神奈川県三浦市三崎町小網代[a]読みは《カナガワケン・ミウラシ・ミサキチョウ・コアジロ》。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。1024にあった新井城は、北は小網代湾《コアジロワン》、南は油壺湾《アブラツボワン》に挟まれ、西は相模湾に突出し城域を囲む三方が海に面した半島状の要害にあって、陸路は横堀海岸から深く切られた堀に架かる北東約3kmの大手道のみであり、それも万が一の場合は切って落とすことが可能な内引橋[b]別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。であったと云う。ちなみに三浦氏の居城であった時代は三崎要害と呼ばれ、小田原北條氏の時代は油壺城、そして新井城と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。城の築城年代と築城者は不明であるが、一説に鎌倉時代は宝治元(1247)年に起こった鎌倉幕府の内乱[c]幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦《ホウジガッセン》。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。で滅亡したかにみえた三浦一族にあって佐原氏の系統が生き残り、一族の拠点として築いたとも。そして元弘2(1334)年に三浦介《ミウラノスケ》を継いだ三浦時継《ミウラ・トキツグ》の代から城を整備・拡大し、さらには周囲の豪族ら[d]小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。と姻戚関係を結びつつ勢力を拡大して三浦半島全域と相模国南部を治めるまでに復活を果たしたが、室町時代後期には新たに伊豆国より台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎[e]伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》または早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。が時の三浦家当主・道寸の目の前に立ちはだかった。
今となっては一昨年は平成28(2016)年の巷でいう「黄金週間」から遅れること三週間、仕事の都合で遅めの長期休暇を取って、この時期恒例の城攻めへ。初日は週末に神奈川県の三浦半島にあった海城[f]正確には三浦氏の居城であったころは平山城、小田原北條が水軍を配して海城となった。へ。実は、その日は三浦市主催の『道寸まつりと笠懸[g]リンクは令和元(2019)年の三浦市のコンテンツ。この手のリンクはころころ変わるので大変だ。』なるイベントの開催日であり、これに合わせて東京大学の敷地が一部開放され、城跡の遺構を見学することができる年に一度の貴重な日でもある。
この日は最寄りの京急三崎口駅についたのが朝8:23。朝8:43に、駅の目の前にあるバスのりば1から三崎口から油壺行きのバスに乗車し終点の油壺バス停に着いたがのが朝8:56。イベントは昼前の開催であったので、先に城攻めをして、イベント会場となる荒井浜海水浴場でお昼を食べながらイベントを観覧する予定だった。で、この日は夏日であるかのように晴天で気温があがり、歩きまわるには少し辛かったが、終わってみたらしっかりと季節外れの日焼けとなっていたが 。
こちらは Google Earth 3D を利用した新井城の俯瞰図。コメント部分は今回の城攻めで巡った主なポイントを★と赤枠で示した。青色破線は新井城の城域(推定)を、橙色曲線は空堀跡(推定)でそれぞれ示した:
現在のところ城の遺構は、東京大学の敷地となっている主郭跡以外は殆ど残っておらず宅地化が進んで埋没など改変されているところも多い。「要害っぽさ」を確認するならば「道寸まつり」の会場である荒井浜の海水浴場から急崖を見上げるなどできる。またイベントに併せて東京大学臨海実験所の一部が開放されているおかげで、極僅かであるが残存遺構(空堀や土塁など)を確認できた。
