静岡県沼津市根古屋248にある興国寺城跡には、室町時代後期に駿河国の守護・今川義忠《イマガワ・ヨシタダ》の食客であった伊勢新九郎盛時《イセ・シンクロウ・モリトキ》がこの時の今川家内紛を収めた[a]新九郎の姉(あるいは妹と云う説あり)が義忠の側室で北川殿と呼ばれ、今川義元の父である今川氏親を産んで家督争いに巻き込まれていた。功により、長享元(1487)年に幕府より伊豆国は富士下方十二郷を下賜されて入城したと云う記録が残る[b]但し、江戸時代に書かれた『今川記』や『北條五代記』であることから信憑性には疑問が投げられている。。この新九郎こそが、のちの伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》または早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》、あるいは小田原北條[c]これは旧字体。現代使う新字体だと「北条」であるが、本稿では旧字体で統一する。5代の祖で、日ノ本初の戦国大名と云われるようになった北條早雲である。早雲の旗揚げの城ともいえる興国寺城は、愛鷹山《アシタカヤマ》の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根の上に築かれ、山の根を通る根方道《ネガタミチ》[d]現在の県道R22三島富士線で、根方街道とも。と浮島沼を縦断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点に当たり、往時は伊豆国と甲斐国とを結ぶ交通の要衝でもあった。そのため戦国期は駿河今川氏・甲斐武田氏・小田原北條氏による争奪戦の渦中にあったと云う。武田氏が滅びると、三河徳川氏が小田原北條氏の滅亡まで治めたのちに豊臣氏を経て、再び徳川氏が興国寺藩を立藩するも城主・天野康景《アマノ・ヤスカゲ》が出奔すると改易の上に廃城となった。
日別: 2019年6月29日
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