江戸時代に二本松城主・丹羽光重は石垣を多用した近世城郭に改修した

室町時代に奥州管領[a]奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。を拝命していた奥州畠山(おうしゅう・はたけやま)氏は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)[b]南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。で将軍側についたが敗北し一族の多くが討死した中で、畠山国詮(はたけやま・くにあきら)が安達郡二本松(あだちぐん・にほんまつ)まで落ち延びて二本松畠山氏[c]二本松氏、または奥州畠山氏とも。の祖となった。彼の嫡子・満泰(みつやす)の代には白旗ヶ峰(しらはたがみね)の麓に居館を移し、これがのちに二本松城となる。その後は怨敵・伊達政宗に攻められて開城[d]二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。し、伊達氏による対蘆名・佐竹の拠点となったが、豊臣秀吉による奥州仕置ののちに蒲生氏郷の所領となり城代が置かれた。氏郷が急死したあと會津120万石に移封された上杉景勝が城代を置いていたが関ヶ原の戦いで敗戦後、蒲生氏・加藤氏が続き、一度は天領になるが白河藩より転封されて二本松藩を立藩した丹羽光重(にわ・みつしげ)[e]第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。の居城となった。氏郷の時代に改修された二本松城であるが、光重の時代にはさらに大改修が施され現在、福島県二本松市郭内3丁目の霞ヶ城公園(かすみがじょうこうえん)で見る近世城郭に生まれ変わった。しかし丹羽氏10代の居城は幕末の戊辰戦争で新政府軍を迎え撃つも僅か一日で落城した。

今となっては一昨々年(さきおととし)は平成28(2016)年の初夏の候、仕事の関係で一ヶ月ほど遅れてとった「黄金週間+α[f]代休などを追加して少し長めの休みにした。」を前半・後半に分けてそれぞれ城攻めツアーへ。前半は長野県は諏訪市と松本市にある城跡を攻めてきたが、後半は前年に続く「奥州攻め」と題して福島県の他に宮城県と山形県まで足を伸ばし城跡や勇将らゆかりの地を巡ってきた。あり難いことに後半の二泊三日はすべて晴天に恵まれた 8)

まず初日の午前中は自身初の福島県二本松市へ。朝7時半過ぎに東京駅から新幹線やまびこ125号・仙台行きに乗って朝9時ちょっと前に郡山に到着。郡山からはJR東北本線・福島行きに乗り換えて朝10時前には二本松駅へ到着した。駅の外にあるコインロッカーに荷物を預け、昼飯を調達してから城攻めを開始した。

こちらは、駅から5分ほどのところの二本松神社前に建っていた「二本松御城郭全図」の一部(上が北方向):

二本松安達線(県道R355)沿いにある二本松神社の鳥居前に建つ説明板に描かれていたもの

「二本松御城郭全図」(拡大版)

この図から想像するに大手口跡の坂(現在の久保丁通)を登って丘を一つ越えた先に二本松城跡の霞ヶ城公園があるようだ。また二本松市観光協会の情報によると駅から公園入口までは徒歩で20分程とのこと。大手口跡や歴史資料館にも立ち寄りたかったので歩いて城跡まで行くことにした。

ここ二本松神社の御本宮は紀州熊野本宮だそうで、二本松初代藩主の丹羽光重が二本松の総鎮守[g]特定の地域や場所の守護神。として崇め、領民の参拝を許したとされる:

城主のみならず領民の参拝が許された二本松領内の総鎮守であった

二本松神社

それから県道R355を東へ向かって「久保丁坂入口」交差点から二本松城の大手道にあたる久保丁(くぼちょう)坂を登る。すると大手門跡に残る石垣が見えてくる:

堀と共に久保丁口に築造された大手門(櫓門)で「坂下門」ともいった

大手門跡と大手道跡

道路が大手道跡で、亀甲積み崩しによる石垣のみ残る

大手道跡と大手門跡

平成19(2007)年に国指定史蹟になった大手門跡。九代藩主・丹羽長富(にわ・ながとみ)によって奥州街道に面した久保丁口に築造され、その場所から「坂下門」とも呼ばれた二本松城大手門は、堀と石垣を備えた本格的な櫓門である。慶應4(1868)年の戊辰戦争で敗戦後に破却され、現在は「亀甲積み崩し」技法で積まれた石垣が残るのみである。