これは東京大学の職員の方に聞いた話であるが、そもそも三浦半島は地震活動などで海岸線の隆起が長い年月のうちに激しく変化しており、例えば三浦道寸と北条早雲が対決した時代と今の時代とは、大正時代の巨大地震[h]いわゆる大正12(1923)年9月1日11時58分32秒に発生した関東大震災のこと。もあって大分異なる様相があるとのこと[i]従って図中にコメントした推定城域は当てにならないだろう 😐 。。また、このような地形の変化は生態系の変化にも繋がるとのことで、特に三崎近辺の海中には貴重な生物が生息しており一帯を実験所と称して保護しているのだとか。従って開放されてはいるが、主郭にあったとされる御殿跡は依然として立ち入り不可であった。
ということで今回の城攻めルートはこちら:
(油壺バス停) → 内引橋跡 → 堀切跡 → (東京大学臨海実験所) → 主郭堀切跡 → 高やぐら跡 → 主郭跡 → (ハイキングコース入口) → 油壺湾 → 千駄やぐら跡 → 荒井浜 → (笠懸の鑑賞) → 合戦場跡 → 西曲輪跡 → 三浦荒次郎供養塔 → 三浦道寸供養塔 → 胴網海岸 → (油壺バス停)
と云っても見て回る箇所は油壺のハイキングコースに毛が生えた程度であったが :
まず「新井城碑」の石碑。こちらは油壺マリンパークの駐車場奥の「三浦荒次郎供養塔」脇に建っていたもの:
まずは油壺バス停から県道R216を西へ向かって歩いて行くと正面左手に新井城跡が見えてくる。そして更に進んで行くとガードレイル脇に「油壺験潮入口」なる標識が見えてくる。この手前あたりが内引橋跡で、県道がまさに大手道跡に相当する:
その標識に従って油壺湾へ向かって下りていくと堀切跡がそのまま通路として利用されていた:
再び内引橋まで登って県道R216を西へ道になりに進むと京急油壺マリンパークの手前に「東京臨海実験所(海洋基礎生物学研究推進センター)」が見えてくる:
平時は立ち入りできないが、この特別な日には「三浦一族終焉の地・新井城址一般公開」と題して主郭跡にあたる敷地の一部が開放され、「三浦道寸研究会」のメンバや地元の学生らのボランティアがガイド付きで数少ない遺構を鑑賞することができた(一般公開は朝9:30〜昼2時まで、参加費は無料)。
まずひとつ目の遺構は主郭の空堀。なお、この遺構は荒井浜海水浴場へ向かうハイキングコースから鉄柵越しに見ることができる:
こちらは高やぐら跡。太鼓櫓または物見櫓に相当する建物があったと考えられている:
先ほどの空堀の反対側は、この高やぐら跡の脇を抜けてさらに西側へ続いていた(が、この先は立入禁止):
こちらは主郭虎口。特別公開でもこの先にある主郭(御殿)跡は立入禁止だった。崖と空堀で囲まれた主郭には三浦道寸の家族が住んでいた御殿が建っていたことから御殿跡とも。御殿の脇には松林の庭があったという。ちなみに廃城後は人も恐れて近寄ることがなく荒れ果てていたが、国有地(東京大学の敷地)となって管理される際に、かなり貴重な史料が発掘された上に、未確認の遺跡が多いため、東京大学の研究室はその一部をずらして建てているのだとか:
戦国時代初期の関東にあって名将の誉高い太田道灌と同じ扇ヶ谷上杉家の家臣団で、道灌との共同作戦には常に参陣し盟友でもあった[j]太田道灌の嫡男・資康《スケヤス》の正室は三浦道寸の女子である。三浦三浦介義同《ミウラ・ミウラノスケ・ヨシアツ》、出家して道寸《ドウスン》は、道灌亡き後も主家である扇ヶ谷上杉家[k]太田道灌を謀殺した扇ヶ谷上杉の当主・定正の弟でのちに相模三浦氏の養子となった三浦高救《ミウラ・タカヒラ》が道寸の実父である。に仕え旧敵・山内上杉家との戦では主力として転戦した。そんな両上杉家が広い関東を舞台にしのぎを削っていた頃、駿河・今川家の協力で堀越公方・茶々丸を滅ぼし伊豆一国を手に入れた伊勢新九郎が関東の混乱にまぎれて相模国へ進撃、道寸の母方の実家にあたる小田原城の大森藤頼《オオモリ・フジヨリ》を攻めて城を奪取した[l]この時、伊勢新九郎こと北条早雲は齢65である。。
