静岡県御殿場市深沢大櫃160[a]読みは「しずおかけん・ごてんばし・ふかざわ・おおびつ」。にあった深沢城は、戦国時代初期に駿河国守護の今川氏によって築かれたと云われている[b]昭和55(1980)年に新人物往来社が刊行した城郭研究本の『日本城郭大系』第9巻に記載されているだけ。がその真偽は不明で、現在では永禄12(1569)年に相模国の戦国大名・北條氏康によって築かれたとされる説[c]平成8(1966)年に刊行された『戦国期東国の大名と国衆』(黒田基樹著)の第4章「北条氏の駿河防衛と諸城」。が有力である。この城が築城される前年の永禄11(1568)年冬、甲斐国の武田信玄は尾張国の田楽狭間(でんがくはざま)で斃れた今川義元亡きあと、第12代当主となった氏真(うじざね)が居る駿府に電撃的に侵攻した。氏真の正室は甲相駿三国同盟の証として相模国から輿入れしてきた氏康の長女で、氏真が駿府を捨てて掛川城へ避難した際、混乱のために妻の乗輿(じょうよ)が得られず侍女ともども寒中の野道を徒歩で辿る恥辱に耐え忍んでいたことを知った氏康は自分の娘を憂い、そして激怒して武田家との盟約を全て破棄し、上野(こうづけ)国で対峙していた関東管領・上杉輝虎[d]のちの上杉謙信。「輝」の字は足利13代将軍・義輝からの偏諱である。と急ぎ和睦を成立させ、娘婿の氏真救援のため駿河国へ出陣した。一方の信玄は氏康との直接対決を避けて一旦甲府に帰国したため、氏康は氏真と共に信玄に対する防衛ラインの再構築に乗り出し、甲斐との国境に接するこの地に「境目の城」となる深沢城を築いた。
今となっては一昨年は平成28(2016)年の余寒厳しい週末に深沢城跡を攻めてきた。今回は、まず小田急小田原線急行・小田原行に乗って新松田駅で下車。それから道路を挟んで向かい側にある松田駅からJR御殿場線・沼津行に乗り換えて御殿場駅に着いたのが午前10時ちょっと前。事前に調べた情報(当時)では駅から城跡へ向かう適当な公共機関が無いので、駅から一時間ほど歩いて城跡へ向かう「覚悟」であった。で、駅の富士山口へ出てみると目の前に御殿場市観光協会なる看板が目に入ってきたので、「城跡までの最短ルートでも聞ければいいか」くらいの軽い気持ちで入ってみることにした。
そして係の人に徒歩で向かう旨を伝えたところ、「城跡近く」ではなく「城跡方面」へ向かうバスが目の前のバスターミナルから出ているとの情報を頂いた。具体的には富士急行バスの小山高校線と駿河小山線が該当し、前者は城跡に最も近いバス停「宮沢橋」に停車するが平日に二本しか運行していないため却下。後者は城跡前を通る県道R78(御殿場大井線)は通らないが、城跡を越えた先の駿河小山駅へ向かう路線で、R78に入る手前のバス停「仲町」で下車すれば城跡まで徒歩で約20分(約1.7km)とのこと 。1時間が20分に短縮できるのは有り難いと云うことで早速バスの発車時刻を尋ねると、なんともうバスがターミナルに来ているとのことで、仲町のバス停から城跡までの地図を貰って駆け足で駅前のターミナルへ。
御殿場駅前から仲町まではバスで10分程(当時)。バス停から城跡へは緩やかな下り坂となったR78を北へ向かって行く。曇り空の下、20分ほど歩いて行くと城址の碑が見えてきた:
この石碑左手の脇道へ入って城跡を目指していく途中、一面が田んぼで高い建物がなく富士山を眺める絶好のビューポイントであったのだけど、この日は雲がかかって残念ながら全体像を拝むことはできなかった :
この先にりっぱな城址の碑が見えてくるが、こちら側が城の南側であり大手口でもある:
こちらは城址の碑の脇に建つ説明板に描かれていた縄張予想図。馬伏川(まぶせがわ)と抜川(ぬけがわ)[e]ちなみに馬伏川は旧名が抜川、抜川は旧名が宮沢川と云う。と云う二つの川に挟まれた台地上に、ここ南側から複数の郭(くるわ)が北へ向かって連なっており、郭を囲む土塁や堀切の他に馬出も描かれていた:
但し、後年の発掘調査[f]御殿場市によって平成15(2002)年から平成17(2004)年の三年間と平成19(2006)年に実施されたが、最新の報告書の記述には問題点が多いらしい。の成果からは上図に記載された「本丸」、「二の丸」、そして「三の丸」の名称は正確なものではないらしく、あくまでも平坦地(すなわち郭)であったことのみ確定されたものとのこと。従って本稿ではそれぞれ「曲輪I」、「曲輪II」、「曲輪III」(そして「曲輪IV」)と云う名称で代用する。
