城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2020年2月

二本松城 − Nihonmatsu Castle

江戸時代に二本松城主・丹羽光重は石垣を多用した近世城郭に改修した

室町時代に奥州管領[a]奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。を拝命していた奥州畠山(おうしゅう・はたけやま)氏は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)[b]南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。で将軍側についたが敗北し一族の多くが討死した中で、畠山国詮(はたけやま・くにあきら)が安達郡二本松(あだちぐん・にほんまつ)まで落ち延びて二本松畠山氏[c]二本松氏、または奥州畠山氏とも。の祖となった。彼の嫡子・満泰(みつやす)の代には白旗ヶ峰(しらはたがみね)の麓に居館を移し、これがのちに二本松城となる。その後は怨敵・伊達政宗に攻められて開城[d]二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。し、伊達氏による対蘆名・佐竹の拠点となったが、豊臣秀吉による奥州仕置ののちに蒲生氏郷の所領となり城代が置かれた。氏郷が急死したあと會津120万石に移封された上杉景勝が城代を置いていたが関ヶ原の戦いで敗戦後、蒲生氏・加藤氏が続き、一度は天領になるが白河藩より転封されて二本松藩を立藩した丹羽光重(にわ・みつしげ)[e]第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。の居城となった。氏郷の時代に改修された二本松城であるが、光重の時代にはさらに大改修が施され現在、福島県二本松市郭内3丁目の霞ヶ城公園(かすみがじょうこうえん)で見る近世城郭に生まれ変わった。しかし丹羽氏10代の居城は幕末の戊辰戦争で新政府軍を迎え撃つも僅か一日で落城した。

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参照

a 奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。
b 南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。
c 二本松氏、または奥州畠山氏とも。
d 二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。
e 第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。

犬甘城 − Inukai Castle

連郭式山城の犬甘城の主郭と二郭を三郭から堀切ごしに眺めたところ

長野県松本市大字蟻ヶ崎1219にある城山公園(じょうやま・こうえん)は江戸から明治の頃に公園化[a]天保14(1843)年に松本藩主・戸田光庸(とだ・みつつら)が桜や楓を植樹して一般庶民にも開放されたのが始まりとされる松本市最古の公園。され、現在は北アルプスを眺望できる展望台が建っている他に松本ゆかりの文化人の歌碑が建つ。その一方で山城としての歴史は古く、南北朝時代に信濃国守護の小笠原氏が本城の林城に対して築いた支城の一つで、築城者は不明であるものの守護を補佐した在庁官吏の一人で豪族の犬甘(いぬかい)氏であると云う説がある。永正元(1504)年に小笠原貞朝(おがさわら・さだとも)の家臣・島立右近貞永(しまだて・うこん・さだなが)が松本盆地に築いた深志城の他に犬甘氏の親族である桐原氏が築いた桐原城、田川の河川の縁に築いた井川城、山辺(やまべ)城、埴原(はいばら)城、稲倉(しなぐら)城など多くの城が林城の属城であったと云う。しかし天文19(1550)年には同じ甲斐源氏の庶流である武田晴信[b]のちに号して武田大膳大夫信玄(たけだ・だいぜんたゆう・しんげん)。に攻められ、これらの属城がことごとく陥落した。時の当主・小笠原長時[c]深志城を築いた貞朝の孫。父は長棟(ながむね)。は林城を捨てて犬甘城の北にある平瀬城へ逃げ、さらに村上義清を頼って葛尾城へ落ち延びた。村上の援軍を待っていた犬甘城では馬場信房の偽計によって抵抗することなく乗っ取られてしまったと云う[d]慶長16(1611)年に松本藩主・小笠原秀政の家老・二木重吉(ふたつぎ・しげよし)が著した「二木家記」より。

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a 天保14(1843)年に松本藩主・戸田光庸(とだ・みつつら)が桜や楓を植樹して一般庶民にも開放されたのが始まりとされる松本市最古の公園。
b のちに号して武田大膳大夫信玄(たけだ・だいぜんたゆう・しんげん)。
c 深志城を築いた貞朝の孫。父は長棟(ながむね)。
d 慶長16(1611)年に松本藩主・小笠原秀政の家老・二木重吉(ふたつぎ・しげよし)が著した「二木家記」より。

八王子城 − Hachiōji Castle(TAKE3)

秀吉軍襲来に備えて八王子城西端に急遽築かれた詰城の背後には大堀切が残る

小田原北條氏二代目当主の氏綱(うじつな)の嫡子で、のちに『相模の獅子』と呼ばれた三代目当主の伊勢新九郎氏康(いせ・しんくろう・うじやす)[a]初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。の子女は一説に九男・七女とされ、その正室は駿河国守護であった今川氏親(いまがわ・うじちか)[b]母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。の娘・瑞渓院殿(ずいけいいんでん)。この正室との間には長男の新九郎氏親[c]天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。、次男で嫡男の氏政、三男の氏照、四男の氏規(うじのり)、五男の氏邦(うじくに)、六男で『越後の龍』こと上杉輝虎の養子となった景虎がいる。女子には、氏康とは義兄弟であった北條綱成の嫡男・氏繁室、千葉親胤室、そして今川氏真(いまがわ・うじざね)室の早川殿らがいる。小田原北條氏は相模国の小田原城を本城として伊豆・武蔵・駿河・下総などの領国に数多くの支城を築いて整備し、いわゆる支城ネットワークを構築していた。その中で最大規模を誇っていたとされる八王子城は兄の氏政と甥の氏直を軍事と政治の両面で支えた北條陸奥守氏照の最後の居城で、現在は東京都八王子市元八王子町にて国史跡に指定されている。天正18(1590)年の小田原仕置の際は、急遽、本丸の西側に石垣で囲った詰城(つめのしろ)を築いて豊臣勢の来襲に備えた。

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a 初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。
b 母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。
c 天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。

八王子城 − Hachiōji Castle(TAKE2)

八王子城の大手道から「新しい」曳橋ごしに眺めた御主殿虎口

東京都八王子市元八王子町にある八王子城は小田原北條氏康の三男・氏照[a]兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。が築いた関東でも屈指の山城であり、本城である小田原城に対して北條氏最大の支城である。築城は天正10(1582)年頃から始まり、五年後の天正15(1587)年には滝山城から居城が移された。往時、最新の技術を駆使して築かれた城は織田信長が築いた安土城を参考にしたともされ、従来の「土の城[b]北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。」から石垣を多用し、尾根筋には堀切は設けずに段郭を連続させて「高低差」による備えを採用した[c]滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。。城域は深沢山[d]現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。を中心として、その尾根や谷に築いた多数の郭からなる要害地区、山腹に御主殿を建てた居館地区、城山川に沿って麓に形成された城下町の根小屋(ねごや)地区で構成されていた。また深沢山山頂には本丸が置かれていた他に、尾根筋の西端にあって本丸よりも高い場所[e]標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。には詰城(つめのしろ)が築かれ、天守に相当する物見櫓が建っていた。さらに城下町から城山川対岸の尾根筋には太鼓丸(太鼓曲輪)を築いて、根小屋地区を囲む惣構としていた。なお八王子城の詰城は、天正18(1590)年に関白秀吉が派遣した軍勢[f]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。に備えて急遽増築した郭であるが落城した時点でも未完成だった。

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a 兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。
b 北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。
c 滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。
d 現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。
e 標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。
f 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。

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