信濃国一之宮として諏訪郡の中で格式の高い名神大社[a]日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。である諏訪大社にあって上社《カミヤシロ》[b]「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。の大祝《オオホウリ》であり諏訪郡の領主を司った諏訪氏は、平安時代から神職にありながら武士として生きてきた一族である。戦国時代に入って第19代当主・諏訪頼重《スワ・ヨリシゲ》[c]諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。を最後に諏訪惣領家は滅亡した[d]そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。が、上社大祝職については頼重の叔父にあたる諏訪満隣《スワ・ミチツカ》が継承するに至った。そして武田家が滅亡し織田信長が横死した後に信濃国で勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて満隣の三男・頼忠《ヨリタダ》が諏訪家を再興したが、徳川家康に敗れ臣従するも、豊臣秀吉による小田原仕置後に家康が関東へ移封されるとこれに従った。代わって2万7千石で諏訪郡の領主となった日根野織部正高吉《ヒネノ・オリベノカミ・タカヨシ》は諏訪湖畔の島状を呈した場所に諏訪高島城を七年かけて築城した。城域の際まで諏訪湖の水が迫り、湿地に囲まれた連郭式平城は「諏訪の浮城」とも呼ばれ、関ヶ原の戦後に旧領復帰した諏訪頼水《スワ・ヨリミズ》以降、廃城までの約270年の間は諏訪氏の居城となり、現在は長野県諏訪市高島1-20-1の高島公園としてその一部が残る。
今となっては一昨年は平成28(2016)年の初夏の候、仕事の関係で一ヶ月ほど遅れてとった「黄金週間+α[f]代休などを追加して少し長めの休みにした。」は毎年恒例の城攻めツアーへ。この時は前半を長野県、後半を宮城県でそれぞれよく知られた城跡を巡ってきた。さらに旅程が平日中心だったこともあり、面倒な行列や嫌な混雑を回避することができたのは良かった 。
前半の長野県の城攻めは一泊二日。初日は朝8時前に東京の立川からJR特急あずさ3号・南小谷行に乗り[g]特急あずさは3〜6号車が自由席(当時)だった。、長野県の上諏訪駅に到着したのが朝10時頃。ただ東京で愚図ついていた天気は上諏訪に着くなり土砂降りの雨になっていた 。ひとまず雨宿りを兼ねて国道R20に面した東口(霧ヶ峰口)近くの諏訪市観光案内所で情報[h]高島公園までの最短ルートやオススメの御食事処、諏訪湖の散策ルートなど。を収集した。それでも止む気配がなかったので冷えた体を温めるために駅構内のコーヒーショップにも立ち寄ったが、昼過ぎには松本へ移動したかったのでコインロッカーに荷物を預け、仕方なく持参した折り畳み式の小さい傘で高島公園まで移動した。公園に着いた時は、さらに雨脚が強くなって写真を撮るのも難儀した[i]と云うことで復興天守からの眺望以外は、ほとんどが携帯電話のカメラ(Apple iPhone6s)による撮影になってしまった。 。
こちらは諏訪高島城の縄張を Google Earth 3D 上の地図に重畳したもの[j]参考にしたのは『諏訪高島城』のページにある「図:現在の市街地と旧城郭対比図」である。。図中、左手に諏訪湖が広がっている:
高島城の城域を色付きの破線でそれぞれ記し、目印となる主要な建築物も明記した。例えば諏訪市役所と長野県道R50を挟んだ反対側に本丸跡に作られた高島公園がある。ちなみに上諏訪駅から高島公園までは徒歩で南下して15分程。
城下町に特有の目立って高い建物がない町並みを眺めながら公園へ向い、二之丸跡にある「高島城」と云う交差点までやって来ると、内堀と本丸北東隅[k]いわゆる艮《ウシトラ》にあたる方位で、一般的に「鬼門」とされる。に建つ角櫓(隅櫓)が見えてきた:
昭和45(1970)年に復元された本丸北東隅の角櫓と板塀。本丸石垣は北と東の規模が大きく、築城当時は野面積みであり、天明6(1786)年に大改修され、軟弱な地盤のため石垣が沈下しないように大木で組んだ筏状の井桁の上に加工した大石を載せている:
本丸の内堀は諏訪湖の水を引き込んだ水堀であった:
内堀には冠木橋《カブキバシ》なる木橋が架かっていた。この先が本丸で、その虎口には冠御門《カブキゴモン》が復元されていた。そして、このあたりから急に雨が強くなってきたので、まずは雨宿りできそうな公園内へ:
復元されたこの門については「冠木門」と称している読み物があるようだが、実際は櫓門形式である。おそらくは戦国時代に築城された際は冠木門[l]左右に立つ柱の上部に冠木と呼ばれる一本の貫《ヌキ》を通した屋根を持たない簡素な構造を持つ。一般的には門の形式を指す。そのものであったが、江戸時代に入って実施された石垣の大改修と共に櫓門形式に建て替えられたことにより、名称もまた「冠御門」に改められたと考えるのがもっともらしい。
この古絵図をもとに昭和の時代に復元された冠御門には、本丸虎口を厳重に守備するため矢狭間や鉄砲狭間などが設けられていた:
こちらは本丸虎口の枡形内部から振り返って見た冠御門。江戸時代、この場所に御門番所が置かれていたと云う:
本丸から眺めた角櫓。その脇は御多門[m]御多聞とも。門や櫓との間を結ぶ長屋形式の建物のこと。跡。多門櫓については、現在は板塀として復元されていた:
ここで角櫓や板塀の下で雨宿りをする羽目になったが、だんだんと雨が上がってきたので公園を出て天守閣を外側から眺めることにした。
こちらが二之丸跡から内堀ごしに見上げた三層三階の天守閣。昭和の時代に外観復元され、天守台石垣の高さは12.54m、天守台上から鯱までの高さは20.2m:
天正18(1590)年の小田原仕置で山中城攻略の功績により、ここ信濃国高島に入封した日根野高吉《ヒネノ・タカヨシ》が文禄元(1592)年から慶長3(1598)年まで七年ごしで築いた際、本丸の北西隅に戦国時代の中世城郭の特徴が色濃く反映された望楼型三層三階の天守を築いたとされる:
往時、天守や主要な建物の屋根には瓦の代わりに檜の薄い板を葺いた「杮葺《コケラブキ》」と呼ばれる技法が使われていたと云うが、これは諏訪の寒冷に耐えられる瓦が調達できなかったためとされる[n]同様の事例に會津若松城(鶴ヶ城)があるが、こちらは「赤瓦」と云う技術革新の末に開発された瓦を使用している。。但し、現在の復興天守は銅板葺である。
天守台石垣も築城当時は野面積みであったが、諏訪氏が城主に返り咲いた江戸時代は天明6(1786)年に大規模な改修があり、現在見ることができる姿に整備された:
復興天守は廃城前の明治時代初期に撮影された一枚の写真を基にして復元されたのだとか。三層三階の独立式前期望楼型と呼ばれる構造。ちなみに本丸古絵図[o]諏訪市教育委員会保有の『御本丸絵図面壱間六分之割』のこと。には天守(殿守)の隣に小天守(小殿守)の存在が記述されていた。
このあとは二之丸跡の道路に沿って公園外から本丸東側へ。往時は道路あたりまで諏訪湖があったが、時代を経て干拓されてしまい廃城後は宅地化されていた。
後世に石垣とコンクリートで造られたとみられる「高島城・公園入口」前を通過して更に南下していくと、別の公園出入口[p]あるいは高島公園の敷地内にたる諏訪護国神社の参道入口か。とみられる場所に立派な門が建っていた。
この門は「三之丸御殿裏門」と呼ばれる門(現存)で、その名のとおり三ノ丸跡からの移築門である:
往時、ここ本丸西側は諏訪湖に面し船着場が設けられていた場所で、川渡御門《カワド・ゴモン》なる門が建っていたと云う。明治4(1871)年に廃城になると、この門を含めた多くの建築物が破却された一方で、三之丸[q]現在の諏訪市高島町一丁目付近。にあった御殿裏門は民家に払い下げられて破却を免れた。そして昭和の時代に諏訪市に寄贈され、この場所に移築されたと云う:
そして、この門から再び公園内へ。こちらが本丸御殿跡:
本丸には天守閣の他に、城主の御殿や書院、政務を執る御用部屋、郡方、賄方、その他、能舞台、氷餅[r]「凍り餅」とも。江戸時代中期に将軍へ献上するために専用の部屋で造られた餅。上等なうるち米を原料として厳寒期の1、2月に天日干しで作る長期保存が可能な伝統的な食べ物。諏訪家秘蔵のレシピで民間での製造は許可されていなかった。部屋など多くの建物が建っていたと云う:
本丸御殿跡の一角には諏訪護国神社があった。あしらわれていた家紋は諏訪家のもので三ツ葉根あり梶の葉(梶葉紋):
これは石集配湯枡。第七代藩主・諏訪忠粛《スワ・タダガタ》の時代、三之丸浴場に引湯するために木樋《キトヨ》を継いで集湯・配湯する石枡《イシマス》として使われたものらしい。すなわち高島城には温泉施設があったと云うことになる :
これは亀石と呼ばれる庭石。本丸の庭園に置かれていた石とされるもので、水をかけるとまるで亀が生きているようになり願いが叶うと云われている:
このあとは復興された天守閣へ。なお、天守閣内や展望台へ上がるには入場料300円(当時)が必要:
鉄筋コンクリート造の三層三階の天守閣の現在は、1Fは郷土資料室・企画展示室、2Fは高島城史料室、最上階の3Fは史料室と展望台を兼ねていた。この日は雨が降ったり止んだりであいにくの空模様であったが諏訪湖を眺めることはできた。それでも戦国時代末期に完成した時は城の際まで迫る諏訪湖を天守閣から眼下に眺めることができたらしい:
湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれていた[s]現在は松江城、膳所城、そして諏訪高島城をして三大湖城と呼ぶらしい。が、江戸時代に入って諏訪頼水が城主になった頃に諏訪湖の干拓が行われ城域の西側が埋め立てられ、いつしか「水城」の面影が消えてしまったと云う。
ここからは本丸跡から見て西に広がる諏訪湖を中心とした天守閣最上階の展望台からの眺め:
こちらは城の東側の眺め。当時は靄がかかって見ることができなかったが、空気が澄んだ日には富士山も見ることができるらしい:
江戸幕府が開府すると、頼水を高島(諏訪)藩初代藩主して廃城まで十代約270年の間、領主である諏訪氏の居城であり、高島藩の藩庁が置かれていた。明治時代の戊辰戦争時は新政府軍に組み込まれ、甲州勝沼や北越、會津にまで出兵した。
そして明治4(1871)年の廃藩置県により廃城が決定し高島藩は高島県となる。明治8(1875)年には天守閣が解体されて撤去が終了した。翌年に本丸跡が高島公園として開放された。高島県はのちに筑摩県を経て長野県に編入された。
このあとは天守閣から降りて高島公園南側から出た。こちらの出入口が諏訪高島城の搦手口に相当し、当時は土戸門《ツチド・モン》が建っていた。往時は城の勝手口であり、商人や職人らも出入りできたと云う:
このまま諏訪市役所方面へ向かう。ここは南之丸跡に相当する:
もともと諏訪高島城は本丸、二之丸、三之丸をほぼ一直線上に配置した連郭式平山城(湖城)であるが、寛永3(1626)年に家康の六男である松平忠輝《マツダイラ・タダテル》のお預かりに際し、新たに追加された郭が南之丸である。
忠輝は越後高田60万石の城主で、関ヶ原の戦い後に大久保長安《オオクボ・ナガヤス》の仲介で伊達政宗の長女・五郎八姫《イロハヒメ》を正室に迎えた。しかし忠輝の素行が問題となり、附家老らが改易・切腹の沙汰を受ける。家康の側室で、忠輝の生母である茶阿局《チャアノツボネ》の身分が低かったことから、家康は忠輝を嫌い冷遇したと云う。慶長20(1615)年の大坂夏の陣では遅参したため軍功はなく、家康から対面を禁じられ勘当された[t]現代でも改易の理由は不明である。一説に乱暴な性格だったとか、幕府転覆を企てたとかがある。。家康死後[u]家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを呼んだが、忠輝だけ呼ばれなかった。は兄の秀忠から流罪を言い渡され、五郎八姫とも離別した。最後は諏訪高島藩の諏訪頼水が預かった。
