秀吉軍襲来に備えて八王子城西端に急遽築かれた詰城の背後には大堀切が残る

小田原北條氏二代目当主の氏綱(うじつな)の嫡子で、のちに『相模の獅子』と呼ばれた三代目当主の伊勢新九郎氏康(いせ・しんくろう・うじやす)[a]初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。の子女は一説に九男・七女とされ、その正室は駿河国守護であった今川氏親(いまがわ・うじちか)[b]母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。の娘・瑞渓院殿(ずいけいいんでん)。この正室との間には長男の新九郎氏親[c]天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。、次男で嫡男の氏政、三男の氏照、四男の氏規(うじのり)、五男の氏邦(うじくに)、六男で『越後の龍』こと上杉輝虎の養子となった景虎がいる。女子には、氏康とは義兄弟であった北條綱成の嫡男・氏繁室、千葉親胤室、そして今川氏真(いまがわ・うじざね)室の早川殿らがいる。小田原北條氏は相模国の小田原城を本城として伊豆・武蔵・駿河・下総などの領国に数多くの支城を築いて整備し、いわゆる支城ネットワークを構築していた。その中で最大規模を誇っていたとされる八王子城は兄の氏政と甥の氏直を軍事と政治の両面で支えた北條陸奥守氏照の最後の居城で、現在は東京都八王子市元八王子町にて国史跡に指定されている。天正18(1590)年の小田原仕置の際は、急遽、本丸の西側に石垣で囲った詰城(つめのしろ)を築いて豊臣勢の来襲に備えた。

昨年は令和元(2019)年師走の週末は二回に分けて、五年前の城攻めで見落とした詰城跡と大堀切、そして最近「八王子城跡オフィシャルガイドの会」なるページでその存在を知った太鼓丸跡、また五年前は老朽化のため渡ることができなかったが一昨年の平成28(2016)年に架け替え完了した曳橋(ひきはし)と「道が荒れている」という理由で敬遠した古道[d]旧道、あるいは大手山道とも。要するに八王子城跡自然公園の登城道ではない方。、そして御主殿跡と松木曲輪跡の間あたりにある四群石垣など見所が盛りだくさんの八王子城跡を攻めてきた。しかしながら関東一円に甚大な被害を与えた昨年の台風や大雨はこの城跡にも爪痕を残し、現地に着くやいなや当初の予定を変更せざるをえない状態だった :|。例えば本丸跡や詰城跡へ向かうための登山道入口前にある石橋が城山川の増水で崩落して通行止め[e]当時は、てっきり登城道には入れないと思って予定を変更してしまったが、実は登山道そのものは大して問題なかったようだ。だったり、御主殿跡周辺で崩落が発生するなどして四群石垣へ向かう入口は封鎖されていたり[f]現地に行ってみないと状況が分からないのも問題。市のホームページなどで情報を共有できるようにてもらいたいものだ。 ;(

前週に続いて今回の八王子城攻めは、深沢山(城山)に登って本丸跡の奥にある詰城跡とその周辺の石垣や大堀切を見て回ってきた。登山では本丸など要害地区へ向かう大手山道である旧道を使った。この道を使うと柵門下に残る石積を眺めることができる。そして下山したあとは八王子城主・北條氏照公の墓所と菩提寺である宗関寺に訪問してきた。


こちらは山下丸跡に置かれていた八王子城の地形模型(右手が北):

山下丸跡に展示されていたジオラマで、中央の尾根筋が要害地区、左手の尾根が太鼓丸跡、その間には御主殿と根小屋地区がある

八王子城全景(拡大版)

正面中央にある深沢山の山頂付近が、今回攻めてきた八王子城の本城(本丸や詰城)にあたる要害地区で、その麓に御主殿が建っていた居館地区、それと城山川を挟んで左手にある尾根筋が太鼓丸で、手前へ向かって流れる城山川に沿って築かれた城下町が根小屋(ねごや)地区となる。

こちらは上の模型を参考に今回攻めてきた要害地区と根小屋地区の一部(青色)と、その他関連する場所(茶色)をそれぞれGoogle Earth 3D上に重畳させたもの:

青地白抜字で示した場所が八王子城攻め2日目に巡ってきたエリア

八王子城跡(Google Earth 3Dより)

あと前回と合わせて巡ってきた郭跡や寺院などを含む主要な場所についてはで示してみた。あと登りで利用した古道を紫色の破線で、そして八王子城の支城にあたるとされる城跡への方角も追記してみた。

前回と同様に要害地区を攻めた際の経路と実際のGPSアクティビティのトレース結果がこちら。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は5.66㎞、所要時間は3時間27分(うち移動時間は1時間46分)ほどだった:

朝10:20〜昼15:10までの間、移動は全て徒歩で管理棟から詰城跡までの往復(北條氏照公墓所や宗関寺訪問は含めない)

My GPS Activity

そして今回のルートはこちら。柵門跡までの上りは旧道(大手山道)を、下りは金子丸跡を通過する登山道を利用した:

管理棟 → (馬揃え場) → 八王子城跡自然公園入口 → 旧道 → 柵門台下の2段石垣 → 搦手道合流点 → 柵門台跡 → 高丸跡 → 眺望スポット → 中の丸跡 → (松木丸跡下) → 坎井の井戸 → 井戸の下の2段石垣 → 無名丸跡 → 駒冷やし場 → 竪堀と石垣 →  詰城跡 → 大堀切 → (水平道の石垣方面) → (詰城跡) → (駒冷やし場) → (坎井の井戸) → 松木丸跡 → (中の丸跡) → ・・・ → (柵門台跡) → 金子丸跡 → (八王子城跡自然公園入口) → (管理棟)


大手山道と詰城跡

今回も管理棟前から城攻め開始。おなじみの「史跡・八王子城跡」の石碑の奥に見える茶色の建物が管理棟:

奥の建物が管理棟、右手奥が八王子城跡自然公園の登山道入口方面

史跡 八王子城跡と管理棟

まず登城道入口へ向かう前に城山川対岸にあった馬揃え場を遠望した。と云っても藪化して分かりづらいが。現在は手前に見える建物と城山川の先は国有地となっている:

管理棟側から城山川対岸に馬揃え場があったらしい

馬揃え場を遠望する

前の週に攻めた時は数日で工事が入るってボランティアの方が云っていたが一週間経っても通行禁止は解除されていなかった。ただ山下丸(山下曲輪)跡から迂回して登城道入口へ向かうことはできたのだが、実際に崩落現場を目の当たりにするとその深刻さがよく理解できた :|

前週と同様に登山道入口へ向かう通路は「通行禁止」だった

依然として「通行禁止」

実際に見てみると一週間で修復できるとは思えない被害だった

崩落現場

「八王子城跡自然公園」の入口は問題はなく、山下丸側から続く石垣も健在であった:

この当時は右手から迂回して入ってくることができた

登城道の入口

右手にある山下丸から続く石垣にも被害は無かったようだ

登城道入口脇の石垣

「八王子城本丸方面」の標柱が建つ鳥居をくぐって本丸方面の柵門台跡を目指すが、階段を登るとすぐに分岐点となる:

旧道は柵門台跡までであるが新道とは違い金子丸の下をぬって行くルート

新道(左)と旧道(右)の分岐点

この分岐点を左手へ折れると五年前の城攻めで利用した新道となり、段郭が連続する金子丸(金子曲輪)跡を経由して柵門台跡へ至る。多くの登山者が利用するため、いわゆる「こなれた状態」である。一方、右手の旧道も目的地は同じ柵門台跡であるが、段郭の脇をぬって登って行く緩やかな山道であり整備はあまりされていない。往時は旧道が「大手道(大手山道)」であった。

ということで旧道を使って左手に金子丸などの段郭跡を見上げながら柵門台跡まで登ることにする;

旧道から見上げた新道は、金子丸下に連なる複数の段郭跡を登ることになるので意外とキツイと思う

新道側を見上げたところ(拡大版)

当時の旧道はこんな感じ。歩きづらい箇所はあるが、それらを回避すれば特に苦ではなかった。また新道にもあった排水溝の石組も見かけた:

左手上が段郭の切岸、右手下が花籠沢という天然の沢

旧道の大手山道

この旧道には4ヶ所くらいあった石積遺構

排水溝の石組

30分くらい登ったあたりが新道で云うところの金子丸跡で、更に進むと柵門台跡である:

左手上は金子丸辺りを過ぎたところで、正面上が柵門台跡あたり

旧道の大手山道

ここで金子丸跡と柵門台跡の間あたりまで来ると尾根の外側にある石積遺構は2段になっているとのことだったが、下段は藪化で分かりづらかった。また登城道には石の一部が転がっていたので、下段の石垣の一部は崩落しているようだった:

金子丸と柵門台の中間あたりの尾根外側に残る石積遺構

2段石垣

一部は崩れているようにも見えた

2段石垣

柵門台跡に向かって続いていた2段石垣:

柵門台の尾根筋に連なる石積遺構

2段石垣

柵門台の尾根筋に連なる石積遺構

2段石垣の上段

そろそろ旧道から新道へ合流する地点が見えてくるが、右手下は深い天然の沢である「花瀧沢」が広がっていた:

大手山道の右手、郭が連なる尾根とは反対側は深い天然の沢が広がっており、まったく敵を寄せ付けない要害だった

花瀧沢(拡大版)