このあと新興勢力の伊勢新九郎に対抗するため両上杉家が和睦するとすかさず新九郎も両家に和睦を願い出る。その隙きを突いて新九郎が道寸の居城・相模岡崎城を強襲し支城さえも陥落させると、親戚筋を追い落とされた上に自らの居城を奪われた道寸は激怒して主家の扇ヶ谷上杉へ援軍を要請し、嫡子・荒次郎義意《アラジロウ・ヨシオキ》と共に兵を繰り出すも敗戦が続き、ついにここ三崎要害に立て籠もった。また援軍として三崎要害へ向かっていた道寸の娘婿・太田資康を奇襲で討ち取った新九郎であったが、唯一の攻め口である内引橋が引かれて文字通り難攻不落となった要害には力攻めを仕掛けることなく、海上には兵船を連ね、三浦半島の付け根に玉縄城を築いて海陸両方から糧道と援軍を断ち、兵糧攻めの策をとった。
三年間の籠城戦の中、主家の上杉朝興《オウギガヤツ・ウエスギ・トモオキ》が三浦道寸・荒次郎親子に送った援軍はとごとく敗退、兵糧も武器もなくなった道寸親子は、永正13(1516)年夏ついに城門を開き討って出て自刃、要害も陥落した。
ここで東京大学の敷地を出て内引橋跡方面へ戻り、手前のハイキングコースへ。当時はイベントに向けてこんな案内板が入口に掲げられていた:
このハイキングコースは左手に油壺湾を見ながら城址南にある荒井浜の海水浴場へ繋がっている。右手には土居のようなものがあるが、往時はここに道は存在せず険しい崖のままだったことから遊歩道を作るために掘削してできた跡であろう:
道寸まつりの会場となる荒井浜海水浴場へつづくハイキングコース脇には、三浦氏最後の当主であり、三崎要害の最後の城主であった三浦道寸(義同)の家紋「三浦三つ引両(桓武平氏三浦氏流)」がついた幟が立っていた:
こちらがハイキングコースから見た油壺湾。伊勢新九郎との戦いに敗れた三崎要害の城兵らがこの浜に降りて切腹し、彼らの流した血で湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したように光っていたことから名付けられたという伝説が残る。現在は、そんな壮絶な過去があったとは思えないほど長閑なヨットハーバーになっていた :
このままハイキングコースを南下していくと分岐点があり一つは荒井浜海水浴場方面、もう一つは東京大学地震研究所方面である[m]ハイキングコースは荒井浜海水浴場へ伸びているようで、東京大学の施設は原則的に立入り禁止である。。
ここで後者の東京大学の施設がある方面へ下りていくと、その敷地内に千駄やぐらなる大きな洞窟がある。但し、現在は洞窟の入口の前に小屋が建っている上に藪化して分かりづらい状態だったが:
なお千駄とは「千頭の馬」を意味し、これらの馬を使って運べる米俵2千俵を備蓄することが可能な洞窟のことを千駄やぐらと云うらしい。実際に伊勢新九郎との三年間に及ぶ籠城戦を支えた備蓄庫であった。
この先は立入禁止なので分岐点へ戻って荒井浜海水浴場へ移動した。ここからは相模湾を眺めることができる:
当時は「道寸まつり」のメインイベントである笠懸《カサガケ》[n]平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけて流行した流鏑馬《ヤブサメ》と犬追物《イヌオウモノ》と並ぶ日本三大古弓馬術《コユミバジュツ》の一つ。笠懸は三浦一族の御家芸として長く伝えられてきた。の準備で大勢の人たちがいた:
また今回は『三浦道寸没後五百年忌』という節目の追悼祭も兼ねているということでテントの中には三浦道寸義同公と嫡子・三浦荒次郎義意公の位牌が置かれた供養台が設置されていた:
ちなみに、こちらが会場で配布されていたチラシ:
それから会場設営の脇を抜けて奥にそびえている城跡へ向かうと、そこには長い時間をかけて隆起してできた岩層が剥き出しになっている場所がたくさんあった。三崎要害の頃は、この急崖もまた防衛施設の一つであったのだろう:
このあとは晴天の下、相模湾を眺めながらお昼を摂り、朝11:00から始まる三浦一族供養祭、和太鼓の演奏、立身流兵法の演武などを遠くから眺めながら笠懸が始まるを待つことにした。
昼が過ぎて陽も高くなってきた午後1:00くらいに笠懸が始まったのだけれどホント大変な人だかりで、馬が走る経路沿いには大勢のカメラマンが陣取っていて、全くつけ入る隙がないって感じ。自分は完全に置いてけぼりを喰らったので後ろの方から望遠で狙うしかなかったけど 。詳しくは、こちらのブログから。
