真田山・三光神社は真田丸を攻撃した徳川勢の加賀前田勢が陣を張った宰相山に建つ

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いから三年後、徳川家康は征夷大将軍に就任[a]「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。し江戸で幕府を開府した。次に、豊臣家に対して臣下の礼を要求すると両家の間に「亀裂」ができたが、依然として加藤清正ら豊臣恩顧の大名が多かったため直接的な対立に至ることはなかった[b]むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。。そして慶長16(1611)年に初めて両家の首脳である家康と豊臣秀頼の会見が実現して亀裂は埋まったかのようにみえたが、その三年後の慶長19(1614)年には世に云う「方広寺鐘銘事件」が起きた。豊臣家の総奉行であった片桐且元(かたぎり・かつもと)は両家の間を奔走して平和的に解決しようと務めたが、逆に家康の奸計に嵌って豊臣方の疑心暗鬼を誘うことになり亀裂は「溝」に変わった。この事件を宣戦布告と受け取った豊臣家は秀吉が残した莫大な金銀で兵糧と武器を買い入れ、全国の浪人に招集を呼びかけた。その一人で関ヶ原の戦いでは西軍で唯一の勝利を得た真田昌幸の次男・信繁(幸村)も蟄居先の九度山を抜けだして大坂城に入城、不本意ながら城内が籠城戦に決すると、直ちに惣構(そうがまえ)南東に隣接する平野口あたりで出城の築造に着手した。これが後世に伝わる「真田丸」である。

今年は、令和元(2019)年の文化の日を含む連休最終日は五年ぶりに大坂城を攻めてきた。午前中は今回の一番の目的である「大阪城の櫓(重要文化財)内部特別公開」へ。悲しいかな新しい元号に変わったこの年はたくさんの天災が日本全国を縦断した。身近に迫る災害を垣間見る度に、この先もしかしたら何か甚大な被害を被って、これらの建築物を見ることができなくなるのではという思いから、はるばる大阪へやってきたと云う次第である。

そして午後は帰京する前に真田丸跡を巡ってきた。こちらも五年前に真田幸村と関係深い場所をいくつか巡ったのだが、年が流れるにつれて新たに発見された古絵図とかそれにまつわる考察、はたまた某局の大河ドラマを契機に建てられた石碑等、いろいろと古い情報をアップデートする必要があったので。

まずは大阪城公園を出て最寄りの谷町四丁目から大阪メトロ中央線でひと駅の森ノ宮へ移動した。それから中央大通沿いのカレー屋でお昼を摂って、秀吉時代の大坂城で三の丸に相当する場所に建ち、鎮守神として祀られていた玉造稲荷神社から真田丸跡まで歩いて巡ってきた。
こちらが今回の経路と実際のGPSアクティビティのトレース結果。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は4.11㎞(21:19分/㎞)、所要時間は1時間27分(うち移動時間は57分)ほど、消費カロリーは427Cだった:

昼12:47〜14:10までの間、移動は全て徒歩で、気温は体感17℃、最高高度は12m

My GPS Activity

城攻めは、大坂城三の丸跡からスタートして惣構の南側の空堀跡であった長堀通りを渡って外郭へ出て、真田丸跡をなぞるように歩いて、最後は「真田幸村公之像」が建つ三光神社へ。城攻めを終えたあとは帰京するために玉造駅から新大阪へ向かった:

(得正・森ノ宮店) → 玉造稲荷神社 → 南惣構堀跡(長堀通) → 南惣構堀跡(清水谷公園) → 円珠庵(鎌八幡) → 大阪明星学園の校門 → 心眼寺坂(大應寺・ 興徳寺) → 大阪明星学園のグラウンド → 心眼寺 → (善福寺) → (宰相山西公園) → 真田山陸軍墓地 → 宰相山公園 → 三光神社 → (玉造駅)


豊臣秀吉が上町台地の北端部に築いた大坂城は「難攻不落」の名城として知られたが、本丸の北側は淀川と大和川で、西側は東横堀川で、そして東側は猫間川(ねこまがわ)と平野川で防備されていたのに対し、南側は惣構の空堀が設けられていただけで実質的には広大な地続きになっていたと云う。この想像図としては「大坂冬の陣大坂城外郭復元イラスト」なるサイトが参考になった。

現在の大阪城公園は豊臣家が滅亡したあとに徳川幕府によって改築された大坂城の一部であるため秀吉時代のものとは異なるが、これまでの発掘調査や古絵図などから慶長19(1614)年の大坂冬の陣当時の大坂城惣構の範囲を推定してGoogle Earth に重畳させてみたのがこちら:

徳川幕府が改築した大坂城の本丸跡から大阪市中央区玉造あたりを俯瞰したもの

大阪城公園周辺図(Google Earthより)

秀吉が精魂を込めて築城した難攻不落の城は徳川幕府の大坂城の四倍以上の規模を持つとされる

大坂冬の陣当時の惣構予想図

惣構の範囲を太破線で括っているが、その中で北・西・東の三方は川を利用した天然の外堀であったので水色とし、空堀だった南側は茶色で表現ししてみた。さらに今回巡ってきた史跡や真田丸跡に関連する場所などにはを付与した。真田丸跡に関しては、このあとに紹介する新説に従って赤色で表現してみた。

豊臣秀頼の要請[c]実際には、人質として大坂在城時に同じ秀吉の馬廻衆(うままわり・しゅう)として旧知な間柄であった大野治長(おおの・はるなが)が推挙したと云う説が有力である。に応じて大坂城に入城した真田左衛門佐(さえもんのすけ)幸村は、内府こと家康率いる幕府勢が寄せてくるのは大坂城の南からであることは自明であるとして、三の丸南側の惣構を越えた外郭にある「篠山(ささやま)」と云う小さな丘陵に出城を構えたと云う。これが世に云う真田丸[d]他に「真田丸出城」とか「真田出丸」などの呼び名がある。とされるものであるが、実際の所その真偽を含めて場所や形状については諸説あって定かではない。

五年前に攻めた際は真田山公園(大阪市天王寺区真田山町)から宰相山公園(大阪市天王寺区玉造本町)が真田丸跡とされていたが、現在の新説では大阪明星学園(大阪市天王寺区餌差町)のグラウンドあたりと云うことになっているらしい。

また出城の形状も五年前までは甲州流築城術の一つである丸馬出(まるうまだし)[e]三日月形の堀と馬出から構成された防御施設。そのため真田丸は「偃月城(えんげつじょう)」とも呼ばれていたのだとか。の発展型で城内とは惣構の空堀を境に土橋でつながっていたとされていたが、新説では惣構と離れた場所に築かれた楕円形をした砦規模だったと云う。

こちらは慶長19(1614)年12月初めに始まった大坂冬の陣の前哨戦と真田丸と惣構の戦いの概略図:

「真田戦記」(学研ムック・歴史群像編集部・編)のP29より

「冬の陣前哨戦と真田丸・惣構の戦い」

豊臣勢は三の丸を土塁や堀ですっぽり囲んだ惣構を陣地とする籠城戦をとり、前哨戦では大坂城南東の湿地帯や天満川河口あたりに砦を築いて幕府勢を迎え撃つことしたと云う。

そして最近では江戸時代に描かれた『極秘諸国城図』(松江歴史館蔵)と云う古絵図から真田丸の絵図が発見され、ちょうど放送中だった大河ドラマとタイミングが相まって話題になっていた:

『極秘諸国城図』所収「大坂真田丸」図および『諸国古城之図』所収「摂津 真田丸」図の再検討(大澤・松尾)より

『極秘諸国城図』所収「大坂真田丸」図

他にも浅野文庫諸国古城之図などにも真田丸の古絵図があるが、それらが大坂の陣が終わって破却された後の状態を描いたものであるならば家康ら幕府勢を驚愕させた真田丸の真の姿は謎のままである。

玉造稲荷神社

まずは三の丸跡から。ここ「玉造(たまづくり)」は、大和朝廷に献上する勾玉(まがたま)などを作っていた「玉作部」と云う職人たちの居住地として紀元前の頃からあった土地だそうで、日本書紀にも記されているのだとか。この玉造稲荷神社にあっては主神を宇迦之御魂大神(うがの・みたまの・おおみかみ)とし、飛鳥時代には聖徳太子が観音堂を建立したとも伝えられている:

難波の高台の内に位するこの場所は聖徳太子も戦勝祈願した

玉造稲荷神社

宇迦之御魂大神(うがの・みたまの・おおかみ)様を主神とする

本殿

戦国時代中頃、織田信長と石山本願寺とが激しい攻防戦をくりひろげた天王寺の戦いで、社をはじめとする多くの堂宇の他に貴重な古文書がことごとく焼失してしまったが、のちに豊臣秀吉が大坂城を築城し三の丸とした時には城を鎮守する神として崇められた上に、その嫡子である秀頼によって鳥居をはじめ社殿や高殿(舞台)などが再建されたと云う。

