室町時代に奥州管領[a]奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。を拝命していた奥州畠山(おうしゅう・はたけやま)氏は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)[b]南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。で将軍側についたが敗北し一族の多くが討死した中で、畠山国詮(はたけやま・くにあきら)が安達郡二本松(あだちぐん・にほんまつ)まで落ち延びて二本松畠山氏[c]二本松氏、または奥州畠山氏とも。の祖となった。彼の嫡子・満泰(みつやす)の代には白旗ヶ峰(しらはたがみね)の麓に居館を移し、これがのちに二本松城となる。その後は怨敵・伊達政宗に攻められて開城[d]二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。し、伊達氏による対蘆名・佐竹の拠点となったが、豊臣秀吉による奥州仕置ののちに蒲生氏郷の所領となり城代が置かれた。氏郷が急死したあと會津120万石に移封された上杉景勝が城代を置いていたが関ヶ原の戦いで敗戦後、蒲生氏・加藤氏が続き、一度は天領になるが白河藩より転封されて二本松藩を立藩した丹羽光重(にわ・みつしげ)[e]第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。の居城となった。氏郷の時代に改修された二本松城であるが、光重の時代にはさらに大改修が施され現在、福島県二本松市郭内3丁目の霞ヶ城公園(かすみがじょうこうえん)で見る近世城郭に生まれ変わった。しかし丹羽氏10代の居城は幕末の戊辰戦争で新政府軍を迎え撃つも僅か一日で落城した。
今となっては一昨々年(さきおととし)は平成28(2016)年の初夏の候、仕事の関係で一ヶ月ほど遅れてとった「黄金週間+α[f]代休などを追加して少し長めの休みにした。」を前半・後半に分けてそれぞれ城攻めツアーへ。前半は長野県は諏訪市と松本市にある城跡を攻めてきたが、後半は前年に続く「奥州攻め」と題して福島県の他に宮城県と山形県まで足を伸ばし城跡や勇将らゆかりの地を巡ってきた。あり難いことに後半の二泊三日はすべて晴天に恵まれた 。
まず初日の午前中は自身初の福島県二本松市へ。朝7時半過ぎに東京駅から新幹線やまびこ125号・仙台行きに乗って朝9時ちょっと前に郡山に到着。郡山からはJR東北本線・福島行きに乗り換えて朝10時前には二本松駅へ到着した。駅の外にあるコインロッカーに荷物を預け、昼飯を調達してから城攻めを開始した。
こちらは、駅から5分ほどのところの二本松神社前に建っていた「二本松御城郭全図」の一部(上が北方向):
この図から想像するに大手口跡の坂(現在の久保丁通)を登って丘を一つ越えた先に二本松城跡の霞ヶ城公園があるようだ。また二本松市観光協会の情報によると駅から公園入口までは徒歩で20分程とのこと。大手口跡や歴史資料館にも立ち寄りたかったので歩いて城跡まで行くことにした。
ここ二本松神社の御本宮は紀州熊野本宮だそうで、二本松初代藩主の丹羽光重が二本松の総鎮守[g]特定の地域や場所の守護神。として崇め、領民の参拝を許したとされる:
それから県道R355を東へ向かって「久保丁坂入口」交差点から二本松城の大手道にあたる久保丁(くぼちょう)坂を登る。すると大手門跡に残る石垣が見えてくる:
平成19(2007)年に国指定史蹟になった大手門跡。九代藩主・丹羽長富(にわ・ながとみ)によって奥州街道に面した久保丁口に築造され、その場所から「坂下門」とも呼ばれた二本松城大手門は、堀と石垣を備えた本格的な櫓門である。慶應4(1868)年の戊辰戦争で敗戦後に破却され、現在は「亀甲積み崩し」技法で積まれた石垣が残るのみである。
こちらは、この大手門跡に建っていた説明板の「史跡・二本松城跡」に描かれていた史跡指定範囲の位置図(加筆あり)で赤線部分が国指定史跡である:
大手門跡のすぐ側に市が運営する歴史資料館がある。二本松氏や二本松藩主丹羽家に関する史料の他に、二本松ゆかりの芸術家の作品や二本松堤灯祭りの太鼓台なんかも展示されていた。入場料は大人100円(当時):
また資料館の敷地内には、大手門よりも先に築かれ後年に大手門が新築されるまでその役割を果たしていた久保丁門の礎石と江戸にあった丹羽家上屋敷跡から出土した石材の一部が展示されていた:
久保丁坂と久保丁門跡:
少し長い坂を登り久保丁門が建っていたあたりが丘の頂上になるが、ここから二本松城跡の遠景を眺めることができた:
こちらは霞ヶ城公園に建っていた説明板の「史跡二本松城跡」に描かれていた公園案内図。園内は麓から白旗ヶ峰山頂まで遊歩道が整備されていた:
この案内図を参考に、Google Earth 3D 上に今回の城攻めルートと遺構(★)を重畳させたものがこちら:
白旗ヶ峰中腹から山頂にかけて、当時は東日本大震災の爪痕により遊歩道の一部が通行止めであったため少し遠回りすることになったが、一通り巡ってくることができた。あと晴天ではあったが山頂の本丸周辺は風が強くて肌寒かった:
(JR二本松駅) → (二本松神社) → (大手門跡) → (二本松市歴史資料館) → (久保丁門跡付近) → 二合田用水 → 三の丸高石垣 → (公園入口) → 千人溜 → 二本松少年隊像 → 箕輪門など → 三の丸枡形虎口 → 三の丸・下段 → 三の丸・上段 → 洗心亭 → (霞ヶ池) → 傘マツ → 空堀/堀切? → 二合田用水 → (安達太良山) → 新城館・少年隊の丘 → 搦手門他 → 本丸石垣 → 本丸枡形虎口 → 本丸 → 東と西の隅櫓 → 天守台 → 乙森 → 本丸北面の二段石垣 → とっくり井戸 → 本丸南面の大石垣 → 日影の井戸 → 煙硝蔵 → 蔵屋敷 → (煙硝蔵) → 二本松藩士自刃の地 → (三の丸) → ・・・ → (公園入口) → ・・・ → (JR二本松駅)
久保丁門が建っていた丘を降りて戒石銘碑(かいせきめい・ひ)[h]二本松藩5代藩主・丹羽高寛(にわ・たかひろ)が藩士の戒めとするためにお抱えの儒教者に命じて巨石に刻ませた訓戒だそうで。や城址の碑などを見ながら霞ヶ城公園入口へ向かう途中に見た、公園の外周に沿って残されていた石組水路の二合田用水(にごうだ・ようすい):
これは初代藩主・丹羽光重により城内と城下の防備にために敷設された「用水堀」のことで、城の西側に聳える安達太良山中腹を水源とする水を約18kmに渡って引いたもの。
公園の駐車場から見た三の丸高石垣と土塀。この高石垣は加藤嘉明・明成時代の築造で、盛土して積み上げた石垣のため暗渠が設けられていた。毎年秋に開催される菊人形では駐車場と三の丸跡が会場(有料)になるらしい:
霞ヶ城公園に入るとまず千人溜跡と戊辰戦争の悲劇を物語る二本松少年隊像[i]二本松市名誉市民である彫刻家橋本堅太郎氏の作品。がある:
そのまま城址の碑が建つ石段を登って行くと復興された箕輪門が見えてきた:
まず箕輪門に附けられた二重櫓が見えてくるが、往時の箕輪門は櫓門形式のためこのような櫓は存在しない[j]逆に、戊辰戦争時にこんな豪壮な櫓があったら1日で落城しなかったのでは!? :
初代藩主・丹羽光重が建てた箕輪門は城下にある箕輪村[k]現在の二本松市内。山王寺山の御神木の樫木を主材として使用したことが名前の由来で、戊辰戦争で焼失したが昭和57(1982)年に再建された。正面から見ると1/4ほど切り詰められた上に附櫓風に二重櫓(模擬)が建っていたため、だいぶ小さい櫓門の印象があった:
箕輪門をくぐって城内から振り返って見ると、一段と小さい櫓門として再建されていたのが分かる:
それから三の丸跡へ向かうと枡形虎口がある:
三の丸枡形虎口の石垣には二本松市指定のアカマツの古木群が立ち、いずれも樹齢350年を越え、樹冠が傘状を呈し長い枝を垂らしていた(四本松):
