八王子城の大手道から「新しい」曳橋ごしに眺めた御主殿虎口

東京都八王子市元八王子町にある八王子城は小田原北條氏康の三男・氏照[a]兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。が築いた関東でも屈指の山城であり、本城である小田原城に対して北條氏最大の支城である。築城は天正10(1582)年頃から始まり、五年後の天正15(1587)年には滝山城から居城が移された。往時、最新の技術を駆使して築かれた城は織田信長が築いた安土城を参考にしたともされ、従来の「土の城[b]北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。」から石垣を多用し、尾根筋には堀切は設けずに段郭を連続させて「高低差」による備えを採用した[c]滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。。城域は深沢山[d]現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。を中心として、その尾根や谷に築いた多数の郭からなる要害地区、山腹に御主殿を建てた居館地区、城山川に沿って麓に形成された城下町の根小屋(ねごや)地区で構成されていた。また深沢山山頂には本丸が置かれていた他に、尾根筋の西端にあって本丸よりも高い場所[e]標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。には詰城(つめのしろ)が築かれ、天守に相当する物見櫓が建っていた。さらに城下町から城山川対岸の尾根筋には太鼓丸(太鼓曲輪)を築いて、根小屋地区を囲む惣構としていた。なお八王子城の詰城は、天正18(1590)年に関白秀吉が派遣した軍勢[f]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。に備えて急遽増築した郭であるが落城した時点でも未完成だった。

昨年は令和元(2019)年師走の週末に五年ぶりの八王子城攻めへ[g]ちなみに、つい先日の大坂城攻めも五年ぶり。。今回は、前回の城攻めで見落とした詰城跡とその周辺、そして最近「八王子城跡オフィシャルガイドの会」なるページで初めてその存在を知った太鼓丸跡も追加で巡ることにした。また前回は老朽化のため渡ることができなかった曳橋(ひきはし)が一昨年の平成28(2016)年に架け替え完了したということで、同じく前回は状態が「荒れている」とのことで敬遠した古道[h]旧道、あるいは大手山道とも。要するに八王子城跡自然公園の登城道ではない方。を利用すること、さらには御主殿跡と松木曲輪跡の間あたりにある四群石垣など、いろいろと古くなっている自らの情報を「アップデート」する意味でも是非とも再訪したかったと云う次第。また、ここ最近は小田原北條氏の一族像が改められたりしていることもあり[i]特にKOEI作のゲーム『信長の野望』シリーズでは北條家の武将らの見直しがあったようで、いろいろと能力がアップしていたりする :-) 、こちらも再訪になるが北條陸奥守氏照公墓所や近くにある菩提寺にも足を運んでみることにした。

ということで見所が多いため今回の城攻めは二回に分けて攻めることに し、当初はまず「詰城跡を含む要害地区+御主殿跡」を、次に「太鼓丸跡+北條氏照公墓所+菩提寺」を巡る予定だった。ただし太鼓丸跡へ向かうルートが不明だったので、最初の城攻めが終わったら管理棟に立ち寄って聞くことにした。あと前回はマイカーで移動したが今回は公共機関を利用した。
しかし現地にいざ着いてみると「大どんでん返し」が待ち受けていた… :O

ここ八王子城跡の最寄り駅は高尾駅[j]JR中央線と京王高尾線が乗り入れしている。で、駅北口にあるバス乗り場①から京王・西東京バス・城01・八王子城跡行に乗車して終点の八王子城跡停留場で下車する[k]ちなみにバス停は丸馬出跡。片道大人189円(当時/IC料金)。。そこから管理棟までは徒歩5分ほど。途中にガイダンス施設があるが五年前に訪問済なので通過した:

正面奥の建物が管理棟、右手奥が八王子城跡自然公園の登山道入口方面

史跡 八王子城跡と管理棟

管理棟と山下丸(山下曲輪)跡との間にある脇道を進んでいくと八王子城の要害地区(現在は八王子城跡自然公園)へ向かう登山口があるのだが、なんと予想外の通行止めに遭遇した:

実は右手の山下丸跡から回り込んで行くことは可能だった

登山道入口方面は「通行禁止」

何も説明なく「通行禁止」の立て札と柵が建っていた ;(。全くなんだかなぁ。これで到着するやいなや詰城跡は勿論のこと、要害地区さえも攻めることができなくなってしまった。なんか四年前の白河小峰城攻めを思い出してしまったよ :(。思えば先日は大雨だったので、何かしら不都合があるだろうとは予想していたのだが、ホントこういった情報をリアルタイムで共有できない仕組みってなんなんだろうと思うねぇ :$
まぁ愚痴ってもなんなので予定を変更し、今回は御主殿跡を中心に曳橋と四群石垣を巡ってくることにした :|

で、これは御主殿跡を攻めたあと管理棟前にいたボランティアの方に聞いた話ではあるが、この通行禁止は鳥居が建つ登山口の手前にある石橋が先日の大雨で地盤が緩み崩落してしまったことによるものらしい。但し、登山口自体は問題ないので、ここから回りこんだ先に張ってある通行止のロープを強引に跨いで行くことは可能とのことだった[l]実際に多くの登山者はそのようにして登山口へ向かっていた。崩落部と登山口が接近しているので原則的には立入禁止にしているのだが、個人の責任の範疇であればロープを跨いで行くことには目をつぶるのだとか。全く良くわからん :-( 。そして週明けには工事が始まり、次の週末には通行できるようになるらしいとのことだった[m]しかし次の週末も来てみたが工事は始まっておらず、通行禁止のままだったけどねぇ  👿 。加えて太鼓丸跡への行き方も教えてもらえた:)


こちらは山下丸跡に置かれていた八王子城の地形模型(右手が北):

山下丸跡に展示されていたジオラマで、中央の尾根筋が要害地区、左手の尾根が太鼓丸跡、その間には御主殿と根小屋地区がある

八王子城全景(拡大版)

正面中央にある深沢山の山頂付近が八王子城の本城(本丸や詰城)にあたる要害地区、その麓には御主殿が建つ居館地区、それと城山川を挟んで左手にある尾根筋が太鼓丸で、手前に向かって流れる城山川に沿って城下町が造られた根小屋地区となる。

そして、この模型を参考に今回攻めてきた御主殿跡(水色破線)と太鼓丸跡(緑色破線)の位置関係をGoogle Earth 3D上に重畳させたものがこちら:

青地白抜字で示した場所が八王子城攻め1日目に巡ってきたエリア

八王子城跡(Google Earth 3Dより)

二回に分けて巡ってきた郭跡や寺院などを含む主要な場所についてはで示してみた。あと八王子城の支城にあたるとされる城跡への方角も追記してみた。

こちらは今回の城攻め経路と実際のGPSアクティビティのトレース結果。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は5.99㎞、所要時間は3時間22分(うち移動時間は1時間41分)ほどだった:

朝10:30〜昼14:00までの間、移動は全て徒歩で御主殿跡→太鼓丸跡(第2から第5堀切へ、最後は片堀切と第1堀切)

My GPS Activity

そして、予定を変更した今回のルートがこちら。太鼓丸跡の入口については御主殿跡から一度管理棟へ戻り、そこでボランティアの方に直接聞いて教えていただいた[n]わざわざ入口前まで一緒についてきてもらった。感謝。。こちらは曳橋へ向かう途中に復元された竪堀跡に沿って登って行くと尾根上に行けるとのことだった:

管理棟 → 八王子城跡自然公園入口手前 → アンダ丸(曲輪)跡の石積み → 大手の門跡 → (竪堀跡)→ 曳橋 → 御主殿虎口・櫓門跡 → 御主殿跡 → 御主殿南側の郭跡 → 石切り場跡 → (御主殿跡)→ 御主殿の滝 →(管理棟)→ 竪堀跡 → 太鼓丸跡第2堀切 → 同第3堀切 → 同第4堀切 → 同第5堀切 → 同第1堀切 → (竪堀跡)→ 管理棟