一方こちらは Google Earth 3D を利用した深沢城跡の俯瞰図。コメント部分は参照元にリンクされていた情報(『深沢城跡基本整備検討報告書』の図)を参考にした。現在、この中で最も高い位置にある曲輪IIが本丸に相当する郭であったと考えられている:
今回の城攻めルートはこちら。最初に馬伏川が流れる西側から攻めて城址を遠景し、それから大手道跡から北上して城跡をでたら外郭跡に立ち寄り、最後は大手門が移築されている大雲院まで延々と歩いた:
大手口跡(城址の碑) → 土塁跡 → 9号堀跡 → 10号堀跡 → 馬伏川 → 八幡宮 → 大手口跡 → 8号堀跡 → 馬出跡 → 曲輪III跡 → 6号堀跡 → 4号堀跡 → 馬出跡 → 5号堀跡 → 曲輪II跡 → 土塁跡 → 食料庫跡 → 3号堀跡 → 2号堀跡 → 馬出跡 → 1号堀跡 → 曲輪I(東側上段)跡 → 袖郭跡 → 城櫓跡 → 曲輪I(西側下段)跡 → ・・・ → 大手口跡 → 外郭跡 → ・・・ → 大雲院
なお城跡の大部分は私有地であり、曲輪跡などは改変されて田んぼに転用されている点に留意した方が良い。当時は私有地なのに立入り制限や注意書きの看板が立っていないことに多少戸惑ったが、逆に地権者の方々の見識の高さに感謝すべきであろう 。そう云えば、この時は偶然にも地主さんに声をかけて貰い、いろいろとお話を頂いたっけ[g]地主さんによると、なんと前日に収穫した野菜がごっそり盗難にあったとのこと
。城攻めに来た外部の人間の仕業ではないとは思うけど、ご愁傷さまです。。
まず城址の碑が建つこの場所は大手口前にあたり、往時は土塁があったらしいが現在は整地されて道路になっていた:
まずは城址西側へ。この道路は曲輪IIIを縦断して北へ向かっているが、それと交差するように左手奥には巨大な三日月堀(9号堀)が残る:
こちらが巨大な三日月堀の9号堀跡。堀の手前にある土塁の高まりを馬出とする説もあるのだとか:
9号堀の北は田んぼに改変されていたが土居と10号堀が残る。この角度で眺めると、まるで横矢掛りを意図したかのような縄張である:
田んぼの畦道を10号堀沿いに、さらに北にある馬伏川を目指して行く:
この後は道路を横切って城址(曲輪II)寄りへ移動した。こちら側には曲輪IIと曲輪IIIの間にある4号堀跡が綺麗に残っていた:
これは、再び道路へ戻って大手口方面を向かう途中に見つけた10号堀跡の南端部分。この道路で分断されてしまっているようだが最大幅18mを越える大きな堀である。一説に、この堀の左手の土居は曲輪III南西部に設けられた馬出跡だとか:
さらに道路を挟んだ曲輪III側には八幡宮の入口があり、ここから曲輪III跡に入ることができる(くどいが完全に私有地である):
こちらが城址西側から見た曲輪III跡。正面が大手道方面:
この後、一旦は曲輪III跡から出て城址の碑が建っていた大手口跡へ周り城内へ(くどいが私有地である):
この大手口脇には8号堀跡として三日月堀が残っていた。この堀に寄って囲まれた土塁の高まり(現在は民家が建っている)を馬出跡とする説もあるらしく、三日月堀と馬出でまさに甲州流築城術で云う「丸馬出」となる:
大手口跡から延びる8号堀跡に沿って曲輪III跡へ向かって歩いて行くと右手に馬出跡が見えてくる:
こちらが曲輪III東側の馬出跡。半円形に近い形をした郭である。ここから東側を見ると7号堀が残り、さらに藪化した先に「城の前」と呼ばれる曲輪IV跡を見ることができる:
さらに詩碑[h]昭和33(1958)年の建立。明治12(1879)年に乃木希典(のぎ・まれすけ)が陸軍中将の時代に深沢城址を訪れて詠んだ詩が刻まれている。入口を過ぎた先に曲輪IIIから8号並びに6号堀に架かる土橋が見えてくる:
そして土橋の上から8号堀を眺めたのがこちら。一部が農道として改変されているようだが堀幅の広さが特徴である:
こちらは土橋の上から眺めた曲輪III跡(私有地)。正面左手奥に八幡宮の小さな祠がある:
そして同じく土橋の上から眺めた6号堀跡。藪化がひどくてわかりづらいが、曲輪III跡の田んぼ用に用水路が造られていた:
土橋を渡って北へ向かうと土橋の先に曲輪IIの馬出(南側)跡が見えてくる:
こちらが「主郭」こと曲輪IIの南北二カ所に設けられた馬出の一つ。標柱には「下馬留(げばどめ)」と記されていた。楕円形をした郭で、その周囲を5号堀と6号堀が囲んでいた:
南側の馬出を過ぎて4号堀と5号堀に架かる小さな土橋を渡った先が曲輪IIの虎口となるが、用水路を作るために土塁が切り崩されたり、耕運機が通れるように二股の農道が造られるなど著しく改変されていた感じがする:
虎口跡から二股に分かれるので4号堀跡に沿って向かって左手の農道を通って主郭こと曲輪II跡の中心部へ向かった:
この「二鶴様式」とは、空堀で郭(くるわ)を区切って、曲輪Iと曲輪IIの間を細い道(土橋)で連結した縄張が、まるで二羽の「鶴」がくちばしでつながっているように見えることを意味するらしい。
曲輪IIの主郭は長辺が約140m、短辺が約70mの略長方形[i]この「略」は「おおよそ」と云う意味。すなわちおおよそ長方形の形を意味し、一般的に角が落ちた長方形を指すことが多い。の形をしており、往時は周囲を堀と土塁で囲っていたとされるが、現在は土塁が南側に僅かに残る程度である:
さらに郭の中心へ向かって行くと「食料庫跡」なる標柱があったが詳細は不明:
こちらが「二の丸」の標柱が建つ曲輪II跡。深沢城の実質的な主郭に相当すると考えられている。現在は田んぼになっているが、発掘調査では整地層や石列の遺構の他に陶磁器の一部が発見されているとのこと。また古絵図によると郭:
三国の国境に接する場所に築かれた深沢城は当然ながら幾多の戦いの舞台ともなった。
氏康は甲斐武田の押さえとして、この「境目の城」に家中随一の猛将で義兄でもある北條左衛門大夫綱成(ほうじょう・さえもんのたいふ・つなしげ)を城代とし、松田憲秀(まつだ・のりひで)らと共に入城させた。
綱成は北條早雲の嫡子・氏綱の娘婿[j]氏綱の先妻・養珠院殿との間に生まれた女子で氏名不詳。法名から大頂院殿。で、「綱」の字は氏綱からの偏諱とされる[k]一般的には北條家の通字である「氏」の字が与えられるので、綱成の場合は偏諱を受けた他の御一家衆とは家格(かかく)が低かったが、のちに「北條」の苗字と孫九郎と云う仮名が与えられて格が上がった。。同い歳である氏綱の嫡子・氏康が御一家(ごいっか)衆の中で最も信頼する勇将の一人で、五色備え[l]小田原北條氏が擁した独自の部隊(備)編成で、文字どおり黄・赤・青・白・黒の五色で区別していた。その内訳は、黄備を北條左衛門大夫綱成、赤備は北條治部少輔綱高、青備は富永左衛門尉直勝、白備は笠原能登守康勝のちに清水上野介康英、黒備は多目周防守元忠。の一つである黄備えを率い、八幡大菩薩に武運を祈って朽葉色に染めた塗絹に「八幡」と書いた旗指物を指していた。氏綱・氏康・氏政の三代にわたり関東支配拡大に大きな貢献を果たし、特に天文15(1546)年の河越夜戦(かわごえ・やせん)では関東の名門・扇ヶ谷上杉(おおぎがやつ・うえすぎ)家に呼応した連合軍8万に対し、3千の兵で半年余りの籠城戦に堪え、最後は氏康率いる本隊8千と奇襲を仕掛け劣勢を跳ね返して勝利を得た。また信玄による駿河国侵攻に関連して、小田原北條家の居城・小田原城を攻めあぐねた末に帰国の途にあった甲軍を三増峠で迎撃し、敵方の侍大将・浅利信種を討ち取った。他にも安房上総の雄・里見家との国府台合戦や久留里城攻めなど氏康・氏政父子の主要な合戦に参陣している。
ちなみに信玄が謙信と繰り広げた第三次川中島の合戦では、三国同盟の盟約に従い北條家からの援軍として綱成らが上田原まで出陣、越軍の撃退にも貢献している。
元亀元(1570)年の冬、信玄とは少なからず因縁を持つ綱成が守備する深沢城を、信玄自ら率いた軍勢が包囲した。ここで信玄は力攻めはせず、甲斐の黒川金山(くろかわ・きんざん)[m]現在の山梨県甲州市塩山。から連れてきた金堀衆を動員し城を破壊しながら守勢の戦意が落ちるのを待ち、さらに興国寺城を攻めて後詰を期待できないようにした[n]しかし北條家臣の塀和氏続(はが・うじつぐ)の抵抗にあって陥すことはできなかった。。ここで頃合いを悟った信玄は降伏開城を促す矢文[o]いわゆる「深沢城矢文」と云われるもので現存する。内容は北條・今川両氏の短所を述べ、武田の正当性を説き、一挙に決戦に持ち込もうとするもので、かなりの長文らしい。を放ち、大きく揺さぶりをかけることに成功する。年が明け、ついに綱成は開城を決断し深沢城を退去して、次代の最前線となる足柄城へ後退した。