そして笠懸が終了に近づいてきた頃合いをみて、あまり混雑しない時間に会場の荒井浜海水浴場を出て県道R261沿いの京急油壺マリンパークへ向かった。その手前にあるホテル観潮荘は合戦場跡らしい:
油壺マリンパークは二の丸に相当する西曲輪跡だった:
以上で三崎要害・新井城攻めは終了。
最後はマリンパーク近くで見かけた注意書きと、実際に目撃した鳶:
新井城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 新井城址に建っていた説明板・案内図
- 日本城探訪(新井城)
- 『新井城と三浦道寸・荒次郎』ガイド(三浦道寸研究会発行)
- 埋もれた古城(新井城) 〜 執筆時現在リンク切れ
- Wikipedia(三崎城)
- 余湖図コレクション(新井城/三浦市油壺)
- 東京大学臨海実験所横の駐車場でガイドしていただいた職員の方
三浦道寸・荒次郎の供養塔
マリンパークの駐車場脇を抜けて横堀海岸方面へ向かった先の杜の中には三浦荒次郎義意《ミウラ・アラジロウ・ヨシオキ》公の供養塔が建っていた:
三浦荒次郎は三浦道寸の嫡子である。背が高く器量良しの荒次郎は『八十五人力の有士』の異名を持ち、その勇壮さで近隣にその名を知られていた。一説には身の丈七尺五寸[o]メートル法だと約285cm。、筋骨隆々、黒ひげ濃く、白樫の丸太を八角に削って筋金を通した金砕棒《カナサイボウ》を振り回し、伊勢新九郎率いる北條勢を兜の上から撫で打ちしたとか。この三崎要害に三年間籠城し、最後は討って出て、父の自刃を見届けたのちに一人敵中に突撃して力尽きるまで暴れまわったあと自ら首を掻き切って自決したと云う。享年21。自らの首をうち落とした場所にこの供養塔が建てられたと伝わる。荒次郎の辞世の句は:
君が代は千代に八千代もよしやただ うつつのうちの夢のたはぶれ
ここからさらに胴網海岸へ下りていくと左手に案内板が見えてくる:
道寸の供養塔は両脇が急崖のかなり地形的に厳しい場所に建っていた。
なお荒次郎公の供養塔を含め、ここの供養塔一帯は三浦家の菩提寺である網代山・海蔵寺の飛地にあたり寺域であることに留意のこと[p]すなわち原則的に参拝以外の無断立入りは禁止である。供養塔の周囲に厳しい文言の立て看板が建っていた。:
こちらが相模三浦氏の流れをくむ三浦介を継承した三浦義同《ミウラ・ヨシアツ》、出家して三浦道寸公の供養塔:
公の出自には諸説あるらしいが通説としては、扇ヶ谷上杉家で相模守護であった三浦時高《ミウラ・トキタカ》に子が居なかった時、同門の上杉高救《ウエスギ・タケスケ》の嫡子・義同を養子とした。しかし、その後に実子が生まれると時高は義同の存在が鬱陶しくなり、ついには亡きものにしようとした。これを察知した義同は家を出て出家し「道寸」と名を変えて僧になったが、義同は武勇絶倫、その上に歌道にも通じる文武兼備の勇士であったため、相模三浦氏の家臣らでも慕うものが多く、時高の仕打ちに憤るものが多かったと云う。
のちに伊勢新九郎が三浦氏討伐に向かうと聞くと、母方の実家にあたる小田原大森家へ行き、「多年の宿怨を晴らすべき時節到来と心得る。新九郎が手に加わって三浦氏を討ちとうござる。兵をお貸し願いたい。」と口上した。彼に同情する大森家は快く兵を貸してくれた。伊勢新九郎と三浦道寸の兵が三崎要害へ進撃すると、かねてから道寸を慕っていた三浦家の家臣らも主人である時高から離反して馳せ加わり、なかなかの軍勢に整った。道寸は新九郎に「拙者に先手《サキテ》をつとめさせて頂きたい。」と進言し、二百の兵を率いてまっしぐらに攻め寄せた。関東無双の堅城と謳われた三崎要害であったが守り手の多くは離反して兵が少ない上に、攻め手は案内知った三浦家譜代の旧臣が大部分である。自分の家の庭を歩くがごとく攻め寄せると時高らは自刃して一日で落城した。
ここで手に入れた三崎要害を嫡子・荒次郎に与え、自らは相模岡崎城を居城とした。のちに老獪な新九郎は小田原城を計略で手に入れて道寸とは敵味方に別れることになり、さらに三崎要害を落とすのに相当な苦労をして足掛け七年も費やすことになる。
