慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いから三年後、徳川家康は征夷大将軍に就任[a]「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。し江戸で幕府を開府した。次に、豊臣家に対して臣下の礼を要求すると両家の間に「亀裂」ができたが、依然として加藤清正ら豊臣恩顧の大名が多かったため直接的な対立に至ることはなかった[b]むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。。そして慶長16(1611)年に初めて両家の首脳である家康と豊臣秀頼の会見が実現して亀裂は埋まったかのようにみえたが、その三年後の慶長19(1614)年には世に云う「方広寺鐘銘事件」が起きた。豊臣家の総奉行であった片桐且元(かたぎり・かつもと)は両家の間を奔走して平和的に解決しようと務めたが、逆に家康の奸計に嵌って豊臣方の疑心暗鬼を誘うことになり亀裂は「溝」に変わった。この事件を宣戦布告と受け取った豊臣家は秀吉が残した莫大な金銀で兵糧と武器を買い入れ、全国の浪人に招集を呼びかけた。その一人で関ヶ原の戦いでは西軍で唯一の勝利を得た真田昌幸の次男・信繁(幸村)も蟄居先の九度山を抜けだして大坂城に入城、不本意ながら城内が籠城戦に決すると、直ちに惣構(そうがまえ)南東に隣接する平野口あたりで出城の築造に着手した。これが後世に伝わる「真田丸」である。
月別: 2019年12月
太閤秀吉[a]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。が生前に精魂を注いで築き上げた大坂城[b]ちなみに縄張は初代築城総奉行であった黒田如水が担当した。本丸を中心に広大な郭を同心円状に連ねた輪郭式平城で、郭と郭の間に堀を配した。は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家の滅亡と時を同じくして落城した。秀吉が齢61で没してから僅か十七年後のことである。そして元和6(1620)年の徳川幕府による天下普請[c]総責任者は今治城や宇和島城の築城で知られる藤堂和泉守高虎。で秀吉の大坂城は石垣と堀が全て破却され、その上に盛土して新たな石垣を積み、江戸城と同じ層塔型天守[d]秀吉が築いた天守は五層六階(地下二階)の連結式望楼型。この家康が築いた天守は「寛永度天守」とも。が築かれた。完成まで九年の歳月を費やした近世城郭は規模こそ秀吉の時代の惣構(そうがまえ)と比べて1/4に縮小されたものの、天守は遥かに凌ぐ巨大建造物となり、装飾も単調にならないように層ごとに千鳥破風の数を変え、最上部に銅瓦葺をあつらえた上に、本丸を中心に二重に配された掘割は江戸城より壮大なものに仕上がった。そして天下普請を物語るように城内の主要な虎口には巨石が使われ、郭の隅には数多くの櫓が建てられた。その数は最も多い時で本丸11棟、山里丸2棟、二の丸14棟、その他多聞櫓5棟に及ぶ[e]秀吉の時代には本丸に5棟の櫓が建っていたことしか判っていないらしい。。しかし寛文5(1665)年に天守が落雷で焼失、明治維新での大火や大戦時の空襲でその多くが焼失し、現在の大阪城公園に現存するのは千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓・大手口多聞櫓の5棟のみ[f]これらは国の重要文化財に指定されているが、他に大手門・金蔵・金明水井戸・焔硝蔵・桜門などがある。である。
参照
↑a | 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。 |
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↑b | ちなみに縄張は初代築城総奉行であった黒田如水が担当した。本丸を中心に広大な郭を同心円状に連ねた輪郭式平城で、郭と郭の間に堀を配した。 |
↑c | 総責任者は今治城や宇和島城の築城で知られる藤堂和泉守高虎。 |
↑d | 秀吉が築いた天守は五層六階(地下二階)の連結式望楼型。この家康が築いた天守は「寛永度天守」とも。 |
↑e | 秀吉の時代には本丸に5棟の櫓が建っていたことしか判っていないらしい。 |
↑f | これらは国の重要文化財に指定されているが、他に大手門・金蔵・金明水井戸・焔硝蔵・桜門などがある。 |
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