縄文時代に太平洋から関東東部へ湾入し、内海として下総(しもうさ)国一之宮にあたる香取神宮[a]関東地方を含む全国にある「香取神社」の総本社。茨城県の鹿島神宮と息栖(いきす)神社と共に東国三社の一つ。の目の前まで広がっていた香取海(かとりのうみ)[b]地学的には古鬼怒湾(ふるきど・わん)と呼ばれる。は奈良時代に入ると海退[c]読みは「かいたい」。土地の隆起により海岸線が後退し海面下のにあった地面が陸上に現れること。し、鬼怒川からの土砂が流れこむことで出口が堰き止められて沼が形成された。これが印旛沼(いんばぬま)の始まりとされる。この沼を天然の外堀として築かれた砦が師戸城であるが築城の経緯は不明であり、一説には下総国を拠点として千葉介(ちばのすけ)を名乗っていた千葉氏の一族とされる臼井(うすい)氏が居城とした下総臼井城の支城として、室町時代初期に築かれたと云われている。また江戸時代初期に編纂された『臼井家由来抜書(うすいけ・ゆらい・ぬけがき)』によると臼井氏四天王の一人、師戸四朗なる人物が城主を務めたとある。その後、戦国時代に至るまで何度か改修され、千葉県は印西(いんざい)市師戸の印旛沼公園に現存する規模になったと推定されている。永禄9(1566)年、関東管領・上杉輝虎[d]のちの上杉謙信。「輝」の字は足利幕府第13代将軍・足利義輝からの偏諱。が小田原北條氏の勢力を駆逐するため安房の里見義堯・義弘父子らと千葉氏の家臣・原胤貞(はら・たねさだ)らが籠もる臼井城を攻め、師戸城もまた越後の精兵らの猛攻にさらされた。
今となっては一昨年は平成28(2016)年、巷でいう「黄金週間」が明けたとある週末近くの平日に、千葉県にあったとされる城を攻めてきた[e]私事ながら、この年のGWは仕事だった上に、ほかにも休日出勤も重なっていたが、ここいらで少し落ち着いてきたので天気の良い平日に代休をとったという次第。最後の城攻めのあとに体調を崩したこともあって約3ヶ月ぶりの城攻めとなった。。印旛沼公園は、その昔に攻めた臼井城跡と印旛沼を境に北側に位置することもあって、その時と同様に船橋を経由して京成臼井駅へ到着したのが朝の9時半くらい。ここから県道R64に沿って徒歩で公園へ向かうことも可能であるが、この当時は平日のみ京成成田空港線の印旛日本医大駅までバスが運行されていた。これにより公園入口近くの「師戸」バス停まで10分弱で行くことができた[f]これは今から二年前の話。本稿執筆時点だと平成30(2018)年12月から大成交通さんの「宗像路線」の青ルートが利用できるようだ。バス停も「印旛沼公園入口」そのもの。。ただ帰りはバスの時刻が合わなかったので30分くらいかけて徒歩で戻ってきたけど 。ちなみに公園へのアクセスについては大分古いがこちらにも情報あり。
R64沿いのバス停から師戸川を渡り、緩い坂を歩いていった先に公園入口があった:
こちらが駐車場に建っていた公園案内図(左が北方面):
この案内図にあるように師戸城跡の一部は「自由広場」とか「芝生広場」なんてのに改変されてはいるが、特に灰色で示された空堀跡は良好に残っていた。印旛沼に面する公園南端には展望台が設けられており、そこから臼井城跡や臼井田宿内砦跡を眺めることができた。
こちらは Google Earth 3D を利用した師戸城跡の俯瞰図。コメント部分は先の案内図の他に、こちらも公園内に建っていた「師戸城跡模式図」を参考にした(黄色線は土塁、水色線は堀を示す):
