本丸北の山里丸から内濠を挟んで搦手口に架かる極楽橋前から眺めた復興天守

太閤秀吉[a]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。が生前に精魂を注いで築き上げた大坂城[b]ちなみに縄張は初代築城総奉行であった黒田如水が担当した。本丸を中心に広大な郭を同心円状に連ねた輪郭式平城で、郭と郭の間に堀を配した。は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家の滅亡と時を同じくして落城した。秀吉が齢61で没してから僅か十七年後のことである。そして元和6(1620)年の徳川幕府による天下普請[c]総責任者は今治城宇和島城の築城で知られる藤堂和泉守高虎。で秀吉の大坂城は石垣と堀が全て破却され、その上に盛土して新たな石垣を積み、江戸城と同じ層塔型天守[d]秀吉が築いた天守は五層六階(地下二階)の連結式望楼型。この家康が築いた天守は「寛永度天守」とも。が築かれた。完成まで九年の歳月を費やした近世城郭は規模こそ秀吉の時代の惣構(そうがまえ)と比べて1/4に縮小されたものの、天守は遥かに凌ぐ巨大建造物となり、装飾も単調にならないように層ごとに千鳥破風の数を変え、最上部に銅瓦葺をあつらえた上に、本丸を中心に二重に配された掘割は江戸城より壮大なものに仕上がった。そして天下普請を物語るように城内の主要な虎口には巨石が使われ、郭の隅には数多くの櫓が建てられた。その数は最も多い時で本丸11棟、山里丸2棟、二の丸14棟、その他多聞櫓5棟に及ぶ[e]秀吉の時代には本丸に5棟の櫓が建っていたことしか判っていないらしい。。しかし寛文5(1665)年に天守が落雷で焼失、明治維新での大火や大戦時の空襲でその多くが焼失し、現在の大阪城公園に現存するのは千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓・大手口多聞櫓の5棟のみ[f]これらは国の重要文化財に指定されているが、他に大手門・金蔵・金明水井戸・焔硝蔵・桜門などがある。である。

今年は令和元(2019)年の文化の日を含む連休は、大阪府大阪市中央区大坂城1の大阪城公園で開催されていた「大阪城の櫓(重要文化財)内部特別公開」へ行って来た。
と云うのも、悲しいかな新しい元号に変わったこの年はたくさんの天災が日本全国を縦断した。夏から秋にかけては関東甲信地方も予想だにしなかった台風・強風・大雨による被害は甚大で、その影響は交通機関を含む生活環境はもちろん古城跡といった観光名所にも及んだ。加えて個人的には週末の天候が不良続きだったために城攻めに行く機会を何度も逸していたのだが、幸いにも「霜月」に入ると良好の日が多くなった。そこで早速「お流れ」になっていた城跡へ行こうと思ったのだけれど、関東方面はまだまだ天災の影響が収まりきっていない所が多かったので関西方面でどこかないか調べていたところ、特別公開のニュースが目に入ってきたと云う次第  =)
どうも、この手のイベントは毎年一回程度は開催されているようで、特に令和元年のこの年は春頃から秋までの長期(土日限定)公開であるとのこと。この機会を逸すると(もしかしたら震災か何かで)観られなくなるのではと云う思いと、今月末で終了してしまうということから思い切って前日の夕方に大阪入りし、翌朝の連休最終日は早々に大阪城公園へ向かうことにした。

ただ特別公開の入場券は朝10時からの発売[g]天守閣入場の抱き合わせだと1,200円(当時)。自分は櫓見学だけなので700円(当時)。とのことで、それまでの空いた時間は五年ぶりに大坂城を攻めることにした。この日は晴天の上に振替休日ということもあって観光客が大挙して押し寄せてくることが予想されたので、じっくり攻めずに軽めに公園を一周する感じで天守閣の眺望スポットを巡ってきた。そのあとに一番に売り場に並んで重要文化財指定の大手口枡形(大手門+多聞櫓の渡櫓門+続櫓)と千貫櫓、そして焔硝蔵(えんしょうぐら)の内部を見学しつつ、五年前は見落とした[h]実は単に有料だったので無視してしまったと云う方が正しい 😉 。西の丸跡(現・西の丸庭園)を散策してきた。

これはGoogle Earth 3Dで俯瞰した大阪城公園に主要な遺構(建築物)の場所や園内とその周辺の名称、そして公園を一周した際の撮影ポイント()を重畳したもの:

本丸跡に建つ復興天守は昭和6(1931)年竣工で、平成9(1997)年には国の登録有形文化財に指定された

大阪城公園(Google Earthより)

一時は帝国陸軍の軍用地として使用されていたが平成7(1995)年から「平成の大改修」が行われ天守閣は外観の他にも耐震補強された

コメント付き

なお今回は前回の城攻めで見てきた本丸跡や山里丸跡は割愛した。天守閣もそれ以外の郭から眺めただけにとどめた。

ちなみに現在の復興天守は昭和の時代に建造されたものであるが、秀吉の頃(落城時に焼失)や家康の頃(落雷で焼失)のものと比較して「最も長生き」していることから、平成9(1997)年には国の有形文化財に登録されている。

