東京都八王子市元八王子町にある八王子城は小田原北條氏康の三男・氏照[a]兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。が築いた関東でも屈指の山城であり、本城である小田原城に対して北條氏最大の支城である。築城は天正10(1582)年頃から始まり、五年後の天正15(1587)年には滝山城から居城が移された。往時、最新の技術を駆使して築かれた城は織田信長が築いた安土城を参考にしたともされ、従来の「土の城[b]北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。」から石垣を多用し、尾根筋には堀切は設けずに段郭を連続させて「高低差」による備えを採用した[c]滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。。城域は深沢山[d]現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。を中心として、その尾根や谷に築いた多数の郭からなる要害地区、山腹に御主殿を建てた居館地区、城山川に沿って麓に形成された城下町の根小屋(ねごや)地区で構成されていた。また深沢山山頂には本丸が置かれていた他に、尾根筋の西端にあって本丸よりも高い場所[e]標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。には詰城(つめのしろ)が築かれ、天守に相当する物見櫓が建っていた。さらに城下町から城山川対岸の尾根筋には太鼓丸(太鼓曲輪)を築いて、根小屋地区を囲む惣構としていた。なお八王子城の詰城は、天正18(1590)年に関白秀吉が派遣した軍勢[f]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。に備えて急遽増築した郭であるが落城した時点でも未完成だった。
参照
↑a | 兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。 |
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↑b | 北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。 |
↑c | 滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。 |
↑d | 現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。 |
↑e | 標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。 |
↑f | 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。 |
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