現在、公園の南側(写真右側)には印旛沼との間に用水路を含む水田が設けられているが、この公園の周囲に作られた水田を含めて往時は湿地あるいは泥地であったと予想され、印旛沼とともに天然の外堀的防御施設として使われていたと思われる。
主郭跡が城の南端に配置されていることから、主郭下に渡(わたし)を設け、印旛沼対岸にある臼井城との連絡や防衛上の連携(物資の搬入や退却時の収容など)を想定していた縄張であったろうと予想する。
今回の城攻めルートはこちら。公園入口から時計回りにぐるりと回ってきた:
(公園入口) → 道場台の土塁 → (公園駐車場) → 三郭の空堀 → 三郭の土塁 → 三郭の虎口跡 → 中堀跡 → ニ郭虎口跡 → 二郭跡 → 公園展望台 → 主郭虎口跡 → 主郭跡 → 三郭跡 → 三郭の土塁と空堀 → 土盛り跡 → 三郭虎口跡と土橋 → 道場台跡 → (公園駐車場)
公園内にいくつかある「〇〇広場」は郭(くるわ)跡に相当し、その周囲には土塁が残っている他に広場と広場の間に設けられた遊歩道は空堀や堀底道に相当すると考えられる。
公園入口を進んでいくと右手上に道場台北側の土塁が見えてくる。この外堀跡に作られた車道からの比高差8m以上はあるであろう:
公園駐車場を抜け「展望台」方面の案内板の先には道場台と三郭との間にある空堀が見えてくる:
このまま城址の南側へ向かって進んで行くと遊歩道と空堀が合流し、堀底道から三郭の高い切岸を見上げることができた。季節柄、蒼々を茂った藪が多かったが:
そして城址の真東あたりにある公園の入口は三郭の虎口跡らしい:
というのを公園をぐるりと巡って最後の道場台跡に建っていた「師戸城跡模式図」なる説明図で知った :
そして虎口から城址南側に広がる印旛沼を眺めたところ。往時は、民家が建つているあたりも沼だった:
さらに城址を南下していくと「展望台」方向との分岐点に到達するが、展望台ではなく中堀跡の堀底をたどる階段を登ることにした。階段を登ると三郭と主郭・ニ郭との間ある中堀跡が見えてきた:
師戸城の中央を東西に分断する中堀跡が遊歩道になっていたが、歩きながらでも横矢掛かりになっているのが分かる:
こちらは薬研堀である中堀跡の堀底から城址西側を眺めたところ。左手前がニ郭跡、左手奥が主郭跡、右手が三郭跡:
一度、中堀跡の西端まで行ってから引き返し、この遊歩道の上に架かっていた橋を三郭跡から渡る。そのため、この先がニ郭虎口跡になる:
木橋ならぬ鉄橋を渡り虎口を抜けると、台地の最南端に設けられたニ郭跡となる:
そして、この先には花木園と公園展望台がある:
往時は物見台であったと思われる二郭南端の展望台から印旛沼の眺め:
この下の田んぼもまた往時は沼が侵食して湿地となり、対岸にある臼井城との渡(わたし)に使う舟入場などが設けられていたと考えられる:
そして印旛沼を挟んで臼井城跡や臼井田宿内砦跡も眺めることができた。実際のところ展望台から城跡まで1.5kmほどであるが、遮蔽物がなく沼のおかげで意外と近く感じた:
師戸城と臼井城との関係は不明であるが、一説に臼井城の支城として印旛沼の水運掌握を担い、兵站基地として14世紀ころには存在していたと云われる。戦国時代の改修を経て、永禄9(1566)年春の上杉輝虎ら越軍との臼井城攻防戦でもその猛攻をしのいだとされる。