こちらが今回の城攻め経路と実際のGPSアクティビティのトレース結果[i]櫓特別公開で建築物の内部を観て回った経路も含む。。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は6.50㎞(28:41分/㎞)、所要時間は3時間6分(うち移動時間は1時間49分)ほどだった:

朝08:30〜昼11:40までの間、移動は全て徒歩、西の丸庭園には「櫓特別公開」を通して入園し、最高高度は34m

My GPS Activity

今回の城攻めの目的でもある「櫓特別公開」ではチケット売り場から次の経路で巡ってきた。なお内部に入れた建築物は大手口枡形の続櫓と渡櫓門(共に多聞櫓)、千貫櫓、そして焔硝蔵のみ:

大手前芝生広場 → 大手前交差点 → 京橋口 → 極楽橋 → 青屋門 → 太陽の広場・記念樹の森 → 玉造口 → 桜門 → 豊國神社 → 大手口枡形 → (チケット売り場)

(チケット売り場) → 大手口枡形の続櫓 → 大手口枡形の渡櫓門 → 千貫櫓 → (坤櫓跡) → 乾櫓 → 大坂迎賓館 → 焔硝蔵 → 西の丸庭園出入口 → ・・・ → 大手前芝生広場


大坂城攻め

まず「櫓特別公開」のチケット販売までの時間を利用して大阪城公園をぐるりと一周してきたのだが、その際にお城めぐりFANというサイトで紹介されていた「大阪城マップ」の撮影ポイントから公園内の見所を眺めてきた。こちらは撮影ポイントからそれぞれ撮影対象をベクトルで示したもの:

撮影ポイントから眺めた対象をベクトル表示したもので、ほとんどが復興天守である(実際には撮影時刻や季節も影響してくるらしい)

大阪城公園の撮影ポイント

参考にしたマップには撮影ポイントの他にもたくさんの見所が記載されているので、初めて大阪城公園を巡る際はかなり参考になるはず。

まずは宿泊先を出て三の丸跡の大手前芝生広場へ向かい、大手門枡形と千貫(せんがん)櫓を眺めた:

中央に見える大手口渡櫓門のすぐ北の西外濠内側の石垣上に建つ千貫櫓

千貫櫓と大手門枡形

千貫櫓は大手口を側面から守備する二層二階の隅櫓で、創築は徳川幕府による元和6(1620)年の大坂城再築時と同じである:

二層二階の千貫櫓は二の丸北隅に建つ乾櫓と同じく創築以来、一度も焼失していない城内最古の建築物である

西外濠と千貫櫓(拡大版)

「千貫櫓」の由来はかなり古く、戦国時代にあった石山本願寺[j]戦国時代初期にあった浄土真宗の寺院であるが、往時は寺院を中心に堀や土居などの惣構えで囲った城郭であり、寺内町でありながら門の脇には鉄砲を放つ櫓が建っていたと云われている。の隅櫓に因んでおり、織田信長と本願寺顕如との間で繰り広げられていた石山合戦のおり、ここに建っていた櫓からの横矢に悩まされていた信長は「千貫文の銭を出してでも奪い取りたい櫓だ」と云わしめたという伝説があるらしい:

二層目西面の屋根は二の丸の隅櫓の中で唯一の唐破風になっている

千貫櫓

大手口に迫る寄せ手を側面から攻撃できる防衛上重要な隅櫓

千貫櫓

三の丸跡から眺めた千貫櫓の二層目の屋根は二の丸の中にある隅櫓の中で唯一の唐破風で装飾されているが、これは大手口を守備する上で最も重要な防衛施設であることはもちろん、大坂城に入城する際に一番最初に目につくが故に格式の高い建物であったことも伺える。

また西面をよくよく見ると若干、左手に傾いているのが分かる。実際、今回の櫓特別公開で中に入ってみたら床が傾いているのが実感できた。櫓内で説明してくれたボランティアの方によると、櫓の南側は石垣であるが北側は土居になっているため経年により土居側が沈んできているらしいとのこと。

このあとは上町筋に沿って大手前交差点へ向かった。この時も右手には西外濠と西の丸高石垣を眺めることができる。この高石垣の隅には乾(いぬい)櫓と坤(ひつじさる)櫓があったが、後者は太平洋戦争での空襲で焼失した:

奥に見える隅櫓が乾櫓、同じ線上にあって南側にあったのが坤櫓(跡)

西外濠と西の丸高石垣

大手前交差点近く(ポイント①)からは西外濠ごしにL字型をした[k]こちら側よりも西の丸庭園側から見た方がL字型であることが際立ってよく分かる。西の丸庭園の入場は有料であるが。乾櫓を眺めることができる:

西外濠ごしに北・西・南の角度から櫓を望めたので「三方正面の櫓」と呼ばれた

乾櫓

城内最古の建造物で重要文化財だが今回の特別公開で対象外だった

総二階造りの乾櫓

乾櫓は先ほどの大手口から、これから向かう京橋口までの広い範囲を見渡すことができる場所に建っているため西外濠を挟んで北・西・南の三方から櫓を望めることから「三方正面の櫓」とも呼ばれた。この二層二階の櫓は一階と二階の広さが同じである「総二階造り」と云う珍しい技法が用いられていた。

