永禄3(1560)年に『海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、「弓取り」とは国持大名を表すことから、東海道沿いに拠点を持つ戦国大名を指す。』の異名を持つ駿河国の戦国大名・今川義元が尾張国の田楽狭間(でんがくはざま)で斃れると、それから8年後には『越後の龍』こと上杉謙信によって北進を阻まれた『甲斐の虎』武田信玄が、それまでの甲相駿三国同盟を一方的に破棄し、のちに義元の異名を継承することになる三河国の徳川家康と共に駿河国へ侵攻した。三国同盟のもう一人の立役者である『相模の獅子』こと北條氏康が謙信と対峙していた間隙をぬっての電撃的な侵略であった。さらに持ち前の軍略で氏康・氏政父子を翻弄した信玄は永禄13(1570)年、ついに駿河国を支配下に置いた。しかし3年後の元亀4(1573)年に信玄が病に斃れ、さらにその5年後の天正6(1578)年に謙信が急死すると関東周辺は風雲急を告げる。特に謙信の後継者問題は、それまで同盟関係を復活させていた武田と北條との間に修復できない溝を作ることになった[b]氏康の七男でのちに越相同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎は、上杉景勝と跡目争い(御館の乱)を起こし、この時に武田は甲越同盟と引き換えに景勝を支援、妹の菊姫を娶らせた。これらにより景虎は一転して劣勢となり、最後は自刃した。。同盟を破棄した氏政[c]正室は信玄の長女でのちの黄梅院(こうばいいん)殿。氏政は愛妻家で知られ二人の仲は睦まじかったが、信玄の駿河侵攻により離縁させられ甲斐国へ送り返された。は駿河国最前線の戸倉城や伊豆長浜城を強化した。一方、設楽原の惨敗から巻き返しを図る四郎勝頼は戸倉城の目と鼻の先に三枚橋城を築城して対北條の抑えとし、攻勢を強める徳川に抗するために西へ向かった。
今となっては一昨年は平成28(2016)年の立春、とある週末に静岡県沼津市内にある城跡を攻めてきた。午前中は小田原北條氏の祖・北条早雲[d]「早雲」はのちの呼び名。往時は伊勢新九郎盛時。旗揚げの城と云われる興国寺城跡を攻めてきた。当時は運良く発掘調査の現地説明会に立ち会うこともできて大変に有意義だった。
そして午後はJR沼津駅南口から徒歩10分ほどのところにある三枚橋城跡(のちの沼津城跡)を攻めてきた。と云っても、残念ながら遺構や縄張跡が残っているというわけではなく、かっては沼津城本丸で現在は市民の憩いの場となっている沼津中央公園や、復元された外堀石垣が展示されている他、市内の町名や通りにはかっての城下町の名残り[e]町名は大手町、上土(あげつち)町、川廓(かわぐるわ)町など。通りの名前は外堀通りなど。が残るのみである。
ちなみに勝頼が築いたとされる「三枚橋城」は江戸時代初期に廃城となっており、江戸時代中期にその城跡を利用して築かれたのが「沼津城」であるとされる。新しい城の規模は三枚橋城の半分くらいで、本丸・二之丸・三之丸と内堀・外堀からなる梯郭式平城で、旧・三枚橋城と同様に狩野川もまた天然の外堀になっている。
こちらは沼津城の縄張図と現在の市街地を重畳したもの:
この図にあるとおり沼津城本丸あたりがちょうど沼津中央公園に相当するようだが、それ以外の郭や堀は宅地化によって消滅していた。その昔、勝頼が築いた頃の三枚橋城に関する史料は現存していないため実際の縄張や規模は不明である。対して、家康古参の重臣・大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)が城主であった頃の絵図は現存しているそうで、それによると城の規模は東西422m、南北509m、四重堀で丸馬出が設けられていたらしい。これに比べると沼津城はかなり規模が小さいものであったとされる。
また江戸時代に八人の浮世絵師によって描かれた「末廣五拾三次(すえひろ・ごじゅうさんつぎ)・沼津」にはなんと石垣造りの沼津城と共に三重櫓や二重櫓が描かれていた。こちらは国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる絵図の複写で、画は歌川国輝(うたがわ・くにてる)、慶応元(1865)年の作品。幕末に長州征伐へ向かうため上洛する幕府軍の行列とのこと:
これは実際の沼津城と異なっており、あくまでも作者の想像図と思われる 。
そして、こちらが沼津中央公園で、沼津城の本丸跡:
公園内に置かれた「沼津城本丸址」の石碑:
石碑の周りに置かれた石材は三枚橋城当時の石垣に使われていたもので、昭和48(1973)年に上土(あげつち)町の静岡相互銀行(現在の静岡中央銀行)新築工事の際に地中から発掘されたもの。
天正7(1579)年、四郎勝頼が築いたとされる三枚橋城は、設楽原合戦で甲州騎馬軍団に「撃ち」勝って以来、駿河国の奪取のために攻勢を強める家康と対決するにあたり、東からの挟撃を避けるため対北條の抑えとして武田左馬助信豊(たけだ・さまのすけ・のぶとよ)と春日信達(かすが・のぶたつ)[f]武田四天王の一人で信濃海津城の城代であった春日虎綱(高坂昌信)の次男。長兄の昌澄が設楽原の合戦で討ち死にしたため世子(せいし)となる。主家滅亡後は上杉景勝に仕えたが、のちの天正壬午の乱で小田原北條氏への内通が露見して景勝により誅殺された。らに守備させていたとされる。