こちらは、この大手門跡に建っていた説明板の「史跡・二本松城跡」に描かれていた史跡指定範囲の位置図(加筆あり)で赤線部分が国指定史跡である:

二本松駅から二本松神社と大手門跡と資料館を経由して霞ヶ城公園へ

「二本松城跡指定範囲位置図」(加筆あり)

大手門跡のすぐ側に市が運営する歴史資料館がある。二本松氏や二本松藩主丹羽家に関する史料の他に、二本松ゆかりの芸術家の作品や二本松堤灯祭りの太鼓台なんかも展示されていた。入場料は大人100円(当時):

敷地内には久保丁門の礎石や上屋敷の石材なんかも展示されていた

二本松市歴史資料館

また資料館の敷地内には、大手門よりも先に築かれ後年に大手門が新築されるまでその役割を果たしていた久保丁門の礎石と江戸にあった丹羽家上屋敷跡から出土した石材の一部が展示されていた:

大手門を築く前に久保丁坂の頂上に築かれていた門

久保丁門の礎石

明暦の大火後に再利用された石材なので一部に焦げ跡が残る

丹羽家上屋敷跡出土の石材の一部

久保丁坂と久保丁門跡:

この坂の頂上には久保丁門の枡形跡が残っていた

久保丁坂と久保丁門跡

少し長い坂を登り久保丁門が建っていたあたりが丘の頂上になるが、ここから二本松城跡の遠景を眺めることができた:

白旗ヶ峰の頂上付近には本丸石垣が、そしてその麓には三の丸高石垣と箕輪門の二重櫓が見えた

久保丁門跡から眺めた霞ヶ城公園(拡大版)

こちらは霞ヶ城公園に建っていた説明板の「史跡二本松城跡」に描かれていた公園案内図。園内は麓から白旗ヶ峰山頂まで遊歩道が整備されていた:

公園入口に建つ「史跡二本松城跡」の説明板より

霞ヶ城公園案内図(拡大版)

この案内図を参考に、Google Earth 3D 上に今回の城攻めルートと遺構()を重畳させたものがこちら:

当時、まだ東日本大震災の爪痕が残っていた霞ヶ城公園内の入口からぐるりと一周するルートで攻めてきた

二本松城攻めのルート(コメント付き)

白旗ヶ峰中腹から山頂にかけて、当時は東日本大震災の爪痕により遊歩道の一部が通行止めであったため少し遠回りすることになったが、一通り巡ってくることができた。あと晴天ではあったが山頂の本丸周辺は風が強くて肌寒かった:

(JR二本松駅) → (二本松神社) → (大手門跡) → (二本松市歴史資料館) → (久保丁門跡付近) → 二合田用水 → 三の丸高石垣 → (公園入口) → 千人溜 → 二本松少年隊像 → 箕輪門など → 三の丸枡形虎口 → 三の丸・下段 → 三の丸・上段 → 洗心亭 → (霞ヶ池) → 傘マツ → 空堀/堀切? → 二合田用水 → (安達太良山) → 新城館・少年隊の丘 → 搦手門他 → 本丸石垣 → 本丸枡形虎口 → 本丸 → 東と西の隅櫓 →  天守台 → 乙森 → 本丸北面の二段石垣 → とっくり井戸 → 本丸南面の大石垣 → 日影の井戸 → 煙硝蔵 → 蔵屋敷 → (煙硝蔵) → 二本松藩士自刃の地 → (三の丸) → ・・・ → (公園入口)  → ・・・ → (JR二本松駅)

久保丁門が建っていた丘を降りて戒石銘碑(かいせきめい・ひ)[h]二本松藩5代藩主・丹羽高寛(にわ・たかひろ)が藩士の戒めとするためにお抱えの儒教者に命じて巨石に刻ませた訓戒だそうで。や城址の碑などを見ながら霞ヶ城公園入口へ向かう途中に見た、公園の外周に沿って残されていた石組水路の二合田用水(にごうだ・ようすい):