こちらが玉造稲荷神社の境内:

正面奥にある建物が難波・玉造資料館で、古代勾玉遺物などが保管されているらしい(平時は非公開)

境内(拡大版)

その境内に建つ豊臣右大臣秀頼公の銅像。秀吉と側室の淀殿との子として文禄2(1593)年8月3日に大坂城で誕生した。史料が乏しいため人物像が様々である。本像は現在の大坂城天守閣建造80周年を記念して平成23(2011)年に竣工した。ちなみに銅像脇の説明板が貼り付けられた石は秀吉時代の大坂城の石垣と同じ生駒山の石を使っているらしい:

京都・養源院に伝来する瓜実顔で線の細い少年画像を基に作られた銅像

豊臣秀頼公像(側面)

一説には「大兵にて御丈6尺5寸余り」とか「世に無き御太り」と巨体漢であったとも

正面から

ドラマや映画などではひ弱で優柔不断なイメージが先行しているが、その他に「大柄にて御丈6尺5寸余(約197cm)」で大いに賢き人であるため他人の臣下となる人物ではないと云う説もあるのだとか。慶長16(1611)年に京の二条城で19歳となった秀頼と徳川内府が会見した際に、秀頼の威風堂々たる容姿を目の当たりにし、成長していく将来に畏れをいだき、摂津・河内・和泉三カ国を領する65万石余の一大名であった豊臣家を滅亡させることに決したと云われている。

銅像の奥には、この神社再興時に奉納されたと伝わる鳥居がある:

「摂津名所図会」にも徳川幕府の大坂城鎮守神の鳥居が描かれている

豊臣秀頼公奉納鳥居

本来は本殿正面に建っていたもので大坂の陣や明治維新、さらには太平洋戦争の空襲といった戦禍に耐えて残っていたが、平成7(1995)年1月の阪神・淡路大震災で基礎に損傷を生じ、鳥居の上部と脚部に分割して現在の場所に保存されていた:

平成7(1995)年の阪神・淡路大震災で損傷したため部分的に保存

秀頼公奉納鳥居の一部

慶長8(1603)年3月に豊臣秀頼によって再建された際のもの

「慶長八年三月」の刻印

この鳥居の奥には「千利休居士顕彰碑」の石碑が建っていた:

ここ玉造は秀吉時代の大坂城三の丸にあたり千利休の屋敷があった

「千利休居士顕彰碑」

この神社がある玉造は秀吉時代の大坂城の三の丸にあたり、いわゆる武家町が形成されていた[f]往時は玉造禰宜町(たまづくり・ねぎちょう)と呼んでいた。が、その中には千宗易の屋敷もあったと云う。
往時は茶の湯で使用した水を屋敷内の井戸から汲んでいた。そういう縁で千宗易を偲ぶ「利休井」が境内で再掘されていた:

三の丸にあった千利休の屋敷にあった井戸を偲ぶために再掘された

利休井

千宗易が屋敷を構えていたことから、この神社の周辺には彼の門人である細川忠興[g]のちの茶道三斎流。玉造稲荷神社のすぐ西側にある越中公園そば(大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12-8)が邸宅跡で「越中井」と呼ばれた井戸があった。や古田重然[h]のちの茶道織部流。屋敷内には「山吹井」と呼ばれた井戸があった。らの屋敷もあったと云う。

ちなみに往時、玉造周辺に屋敷を構えていた大名や文化人は次のとおり:

【玉造周辺に屋敷を構えた大名・文化人】

岡山町: 前田利家・利長、宇喜多秀家、島津家久、鍋島勝茂、明石守重

越中町: 細川忠興

玉造町: 浅野長政、小出吉英・吉親、古田重然、千宗易

仁右衛門町: 増田長盛

紀伊国町: 浅野幸長・長晟

竜造寺町: 龍造寺政長

八尾町: 曽呂利新左衛門(落語家)

半入町: 前波半入(茶人)

境内には他にも豊臣家ゆかりの史跡がいくつかあった。
こちらは胞衣塚(よなづか)大明神。秀頼と母・淀殿を結ぶ胞衣(卵膜・胎盤など)が埋められ、現在まで祀られている神社:

「胞衣」は秀頼公の「分身」として扱われた

胞衣塚大明神と秀頼公供養碑

鳥居の先にある右手の萬慶(まんげん)稲荷社は豊臣家が大阪城内で祀っていた稲荷社を移設したもの:

左手の新山稲荷社は徳川時代の大坂城代・松平輝和が祀っていた社

萬慶稲荷社(右手)

このあとは大阪女学院前を通って「長堀通」こと府道R173へ。

大坂城南惣構堀跡(長堀通)

ここであえて大阪女学院の前を通って長堀通へ向かった理由は、秀吉時代の大坂城惣構のうち三の丸南側堀の縁(へり)をその「高低差」(大阪高低差学会参考)から見ることができるからである。
三の丸の外側を土塁や空堀で囲んだ惣構は大坂冬の陣の後に破壊され埋められてしまっているので現在はもちろん見る影はない。

例えば三の丸跡(大阪女学院)側から南惣構堀跡の長堀通を見下ろすとこんな感じ。踊り場が設けられている階段なので比高差は10m位はありそう:

階段下にある長堀通が惣構の空堀跡とされている

南惣構堀跡

逆に長堀通り側から三の丸があった丘陵を見上げたところ

三の丸跡を見上げる

このまま長堀通へ下りてみる:

かっての大坂城惣構南側の空堀であるが大坂冬の陣の後に埋められた

長堀通

慶長19(1614)年の大坂冬の陣は真田丸勢の活躍により難攻不落の城に籠城した豊臣勢が優勢であったにもかかわらず、和睦では幕府勢が有利に進めた。

これは厳寒の中での戦は寄せ手にとって不利であったのに内府は少しも慌てずに、まずは和議を申し込んだ。その一方で真田丸の戦いでの轍を二度と踏まないよう徳川秀忠以下、諸軍にきつく言い聞かせた上で、執拗に大筒を城内へ撃ち込んだことで籠城勢の士気をくじくことに成功したからといえる。
特に大坂城北側の大和川と淀川が合流して天満川になる辺りの中洲(備前島)には100門もの大筒が備え付けられ、容赦なく砲弾が放たれた。大筒は国産のものの他に英国から購入したものも含まれており、外国産は飛距離が長く本丸まで届くことがたびたびだったと云う。そして本丸へ向かって放たれた一発の砲弾が本丸御殿に命中し、壁が崩れて侍女8名が命を落としたことに淀殿は狼狽し和議に応じてしまったことで、幕府勢主導の形で講和の条件が決められることになった。

和睦交渉も素人同然の女同士[i]豊臣側は淀の方の妹である初(常光院殿)、徳川側は家康の側室である阿茶局。他に本多正純も同席した。によって始められ、淀の方の人質は無し、秀頼の身の安全と本領安堵に加え、恐怖のまとであった大筒による砲撃の即時中止と云う「美味しい餌」につられ、本丸を残して二の丸と三の丸を破却し、惣構は土塁を崩して堀を埋めると云う講和の条件が決まった。

この二の丸と三の丸、そして難攻不落の「一翼」を担っていた惣構の破却が豊臣家の命脈を縮める一因となった。

ここで別の場所で南惣構堀跡から見上げた三の丸跡方面:

大阪女学院が建つ丘陵をかっての南惣構堀南であった長堀通りから高低差が残る坂を眺めたところ

惣構跡から三の丸跡を見上げる(拡大版)

豊臣家の安堵とは裏腹に、和議が成立するや否や幕府勢は近隣の住民をも動員して突貫工事で三の丸と惣構の破却を開始した。これが惣構の土塁を崩し、その残土を掘の中に埋めた結果である:

坂を下った長堀通りがかっての南惣構の空堀である

南惣構堀跡

この坂の上が三の丸跡に建つ大阪女学院

三の丸跡を見上げる

惣構の共に真田丸も徹底的に破壊された。そして和議では豊臣家が担当することになっていた二の丸の破却も幕府勢が強引に完了してしまった。これにより秀吉が精魂込めて築造した難攻不落の城は本丸を残すだけの丸裸の城になってしまった。

大坂城南惣構堀跡(清水谷公園)

長堀通を渡って真田丸跡方面へ向かう前に、もう一ヶ所惣構跡の高低差を確認できる場所へ向かった。これが清水谷公園で、先の玉造稲荷神社で見た千宗易の再掘井戸や三斎井、吹上井といった往時の井戸の源流である「玉造清水」と云う水脈があったことでも知られている。

こちらが清水谷公園の入口。この高低差のある階段がいかにも惣構跡を物語っていた:

ここも南惣構堀の「縁」にあたり、階段とその勾配が段差の面影を残していた

清水谷公園(拡大版)

公園内の至るところで堀跡に相当する道路との比高差が大きく櫓台跡のような場所を見かけた:

櫓台跡のような高台が残っていた

清水谷グラウンド横

こちらは公園中の高台から真田丸跡・惣構堀跡を見下ろしたところ。正面に建つマンションの手前の道路が堀跡、マンションの背後が真田丸跡になる:

公園は惣構の縁(へり)にあたる場所に造られていた

清水谷公園

道路が空堀、マンションの裏側が真田丸というイメージ

コメント付き

円珠庵/鎌八幡

このあとは清水谷公園を出ていったん南へ向かってから真田丸跡である大阪明星学園を目指すことにした。これは少し遠回りになるが、惣構から真田丸までの外観をなぞるようなルートになり、空堀があった跡のようなゆるやかな勾配をみることができた:

道路が空堀跡で、この道路の左手が真田丸跡とされる

空堀跡

右手が真田丸跡で、南側から南惣構堀跡へ延びる坂にも勾配があった

空堀跡

大阪明星学園の手前、真田山と呼ばれる丘陵上には円珠庵[j]圓珠庵とも。信仰の寺のため内部の写真撮影は禁止だった。と云う祈祷所兼寺院がある:

真田山一帯の小高い場所に建つ真田幸村ゆかりの寺院

円珠庵(鎌八幡)

真田幸村が鎌を打ち付け「鎌八幡大菩薩」と称して祈念したと云う

円珠庵(鎌八幡

摂津国八十八ヶ所の第十五番霊場でもある円珠庵は別名が「鎌八幡」と呼ばれ、大坂冬の陣のときに真田幸村がこの土地に陣所(真田丸)を構えたが、この寺院の信仰を聞き伝えて榎(えのき)に鎌を打ち付け「鎌八幡大菩薩」と称して祈念したところ幕府勢を打ち負かして大いに戦勝をあげたと伝えられる。この時の榎の霊木は太平洋戦争時の空襲で焼失したが、幸いにも根っこは残っており新芽が出て蘇生し現在に至るのだとか。

ここ餌差町(えさしまち)を通る坂は、遠い昔には三韓坂と云われた古道にあたり、榎の霊木はこの右手奥にある円珠庵の境内にあったと云う。そして右手前の敷地が大阪明星学園で、これらを含めて真田丸の一部とされる:

道路が空堀跡であり、現在は右手に建つ明星学園の敷地内(グランドあたり)が真田丸跡と推定されている

旧・三韓坂は真田丸の一部だった(拡大版)

ちなみに鎌八幡の中に入ることは可能だが写真撮影は禁止だった。

真田丸跡

こちらが大阪明星学園の西側にある正門。正門に向かって左手にあるグラウンドが破却された真田丸跡だというのが執筆時現在で有力な説である:

現在、学園内のグランドが真田丸跡とする説が有力である

大阪明星学園の西側にある正門

ということで許可無しでは敷地の中に立ち入ることはできないので学園の東側にまわってグラウンドを外から眺めてみることにした。

ちなみに、こちらは広島県浅野文庫所蔵の『諸国古城之図』(広島市立図書館蔵)[k]旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。に収録されていた真田丸[l]但し、オリジナルと異なり向きを90度回転している。。この古絵図によって真田丸の存在が明確になったとされている:

大坂の陣が終結して地形が改変されてしまった後の状態を模写した可能性もあるとのこと

『諸国古城之図 − 真田丸(摂津)』(拡大版)

今回巡ってきた真田丸跡と近隣の寺院などの位置関係を重畳してみた(注:実図を90度回転している)

コメント付き(拡大版)

これは大阪明星学園東側の餌差町を南北にはしる心眼寺坂(しんがんじ・ざか):

手前(南側)から奥(北側)へ向かって高低差が残っていた

心眼寺坂

餌差町を南北に縦断する心眼寺坂の左手が真田丸跡とされる明星学園の敷地で、右手が古絵図も描かれている心眼寺などの寺院

心眼寺坂(拡大版)

この坂を境に左手が真田丸跡とされる大阪明星学園のグラウンド、その右手には心眼寺をはじめとする寺院が立ち並んでおり、まさに古絵図に描かれたとおりの地割になっていた:

手前(南)から奥(北)へ向かって落ち込んでいるのがわかる

真田丸跡と推定されるグラウンド

このままグラウンドを横目に心眼寺坂を下りていくと「真田丸顕彰碑」なる石碑が建っていた。どうやら大河ドラマの放送に合わせて建てられたものらしい:

大阪明星学園のグラウンド脇に建つ石碑は平成28(2016)年の大河ドラマの放送に合わせて建てられた

真田丸顕彰碑(拡大版)

これは城郭研究家の坂井尚登氏が真田丸のいろいろな古絵図から往時の地形を復元することで得られた『真田丸塁線の比定』。現在の地割と比較してとても分かりやすい図になっている:

「真田戦記」(学研ムック・歴史群像編集部・編)のP9より

『真田丸塁線の比定』(拡大版)

坂井氏が復元した真田丸は、真田山の惣構が北側(図中上側)へ屈曲する部分に突出し、それ以外の三方を堀で囲んだ矩形型の郭で、特徴的なのが東側には切岸のみで囲まれた郭(「宰相山陣地」と仮称する)が設けられていたとしている。
この図から分かるのは現在の大阪明星学園のグランドや校舎の他に、先ほど立ち寄った円珠庵と旧・三韓坂も真田丸の一部であったと云うこと。そして、その南側にある大阪府立高津高等学校の北側は空堀だったようだ。さらに心眼寺・興徳寺・大應寺が建つ南北に細長い丘陵と真田山陸軍墓地との間にある道路あたりも空堀であった。そして真田山陸軍墓地や三光神社は宰相山に相当し、これもまた真田丸の一部であった。宰相山はのちに真田幸村の計略で加賀前田の軍勢が占領し陣を置くも、逆に真田丸からの攻撃の的になってしまうが。

こちらが現在の真田丸跡。奇しくもグラウンドの周囲にはられていた防球ネットなどが砦っぽさを演出していた:

右手(北側)が惣構方面で、真田丸との間に小郭が設けられていたらしい

真田丸跡

大阪明星学園のグラウンド下までおりてくると空堀跡が残っていた:

正面のグラウンドが真田丸で、手前の道路が街道、右手の道路が空堀跡、さらにその先に小さい郭があった

大阪明星学園グランド下(拡大版)

左手のグラウンドが真田丸跡、この道が空堀跡、右手が小郭跡

空堀跡

興味深いことに、空堀通の東端で天王寺区に位置するこの場所には空堀町という地名が残っていた:

空堀通の東端であったことを裏付けるかのような町名である

空堀町

こちらは心眼寺下の空堀跡。坂と境内がある丘陵が、現在も出丸跡をイメージさせてくれた:

右手が心眼寺の境内、正面奥は宰相山公園方面である

心眼寺下の空堀跡

この道の先は真田山陸軍墓地であるが、往時は宰相山であり真田丸の一部でもあった。この道路がそのまま空堀に相当する。

真田山・心眼寺

こちらが古絵図に描かれていた心眼寺坂沿いに北から南へ向かって建っていた寺院。これらが建っていた小高い丘も真田丸の一部だった:

真田幸村・嫡子大助の冥福を祈るために江戸時代に再建された

心眼寺

真田丸脇の街道沿いに建っていた高野山真言宗の寺

興德寺

真田丸脇の街道沿いに建っていた浄土宗の寺

大應寺

この中で空堀跡そばの真田丸跡に建つ真田山・心眼寺(しんがんじ)は豊臣秀吉が大坂城を築城した頃の創建であるが、大坂冬の陣の戦禍に巻き込まれて取り壊された。それから豊臣家が滅亡した八年後の元和8(1622)年に真田家の先祖にあたる海野氏の助力で再建された:

真田丸跡に再建され真田幸村・嫡子大助を供養している

心眼寺の山門

この寺では大坂の陣で討ち死にした真田幸村・大助父子を供養している他に、江戸時代末期の慶応3(1867)年に京都河原町(かわらまち)の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎を襲撃して暗殺した京都見廻組の隊士三名[m]桂早之助と渡邊吉太郎と高橋安次郎の三人は鳥羽伏見の戦いで戦死した。ただし高橋の供養塔は現在は存在しないらしい。の供養塔もあった:

京都の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎を暗殺したとされる隊士

京都見廻組隊士の墓所の案内碑

心眼寺は大坂の陣で造られた真田丸跡に再建された

「真田幸村出丸城跡」の碑

山門にあしらわれていた定紋(じょうもん)は六連銭であった:

起源は三途の川の渡し賃として納棺の際に六銭入れる地蔵信仰から

山門の定紋にあしらわれた六連銭

山門をくぐって左手にあるお堂の隣には「従五位下・真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と彫られた墓碑が建っていた。これは幸村の四百回忌に際して建立されたのだとか:

心眼寺は江戸時代から幸村親子の菩提を弔っており、四百回忌となる平成26(2014)年に際して墓碑を建立したという

「従五位下・真田左衛門佐豊臣信繁之墓」の石碑(拡大版)

墓碑の脇に建つ説明板には「慶長二十年五月七日 於・摂州大坂討死 四十九歳」とあった。そして、一般に「幸村」の名で知られているが、現存最後とされる書翰(しょかん)には「左衛門佐信繁(さえもんのすけ・のぶしげ)」と署名があり、生前は「幸村」とは名乗っていなかったと考えられているのだとか。江戸時代中頃には軍記物で「幸村」の呼称が流行っていたらしい。また「豊臣」姓は秀吉から賜ったもので、秀吉の親族はもちろん外様である毛利輝元や徳川秀忠など有力大名も賜っていたとされる。

真田山陸軍墓地・宰相山公園

このあとは心眼寺を出て空堀町を横切り、宰相山西公園あたりから旧帝国陸軍が作った日本最大にして最古の陸軍軍人墓地を経由して宰相山公園へ向かった。

こちらが真田山陸軍墓地。大坂城周辺に中枢機関が建てられた明治4(1871)年には徴兵制が施行され、それにあわせて陸軍創始者である大村益次郎が作った日本最初の陸軍墓地:

「真田山」とあるように宰相山を削平して造られた最古の陸軍墓地

真田山陸軍墓地

この墓地も大坂の冬の陣の頃は「宰相山」の一部であり、入ってみるとその広さに驚かされたのは勿論であるが、かなりの平坦地であったことが印象に残った。敷地の南東隅には宰相山公園へぬける入口があった:

右手奥が宰相山公園

真田山陸軍墓地

なんとなく真田丸を意識した造りになっていた

宰相山公園

ここ宰相山公園は、先に紹介した坂井尚登氏が推定した真田丸では宰相山陣地(仮称)として設けられた特別な郭であったとされ、幸村は「真田山」と「宰相山」の二つの郭で「真田丸」とした戦術を張り巡らしていた。すなわち豊臣勢にとって二つの郭は一体化した存在であるが、幕府勢はそのようには認識していなかったのだと云う。宰相山陣地は「山」であるが、その頂部は平坦になっていた。そのため幕府勢に占領されたとしても真田山の陣地からその西半分に対して十分に銃撃を加えることができる立地にあったと云う。

ここで幸村が名将たる由縁は、この真田丸の本来の攻略方法を偽装して敵勢を欺いた上に『攻撃は最大の防御である』を実践した戦略を下したことにある。それが宰相山陣地の放棄であった。

十二月四日未明、真田丸勢が「篠山(ささやま)」を囮に展開して加賀前田勢を挑発したと云う。この篠山の実体は不明であるが、仮に宰相山陣地とすると幸村は陣地を放棄し、挑発にのって平野口へ向かう前田勢に宰相山をたやすく占領させてしまった。真田勢が突如、二つある郭の一つを放棄したことで前田勢は陣地を占領せざるを得なくなった。これにより前田勢はまんまと幸村の策謀にのかってしまったと云うことになる。おまけに、その様子をみていた井伊直孝と松平忠直、そして藤堂高虎や伊達政宗の各隊も遅れをとってはならぬと我先に攻め込んできたのだった[n]真田丸勢から見れば「鴨がネギを背負ってやってきた」と云ったところか。

こちらは大坂冬の陣の陣立図の抜粋:

大坂冬夏陣立図のうち「冬の陣図」(大阪城天守閣蔵)の抜粋

大坂冬の陣の真田丸(拡大版)

真田丸に対峙していた幕府勢で一番に「釣られた」のが加賀の前田肥前守利常(まえだ・ひぜんのかみ・としつね)の軍勢である。利常は、加賀藩祖で織田信長の馬廻り衆・赤母衣衆の一人であり、「槍の又左」の異名と持ち、豊臣政権では五大老の一人であった加賀大納言こと前田利家の四男で加賀藩の二代藩主。