三枚橋城はたびたび北條氏政・氏直父子の攻撃を受けることになったが、信豊と信達はよくよく防戦し撃退した。そして天正9(1581)年には戸倉城の城代・笠原新六郎政晴(かさはら・しんろくろう・まさはる)[g]小田原北条氏の譜代家老・松田憲秀の長男。のちに笠原氏の養子となった。三枚橋城と睨み合いをしていたが大功なく「臆病者」のレッテルをはられ立場が悪くなったため武田家に寝返ったとされる。のちに帰参するが秀吉の小田原仕置で父と共に内通が露見し誅殺された。が武田家に内通して戸倉城を開城させた。
しかしながら翌天正10(1582)年に織田・徳川連合軍が武田領に侵攻すると戸倉城が小田原北條氏に奪還された。これに三枚橋城の守備兵は動揺し、信達は城を放棄して信濃国の海津城へ逃亡した。武田家が滅亡すると開城した三枚橋城には家康の家臣・松平忠次が入城した。
それから天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置後は豊臣家の属城となる[h]小田原仕置の際に陸奥国の津軽為信(つがる・ためのぶ)はこの城で秀吉に謁見し所領を安堵された。も、慶長6(1601)年の関ヶ原の戦後は再び徳川の城となり、古くから家康に仕えていた大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)が城主となって駿河沼津藩を起藩した。しかし慶長18(1613)年に忠佐が亡くなると無嗣断絶を理由に沼津藩は改易になり、翌年に三枚橋城は廃城となった。
中央公園を出て狩野川(かのがわ)を目指して南下する手前に川郭(かわぐるわ)通りがある。往時のイメージを残すため昭和30年代まで存在していた石畳を復元していた:
この通りがあった川郭町は、志多(した)町と上土(あげつち)町との間を通っていた旧東海道往還沿いに位置する区画で、東は狩野川に接し、背後は三枚橋城跡に築かれた沼津城の外郭に接した狭い町だったと云う。その名は狩野川に面した城郭に由来しているものとされる。
この沼津城は、三枚橋城が廃城となってから160余年、しばらくは代官が置かれ城は無かったが、安永6(1777)年に水野忠友(みずの・ただとも)が入封して駿河沼津藩を再興した際に、三枚橋城の北半分だけを利用して築かれたものである。
こちらが狩野川。三枚橋城から狩野川を挟んで3.5kmほど東の丘陵に駿河戸倉城跡があり、さらにその北には泉頭城跡[i]読みは「いずみがしらじょう」。現在の柿田川公園。がある(共に目視で確認できる距離ではないが):
こちらは狩野川を挟んで伊豆半島は内浦湾に面した伊豆長浜城方面(こちらも目視で確認できる距離ではない):
これは狩野川に面した場所に建っていた上土朝日稲荷(あげつち・あさひ・いなり)神社:
勝頼が三枚橋城築城の折りに城地守護のため稲荷・天神社を城内に祀ったが、廃城後も社は存在していた。その後、沼津城が築かれると水野忠友が水野家守護の稲荷を勧請(かんじょう)したため、それまであった稲荷・天神社は上土裏通りの古堀跡に移築された。さらに明治の時代に、この地に鎮座されたと云う。
この後は県道R159沿いへ。この県道は三枚橋城(徳川期)の外堀跡:
外堀跡から県道に沿って沼津駅方面へ北上すると右手に沼津リバーサイドホテルが見えてくるが、なんとこのホテルの玄関に三枚橋城(徳川期)の石垣が復元されていた。説明によると本丸虎口の石垣と外堀の石垣らしい:
以上で三枚橋城攻めは終了。なお、一説によると同市にある光長寺には沼津城の城門が移築されているのだとか。
三枚橋城/沼津城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本城探訪(三枚橋城/沼津城)
- 沼津中央公園とその周辺に建っていた案内図・説明板
- Wikipedia(三枚橋城)
- 余湖図コレクション(静岡県沼津市/沼津城)
- 国立国会図書館デジタルコレクション (東錦絵末広五十三駅図会 > 末広五拾三次・沼津)
参照
↑a | 「海道」は東海道を表し、「弓取り」とは国持大名を表すことから、東海道沿いに拠点を持つ戦国大名を指す。 |
---|---|
↑b | 氏康の七男でのちに越相同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎は、上杉景勝と跡目争い(御館の乱)を起こし、この時に武田は甲越同盟と引き換えに景勝を支援、妹の菊姫を娶らせた。これらにより景虎は一転して劣勢となり、最後は自刃した。 |
↑c | 正室は信玄の長女でのちの黄梅院(こうばいいん)殿。氏政は愛妻家で知られ二人の仲は睦まじかったが、信玄の駿河侵攻により離縁させられ甲斐国へ送り返された。 |
↑d | 「早雲」はのちの呼び名。往時は伊勢新九郎盛時。 |
↑e | 町名は大手町、上土(あげつち)町、川廓(かわぐるわ)町など。通りの名前は外堀通りなど。 |
↑f | 武田四天王の一人で信濃海津城の城代であった春日虎綱(高坂昌信)の次男。長兄の昌澄が設楽原の合戦で討ち死にしたため世子(せいし)となる。主家滅亡後は上杉景勝に仕えたが、のちの天正壬午の乱で小田原北條氏への内通が露見して景勝により誅殺された。 |
↑g | 小田原北条氏の譜代家老・松田憲秀の長男。のちに笠原氏の養子となった。三枚橋城と睨み合いをしていたが大功なく「臆病者」のレッテルをはられ立場が悪くなったため武田家に寝返ったとされる。のちに帰参するが秀吉の小田原仕置で父と共に内通が露見し誅殺された。 |
↑h | 小田原仕置の際に陸奥国の津軽為信(つがる・ためのぶ)はこの城で秀吉に謁見し所領を安堵された。 |
↑i | 読みは「いずみがしらじょう」。現在の柿田川公園。 |
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