公園の外周には今でも用水路である二合田用水が残っていた

霞ヶ城公園入口へ向かう

これは初代藩主・丹羽光重により城内と城下の防備にために敷設された「用水堀」のことで、城の西側に聳える安達太良山中腹を水源とする水を約18kmに渡って引いたもの。

公園の駐車場から見た三の丸高石垣と土塀。この高石垣は加藤嘉明・明成時代の築造で、盛土して積み上げた石垣のため暗渠が設けられていた。毎年秋に開催される菊人形では駐車場と三の丸跡が会場(有料)になるらしい:

加藤嘉明・明成によって改修された石垣を丹羽光重がさらに強化し、箕輪門や二重櫓を建てた

三の丸高石垣(拡大版)

霞ヶ城公園に入るとまず千人溜跡と戊辰戦争の悲劇を物語る二本松少年隊像[i]二本松市名誉市民である彫刻家橋本堅太郎氏の作品。がある:

戊辰戦争では少年62名が動員され新政府軍に抵抗し17名が戦死した

二本松少年隊像

いわゆる番所跡

千人溜

そのまま城址の碑が建つ石段を登って行くと復興された箕輪門が見えてきた:

左手奥には戊辰戦争時の「大城代・内藤四郎兵衛戦死の地」がある

公園入口の石段と城址碑

まず箕輪門に附けられた二重櫓が見えてくるが、往時の箕輪門は櫓門形式のためこのような櫓は存在しない[j]逆に、戊辰戦争時にこんな豪壮な櫓があったら1日で落城しなかったのでは!? :roll:

戊辰戦争時の箕輪門は櫓門で昭和の時代に再建されたもので、その手前にある二重櫓は存在していない

多聞櫓・箕輪門・二重櫓(拡大版)

初代藩主・丹羽光重が建てた箕輪門は城下にある箕輪村[k]現在の二本松市内。山王寺山の御神木の樫木を主材として使用したことが名前の由来で、戊辰戦争で焼失したが昭和57(1982)年に再建された。正面から見ると1/4ほど切り詰められた上に附櫓風に二重櫓(模擬)が建っていたため、だいぶ小さい櫓門の印象があった:

左手上の多聞櫓と右手の二重櫓に挟まれてやや小ぶりに切り詰められていた

再建された箕輪門

往時は櫓門であるが昭和の時代に再建されて少し小さくなっていた

再建された箕輪門

箕輪門をくぐって城内から振り返って見ると、一段と小さい櫓門として再建されていたのが分かる:

本来は櫓門形式だが、なぜか小さく切り詰められ隣に二重櫓が建てられた

再建された箕輪門など

それから三の丸跡へ向かうと枡形虎口がある:

ここから鈎の字に折れた先に三の丸(下段)がある

三の丸の枡形虎口

ここから鈎の字に折れた先に三の丸(下段)がある

三の丸の枡形虎口

この先の三の丸手前には塀重門(へいじゅうもん)と社中門が建っていた

三の丸の枡形虎口

三の丸枡形虎口の石垣には二本松市指定のアカマツの古木群が立ち、いずれも樹齢350年を越え、樹冠が傘状を呈し長い枝を垂らしていた(四本松):

右手のアカマツの古木群は樹齢350年を越え、樹冠が傘状を呈し長い枝を石垣下に垂らし見事な景観を呈していた

三の丸塀重門跡から見下ろした枡形虎口(拡大版)

これは本稿冒頭で紹介した「二本松御城郭全図」の郭内部を拡大したもの:

「二本松御城郭全図」に描かれた中で主要な郭内を拡大したもの

「二本松御城郭全図」(一部拡大)

こちらが三の丸。白旗ヶ山南山麓に置かれた二本松藩の政庁の中心部でり城主の御殿があった。枡形虎口から石段を登った先には塀重門(へいじゅうもん)と社中門(しゃちゅうもん)が土塀と連結して建ち、それらの門をくぐると御殿に立ち入ることができたと云う:

御殿が建つ三の丸(下段)の手前には門と塀があった

土塀と三の丸塀重門跡

ここは二本松藩の藩政が執り行われた御殿が建っていた

三の丸・下段

この三の丸は、寛永元(1630)年頃に蒲生氏に代わって會津に入封した加藤嘉明・明成父子が中世城郭から近世城郭へ改変したことにより上下二段に分割され、下段が藩庁や御殿、上段に藩主が住む御座所があったと云う:

三の丸の下段から上段へ上る石段が残っていた

下段と上段の境界

こちらの段に藩主の御座所(居住区)があった

三の丸・上段

三の丸・上段から眺めた霞ヶ池(かすみがいけ)と洗心亭(せんしんてい):

この池は江戸時代中・後期の平和な時代に造られた庭園の一部だったのだろうか

霞ヶ池と洗心亭(拡大版)

なお、公園案内図の三の丸周辺には「霞ヶ池」と「るり池」といった大きな池の他に小さい滝がいくつも描かれているが、『正保城絵図』や『諸国城之図』といった古絵図には描かれていない。詳細は不明だが、これらは寛永期(1624〜1645年)から明和期(1764〜1772年)にかけて整備されたとされる回遊式庭園[l]日本庭園の形式の一つで、大きな池を中心に配し、その周囲に歩道を巡らして各地の景勝を再現した庭園。の池や滝ではないかと推測する:

布袋滝や七ッ滝などと一緒に回遊式庭園を形成していたものだろうか

霞ヶ池

一方の洗心亭は、もともとは二本松藩主の御座所に隣接していた茶室の一つ「墨絵の御茶屋」で、天保8(1837)年の山崩れにより倒壊したものを阿武隈川の河川敷に移築再建していたもので、廃城後に霞ヶ城公園の現在の場所に移築して「洗心亭」を名づけたもの。城内唯一残る江戸時代の建築物として福島県指定重要文化財となった:

もとは霞ヶ城内の庭園にいくつかあった茶室の一つ「墨絵の御茶屋」

洗心亭

霞ヶ池の脇を通って城の搦手へ向かっていく途中には二本松市指定天然記念物の「霞ヶ城の傘マツ」なるアカマツの巨木があった。昭和51(1976)年で推定樹齢が300年と言われているので江戸時代あたりから生えていたものか。近くには同じく市指定天然記念物で推定樹齢が400年とも云われるイロハカエデが生えていた:

樹齢300年以上、根本周囲は3m、樹高4.5mで三枝のうちニ枝が生きている

傘マツ

寛永から明和年間あたりに庭園が整備されていた頃と時は同じだとか

二本松城跡のイロハカエデ

公園案内図の「見晴台」がある方向へ進んでいくと空堀跡のような遺構があった:

洗心滝と登城道を挟んだ所に残る空堀らしきものが残っていた

空堀または堀切跡

登城道を挟んだところには麓の公園入口にも流れていた二合田用水:

安達太良山中腹を水源とする水は城内のみならず城下町も潤した

二合田用水

ここから公園の外に出たところ(標高293.6m)にある四阿が見晴台で、そこから二本松最古刹である曹洞宗・永松山龍泉寺の他、日本百名山の安達太良山をはじめとする安達太良連峰を眺めることができた:

左手(南側)から和尚山(1,602m)、安達太良山(1,700m)、船明神山、鉄山(1,710m)、そして箕輪山(1,719m)、鬼面山

安達太良連峰(拡大版)

このあとは公園の中に戻って山頂にある本丸を目指したが、一部の遊歩道が東日本大震災の復興作業のために通行禁止であったので少し遠回りで移動する必要があった:

新城館跡へは少し遠回りして移動する必要があった

中腹から山頂へ

こちらが新城館(しんじょうだて)跡。二本松氏の時代はここが本丸(本城)であったとされ、蒲生秀行・忠郷の時代には二の丸の相当する郭に館を建てて西城と呼ばれていた[m]往時は「西城」と「東城」の二つの郭があり、それぞれに城代が置かれていたと云う。。現在は少年隊の丘として整備されている他に、智恵子抄詩碑が建っていた:

二本松氏や蒲生氏の時代は本丸や二の丸に相当する重要な郭だった

新城館跡に建つ少年隊顕彰碑

発掘調査では掘立柱建物の跡が多数発見された

新城館

発掘調査では掘立柱建物跡と共に大量の焼土と炭化した木材が発見されたことから、二本松氏は伊達氏との激しい攻防戦の末に降伏開城したが、その際に建物に火を付けて退去し、代わって入城した伊達勢がその後始末をして焼失した廃材を穴に埋めた結果であるとされている。

二本松氏の時代にも悲劇があったのはご存知の通り。二本松畠山氏はこの城を拠点として勢力を伸ばすも、周囲の蘆名氏・伊達氏・田村氏・相馬氏らに阻まれ逆に所領を奪われることになる。特に伊達政宗からの圧迫が強く、十五代当主の義継(よしつぐ)は政宗の父・輝宗(てるむね)を介して降伏を申し入れる振りをして逆に輝宗を拉致し二本松城へ連れ去ろうとするが、政宗らに追いつかれ輝宗もろとも射殺されたと云う[n]あるいは輝宗と刺し違えて死んだとも。

そして堀底道風の遊歩道を登って行くと搦手門跡が見えてきた:

堀底道上の遊歩道を登って搦手方面へ

堀切跡?

蒲生氏の時代は冠木門だったが、加藤氏の時代は高麗門が建っていた

搦手門跡

ここは蒲生氏・加藤氏、そして丹羽氏の時代を通して二本松城の搦手口であり搦手門が建っていた場所である。蒲生氏の時代は掘立柱の冠木門が建っていたとされ、現在残る遺構は加藤氏以後の石材を用いた高麗門の跡。他には門扉を立てたホゾ穴が見つかっており、門台石垣と門柱礎石も見ることができる:

高麗門の両側に置かれた門台石垣と門柱礎石

城内側の搦手門跡

高麗門の両側に置かれた門台石垣と門柱礎石

城外から見た搦手門跡

加藤氏時代の門柱礎石:

柱の間は3.2mほどあり、門扉は一枚約1.4mの高麗門であったらしい

枡形内の礎石

反対側の石垣も一部残っていた:

門台石垣と反対側の石垣は一部が崩落していた

搦手門周辺に残る石垣

搦手門跡の城内側にある石段を登ると白旗ヶ峰の山頂に築かれた本丸[o]蒲生氏郷が改修した当時は本丸のことを「本城」と呼んでいた。跡が見えてくる。この脇にあるのは城址の碑であるが「畠山氏」の名が彫られていた。これは昭和28(1953)年の本丸虎口の石垣修復工事で畠山氏の末裔である石工が施工したことが由来だとか:

搦手門前にある石段を登った先には本丸跡がある

本丸跡

畠山氏の名が彫られているのは本丸復興をその末裔が手がけたから

「奥州探題・畠山氏居城・霞ヶ城址」の碑

本丸の南西側の高石垣。平成5(1993)年から二年の歳月をかけて[p]更に平成23(2011)年の東日本大震災で受けた被災の修復など。崩落を防ぐため全面修築・復元工事[q]「修築」とは現存している石垣を旧来の形状で積み直すこと。「復元」とは失われた石垣を時代性に考慮して新しい石材で積むこと。が行われた成果で、蒲生氏郷が近江国より連れてきた石工集団の穴太衆(あのうしゅう)の末裔の手によって実現したとのこと:

当初は西側半分のみ現存しているものと思われたが調査の結果、根石が全周残されていることが判明した

本丸・南西側の石垣(拡大版)

発掘調査を行う前までは現存は西側半分だけと考えられていたが、実際に調査してみると根石が本丸の全周囲に残されていることが判り、その形状が明らかとなった。また加藤嘉明・明成父子の時代に本丸を拡張した痕跡もあったと云う:

正面の少し横に出張っている部分が天守台跡

本丸北西側の石垣

會津を治めた加藤嘉明・明成の時代に本丸が拡張された

本丸高石垣

本丸北東隅にある天守台跡。実際に天守が建っていたと云う記録はなく詳細は不明である:

本丸から張り出ている石垣が天守台とされるが、古絵図などから天守の存在は確認できない

天守台と本丸高石垣

復元された寛永期に加藤氏が修築ないし拡張した際の石垣。これらの内部には慶長期の蒲生氏が初めて石垣を導入して穴太積み(あのう・づみ)した自然石または野面石(のづら・いし)と荒割石(あらわり・いし)が埋没保存されている[r]二本松城跡では、これを「旧石垣」と呼んでいる。

この石垣の内部には慶長期に蒲生氏郷が築いた石垣が保存されている

本丸南東側の石垣

こちらは本丸南側にある枡形虎口:

この上では枡形虎口となっている

本丸南側の石段

枡形虎口を囲む石垣は江戸時代後期のもの

枡形虎口

本丸石垣の西隅と東隅にはそれぞれ櫓が建っていたのことで、それらの櫓台石垣も復元されていた。こちらは枡形虎口の中からみた東櫓台:

枡形虎口の中から見上げた櫓台の台座石垣(復元)

東櫓台

復元された東櫓台の上から眺めた本丸内部。本丸北側には土塁が設けられていた:

復元された東櫓台から西櫓台方面の眺め

本丸内部

そして本丸内部から北東隅に復元された天守台方向を眺めたところ:

正面奥の左手に天守台、右手に東櫓台と枡形虎口がそれぞれ復元されていた

本丸内部

丹羽光重が城主の時代に本丸に石垣が積まれ三層櫓が天守として築かれたと云う。

江戸幕府が正保元(1644)年に城と城下町の絵図を作成するよう諸藩に命じて完成させた『正保城絵図』[s]命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。には、往時の二本松藩が作成した絵図が現存しており、国立公文書館のデジタルアーカイブ閲覧やダウンロードが可能になっている。
こちらはダウンロードした画像の一部を抜き出して注釈を入れたもの:

最高位に石垣造りの本丸を配し、中規模の郭を東西に築き、麓に居館が建っていた

奥州二本松城之絵図

こちらの古絵図には天守は記載されていなかったが、同じく国立公文書館に保存されている『諸国城之図』の4巻21号には「天守」が記載されていた。

こちらが天守台:

この上に三層櫓が建っていたらしい

天守台

この天守台を中心にして両翼にある西櫓台と東櫓台に向かって土塁が設けられていた:

天守台を中心に西と東の櫓台までそれぞれ土塁が築かれていた

天守台から西櫓台

天守台を中心に西と東の櫓台までそれぞれ土塁が築かれていた

天守台から東櫓台

おまけで天守台の上から安達太良連峰の眺望。手前下に見えるのが龍泉寺の境内に建つ「やすらぎ観音[t]二本松で一番高い永代供養塔(観音像)とのこと。」:

青空の下、安達太良連峰の遠望と手前下には二本松最古刹の曹洞宗・永松山龍泉寺の境内

天守台からの眺望(拡大版)

そして天守台の両翼にあたる西隅と東隅で復元された櫓台:

天守台の両翼にあたる西隅と東隅で復元された櫓台の一つ

西櫓台

天守台の両翼にあたる西隅と東隅で復元された櫓台の一つ

東櫓台

天守台の隣に建つ「丹羽和左衛門・安部井又之丞自刃」の碑。戊辰戦争による二本松城降伏・開城に際して自刃した城代と勘定奉行の供養塔:

当初は天守台の中央奥にあったが修築・復元に伴いここに移設された

「丹羽和左衛門・安部井又之丞自刃」の碑

本丸の虎口を出て本丸下にある乙森(おともり)へ。ここは本丸直下の平場にあたり「をと森」とか「二丸」、「本城番」と呼ばれ、本丸を補完する重要な建築物があったとされる:

本丸枡形虎口から見下ろした乙森

本丸から見下ろす

現在は駐車場になっている

乙森跡

この郭にも荒々しい野面積みの石垣が残っていた:

本丸を補完する重要な建物があったとされる

乙森の石垣

麓へ戻る前に本丸西側斜面に残る二段石垣へ。上段と下段の石垣の間には犬走りのような場所が残っていたらしい:

石垣は斜面上に上段と下段の構成で、その間には犬走り状のテラスが検出された

天守台下二段石垣と犬走り(拡大版)

二段石垣が残る本丸西側の平場には慶長期に造られたとされる石組井戸があり、フラスコ状であったので「とっくり井戸」と呼ばれていた:

入口より内部が広くフラスコ状であることからこの名前が付いた

とっくり井戸

そして本丸南側斜面の大石垣。こちらは城内で最も古い石垣であり穴太積み[u]大小の石材をレンガを寝かせるように横積みし、数石しか「横目地」の通らないいわゆる「布積み崩し」と呼ばれた積み方。であることから、慶長期の蒲生氏郷が築いたものとされる:

城内で最も古い石垣の一つで、築石は野面石と荒割石が用いられ穴太積みの石垣

本丸南面大石垣(拡大版)

こちらは本丸南側下に残る日影の井戸。石組の状態から寛永期の丹羽氏の時代に整備されたもので、千葉県印西市の「月影の井戸」と神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と共に「日本の三井」と云われる:

「月影の井戸」(千葉県)と「星影の井戸」(神奈川県)と共に「日本の三井」

日影の井戸

そして虎口状の城内路。これは蒲生氏の時代に城代が置かれた松森館(東城)と新城館(西城)との間に設けられた連絡通路とのこと:

東城と西城との間に設けられた連絡路で二本松氏の時代のものか

城内路

また日影の井戸の下にある東側の平場は煙硝蔵があった:

日影の井戸の下にある東側の平場

煙硝蔵

煙硝蔵の先にあるのが蔵屋敷。ここは乙森の東下方の平場で、蒲生氏や丹羽氏の時代には蔵屋敷が建っていたと云われる:

蒲生氏や丹羽氏の時代には蔵屋敷が建っていたと云われる平場

蔵屋敷

日影の井戸まで戻って三の丸跡へ下りる途中には「二本松藩士自尽の地」の碑が建っていた。二本松藩の家老らが戦争責任をとって自刃した場所とのこと。合掌:

二本松城開城に際して主戦論者だった家老らが自刃した場所らしい

二本松藩士自尽の地

以上で二本松城攻めは終了。

最後に二本松駅へ向かう途中に見かけたオブジェたち:

「がもう氏郷チェーン」なる居酒屋の店先に掲げられていた絵

居酒屋氏郷

JR二本松駅前のロータリーに建っていた銅像

二本松少年隊士像「霞城の太刀風」

See Also二本松城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。
b 南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。
c 二本松氏、または奥州畠山氏とも。
d 二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。
e 第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。
f 代休などを追加して少し長めの休みにした。
g 特定の地域や場所の守護神。
h 二本松藩5代藩主・丹羽高寛(にわ・たかひろ)が藩士の戒めとするためにお抱えの儒教者に命じて巨石に刻ませた訓戒だそうで。
i 二本松市名誉市民である彫刻家橋本堅太郎氏の作品。
j 逆に、戊辰戦争時にこんな豪壮な櫓があったら1日で落城しなかったのでは!? :roll:
k 現在の二本松市内。
l 日本庭園の形式の一つで、大きな池を中心に配し、その周囲に歩道を巡らして各地の景勝を再現した庭園。
m 往時は「西城」と「東城」の二つの郭があり、それぞれに城代が置かれていたと云う。
n あるいは輝宗と刺し違えて死んだとも。
o 蒲生氏郷が改修した当時は本丸のことを「本城」と呼んでいた。
p 更に平成23(2011)年の東日本大震災で受けた被災の修復など。
q 「修築」とは現存している石垣を旧来の形状で積み直すこと。「復元」とは失われた石垣を時代性に考慮して新しい石材で積むこと。
r 二本松城跡では、これを「旧石垣」と呼んでいる。
s 命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。
t 二本松で一番高い永代供養塔(観音像)とのこと。
u 大小の石材をレンガを寝かせるように横積みし、数石しか「横目地」の通らないいわゆる「布積み崩し」と呼ばれた積み方。