これは本稿冒頭で紹介した「二本松御城郭全図」の郭内部を拡大したもの:
こちらが三の丸。白旗ヶ山南山麓に置かれた二本松藩の政庁の中心部でり城主の御殿があった。枡形虎口から石段を登った先には塀重門(へいじゅうもん)と社中門(しゃちゅうもん)が土塀と連結して建ち、それらの門をくぐると御殿に立ち入ることができたと云う:
この三の丸は、寛永元(1630)年頃に蒲生氏に代わって會津に入封した加藤嘉明・明成父子が中世城郭から近世城郭へ改変したことにより上下二段に分割され、下段が藩庁や御殿、上段に藩主が住む御座所があったと云う:
三の丸・上段から眺めた霞ヶ池(かすみがいけ)と洗心亭(せんしんてい):
なお、公園案内図の三の丸周辺には「霞ヶ池」と「るり池」といった大きな池の他に小さい滝がいくつも描かれているが、『正保城絵図』や『諸国城之図』といった古絵図には描かれていない。詳細は不明だが、これらは寛永期(1624〜1645年)から明和期(1764〜1772年)にかけて整備されたとされる回遊式庭園[l]日本庭園の形式の一つで、大きな池を中心に配し、その周囲に歩道を巡らして各地の景勝を再現した庭園。の池や滝ではないかと推測する:
一方の洗心亭は、もともとは二本松藩主の御座所に隣接していた茶室の一つ「墨絵の御茶屋」で、天保8(1837)年の山崩れにより倒壊したものを阿武隈川の河川敷に移築再建していたもので、廃城後に霞ヶ城公園の現在の場所に移築して「洗心亭」を名づけたもの。城内唯一残る江戸時代の建築物として福島県指定重要文化財となった:
霞ヶ池の脇を通って城の搦手へ向かっていく途中には二本松市指定天然記念物の「霞ヶ城の傘マツ」なるアカマツの巨木があった。昭和51(1976)年で推定樹齢が300年と言われているので江戸時代あたりから生えていたものか。近くには同じく市指定天然記念物で推定樹齢が400年とも云われるイロハカエデが生えていた:
公園案内図の「見晴台」がある方向へ進んでいくと空堀跡のような遺構があった:
登城道を挟んだところには麓の公園入口にも流れていた二合田用水:
ここから公園の外に出たところ(標高293.6m)にある四阿が見晴台で、そこから二本松最古刹である曹洞宗・永松山龍泉寺の他、日本百名山の安達太良山をはじめとする安達太良連峰を眺めることができた:
このあとは公園の中に戻って山頂にある本丸を目指したが、一部の遊歩道が東日本大震災の復興作業のために通行禁止であったので少し遠回りで移動する必要があった:
こちらが新城館(しんじょうだて)跡。二本松氏の時代はここが本丸(本城)であったとされ、蒲生秀行・忠郷の時代には二の丸の相当する郭に館を建てて西城と呼ばれていた[m]往時は「西城」と「東城」の二つの郭があり、それぞれに城代が置かれていたと云う。。現在は少年隊の丘として整備されている他に、智恵子抄詩碑が建っていた:
発掘調査では掘立柱建物跡と共に大量の焼土と炭化した木材が発見されたことから、二本松氏は伊達氏との激しい攻防戦の末に降伏開城したが、その際に建物に火を付けて退去し、代わって入城した伊達勢がその後始末をして焼失した廃材を穴に埋めた結果であるとされている。
二本松氏の時代にも悲劇があったのはご存知の通り。二本松畠山氏はこの城を拠点として勢力を伸ばすも、周囲の蘆名氏・伊達氏・田村氏・相馬氏らに阻まれ逆に所領を奪われることになる。特に伊達政宗からの圧迫が強く、十五代当主の義継(よしつぐ)は政宗の父・輝宗(てるむね)を介して降伏を申し入れる振りをして逆に輝宗を拉致し二本松城へ連れ去ろうとするが、政宗らに追いつかれ輝宗もろとも射殺されたと云う[n]あるいは輝宗と刺し違えて死んだとも。。
そして堀底道風の遊歩道を登って行くと搦手門跡が見えてきた:
ここは蒲生氏・加藤氏、そして丹羽氏の時代を通して二本松城の搦手口であり搦手門が建っていた場所である。蒲生氏の時代は掘立柱の冠木門が建っていたとされ、現在残る遺構は加藤氏以後の石材を用いた高麗門の跡。他には門扉を立てたホゾ穴が見つかっており、門台石垣と門柱礎石も見ることができる:
加藤氏時代の門柱礎石:
反対側の石垣も一部残っていた:
搦手門跡の城内側にある石段を登ると白旗ヶ峰の山頂に築かれた本丸[o]蒲生氏郷が改修した当時は本丸のことを「本城」と呼んでいた。跡が見えてくる。この脇にあるのは城址の碑であるが「畠山氏」の名が彫られていた。これは昭和28(1953)年の本丸虎口の石垣修復工事で畠山氏の末裔である石工が施工したことが由来だとか:
本丸の南西側の高石垣。平成5(1993)年から二年の歳月をかけて[p]更に平成23(2011)年の東日本大震災で受けた被災の修復など。崩落を防ぐため全面修築・復元工事[q]「修築」とは現存している石垣を旧来の形状で積み直すこと。「復元」とは失われた石垣を時代性に考慮して新しい石材で積むこと。が行われた成果で、蒲生氏郷が近江国より連れてきた石工集団の穴太衆(あのうしゅう)の末裔の手によって実現したとのこと:
発掘調査を行う前までは現存は西側半分だけと考えられていたが、実際に調査してみると根石が本丸の全周囲に残されていることが判り、その形状が明らかとなった。また加藤嘉明・明成父子の時代に本丸を拡張した痕跡もあったと云う:
本丸北東隅にある天守台跡。実際に天守が建っていたと云う記録はなく詳細は不明である:
復元された寛永期に加藤氏が修築ないし拡張した際の石垣。これらの内部には慶長期の蒲生氏が初めて石垣を導入して穴太積み(あのう・づみ)した自然石または野面石(のづら・いし)と荒割石(あらわり・いし)が埋没保存されている[r]二本松城跡では、これを「旧石垣」と呼んでいる。:
こちらは本丸南側にある枡形虎口:
本丸石垣の西隅と東隅にはそれぞれ櫓が建っていたのことで、それらの櫓台石垣も復元されていた。こちらは枡形虎口の中からみた東櫓台:
復元された東櫓台の上から眺めた本丸内部。本丸北側には土塁が設けられていた:
そして本丸内部から北東隅に復元された天守台方向を眺めたところ:
丹羽光重が城主の時代に本丸に石垣が積まれ三層櫓が天守として築かれたと云う。
江戸幕府が正保元(1644)年に城と城下町の絵図を作成するよう諸藩に命じて完成させた『正保城絵図』[s]命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。には、往時の二本松藩が作成した絵図が現存しており、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧やダウンロードが可能になっている。
こちらはダウンロードした画像の一部を抜き出して注釈を入れたもの:
こちらの古絵図には天守は記載されていなかったが、同じく国立公文書館に保存されている『諸国城之図』の4巻21号には「天守」が記載されていた。
こちらが天守台:
この天守台を中心にして両翼にある西櫓台と東櫓台に向かって土塁が設けられていた:
おまけで天守台の上から安達太良連峰の眺望。手前下に見えるのが龍泉寺の境内に建つ「やすらぎ観音[t]二本松で一番高い永代供養塔(観音像)とのこと。」:
そして天守台の両翼にあたる西隅と東隅で復元された櫓台:
天守台の隣に建つ「丹羽和左衛門・安部井又之丞自刃」の碑。戊辰戦争による二本松城降伏・開城に際して自刃した城代と勘定奉行の供養塔:
本丸の虎口を出て本丸下にある乙森(おともり)へ。ここは本丸直下の平場にあたり「をと森」とか「二丸」、「本城番」と呼ばれ、本丸を補完する重要な建築物があったとされる:
この郭にも荒々しい野面積みの石垣が残っていた:
麓へ戻る前に本丸西側斜面に残る二段石垣へ。上段と下段の石垣の間には犬走りのような場所が残っていたらしい:
二段石垣が残る本丸西側の平場には慶長期に造られたとされる石組井戸があり、フラスコ状であったので「とっくり井戸」と呼ばれていた:
そして本丸南側斜面の大石垣。こちらは城内で最も古い石垣であり穴太積み[u]大小の石材をレンガを寝かせるように横積みし、数石しか「横目地」の通らないいわゆる「布積み崩し」と呼ばれた積み方。であることから、慶長期の蒲生氏郷が築いたものとされる:
こちらは本丸南側下に残る日影の井戸。石組の状態から寛永期の丹羽氏の時代に整備されたもので、千葉県印西市の「月影の井戸」と神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と共に「日本の三井」と云われる:
そして虎口状の城内路。これは蒲生氏の時代に城代が置かれた松森館(東城)と新城館(西城)との間に設けられた連絡通路とのこと:
また日影の井戸の下にある東側の平場は煙硝蔵があった:
煙硝蔵の先にあるのが蔵屋敷。ここは乙森の東下方の平場で、蒲生氏や丹羽氏の時代には蔵屋敷が建っていたと云われる:
日影の井戸まで戻って三の丸跡へ下りる途中には「二本松藩士自尽の地」の碑が建っていた。二本松藩の家老らが戦争責任をとって自刃した場所とのこと。合掌:
以上で二本松城攻めは終了。
最後に二本松駅へ向かう途中に見かけたオブジェたち:
二本松城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 霞ヶ城公園に建っていた案内図・説明板
- 「史跡・二本松城跡」(二本松市教育委員会)
- 「石垣は歴史の語りべ・石垣博物館・二本松城跡」(二本松市教育委員会)
- 県立霞ヶ城公園 (二本松市観光連盟 > 観光スポット)
- 日本の城探訪(二本松城)
- Wikipedia(二本松城)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINE刊)
- タクジローの日本全国お城めぐり(福島 > 岩代・二本松城)
参照
↑a | 奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。 |
---|---|
↑b | 南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。 |
↑c | 二本松氏、または奥州畠山氏とも。 |
↑d | 二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。 |
↑e | 第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。 |
↑f | 代休などを追加して少し長めの休みにした。 |
↑g | 特定の地域や場所の守護神。 |
↑h | 二本松藩5代藩主・丹羽高寛(にわ・たかひろ)が藩士の戒めとするためにお抱えの儒教者に命じて巨石に刻ませた訓戒だそうで。 |
↑i | 二本松市名誉市民である彫刻家橋本堅太郎氏の作品。 |
↑j | 逆に、戊辰戦争時にこんな豪壮な櫓があったら1日で落城しなかったのでは!? ![]() |
↑k | 現在の二本松市内。 |
↑l | 日本庭園の形式の一つで、大きな池を中心に配し、その周囲に歩道を巡らして各地の景勝を再現した庭園。 |
↑m | 往時は「西城」と「東城」の二つの郭があり、それぞれに城代が置かれていたと云う。 |
↑n | あるいは輝宗と刺し違えて死んだとも。 |
↑o | 蒲生氏郷が改修した当時は本丸のことを「本城」と呼んでいた。 |
↑p | 更に平成23(2011)年の東日本大震災で受けた被災の修復など。 |
↑q | 「修築」とは現存している石垣を旧来の形状で積み直すこと。「復元」とは失われた石垣を時代性に考慮して新しい石材で積むこと。 |
↑r | 二本松城跡では、これを「旧石垣」と呼んでいる。 |
↑s | 命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。 |
↑t | 二本松で一番高い永代供養塔(観音像)とのこと。 |
↑u | 大小の石材をレンガを寝かせるように横積みし、数石しか「横目地」の通らないいわゆる「布積み崩し」と呼ばれた積み方。 |
0 個のコメント
4 個のピンバック