ここが合流点。左手上が柵門台跡で、右手は搦手峠と呼ばれる搦手道である:

左手上へ登ると柵門台跡、右手は搦め手峠・櫓台跡方面

搦手道との合流点

そして新道と合流する柵門台(柵門)跡。深沢山の八合目にあたり、搦手(現在の元八王子)と本丸(現在の陣馬街道)と山王丸(山王台)、そして大手から四つの道が交差する重要拠点である。但し、当時は大雨被害のため山腹にある山王丸跡からの登城道が通行止めだった:

この下に四群石垣(石垣谷)と御主殿跡がある

山王丸方面は通行不可

山頂の本丸方面へ続く道の尾根上に築かれた平坦地で柵門跡とも

柵門台跡

柵門台跡で合流した登城道は石切り場の間をジグザクに登っていき、九合目にある高丸(高曲輪)跡の虎口には曲線状に石垣が土塁を取り巻いていた:

大手道の曲線に沿って石垣が取り巻いていた

高丸の虎口付近の石垣

九合目の高丸手前に残る石垣

高丸の虎口付近の石垣

高丸は柵門台を突破してジグザグに寄せてくる敵を一斉に攻撃できるように長く高低差のある尾根筋に築かれた郭である:

ここが深沢山の九合目にあたる

高丸跡

大手道から寄せる敵を高低差をもって一気に攻撃できる郭である

高丸の尾根筋

高丸から本丸方面上段には小宮丸(小宮曲輪)があり、高丸を落として本丸に寄せる敵勢を上段から横矢で攻撃できるようになっていた:

ここから本丸へは小宮丸の下を鈎型に折れる必要があり、寄手は途中で上段にある小宮丸からの横矢に晒される

本丸方面の大手道(拡大版)

小宮丸跡の下を鈎型に折れて中の丸(中の曲輪)跡へ向かう途中には、よく知られた眺望スポットがあり、八王子市街を広く眺めることができる:

本丸方面へ向かう大手道の眺望スポットから八王子市街地の眺めで、手前に見える尾根が太鼓丸

眺望スポットからの眺め(パノラマ)

ここからは前週に攻めてきた太鼓丸跡の全景を拝むことができた:

中央にある尾根が太鼓丸跡で、ところどころ凹んで見える場所が堀切跡である

太鼓丸がある尾根筋(拡大版)

おそらくは尾根筋の上で杜が窪んでいる箇所は堀切跡であろう:

窪みを持つ杜はおそらくは堀切跡であろう

太鼓丸跡

この規模からすると最も規模の大きい第三堀切と思われる

堀切跡

眺望スポットをさらに進んでいくと平坦な郭跡に到達するが、ここが中の丸跡である:

中の曲輪とも呼ばれ、本丸と小宮丸と松木丸への分岐点となる

中の丸跡

この郭は正面上に本丸、正面下に松木丸(松木曲輪)、そして右手上は小宮丸によって囲まれているため、ここに侵入した寄手は三方向から迎撃され進退が困難になる:

北條氏照が八王子城築城にあたり城の守護神とした「八王子権現(ごんげん)」(スサノオの八柱の御子神)を祀っている神社

中の丸跡に建つ八王子神社(拡大版)

八王子神社のすぐ脇には本丸に二つあった井戸の一つがある

井戸跡

これは中の丸跡から見上げた小宮丸跡:

八王子合戦では越後上杉勢が小宮丸を落としたことが落城につながった

小宮丸跡

このように八王子城の縄張は複数の郭で互いに連携しながら防戦する策が効果的であった反面、その中の郭が一つでも落ちてしまうと連鎖的に他の郭が奪われてしまい、最終的には城全体を危うくする危険性をはらんでいると云える。

こちらは、広島県は浅野文庫所蔵の『諸国古城之図』(広島市立図書館蔵)[g]旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。に収録されていた八王寺(八王子)城絵図と、それにコメントを付与したもの。なお絵図中に付されていた方位が間違っていると思うので、訂正の上で正しい方位針を付記した:

八王子城合戦時の詰城は描かれていない

『八王寺城 (武蔵)− 諸国古城之図』

方位が間違っていたので訂正して付記した

『八王寺城(武蔵) − 諸国古城之図』(コメント付き)