曳橋と御主殿跡

突然の予定変更で、ひとまず管理棟前から城山林道を通って御主殿跡へ向かった。まぁ、この時点で行ける所というと御主殿跡くらいしか無かったのだが:

予定を変更して大手門から古道、そして御主殿跡の周辺を攻めてきた

「古道・御主殿跡」の案内板

城山川に沿って林道を進み、右手上にあるアンダ丸(アンダ曲輪)跡を見上げると石積みが残っていた。「アンダ」とは阿弥陀がなまったもので現在は観音堂や石仏が建っている:

この郭は私有地のため原則的には立入り不可である

アンダ丸の石積み

これも大雨などの自然災害によるものだろうか

林道脇に崩落した石積みの一部

それから城山川に架かる人道橋を渡って大手の門跡へ向かう。ここからは大手道(古道)に架かる木橋と竪堀を眺めることができる:

木橋の奥が太鼓丸跡で、この竪堀は太鼓丸から落ち込んできたもの

大手口から古道に架かる木橋と竪堀

ここが大手の門跡。昭和の時代の調査で礎石や敷石などが発掘され、いわゆる薬医門形式の門が建っていたとされている:

昭和の時代の発掘調査で、この辺りに門が建っていたことが判明した

大手の門跡

昭和の時代の調査では門の礎石や敷石などが発見された

発掘状況(門跡の裏から)

太鼓丸側から落ち込んできた竪堀に架かる木橋を渡ると、御主殿に入る大手道として使われた古道となる。なお現在の城山林道は江戸時代に造られた:

戦国時代まで御主殿へ入る道として使われていた

古道(大手道)

往時、大手道を御主殿方面へ向かって進んでいくと、右手対岸には城山の稜線にそって階段上に連なる多くの郭や櫓などの建物を見渡すことができたと云う。

反対に左手の太鼓丸方面からは経年によって規模が小さくなってしまった竪堀を見ることができた:

太鼓丸から落ち込んできた堀は経年によって規模が小さくなっていた

竪堀跡

さらに進んでいくと御主殿跡へ渡るため城山川に架けられた曳橋(ひきはし)が見えてきた:

実際は橋台部のみ現存なので、どのような橋であったかは不明である

曳橋(復元)

五年前に来た時は老朽化のため架け直しするかどうかも決まっていなかったが、一昨年の平成28(2016)年に架け直しが完了していたたらしい。ちなみに廃城後に残っていたのは橋台部分だけであり、どのような橋が架けられていたかは不明である。従って、現在の橋は当時の面影を再現するために造られたものである。さらには「曳橋」という名称も江戸時代後期に編纂された古文書の記載からであり、廃城前の正確な名称は不明である。

この曳橋の背後には巨大な竪堀が見られるが、これが太鼓丸の大堀切(第三堀切)である:

この上にある太鼓丸から巨大な堀切が竪堀に変化して曳橋の背後にまで落ち込んでいた

太鼓丸の第三堀切(拡大版)

新しくなった曳橋を渡って、その先に見える御主殿跡へ向かう:

この下を流れる城山川の対岸に見える石垣部分が御主殿虎口と櫓門跡となる

曳橋上から眺めた御主殿跡(拡大版)

本来は、ここには曳橋は架けられていない為、両脇の石垣は想定復元

御主殿側

現在、曳橋は御主殿側をずらして架けられているが、虎口にある橋台部分で石垣が崩れた部分は新たに補強して想定復元しているのだとか。

そして、こちらが御主殿側の本来の虎口跡:

現在の曳橋は御主殿側が本来の虎口からズレて架けられていた

本来の虎口

現在の曳橋は御主殿側が本来の虎口からズレて架けられていた

手前が本来の虎口

御主殿虎口の対岸で架け直された曳橋は橋台部分もコンクリート製であったが、その脇には往時の礎石などが残っていた:

城山川の両岸の斜面には橋を架けるための橋台石垣が残っていた

虎口対岸の橋台石垣

往時はこの上に簡素な木橋を架け、緊急時に橋を壊して侵入を防いだ

虎口対岸の橋台石垣

曳橋で対岸に渡ったあとは虎口を通って御主殿跡へ。この場所から御主殿内部までの高低差は約9mで、その間をコの字形に折り曲げて階段通路にしているのが特徴:

往時、手前とこの階段の最上階との間で「コの字」形に折れ曲がった階段式の通路の途中には櫓門が建っていた

御主殿虎口の階段通路

虎口の踊り場からは礎石(そせき)が4つ発見された。これらの礎石の規模から想定される建物は物見や指揮所として使われた堅牢な櫓門であった可能性があるとのこと:

虎口の踊り場から櫓門規模の礎石が発掘された

櫓門跡

この石を含め虎口にある大部分の石は全て現存である

櫓門の礎石(現存)

礎石の脇には排水用の石組側溝(いしぐみ・そっこう)もあった。なお礎石を含め、階段通路上にある大部分の石は現存であり、埋没保存はしていないとのことだった。

階段通路の最上段から見下ろした櫓門跡。はっきりと礎石の位置が分かる:

階段通路の最上段から振り返って見た櫓門跡の礎石の間は東西約4.5m、南北約3.6mあり、櫓門規模であったと云う

櫓門跡(拡大版)

そして御主殿の入口に建つ冠木門。これは雰囲気を出すための模擬門である:

御主殿の前面に復元された門

冠木門(模擬)

御主殿は高い土居で囲まれていたが、その上から虎口・曳橋を見下ろしたところ。ここからだと曳橋がズレで架けられているのがよく分かる:

石造りの虎口から御主殿までの高低差は約9mで、虎口もすごいが、この土居もすごい

御主殿跡から見下ろした虎口

御主殿を防御するコの字型をした特徴的な虎口である

御主殿跡から見下ろした虎口(コメント付き)

これは五年前に攻めた時にはまだ無かった「御主殿跡の整備」と題した御主殿遺構の分布図:

往時の御主殿は規模や豪華さでも京に負けず劣らずのものであり、舶来品も出土したという

御主殿跡の整備(拡大版)

御主殿跡は八王子城主・北條陸奥守氏照の居館跡であり、発掘調査の結果からは戦国時代にしてはかなり大型で豪華な建物群であったようだ。こちらの遺構は埋没保存され、その上に建物礎石や庭石、通路の敷石、側溝などが忠実に復元されているとのことであったが、先日の大雨の被害をもろ被っていた :O

遠目でみる限りではそれ程の被害に見えなかったのだが:

御主殿跡から本丸などがある本城方面を見上げたところで、先日の大雨の被害は大したことがないように見えたが…

御主殿跡から要害方面(拡大版)

少し遺構に近寄ってみると結構な被害であった:

令和元年の暮れ、関東地方に甚大な被害をもたらした

大雨の被害

台風や大雨により土石流が発生し四群石垣あたりから崩落していた

大雨の被害

礎石建物跡もこのような有様:

こちらも本城と同様、災害により部分的に立入り制限され、復元遺構も一部が崩れていた

礎石建物跡(拡大版)

このような状態を見たあとになんとなく嫌な予感がしたのだが、案の定、四群石垣への入口も通行禁止になっていた ;(

あとで聞いた話では一部の石垣が崩れてしまっているのだとか

四群石垣の入口は通行止め

会所と呼ばれる建物跡の奥(御主殿跡南側)には石切場だった細長い郭跡があるが、こちらへは運良く立ち入ることができた:

分かりづらい場所にあるが「マムシ注意」辺りが堀切である

御主殿跡南側の郭の入口

石切場跡は五年前に攻めた時はその存在さえも知らなかったが、今回は素晴らしい精密ルートマップを事前に用意しておいたおかげて、この後に攻める太鼓丸跡とともに貴重な遺構を見落とすことなく、そして道にも迷うこともなく巡ってくることができた 8)

石切場入口あたりは堀切跡で、藪をかき分けて中へ足を踏み入ると若干整備された細長い郭があり、この先に竪堀と石積遺構があった:

この右手奥にも小さい郭跡があった

御主殿跡南側の郭

石積み遺構。この上に石切場があったことから、散乱している石はそこから崩落したものと推測する:

往時、右手上には石切場があったと云われ、このあたりに散乱する石は石切場から崩落したものと思われる

石積み遺構(拡大版)

片側は一部が崩落していたが、反対側へ回ると綺麗な状態の石積み遺構であった:

良好な状態で残っていた

石積み遺構

この上の石切場から崩落した石が積まれた状態だった

石積み遺構

こちらは石積み遺構から見上げた石切り場跡:

石積み遺構の上には石切場や石敷窪地がある

石切場跡

そして石積み遺構のすぐ先には竪堀が残っていた:

石切場跡から城山川へ向かって落ち込んでいた竪堀

竪堀

藪化が激しかったが綺麗に残っていた

竪堀(コメント付き)

このあとは御主殿跡を経由して御主殿の滝へ。その際に降りた坂にも石積みが残っていた:

この坂の脇にも石積み遺構が残っていた

御主殿跡から降りる坂

御主殿の滝は、落城時に御主殿にいた北條方の武将や婦女子らが滝の上で自刃して、次々に身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる悲しい場所である。

この滝の脇には櫓台跡のような土居があり、ここにも石垣が残っていた:

左手に御主殿の滝と城山川が流れている

御主殿の滝の脇の櫓台跡

左手に御主殿の滝と城山川が流れている

櫓台跡

櫓台跡を回りこんだ先に御主殿の滝があり:

この下にも傾斜の緩い滝があるので合計三段の滝だった

御主殿の滝

その水は城山川となって大手道に方面に流れていた。経年堆積によって、440年以上前の落城時とは深さがだいぶ異なっているようだが:

この先に曳橋や大手道がある

城山川

この滝へ降りたたところから櫓台を見上げると見事な石垣が残っていた:

滝の脇にある櫓台とおぼしき土居の周囲に残る野面積みの石垣

櫓台跡に残る石垣

野面積みで荒々しく積み上げられた石垣は、その強度を保つために下の方で顎石と呼ばれる前に突き出された石があった:

石垣の強度を保つため下側の石を手前に突き出していた

石垣の下部に顎石

また、既に紹介したとおり令和元(2019)年10月の台風19号の被害は城跡にも大きな爪あとを残し、その被害について八王子城跡オフィシャルガイドの会のホームページでも詳しく紹介されているが、この時の濁流が土手を洗い流してくれたおかげで逆に思わぬ遺構が出現したのだと云う。

それが御主殿の滝近くにあった「L字型石垣遺構」と呼ばれているもので、それまで隠れていた石垣が出現した。これにより、このあたりは石垣で囲まれていたのでは?と云う説が確定になっただそうだ:

正面の石は台風19号の雨に流されて出現したものらしい

「L字型石垣遺構」

濁流により洗い流された結果、隅角石から隠れていた石垣が出現した

新たな石垣

このあとは太鼓丸跡への入口を探しに追分(おいわけ)と呼ばれるところまで歩いてみたが標識などは見つからず。こちらも一部は台風の爪痕が残っていた。ということで御主殿跡の再訪はここで終了。残念だが要害地区の本丸跡方面には登れないようなので管理棟へ戻り、太鼓丸跡について情報を収集してから帰宅することにした。

管理棟に行くとボランティアの方が一人おられたので、まずは登山道入口の通行禁止について聞いてみた。冒頭に紹介したとおり、通行禁止は管理棟から登山道入口の間にある石橋が崩れた箇所だけだだそうで、この橋を迂回すると登山入口には行けるとのことだった。ただし要害地区にあたる登山道でも崩落がいくつか確認されているのだそうで、安全上オススメしていないとのことだった :|。実際に迂回していってみると確かにすごい被害だった:

台風や大雨で増水した城山川上流の水によって崩落したのだとか

登山道入口前で崩落した石橋

次に太鼓丸跡について聞いてみると、なんと入口は大手門跡の先にある竪堀だそうで、わざわざ一緒についてきて教えてくれた。これには感謝 :)。太鼓丸跡はさすがに整備の手が届かないらしく荒れ放題のため、あくまでも正しい装備を用意した個人の責任の下で散策してもらうという意図で案内図等には掲載していないとのこと。ただ整備されていないから遺構としては良好に残っているのだと云う。

ということで、このあとは教えて頂いた竪堀跡から登って太鼓丸跡を攻めることにした。

太鼓丸(太鼓曲輪)跡

この日は予定の変更が重なったが、お目当ての太鼓丸跡への入口が判明したので先送りしていた予定を前倒しして、八王子城の南側の尾根上に残る五つの大堀切を巡ることにした。

こちらは管理棟前に建っていた「八王子城跡主要城郭周辺陰陽図」に加筆したもの。赤線矢印が太鼓丸跡へ登る入口:

御主殿跡と城山川を挟んで南側の尾根上に築かれた外郭部には五つの大堀切が良好な状態で残っているらしい

八王子城跡主要城郭周辺陰陽図(加筆あり)

原則的に整備はされていないとのことだったが、一般的なトレッキングコースにもなっているようなので尾根筋を普通に歩いて行くことができた。もちろん急斜面や急崖が一部にあるが標柱やロープ場があるので想像していたほど険しくはなかったと思う。但し、本当に大きく深い堀切が連続し、昇り降りが激しいため登山系の準備は必須である。

山下丸跡にあった模型でみるとこんな感じ。尾根筋に大きな堀切が五つあるのが分かる(右手が北方向):

山下丸跡の「八王子城全景」より

太鼓丸跡(拡大版)

本来は太鼓丸跡へ上がる入口は数カ所あるようだが、御主殿の滝を見たあとに更に南下したところにある「追分」手前から登るルートは、当時は大雨で崩落していて登るのは危険と判断した。もう一つはボランティアの方に教えてもらった大手門跡先にある竪堀跡から登るルートである:

この竪堀跡の堀底道を右手上に登るルートを教えてもらった

大手門跡近くの竪堀からのルート

こちらが太鼓丸跡へ登る入口。木橋の脇から竪堀跡に沿って尾根上を目指してひたすら登る:

橋の脇から竪堀跡に沿って藪をかき分けつつひたすら登る

太鼓丸跡入口

斜面を見上げるとこんな感じ。尾根上までは40m近く登る必要ある。尾根上近くにはロープ場もあった:

急斜面を40m近く登ることになる (尾根上が近くなるとロープ場あり)

見上げたところ

こちらは振り返って竪堀跡とその下の木橋を見下ろしたところ:

尾根上近くになって振り返って堀切下の木橋を見下ろしたところ

見下ろしたところ(拡大版)

尾根上へ登りきったところには登山道であることを示す赤いリボンがある。太鼓丸跡から降りる際の目印にもなるのでしっかりと覚えておく:

登山道で迷わないように付けられた赤いリボンは下山時にも役に立つ

尾根上あたりにある目印

このルートで登り上がった場所は一番北の第一堀切とその南にある第二堀切の間くらいである:

この標示に向かって左が第一堀切方目、右手が第二堀切方面

「太鼓曲輪尾根」の標示

まずは第二堀切がある尾根筋南へ向かう:

太鼓丸跡の尾根筋を南へ向かうと第二堀切がある

第二堀切へ

藪化して分かりづらいが太鼓丸跡の尾根道の両側は急崖である:

尾根筋だけあって両側は急崖である

尾根道(左手)

こちら側は御主殿・城山川方面

尾根道(右手)

なお、太鼓丸跡に残る堀切のそれぞれの規模については八王子城跡オフィシャルガイドの会のホームページにある「八王子城の解明のこころみ」の堀切のスケールの描出が詳しい。本稿ではそれらの値を引用した。

しばらく南下していくと第二堀切が見えてくる。この堀切は第四堀切とならんで小ぶりらしいが、尾根上からのぞき込むと結構な深さであった:

尾根上からの深さは最大で11m

第二堀切(左)

尾根を構成する岩盤を刳り貫いた(くりぬいた)堀切である

第二堀切(中)

堀底の形状は「J字型」、堀幅は最大で15m

第二堀切(右)

尾根上からの深さは最長で11m、堀幅は15m。尾根を構成する岩盤を刳りぬいて(くりぬいて)造られているとのこと:

なり埋まってしまっているが、それでもかなりの深さである

第二堀切の堀底(北側)

堀底北側から藪の合間を見下ろしてみると古道こと大手道がわずかに見えた:

堀底の端から太鼓丸の北側にある大手道を見下ろしたところ

第二堀切から見下ろした大手道

堀底の形状は「J字型」だそうだ:

堀底には花崗岩のように硬い石が散乱していた

第二堀切の堀底(南側)

そして再び尾根に上がり第三堀切へ向かう。なかなかの急斜面でロープ場が設けられ、岩盤を刳り貫いた際の石積みが残っていた:

急斜面の場所にはロープ場が設けられていた

脇から尾根に上がる

土ではなく岩盤を刳り抜いて作った堀切だった

切岸に残る石積み

第三堀切へ続く尾根道:

この先には太鼓丸の堀切の中で最も規模の大きい第三堀切がある

第三堀切へ

「太鼓曲輪前衛中央尾根・第三堀切」の標示

標示

こちらが太鼓丸の中で最も規模が大きい第三堀切で、その北側は竪堀に変化して御主殿跡に渡る曳橋の背後まで落ち込んでいた:

尾根上からの深さは最大で15m

第三堀切(左)

刳り貫いた(くりぬいた)岩石は堀切下にある御主殿周辺の石垣となった

第三堀切(中)

堀底の形状は「J字型」、堀幅は最大で24m

第三堀切(右)

急崖を伝ってなんとか堀底に降りるとその巨大さに驚かされた:

刳り抜かれた空間は巨大で、ここで出た石は竪堀から落として城山川対岸の御主殿で使用されていたらしい

第三堀切の堀底(拡大版)

他の堀切と同様に硬い岩盤を刳り抜いて造られたようだが、その際に出た多くの石はこの下にある曳橋の橋台や御主殿周辺の石垣として使用されていたと考えられている:

この下が曳橋の背後で、その先の城山川対岸が御主殿跡となる

第三堀切から竪堀に変化する

巨大さにも驚いたが、ここまで良好な状態で440年以上も残っていたことにも驚かされた:

左手が第四堀切方面、右手が第二堀切方面で、深さは最大で15m、堀幅は最大で24mと太鼓丸の中で最も巨大な堀切

第三堀切の堀底南側から(パノラマ)

さらにキツイ急斜面を登って尾根上へ。登ってきた第三堀切を振り返ってその対岸を眺めたのがこちら:

奥に見えるのが第二堀切方面の尾根筋

第三堀切

堀切対岸の尾根筋を眺めたところ

第二堀切方面の尾根筋

第四堀切へ続く尾根道:

この先の櫓台跡を超えると第二堀切と並んで小ぶりな第四堀切がある

第四堀切へ

この尾根は今までより少し長かった:

この先には櫓台と思われる土壇が残っていた

長く細長い尾根筋

第四堀切手前には櫓台跡と思える土居が残っていた:

細長い尾根道を先には櫓台跡と思われる土壇が残っていた

櫓台跡

削平された土壇は櫓台として使われていた可能性がある

櫓台上

櫓台を過ぎた先に第四堀切があった。この堀切は第二堀切と並んで規模の小さいものらしいが、個人的には十分に大きいと感じた:

第二と並んで小ぶりな堀切

第四堀切(中)

堀幅は最大で13m、深さは最大で4mの規模なのだとか

第四堀切(右)

「V字型」の堀切の向こう側に見える尾根筋は少し低いところにあった:

堀切の先は手前の尾根筋よりも低い尾根が続いていた

第四堀切の先にある尾根筋

第五堀切へ続く尾根道:

この先には太鼓丸の堀切の中で二番目に規模が大きい第五堀切がある

第五堀切へ

こちらが尾根上から見下ろした第五堀切(動画):

この堀切も「V字型」のため尾根上からすぐに堀底を見下ろすことができる。そのため堀底に降りるには急崖を伝って行く必要があるが、その堀底はかなり良好な状態だった:

V字型の堀なので尾根上から堀底が鋭角で見下ろすことができた

尾根上

堀底に向かって鋭い角度で刳りぬかれたV字型だったようだが経年堆積でだいぶ丸くなっていた

第五堀切の堀底(拡大版)

第五堀切の先はさらに南に向かって尾根筋が続いていたが、このあとは第一堀切へ向かうため来た尾根道を戻ることにした:

トレッキングコースとしてはまだまだ続く

さらに南へ続く尾根筋

第二堀切を過ぎて、太鼓丸入口から登ってきたあたりまで戻ってきた:

第五堀切からUターンして第一堀切方面へ戻ってきた

「バス停宮の前」方面の標示

今度は尾根筋を北へ向かう。緩やかな上り坂を過ぎると小さな削平地が出現するが、これは陣屋跡とされている:

第二堀切と第一堀切の間にある小高い土居の上

陣屋跡

陣屋跡を降りたところに小さな堀切(片堀切)があった:

手前の陣屋跡に切岸を持つ小さな堀切

片堀切(切岸)

第一堀切へ続く尾根道:

この先には太鼓丸の堀切の中で一番北にある第一堀切がある

第一堀切へ

こちらが第一堀切。当時は堀底に倒木が多数あったため少し分かりづらいが「U字型」に削り取られた土の跡がくっきりと残っていた:

尾根上からの深さは最大で6m

第一堀切(左)

他の四つの堀切は比較的に離れた場所にある

第一堀切(中)

堀底の形状は「U字型」、堀幅は最大で13m

第一堀切(右)

堀切の向こうの切岸は思った以上に高く、倒木があったため堀底には降りることができなかった:

手前の尾根筋から見上げた位置にあり、倒木が酷いため渡れず

第一堀切の奥にある尾根道

以上で太鼓丸攻めは終了。

この日は予想外のことが多かったが、それでも気になっていた太鼓丸を攻めることができて良かった =)次回は要害地区や詰城跡を攻めたいので登山道入口前が復旧していることを願う。

八王子城精密ルートマップ

最後に五年ぶりの八王子城攻めということで、道に迷ったり遺構を見落とさないようにするために『巨大山城八王子城精密ルートマップ 2016年版』なるマップを購入して予習をしておいた。初めて使用したのは八王子城の支城である浄福寺城攻めであったけど、藪化している道でも目印となる指標などが記録されているため、かなり助かった:

支城も含まれていた

八王子城精密ルートマップ

目印となる指標が良い

A4サイズ4枚の地図

 

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【参考情報】

参照   [ + ]

a. 兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。
b. 北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。
c. 滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。
d. 現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。
e. 標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。
f. 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。
g. ちなみに、つい先日の大坂城攻めも五年ぶり。
h. 旧道、あるいは大手山道とも。要するに八王子城跡自然公園の登城道ではない方。
i. 特にKOEI作のゲーム『信長の野望』シリーズでは北條家の武将らの見直しがあったようで、いろいろと能力がアップしていたりする :-)
j. JR中央線と京王高尾線が乗り入れしている。
k. ちなみにバス停は丸馬出跡。片道大人189円(当時/IC料金)。
l. 実際に多くの登山者はそのようにして登山口へ向かっていた。崩落部と登山口が接近しているので原則的には立入禁止にしているのだが、個人の責任の範疇であればロープを跨いで行くことには目をつぶるのだとか。全く良くわからん :-(
m. しかし次の週末も来てみたが工事は始まっておらず、通行禁止のままだったけどねぇ  👿
n. わざわざ入口前まで一緒についてきてもらった。感謝。