小田原北條氏二代目当主の氏綱(うじつな)の嫡子で、のちに『相模の獅子』と呼ばれた三代目当主の伊勢新九郎氏康(いせ・しんくろう・うじやす)[a]初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。の子女は一説に九男・七女とされ、その正室は駿河国守護であった今川氏親(いまがわ・うじちか)[b]母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。の娘・瑞渓院殿(ずいけいいんでん)。この正室との間には長男の新九郎氏親[c]天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。、次男で嫡男の氏政、三男の氏照、四男の氏規(うじのり)、五男の氏邦(うじくに)、六男で『越後の龍』こと上杉輝虎の養子となった景虎がいる。女子には、氏康とは義兄弟であった北條綱成の嫡男・氏繁室、千葉親胤室、そして今川氏真(いまがわ・うじざね)室の早川殿らがいる。小田原北條氏は相模国の小田原城を本城として伊豆・武蔵・駿河・下総などの領国に数多くの支城を築いて整備し、いわゆる支城ネットワークを構築していた。その中で最大規模を誇っていたとされる八王子城は兄の氏政と甥の氏直を軍事と政治の両面で支えた北條陸奥守氏照の最後の居城で、現在は東京都八王子市元八王子町にて国史跡に指定されている。天正18(1590)年の小田原仕置の際は、急遽、本丸の西側に石垣で囲った詰城(つめのしろ)を築いて豊臣勢の来襲に備えた。
昨年は令和元(2019)年師走の週末は二回に分けて、五年前の城攻めで見落とした詰城跡と大堀切、そして最近「八王子城跡オフィシャルガイドの会」なるページでその存在を知った太鼓丸跡、また五年前は老朽化のため渡ることができなかったが一昨年の平成28(2016)年に架け替え完了した曳橋(ひきはし)と「道が荒れている」という理由で敬遠した古道[d]旧道、あるいは大手山道とも。要するに八王子城跡自然公園の登城道ではない方。、そして御主殿跡と松木曲輪跡の間あたりにある四群石垣など見所が盛りだくさんの八王子城跡を攻めてきた。しかしながら関東一円に甚大な被害を与えた昨年の台風や大雨はこの城跡にも爪痕を残し、現地に着くやいなや当初の予定を変更せざるをえない状態だった 。例えば本丸跡や詰城跡へ向かうための登山道入口前にある石橋が城山川の増水で崩落して通行止め[e]当時は、てっきり登城道には入れないと思って予定を変更してしまったが、実は登山道そのものは大して問題なかったようだ。だったり、御主殿跡周辺で崩落が発生するなどして四群石垣へ向かう入口は封鎖されていたり[f]現地に行ってみないと状況が分からないのも問題。市のホームページなどで情報を共有できるようにてもらいたいものだ。
。
前週に続いて今回の八王子城攻めは、深沢山(城山)に登って本丸跡の奥にある詰城跡とその周辺の石垣や大堀切を見て回ってきた。登山では本丸など要害地区へ向かう大手山道である旧道を使った。この道を使うと柵門下に残る石積を眺めることができる。そして下山したあとは八王子城主・北條氏照公の墓所と菩提寺である宗関寺に訪問してきた。
こちらは山下丸跡に置かれていた八王子城の地形模型(右手が北):
正面中央にある深沢山の山頂付近が、今回攻めてきた八王子城の本城(本丸や詰城)にあたる要害地区で、その麓に御主殿が建っていた居館地区、それと城山川を挟んで左手にある尾根筋が太鼓丸で、手前へ向かって流れる城山川に沿って築かれた城下町が根小屋(ねごや)地区となる。
こちらは上の模型を参考に今回攻めてきた要害地区と根小屋地区の一部(青色)と、その他関連する場所(茶色)をそれぞれGoogle Earth 3D上に重畳させたもの:
あと前回と合わせて巡ってきた郭跡や寺院などを含む主要な場所については★で示してみた。あと登りで利用した古道を紫色の破線で、そして八王子城の支城にあたるとされる城跡への方角も追記してみた。
前回と同様に要害地区を攻めた際の経路と実際のGPSアクティビティのトレース結果がこちら。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は5.66㎞、所要時間は3時間27分(うち移動時間は1時間46分)ほどだった:
そして今回のルートはこちら。柵門跡までの上りは旧道(大手山道)を、下りは金子丸跡を通過する登山道を利用した:
管理棟 → (馬揃え場) → 八王子城跡自然公園入口 → 旧道 → 柵門台下の2段石垣 → 搦手道合流点 → 柵門台跡 → 高丸跡 → 眺望スポット → 中の丸跡 → (松木丸跡下) → 坎井の井戸 → 井戸の下の2段石垣 → 無名丸跡 → 駒冷やし場 → 竪堀と石垣 → 詰城跡 → 大堀切 → (水平道の石垣方面) → (詰城跡) → (駒冷やし場) → (坎井の井戸) → 松木丸跡 → (中の丸跡) → ・・・ → (柵門台跡) → 金子丸跡 → (八王子城跡自然公園入口) → (管理棟)
大手山道と詰城跡
今回も管理棟前から城攻め開始。おなじみの「史跡・八王子城跡」の石碑の奥に見える茶色の建物が管理棟:
まず登城道入口へ向かう前に城山川対岸にあった馬揃え場を遠望した。と云っても藪化して分かりづらいが。現在は手前に見える建物と城山川の先は国有地となっている:
前の週に攻めた時は数日で工事が入るってボランティアの方が云っていたが一週間経っても通行禁止は解除されていなかった。ただ山下丸(山下曲輪)跡から迂回して登城道入口へ向かうことはできたのだが、実際に崩落現場を目の当たりにするとその深刻さがよく理解できた :
「八王子城跡自然公園」の入口は問題はなく、山下丸側から続く石垣も健在であった:
「八王子城本丸方面」の標柱が建つ鳥居をくぐって本丸方面の柵門台跡を目指すが、階段を登るとすぐに分岐点となる:
この分岐点を左手へ折れると五年前の城攻めで利用した新道となり、段郭が連続する金子丸(金子曲輪)跡を経由して柵門台跡へ至る。多くの登山者が利用するため、いわゆる「こなれた状態」である。一方、右手の旧道も目的地は同じ柵門台跡であるが、段郭の脇をぬって登って行く緩やかな山道であり整備はあまりされていない。往時は旧道が「大手道(大手山道)」であった。
ということで旧道を使って左手に金子丸などの段郭跡を見上げながら柵門台跡まで登ることにする;
当時の旧道はこんな感じ。歩きづらい箇所はあるが、それらを回避すれば特に苦ではなかった。また新道にもあった排水溝の石組も見かけた:
30分くらい登ったあたりが新道で云うところの金子丸跡で、更に進むと柵門台跡である:
ここで金子丸跡と柵門台跡の間あたりまで来ると尾根の外側にある石積遺構は2段になっているとのことだったが、下段は藪化で分かりづらかった。また登城道には石の一部が転がっていたので、下段の石垣の一部は崩落しているようだった:
柵門台跡に向かって続いていた2段石垣:
そろそろ旧道から新道へ合流する地点が見えてくるが、右手下は深い天然の沢である「花瀧沢」が広がっていた:
ここが合流点。左手上が柵門台跡で、右手は搦手峠と呼ばれる搦手道である:
そして新道と合流する柵門台(柵門)跡。深沢山の八合目にあたり、搦手(現在の元八王子)と本丸(現在の陣馬街道)と山王丸(山王台)、そして大手から四つの道が交差する重要拠点である。但し、当時は大雨被害のため山腹にある山王丸跡からの登城道が通行止めだった:
柵門台跡で合流した登城道は石切り場の間をジグザクに登っていき、九合目にある高丸(高曲輪)跡の虎口には曲線状に石垣が土塁を取り巻いていた:
高丸は柵門台を突破してジグザグに寄せてくる敵を一斉に攻撃できるように長く高低差のある尾根筋に築かれた郭である:
高丸から本丸方面上段には小宮丸(小宮曲輪)があり、高丸を落として本丸に寄せる敵勢を上段から横矢で攻撃できるようになっていた:
小宮丸跡の下を鈎型に折れて中の丸(中の曲輪)跡へ向かう途中には、よく知られた眺望スポットがあり、八王子市街を広く眺めることができる:
ここからは前週に攻めてきた太鼓丸跡の全景を拝むことができた:
おそらくは尾根筋の上で杜が窪んでいる箇所は堀切跡であろう:
眺望スポットをさらに進んでいくと平坦な郭跡に到達するが、ここが中の丸跡である:
この郭は正面上に本丸、正面下に松木丸(松木曲輪)、そして右手上は小宮丸によって囲まれているため、ここに侵入した寄手は三方向から迎撃され進退が困難になる:
これは中の丸跡から見上げた小宮丸跡:
このように八王子城の縄張は複数の郭で互いに連携しながら防戦する策が効果的であった反面、その中の郭が一つでも落ちてしまうと連鎖的に他の郭が奪われてしまい、最終的には城全体を危うくする危険性をはらんでいると云える。
こちらは、広島県は浅野文庫所蔵の『諸国古城之図』(広島市立図書館蔵)[g]旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。に収録されていた八王寺(八王子)城絵図と、それにコメントを付与したもの。なお絵図中に付されていた方位が間違っていると思うので、訂正の上で正しい方位針を付記した:
絵図の中には、天正18(1590)年6月の豊臣秀吉による小田原仕置で激戦が繰りひろげられた八王子城合戦の出来事が付記されていたので、お隣のコメント付きの絵図ではその内容を現代語で表記した。
この合戦では豊臣方の北国勢1万5千[h]これに松井田城・大道寺政繁や鉢形城・北條氏邦ら降伏した北條勢が加わり、先手として城攻めに参陣したと云う。に攻められ、籠城した北條勢は近隣の領民を合わせて3千ほどであったと云う。本城である小田原城からの後詰がないまま、まさに多勢に無勢な籠城戦であり、一つの郭を守るだけで手が一杯の状況下では郭同士の連携は機能せず、越後上杉勢によって小宮丸が陥とされると一気に落城に至った。この背景として、前哨戦の鉢形城攻めでは予想外にも攻めあぐね、なんとか降伏勧告で落城させることができたが、秀吉から「手ぬるい」と叱責された前田利家と上杉景勝率いる北国勢は何がなんでも力攻めで八王子城を陥す必要があったのだと云う。
この戦いでは開戦前に急遽築いた詰城は全く機能しなかったと云う。(石田堤史跡公園に置かれていた説明図より):
このあとは中の丸跡から松木丸すぐ下の腰郭跡へ向かった。ここには家臣の屋敷が建っていたとのことで石垣が残っていた:
松木丸跡には下山時に立ち寄ることにして、このベンチに座ってお昼を摂ったあとは詰城方面へ向かうことにした:
松木丸跡から本丸下をぬって西側へ向かって行く途中に炊井(かんせい)[i]縦方向に掘った井戸のこと。深さは6mで底には丸太が置かれ、その上に石積で壁を作っている。と呼ばれる井戸があり、これは八王子神社脇に残る井戸と同様、本丸に二つある井戸の一つ:
この井戸がある道の南側には二段の石垣が残っているらしいが一段目しか見えなかった:
さらに石垣下の急崖には麓まで落ち込む見事な竪堀が残っていた:
坎井(かんせい)の井戸から更に下りていくと分岐点に到達する。実は、詰城方面にある馬冷やし場へ向かうには分岐点を二つ通過してから西へ向かう必要があるのだが、当時はよく分からずにこの一つ目の分岐点からすぐ西へ向かってしまった:
自分が間違って進んでしまった「作業道」は西の丸(西の曲輪)とも無名丸(無名曲輪)とも呼ばれた本丸西側下にある小さい郭であり、目標としていた駒冷やし場よりも30m程高い場所だった。
こちらは無名丸(左手)と本丸(右手)との間にある堀切。実は、ここに到着した時も自分が居る場所を正確に把握していなかった :
堀切から更に西へ進んだところに無名丸跡があり、この小さい郭に入って初めて自分が居る場所を特定することができた。そこで秘密兵器の「八王子城精密ルートマップ」を見返して、この郭の下が駒冷やし場と繋がっていることを理解し、やや強引に急崖になっている切岸を下りることにした:
遠回りになったが、なんとか駒冷やし場へ到着。しかし案内板をよく見ると自分は立入禁止のエリアから入って来ていたようだ :
駒冷やし場は「馬冷やし場」とも書くとおり駒(こま)とは馬のこと意味し、通説では馬を休ませる場所として設けられた堀切らしい:
しかし実際は先ほど観てきた無名丸の存在からも、城の西側から攻め入ってきた敵(例えば甲斐国の武田氏)を食い止めるための防衛ラインであったと考えるのがもっともらしい巨大な堀切である:
この大堀切はその南側にある敷石谷へ落ち込むように竪堀に変化していた:
ちなみに、この場所の下には圏央道の八王子城跡トンネル(全長2㎞以上)が通っている。
こちらは大堀切西側の切岸。この手前に登山道があり、詰城・富士見台方面へ続いていた:
なお八王子城跡オフィシャルガイドの会が作成したガイドコースによると、ここから詰城跡までは徒歩で約30分であった。と云うことで富士見台方面へ伸びる尾根道を西へ向かうことにする:
かなり起伏が激しそうな尾根道であったが、途中には細長い郭のようなものがあったり、建物が建っていたような平坦な場所もあった。また他の尾根道とは異なり、たくさんの石が落ちていた:
石が転がっている尾根道を進んでいくと大木が倒れている場所に入るが、この辺りの西側斜面をのぞき込むと竪堀を見ることができる:
駒冷やし場の大堀切から、これから向かう詰城までの尾根はU字型をしているが、この間には累々と石積みの痕跡が残っていた:
特に竪堀がある斜面には石積みが残っていた。これらは秀吉の軍勢が攻めてくるのに対抗して、急遽本丸の西側に築いた詰城まで石塁状に積み上げられていたもので、廃城後の城割[j]読みは「しろわり」。城郭を壊すこと。で崩されたものと推測できる:
そして、これが二つ目の竪堀:
また、この辺りは防衛ラインを守備するために詰めていた兵士らの宿舎跡でもある:
ここから更に西へ進むと急斜面の上り坂が出現する。ここを登った先が詰城跡であり、散乱した石を大量に見かけた:
こちらは急坂を振り返って見下ろしたところ。先ほどの兵舎跡から比高25mほど:
この急坂を登った先に「伝・大天守跡」と呼ばれた詰城がある:
石が産卵する虎口から詰城(つめのしろ)跡に入ると、思ったよりも小さい郭の中にもたくさんの石が散乱していた。さらに端っこには「史跡・八王子城天守閣跡」なる石碑が建っていた。実際には天守閣ではなく物見櫓:
この詰城は「最後の砦」だけあって本丸よりも20m近く高い位置にあり、すぐ脇には巨大な堀切が残っていた。こちらは詰城跡から見下ろした大堀切:
こちらが詰城跡から見下ろした大堀切の全景(動画):
詰城跡から富士見台方面へ向かう登山道を下りていくと、さらに尋常ではない規模の大堀切が眼前に迫ってくるようだった:
詰城の背後(西側)に大堀切を築いたことで正面(東側)から寄せてくる敵に集中して反撃できる、まさに「最後の砦」である。
これは大堀切の堀底から切岸を見上げ、その上の詰城跡を見たところ:
そして逆に富士見台方面の切岸を見上げたのがこちら。まさに尾根を断ち切った「絵」である。さらに岸壁にはノミで穿った縦19cm☓横38cm☓奥行き12cmほどの石穴があったが、これは祈壇として使われた可能性があるとのこと:
このあとは詰城から北に下る尾根筋(棚沢の滝方面)に残っている崩れた石積みを観てきた。
これは詰城跡のすぐ北側の尾根周辺に散乱していた石積み:
そして棚沢の滝方面に尾根筋を下り段郭跡を下りていったのだが、途中で道が無くなってきたので詰城攻めはここで終了した:
再び詰城跡へ戻り、本丸・松木丸跡がある「八王子城山(はちおうじ・しろやま)」方面へ移動した:
駒冷やし場まで戻ったら今度は道を間違えずに「南馬廻り道」を通って炊井の井戸手前にある分岐点を目指した:
井戸下の竪堀を往きは上側から見下ろしたが帰りは下側から見上げてきた:
そして井戸前を通って松木丸(松木曲輪)跡へ。八王子城合戦では氏照の家老であった中山勘解由家範(なかやま・かげゆ・いえのり)らが守備していた郭:
多勢で無勢の中を中山ら城兵は奮闘し、彼の武勇を惜しんだ前田利家から助命の申し入れを受けたが拒否し主家に対する忠義を守って討死したと云う。享年43。その後、彼の子息は前田利家・徳川家康に仕え、最後は水戸藩の附家老になった。
この郭には展望エリアがあり、そこから八王子市街は勿論、太鼓丸跡の他に廿里砦・廿里古戦場や、八王子城の支城あるいは烽火台として使われたであろう初沢城跡を眺めることができた:
ちなみに廿里砦はまだ八王子城が無かった頃の対武田の最前線であり、永禄12(1569)年に武田信玄が小田原城を攻めるため岩殿城の小山田信茂を先発させた際、甲軍が小仏峠(こぼとけ・とうげ)を過ぎたところ[k]現在のJR高尾駅付近。で横地監物(よこち・けんもつ)や中山勘解由、布施出羽守らによる迎撃を受けたと伝わる古戦場でもある。小山田はこの迎撃を難なく突破し、信玄率いる本隊と合流して滝山城攻めに入った。
のちに北條氏は、この時の「借り」を三増峠で返すことになる。
こちらは展望エリアから東京スカイツリーや横浜みなとみらいのランドマークタワーの眺め:
この後は要害地区を下山して管理棟へ。帰りは柵門台をぬけたあとは新道を使って中腹にある金子丸(金子曲輪)跡を経由した。この郭は氏照の家臣・金子三郎左衛門家重が守備していたと伝わる:
この郭から下は尾根をひな壇状に削平し段郭を堀切を設けずに連ねることで敵の侵入を困難にしていたと云う。そういうこともあり新道は意外と登りづらい:
麓の近藤丸(近藤曲輪)跡に建つ鳥居に到着した:
この鳥居が建つ場所は虎口であったようで、その脇には石垣が残っていた:
そして新道と旧道との分岐点を経由して「八王子城跡自然公園」の登城口から山下丸(山下曲輪)跡へ回りこんで管理棟へ:
以上で詰城攻めは終了。管理棟に立ち寄ったあと、前回見落とした台風によって新たに出現した戦国時代の遺構を見て氏照公の墓所へ。
北條陸奥守氏照公墓所と宗閑寺
氏照公の墓所は五年前にも訪問したが、今回は再訪と併せて菩提寺である宗閑寺(そうかんじ)にも足を運んだ[l]このお寺の目の前に近くに高尾駅行きのバス停「八王子霊園南門」がある。。
こちらが墓所と菩提寺を巡った経路と実際のGPSアクティビティのトレース結果。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は1.62㎞、所要時間は36分(うち移動時間は22分)ほどだった。ホント城跡からすぐである:
城跡と宗閑寺との間は現在は宅地化されてしまっているが往時の根小屋(ねごや)地区にあたり、実際に遺構が残っているわけではないが、城主・氏照公の墓所の他にも出丸跡や家臣らの屋敷跡などがある:
八王子城跡 → (山下丸) → 出丸跡 → 丸馬出跡 → (中山勘解由屋敷跡) → 北條氏照公墓所 → (旧宗閑寺跡) → (横地監物屋敷跡) → 宗閑寺
城跡を出て駐車場を過ぎ、ガイダンス施設殿間にある広場(?)は出丸跡。奥にある土居は山下丸(山下曲輪)跡:
ガイダンス施設を過ぎたところに高尾駅前行きのバス停「八王子城跡」があるが、こちらは丸馬出跡:
そのまま進むと「八王子城主・北条氏照の墓」の案内板が見えてくる。なお、この案内板の背後が位置的に中山勘解由の屋敷跡:
この案内板に向かって右手の路地を道なりに進んでいくと氏照公墓所の高台が見えてくる:
意外と長い階段を登った先が氏照公の供養塔と家臣らの墓所である。公の墓所は他に小田原市内にある:
供養塔は、重臣・中山勘解由家範(なかやま・かげゆ・いえのり)の孫で水戸藩家老の中山信治(なかやま・のぶはる)が氏照公百回忌の追善供養のために建てた供養塔である。この脇には祖父・家範と自分の墓が並ぶ:
北條氏照は北條氏康の三男で生年は不明で諸説ある。菩提寺の宗閑寺には享年49の記録があり、逆算すると天文11(1542)年生まれが有力となる。幼名は藤菊丸(ふじぎくまる)、元服して仮名を源三、ついで受領名の陸奥守を称した。武蔵国の国衆で関東管領・扇谷上杉氏の重臣であった大石綱周(おおいし・つなかね)に養子入りして浄福寺城[m]築城当時は油井城(ゆい・じょう)。で大石家の家督を継いだ。名字は最初は大石を称したが、永禄11(1568)年から北條に復す。
この頃から古河公方の取次や下総国栗橋城、下野国小山城、同・藤岡城などを管轄する。以後、管轄を広げ、その領域の広大さから氏康亡き後の北條家を支える重要な役割を担っていたと云う。
永禄10(1563)年には新たに築いた滝山城に居城を移し、越後の上杉謙信との攻防に対応した。この滝山城が『風林火山』に蹂躙されたのち、天正8(1580)年から二年の歳月をかけて八王子城を築いて居城を移した。この時から甲斐武田氏との攻防戦に変わる。
天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置では居城である八王子城には妻[n]養父・大石綱周の娘。名は「お豊」とも「比左」とも。実子は女子一人。男子が居なかったので兄・氏政の子二人を養子とする。と重臣を残し、自らは本城である小田原城に籠城する。八王子城が陥落すると当主・氏直が秀吉に降伏し、主戦派として責任を追求されて兄の氏政と共に切腹する。
氏照公の供養塔の背後には家臣の墓があった:
墓所をあとにして宗閑寺に向かうが、墓所の近くには旧宗閑寺跡があるが、周囲は私有地なので立入りはできない:
再び城跡前の通りに出て東へ進んだ左手の空き地が横地監物吉信(よこち・けんもつ・よしのぶ)の屋敷跡。氏照公の重臣の一人であり八王子城代。八王子城合戦では主人の代わりに秀吉の北国勢を本丸で迎撃した。落城後に奥多摩に逃れ深傷のため自刃した:
ここからしばらく歩いた左手に曹洞宗・宗閑寺がある。すこし道路より高い土居上に建っていた:
本堂の屋根の棟には北條家の家紋「三ッ鱗紋」があしらわれていた:
境内にある鐘楼。ここにある胴造りの梵鐘は、氏照公の供養塔を建立した中山信治が時期を同じくして八王子城の戦死者の追善供養のために鋳造寄進したもの(八王子市指定有形文化財):
以上で北條氏照公墓所と宗閑寺の訪問は終了。
五年前に初めて城攻めした時は、これだけの規模とは予想すらしておらず、今回は改めての関東屈指の山城として見所(攻め所)の多さに驚いた。しかし『西高東低』な国内の城郭[o]名前が有名だったり、石垣を多用したり、綺麗な天守閣があったりなどいろいろな意味で。にあって五代で滅亡となったが小田原北條氏を弱小大名と一言で言い切ることはできないそんな奥深さを感じさせてくれた山城だった 。
最後は「八王子城跡自然公園」の登城口に建っていた注意書き:

「十分な装備での登山を」
八王子城(詰城)攻め (フォト集)
北條氏照公墓所 (フォト集)
八王子城(2) (攻城記)
八王子城(御主殿)攻め (フォト集)
八王子城(太鼓丸)攻め (フォト集)
八王子城 (攻城記)
八王子城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 巨大山城八王子城精密ルートマップ 2016年版
- 八王子城跡・要害地区に建っていた案内図・説明板
- 埋もれた古城(八王子城めぐり)〜その2:要害・詰城編
- 日本の城探訪(八王子城)
- 八王子城跡オフィシャルガイドの会 〜 ツアーマップ
- 『国史跡・八王子城跡』リーフレット(八王子市教育委員会他)
- 埋もれた古城(八王子城めぐり)〜その4:大手道・根小屋編
- 『戦国北条家一族辞典』(黒田基樹著/戎光祥出版)
- 『戦国北条五代』(黒田基樹著/講談社)
- Wikipedia(八王子城)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | 初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。 |
---|---|
↑b | 母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。 |
↑c | 天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。 |
↑d | 旧道、あるいは大手山道とも。要するに八王子城跡自然公園の登城道ではない方。 |
↑e | 当時は、てっきり登城道には入れないと思って予定を変更してしまったが、実は登山道そのものは大して問題なかったようだ。 |
↑f | 現地に行ってみないと状況が分からないのも問題。市のホームページなどで情報を共有できるようにてもらいたいものだ。 |
↑g | 旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。 |
↑h | これに松井田城・大道寺政繁や鉢形城・北條氏邦ら降伏した北條勢が加わり、先手として城攻めに参陣したと云う。 |
↑i | 縦方向に掘った井戸のこと。深さは6mで底には丸太が置かれ、その上に石積で壁を作っている。 |
↑j | 読みは「しろわり」。城郭を壊すこと。 |
↑k | 現在のJR高尾駅付近。 |
↑l | このお寺の目の前に近くに高尾駅行きのバス停「八王子霊園南門」がある。 |
↑m | 築城当時は油井城(ゆい・じょう)。 |
↑n | 養父・大石綱周の娘。名は「お豊」とも「比左」とも。実子は女子一人。男子が居なかったので兄・氏政の子二人を養子とする。 |
↑o | 名前が有名だったり、石垣を多用したり、綺麗な天守閣があったりなどいろいろな意味で。 |
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