乾櫓は今回の「櫓特別公開」の対象外で内部は立ち入ることができなかったが西の丸庭園の中からL字型の外観を間近に見ることができた。

このまま京橋口から公園の中に入る:

太閤秀吉時代の大坂城から存在していた虎口

京橋口

大坂城の虎口である京橋口は、現在の寝屋川に架かる京橋の近くにあることが名前の由来である。この橋は大坂と京都を結ぶ京街道(きょうかいどう)の起点にあたり、東海道五十七次[l]一方の「東海道五十三次」は京都が終点であるが、天下の台所である大坂まで東海道が延長され、それらの宿場を含めたのが五十七次である。の終点である。

京橋口は枡形虎口となっており、枡形の石垣の中にあるのが城内で第二位の大きさを誇る肥後石:

大坂城内で第二位の巨石は岡山藩主・池田忠雄が持ってきたもの

肥後石

天下普請時に、この巨石を持ってきたのは姫路藩主・池田輝政の六男で岡山藩主の池田忠雄である。ちなみに第一位の巨石である蛸石と、同じく第三位の振袖石も忠雄が瀬戸内海の島から持ち込んだ。

京橋口を過ぎて公園内に入ったら内濠近く(ポイント②)から天守閣を望む:

午後で風が無い日は水濠に石垣と天守閣が移り込む逆さ天守閣を望めるらしい

内濠ごしの天守閣(拡大版)

さらに極楽橋の前を通って青屋門へ向かうが、この門の脇にある雁木(がんぎ)から土塁上に登って山里丸の木々から顔を出した天守閣を望む(ポイント③):

天守閣を望む撮影ポイント③は向かって左手にある雁木を登ったところ

青屋門

山里丸に生い茂った杜が邪魔であまり良いポイントではなかった

杜の中から顔を出した天守閣

そして青屋門から大阪城ホールが建つ三の丸跡に出る前に、再び内濠近く(ポイント④)から城内で一番の高石垣を眺めた:

内濠ごしに眺めた城内で一番高い本丸東面石垣は根石から約32mもあり、伊賀上野城を抜いて日本一とも

本丸高石垣(拡大版)

東側の内濠に面した本丸高石垣は、根石からの高さが約32mで現在国内にある近世城郭の中で最も高い。ちなみに六番櫓のある二の丸南面の高石垣は約30mで第二位、そして約29.7mである三重県の伊賀上野城[m]黒澤明監督作品である映画『影武者』では高天神城のロケ地として使われた。が続く。

このあとは青屋門から二の丸跡を出て大阪城ホールの先にある太陽の広場へ移動する。当時はイベントか何か大規模な会場設営をしていたので、少し遠回りでさらに奥へ進み、広場と杜の境界線あたりにあるマンホール上(ポイント⑤)から天守閣を眺めた:

今回の撮影ポイントの中で最も遠い距離からなので望遠が必須である

杜の上に浮かぶ天守閣

工事関係者の邪魔になりそうだったので早々に退却し、記念樹の森を抜け東外濠を横目に玉造口へ:

東外濠に向かって二の丸高石垣上には玉造口を防御する櫓があった

二の丸高石垣と巽櫓跡

二の丸高石垣は数カ所に折れが設けられていた

東外濠

けっこうな高低差のある斜面に設けられた階段を登った先には玉造口へ向かう登城道があり、時間は朝9時半近くにさしかかる頃であったにも関わらず周辺は既に大勢の観光客が行き来していた :$

しかしながら登城道を挟んで眺めた先には、南外濠ごしに朝日でひときわ白く輝く一番櫓があった:

南外濠の先にそびえる二の丸高石垣の左手隅にはかっては二番櫓があったが大戦中の空襲で焼失した

南外濠と一番櫓(拡大版)

なお、かって南外濠側の二の丸高石垣の上には七基の隅櫓が建っていたが現在残っているのは東側の一番櫓と西側の六番櫓のみ。二層二階の一番櫓は(かっての二番櫓と共に)玉造口へ寄せた敵を側面から迎撃することができた。残念ながら六番櫓と共に今回の「櫓特別公開」の対象ではなかった。

それから人の波を押し分けて玉造口から二の丸跡へ入り、すぐ横の雁木に上がる(ポイント⑥)。そこから背後の南外濠と正面の天守閣をそれぞれ眺めた:

手前にある玉造口へ繋がる緩い坂と三の丸石垣、そして南外濠

玉造口から見下ろした南外濠

玉造口の枡形を抜けて雁木の上に上がったところから眺めたもの

天守閣

雁木から降りて大手にあたる桜門へ向かって行くと、一段と観光客が多くなり「歩きスマフォ野郎」が多くなるので、正直こちらもあまりキョロキョロできない状態となる :|。 

まずは南側に折れて豊國神社へ。ここで太閤秀吉像を眺めるたびにどこから撮っても逆光だなぁと思うところである :|

境内に建つ関白秀吉像は今治城にある藤堂高虎公像と同じ作者だそうで

豊國神社

それから実質的な本丸跡への出入口にあたる桜門の前(ポイント⑦)へ。ここから門ごしに城内一の巨石である蛸石と天守閣を覗くなんて云うアングルが定番らしいが、かなり高度な条件が整わないと難しい:

インターネットでよく見かける「定番」のスポットらしいが、曜日とか時間とかを選ぶためかなり難度が高い

桜門+蛸石+天守閣(拡大版)

そんなものを苦労して撮るよりも、太閤秀吉の大坂城からずっと空堀だった内濠を見が方がマシな気もするだが、自分を除いてそんな奇特な観光客は皆無であった :D

大坂の陣で埋められた訳でもなく、なぜここだけ空堀としたのかは不明

内濠と高石垣

藪化が激しいが、こちら側の堀底には謎の石積の他に大戦中に作られた防空壕の穴なんがあるらしい

内濠と高石垣(拡大版)

この内濠を眺めながら西の丸庭園方面へ向かうと、なんとも奇妙な光景が目に入ってくる。名古屋城の天守閣と同様に、このような「露骨さ」は全く好意的には受け止められない :/

内濠をまたいで本丸跡と西の丸跡をつなぐ排水管

内濠と高石垣と?

そして五年前の城攻めでは敬遠した西の丸庭園入口。前回と変わらずに入場料が必要になるが、今回は「櫓特別公開」に含まれているので出る時にだけ利用した:

西の丸庭園の出入りはここからしかできない

「西ノ丸庭園入口」

ちなみに大阪城公園の大部分は国有地であるが、この西の丸庭園だけ大阪市の所有とのこと。

それから大手口にある大手口枡形へ。今回の「櫓特別公開」では枡形を構成する二つの多聞櫓の内部に入ることができるので外観を見てきた:

石垣で囲まれた枡形の石垣上に建つ渡櫓門を二の丸側から見たところ

渡櫓門の背面

現在の大手口枡形は、虎口を囲んだ石垣の上に建てられた二の門の渡櫓門(大門+渡櫓)と続櫓(つづきやぐら)の多聞櫓、そして一の門にあたる大手門(追手門)から構成されており「大手口多聞櫓」とも呼ばれていた。その実体は枡形虎口の中に入ればよく分かる:

正面が二の門の渡櫓門で一階が大門、二階が多聞櫓になっており、右手が同じく多聞櫓で渡櫓門に接続する続櫓

大手口枡形(拡大版)

寄せ手になったつもりで、大手門から40m☓50mの広さを持つ枡形虎口の中に入ると渡櫓門と続櫓によって囲まれ、城内から非常に強力な迎撃に晒される空間に変貌する。なお往時は続櫓の隣にもう一つ市多聞(いちたもん)と云われた多聞櫓があったが明治維新の際に焼失したのだと云う:

右手にあるのが一の門の大手門で、往時は正面にも市多聞があったが明治維新の際の新政府軍による攻撃で焼失した

大手口枡形(拡大版)

こちらが一の門にあたる高麗門形式[n]正面左右の親柱(おやばしら)の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱(ひかえばしら)との間にも屋根を乗せた形式の門。の大手門。屋根は本瓦葺き、扉や親柱は黒塗総鉄板張(くろぬり・そうついたてばり)と云う格式の高い門で、重要文化財:

城の正面である追手に設けられた門で枡形虎口の一の門に相当する

大手門の正面

後ろの控柱にも屋根のある高麗門形式である

背面

二の門の渡櫓門は一階が大門、二階が多聞櫓になっている。これらの櫓は天明3(1783)年に落雷によって全焼したが、嘉永元(1848)年に再建され現在に至る。また昭和42(1967)年から二年かけて解体修理されている:

大手口枡形を構成する二の門で、その右手に直角に折れて続櫓がある

渡櫓門の正面

こちらが渡櫓門に直角に接続している続櫓。格子窓は少ないが土塀と石垣との間に鉄砲狭間に相当する笠石銃眼が設けられている:

徳川幕府による大坂城築城時に建てられたが後に焼失し再建された

続櫓

この戦国時代から江戸時代にかけて築造方法が確立された多聞櫓は石垣の上に作られた長屋風の建物の総称である。徳川幕府によって改築された大坂城には大手口だけではなく京橋口や玉造口の枡形虎口にも建っていた。

あと、さすがに大手口だけあって続櫓を支えている石垣も見事な巨石が使われていた。左から城内第四位の大手目付石、城内第八位の大手三番石、城内第五位の大手二番石。全て熊本藩・加藤忠広が瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)から運んだもの:

熊本藩の加藤忠広が讃岐国は瀬戸内の小豆島から運んだもの

大手目付石

熊本藩の加藤忠広が讃岐国は瀬戸内の小豆島から運んだもの

大手三番石

熊本藩の加藤忠広が讃岐国は瀬戸内の小豆島から運んだもの

大手二番石

そして大手門を出て大手前芝生広場南側にあるちょっとした展望台風の広場[o]その近くには休憩所やトイレの他にローソンS大手前レストハウス店があった。ポイント⑭ポイント⑮)から振り返って眺めた大手口枡形の遠景:

大手前芝生広場付近から南外濠ごしに眺めた大手口枡形(大手門+渡櫓門+続櫓)と、大手口を守備する千貫櫓

南外濠と大手口枡形(拡大版)