忠輝の南之丸での生活は外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだと云う。天和3(1683)年にここ諏訪の地で生涯を終えた。享年93。
南之丸は、この後も何人かの罪人を預かり監禁場所として使用されたのだとか。
この後は上諏訪駅へ戻るために本丸跡・二之丸跡をあとにして三ノ丸跡へ向かった:
衣之渡川と中門川の間にある三之丸跡は今でも城下町の雰囲気が残っていた。往時は周囲を水堀で囲んだ三之丸御殿が建っていた。現在は老舗の味噌屋宮坂醸造丸高が建っていた:
雨がすっかりと上がったお昼は諏訪のB級グルメを頂いてから、JR上諏訪駅から次の目的地である松本へ向かった 。
諏訪高島城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 高島公園や諏訪市内に建っていた説明板・案内図
- 『諏訪高島城』のリーフレット(リンクはPDF)
- 日本城探訪(高島城)
- Wikipedia(高島城)
- 余湖図コレクション(高島城/長野県諏訪市高島)
参照
↑a | 日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。 |
---|---|
↑b | 「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。 |
↑c | 諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。 |
↑d | そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。 |
↑e | 俗に云う天正壬午の乱。 |
↑f | 代休などを追加して少し長めの休みにした。 |
↑g | 特急あずさは3〜6号車が自由席(当時)だった。 |
↑h | 高島公園までの最短ルートやオススメの御食事処、諏訪湖の散策ルートなど。 |
↑i | と云うことで復興天守からの眺望以外は、ほとんどが携帯電話のカメラ(Apple iPhone6s)による撮影になってしまった。 |
↑j | 参考にしたのは『諏訪高島城』のページにある「図:現在の市街地と旧城郭対比図」である。 |
↑k | いわゆる艮《ウシトラ》にあたる方位で、一般的に「鬼門」とされる。 |
↑l | 左右に立つ柱の上部に冠木と呼ばれる一本の貫《ヌキ》を通した屋根を持たない簡素な構造を持つ。一般的には門の形式を指す。 |
↑m | 御多聞とも。門や櫓との間を結ぶ長屋形式の建物のこと。 |
↑n | 同様の事例に會津若松城(鶴ヶ城)があるが、こちらは「赤瓦」と云う技術革新の末に開発された瓦を使用している。 |
↑o | 諏訪市教育委員会保有の『御本丸絵図面壱間六分之割』のこと。 |
↑p | あるいは高島公園の敷地内にたる諏訪護国神社の参道入口か。 |
↑q | 現在の諏訪市高島町一丁目付近。 |
↑r | 「凍り餅」とも。江戸時代中期に将軍へ献上するために専用の部屋で造られた餅。上等なうるち米を原料として厳寒期の1、2月に天日干しで作る長期保存が可能な伝統的な食べ物。諏訪家秘蔵のレシピで民間での製造は許可されていなかった。 |
↑s | 現在は松江城、膳所城、そして諏訪高島城をして三大湖城と呼ぶらしい。 |
↑t | 現代でも改易の理由は不明である。一説に乱暴な性格だったとか、幕府転覆を企てたとかがある。 |
↑u | 家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを呼んだが、忠輝だけ呼ばれなかった。 |
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