このあと甲軍が入城してみると置き捨てられた「八幡」の旗指物を見つけ、綱成ら北條勢の慌てぶりを嘲笑した。それを聞いた信玄は「左衛門大夫は逃げ惑って旗を捨てたのではない。あれほどの勇将なれば次の戦で必ずや地の利を計り、必勝の攻撃を仕掛けてくるであろう。さすれば、その鉾先は支え難しものなり。軍旗を捨てたのは、ひとえに旗持ち足軽の罪なり」と語った。そして「左衛門大夫の武勇にあやかるように」と武功一番であった真田源次郎信尹(さなだ・げんじろう・のぶただ)[p]真田弾正忠幸綱(さなだ・だんじょうじょうのじょう・ゆきつな)の四男。同母兄に真田源太左衛門尉信綱(さなだ・げんたざえもんのじょう・のぶつな)、真田兵部丞昌輝(さなだ・ひょうぶしょう・まさてる)、武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)がいる。に旗指物を与えたと云う。この旗指物は現存し長野県長野市松代の真田宝物館にて展示されている。
こちらは令和3(2021)年に山梨県立博物館で開催されていた特別展「生誕500年・武田信玄の生涯」で観ることができた(写真は展示品資料からの写し):
こちらが甲斐国と駿河国、そして相模国の国境近くの城の位置関係:

「境目の城」周辺の城
こののち小田原北條氏は深沢城の奪還を試みたが果たせず、武田家が滅亡するまで譜代家老の駒井右京之進政直(こまい・うきょうのしん・まさなお)が城代として、小山田弾正・山中美濃守らと駿東郡北部の拠点として守備した。この時に破壊された城は甲州流築城術にて改修され三日月堀と馬出からなる丸馬出を多用した平山城となった。
武田氏が滅亡したのちは家康の所領となり小田原北條氏への備えとして整備されたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後、家康の関東移封により「境目の城」の役目を終えたとして廃城となった。
こちらは、広島県は浅野文庫所蔵の『諸国古城之図』(広島市立図書館蔵)[q]旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。に収録されていた深沢城絵図:
但し、前述の縄張予想図に合わせるため上下向きを逆さにしている点に注意のこと。また抜川の旧名は宮沢川である。
曲輪II跡の脇にある農道を使って北へ移動すると2号堀と3号堀に架かった土橋が出現する:
この土橋を渡ると曲輪IIのもう一つの馬出(北側)跡が見えてくる:
こちらが曲輪IIの馬出(北側)。この郭は上下二段になっていたが、これが改変によるものかどうかは不明:
曲輪Iの虎口脇には巨幅な1号堀跡がある。現在でこの幅の深さなので往時はかなりの要害度を持っていたと予想できる:
こちらが「本丸」の標柱が建つ曲輪I跡。東西二段構成になっているが、ここも私有地で田んぼになっていた:
長軸約140m、短軸約120mと云う城内一の広さを持つ曲輪I跡(東側上段)には若干の傾斜が付いていた:
「袖郭」の標柱。郭がある場所には見えないが馬伏川に侵食されてしまったのだろうか :
さらに進んで曲輪Iの西側下段には「城櫓」の標柱が建っていた。ちなみに前述の古絵図には記載無しである:
この標柱が建つ場所から曲輪I跡の西側を流れる馬伏川の眺め:
馬伏川によって大きく侵食された曲輪Iの西側下段跡。主郭である曲輪IIを守備する郭であると共に、城内の兵士らが駐屯していた場所と推測される:
曲輪Iの北端へ向かうと馬伏川が作る急崖に至る:
こちらは城址西側の外郭の根古屋跡近くにある護岸上から曲輪I跡の遠景。馬伏川の護岸工事によりだいぶ地形が変わってしまっているのは否めないが、こちら側から見ると丸見えとなった曲輪I跡が「本丸」とは考えづらいところでもある:
最後は城跡を出て外郭に相当する城址南西部へ。と云っても住宅地であるが、往時ここには家老屋敷が建ち、裏門があったとされる:
徳川治世下では、元和2(1616)年に沼津代官より、この地に家康が使用する御殿の造営と周辺に新町を建設するよう命じたと云う。家康が実際に使用することはなかったが御殿を中心に御殿新町が生まれたと云う。これが「御殿場」という地名の由来なのだとか。