前田勢は不本意な形で戦闘を開始した上に、先陣が不用意にも竹束や鉄盾を持たず攻めかかってしまったため多くが戦死し砦に突撃する能力を失った。さらに先陣争いで井伊直孝や松平忠直らの軍勢が戦闘に加わったことで引くことも寄せることもできなくなり損害が拡大して敗北したと云う。

三光神社

ここ真田山・三光神社(さんこうじんじゃ)は五年前に真田丸跡を巡った際にも訪問したゆかりの場所である:

鳥居の手前に残る柱が太平洋戦争の空襲で焼失した片柱と云う

三光神社の鳥居 〜 片柱の鳥居

境内の名所の一つである「片柱の鳥居」をくぐり参道を直進すると陣中指揮姿の真田幸村の銅像と真田の抜け穴跡があり、右手の階段を上がると再び「片柱の鳥居」があって、その奥に社殿がある:

このまま直進すると銅像と抜け穴跡、右手上へ上がると社殿がある

六連銭の幟が建つ参道

こちらが社殿。「幸村決戦の地・真田丸跡・三光神社」の顔ハメの他に、社殿の中には毎年11月の「真田祭」でだされる行灯が展示されていた:

社殿の手前にも石鳥居が二基建っていて、その内の一つは大戦中に米軍の空襲で破壊されたもので脚部しか残っていないとのこと

社殿(拡大版)

社殿を降りたところには、境内地の名所之一つでもある「真田幸村公之像」。ここ大阪真田山ライオンズクラブと幸村の故郷にある上田ライオンズクラブとの間の姉妹提携五周年を記念して建立されたもので、台座には真田家の菩提寺である信州の長谷寺より取り出した真田石を使っているらしい:

左手の抜け穴の上にある六連銭の置盾はまるで真田丸から鉄砲を撃ちかけているかのような演出だった

「眞田幸村公之像」(拡大版)

いまなお采配を振るう真田幸村公

「眞田幸村公之像」

銅像の脇にある「史蹟・真田の抜け穴」:

真田丸が大坂城の近くにあったと云う従来説が生んだ伝説である

史蹟・真田の抜け穴

六連銭がついた鉄扉の奥には綺麗な石積みで囲まれていた

地下暗道への入口

これも真田丸の実体がはっきりとしない時代に、惣構から突き出た出丸を真田丸とする説から生まれた伝説である[o]確かに浪漫はあるが。

前述のとおり、三光神社は幸村の戦略にまんまと乗せられた加賀前田らの陣城であったが、真田丸からの痛烈な銃撃に見舞われ甚大な被害を被った。一説に家康とは姻戚関係にある利常が功に焦った結果とされている。

こうして大坂冬の陣では真田丸の予想外の働きにより、その後の講和を有利にすすめることができたにも関わらず、結果は難攻不落の城が丸裸にされてしまった。結局、豊臣家は「戦いに勝って勝負に負けてしまった」と云うことになる。

See Also真田丸攻め (フォト集)
See Also真田幸村と大坂の陣 (攻城記)
See Also真田幸村ゆかりの地巡り- 大坂夏の陣 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。
b むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。
c 実際には、人質として大坂在城時に同じ秀吉の馬廻衆(うままわり・しゅう)として旧知な間柄であった大野治長(おおの・はるなが)が推挙したと云う説が有力である。
d 他に「真田丸出城」とか「真田出丸」などの呼び名がある。
e 三日月形の堀と馬出から構成された防御施設。そのため真田丸は「偃月城(えんげつじょう)」とも呼ばれていたのだとか。
f 往時は玉造禰宜町(たまづくり・ねぎちょう)と呼んでいた。
g のちの茶道三斎流。玉造稲荷神社のすぐ西側にある越中公園そば(大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12-8)が邸宅跡で「越中井」と呼ばれた井戸があった。
h のちの茶道織部流。屋敷内には「山吹井」と呼ばれた井戸があった。
i 豊臣側は淀の方の妹である初(常光院殿)、徳川側は家康の側室である阿茶局。他に本多正純も同席した。
j 圓珠庵とも。信仰の寺のため内部の写真撮影は禁止だった。
k 旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。
l 但し、オリジナルと異なり向きを90度回転している。
m 桂早之助と渡邊吉太郎と高橋安次郎の三人は鳥羽伏見の戦いで戦死した。ただし高橋の供養塔は現在は存在しないらしい。
n 真田丸勢から見れば「鴨がネギを背負ってやってきた」と云ったところか。
o 確かに浪漫はあるが。