道寸の眼の前に立ちはだかった怨敵・新九郎に対し、道寸は得意な野戦で抵抗するが新九郎の軍略の前に敗戦が続き、ついには荒次郎と共に三崎要害に籠城することになる。千駄やぐらに兵糧を蓄えた道寸勢は少数ながら三年間の籠城戦を闘いぬき、最後は門を開いて敵陣に突撃した。頃合いを見た道寸は腹を十字に切り裂いて自刃したと云う。享年65。辞世の句は:
討つものも討たるるものも土器《カワラケ》よ 砕けてあとはもとの土塊《ツチクレ》
三年間の籠城戦の間、城兵が一人の裏切り者を出すことなく皆討ち死にしたのは、ひとえに道寸・荒次郎父子の人間的な魅力があったことを物語るものである。
道寸との戦いに勝利し相模国を平定した伊勢新九郎は家督を嫡男の氏綱に譲り、三崎要害落城の二年後に居城の韮山城で死去した。享年88、あるいは齢64とも。
こちらは供養塔の背後にある小網代海岸を見下ろしたところ。かなりの急崖であるが横堀が残っていた:
最後は胴網海岸へ。この海岸は首を取られた荒次郎の胴体が網にかかったと云う伝説が残る:
海岸から三浦道寸公の供養塔が建つ崖を眺めたところ:
新井城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 供養塔近くに建っていた説明板
- 『新井城と三浦道寸・荒次郎』ガイド(三浦道寸研究会発行)
- 海音寺潮五郎 『武将列伝 〜 戦国揺籃篇』(文春文庫刊)
- Wikipedia(三浦義同)
参照
↑a | 読みは《カナガワケン・ミウラシ・ミサキチョウ・コアジロ》。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。 |
---|---|
↑b | 別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。 |
↑c | 幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦《ホウジガッセン》。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。 |
↑d | 小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。 |
↑e | 伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》または早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。 |
↑f | 正確には三浦氏の居城であったころは平山城、小田原北條が水軍を配して海城となった。 |
↑g | リンクは令和元(2019)年の三浦市のコンテンツ。この手のリンクはころころ変わるので大変だ。 |
↑h | いわゆる大正12(1923)年9月1日11時58分32秒に発生した関東大震災のこと。 |
↑i | 従って図中にコメントした推定城域は当てにならないだろう 😐 。 |
↑j | 太田道灌の嫡男・資康《スケヤス》の正室は三浦道寸の女子である。 |
↑k | 太田道灌を謀殺した扇ヶ谷上杉の当主・定正の弟でのちに相模三浦氏の養子となった三浦高救《ミウラ・タカヒラ》が道寸の実父である。 |
↑l | この時、伊勢新九郎こと北条早雲は齢65である。 |
↑m | ハイキングコースは荒井浜海水浴場へ伸びているようで、東京大学の施設は原則的に立入り禁止である。 |
↑n | 平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけて流行した流鏑馬《ヤブサメ》と犬追物《イヌオウモノ》と並ぶ日本三大古弓馬術《コユミバジュツ》の一つ。笠懸は三浦一族の御家芸として長く伝えられてきた。 |
↑o | メートル法だと約285cm。 |
↑p | すなわち原則的に参拝以外の無断立入りは禁止である。供養塔の周囲に厳しい文言の立て看板が建っていた。 |
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