さらに天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、諸軍が相模国の小田原城を包囲している中、徳川勢を主力する東海道北上軍[g]主な武将は徳川家康、内藤家長、羽柴秀次、織田信雄、浅野長政ら。が武蔵国へ侵攻して玉縄城や江戸城を次々に陥落させ、そこから軍勢を岩付城・河越城攻略方と下総国の臼井城・佐倉城・本佐倉城攻略方の二手に分けて、それぞれ進撃した。この時に浅野長政や内藤家長(ないとう・いえなが)らが率いる軍勢により師戸城は臼井城と共に開城、その後に廃城となったと云う(石田堤史跡公園に置かれていた説明図より):
このあとは主郭跡へ移動した。
主郭は城の南端に二郭と隣り合う状態で設けられていたが、往時は主郭虎口へ続く土橋の左右に「小堀」と呼ばれる空堀が設けられていた:
こちらが二郭跡(左手)と主郭跡(右手)との間に残る小堀跡:
現在は芝生広場になっていた主郭跡。主郭北側には土塁が残っていた:
室町時代中期に京都を中心に勃発した応仁の乱が終息した文明10(1478)年、京から遠くはなれた東国では長尾景春の乱が各地へ飛び火し、関東管領勢と地方の豪族との間で対立が続いていた。そんな中、扇谷上杉氏家宰で江戸城を居城としていた太田資長(おおた・すけなが)[h]持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。室町時代稀代の軍略家。は臼井城に籠もる千葉孝胤(ちば・たかたね)を攻めたが、本城である臼井城と支城の師戸城による印旛沼を利用した二元攻撃に苦戦を強いられ、味方に多くの損害が出る中[i]この戦いで道灌は実弟の資忠を失った。、辛くも落城にこぎつけることができた。
しかし太田資長が謀殺されると、逃亡していた孝胤は再び臼井城を奪取して家臣の臼井景胤(うすい・かげたね)を入城させ、代々臼井家が城主となった。
そして戦国時代初めの永禄4(1561)年には、臼井家16代当主・久胤(ひさたね)の時代に臼井城は里見家の正木大膳信茂に攻められて落城したが、のちに里見氏が小田原北條氏との第二次国府台合戦で敗れ下総国における支配力が弱まった隙に、千葉氏の家老・原胤貞(はら・たねさだ)が奪還した。この際に臼井城と師戸城は北条流築城術で一部が改修されたとも。
ここで『房総の雄』里見義堯(さとみ・よしあき)・義弘(よしひろ)父子は小田原北條氏に対抗するために『越後の龍』上杉輝虎に関東出陣を要請、輝虎もまた水運が盛んな下総の船橋を関東制覇の拠点とすべく、永禄9(1566)年春に精兵を率いて北條氏に与した千葉胤富(ちば・たねとむ)の家臣・原胤貞(はら・たねさだ)らが守備する臼井城・師戸城を攻めた。緒戦は、ここまでに攻略し降伏させた下野国の豪族らを先鋒にした上杉勢が有利に進め、本丸堀一重を残すばかりに追い込んだものの、たまたま諸国行脚の修行で立ち寄った臼井城で軍配を任されることとなった軍師・白井胤治(しらい・たねはる)[j]出家して白井入道浄三(しらい・にゅうどう・じょうさん)とも。圧倒的有利の上杉輝虎ら越軍を2千の兵で迎え撃ち、撃退した「無双軍配名人」(名軍師のことで、諸葛亮孔明に因んで「今孔明」)として知られる。鉄仮面を被って軍配を執ったと云う。による奇策と小田原北條氏からの援軍で『赤鬼』こと松田康郷(まつだ・やすさと)[k]小田原北条氏綱の家臣。たった百騎で臼井城の援軍に駆けつけ、朱色の甲冑・具足の赤備で越軍本陣まで斬り込んで暴れ回り、越軍に撤退を余儀なくさせた。後に謙信も『鬼孫太郎』と感嘆したという猛将。の活躍により形勢が逆転し、輝虎ら越軍は撤退を余儀なくされたと云う。
こちらはGoogle Earth 3Dに師戸城跡と印旛沼、そして周辺の遺構を重畳させたもの。マップの縮尺の都合で、千葉氏の居城であった本佐倉城跡まで収めることができなかったが :
