一望できる位置でもあった:
慶長5(1600)年、徳川内府(とくがわ・だいふ)による會津上杉征伐に呼応した伊達政宗は、かって秀吉に取り上げられた會津四郡(刈田・信夫・伊達・安達)の旧領回復のため山岡惣右衛門重長(やまおか・そううえもん・しげなが)、亘理安芸守定宗(わたり・あきのかみ・さだむね)、屋代勘解由兵衛景頼(やしろ・かげゆひょうえ・かげより)、片倉備中守景綱(かたくら・びっちゅうのかみ・かげつな)、石川大和守昭光(いしかわ・やまとのかみ・あきみつ)らを引き連れて白石川の対岸に布陣した。
おりしも白石城の城代・甘糟備後守景継(あまかす・びんごのかみ・かげつぐ)は白河口支援の為に会津若松城にあって不在であり、城内には景継の甥である登坂勝乃(とさか・かつのり)・新左衛門の兄弟が留守居を務めていた他に、政宗に滅ぼされた畠山義継の遺臣ら合わせた1千で守備していた。
もともとが旧領であったため地理に明るい伊達軍は白石城を包囲し、東から亘理勢、西から片倉勢、南から山岡勢、北から屋代勢で猛攻をかけると、その日のうちに本丸を残すまでになった。籠城不利を悟った登坂は降伏を考えるが、主君を討たれ怨敵・伊達を掲げる畠山の遺臣・鹿子田右衛門(かのこだ・うえもん)は反対して徹底抗戦を叫んだ。
結局、登坂は鹿子田を謀殺して伊達政宗に降伏・開城し僅か二日の籠城戦は幕を下ろした。
政宗は次段として上杉勢が守備する福嶋城下で決戦を挑むことになる:
片倉小十郎歴代御廟と真田幸村ゆかりの地 (フォト集)
【参考情報】
- 「伊達政宗陣場跡」に建っていた説明板と案内板(白石市)
- Wikipedia(白石城の戦い)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | 読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。 |
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↑b | 平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。 |
↑c | 代休などを追加して少し長めの休みにした。 |
↑d | 一日300円の他に保証金500円は返却時に戻ってくる(当時)。 |
↑e | 「内府」は太政官の職の一つである内大臣の別称。徳川内府は徳川家康を指す。 |
↑f | 命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。 |
↑g | 読みは「てんば」。石垣の最上部のこと。 |
↑h | 1間は約1.8m。 |
↑i | 日本各地には「愛宕山」の名前を持つ山が多く、その殆どが京都の愛宕神社と関連するらしい。 |
↑j | 宗景は九代目までの城主と同じ阿弥陀如来像では畏れ多いと謙虚に墓碑にしている。 |
↑k | 松前藩初代藩主・松前慶広の側室の七男で、政宗に請われて仙台藩に仕えていた。 |
↑l | 極寒に耐えながらも短期間で成果を上げたことから、開拓使が彼らの郷里の名前をとって「白石村」と命名したことが始まり。 |
↑m | 父は「人取橋の戦い」で殿軍を務め政宗を救って討ち死にした鬼庭左月斎良直(おににわ・さげつさい・よしなお)。遠藤基信と共に政宗の父・輝宗を支えた重臣の一人。 |
↑n | 一説に田村氏は坂上田村麻呂(さかのうえ・の・たむらまろ)の末裔とされる。 |
↑o | 斬殺された世良修蔵の首級は白石市内にある月心院に葬られたらしい。 |
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