絵図の中には、天正18(1590)年6月の豊臣秀吉による小田原仕置で激戦が繰りひろげられた八王子城合戦の出来事が付記されていたので、お隣のコメント付きの絵図ではその内容を現代語で表記した。
この合戦では豊臣方の北国勢1万5千[h]これに松井田城・大道寺政繁や鉢形城・北條氏邦ら降伏した北條勢が加わり、先手として城攻めに参陣したと云う。に攻められ、籠城した北條勢は近隣の領民を合わせて3千ほどであったと云う。本城である小田原城からの後詰がないまま、まさに多勢に無勢な籠城戦であり、一つの郭を守るだけで手が一杯の状況下では郭同士の連携は機能せず、越後上杉勢によって小宮丸が陥とされると一気に落城に至った。この背景として、前哨戦の鉢形城攻めでは予想外にも攻めあぐね、なんとか降伏勧告で落城させることができたが、秀吉から「手ぬるい」と叱責された前田利家と上杉景勝率いる北国勢は何がなんでも力攻めで八王子城を陥す必要があったのだと云う。
この戦いでは開戦前に急遽築いた詰城は全く機能しなかったと云う。(石田堤史跡公園に置かれていた説明図より):

緑円内が八王子城

「小田原征伐時の関東」(拡大版)

このあとは中の丸跡から松木丸すぐ下の腰郭跡へ向かった。ここには家臣の屋敷が建っていたとのことで石垣が残っていた:

どうも積み直しされているらしい (道理で綺麗な石垣だ)

松木丸下の石垣

松木丸跡には下山時に立ち寄ることにして、このベンチに座ってお昼を摂ったあとは詰城方面へ向かうことにした:

オフィシャルガイドの会によると、この辺りから30分程度とのこと

「詰城」方面

松木丸跡から本丸下をぬって西側へ向かって行く途中に炊井(かんせい)[i]縦方向に掘った井戸のこと。深さは6mで底には丸太が置かれ、その上に石積で壁を作っている。と呼ばれる井戸があり、これは八王子神社脇に残る井戸と同様、本丸に二つある井戸の一つ:

手押しポンプで水を出すことができたが、飲料水としてはNGとのこと

炊井(かんせい)の井戸

この井戸がある道の南側には二段の石垣が残っているらしいが一段目しか見えなかった:

炊井の井戸下にはニ段になった石垣があるらしいが一段しかなかった

二段の石垣の一部

炊井の井戸下に残る二段の石垣

二段の石垣の一部

さらに石垣下の急崖には麓まで落ち込む見事な竪堀が残っていた:

本丸南側にある炊井(かんせい)の井戸の下には急崖を麓まで落ち込む見事な竪堀が残っていた

本丸下の竪堀(拡大版)

坎井(かんせい)の井戸から更に下りていくと分岐点に到達する。実は、詰城方面にある馬冷やし場へ向かうには分岐点を二つ通過してから西へ向かう必要があるのだが、当時はよく分からずにこの一つ目の分岐点からすぐ西へ向かってしまった:

左手が富士見台(詰城)方面、右手が作業道(無名曲輪)方面

一つ目の分岐点

間違えて一つ目の分岐点から西へ向かったが、これは「作業道」だった

「作業道」

自分が間違って進んでしまった「作業道」は西の丸(西の曲輪)とも無名丸(無名曲輪)とも呼ばれた本丸西側下にある小さい郭であり、目標としていた駒冷やし場よりも30m程高い場所だった。

こちらは無名丸(左手)と本丸(右手)との間にある堀切。実は、ここに到着した時も自分が居る場所を正確に把握していなかった :O

当時はここが駒冷やし場だと思っていた(違和感はあったが)

無名丸と本丸の間

堀切から更に西へ進んだところに無名丸跡があり、この小さい郭に入って初めて自分が居る場所を特定することができた。そこで秘密兵器の「八王子城精密ルートマップ」を見返して、この郭の下が駒冷やし場と繋がっていることを理解し、やや強引に急崖になっている切岸を下りることにした:

伝・無名曲輪とも呼ばれており、その用途は不明である

無名丸または西の丸

この急崖を下りて、左手へ回り込むと駒冷やし場に至る

無名丸西端

遠回りになったが、なんとか駒冷やし場へ到着。しかし案内板をよく見ると自分は立入禁止のエリアから入って来ていたようだ :O

本来は立入りが禁止されていたエリアから駒冷やし場に入った

案内板(こちらは裏面)

自分は道を間違えたため、この先にある無名丸跡から入る羽目になった

案内板(こちらが表面)

駒冷やし場は「馬冷やし場」とも書くとおり駒(こま)とは馬のこと意味し、通説では馬を休ませる場所として設けられた堀切らしい:

本丸と詰め城の中間点にある大堀切を北側から見たところで、西側から侵攻してきた場合の防衛ラインだった

駒冷し場(拡大版)

しかし実際は先ほど観てきた無名丸の存在からも、城の西側から攻め入ってきた敵(例えば甲斐国の武田氏)を食い止めるための防衛ラインであったと考えるのがもっともらしい巨大な堀切である:

こちらは逆に南側から見た大堀切で、左手が詰城方面、右手が本丸方面であり、複数の道が交差する場でもある

駒冷し場(拡大版)