深沢城攻め (フォト集)
大雲院
深沢城跡から徒歩20分ほど南下したところにある曹洞宗の古刹、大雲院の山門には、深沢城の大手門が移築されていた:
この山門は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災の際に倒壊したが、昭和25(1950)年に再建された:
以上で深沢城攻めは終了。来た時に降りたバス停まで戻ろうかと思ったけど逆に面倒だったので、結局は40分ほどかけて徒歩でJR御殿場駅へ戻ることにした 。
深沢城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 深沢城跡に建っていた説明板・案内図
- 日本のお城 (MENU > お城一覧 > 静岡県 > 深沢城)
- 埋もれた古城(深沢城)
- 余湖図コレクション(深沢城)
- 黒田基樹『戦国北条家一族辞典』(戎光祥出版刊)
- 広島市立図書館 (ホーム > 広島を知る > Webギャラリー > 『諸国古城之図』より)
- Wikipedia(深沢城)
- タクジローの日本全国お城めぐり(静岡 > 駿河・深沢城)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | 読みは「しずおかけん・ごてんばし・ふかざわ・おおびつ」。 |
---|---|
↑b | 昭和55(1980)年に新人物往来社が刊行した城郭研究本の『日本城郭大系』第9巻に記載されているだけ。 |
↑c | 平成8(1966)年に刊行された『戦国期東国の大名と国衆』(黒田基樹著)の第4章「北条氏の駿河防衛と諸城」。 |
↑d | のちの上杉謙信。「輝」の字は足利13代将軍・義輝からの偏諱である。 |
↑e | ちなみに馬伏川は旧名が抜川、抜川は旧名が宮沢川と云う。 |
↑f | 御殿場市によって平成15(2002)年から平成17(2004)年の三年間と平成19(2006)年に実施されたが、最新の報告書の記述には問題点が多いらしい。 |
↑g | 地主さんによると、なんと前日に収穫した野菜がごっそり盗難にあったとのこと ![]() |
↑h | 昭和33(1958)年の建立。明治12(1879)年に乃木希典(のぎ・まれすけ)が陸軍中将の時代に深沢城址を訪れて詠んだ詩が刻まれている。 |
↑i | この「略」は「おおよそ」と云う意味。すなわちおおよそ長方形の形を意味し、一般的に角が落ちた長方形を指すことが多い。 |
↑j | 氏綱の先妻・養珠院殿との間に生まれた女子で氏名不詳。法名から大頂院殿。 |
↑k | 一般的には北條家の通字である「氏」の字が与えられるので、綱成の場合は偏諱を受けた他の御一家衆とは家格(かかく)が低かったが、のちに「北條」の苗字と孫九郎と云う仮名が与えられて格が上がった。 |
↑l | 小田原北條氏が擁した独自の部隊(備)編成で、文字どおり黄・赤・青・白・黒の五色で区別していた。その内訳は、黄備を北條左衛門大夫綱成、赤備は北條治部少輔綱高、青備は富永左衛門尉直勝、白備は笠原能登守康勝のちに清水上野介康英、黒備は多目周防守元忠。 |
↑m | 現在の山梨県甲州市塩山。 |
↑n | しかし北條家臣の塀和氏続(はが・うじつぐ)の抵抗にあって陥すことはできなかった。 |
↑o | いわゆる「深沢城矢文」と云われるもので現存する。内容は北條・今川両氏の短所を述べ、武田の正当性を説き、一挙に決戦に持ち込もうとするもので、かなりの長文らしい。 |
↑p | 真田弾正忠幸綱(さなだ・だんじょうじょうのじょう・ゆきつな)の四男。同母兄に真田源太左衛門尉信綱(さなだ・げんたざえもんのじょう・のぶつな)、真田兵部丞昌輝(さなだ・ひょうぶしょう・まさてる)、武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)がいる。 |
↑q | 旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。 |
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