長野県松本市丸の内4-1にある松本城公園は太平洋戦争後の昭和23(1948)年頃から整備されていた市民の憩いの場で、当時は旧制松本中学校の跡地に動物園や児童遊園などが設けられたり、松本市立博物館の前身となる日本民俗資料館が建てられていた。そして公園の中心にあって、昭和11(1936)年に国宝に認定された松本城天守[a]のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。は今から400年以上前の天正18(1590)年に関白秀吉[b]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。による小田原仕置ののちに関八州を与えて移封させた徳川家康に代わってここ信濃国に入封した石川数正・康長(やすなが)父子が築造したとされる[c]ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。。一方で城の起源はさらに100年近く遡った戦国時代後期に、信濃国守護職にあった小笠原氏の居城である林城の支城として築かれた深志城とされている。この城は、武田信玄の信濃攻略により塩尻峠の戦い[d]「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。で大敗した小笠原長時(おがさわら・ながとき)が林城を放棄すると武田の支配下におち、重臣・馬場美濃守を城代において信濃国を経営する拠点となった。そして天正10(1582)年に武田家が滅亡し織田信長が横死した後に勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)[f]武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。が旧領を回復して松本城[g]近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。と改名した。
今となっては一昨年は平成28(2016)年の初夏の候、仕事の関係で一ヶ月ほど遅れてとった「黄金週間+α[h]代休などを追加して少し長めの休みにした。」を前半・後半に分けてそれぞれ城攻めツアーへ。長野県を巡ってきた前半の初日は雨が降るなかを「諏訪の浮城」を攻め、雨が上がった午後には松本へ移動し、その脚で松本城公園へ。今回の旅日程で一番良かったのが平日に「國寶クラス」の城を訪問したこと。おかげで面倒な待ち行列や嫌な混雑を回避して思う存分堪能することができた 。
天守を構成している建築物が国宝と云うことで、今回[i]個人的に覚えているのは10年以上前に社員旅行で松本城を訪問していた。その際は「国宝」である以外に特に気を引くものはなかった覚えが。あぁ、階段登っていて頭をぶつけた記憶があるか 😆 は外観はのみならず内部もしっかり見ておきたかったので天気が良くない初日の午後を天守内部の見学にあてて、二日目は早々に宿泊先をチェックアウトして松本城公園へ向かい、平日ながら観光客がどっと押し寄せる前[j]さらに午後は西日になって天守の撮影が逆光になってしまう可能性が高いので、午前中の訪問がオススメ。手荷物は本丸跡の売店横にあったコインロッカーに預けた(当時は400円)。に天守の外観を眺めたり本丸跡や二ノ丸跡を攻めることにした。まぁ、そのために観覧料(大人610円/当時)を二度徴収される羽目になったが仕方がない 。
これは国立公文書館のデジタルコレクションで閲覧が可能な『日本古城絵図 』から『東山道之部 〜 信濃国松本城図』に縄張などコメントを追記したもの。この絵図は江戸時代中期から末期の作と云われ、実際のところ松本城とその城下町を描いた古絵図は他にも残っているらしい:
文字どおり、この古絵図中の「本城」が本丸で「二ノ曲輪」が二の丸、「三ノ曲輪」が三の丸である。そして三の丸に多く記載のある「侍屋敷」は武家地であることを示し、逆に総堀の外側にある「城下町」にあたる場所が町人地と云うお手本通りの町割りになっていることが判る。
そして、この古絵図とそこに追加したコメントを Google Earth 3D を利用した現代の松本城公園とその周辺市街地に投影し俯瞰したものがこちら。古絵図の城域と現代の位置関係を把握しやすくするために向きを同じにしてみた:
古絵図に追加したコメントに対応する(推測を含む)現在地をそれぞれ★で示したが、それらが今回の城攻めで巡ってきた遺構である。興味深いことに、ほぼ宅地化されている三の丸跡に敷かれた道路などは古絵図の町割りのそれに近いものがあり、実際の遺構は残っていないが往時の面影を見ることができた。
ということで、こちらが今回の城攻めルート[k]矢印で示しているが一部は時系列順ではない。:
(大名町通り) → 松本城公園前 → 外堀 → (二の丸跡) → 黒門枡形 → (本丸跡) → 本丸御殿跡 → 天守台外観 → 天守台内部 → 天守台外観 → 水門跡 → 本丸跡 → 太鼓門枡形 → 外堀 → 二の丸御殿跡 → 丑寅櫓台跡 → 裏御門橋 → 本丸北門跡 → ・・・ → 北門跡 → 北門大井戸 → 総堀 → 北馬場柳の井戸 → (松本神社・若宮八幡宮) → 北不明門馬出跡 → ・・・ → 若宮八幡曲輪跡 → 埋橋 → 内堀 → 天守外観 → ・・・ → 東門跡 → 大手門枡形跡 → 縄手跡 → 総堀 → 西総堀土塁 → 西堀通り
しかしながら「国宝・松本城」(編・松本城管理事務所)のホームページは良くできている。プロによるコンテンツが満載だし、「松本城について」の解説はとても勉強になった[l]と云うことで、この投稿記事でも一部を引用させてもらった 。。
JR松本駅方面から歩いてきて、女鳥羽川(めとばがわ)を渡り大名町通りを北上していくと[m]この時のルートは地元の人の後ろにくっついて歩いた方が時間短縮になるかも。三の丸跡に入るまでは道路が意外と入り組んでいる上に無駄に信号が多いので。、その名も「松本城」交差点に到着する。
そして交差点を渡って二の丸跡に作られた松本城公園の中に進むが、その途中に外堀がある。左手の木陰の裏にある建物は松本市立博物館。なお、この外堀を渡って公園内へ向かうところは往時は外堀であり、虎口や土橋の類は存在していなかった:
こちらは公園に入って右手の博物館前に建っていた「松本城案内図」に一部加筆したもの。本丸跡が有料エリアで、そのための観覧料は外観復元された黒門枡形内の⑥券売所で支払うことになる。赤色のカメラマークが撮影ポイントとのこと:
さきほどの外堀に対して、こちらは内堀。正面の石垣の奥が水門跡、そして少しだけのぞいているのが国宝の大天守:
二の丸から本丸へ入る正門にあたり本丸防衛の要となるのが黒門枡形で、こちらは内堀を渡る土橋と黒門の二の門にあたる高麗門が見える:
黒門枡形に入る前に二の丸跡から内堀ごしに門全体をぐるりと眺めてみた:
そして土橋を渡って黒門枡形へ。すると枡形のすぐ左手に券売所が見えてくる。なお、この見事な二の門とその脇にある袖塀(そでべい)[n]控塀(ひかえべい)とも。は平成2(1990)年に外観復元された:
こちらが黒門の外枡形で本丸防衛の要だった空間である。袖塀には狭間が設けられ内堀を挟んで鉄砲や弓で迎撃できるようになっている:
櫓門形式である一の門は本丸御殿に通じる格調高い正門にあたる。本丸御殿は別名が奥書院(黒書院)ということで、その入口にあたることから黒門と呼ばれたとも。明治時代に取り壊され昭和35(1960)年に外観復元された。なお、この門の設計詳細は不明であったので名古屋城の渡櫓門を参考にしたと云う:
一の門をくぐった先が本丸跡で、すぐ目の前が絶好の撮影ポイントでもある:
天守の目の前にある芝生には瓦を使って平面復元された本丸御殿跡がある。往時の御殿は塀に囲まれた中に五棟の建物があり、部屋数は60室にも及んだ。松本藩の政庁として機能していたが享保12(1727)年に火事で焼失した。その後も御殿は再建されず、政庁機能は二の丸御殿に移された:
本丸御殿ごしに眺めた「漆黒」の天守。天守を構成する大天守・乾小天守(いぬい・こてんしゅ)・渡櫓・辰巳附櫓(たつみ・つけやぐら)・月見櫓の5棟の建造物が昭和11(1936)年に国宝に指定された:
これら建造物のうち大天守と乾小天守と渡櫓の3棟は戦国時代末期の築造とされ、残りの辰巳附櫓と月見櫓は江戸時代初期の築造とするのが通説である。それゆえ大天守と乾小天守の外観は当初は望楼型であり、のちに層塔型に作り直されたと思われる。また雪や氷に強い黒漆を塗った板張の壁が重厚さを醸し出していた。
大天守に接続している乾小天守や巽櫓・月見櫓といった建物は直角には接続されておらず、若干開きめに接続されている:
戦国時代の天守構造としては望楼型が流行ったようだが、層塔型の松本城の天守はまさに時代の過渡期にあったこと如実に語るものである。その実、天守内部は望楼型の構造を持ち、大天守二層目の屋根がそれを支える天守台の歪みを抑えこんで絶妙な均衡美を保っている。個人的には、その素晴らしはむしろ二の丸跡から内堀ごしに天守を眺めた際に理解できるものと考える。
戦国期ならば「無用」とされる辰巳附櫓と月見櫓に「後付け」感が全く感じられないのも均衡美ゆえである。往時、徳川三代将軍・家光が上洛の帰り道に松本城を宿城にするとのこと[o]家光が信濃国の善光寺参詣のついでであったが中山道で落石があったことで中止になり来松は実現しなかった。で城主・松平直政(まつだいら・なおまさ)[p]家康の次男・結城秀康の三男。松本藩主のあとは出雲国松江藩の初代藩主。大坂冬の陣では真田丸を攻め、敵将・真田幸村からその若武者ぶりを讃えられ軍扇を貰い受けた。その軍扇は松本藩のあとに加増移封となった先の松江城に現在も展示されている。が将軍おもてなしのために急遽に増築した2棟の造形もまた時代の移り変わりを違和感なく象徴しているものである。松本城は軟弱な地盤の上に築かれていることから高石垣は無い:
しかしながら、この「美しい天守」は築城後の長い歳月と信州の厳しい気候により老朽化が進んだことに加えて、もともと軟弱な地盤に建っていたことに安政の大地震など天災が重なって次第に壊れ、明治時代になると天守建造物が傾くまでに至ったと云う[q]その原因として、江戸時代末期に多田加助(ただ・かすけ)という百姓が一揆を扇動したとして捕縛され磔刑に処される際に天守に向かって絶叫すると天守が傾いたと云う伝説あり。。江戸時代の松本藩は各所の修理を行ったとされる他、明治時代の廃城後は破却の危機を逃れたが瓦や壁の傷みを補修するために旧制・松本中学校の当時の校長であった小林有也(こばやし・うなり)が「松本城天守閣保存会」を立ち上げ募金をつのって明治から大正にかけて大修理が施された。この時の諸費の約8割は賛同者の寄付金で賄われたと云う。
その次の大修理は、太平洋戦争終了後にGHQから文化財保護の観点での解体修理の必要性を指摘された時である。これに応えるように現在の松本城保存会が発足して文部省に働きかけ、国の直轄工事として昭和の半ばに二年の歳月をかけて全面解体修理が施された。
廃城後に二度の大修理が施されたことによって、現在見ることができる国宝の天守があるわけだが、黒門の一の門脇には松本城保存にあたり特に尽力した二人の功労者のレリーフが建っている。一人目は前述の小林有也、二人目は廃城後に競売にかけられ取り壊しの危機にあった天守建造物を買い戻した地元の実業家である市川量造である。この二人の御仁のおかげで今日の松本城が存在する:
このあとはもう少し国宝建造物に近寄って外観を見てみることにした。
まずは月見櫓。泰平の世になって増築された櫓には石落としなどの防衛設備はなく、柱と舞良戸(まいらど)という薄い板戸だけあって、月見をする際は舞良戸を外して畳敷きで吹き放ち式の部屋から風流を楽しんだと云う。月見櫓の三方は朱色で彩られた「刎ね高欄」(はねこうらん)を施した廻縁(まわりえん)が巡り、天井は舟の底のような形をし柿渋が塗られた「船底天井」(ふなぞこてんじょう)になっていた:
次は大天守(高さ29.4m)。現存12天守[r]国の文化保護法に基づいて国宝か重要文化財に指定されて保護されている天守。で五層六階の天守としては日本最古の建造物である。さらに本丸側(東側)と二の丸側(西側)から見た姿が全く異なるのも特徴の一つである。しかしながら共通しているのは各階に設けられた多数の狭間、そして一階にある大小の石落とし、さらには壁面も鉄砲戦を考慮した厚さに仕上げられているなど、大天守だけ見ればいかにも「無骨で単調な天守」である:
豊臣秀吉による小田原仕置のあと深志城跡に松本城を築城した石川数正の嫡男である石川玄蕃頭康長(いしかわ・げんばのかみ・やすなが)が、朝鮮出兵ために出陣していた名護屋城から帰陣するやいなや文禄2(1593)年から大天守と渡櫓の建造に着手したが、その際は大天守の最上階に廻縁(まわりえん)と高欄(こうらん)を設けた望楼型天守になる予定だった。しかし冬期の気温や強風対策のため最上階を大きな壁で囲んでしまったため天守最上階が少々「頭でっかち」になってしまった。
そして乾小天守(高さ16.8m)とその石落とし。こちらは大天守を築いた石川康長の父であり、旧徳川家重臣の一人であった石川数正が松本城を築いた際に建てた天守相当の三層櫓である。ちなみに現存12天守の中では松本城が最も石落の数が多いのだという。ちなみに天守台石垣から突き出たこれらの石落は建物の安定感をもたらすのにも一役買っていた:
このように大天守の一階と乾小天守の二階が渡櫓で連結されているので、大天守へ上がるには2つの建物の間にある渡櫓門から入ることになる。ちなみに現在も、ここが天守内部への入口になっていた:
この後は国宝である5棟の建造物の内部を観覧した。
こちらが渡櫓門一階の内部で、現在の天守観覧の入口である。ここから大天守へ上がる階段が閉鎖されていたため、一度は乾小天守に入ってから二階へ上がり、そこから渡櫓を渡って大天守へ向かうと云う複雑な観覧経路になっていた:
まずは観覧向けの順路に従って乾小天守の一階へ。それから階段を使って二階へ:
こちらが乾小天守の2階。大天守とは異なり丸太柱が多用されているのが特徴の一つで、仕上げ方法も複数ある:
こちらは矢狭間(やざま)と鉄砲狭間(てっぽうざま)。戦国時代の櫓では標準な防衛設備である。蓋の付いていない縦長の窓が弓用(60箇所)で、小さい窓が鉄砲用(55箇所):
そして乾小天守には二階にしかない堅格子窓(武者窓)。外側は黒塗りのため攻め手から櫓内を伺いしることができない他、守り手にとっては暗い櫓内に光を入れる採光の役目があった。ここから西側の二の丸跡を広く見下ろすことが可能だった:
そして渡櫓を経由して大天守の一階へ。こちらは渡櫓の二階内部で往時使われていた鬼瓦などが展示されていた。ちなみに渡櫓と乾小天守の床面には段差が無いが、大天守との間には大きな段差があり接続が非常に悪い:
大天守一階内部の外側を一間幅の廊下状のめぐりが囲んでいるが、これを入側(いりがわ)または武者走(むしゃばしり)と云った。そして、この武者走と一階の床面との間には50cmの段差が設けられていた。一方、この階の床面には一間ごとに柱が設けられ部屋が4つあった。現在は間仕切りが無いため内部が丸見えだが、往時は食糧・武器・弾薬庫として使用していたらしい:
大天守一階の四隅には壁から張り出した石落が11個も設けられていた:
次は大天守二階へこの階の東・西・南の三方には堅格子(かたこうし)をはめた武者窓がある。この武者窓を中から外を見ると、外光を遮る明暗の縦縞が美しく、その外側には上部に蝶番(ちょうつがい)の付いた突上戸(つきあげど)が少しだけ見えた:
この階も展示コーナーを兼ねており国友などの鉄砲の類の他、当世具足(とうせいぐそく)などが展示されていたが、往時は武者溜として利用されていたと思われる。
そして再び階段を上がって大天守三階へ。ここは天守二層目の屋根裏に設けられた階なので窓が全く無く、外からみても分からない造りになっていた。採光は南側にある千鳥破風の木連格子(きづれこうし)から僅かに入るだけである。そのため往時は「暗闇重」(くらやみじゅう)などと呼ばれていた。柱には手斧削りによる貝殻状の「はつり紋」が美しく浮かび上がっていた:
城内で最も急な61度の勾配[s]大天守の階段は全部で7個。勾配は55〜61度と全て急勾配だった。をもつ階段を上がって大天守四階へ。三間四方の書院造りになった、この階は城主が座を構えたと考えられており「御座所」と呼ばれていた。鴨居の上には小壁が付けられ丁寧な造りになっていた他に特徴的なのは、他の階と比べて柱が少なく天井が高い上に四方から採光が入ることである。但し、他の城で見られる畳敷きではなかった:
この階には一階と同様に吹き抜けがあるが、その目的は現在も謎である:
次は大天守五階へ。重臣らが作戦会議を開くための大広間が中央にあり、それを囲むように入側と四つの破風入込(はふいりごみま)[t]東西に千鳥破風、南北に唐破風の四つ。が設けられている:
また他の階に比べて天井が4.54mと高く、そのため最上階の六階に上がる階段には踊り場を設けて階段の勾配が緩やかになっていた:
そして大天守最上階。周囲を幅90cmの入側が巡った6m四方の部屋で、有事の際は城主を中心とした指揮所が置かれることになっていた:
これが廻縁(まわりえん)跡。設計当初の最上階は廻縁を設けた望楼型であったが、信州の厳しい寒さ、風雨・雪対策のため壁を勾欄の位置まで張りだした変形望楼型になっていた:
こちらは天井。太い梁が井の字に組まれた井桁梁(いげたばり)になっており、中央から外側へ向かってさらに太い四本の桔木が放射線状に配置され、雪が積もって重くなった瓦屋根の軒先が落ちてこないようにテコの原理で押さえ込むようになっていた:
そして屋根裏に祀られていたのは「二十六夜神」[u]月齢26日の月を崇拝する信仰で、戸田氏は毎月約500kgの米を炊いてお供えしたのだとか。と呼ばれる神様で、戸田氏が持ち込んだ月侍信仰のシンボルである。
こちらは展示されていた「国宝指定書」。昭和の時代に国宝保存法と文化財保護法によって二度も国宝に指定された松本城の天守建造物を証明した写し:
地上から22.1mの位置にある大天守最上階から見下ろした本丸御殿跡:
こちらは大天守西側の二の丸跡。内堀と埋橋が見えた:
そして少し雲が邪魔な北アルプス方面。手前に見える丘陵上には犬甘(いぬかい)城跡に建てられた城山(じょうやま)公園がある[v]この日の午後に実際に攻めてきた 。:
このあとは大天守最上階を下りて二階から辰巳附櫓の二階へ向かった。櫓の名前は大天守の辰巳(南東)の位置に隣接していることが由来である。月見櫓とともに泰平の世に増築された。但し、石川氏時代の石垣の上に強引に建てているため、土台が石垣の天端石(てんばいし)からはみ出して建物の一階が大きくせり出している:
この櫓の窓は、上部が尖ったアーチ型をしており花頭窓(かとうまど)と呼ばれ禅宗寺院の建物によくみられる様式になっている。なお天守建造物では辰巳附櫓二階に2ヶ所、そして乾小天守の最上階に2ヶ所設けられている。
そして月見櫓の内部。武備が無く、朱色の廻縁を巡らし北・東・西の三面に舞良戸(まいらど)と云う薄い板戸を取り付けた建物である。よって舞良戸を外すと三方が吹き抜けとなり開放感のある景観を楽しめる。松平直政が甥にあたる三代将軍家光の来松を風流に演出するために増設したものとされる:
こちらは大天守二階の武者窓から眺めたところと、逆に月見櫓からその武者窓を眺めたところ。時代の違いがよく判る:
このあと観覧の出口である月見櫓の一階へ下りて国宝から外へ出た。この大扉と潜戸もまた現存遺構である:
こちらは天守台を見上げたところ。大天守の前に張り出した月見櫓は吹き放ち式の部屋になるので名月鑑賞の宴にはもってこいの舞台である。その一方、突上戸で窓を隠し中を伺うことができない閉鎖的で威圧的な造りの大天守の相対性も見所である:
これは乾小天守の鬼瓦。松本藩の歴代藩主・六家二十三代のうち確認できたのは上から「丸に立おもだか」紋の水野家、「はなれ六ッ星」紋の戸田氏、そして「笹竜胆(ささりんどう)」紋の初代藩主・石川氏である:
天守台の脇にある本丸水門跡を中と外から。往時はここから舟で内堀にでることができた:
水門脇から黒門に向かって延びる武者走を外と中から。二の丸側からの攻撃に対応できるように工夫されていた:
本丸跡で目についたもの。
まずは小笠原牡丹。天文19(1550)年に甲斐の武田信玄に攻めたてられた林城主で信濃国守護の小笠原長時は、林城から退却する際に純白の牡丹が敵兵に踏み荒らされるのを憂えて里山辺りの兎川寺(とせんじ)の住職に託して去った。これを「殿様の白牡丹」として大事に守られてきたものが、昭和の時代に小笠原氏の子孫へ贈られ、それが松本城公園に移植された。毎年5月に美しい花を咲かせるのだとか:
これは「清正公駒つなぎの桜」の伝承にあやかって昭和の時代に植えられた桜の木:
慶長11(1606)年に、稀代の名築城家である加藤清正が江戸城手伝い普請[w]各国の諸大名が自らの石高に応じて築城工事を分担したこと。特に江戸幕府の頃は「天下普請」と云われた。を終えて肥後国への帰途、大小天守が並び立つ松本城を訪れた。ときの城主・石川玄蕃頭康長(いしかわ・げんばのかみ・やすなが)は朝鮮出兵で肥前名護屋城に詰めていた際に清正と親しくなり、遠路はるばる訪ねてくれた清正を本丸御殿の奥御座所で手厚くもてなした。そして康長は熊本までの帰路は長旅になるとのことで手土産に信州名産の騎馬を2頭用意し「どちらか気に入った駒[x]信州の騎馬。駒馬とも。を差し上げます」と清正に云った。すると清正は、信濃国は飛鳥の昔から名馬の産地であることを知っていたので「貴殿の目利きで取り立てた駒を我らほどの目利きで選んでは申し訳がたたぬ。この際、2頭の駒を共に申し受けるのが礼儀と心得る。」と応えて2頭の駒を貰い受けた。この2頭の名馬が繋がれていたのが本丸に生えていた垂れ桜(しだれ桜)であったと云う。
この伝承にあやかって昭和の時代に本丸跡の現在の場所に幼木から植えられたものが現在の桜の木らしい。ちなみに帰国した清正は翌12(1607)年に熊本城を完成させている。
あと本丸北門跡。城絵図を見ると櫓門が建っていたが不開門(あかずのもん)だったらしい。現在は関係者のみの通用門として締め切られていた:
このあとは本丸跡を出て二の丸の太鼓門枡形へ。ここは本丸と二の丸を隔てる内堀。塁線は石垣造りである:
そして二の丸の虎口に建つ太鼓門枡形。一の門には石落としや狭間が設けられていた。天守築城後に康長が築城したものであるが廃藩置県後に破却された。現在の門は平成11(1999)年3月に復元されたもの。ちなみに一の門に向かって左手の台座の上に太鼓楼が建っていた:
復元された門の柱は樹齢400年の檜、梁は140年の松を使用している。また門脇には鏡柱の礎石が展示されていた:
なお太鼓門枡形と名が付いているが、肝心の太鼓は櫓門である一の門や高麗門である二の門ではなく枡形の北側門台上に建っていた太鼓楼に置かれ、時の合図や登城の合図、さらに火急の合図などの発信源として重要な役割を果たしていた。但し、この太鼓楼は本稿執筆時も復元されていない。
こちらが太鼓門の枡形で、奥に見えるのが高麗門形式の二の門:
こちらは一の門の台座石垣として積まれた重さ22tを越える城内最大の鏡石で、太鼓門築造時に石川康長が強引に運ばせた[y]この巨石を運ぶ人足が苦情を訴えたところ、康長自らその人足の首を刎ねて槍で差し上げ「さぁ者共、石を引け!」と叫んで運搬させたと云う。ことから「玄蕃石」とも:
太鼓門枡形の二の門をくぐった先にある土橋の上から外堀を眺め、さらに三の丸跡から太鼓門枡形を眺めてみた:
外堀の塁線は内堀のそれとは異なり土居造りになっており、往時は主要端部には隅櫓が建てられていた:
このあとは再び公園内へ戻って二の丸御殿跡へ。虎口には冠木門風の門が建っているが往時は薬医門かなにかの御門と番所が置かれていた:
現在は発掘調査後に平面復元されていた二の丸御殿は本丸御殿の2/3ほどの規模であり、本丸御殿が焼失したあとにその全ての機能が二の丸御殿に移されたと云う:
明治時代には筑摩県[z]明治時代に設置された飛騨国と信濃国中部と南部を管轄していた県で、現在の長野県中信から南信、そして岐阜県の飛騨・中津川の一部に相当する。その後、長野県と岐阜県に分県したあとは廃止になった。の県庁として使われていたが、のちに焼失した:
こちらは二の丸御殿焼失から免れ現存建造物として残されている切妻造りが印象的な二の丸御金蔵と呼ばれる土蔵:
二の丸の北東隅にある丑寅櫓跡。外堀に面した主要五ヶ所に建てられていた隅櫓群の一つ:
このまま隅櫓跡を抜けて外堀を渡り、公園の外の県道R67に沿って本丸跡の北側へ移動していくと通用門として締め切られていた本丸北門が見えてくる。この門に向けて設けられていた土橋は水戸違い(みとちがい)の構造になっており、土橋を境にして左右の堀の水位を調節していたらしい:
ここで一旦は松本城公園の外へ出て、三の丸跡北側に残る遺構などを見ることにした。
本丸北門前の県道R67を東へ向かうと「丸の内」と云う交差点があるのでそこを北へ移動していった先にあるのが北門と北門馬出跡:
北門馬出は三の丸北東隅に作られた東門馬出に次いで城内で第二の広さを持つ馬出だった。北門をくぐったあとに総堀に架かった土橋を渡ったところに築かれていた。
この北門跡の交差点を右折したところが総堀跡で、そこには北門大井戸と「松本城北門馬出跡」の説明板があった。この大井戸は総堀が片端を残して埋め立てれた跡に作られた突井戸。そして、さらに東へ移動したところには埋め立てを免れた総堀を見ることができる:
次は北門跡へ戻り、さらに松本神社を目指して総堀跡を西側へ向かって移動していくと、総堀跡にできた湧泉を整備して井戸にしたと云う北馬場柳の井戸[aa]その名の由来は傍らに柳の大木があったことから。や北不明門馬出跡があった:
このあとは再び松本城公園の中へ。
松本神社前から県道R64を渡ると若宮八幡跡がある。これは松本城の前身である深志城の時代の遺構である。深志城の鎮守が置かれたこの場所は松本城になった後も各時代の城主が崇めたと云われる:
ちなみに、この若宮八幡曲輪に設けられた腰巻石垣は、冬の季節に堀の水が凍って土居を削り取らないようにした工夫であるのだとか。また一般的な馬出とは異なり、外堀に向かって内側に作られた辻馬出(つじうまだし)と呼ばれるもので二つある虎口を直角に交差させているのが特徴。
そして朱色が鮮やかな埋橋:
二の丸から本丸に向かって渡されたこの埋橋は昭和の時代に作られたもので、本丸側にある石垣の中に設けられた埋門と連結している[ab]当時は平成23(2011)年6月30日に発生したM5.4の地震により通行不可となっていた。被害の具合は軟弱な地盤に築かれていることも一因となっている。が、往時は舟でしか渡れなかった:
往時は埋橋は存在していないが、ここには外堀と内堀を区切るための足駄塀(あしだべい)なる板塀が現在の埋橋の位置に建てられていたらしい。
ここからは松本城公園で最も景観がよい撮影スポットで内堀ごしの天守台を眺めることにした。
まずは内堀の水面に映る「逆さ天守」が見事な大天守を中央にした天守台建造物:
こちらは公園案内図にあったオススメ撮影スポットから眺めた天守台建造物:
松本城の石垣を眺めていると「高石垣」にあたるものは水面から6m余の高さの外堀石垣くらいである。その理由は、この城が軟弱地盤の上に築かれているため石垣は低く勾配もかなり緩くならざるを得ないということらしい。さらに天守台の石垣も方形に積み上げられていないので、大天守と乾小天守建造物の一階は歪みがあって直角な箇所は一つもない。この歪みは二階以降で補正され三階より上がほぼ方形となる。そういう理由により乾小天守と辰巳附櫓は大天守と直角に接続されておらず、若干外側にズレて接続されているのが実際である:
松本城を近世城郭に作り変えた石川玄蕃頭康長は伏見城の普請にも貢献し「豊臣」の姓も下賜された。また慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して本領安堵された。しかし慶長18(1613)年の大久保長安(おおくぼ・ながやす)事件[ac]甲斐武田の遺臣から江戸幕府の代官まで出世した長安の死後に発覚した職権乱用・横領に家康が激怒しお家取り潰しになった。康長は娘を長安の息子に嫁がせていたことから共犯・隠匿を問われた。に連座したかどで改易された。一説に松本城の過分な普請がその理由とも。
その後は小笠原秀政が城主となり、続いて松平康長・水野氏・戸田松平氏らが居城とし松本藩庁として機能した。
ということで松本城公園内の散策はここまで。
このあとは宿泊先へ行くまでの街なかに幾つか埋もれていた遺構(?)などを見ることにした。
まずは東門跡。馬出もあったので道路がそんな雰囲気の曲がり具合だった:
大名町通りに向かって女鳥羽川あたりへ。ここが大手門跡。枡形門の名残りがある道路のクランク具合が印象的だった:
こちらは「松本城見取図」に描かれた廃城直前の大手門枡形の様子:
大手門跡の脇から女鳥羽川沿いに「縄のように長い土手が」延びる縄手跡。現在は「なわて通り商店街」となり、巨大なカエルがお出迎えしてくれた:
こちらが一級河川の女鳥羽川(めとばがわ)。松本城の時代は総堀の一部であったが、その始まりは深志城の時代に外堀として武田信玄が築いたものである:
これは西総堀土塁とも総構え(三の丸)土塁と云われる現存遺構。三の丸南西の一部を保存した「史跡松本城・西総堀土塁公園」。土塁を切断して内部をレリーフで説明していた:
これは「大手町2丁目」交差点に建つ西堀町の標柱。江戸時代まで三の丸西端の総堀外にあった町の名前。この辺りは西不明門馬出跡になる:
これは松本城から西1.5kmほどの所にある犬甘城跡に作られた城山公園の展望台から眺めた天守台。ちなみに、その背後に見える山には林城跡がある:
この年の冬にも別の城攻めで松本に立ち寄ったが、その際に松本城公園で撮ったライトアップされた天守台:
こちらは松本城公園の黒門枡形内で見かけた注意書き:

「石垣に上(のぼ)らないで下さい。」
深志城
松本城は、現代にみる近世城郭になる以前は深志城(ふかしじょう)[ad]または信濃国府中にあったことから信府城(しんぷじょう)とも。と呼ばれていた。深志城の創築時期は諸説あるが、永正元(1504)年に信濃(府中)小笠原氏当主で林城主の小笠原貞朝(おがさわら・さだとも)の家臣・島立右近貞永(しまだて・うこん・さだなが)によって井河の居館をここ松本平の地へ移して城郭化したことに始まると云う説が専らとされる[ae]ちなみに、右近の嫡男が父を祀って深志城の鎮守としたのが松本城公園北西端にある若宮八幡跡とされる。。
貞朝の孫で、林城を居城としていた信濃国守護・小笠原長時(おがさわら・ながとき)は、天文19(155)年に同じ庶流・甲斐源氏の一族である武田晴信[af]号して武田大膳大夫信玄(たけだ・だいぜんたゆう・しんげん)。に攻められて敗れた。晴信は領国経営を考えて平時には不便な山城の林城を廃城にし、水が豊富な松本平に建つ平城の深志城を居城に選び、馬場美濃守信房を城代とした。
こちらは深志城を中心に、この時代に築かれた山城や平城を現代の地図上に重畳させたもの:
甲斐武田氏の支配が32年続いた後、天正10(1582)年に織田信長の嫡男・信忠による甲州攻めでは馬場信房の嫡男・民部少輔昌房(みんぶしょうゆう・まさふさ)が深志城を追われ、小笠原長時の三男・貞慶(さだよし)が入城する。しかし、その後は武田氏討伐で織田方に寝返った木曾義昌に安堵された。そして同年夏の本䏻寺の変で信長が横死した後に信濃国で勃発した天正壬午の乱で、三河の徳川家康が後ろ盾についた貞慶がドサクサに紛れて木曾勢を追い出して再び深志城に入った。貞慶は三の丸を縄張し堀と土居を築いて城郭を拡張すると、深志城から松本城に改めた。
天正18(1590)年に関白秀吉による小田原仕置で北條氏の領地へ移封となった徳川家康について貞慶も下総国古河に移封となる。そして徳川家重臣の一人だった石川数正・康長父子が8万石で松本城に入城した。
現在の松本城で深志城の遺構ははっきりと分かっていないが、若宮八幡跡はその一つとされている。
こちらは松本市内で見かけた高さ7〜80cmほどの石で「牛つなぎ石」と呼ばれているもの:
永禄11(1568)年頃、松本を支配下に置いていた甲斐武田氏とその領民は、敵対していた駿河今川氏と相模北條氏による太平洋岸への道筋の封鎖により塩不足となって困っていた。これを知った越後の上杉謙信も武田氏とは敵対関係であったが「我、信玄と戦うもそれは弓矢であり魚塩であらず」と直ちに塩を送ったと云う。これが松本の塩市の始まりとされ道祖神が塩を運んだ牛をつないだ石だとの言い伝え[ag]あくまでも町内古老口伝、すなわち言い伝えに基づく話。個人的には川中島の合戦後に海津城主・高坂弾正が敵味方の区別なく戦で亡くなった人たちを供養したことに感激した謙信からの返礼だと思っている。がある。
松本城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 松本城公園に建っていた説明板・案内図
- 『四OO年余の風雪に耐えて! 国宝・松本城』(松本城管理事務所)のパンフレット
- 国宝・松本城のホームページ 〜 「松本城について」
- 『一個人☓歴史人別冊・完全保存版・戦国武将の城』(K.Kベストセラーズ)
- 『男の隠れ家「城」シリーズ再録改訂版・日本の名城を巡る』(サンエイムック他)
- 『歴史人 2015年11月号・戦国武将の城』(K.Kベストセラーズ)
- 『一個人 2012年5月号・戦国の城を歩く』(K.Kベストセラーズ)
- 日本の城探訪(国宝・松本城)
- 埋もれた古城 〜 色褪せぬ特選名城(松本城)