この大堀切はその南側にある敷石谷へ落ち込むように竪堀に変化していた:

駒冷やし場の大堀切は南側で竪堀となり敷石谷へ落ち込んでいた

大堀切から竪堀へ

ちなみに、この場所の下には圏央道の八王子城跡トンネル(全長2㎞以上)が通っている。
こちらは大堀切西側の切岸。この手前に登山道があり、詰城・富士見台方面へ続いていた:

ここから左手へ進むと詰城・富士見台方面である

駒冷し場の片側の切岸

「大天主跡を経て富士見台へは徒歩約1時間」とある

「富士見台」向けの案内板

なお八王子城跡オフィシャルガイドの会が作成したガイドコースによると、ここから詰城跡までは徒歩で約30分であった。と云うことで富士見台方面へ伸びる尾根道を西へ向かうことにする:

富士見台方面へ伸びる尾根上を進むと石を多く見かけるようになる

詰城跡へ向かう尾根道

かなり起伏が激しそうな尾根道であったが、途中には細長い郭のようなものがあったり、建物が建っていたような平坦な場所もあった。また他の尾根道とは異なり、たくさんの石が落ちていた:

起伏が激しい尾根道であるが建物があったような平坦な場所もあった

詰城跡へ向かう尾根道

石が転がっている尾根道を進んでいくと大木が倒れている場所に入るが、この辺りの西側斜面をのぞき込むと竪堀を見ることができる:

詰城・富士見台へ向かう尾根道で標高450mを越えた位置にある

竪堀

尾根上から下を覗きこまないと、その存在を見落とす恐れあり

竪堀(コメント付き)

駒冷やし場の大堀切から、これから向かう詰城までの尾根はU字型をしているが、この間には累々と石積みの痕跡が残っていた:

駒冷やし場の大堀切から詰城までのU字型をした尾根には石積が続いていた

散乱していた石積

特に竪堀がある斜面には石積みが残っていた。これらは秀吉の軍勢が攻めてくるのに対抗して、急遽本丸の西側に築いた詰城まで石塁状に積み上げられていたもので、廃城後の城割[j]読みは「しろわり」。城郭を壊すこと。で崩されたものと推測できる:

秀吉の軍勢に対抗して石塁状に積み上げられていた石の残骸

石積み遺構

秀吉の軍勢に対抗して石塁状に積み上げられていた石の残骸

石積み遺構

そして、これが二つ目の竪堀:

周囲には崩れた石積みが散乱していた

竪堀

兵舎跡近くにある竪堀で、こちらも尾根上から覗きこまないと分からない

竪堀(コメント付き)

また、この辺りは防衛ラインを守備するために詰めていた兵士らの宿舎跡でもある:

この先にある詰城(大天主)を守備する兵士らの兵舎が建っていた

兵舎跡

ここから更に西へ進むと急斜面の上り坂が出現する。ここを登った先が詰城跡であり、散乱した石を大量に見かけた:

詰城へ向かって急斜面な登り坂になった

急斜面

ここから更に大量の石が散乱していた

石積み

こちらは急坂を振り返って見下ろしたところ。先ほどの兵舎跡から比高25mほど:

大天主の詰城跡へ続く登山道から急坂を振り返って見下ろしたところ(兵舎跡とは比高25mほど)

詰城跡前の尾根筋(拡大版)

この急坂を登った先に「伝・大天守跡」と呼ばれた詰城がある:

「伝・大天守跡」とも云われるが、実際に建っていたのは物見櫓である

この上が詰城跡

詰城虎口の周辺もたくさんの石が散乱していた

虎口

石が産卵する虎口から詰城(つめのしろ)跡に入ると、思ったよりも小さい郭の中にもたくさんの石が散乱していた。さらに端っこには「史跡・八王子城天守閣跡」なる石碑が建っていた。実際には天守閣ではなく物見櫓:

たとえ本丸が陥落しても最後まで抵抗するために「詰める」ための郭で、秀吉による小田原仕置時に急遽築かれた

詰城跡(拡大版)

天守閣跡となっているが実際には物見櫓相当の建屋があった

「史跡・八王子城天守閣跡」の碑

この詰城は「最後の砦」だけあって本丸よりも20m近く高い位置にあり、すぐ脇には巨大な堀切が残っていた。こちらは詰城跡から見下ろした大堀切:

詰城の背後を守る深さ10m以上の巨大な堀切を見下ろしたところで、実際に堀底まで下りることができる

詰城西側にある大堀切(拡大版)

こちらが詰城跡から見下ろした大堀切の全景(動画):

詰城跡から富士見台方面へ向かう登山道を下りていくと、さらに尋常ではない規模の大堀切が眼前に迫ってくるようだった:

尾根を断ち切って侵入を拒み堀底を進む寄手を容赦なく攻撃する

大堀切

尾根を断ち切って侵入を拒み堀底を進む寄手を容赦なく攻撃する

大堀切

尾根を断ち切って侵入を拒み堀底を進む寄手を容赦なく攻撃する

大堀切

詰城の背後(西側)に大堀切を築いたことで正面(東側)から寄せてくる敵に集中して反撃できる、まさに「最後の砦」である。

これは大堀切の堀底から切岸を見上げ、その上の詰城跡を見たところ:

深さは優に20m近くあり、周囲には石積が崩れて散乱していた

大堀切から見上げた詰城跡

そして逆に富士見台方面の切岸を見上げたのがこちら。まさに尾根を断ち切った「絵」である。さらに岸壁にはノミで穿った縦19cm☓横38cm☓奥行き12cmほどの石穴があったが、これは祈壇として使われた可能性があるとのこと:

まさに尾根を断ち切った形をしていた

富士見台側の切岸

西側(富士見台側)の切岸には祈壇として使われた穴があった

祈壇跡

このあとは詰城から北に下る尾根筋(棚沢の滝方面)に残っている崩れた石積みを観てきた。
これは詰城跡のすぐ北側の尾根周辺に散乱していた石積み:

駒冷やし場から詰城とその北側の尾根筋まで石積みが累々と築かれていた

詰城北側の土居

そして棚沢の滝方面に尾根筋を下り段郭跡を下りていったのだが、途中で道が無くなってきたので詰城攻めはここで終了した:

ここにも崩落した石がたくさん散乱していた

詰城跡北側の尾根筋

20mほど下ってきたが急崖になったので、ここまでとした

さらに落ち込む尾根筋

再び詰城跡へ戻り、本丸・松木丸跡がある「八王子城山(はちおうじ・しろやま)」方面へ移動した:

手前方向が大堀切を経由して富士見台へ、右手が八王子城要害地区

詰城跡に建つ案内板

駒冷やし場まで戻ったら今度は道を間違えずに「南馬廻り道」を通って炊井の井戸手前にある分岐点を目指した:

駒冷やし場から無名丸・本丸跡の南側をトラバースする登山道

南馬廻り道

炊井の井戸の下の竪堀近くにある分岐点

分岐点

井戸下の竪堀を往きは上側から見下ろしたが帰りは下側から見上げてきた:

この上に炊井の井戸がある

井戸下の竪堀

本丸南側の城山林道あたりまで落ち込んでいた

井戸下の竪堀

そして井戸前を通って松木丸(松木曲輪)跡へ。八王子城合戦では氏照の家老であった中山勘解由家範(なかやま・かげゆ・いえのり)らが守備していた郭:

石碑やベンチなどがあり、展望エリアからの眺望もなかなかである

松木丸跡

多勢で無勢の中を中山ら城兵は奮闘し、彼の武勇を惜しんだ前田利家から助命の申し入れを受けたが拒否し主家に対する忠義を守って討死したと云う。享年43。その後、彼の子息は前田利家・徳川家康に仕え、最後は水戸藩の附家老になった。

この郭には展望エリアがあり、そこから八王子市街は勿論、太鼓丸跡の他に廿里砦・廿里古戦場や、八王子城の支城あるいは烽火台として使われたであろう初沢城跡を眺めることができた:

手前の尾根筋にあるのが太鼓丸跡、その右手には廿里砦、さらに奥の塔(高尾やすらぎ霊園)が建つ辺りが初沢城跡

松木丸跡からの眺望(拡大版)

ちなみに廿里砦はまだ八王子城が無かった頃の対武田の最前線であり、永禄12(1569)年に武田信玄が小田原城を攻めるため岩殿城の小山田信茂を先発させた際、甲軍が小仏峠(こぼとけ・とうげ)を過ぎたところ[k]現在のJR高尾駅付近。で横地監物(よこち・けんもつ)や中山勘解由、布施出羽守らによる迎撃を受けたと伝わる古戦場でもある。小山田はこの迎撃を難なく突破し、信玄率いる本隊と合流して滝山城攻めに入った。
のちに北條氏は、この時の「借り」を三増峠で返すことになる。

こちらは展望エリアから東京スカイツリーや横浜みなとみらいのランドマークタワーの眺め:

松木丸跡からの眺めで、この日の八王子城は晴れで気温9.4℃、北西の風6kphだった

東京スカイツリー(拡大版)

松木丸跡からの眺めで、この日の八王子城は晴れで気温9.4℃、北西の風6kphだった

横浜ランドマークタワー(拡大版)