二の丸の南に設けられた南外濠の高石垣は総延長が約2㎞、最大幅は約75mあり、太閤秀吉時代の堀を埋め立てた上に石垣が築造された。石垣上には玉造口側の一番櫓から七番櫓まで七基の隅櫓が建てられていたが、明治維新の大火で四番・五番・七番櫓が焼失、太平洋戦争時の空襲で二番・三番が焼失したため、現存は一番と六番のみである:

今回の「櫓特別公開」の対象ではなかった

現存の六番櫓

石垣の総延長は約2㎞、堀の最大幅は約75mで、往時は奥の玉造口から大手口まで七基の隅櫓が建っていた

南外濠と六番櫓(拡大版)

櫓特別公開と西の丸跡

大坂城攻めを一通り終えて再び大手口枡形から大阪城公園に入り、今回の目的である「櫓特別公開」のチケット売り場へ。朝10時になって売り場が開いたが並んでいたのは自分一人だけだった :O

大手口枡形と西ノ丸庭園入口の間くらいに仮設されていた

「大阪城の櫓・内部特別公開」チケット売り場

天守閣セット券なんてのもあったが、自分は重要文化財の櫓の内部を観覧するだけなので大人700円(当時)。もちろん西の丸庭園の入場料も含まれている:

多聞櫓+千貫櫓+焔硝蔵が対象

リーフレットとチケット

このあとはチケット売り場の奥にある入場口でチケットを渡して判子を押してもらい、レンガ造りの壁をくぐって続櫓の見学入口へ。まずは雁木を登って踊り場を経由し、さらに石段を登って櫓内へ:

南入口へは芝土居に設けられた雁木と石段を登っていく

続櫓の南入口

この多聞櫓の出入口は3箇所あり、ここが見学路の入口である

続櫓の南入口

雁木上にある踊り場の石垣には、往時は(右手奥と同様に)土塀があったが現在は存在せず。土塀の下の天端石[p]読みは「てんばいし」。石垣の最上部のこと。には櫓内と同様に鉄砲狭間の一種である笠石銃眼(かさいし・じゅうがん)が残っていた。さらに銃眼の脇には普請を担当した長州藩の毛利秀就(もうり・ひでなり)[q]毛利輝元の嫡子。家康の孫娘を正室に迎えたことから松平姓を賜るなど徳川家との関係修復に尽力した。の石垣刻印があった:

天下普請で続櫓を担当した長州藩・毛利(松平)秀就の刻印

石垣刻印

本来は土塀が建っていたが焼失して存在していない

踊り場に残る鉄砲狭間

こちらが玄関にあたる踏込間[r]焔硝蔵を除いて、内部公開された建物は全て土足厳禁なので履物をぬいでスリッパに履き直す必要あり。から眺めた続櫓の内部。中央の武者走りを境界に左手が枡形虎口側、右手には兵士や武器・武具を蓄えるための部屋が計6室ある:

直線的で長屋風の典型的な多聞櫓で、中央に武者走り、右手に複数の小部屋が設けられている(仕切板は復元)

続櫓の内部(拡大版)

武者溜まりとして使われた小部屋側の柱にはホゾ穴を埋めた跡が残っていた。なお柱と柱の間にある仕切板は復元である:

各柱の同じ位置にはホゾ穴を埋めた跡(矩形部分)が残っていた

内部の柱

武者溜まりや武具格納庫として使われた部屋は12畳・16畳・20畳といった広さを持ち、合計で6室ある。床に比べると敷居が高いが畳が入れられていたかどうかは不明とのこと:

武者溜まり、武具置き場などとして利用されていたと云う

小部屋

武者溜まり、武具置き場などとして利用されていたと云う

小部屋

左手が土塀と石垣、そして武者走り。石垣には天端石をくり抜いて作られた17個の笠石銃眼(鉄砲狭間)がある。あと武者走り脇にある篝火を模したライトは後世のもの:

武者走りを挟んで左手が石垣と土塀、右手が小部屋

床面

こちらが笠石銃眼とその周辺部。土塀に穴をあける一般的な鉄砲狭間と異なり、石垣を加工して作った珍しい銃眼は「石狭間」とも呼ばれ、大坂城の他に江戸城[s]平川御門枡形を囲む土塀と石垣との間にある。、二条城、岡山城で確認されているとのこと:

通常の鉄砲狭間とは異なり、石垣を加工して作った銃眼である

笠原銃眼

銃眼上の土塀に埋め込まれた濃茶色の板は欅(けやき)などの硬い板で作った頭高厚横嵌板張(ずこう・あつよこ・はりいた・ばり)で、床面から約1m36cmの位置に設けられ、石垣の上に立って格子窓から鉄砲を放つ射手を防御するための「装甲板」に相当する。

銃眼には現在は「鳥対策」のため金網が張ってあった。往時、各石材のつなぎ目は目地漆喰で覆っていたが現在は風化してなくなっている:

石垣の天端石をくり抜いて作った鉄砲狭間

笠原銃眼

射手になったつもりで格子窓から大手門を眺めると、こんな感じ:

大手門に迫る寄せ手を射撃することが可能な高さだった

格子窓からの眺め

外の枡形虎口の中から見上げるとこんな感じ。通常は格子窓の外側には漆喰塗りの土戸が取り付けられているため窓の奥にある障子は見えないが、当時は土戸が外された状態だった。格子窓の下にある小さい穴は銅角型の水抜きの溝とのこと:

外側は漆喰塗りの土戸で閉められ、内側に障子が設けられていた

土戸が外された格子窓

地上から約6mの高さに一列に並んで設けられていた

笠石銃眼

こちらは続櫓の梁部分を見上げたところ:

建造から160年後に落雷で焼失したが、約60年後に再建された櫓

天井の梁

このまま奥へ進んでいくと渡櫓門と接続するが、その手前の踏込間には東入口があった:

右手には東入口があり、踏込間を抜け階段を登った先が渡櫓門の東室

渡櫓との接続部

通常は開放しておらず、前に置かれた格子戸は復元である

続櫓の東入口

渡櫓門二階の多聞櫓へは登りやすいように近年設置された階段を使うが、その裏には昭和の時代に復元された本来の階段があった。また右手下にはすだれ処理された石垣の目地漆喰が残っていた:

手前が近年設置されたもの、その後ろにある急階段(復元)が本来の階段

二種類の階段

そして階段を上がった先が渡櫓門二階の多聞櫓で手前から東室・中央室・西室・西橋室の四部屋に区画されている。東室の広さは50畳ほど。なお続櫓同様に仕切板や板戸は復元である:

この先にある床面が高い部屋が多聞櫓の中央室である

渡櫓門の東室

渡櫓門二階の多聞櫓は東室・中央室・西室・西橋室の4つに分かれている

渡櫓門の東室

この先の中央室は東室や西室よりも一段高いが、それは一階にある大門をくぐってきた寄せ手に対して槍落としが設けられているから。天井を見上げると見事な敷梁があるが十字に組み合わせた小屋組という造りになっている:

広さは70畳で、槍落としがあるため床面が東西の質よりも一段高い

渡櫓門の中央室

中央室の三箇所に設けられており、通常時は蓋が閉まっている

槍落とし

渡櫓門の格子窓は鉄格子になっており、その内側に漆喰塗りの土戸が内蓋のように閉まる仕組みになっている:

一階が大門、二階が多聞櫓と云う一般的な渡櫓門形式である

多聞櫓と大門

格子窓から下にある枡形を見下ろしたところ:

通常は鉄格子の内側にある土戸を閉めておく

鉄格子窓

一箇所の格子窓絡ま姿の全体を見下ろすことができる

枡形内部を見下ろす

中央室には昭和42(1967)年から二年かけて実施された修復時の古材が展示されていた。云うなれば、ここに並べられたものは現存の遺構である:

千貫櫓(江戸初期)、多聞櫓(幕末)、一番櫓(江戸中期)での修理で交換された古材や遺品である

櫓解体修復遺品(拡大版)

多聞櫓の鯱瓦。太平洋戦争の空襲でも破壊されなかった:

幕末当時のもので、大戦中は空襲にも耐え残ったと云う

渡櫓門の鯱瓦

そして中央室よりも一段低く作られた西室で、東室同様に50畳ほどの広さを持つ:

天井を見上げると中央室からの敷梁が貫いていた

渡櫓門の西室

渡櫓門の最後は土間のある西橋室。西室からは階段で降りることになる。鉄砲狭間が唯一、この西室に設けられていた。ここから履き替えて千貫櫓へ向かう:

一気に土間まで下がるので階段が設けられている

渡櫓門の西橋室

外側は漆喰塗りの土戸、内側に板戸が設けられた二重扉である

渡櫓門の北入口

渡櫓門を出て大手口枡形に隣接する西の丸の千貫櫓へ向かうが、これらの間には多聞櫓北方塀がある。この塀には丸狭間が3個、その下の石垣には7個の鉄砲狭間が設けられていた:

渡櫓門から千貫櫓までの間に設けられた土塀

多聞櫓北方塀

多聞櫓北方塀前の武者走りから見上げたところ(鉄串は鳥よけ)

千貫櫓

銃眼脇には刻印石があった。これは日向国高鍋藩の秋月種春(あきづき・たねはる)によるもの:

「◯に左」の刻印は高鍋藩の秋月長門守種春のもの

銃眼脇の刻印石

こちらが大坂城最古の建造物である千貫櫓の内部。創築は豊臣家滅亡後の元和6(1620)年で小堀遠州政一(こぼり・えんしゅう・まさかず)の設計で築かれた二層二階の隅櫓である:

一階は中央に内室が四つあり、その周囲を武者走りが囲っていた

千貫櫓の内部

中央の部屋から二階へ上がる階段がある(二階は非公開)

千貫櫓一階の内部

外堀に面した南側と西側には、大手門に迫る寄せ手を側面から攻撃できるように張り出しが設けられ、格子窓の他に鉄砲狭間や石落としが設けられていた。西側には三つの張り出しが設けられていた。床面は釿(ちょうな)痕のついた木材で滑り止めとして利用した可能性があるとのこと:

西側の張り出しは三つあり、床面には滑り止めのため釿痕が付いていた

一階西側の内部

格子窓・鉄砲狭間・石落とし・厚嵌板などが備わっていた

鉄砲射手のデモ

一階の中心の内室は4つあった。往時は板戸や畳などがあったようだが現在は取り外された状態であった:

一階・二階ともに中央に配置された内室は4つだった

一階中央

内室を見上げると棚板の溝が残っていたり、昨年の地震で梁の一部が落ちたため補強されていたりした:

ここに板を置いて長物(槍など)を置いていた

棚板の溝

昨年あった地震で一部の梁が落ちてきたため補修したのだとか

現代の補修箇所

一階から上がる際に使用する木階段と水平引戸(階段を塞ぐ扉)は昭和36(1961)年に復元された:

昭和の時代に復元されたものである

木階段と水平引戸

意外と櫓内部は「復元モノ」が多いなと思ったら、この千貫櫓は旧帝国陸軍が接収した際に階段が取り付けられたり、外壁に窓が新設されるなど改変の規模が大きかったらしい。それらは全て昭和の時代の解体修理で創築時の姿に戻されたのだとか。

先に紹介したとおり千貫櫓は経年によって(石垣ではなく)土居がある方向に沈下しているため建物が傾いている。実際に内部に入ると微妙な傾斜がよく分かる:

手前の東側に向かって微妙な傾斜がありビー玉を転がすと分かるらしい

傾いた櫓

こちらは西の丸跡から見た千貫櫓の北面。屋根の入母屋破風の壁面には潜戸が付いているのが分かる:

入母屋破風の壁面に潜戸が設けられているのが判る

千貫櫓の北面

東面と北面には窓が一つもないのが創築時の姿であり、旧帝国陸軍が接収して使用していた時代は一階と二階に明かり取り付けの窓が付けられていたのだとか:

大手口枡形の渡櫓門とは左手の北方塀の奥で繋がっており、台座石垣は石と石の間がモルタルで塗り固められていた

千貫櫓の東面(拡大版)

千貫櫓の台座石垣をよく見ると奇妙な積み方をしているなぁと思って調べてみると、石と石の間にモルタルが塗り込められているのだそうだ。これも昭和の時代の解体修理で施されたものらしい。それでも石の一部に刻印石が混ざっていたのは流石だと思った:

間詰石が落ちてきてしまうからモルタルで塗りこんだのだろうか?

千貫櫓の台座石垣

続櫓の巨石と同様に熊本藩の加藤肥後守忠宏の刻印である

刻印石

こちらは千貫櫓の横にある土居の上から眺めた西外濠と三の丸跡:

個人的には、三の丸石垣の折れは千貫櫓から寄せ手を攻撃しやすくするためなのかと思ったりする(攻撃は最大の防御である)

西の丸跡から眺めた西外濠(拡大版)

千貫櫓を出た後は最後の公開櫓である焔硝蔵へ向かうが、同時に前回の城攻めでは観られなかった西の丸跡も散策してきた。

まずは千貫櫓から始まる西の丸の土居:

外側は高石垣であるが、西の丸の内部は土居である

西の丸の土居

土居に沿って西の丸跡を北上していく途中、庭園半ばあたり(ポイント⑧)から天守閣を望む:

これも撮影スポットの一つで、ここからの角度だと木々で周囲の建物が隠れてくれるので天守閣が際立って見える

西の丸跡から眺めた天守閣(拡大版)

往時、西の丸の南西隅にあたる石垣の上には坤(ひつじさる)櫓が建っていた。規模は千貫櫓と同じ二層二階で明治維新の大火にも耐え残ったが、太平洋戦争の空襲で焼失した:

二の丸の隅櫓の一つで、西の丸の南西(坤)にあたることが由来とされ大戦中の空襲で焼失

坤櫓跡(拡大版)

こちらが櫓跡で、近くには台座石垣の一部が残っていた:

西外濠を挟んで向こうに見えるのが千貫櫓と大手門

二の丸南西隅の坤櫓跡

坤櫓の建物は太平洋戦争の時の空襲で焼失した

付近に残る石垣

坤櫓跡から更に北上した西の丸の北西隅には乾櫓が建っている。先に西外濠ごしに眺めたのとは反対に西の丸跡の中から眺めた構図となる。一階と二階の広さが同じである「総二階造り」であり、L字型をした建物だというのがよく分かる:

二の丸北西隅に建つ「三方正面の櫓」であり、千貫櫓と同様に城内で最も古い現存建造物である

乾櫓(拡大版)

乾櫓も現存建造物であり重要文化財に指定されているが、今回の「櫓特別公開」の対象ではなかった。

これは西の丸庭園北にある大阪迎賓館。この先に焔硝蔵がある:

平成7(1995)年のAPEC大阪開催に際して建造されたもの

大阪迎賓館

今回の「櫓特別公開」に併せたイベントなのかは不明だが、この迎賓館では太閤秀吉の黄金の茶室のレプリカが展示されていた:

レプリカとはいえ、もちろん本物の金ではない

黄金の茶室のレプリカ

死して後に豊國大明神となった秀吉公

太閤秀吉の掛軸

この大坂迎賓館を横目に天守閣を正面に眺める(ポイント⑨):

この撮影ポイントから眺めると天守閣を正面にみることができる

西の丸跡から眺めた天守閣

そして最後の公開櫓である焔硝蔵:

江戸時代に建造された全国的にも珍しい火薬(焔硝)専用の倉庫で、壁・床・天井がすべて硬い花崗岩で作られている

焔硝蔵(拡大版)

引火防止のため壁・床・天井の全てが花崗岩の切石と漆喰で頑丈に固められた総石造りの火薬庫であり、貞享2(1685)年の築造。昭和の時代の解体・修理では上屋根部分が補修された:

石壁の厚さは約2.4mで、この規模の火薬庫は他に例がない

焔硝蔵の石壁

落雷による大爆発や部材の腐食など維持が大変だった

屋根

焔硝蔵は城内に数カ所あったが、そのうちの一つで青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵が落雷を受けて大爆発を起こすという事故があった。この落雷の日が奇しくも太閤秀吉が亡くなった月命日であったことから、太閤さまの祟りだという噂が起こるくらいだったと云う。

実際に内部へ入ると銅製の二重扉と総石造りの珍しい構造であった:

一番外側にある木製の格子戸は盗難防止のため後世に付けられたもの

銅製の二重扉

天井・床・壁が全て硬い花崗岩で造られ、最下部には通気口があった

内部

石垣で造られた壁は目地漆喰が施され、床面に近い最下部の石垣には通気口も設けられていた:

外壁側にはいろいろな刻印石があったという(寄せ集められた石垣?)

石垣と目地漆喰

以上で「櫓特別公開」の櫓内覧は終了。このあとは西の丸跡をうろうろしながら、いろいろな角度から天守閣を眺めてきた。

まずは焔硝蔵とその目の前にある緑茶店との間あたり(ポイント⑩)からの天守閣の眺め。個人的にはこの撮影ポイントから眺めた天守閣が一番きれいに見えた:

焔硝蔵を出たあたりからの角度が一番きれいに撮れた感じがした

西の丸跡から眺めた天守閣

それから内濠に向かって西の丸跡を東へ移動し、西の丸仕切りの石段あたり(ポイント⑪)から望んだ天守閣:

仕切りの石段の上から天守閣を望む

内濠脇から見上げた天守閣(拡大版)

最後は同じ内濠でも空堀ごし(ポイント⑫)から眺めた天守閣。やかた船も一緒に:

本丸内濠(空堀)+高石垣+天守閣+エレベータの組合わせは、その巨大な城郭にふさわしい構図であった!?

西の丸から空堀越しの天守閣(拡大版)

以上で大坂城攻めは終了。

最後は南外濠で見かけた注意書き:

IMGP8919.resized

「太閤さんに怒られまっせ!」

あと大坂メトロ谷町四丁目駅の地下通路で見かけた太閤秀吉直筆の辞世の句:

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」

「豊臣秀吉自筆辞世和歌詠草」

しかしながら今回の「櫓特別公開」の枠から外された乾櫓と一番櫓の内部も是非見てみたいと云う思いが、新大阪駅から新幹線に乗った時にふと沸き立ってきた =)

See Also 大坂城攻め(2) (フォト集)
See Also大坂城 (攻城記)
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【参考情報】

参照   [ + ]

a. 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。
b. ちなみに縄張は初代築城総奉行であった黒田如水が担当した。本丸を中心に広大な郭を同心円状に連ねた輪郭式平城で、郭と郭の間に堀を配した。
c. 総責任者は今治城宇和島城の築城で知られる藤堂和泉守高虎。
d. 秀吉が築いた天守は五層六階(地下二階)の連結式望楼型。この家康が築いた天守は「寛永度天守」とも。
e. 秀吉の時代には本丸に5棟の櫓が建っていたことしか判っていないらしい。
f. これらは国の重要文化財に指定されているが、他に大手門・金蔵・金明水井戸・焔硝蔵・桜門などがある。
g. 天守閣入場の抱き合わせだと1,200円(当時)。自分は櫓見学だけなので700円(当時)。
h. 実は単に有料だったので無視してしまったと云う方が正しい 😉 。
i. 櫓特別公開で建築物の内部を観て回った経路も含む。
j. 戦国時代初期にあった浄土真宗の寺院であるが、往時は寺院を中心に堀や土居などの惣構えで囲った城郭であり、寺内町でありながら門の脇には鉄砲を放つ櫓が建っていたと云われている。
k. こちら側よりも西の丸庭園側から見た方がL字型であることが際立ってよく分かる。西の丸庭園の入場は有料であるが。
l. 一方の「東海道五十三次」は京都が終点であるが、天下の台所である大坂まで東海道が延長され、それらの宿場を含めたのが五十七次である。
m. 黒澤明監督作品である映画『影武者』では高天神城のロケ地として使われた。
n. 正面左右の親柱(おやばしら)の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱(ひかえばしら)との間にも屋根を乗せた形式の門。
o. その近くには休憩所やトイレの他にローソンS大手前レストハウス店があった。
p. 読みは「てんばいし」。石垣の最上部のこと。
q. 毛利輝元の嫡子。家康の孫娘を正室に迎えたことから松平姓を賜るなど徳川家との関係修復に尽力した。
r. 焔硝蔵を除いて、内部公開された建物は全て土足厳禁なので履物をぬいでスリッパに履き直す必要あり。
s. 平川御門枡形を囲む土塀と石垣との間にある。