主郭跡を出て、次は中堀跡の北側にあり、現在は自由広場[l]文字通り「自由」に楽しめるグラウンド規模の広場だった 。になっている三郭跡へ:
この郭もまた土塁で囲まれており、しっかりと遺構として残っていた:
三郭の西側には梅園があり、その近くに土盛りした(土塁)跡が残る:
さらに遊歩道を北側へ向かうと三郭から道場台との間の土橋跡が見えてきた。その両脇の空堀も、だいぶ埋まってはいるが良好に残っていた:
そして四郭にあたる道場台跡。現在はちびっこ広場:
こちらも道場台跡で、現在は芝生広場:
この後は公園を出て県道R64を南下し、船戸橋を渡って京成臼井駅まで徒歩で移動した:
船戸橋を渡るところから眺めた印旛沼と臼井城跡。印旛沼は利根川水系の湖沼(こしょう)である:
師戸城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 印旛沼公園に建っていた説明板・案内図
- 日本城探訪(師戸城)
- タクジローの日本全国お城めぐり(千葉 > 下総・師戸城・印旛村)
- DELLパソコン・モバイル旅行記(千葉県 > 師戸城)
- Wikipedia(臼井城の戦い)
- 簑輪諒『最低の軍師』(祥伝社文庫刊)
- 黒田基樹『戦国北条家一族辞典』(戎光祥出版刊)
参照
↑a | 関東地方を含む全国にある「香取神社」の総本社。茨城県の鹿島神宮と息栖(いきす)神社と共に東国三社の一つ。 |
---|---|
↑b | 地学的には古鬼怒湾(ふるきど・わん)と呼ばれる。 |
↑c | 読みは「かいたい」。土地の隆起により海岸線が後退し海面下のにあった地面が陸上に現れること。 |
↑d | のちの上杉謙信。「輝」の字は足利幕府第13代将軍・足利義輝からの偏諱。 |
↑e | 私事ながら、この年のGWは仕事だった上に、ほかにも休日出勤も重なっていたが、ここいらで少し落ち着いてきたので天気の良い平日に代休をとったという次第。最後の城攻めのあとに体調を崩したこともあって約3ヶ月ぶりの城攻めとなった。 |
↑f | これは今から二年前の話。本稿執筆時点だと平成30(2018)年12月から大成交通さんの「宗像路線」の青ルートが利用できるようだ。バス停も「印旛沼公園入口」そのもの。 |
↑g | 主な武将は徳川家康、内藤家長、羽柴秀次、織田信雄、浅野長政ら。 |
↑h | 持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。室町時代稀代の軍略家。 |
↑i | この戦いで道灌は実弟の資忠を失った。 |
↑j | 出家して白井入道浄三(しらい・にゅうどう・じょうさん)とも。圧倒的有利の上杉輝虎ら越軍を2千の兵で迎え撃ち、撃退した「無双軍配名人」(名軍師のことで、諸葛亮孔明に因んで「今孔明」)として知られる。鉄仮面を被って軍配を執ったと云う。 |
↑k | 小田原北条氏綱の家臣。たった百騎で臼井城の援軍に駆けつけ、朱色の甲冑・具足の赤備で越軍本陣まで斬り込んで暴れ回り、越軍に撤退を余儀なくさせた。後に謙信も『鬼孫太郎』と感嘆したという猛将。 |
↑l | 文字通り「自由」に楽しめるグラウンド規模の広場だった ![]() |
最後の城攻めから3ヶ月も空いてしまった。春先に体調を崩してしばらくは城攻めを休むことに。そんな時に限って仕事がたてこんでくるという次第。休日返上でこなして落ち着いてきた時期に、やや抑え気味に規模の小さい平城跡をゆっくりと時間をかけて回ってきた。そして、なんとか城攻めの勘をとりもどすことができた