この後は要害地区を下山して管理棟へ。帰りは柵門台をぬけたあとは新道を使って中腹にある金子丸(金子曲輪)跡を経由した。この郭は氏照の家臣・金子三郎左衛門家重が守備していたと伝わる:

これが一般的な八王子城の登城道(登山道)である

新道

金子三郎右衛門家重が守備した段郭の最上段である

金子丸跡

この郭から下は尾根をひな壇状に削平し段郭を堀切を設けずに連ねることで敵の侵入を困難にしていたと云う。そういうこともあり新道は意外と登りづらい:

金子丸の下にある尾根筋をひな壇状に削平した小さい郭が連続する

段郭跡

金子丸の下にある尾根筋をひな壇状に削平した小さい郭が連続する

段郭跡

麓の近藤丸(近藤曲輪)跡に建つ鳥居に到着した:

八王子神社または御岳神社の鳥居

虎口跡に建つ鳥居

この鳥居が建つ場所は虎口であったようで、その脇には石垣が残っていた:

鳥居脇に残る石積み

虎口石垣

鳥居脇に残る石積み

虎口石垣

そして新道と旧道との分岐点を経由して「八王子城跡自然公園」の登城口から山下丸(山下曲輪)跡へ回りこんで管理棟へ:

左手が駐車場方面、右手が管理棟方面で、正面に城址の地形模型がある

山下丸跡

以上で詰城攻めは終了。管理棟に立ち寄ったあと、前回見落とした台風によって新たに出現した戦国時代の遺構を見て氏照公の墓所へ。

北條陸奥守氏照公墓所と宗閑寺

氏照公の墓所は五年前にも訪問したが、今回は再訪と併せて菩提寺である宗閑寺(そうかんじ)にも足を運んだ[l]このお寺の目の前に近くに高尾駅行きのバス停「八王子霊園南門」がある。

こちらが墓所と菩提寺を巡った経路と実際のGPSアクティビティのトレース結果。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は1.62㎞、所要時間は36分(うち移動時間は22分)ほどだった。ホント城跡からすぐである:

昼2:30〜昼15:00までの間、移動は全て徒歩で城跡を出て墓所と宗関寺までの片道

My GPS Activity

城跡と宗閑寺との間は現在は宅地化されてしまっているが往時の根小屋(ねごや)地区にあたり、実際に遺構が残っているわけではないが、城主・氏照公の墓所の他にも出丸跡や家臣らの屋敷跡などがある:

八王子城跡 → (山下丸) → 出丸跡 → 丸馬出跡 → (中山勘解由屋敷跡) → 北條氏照公墓所 → (旧宗閑寺跡) → (横地監物屋敷跡) → 宗閑寺


城跡を出て駐車場を過ぎ、ガイダンス施設殿間にある広場(?)は出丸跡。奥にある土居は山下丸(山下曲輪)跡:

城址駐車場とガイダンス施設の間にある用途が不明な広場

出丸跡

ガイダンス施設を過ぎたところに高尾駅前行きのバス停「八王子城跡」があるが、こちらは丸馬出跡:

西東京バスの「八王子城跡」バス停

丸馬出跡

そのまま進むと「八王子城主・北条氏照の墓」の案内板が見えてくる。なお、この案内板の背後が位置的に中山勘解由の屋敷跡:

遠くに見えるのが八王子城跡、裏の杜が中山勘解由の屋敷跡

「八王子城主・北條氏照の墓」の案内板

この案内板に向かって右手の路地を道なりに進んでいくと氏照公墓所の高台が見えてくる:

左手の階段を登ると墓所、この先は旧・宗閑寺跡(私有地)

「北条氏照及び家臣墓」の案内板

この階段はとても長い(五年前も同じ感想だったことを登りながら思い出した)

墓所入口

意外と長い階段を登った先が氏照公の供養塔と家臣らの墓所である。公の墓所は他に小田原市内にある:

氏照公と家臣らは杜に囲まれた高台で静かに眠っていた

墓所全景(都指定旧跡)

供養塔は、重臣・中山勘解由家範(なかやま・かげゆ・いえのり)の孫で水戸藩家老の中山信治(なかやま・のぶはる)が氏照公百回忌の追善供養のために建てた供養塔である。この脇には祖父・家範と自分の墓が並ぶ:

供養塔を挟むように両脇には中山勘解由と中山信治の墓が建つ

氏照公供養塔

供養塔の背面に刻まれた文字

「北條陸奥守氏照公」

北條氏照は北條氏康の三男で生年は不明で諸説ある。菩提寺の宗閑寺には享年49の記録があり、逆算すると天文11(1542)年生まれが有力となる。幼名は藤菊丸(ふじぎくまる)、元服して仮名を源三、ついで受領名の陸奥守を称した。武蔵国の国衆で関東管領・扇谷上杉氏の重臣であった大石綱周(おおいし・つなかね)に養子入りして浄福寺城[m]築城当時は油井城(ゆい・じょう)。で大石家の家督を継いだ。名字は最初は大石を称したが、永禄11(1568)年から北條に復す。
この頃から古河公方の取次や下総国栗橋城、下野国小山城、同・藤岡城などを管轄する。以後、管轄を広げ、その領域の広大さから氏康亡き後の北條家を支える重要な役割を担っていたと云う。

