長野県松本市大字蟻ヶ崎1219にある城山公園(じょうやま・こうえん)は江戸から明治の頃に公園化[a]天保14(1843)年に松本藩主・戸田光庸(とだ・みつつら)が桜や楓を植樹して一般庶民にも開放されたのが始まりとされる松本市最古の公園。され、現在は北アルプスを眺望できる展望台が建っている他に松本ゆかりの文化人の歌碑が建つ。その一方で山城としての歴史は古く、南北朝時代に信濃国守護の小笠原氏が本城の林城に対して築いた支城の一つで、築城者は不明であるものの守護を補佐した在庁官吏の一人で豪族の犬甘(いぬかい)氏であると云う説がある。永正元(1504)年に小笠原貞朝(おがさわら・さだとも)の家臣・島立右近貞永(しまだて・うこん・さだなが)が松本盆地に築いた深志城の他に犬甘氏の親族である桐原氏が築いた桐原城、田川の河川の縁に築いた井川城、山辺(やまべ)城、埴原(はいばら)城、稲倉(しなぐら)城など多くの城が林城の属城であったと云う。しかし天文19(1550)年には同じ甲斐源氏の庶流である武田晴信[b]のちに号して武田大膳大夫信玄(たけだ・だいぜんたゆう・しんげん)。に攻められ、これらの属城がことごとく陥落した。時の当主・小笠原長時[c]深志城を築いた貞朝の孫。父は長棟(ながむね)。は林城を捨てて犬甘城の北にある平瀬城へ逃げ、さらに村上義清を頼って葛尾城へ落ち延びた。村上の援軍を待っていた犬甘城では馬場信房の偽計によって抵抗することなく乗っ取られてしまったと云う[d]慶長16(1611)年に松本藩主・小笠原秀政の家老・二木重吉(ふたつぎ・しげよし)が著した「二木家記」より。。
今となっては一昨々年は平成28(2016)年の初夏の候、仕事の関係で一ヶ月ほど遅れてとった「黄金週間+α[e]代休などを追加して少し長めの休みにした。」を前半・後半に分けてそれぞれ城攻めツアーへ。長野県を巡ってきた前半の最終日は開場時間にあわせて朝から国宝を攻め、お昼は近くにあった蕎麦屋にて松本山賊焼定食で腹ごなししてから徒歩20分かけて城山公園にある犬甘城跡を攻めてきた。
ちなみに城山公園は松本城公園からも眺めることができる:
天守最上階からみて北西方向にある城山公園こと犬甘城跡:
こちらは犬甘城の城域(推測)を Google Earth 3D 上に重畳したもの。小笠原氏の居城である林城や午前中に攻めた松本城(深志城)など周囲の城の方位も追記した:
なお、当時は松本城公園から城山公園への情報が松本市のHPで公開されていた[f]2022年現在はリンク切れ。。公園が近づいてくるにつれて坂になってくるが急坂というほどではない。また坂を登っている途中からでも松本城を確認することができた:
こちらが城山公園の入口。このまま正面へ向かえば犬甘城跡:
この入口前に建っていた「城山公園案内図」には犬甘城跡の縄張図も掲載されていた:
なお、この案内図に描かれている縄張図には合わせて六つの郭が描かれているが、本稿では「三ノ郭」にあたる郭を腰郭として扱い、合わせて五つの郭が北から南に連なった連郭式山城として見ることにする。
こちらが縄張図(推定)を Google Earth 3D 上に重畳したもの。郭を緑色破線、堀切を紫太線でそれぞれ表した。本城となる林城は南東方向にある:
城の西側は奈良井川(ならいがわ)を天然の外堀とし、川で侵食されて断崖になっており、主郭から五郭まで尾根筋の一番高い位置に一直線に配置した連郭式山城であったと予想される。また、城域の東側は現在は公園化による改変が大きいため詳細は不明であるが、横堀や腰郭など何らかの防御施設があった可能性が高い。但し林城や深志城と挟撃できる位置にありながらも、尾根筋を全て「要塞化」しているわけでもなく技巧的な縄張でもないため簡単に陥とされてしまうと戦術的な意味の無い属城になってしまうので、単に砦を兼ねた烽火台として使われていたのではないかと推測する。
公園入口から西へ向かった正面が四郭跡。ここには城山稲荷神社が建っていた:
信濃国松本藩の四代藩主であった松平直政が尊崇した稲荷神社であったが、寛永15(1636)年に出雲国松江藩に加増移封された際、この稲荷神社を分祀して松江に迎えて守護神としたと云う。
こちらが四郭と五郭の間にある堀切。部分的に公園化に伴う改変が加わっていた:
なお尾根筋に築かれていることもあり、北側(四郭)から南側(五郭)に向かって低くなっているのが分かる:
こちらが五郭跡。展望台が建っていたが、松本城公園からも見ることができる、この展望台からの眺望は素晴らしかった:
属城・犬甘城跡から眺めた信濃国守護職・小笠原氏の居城・林城跡(大城と小城)、そして深志城跡こと松本城:
こちらはJR松本駅方面の眺望。犬甘城の南側に広がる松本盆地(松本平)にも属城がいくつかあった:
そして城址西側を流れる梓川(あずさがわ)の支流である奈良井川。往時は天然の外堀であった:
展望台を降りて四郭跡へ。この郭も思ったほど広くはない。四郭から三郭方面に伸びる土塁があり、その先に堀切がある:
こちらが四郭と三郭の間にある堀切跡と土橋風の遊歩道:
さらに堀切跡に沿って三郭跡の東側へ回りこんでみると、いかにも横堀跡のような池があった[g]完全に干上がっていたが 。。あとちょっとだけ土居のような盛土があったが植樹よるものかどうかは不明:
こちらが三郭跡。土塁跡などは残っておらず、立派な四阿が建っていることから、こちらも公園化による改変が大きいようだ:
三郭跡から二郭跡へ。こちらには堀切跡の他に二郭の虎口跡も残っていた:
こちらがニ郭跡、奥で一段高くなっているところが主郭跡:
何もないニ郭跡を越えて尾根で一番高いところの主郭跡へ。ここにも立派な四阿が建っていたが、他には歌碑があるだけで平凡な削平地だった:
主郭東側、ニ郭の北側にある腰郭跡:
主郭跡の北側に回り込むと堀切と土橋の先に小さな腰郭跡があった:
腰郭の間にある堀切跡から西側と東側をそれぞれ眺めたところ。西側は竪堀に変化して急崖を奈良井川方面に落ち込んでいた。東側は貧弱な切岸の他に「犬甘城山」なる説明板が建っていた:
二郭東側にはもう一つ腰郭跡のような遺構があった。この先には横堀跡に造られた池が四郭まで伸びていた:
この腰郭の南(四郭跡)へ伸びる池は横堀跡だろうか:
以上で犬甘城攻めは終了。公園化による改変が思いの外、大きくて案内図にあるような城跡の雰囲気が少なかったのが残念。まぁ廃城時期が大昔[h]天文19(1550)年の武田晴信による信濃侵攻後であろう。であるとすると仕方がないかと思ったり 。
最後は五郭跡の展望台に貼ってあった注意書き:

「花火は禁止です!!」
犬甘城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 城山公園に建っていた案内図・説明板
- 埋もれた古城(犬甘城)
- 余湖図コレクション(犬甘城)
- 長野県の情報【E-CURE】〜北アルプスの展望台(松本城山公園) (HOME > 地域 > 松本・安曇野 > 松本市)
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