- 城とか陵墓とか(松本城)
- 余湖図コレクション(松本城/長野県松本市北深志)
- Wikipedia(松本城)
参照
↑a | のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。 |
---|---|
↑b | 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。 |
↑c | ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。 |
↑d | 「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。 |
↑e | 俗に云う天正壬午の乱。 |
↑f | 武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。 |
↑g | 近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。 |
↑h | 代休などを追加して少し長めの休みにした。 |
↑i | 個人的に覚えているのは10年以上前に社員旅行で松本城を訪問していた。その際は「国宝」である以外に特に気を引くものはなかった覚えが。あぁ、階段登っていて頭をぶつけた記憶があるか 😆 |
↑j | さらに午後は西日になって天守の撮影が逆光になってしまう可能性が高いので、午前中の訪問がオススメ。手荷物は本丸跡の売店横にあったコインロッカーに預けた(当時は400円)。 |
↑k | 矢印で示しているが一部は時系列順ではない。 |
↑l | と云うことで、この投稿記事でも一部を引用させてもらった ![]() |
↑m | この時のルートは地元の人の後ろにくっついて歩いた方が時間短縮になるかも。三の丸跡に入るまでは道路が意外と入り組んでいる上に無駄に信号が多いので。 |
↑n | 控塀(ひかえべい)とも。 |
↑o | 家光が信濃国の善光寺参詣のついでであったが中山道で落石があったことで中止になり来松は実現しなかった。 |
↑p | 家康の次男・結城秀康の三男。松本藩主のあとは出雲国松江藩の初代藩主。大坂冬の陣では真田丸を攻め、敵将・真田幸村からその若武者ぶりを讃えられ軍扇を貰い受けた。その軍扇は松本藩のあとに加増移封となった先の松江城に現在も展示されている。 |
↑q | その原因として、江戸時代末期に多田加助(ただ・かすけ)という百姓が一揆を扇動したとして捕縛され磔刑に処される際に天守に向かって絶叫すると天守が傾いたと云う伝説あり。 |
↑r | 国の文化保護法に基づいて国宝か重要文化財に指定されて保護されている天守。 |
↑s | 大天守の階段は全部で7個。勾配は55〜61度と全て急勾配だった。 |
↑t | 東西に千鳥破風、南北に唐破風の四つ。 |
↑u | 月齢26日の月を崇拝する信仰で、戸田氏は毎月約500kgの米を炊いてお供えしたのだとか。 |
↑v | この日の午後に実際に攻めてきた ![]() |
↑w | 各国の諸大名が自らの石高に応じて築城工事を分担したこと。特に江戸幕府の頃は「天下普請」と云われた。 |
↑x | 信州の騎馬。駒馬とも。 |
↑y | この巨石を運ぶ人足が苦情を訴えたところ、康長自らその人足の首を刎ねて槍で差し上げ「さぁ者共、石を引け!」と叫んで運搬させたと云う。 |
↑z | 明治時代に設置された飛騨国と信濃国中部と南部を管轄していた県で、現在の長野県中信から南信、そして岐阜県の飛騨・中津川の一部に相当する。その後、長野県と岐阜県に分県したあとは廃止になった。 |
↑aa | その名の由来は傍らに柳の大木があったことから。 |
↑ab | 当時は平成23(2011)年6月30日に発生したM5.4の地震により通行不可となっていた。被害の具合は軟弱な地盤に築かれていることも一因となっている。 |
↑ac | 甲斐武田の遺臣から江戸幕府の代官まで出世した長安の死後に発覚した職権乱用・横領に家康が激怒しお家取り潰しになった。康長は娘を長安の息子に嫁がせていたことから共犯・隠匿を問われた。 |
↑ad | または信濃国府中にあったことから信府城(しんぷじょう)とも。 |
↑ae | ちなみに、右近の嫡男が父を祀って深志城の鎮守としたのが松本城公園北西端にある若宮八幡跡とされる。 |
↑af | 号して武田大膳大夫信玄(たけだ・だいぜんたゆう・しんげん)。 |
↑ag | あくまでも町内古老口伝、すなわち言い伝えに基づく話。個人的には川中島の合戦後に海津城主・高坂弾正が敵味方の区別なく戦で亡くなった人たちを供養したことに感激した謙信からの返礼だと思っている。 |
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