永禄10(1563)年には新たに築いた滝山城に居城を移し、越後の上杉謙信との攻防に対応した。この滝山城が『風林火山』に蹂躙されたのち、天正8(1580)年から二年の歳月をかけて八王子城を築いて居城を移した。この時から甲斐武田氏との攻防戦に変わる。

天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置では居城である八王子城には妻[n]養父・大石綱周の娘。名は「お豊」とも「比左」とも。実子は女子一人。男子が居なかったので兄・氏政の子二人を養子とする。と重臣を残し、自らは本城である小田原城に籠城する。八王子城が陥落すると当主・氏直が秀吉に降伏し、主戦派として責任を追求されて兄の氏政と共に切腹する。

氏照公の供養塔の背後には家臣の墓があった:

死してなお主人の側に仕える坂東武者の魂が静かに眠る

家臣の墓所

墓所をあとにして宗閑寺に向かうが、墓所の近くには旧宗閑寺跡があるが、周囲は私有地なので立入りはできない:

正式名は牛頭山寺(ごずさんじ)跡で、私有地のため立入禁止

旧・宗閑寺跡

再び城跡前の通りに出て東へ進んだ左手の空き地が横地監物吉信(よこち・けんもつ・よしのぶ)の屋敷跡。氏照公の重臣の一人であり八王子城代。八王子城合戦では主人の代わりに秀吉の北国勢を本丸で迎撃した。落城後に奥多摩に逃れ深傷のため自刃した:

氏照の重臣の一人で城代として本丸に篭って豊臣軍を迎撃した

横地監物館跡

ここからしばらく歩いた左手に曹洞宗・宗閑寺がある。すこし道路より高い土居上に建っていた:

旧宗閑寺跡から明治時代に現在の場所に移ってきた

曹洞宗・宗閑寺

本堂の屋根の棟には北條家の家紋「三ッ鱗紋」があしらわれていた:

北條氏照公の菩提を弔っている

本堂

境内にある鐘楼。ここにある胴造りの梵鐘は、氏照公の供養塔を建立した中山信治が時期を同じくして八王子城の戦死者の追善供養のために鋳造寄進したもの(八王子市指定有形文化財):

宗閑寺銅造梵鐘がかけられていた

鐘楼

家臣の孫が八王子城の戦没者の追善供養のために鋳造・寄進したもの

宗閑寺銅造梵鐘

以上で北條氏照公墓所と宗閑寺の訪問は終了。

五年前に初めて城攻めした時は、これだけの規模とは予想すらしておらず、今回は改めての関東屈指の山城として見所(攻め所)の多さに驚いた。しかし『西高東低』な国内の城郭[o]名前が有名だったり、石垣を多用したり、綺麗な天守閣があったりなどいろいろな意味で。にあって五代で滅亡となったが小田原北條氏を弱小大名と一言で言い切ることはできないそんな奥深さを感じさせてくれた山城だった =)

最後は「八王子城跡自然公園」の登城口に建っていた注意書き:

「十分な装備での登山を」

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【参考情報】

 

参照

参照
a 初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。
b 母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。
c 天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。
d 旧道、あるいは大手山道とも。要するに八王子城跡自然公園の登城道ではない方。
e 当時は、てっきり登城道には入れないと思って予定を変更してしまったが、実は登山道そのものは大して問題なかったようだ。
f 現地に行ってみないと状況が分からないのも問題。市のホームページなどで情報を共有できるようにてもらいたいものだ。
g 旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。
h これに松井田城・大道寺政繁や鉢形城・北條氏邦ら降伏した北條勢が加わり、先手として城攻めに参陣したと云う。
i 縦方向に掘った井戸のこと。深さは6mで底には丸太が置かれ、その上に石積で壁を作っている。
j 読みは「しろわり」。城郭を壊すこと。
k 現在のJR高尾駅付近。
l このお寺の目の前に近くに高尾駅行きのバス停「八王子霊園南門」がある。
m 築城当時は油井城(ゆい・じょう)。
n 養父・大石綱周の娘。名は「お豊」とも「比左」とも。実子は女子一人。男子が居なかったので兄・氏政の子二人を養子とする。
o 名前が有名だったり、石垣を多用したり、綺麗な天守閣があったりなどいろいろな意味で。